三十六頁目 小さな人間の最後の戦い。(空前最後)
たくさん旅をした。
たくさん戦った。
たくさん人を殺した。
正しくなんてなかった。
悪くはあった。
ただ死にたくなかった。
……夢があった。
希望があった。
俺にはなかった。
殺した人にはあった。
……夢を見つけた。
希望を見つけた。
俺じゃダメだと思った。
けど殺したくなかった。
――いきたくなった。
+
広がる草原、〝輪廻転回〟と〝翠風環〟の戦いの傷痕を残す地。
見上げるような古城のそびえるその場所は、最後の戦いを行う地というより、始まりの地といった方が良さそうな気がした。
長く長く高みへ続く階段の下に立つと、大きな扉が少しだけ開いて、黒いドレスを身にまとうマリアが現れた。長い金髪も装飾品のように体の周りをまとい、あまりにも整った容貌は魔眼による魅了の効果無しでも異性を篭絡する。
付き人のように背後に現れるのは四大精霊の一柱、シルフ。これから俺が相対する敵。
『さて。じゃあまずはおまえと戦うことになるわけか、マリア』
『そういうことね。わたしをもし万が一倒せたら、奥に真っ直ぐ進みなさい。ホールに、リオが居るわ。……あら、ずいぶんと古めかしい剣を持ち出してきたわね。骨董蒐集の趣味でもあったのかしら?』
俺の持っていた血肉啜る牙痕に目端を利かせ、マリアはふふんと笑う。
『確かにこんな剣一振りじゃ、あんたの操る風には敵わないかもしれないけど。真っ向から力比べするわけじゃないだろ』
『力比べね……わたしはその剣が一体どんな能力を秘めているか知らないわけだし、何とも言えないわ……とりあえず、逃げずに来たことは褒めてあげるわ、有和良春夏秋冬。その蛮勇が故に命を落とすとしても』
『あんな風に宿屋が囲まれてたら逃げるに逃げれないだろ?』
『そうね。それに、今もってあの宿屋はあなたが戻れないような状況になっているわけだし』
笑みに嘲りが混じる。状況。俺が戻れない、か。
ハン。準備も手抜かりなく、できる限り最善の策を採る。さすが女狐だ、と言いたくなってしまった。
『取り囲んでた傭兵の役目は、見張りだけじゃなかったわけか』
『加勢されると厄介な相手が多いでしょう? なら、効率的に潰しておけばいい。生憎だけど、決闘をするのはわたしじゃなくリオ。わたしは有和良斎があなたにしたのと同じように、四季折を守るためならば何だってすると決めてるのよ』
非道だろうと厭わない――と、歌うように言いながら。マリアは自身の身長に届きそうな長い杖を振るう。それだけで、停滞していた空気が渦を巻き、旋風が俺の横を吹きぬけた。
マリアの周囲で、空気が圧縮され始める。俺も鞘を払い、剣を抜いた。
『――とりあえず最後にルール確認でもしましょうか? わたしかリオどちらかに負ければあなたは四季折のため糧となってもらう。逆に、万一わたしとリオ両方を破れば、誰も止められる者は居ないのだしあなたが四季折を糧とする』
いいかしら、と同意を求められ、俺は首を横に振る。マリアは怪訝な顔をした。
『俺はそんなことはしない』
『まさか。戦わなければ死ぬのよ?』
『だろうな、だけど』
俺は決めた。
殺したくないから殺さない、しかし生きたいから生きると。大きく、息を吸い込む。
『俺はおまえらに勝ってもどうこうする気は無い。殺したく、ないんだ。けれど生きたい、だから生きる。納得出来ないなら俺を殺せ。倒されても倒されても納得出来ないなら何度でも来い。その全てに打ち勝って、俺は生きる――――我を、通させてもらうぞ』
責任と向き合う覚悟。相手の覚悟と戦い続ける覚悟。俺の決めたこと。
呆気にとられた様子のマリアだったが、次第にその表情に黒く、暗いものを満ちさせる。
『――そんな勝手が通ると思う?』
『貫き通してみせる。間違って間違って過ちを重ねた末に俺が、今の俺がつかんだ答えだ。みんなとつかんだ答えなんだよ』
『独善……自分の答えが正しいとは思わないことね』
『おまえだって正しいわけじゃないだろう、マリア。正しさなんて俺たちには無いことを、おまえも俺も知っている。けれど、自分のエゴに過ぎないとしても、何より大切なもののために力を振るえなければ存在意義を見失う。俺が、俺であるために。生きるために、俺は戦う、戦い続ける』
マリアは一つ息を吐き、掲げた杖を振り下ろす。風がマリアの周囲をまとい、細い髪を空に遊ばせる。
開かれた瞳には、戦う意思のみが光る。
『……ならばわたしも、わたしであるために』
決着をつけましょう、と。
風の覇者は言葉を紡ぐ。
『ああ』
剣の切っ先をマリアに向け、マリアも杖先を俺に向けた。次の瞬間に空気が張り詰め、そして――ラストダンスが始まった。
先手必勝。俺は刀身に映る自分の眼を見て幻像を現象へ変え、いつも通り身体能力を限界まで引き上げる。そして、間合いを詰める。身を屈め、全力疾走。階段を駆け上がり、マリアに向かう。
瞬間、杖が横薙ぎに振るわれる。シルフがそれに反応し、精霊の力、自然の驚異をそのまま行使。渦巻いていた空気が強烈な力をかけられ圧縮される音がして、空気の弾丸と化したのを察知する。密度が周囲の空気と違いすぎるその空弾が存在する場所を通した向こうの風景が、歪んで見えたからだ。そこだけ、熱気が固まっているように見えたという言い方でもいい。
『行きなさい』
マリアの正面に十も並んだ空弾は、杖を振り下ろす動作と共に俺に向けて放たれる。バスケットボール大の鉄球と、強度的にはそう言ってしまっていいそれらは辺りの空気を押しのけながら俺に向かって迫り、階段上を走っていては逃げ場は無い。
ならば、と前進を止めず、ギリギリまでひきつけてから俺は跳んだ。だがそれは見越されていた上やはりというか、空弾は放った後もある程度操作が出来るらしく、急激に方向転換して空中の俺を狙う。
しかしこちらもそれは予測済みだ。
「っだァらあッッ!」
渾身の斬撃、三連。空中に居ながらにして放ったというのに、その技は十分すぎる切れ味を誇った。己でやったとは、思えないほど。クッションを斬った、くらいの手ごたえと共に爆発した空弾から、詰め込まれていた熱い空気が放出され俺を打ち上げ、滞空時間を延ばす。だが同時に前方への跳躍も加速した。着地してすぐ、マリアに詰め寄る。
ところがすぐに次弾が準備され、またも十の空弾が、今度は少しずつタイミングをずらしながら撃たれる。同時に撃たれれば同一ライン上に並んだところで斬ればいいが、今度はそうはいかない。
「……でも」
一発目を切り上げる。その中から放出された空気圧で、二発目の軌道をわずかでも、上に逸らす。そうして出来た隙間に体を這わすように差し入れ、潜り抜ける一瞬に空弾を切り裂き、後ろからの爆風で加速。
『これで、当てられるつもりか!?』
三、四発目は同時に撃たれており、左右両側から俺を狙い来たが関係ない。加速した勢いのままに二発の間をすり抜けざまに、ほぼ同時の斬撃。両側からの空気圧で少し押し潰されそうになりながらも、予想出来ていた分ダメージは少ない。
そして急激な停止でタイミングを狂わせた五、六、七を両断、八、九には剣を投げて串刺しに。最後の一発は、横殴りにして弾くと見せかけ跳躍して踏みつけ、前進の足がかりにした。
さらに八、九番目の弾丸を貫いた時に上方へ飛ばされていた剣をつかみ、踊りかかる。あと二十歩といったところか。踏み込む力を強める。だがマリアは冷静に杖を振り上げ、俺の前進をなんとも思って居ない表情を見せていた。
『……ハッ、まだそんなの、牽制打にすぎないわ』
俺が十歩進んだところで、再度マリアは杖を振る。渦巻いた空気の質量は、さっきの空弾とは比較にならない。集束して圧縮される質量が、凶悪な殺気を俺に叩きつける。文字通り、空気が変わった。
これはまずい、と踏み出した足を止め、サイドステップで階段から飛び降りる。体が空を舞う、その刹那に。階段の上を膨大な質量の空気を飲み込んだ、竜巻が撃ち抜く。段が抉れたのか、石材のカケラが飛んできた。
『……おい、なんだよそれ』
一気に圧縮された空気の摩擦で起きたのか、見上げたマリアの周囲はバチバチと青白い静電気が飛んでいた。青い空気の向こうで笑うマリア。ぞっとしつつも、さっきの竜巻の攻撃範囲を見やる。大階段が、段を抉られただの坂に近似した形状と化している。おまけに、竜巻が着弾した座標は隕石かミサイルでも落ちたかのように、白い煙を上げながらクレーターを形成していた。
……こんなのと父さんは、やりあったのか。
『余所見してる暇はないわよ』
「ぐっ!!」
階段から身を乗り出すようにしてこちらを見ていたマリアが、杖を振る。空弾が三発、俺が居た地点に撃ち込まれた。必死になって逃げながら、俺はどうしたら近づけるか考える。考える間にも、次々に空弾は俺を狙い撃ちした。横っ飛びに逃げたりバック転で避けたり、どうしても無理なものは剣で切り払う。
『使い慣れてないはずなのに、ずいぶんとその剣に救われてるわね。いつの間に剣士としても腕を磨いたのかしら?』
怪訝な顔で眉をひそめるマリア。走りながら答える。
『最近はそうでもなかったが、以前は剣も多用してたさ。弱かったからな』
剣について、深くは語らない。俺がマリアに対して持つほぼ唯一のアドバンテージ、それは『この剣の能力が不明であること』――そう、この剣が無ければ、とうに命を落としていてもおかしくないのだった。
吸血剣・ダインスレイヴ。その能力は三つ。一つ目がこの、知識の力。〝老練の剣〟。
吸血鬼のためだけに打たれたこの剣は、吸血鬼が手にした時のみその特殊能力を発動出来る。そしてこの〝老練の剣〟は常時発動型の能力で、『手にした吸血鬼に剣の知識・経験を与える』というもの。つまり、手にした吸血鬼は剣について何も知らない素人であっても、達人級の剣技を操れるようになる。
もちろん、個々人の身体能力により引き出せる度合いはある程度決まっているが。人狼の暗示により限界を越えた俺ならば、風の大魔術に拮抗する剣術の使い手となれる。
『けれど剣じゃ、近づかない限り当たらないわよ。それにいつまでも逃げ切れるとは思わないことね』
『心配には及ばない、そろそろ接近しようと思っていた』
いくつも穴を穿たれていく草原を駆け抜けながら、そう叫び返す。とは言ったものの、接近すればそれはそれでキツイものがあった。先ほどの竜巻は攻撃範囲が広く、階段を駆け上がっていこうとすればその間に撃ち込まれる。
ただ、撃つまでに十歩は走れたこと、そして空弾はあまりタイムラグなしで放てることから、どうやら攻撃範囲の広い大技を出そうとするには、若干溜めが必要となるらしいが。
『面倒ね……ちまちま逃げられるのも。一気に潰しましょうか』
弾切れも無いくせに、短期決戦に持ち込むつもりか。いや、実際この空弾だって相当な力を持っており、軽視することなんて絶対に出来はしないのだけれど。現に、何発も体をかすめ、その度に服ごと体を持っていかれそうになる。
『強引だな』
『あんたと同じよ、わたしも我を通すわ』
一旦連射を止め、杖で円を描くように空中をなぞる。その軌道に沿うように、天空を占めていく膨大な質量。確かに溜めは長い上、威力の分、急激な軌道変化などは出来ないようだが――詠唱も符札もなしだというのに単純なパワーで押し勝てる。あんなもの反則もいいところだ。
『く、そ』
これはひきつけて避けるなどは出来ない。慌てて俺は距離を詰める。だが空弾で上手く俺は誘導されていたらしく、大階段までの距離は少し遠い。その間も、静電気を放ちながら膨れ上がっていく大気の気配。圧縮されながら膨張するという、矛盾にも見える現象を巻き起こしている巨大な質量。
吹き荒れる暴風ですら付随事象、余波に過ぎない。そんな圧倒的な大気の大瀑布がマリアの正面で作り上げられていく。零コンマ一秒。退いても避けても斬っても押し潰される。殺される前に俺に、唯一出来ることは――――踏み込むこと! 間に、合え――!
『圧殺せよ』
地震が起こった。ごば、と地面が押し広げられる。しかもこの空気の砲撃にはご丁寧にもライフル弾のように回転がかけてあったらしく、ついで地表がごりごりと削られているのが振動でわかる。こんな、地形すら大きく変化させるとは。本当に、馬鹿げている。
「……反則だろ。勝てるか、こんなの」
グチをこぼしながらも、言葉を発せるということはなんとか俺は生きている。攻撃が出される寸前に、竜巻で大きく開けられた穴の中に転がり込んでいたからだ。草原に対して斜めに撃ち込まれたさっきの砲撃は、俺の居た直径五メートルほどの穴の半分を削り取ってはいたが、ギリギリで体をミンチにされずに済んでいた。
「……っぐう?!」
が、突然全身が弾けそうになる。皮膚すべてが外に引っ張られる感覚。くそ、周りに真空でも作られたか! この場所は、まずい! 狭い分『大気』を操り易くなっている!
穴から飛び出し、酸素を求めて喉を掻く。体に張り付く大気が心地よく、危うく内側から体がはじけ飛ぶところだったのを思ってぞっとする。もつれる足を前に進ませ、草原に倒れこみそうになりながら走る。そして、喘ぐように呼吸をしようとして――意しきが
「う゛あ!」
――覚醒しろ! 意識が飛ばされた、くそ、ヤバい、このままここに居るわけには、
『チッ!』
マリアの舌打ちが聞こえた気がした。どうやら空弾、竜巻、そのどちらも止めには至らないと判断したのか、溜めの長い砲撃を使おうとしていたらしい。ギリギリ、撃たれる前に覚醒出来た。すると辺りに吹き荒れる風が、台風の時に屋外に出たときに感じ得る、抗えない大きすぎる力を思わせ、背筋が総毛だつ。
筋肉をブ千切る覚悟で俺は地面を踏みしめ疾駆、その場から逃れる。二刹那ほど後、背後の地面を吹き飛ばす、短く太い爆砕の音が聞こえた。音の波が衝撃となって空気を伝わり、俺の背を押す。鼓膜がキンと鳴った。
しかし僥倖。この一連の動きの間に、マリアへと十歩は近づけた。しかし奴もすぐに杖を振りなおし、空弾の連射に切り替える。ガトリングの一斉掃射のように、俺を蜂の巣にしようと狙う。一歩足を進める度、さっきまで足を置いていた場所が穴になった。それでも、埋められた十歩は決して退かない。
『普通ああやって意識を失ったら、一日は回復しないのよ? 十秒足らずで回復するなんて、馬鹿げてるわ』
弾幕を滑るように回避しつつ、半歩ずつでも、踏み込めないか探る。だがマリアの術はそう甘くない、話しながらでも威力速度精密さ、どれも落ちなかった。それに、回復したとは言っても体は重たい。まだ、酸素不足が続いている。進むことは出来ないので、徐々に俺は横ばいに移動していた。まだ頭がくらくらしている。
『……何か、吸わせたろうっ!』
右手は剣による斬撃で、比較的ガードは堅い。しかし、左手側は徒手空拳であるため空弾の連射に対応が辛いところもある。そう考えたのかマリアは俺の左手側と、機動力を削ぐために足場を悪くさせる意味合いもあるのだろう、足元を狙ってきていた。
拮抗している戦況と見えて、そうでもない。俺の叫びに、嫌な笑みを浮かべた。
『種明かしする魔術師なんて、居ると思うの?』
せせら笑う。……そうか、教えてくれないのでは、仕方ない。体も、きつくなってきた。
ここらで、タイムか。
「すう――」
『?』
――息を吸い込んで、止めて。
スプリント。
わざとガードを甘くしてそちらに弾幕を集中させていた左は囮。片手剣術は基本、利き手側を前に出した半身で戦うところを、今は無理にオープンスタンスな正面に構えていたに過ぎない。
『っ、逃げる気?』
一旦は、と返しつつ、連射される空弾の雨の中、わずかに弾幕の薄い空間に。一歩踏み出すと同時、左手でホルスターに収めていた、ナイフを抜く。走っている間も喰らうだろう空弾は、全てこれで斬り流す。欧州で白兵戦の際、盾として防御用に使われた〝利き腕と逆の剣〟左手の名を冠する剣技。
『……Main gauche! そんな技まで、使えたの?』
放たれる空弾を左手の剣技、マイン・ゴーシュで全て切り落とす。もちろんこの剣技も自分で習得出来ているレベルは、たかが知れている。だが今の俺は、右手の血肉啜る牙痕の能力、老練の剣で剣に関しては格段に能力が上がっている。これなら、防ぎきることも可能だ。
呼吸は止めたまま。思考に使う力すら惜しい。ただ今は、全力で走るのみ!
『止まりなさい!』
誰が制止されて止まるのか。
空弾はなおも追いすがる。だが空気の猛獣が群体になって襲ってきたところで、一瞬撃ち出しが遅れたことで着弾点はワンテンポズレている。それに、しばらく弾幕を受けているうちに、同時発射出来るのは十三発が限界だともわかった。連射速度が凄まじいとは言っても、同時にくる弾数がわかればずいぶん楽になる。階段上とは違い、逃げ場も狭くない。
左手が重くなってくる前に、俺は城の影に逃げ込んだ。とりあえず奴の死角に来て、一息つけた。もちろん奴は見えなくても撃つことが出来るだろうが、それでも当てるには奴自身が操作しなくてはならない。あの空弾に追尾機能なんかがついていなくて、よかった。
「っても、勝つには、打って出なくちゃ、だよ、なあ」
呼吸を整える。ぶらりと両腕が下がるが、日陰なのに庭園のようになっている部分があったのでそこへ逃げ込む。その気になればマリアは空も飛べるはずなので、空から見つからない場所へ。茂みの中へ潜り込んだ。場所的には四季折の居た部屋の下辺り、ならば空中から攻撃するわけにもいかないだろう。
「でも今は一休み、だ……」
しかしそんなことを言ってられる場合ではなかった。呼吸を整え、一刻も早く反撃を試みなくては。
――呼吸、か。
さっき俺は何をされたのか。一瞬で意識を落とされて、しかしダメージを受けたような覚えは無い。それこそ、さっき言ったように「何か吸わされた」としか思えない。が、この一帯に吸っただけで意識を落とすような気体はなさそうだ。なら、事前にマリアが用意したそれを操り、俺に吸わせた、か……? 無色無味無臭のそんな気体があったら驚きだ。
「何にせよ向かっていったところであの技を受けるとまずいな」
今度は出の早い空弾とさっきの正体不明の攻撃で動きを止めてから、確実に砲撃を撃たれる。あんな技喰らえば、それこそ父さんの亡骸のように内臓のひとかけらも残されず、圧殺されるだろう。それだけは避けなくてはならない。
魔眼でなんとか隙を作るか。けれども、何を何に視せる? それに、この後にリオとの戦いも待ちうけている。日に四回が限度の魔眼、リオ戦のために人狼幻視の分と、奇襲用の一回分を残しておきたい。
手元の剣を見た。見せていない能力はあと二つ、しかしどちらも使うには条件を満たしていない。
「畜生」
虚空を斬る。普段はこんな、質量も何も感じさせない無害な存在に視えるというのに。見えない『気体』というものである以上、俺の魔眼は関与しても仕方が無い。AをBに認識を変えると言っても、固体・液体・気体の三態は変更出来ない。この世の中に常識として深く根ざしたものである以上変えられないのだ。
となれば空気以外をなんとか認識変更しなくてはならないが、何も思いつくものはない。それに、相手の動きを数秒は止めることが出来ないと、階段を上って攻撃すら仕掛けられない。
『――どこに隠れたの。逃げられないように、そして空気を操り易いように、わたしはこの草原を戦場にしたのよ。隠れたところで、苦しむ時間が長引くだけ――』
上から降ってくるマリアの、冷えた声。制空権も握られているとなっては、地を這う狼に打つ手は無い。悠々と鷹は、こちらを見下していた。ここは奴のための狩場。……狼どころか、ウサギか、俺は。
『いくら足掻いても、わたしには魔眼も効かないわよ』
こちらの考えてることを読んでいる。はあ、とことん厄介な相手だ。
空気は視ることが出来ない。一応、色のある気体に見せるくらいは出来るだろうが、それで攻撃を躊躇させたりは出来ない。そうある以上視覚以外の感覚で相手の認識を狂わせるのが手だが、嗅覚、触覚、味覚、聴覚。どれでも、マリアは揺るがない気がした。劇物の気体に認識変更するのも手かもしれないが、そんな小細工で止まるとは思えない。まず、識っているかどうかも問題だ。
……一番の勝機となりうるのは、あの砲撃を撃って外してくれるというパターンだ。溜めの分、隙も数秒単位で出来る、が、これはもちろん無理だろう。この近辺で、何か認識を変えればうまくあいつを倒せるような何かは。なんだ。考えろ。
『出てこないなら……また意識を落としてもらうわ』
嫌な言葉と共に、空気が吸い寄せられ集められる音。静かに、辺りで塵が舞う。俺は呼吸を止める。それが、マリアの狙いであるのだろうが。さっき俺が「何か吸わせたろう」と訊いたときに否定をしなかったのも、どこかでこうして伏線で使えると思ってのことか。
吸い込んだら意識が落ちる気体。けれど無色無味無臭で、そんな気体が存在するならこの世界で暗殺というものほどやりやすい仕事は無いだろう。一瞬で、しかも長く意識を刈り取れるというのは、それだけで有利すぎる。
そんな種類の気体、聞いたこともないしこの世に存在するとは到底思えなかった。単純な力任せ以上に、こんな搦め手まで使えるのは反則だ。気体だなんて。
…………気体?
「――――!」
バチン、と入るスイッチ。繋げられる思考回路。ヒントを出された瞬間、回答に手を届かせたように。さっきマリアの放った得体の知れない攻撃と、俺の魔眼が使える能力。一つ繋がれば、並立して乱立する思考。――なら、まさか。ひょっとしたら、やれる。
上を見る。案の定、シルフを後ろに従えてマリアは悠々と空に浮かんでいた。翼も無く空中に静止している様は、なんらかの絶対性すら窺わせる。あまりにもこの世界から逸脱した、神格の、力。
屈んでいた体を起こす。呼吸は落ち着いた。剣を握る手に力を。
いまだこちらに気づかないマリアを、ゆっくりと見上げる。
「……やれる、か」
剣を構え、影から出て行く。俺に気づいたのか、マリアは無慈悲に杖を振るった。空を切り裂く弾丸。走り出して、俺は目指す。大階段の根元まで、空弾を捌きながら辿りつく。マリアはまたも上に位置し、今日ここに来た時と同じ状況になった。
ひとつ違うのは、俺がこの戦いにおける鍵を握っていること。もう迷わない。見切り、攻撃を捌き続ける。しばらくは空弾を放っていたマリアだが、何か思うところあったのか攻撃を止める。
『……どうしたのよ? やけにしおらしく、さっきから一歩も動かないで』
訊かれて、返す言葉は一つしかない。
『詐欺師が奇策を明かすはずないだろ』
『生意気な』
『疲れたからだよ。――これで終わりにしないか』
悠々と。
位置的にも能力的にも下のはずの俺は、上に立ったようにものを言った。マリアはまゆをひそめ、次いで嘲笑う。
『とうとう疲れて、自殺願望?』
『いや、次の戦いに備えたいだけだ』
笑みは薄れ消えた。俺は切っ先を突きつけ、淡々と、言う。
『これで終わりに、決着にしよう』
『……本気ね』
渦巻いていく風。それにかき消されないような声を上げつつ、俺はああ、と首肯した。
『何を思いついたのか知らないけれど……魔眼も封じられて、あとはその剣に託すだけじゃないの? あんたの命を』
『剣一振りにかけられるほど軽くないつもりだ』
身を低くかがみこませ、いつでも走り出せる体勢を取る。マリアもそれに呼応するように、杖を深く掻い込む。横薙ぎに、抜刀のように振りぬく体勢。ここから先は、タイミング勝負。空気が張り詰め、膨らんでいく。機を見計らい、どちらが先に仕掛けるか。
〝絶対為る真理〟と〝翠風環〟の一騎打ち。
呼吸を整える。重心を合わせる。相手の呼吸を見る。機を計る。
「 」
互い、言葉は無い。
ほぼ同時。俺が踏み出すと同時に、マリアは杖を振るった。大気の大瀑布が、俺を飲み込み押し潰そうと荒れ狂う。乾いた風を眼に受け、しかし閉じず、俺は風の壁の向こう側に居るマリアと、視線を合わせる。
堕ちろ、その座から。
絶対性など俺が突き崩す。
「――『識れ』」
+
「……あー」
呆けた声を出しながら、白藤は煙草を取り出した。普段はキセル派だが、愛用のキセルも戦闘の最中に折れてしまった。なので仕方なく、川澄からもらったシガレット、ショートピースの箱をとんとんと叩き、出てきた先端を口にくわえて、火を点けた。
「……さすがに、この人数は反則じゃったなぁ……」
死屍累々としている中庭を見やる。
あれだけ大量に居た傭兵が、全員倒されうずくまっていた。それも、全員生きている。
「まったくだな。……殺さないと決めた主の下に居る以上、私らも殺すわけにはいかん、というのがきつかった」
「どうだかの」
「なんだ」
障子越しに背を向けあい座る川澄と白藤は、互いに煙草を一服ふかしながら言う。
「蝿縄。確かにぱっと見ただけじゃと相手を食い殺すエグい技じゃが。その実、〝食い方〟に配慮させれば傷口を修復不能にすることもなし、むしろ普通の裂傷などより治りを早く出来るはずじゃの。だのに、見た目と攻撃方法だけ知るとその恐ろしさで相手はすくむ……暴徒鎮圧にはもってこいの術式じゃ」
「さてな」
しらばっくれて、ぷかりと煙を吐き出す。白藤はクク、と笑いながら長巻を杖代わりに立ち上がる。縁側に立つと、池を避けるように(姫が避けさせた。鯉の生息地帯)ばたばたと人が倒れている。ここまで戦えるものか、と正直自分でも驚いていた。
ふと、思い出したように白藤がぼやく。
「わしはの」
「ん?」
「有和良に、惚れておったよ」
「ぶふっ」
がっ、と障子を開けて、川澄は白藤の横に並んだ。が、体はガタガタで、倒れそうになる。結局、白藤の肩を借りる羽目になった。嫌そうな顔をしつつも口をぱくぱくさせて、さっきの言葉の真意を問う川澄。
「ああ、言うておくがあのクソガキではないぞ。わしが惚れておったのは、初代――その時はまだ人になりたいとさえ願っておらなんだわしを、宿屋にしおった大ばか者じゃ」
「初代、有和良か」
「うむ。あの大ばかはあろうことかこの武家屋敷、放浪しておったこのわしの中にずけずけと入り込んできおってな、『いい家だ。一晩宿をとらせてほしい』などと言いおったんじゃ。わしも若かったからの、ぶん殴って追い出そうとした」
「随分な奴め。当時から今まで何も変わっておらんな」
川澄が冷静な判断の下に言うと、白藤は黙って手を放した。川澄は障子に沿ってずるずると床に落ちた。恨みがましい眼で見上げる。
「やかましいわ。――それで、殴り合いでわしは敗北し、その奇妙な男に、うっかり惚れた。すっかり惚れた。まあ、今の状況からわかる通り、完膚なきまでに失恋したわけじゃが」
「……さっきから、今のこの状況に全く関係の無い話のような気がするのだがな」
「わからんかのぅ? なら簡潔に言うてやるわ。有和良の一族は、代々全員、同じ目をしておる」
眼――と反復して、川澄は眼鏡を外す。思い返す、仕えた主の瞳。
先々代、自分を拾ってくれた、恩を返せず終わった恩人にせよ、斎にせよ、春夏秋冬にせよ。どの人物にも、温かみのある眼が、備わっていた。それは決して澄んでいるわけではなく、濁りを内に秘めながら、それでも懸命に前を向こうと足掻いていたから、だろうか。
「人は誰しも、求めておるものがある。わしも、この宿の連中も、もちろん主人も。それを求める心が、全てあの〝眼〟に宿っておる。魔眼と言うなら何と言うことはない、あの輝きこそがわしにとっては魔性のそれじゃ」
言いつつ、しゃがみこむ白藤。川澄の隣に腰掛け、がしゃんと音を立てて長巻も転がる。
「……あやつらは、間に合うたかの」
「間に合わせるであろう。何より、それを望んで私らも送り出したのだからな……しかし、今日はいやに饒舌だな、白藤」
「そらそうじゃろ。しゃべっとらんと、意識が飛びそうなんじゃからのぅ……」
脇腹を押さえる白藤。白い着物には血が滲み、全身も細かい傷だらけ。トレードマークのモノクルも吹き飛んでしまっていた。横に座る川澄も決して無事とは言いがたく、頭に包帯を巻き左腕は三角巾で吊るしている。顔色は青ざめ、血が足りていない。
つまるところ今ここに二人が残っているのは、もはや移動出来るだけの体力を失ったからであり。リタイアしていたからなのだった。
「若い世代に後は任せ」
「私ら老兵は伏して休む、か」
クッ、と川澄は苦笑いを漏らし、横で白藤は大口開けてはっは、と笑った。
黒猫スミスはそんな二人に擦り寄って、なーごと鳴く。
姫、葛葉、ぱとりしあ、柊はその頃、車で移動していた。傭兵の中に車のキーを持っている奴が居たので、奪ってそれに乗り込んだのだった。ちなみに道のりはその傭兵から聞き出した道に沿っていたのだが、今は違う。
「これで大丈夫かよ」
ガタガタと揺れる車体。時折跳ねる。悪路もいいとこ、進むのはただの獣道だった。
「……可哀想ですねこの車」
唯一この面子の中で免許取得者であるところの葛葉は、華麗なハンドル捌きでなんとか横転したりしないよう制御しつつ、アルファロメオを駆る。車体は見る間に泥と傷にまみれていった。
「つーかぱとりしあ。本当にこの道で大丈夫なのか?」
「地図で見たところ、森の中突っ切った方が早いからね。今は何より急がなきゃだし、のんびり公道走るほうがまずいよ、法定速度気にしなくちゃいけないんだからさ。それに、ボクの案内は姫ちゃんのナビよりは正確だよきっと」
「あたしは方向音痴だけど地図は読めるぞ」
「……あまり喋らないほうがいいのです、舌を噛む」
ぼそりと言う柊。二人は押し黙ったが実際のところは葛葉の運転が上手いため、そこまでひどくバウンドするようなことはなかった。することもなく、そわそわと武器の手入れなどする。各々、自分の武器を見るが、どれもボロボロだった。特に葛葉に至っては、肝心要の刀が、折れてしまっていた。戦闘中、相手の振るったハルバードと打ち合いになったためだ。
武器だけではない。使い手の方も、全身傷だらけである。しかし、白藤や川澄のような完全に戦闘不能の状態ではないため、今ここに居る。行って、そしてどうすべきかも、明確には頭に浮かばないのに。どうしようもない気持ちに駆られて、ここに居る。
「葛葉ちゃん」
「なんですか」
しばらく沈黙した後で、助手席に座っていたぱとりしあが口を開く。その視線は、後部座席に置かれている、刀身が真っ二つになってしまった刀に向いていた。その昔修行を終えた葛葉に、桧原葵が餞別として渡した刀。葛葉はちらりとも振り向かず、事も無げに言う。
「ああ、刀ですか。あんなもの無くても、どうとでもなりますよ」
「でもあれしか武器ないんでしょ? それが無いんじゃ、葛葉ちゃんは戦えないよ」
「戦いに行くんじゃねーんだからそれでいいだろ」
姫がぱとりしあを諭すように言う。驚いた顔で、ぱとりしあは振り返る。柊は何も言わず、眉を少し吊り上げるだけに留めた。
「あたしらは戦いに行くんじゃねぇぞ。単に、人質みてーな扱いだったあたしらが、無事だって伝えに行くだけ。そんだけだ」
「あっちはボクらを攻撃してきて、卑怯な手を使ったのに? ボクらは、反撃しないの?」
「わたしは反撃のつもりだったんですけどね。刀が折れた以上、今はただ足としてこれを運転しているに過ぎませんよ」
刀遣いは、刀無しじゃ何も出来ませんから、と自嘲気味に呟き、葛葉は再び運転に集中する。柊はというと、こちらも武器である鋼糸と苦無をほぼ失っていた。その状態で言葉少なな彼が何をしようとしているかはわかりにくいが、ぱとりしあは少なくとも、彼が『道を選ぶ』ことを知ったのを見ている。と、ぱとりしあと柊の視線が合った。
「我は主人に新たな道の選択を教えてもらったのです。だから――主人の判断に、従うのですよ」
「……わかったよ。ダンナさんの意向に沿えばいんだね」
ボクだけ物分り悪いみたい、とそれきり押し黙って、ぱとりしあはそっぽを向いた。他の三人も口を開かなかった。
車はスピードを上げて、森を抜けようと獣道をひた走る。
+
砲撃が溜めを終えるまでの数瞬が、俺に許されたチャンスだった。
再度全力疾走、しつつ左手のナイフを、前方に向けて投げる。空弾の連射時ならともかく、ああした溜めの大きい技を使っている最中に、空気を操って弾くことは出来まい。
迫る刃を危ういところで、体を横に逸らして避けるマリア。
だが甘い。俺は右手に握った、虎の子の吸血剣も投擲する。この行動は予想外だったらしく、その上さっきのナイフの回避で無理な体勢になっていた。避けることは出来ず、しかし吸血剣はマリアの肌に薄く線を入れただけだ。当然、殺さないため外した。ダメージなど、ない。
しかし関係ない。必要だったのは、剣に気を取られてもらうこと。その一瞬、視界から俺をはじき出すこと。次の瞬間マリアが俺を見たときには――魔眼の準備が、整っている。
『――識れ!』
『今さら魔眼を使って、何が出来るというの!』
杖が掲げられる。階段を駆け上がる俺に向けて、砲撃が放たれようとする。
まだ、距離は足りない。その上俺の攻撃手段は素手になってしまっている。
『終わりよ――!』
圧縮された巨大な空気の砲弾が、回転をかけられ俺に向けて振り下ろされる。軌道上には吹き抜ける風の径しか残らない。一つの暴風を押し固めたその一撃から解き放たれる威力は、人間ひとりを消滅させるには大きすぎる暴力。マリアは笑った。俺はただ踏み込み、前へ進むだけ。そして砲弾は全てを薙ぎ払い打ち砕く破壊の力を集束させ、吹き飛ばす。
――砲撃は吹き荒れ、通り過ぎた。
俺の、遥か上空を!
『?!』
「――っあああああああああッッ!」
詰めろ。間を縮めろ。俺に許されたチャンスはここだけ。
奴が最大最強の一撃を放ち、外した、千載一遇唯一無二の好機!
呆けた、驚愕に満ちた表情のマリアがどんどん近づいてくる。そして俺の右の拳が、その加速を全体重と共に余すところなくマリアの腹部に伝え、殴り飛ばす。派手に数メートル吹き飛び、城の出入り口である巨大な扉にぶつかって、なんとかその動きは止まった。
足元に転がった長い杖を、俺は蹴って遠くへ転がす。杖は権威の象徴、自他の区別をなし自然への干渉権を得るための魔術具だ。それがなければ、いかに契約下にあるといえど、シルフも動かない。
ごぼ、と派手に胃液を吐き出して、マリアは俺の顔を睨んだ。
『……な、そんっ、な、んで……』
『杖も無いんじゃ大精霊の能力なんて行使出来ないだろう。チェックメイトだよ、マリア』
それでも動こうとしたので、俺は片手をついっと上げる。その動きに呼応し、吸血剣がマリアの顔の脇に突き立った。この能力を見て苦々しげに、憎憎しげに俺を睨みつつも、マリアの表情からは徐々に諦めが見え始めていた。
その表情が消えないうちに。歩み寄り、マリアの顔の脇に直立する吸血剣を抜く。同様に、背後の壁に刺さっていたナイフも、ホルスターに収めた。マリアは戦意だけは衰えることなく、そんな俺を睨み続けている。しかしこいつにずっとかかずらっている暇はなく、俺はリオの元へ急ごうとした。
と、暗示が切れて疲れが体の中に流れ込む。片膝をついて、呼吸を整えた。体は、まあまだ戦える。しかし今すぐ、は少々無理そうだった。緊迫した戦闘状態をわずかな時間だが緩めて、大きく空に向けて息を吐いた。
『くそ、少し、休まないとならないか』
どさっと尻を下ろし、疲労が抜けるのを待つ。マリアはそんな俺を見つつ、ごほりと大きく咳き込んだ。
『……一体、あんたわたしに何をしたのよ』
不思議そうに、恐ろしそうに、マリアは俺を見ながら言う。……俺は話していいものか少し迷ったが、一応種明かしはしておくことにした。これから先狙われるようになったとしても、多分後悔はしないと思ったから。
『……俺の能力は、AをBだと誤認識させる力だ。それは単純に見た目から入る能力だが、〝脳内での像〟を幻視させる、という手段でも使えないわけじゃない。もっとも、普通はそんなことしなくても大丈夫だけど。今回は、空気が相手だったからな……ところで、空気中には窒素が約八割、二酸化炭素は〇、〇三%くらい含まれてる、っていうのは知ってるよな』
『まあ、当然……ね』
言いつつ、何か閃いたらしい。力の抜けた表情で、マリアは大扉にもたれかかった。手を開いて、握る。
そこかしこに満ちる大気。奴の武器であったそれが、今は丸ごと敵に回っていたことに、気づいたのだろう。
『――二酸化炭素は、窒素より、重い。この二つの認識を、ひっくり返せば。……わたしは、集めた気体に対する、術式演算を、間違えることになるわ、ね。〝普段より重たい、大気を集めてしまった。なら軌道が落ちすぎないよう、上方向へ軌道修正を〟なんて、ね』
百点の回答だった。俺はご明察、と声をかける。
方法に気づいたのも、散々に空気を操る攻撃を受けたためだったが、まあどこでなんの知識が役に立つかなんてわからないものだ。
『周りに真空を張られて、そこから出たときに意識を失ったトラップ。あの時俺に吸わせたのは、酸素のほとんど含まれない空気だろう。酸素の極端に少ない空気を吸うと、人間は意識を失うそうだから。それで、空気自体の認識は変えても無駄だろうけど、気体の成分を入れ替えれば勝機になる、と思った』
『見事だわ』
唇を噛み締め、マリアはうな垂れた。俺は肩をすくめて立ち上がり、その横を通り過ぎる。まだ膝は震えて、疲れが抜け気ってはいなかったが。はやる気持ちが足を自然と前に出させていた。のろのろと、大扉を抜けようとする。
『さて……いくの、ね』
『……まだしゃべるのか』
扉を抜けようとした俺に、うつむいたまま話しかける。その声音はなんだか負けた人間のそれに感じられなかったので、俺は足を止めた。たっぷり一呼吸間を空けて、マリアは語る。
『ここからが決闘。ここからが本番よ。せいぜいあがくだけあがくがいいわ――春夏秋冬』
『……言われなくてもやるさ』
減らず口を叩いて、後ろ手に重たい大扉を閉め奥の方へ歩き始めた。暗く長い廊下は、誘うような闇を湛えてそこに静かに落ち着いている。闇のベールのそのまた奥、薄ぼんやりと、今通った扉ほどではないにせよ結構大きな扉が、こちらを威圧感で押していた。
……これで本丸、リオとの戦いだ。留意点はありすぎて困る。マリアは、事前にある程度知識も仕入れることが出来たので驚くようなことはなかった。しかし、リオについては知識など何も無い。身体能力、魔眼の効果、得物、制約。どれもが不明。でも相手は知っている。晒していないカードは、吸血剣のみ。
こんな状態でぶつからなくてはならないとは、気が滅入る。
「でも気落ちしてても仕方ないか」
ゆっくりと一歩ずつ歩みを進める。こつこつと響く足音。確信は、この俺の抱く今の思いは、揺るがない。
押すと、意外なほど軽い感覚と共に扉は開いた。
「……世界は残酷で惨い。そう思ったことはないか」
何もない古びたホールの奥で、俺に背を向けてリオは立っていた。黒いロングコートと、襟を立てたその中から覗くシルバーブロンドの髪。天窓から差し込む日から一歩退いたところで、くるりとこちらに振り向いた。
「オレも、お前も。これまで地獄を見ながら生きてきた。だが、地獄だけでは、なかった」
琥珀色の瞳は閉じている。かけていた眼鏡を外して、コートの中に着ていたジャケットの内ポケットにしまいこみ、その手は短い、投槍をつかんで出てくる。白銀の輝く諸刃の槍。その中ほどを持って、軽く振るう。空気が一変した。
「救いはある。そのために、余計傷つくとしても、それがあるだけでオレたちは救われる。救いという存在が既に救い手。オレたちは――どうしようもない生を、そうやって救われながら生きていく」
お前には救いがあるか、と言葉なしにして雄弁に語るリオ。俺は反応しなかった。むしろ、首を横に振る。
「……殺さない。それが、俺の、俺を救う手立てだ」
「そうか」
さしたる興味も無さそうに、リオは言う。それはそうだ。リオには関係の無い、これは俺にとってのみの救い。結局のところ、救いというのは――個々人によって変わり、代わりなど無い。そういうものだ。
「マリアも、殺さなかったようだな」
表情をわずかに緩めつつ、呟く。槍はその間も油断無く手に携えられている。
「俺はここに、自分がこれからも生き延びていく、そのためにお前らを何度でも打ち払う、そういう決意を示すために、来た。もうこれ以上俺は殺したくない。ただ、それだけを示すため戦う」
「……両者正しくは無い、ならば戦って定める他無し、か。……ハ、オレたちが舞台役者として動いているとするなら、これほど下らない劇もないが。なにせ、見方を変えればどちらも正邪両方の性質を併せ持つ。立ち位置の違いでしかなく、主張はほぼ同じ。そして幸福な結末は用意されず、どちらかは下され不幸に終わる、悲劇性以外名作との共通項が無い劇。――――ならば両者不幸でいいだろう、というお前の考えは、ただのエゴだと思うが」
天窓の光の下に体を晒しつつ、それこそ彼の言う『役者』のように大仰に、諸手を上げてみせるリオ。白銀の槍も、何か舞台の流れにおける重要なファクターの一つがごとく、その姿にマッチしている。
「主張とエゴって同じものじゃないのか?」
「違いないな。何にせよ、物語の大筋は変わらない」
「いや、変わる」
リオの言葉を遮り、一歩踏み出す。答えを得ていなければ、踏み込めていなかったはずの一歩。
「少なくとも生き残り、今後二年の生活があれば――俺は幸せなんだ。長さじゃない」
一瞬、その琥珀色の瞳にかげりを見せて、次いで眼を伏せる。
「無欲、だな。それがお前の答えなら、それを否定はしないが。だがその考えがオレたちに通用するとは、思うな」
槍の穂先が向けられる。光が俺を射抜いた。
観客も居ない劇場で向かい合う俺たち。静かに鞘から、俺も剣を抜く。そして、幻視。
「行くぞ」
「行くよ」
来い、とは言わなかった。どちらもどちらで、自分から仕掛けるつもりで。
床に薄く積もった埃を蹴り上げ、迅った。
構えが槍の中ほどを掴んでいたことからわかっていた。それが投槍であることは。だから俺は間合いを詰めながら、その槍の動作に注目する。と、奴との距離が十五メートルくらいになったところで、リオは膂力に任せて槍を投擲した。
無駄の無いフォーム。俺は踏み込んだ足を軸に体を半ターンさせ、それが過ぎるのを見る。ブレない軌道は見事に俺の横を撃ちぬき、そのまま背後の扉へと飛んでいく。
まさかこんな戦いで初撃から武器を手放すはずが、ないよな。
後ろへ槍が過ぎたのを見た次の瞬間には、槍はリオの手元に再び姿を現していた――複製能力? いや、もっと単純に、『投げた後手元に戻る』能力か。現に、背後で槍が扉に刺さった音もしていない。
続いて二投目。初撃を避けるため動きの止まった俺を目がけて一直線に飛ぶ。先ほどボールを投げるかのように振り下ろして投げた手を、振り上げると同時に投げた。逆手で投げた、とでも言おうか。成る程、これならモーションの崩れを気にしなくとも良い。剣の切り下げから切り上げへの連携のように滑らかだ。
「っとぉ!」
今度は屈んでやり過ごす。そして手元に戻るまでのわずかな隙に、駆ける。低く構えた右手の剣を強く意識。今のこの剣は、あくまでも俺の身を守るためのものだということを。
連投される槍を、続けざまにかわす。……速い! 既にジャケットは何箇所か切り裂かれ、薄く血が滲む。
マリアの言ったことを少し理解した。マリアの攻撃は空弾の場合は数に頼りすぎ、竜巻の場合は溜めが長く、砲撃は威力に偏りすぎている。その隙を埋めるために空気の成分を操ったりするのだろうが、それでもちょこまか動く俺のような単体を狙うには適さない。大人数を、一人で迎え撃つ方がマリアには向いているのだろう。
比して見ると、リオは今この時の一投に集中し、一撃一撃の力が違う。決闘に向いた、一対一に向いた男なのだ。ヘタな防御は無意味だ。
それにしても、俺のような暗示による限界突破を為しているわけでもなかろうに、リオの身体能力は異常の一言に尽きる。俺がリミッターを外しての出力最大なら、リオはそのマックスを常時超越している。柊のように、修練で至ったとも思えない、攻撃能力だ。
「喰らえッッ!!」
間合いをつめ、踏み込み、槍の現れるだろう位置に向けて、下から切り上げる。どうやら見た目通り銀製か、少なくとも金属製らしい槍は剣とぶつかって甲高い音を立てた。が、その音はすぐに静まらない。時間にすれば指を弾く間ほどだろうが、長く音が響く。横薙ぎに当たった剣戟で槍は吹き飛ばず、予め決まっていた軌道をなぞるように俺の頭の横をかすめた。
なんだ、今の違和感。いくら威力と速度のある投擲だとしても、あんなちっぽけな槍の重量で一ミリも軌道がズレないなんて。
『振り返る暇は無いぞ』
英語で囁き、再度振るわれる腕。脇腹の横を槍が飛ぶ。怯まず、詰め寄る間。剣の届く間合いに、入った。
『お前もしっかり目を開けてろ!』
言い返し、リオが投げる前にその槍に剣を叩きつける。リオは両手で槍を掴み、その一撃は凌いだ。だが俺は攻撃を止めない。一撃の重みより、速度で動きの出始めを押さえる。上から下から左右から。縦横無尽に剣を走らせ、槍を有効に使わせない。
一歩。リオを退かせた。押され気味なことに舌打ちするのが聞こえる。だが次の瞬間に、両手で構えた槍の穂先が、剣を受け止めた。そして穂先と反対側、薙刀で言うなら石突と呼ばれる部分で、剣を構えていた右手を打たれる。痺れのような痛みがじわっと手首まで広がり、動きが止まった。
その停止の隙に、そのまま石突が腹を突く。たまらず後退してしまい、再び投擲が有利な間合いが構築されてしまう。投げられた一撃が、左の太腿をかすった。
「……杖術みたいな動きだな」
「どうした。まだオレはかすり傷ももらっていないが」
「そうか?」
ぽたりと、白銀の槍に深紅の色が垂れた。連撃の中で、リオの頬にも割と深い傷が入っている。指摘されたそれを手の甲で拭うと、奴は俺の剣先に集中した。
「よく切れる刃だ」
「そりゃどうも」
俺は笑い、連投をジグザグに走ってかわす。踏み込みの音でフェイントをかましながら少しずつ間合いを詰める。
しかし、戦いづらい。
相手の武器との相性、などではなく。単純に奴と俺だから、戦いにくかった。お互いに魔眼にかかることを避けるために目線を合わせないため、首から上をほとんど見ないで戦うことになる。目は口ほどにモノを言うとはよく言ったものだが、戦闘時ほどこの言葉が頼りになる場面も無いのだ。
……距離はさらに埋まって、あと三メートル。と、ここで一旦俺たちは動きを止める。疲れたからではなく、単純に微妙な間合いに着いてしまったからだ。
俺は一歩で間合いを詰められ、奴は一手で投擲を仕掛けられる。どちらにも一長一短な間合い。
「その剣、何か力を秘めた剣だと思ったが」
違うのか? とリオが問う。一瞬のチャンスを互いがモノにするため、呼吸を測っている最中だというのに。いや――だからこそ、なのだろうか。それなら乗るほか無いけれど。
「ご明察だよ。もちろん、能力を明かすような真似はしないけど」
「そうか。オレもこの槍について教える気はないが」
「――グングニル、だろ?」
一瞬、リオは眉をひそめた。しかし、この槍については神話などに疎い日本の人間でも知っている。槍という武器について名前を挙げれば、これかロンギヌスかが間違いなく挙がる、というくらいには。
「有名すぎるのも考え物だな。『手元に戻る』そして『絶対命中』。この二つの異能を持っている槍と考えたら、まずグングニルしかないだろうと思ってね」
「……だが未だお前は射抜かれていないだろう。絶対命中、ではない」
「ああ。でも、軌道を逸らすことは、一度も出来なかった。つまり、絶対対象命中、じゃなくて絶対空間命中。『指定した空間に向けて投げればそれを外すことは無く、そのため軌道も逸れない』って感じか」
これじゃあさっきマリアに使ったマイン・ゴーシュは使えない。あれはあくまでも飛来物や相手の武器に対して側面から攻撃を当てて、逸らす剣技だから。
俺の読みに聞き入っていたリオは、槍の穂先を揺らしながら答える。
「……流石に戦闘経験が多いだけはある。わずかな情報からよくそこまで辿り付けるものだな」
「大したことじゃないだろ?」
言って、俺は剣を構えなおす。
狙うは、突き。穂先を弾いて、体を滑り込ませる。そして肘打ちで心臓を叩き、そのまま打ち上げて、顎を砕く。脳震盪も起こるだろう、これなら一撃で打ち倒すことが出来る。槍は上段に構えているが、下への突き下ろしか手首を返しての斬撃か。
こちらも突きの体勢を見せている以上、弧を描いて横薙ぎに振るうような真似はしないだろう。それでは突きに対処するには遅すぎる。この距離で投げるならその瞬間ダインスレイヴの能力を発動させれば、
「そうそう」
突きこもうとしたところでリオが言う。
「お前の剣の能力――発動条件は満たしたか?」
「?!」
――突然のその一言で心が、乱れた。ま、まずい!
咄嗟に構えたが、既に槍は放たれた。勘で横に飛んだが、左の二の腕をざっくりと切り裂かれる。
「ぐ」
しかも飛んだため、体勢は崩れた。そこに向けて次なる投擲。これは力を抜いて地面に倒れることで回避。這うような体勢で四肢を広げ、とにかく体勢を立て直す。そして無様だが、そのまま走る。人狼は、四足走行も速い。とはいえ定速で走れば的にされてしまうので……見よう見まねだが柊の体術を使わせてもらった。
一歩一歩の歩幅をでたらめに変えることで、相手が狙い定めた位置とわずかながらずれた位置を走ることが可能となる技。暗狩流、迷走、だったか。なるほど、たしかに一度限りなら、狙いを外れられるようだ。
「まるで獣」
「人狼、と言ってほしいな」
とはいえ疲れるので途中からは普通に立って走り、リオを中心に円を描くように隙を窺う。左腕のケガは、浅くない。それにこのまま逃げ続ければ体力の浪費からジリ貧になるのはこっちの方だ。離れるのだけは、避けたい。といって、接近戦は先程見せた杖術のような動きで、こちらの剣をいなされてしまう。槍の両端を使っての攻撃は厄介だった。
ならば。
俺は槍を避ける際一歩退いて、後ろ足に乗せた体重を一瞬で前に打ち込む。そしてその勢いのままに――
剣を、投擲した。
『?!』
驚いた様子のリオに目がけて、そのまま低く身を屈めて突進。剣の迎撃に一撃、リオは槍を振るう。そのわずかな間隙に、俺は追いついた。剣を使ってのショートレンジが駄目だったのは、相手も短槍で接近戦闘が得意だったから。しかも杖術を組み合わせて、剣の動きを抑制している。封じているようで封じられていたのは、こっちだった。
だが、体術による超接近戦なら。リスクも大きいが、相手が槍の両端を使えるように、こっちも素手を二本使える!
弾き飛ばされた剣は天井に突き刺さったようだった。だがそんなことは構わない。突っ込んで、左手を伸ばす。槍の中ほどを、掴んだ。そして一気にこちらに引き寄せ、揺さぶり、体勢が崩れたところでコートの襟を右手で掴み、技術はほとんど無く力技でかける投げ技。それでもリオは、槍を手放さない。背中から叩きつけられ、マウントを取られているのに鍔迫り合いならぬ柄迫り合いを果敢に挑む。
そこまで武器にこだわってしまったのがお前の敗因だ。果敢というより果敢無い抵抗。俺はそのまま槍をぐいっと押し、リオの胸元に密着させる。奴も何をされるか察した様子だったが、もう既に遅い。密着状態でのこの技が、狙いだ。
押し込んだ掌底。突き入れるは全体重を載せた衝撃。――零勁。衝撃は体を貫通し床に伝動し低く鈍い音に成った。肋骨の二、三本は確実にもらった。それに、内臓へのダメージ、も……!?
『おおおおおおッッ!』
転がって離脱するリオ、片手を床に突いてバネ仕掛けのように起き上がる。そして当然、五歩の間合いを離された俺に、投槍を回避することは出来ない。全く、予想していなかった動き。転がり、という動作は案外距離をとれることは、知っていたのに。
閃きと陣風、そして鮮血が迸る。左肩に、槍が貫通していた。さっきのケガとあわせて、左腕はもう使えない。
「ぐ、おっ、くそ……今の、心臓に入ったは、ず……」
自分で言いつつ、手に残る感触は綺麗に決まった時の五割ほどだった。しっかり押さえつけたのだ、外すことなど出来なかったはずだが……まさか。槍の両端を持っていた手。片手の力を抜いて、その分もう片方の手を上げ、槍を斜めに傾けたのか。それなら、綺麗に決まらなくても不思議はない。
「悪いが、ここで終わりだ」
構え、槍が俺を狙う。しゃがみ込んだまま、未だ攻めにも守りにも転じることが出来ていない。体勢と、タイミングが、悪すぎる。あの一撃で決めたかった。それが、無理になってしまった。
絶体絶命。武器は無く、回避も出来そうにない。そんな状況で俺は――笑って見せた。
「お前が、終わりだ」
ただ、そう呟いた。そして左手を下ろす。
ただ、疾く、鋭く、直ぐな、瞬迅の雷光が落ちた。
「なにがっ、」
グングニルは投げられる前に切り落とされ、その穂先ががらん、と床に転がる。一瞬遅く、床に斬、と剣も突き立った。リオは投げようとした槍がその形状を破壊されたことに戸惑い、動きが止まっていた。
投げられればその投擲を止める術が無い槍も、動き出す前なら止めるのは出来ないことではない。
「俺の持つこの剣〝血肉啜る牙痕〟……その能力の二つ、〝嚥下の血〟、〝狩人の牙〟。前者は傷つけた相手の近くで使うと血を啜り、そして血の味を記憶する。後者はその記憶した味の持ち主を、追撃する。……手元を離れても、だ」
ただ、狩人の牙は嚥下の血を発動し終えた後で無いと使えない、という条件の鍵がかかっている。そのため、リオに発動条件のことを言われた時はひやっとしたが、結果的にこうしてグングニルを無効化出来たのだ。槍に込められた膨大な魔力も、今や雲散霧消してしまっている。後は、魔眼くらいしかリオに戦う術は無い。
俺の、勝ちだ。
「もちろん、そこに突き立っている今も『狩人の牙』は発動可能だ」
身じろぎもしないリオ。正直、マリアとの戦いでこの能力も晒してしまう予定だったが、ここまで持ってこれてよかったと思う。完全に不意を、隙を突く形で、俺はこうして勝利をもぎ取ることが出来た。
これで、帰れる。あの場所に。
「……決闘だったしな、とりあえず負けを、認めてくれよ」
「…………」
黙ったまま、答えなかった。ひょっとしてそんな約束など反故にして、武器も無く襲い掛かってくるのではと考えたが、それにしては感情に揺らぎも見られない。ただ、グングニルを投げようとした体勢のまま、凍り付いている。と、グングニルを切り落とされてから初めて、リオが感情を表した。
「――くっくっく」
「なんだ」
「いや、おかしくてな」
心底愉快そうに、リオは言う、そして、持っていた柄しかない槍を、床に放り投げる。二つに分かたれた槍が、並んだ。
「なあ、春夏秋冬」
槍を見下ろしている俺を、リオはじっと見ている――そう感じるほか無い、粘っこい視線が向けられている気がした。そして、小さく短い嘆息。あきれ返っているような、嘲っているような。何か、見落としを指摘されるような、嫌な感覚。そしてリオはさらに言葉を紡ぐ。
「――お前、千年級の神器であるこのグングニルが、そう簡単に敗れると思うのか?」
リオは動かなかった。
ただ、俺は怖気を感じて立ち上がった。
脇腹に、風穴が開いた。
+
有和良とリオの戦いが佳境に入る、少し前のこと。
森を抜けた。ボロボロのボディを晒しながら走る車体は、なんとか壊れてしまう前にその役目を終えようとしていた。
ドリフトしながら草原にタイヤの爪痕を残し、アルファロメオは停車する。ドアを開いて四人は外に出た。遠く広がる草原と、その景観の中央にそびえたつ古城。周囲にはシルフの操る大気の威力か、穴を開けられ大地が見え隠れしている。
「ひととせは」
「もう、ここでは戦っていないようですね。まさか、戦闘にならなかったとは思えませんし……恐らく、城の中へ進んだのでしょう。少なくとも、マリアを下して」
とにかく進もうと、なぜか抉れてしまっている大階段に近づく四人。と、風が打ち抜かれる音がした。
抜いた刀――折れて半分しか刀身が残っていない――を、飛来した物体に振るう葛葉。空気を切ったとは思えない硬質な音と共に、熱い空気が辺りに爆散する。思わず閉じそうになる瞳をきっと見開いて、四人は大階段の上に位置する人物を見やった。
そこにはよろよろと、杖を頼りに立ちはだかる風の覇者。まだ有和良に殴られたダメージが残っているのか、腹部を押さえながら立っている。背後には付き添うシルフの影、いやでも気が引き締まる心地がした。
「……マリア、ですね」
「そうよ。あなたたちは、春夏秋冬の宿屋、その従業員ってところかしらね。初めまして、そしてようこそ、我が城へ。春夏秋冬だったら、もう既に先に進んで、今はリオと戦っている最中よ」
それを聞いていくらかでも安心する四人。しかし、眼前の女には油断出来ないと、勘が告げる。マリアはそんな四人が眼に入っていないかのように、空を眺める。そして、杖を掲げた。
「加勢にでも来たの。一応、決闘ということになっていたはずだけれど」
「よく言うぜ、あたしらのこと人質に取るような真似しやがったくせによ」
「決闘するのはリオで、わたしは殺し合いを演じたのよ。そうある以上、どんな手でも使うわ。守る者のために」
瞳に宿る意思の強さを見て、平気でそれをやってのけたことは嫌でも伝わった。だが退くことは無く、強気に姫は前に出る。思いの強さで、自分たちが劣っているなどとは、微塵も思っていなかった。
「何にせよ、あたしらは加勢に来たつもりはねぇ。ひととせに、あたしらが無事だって伝えに行くだけだ」
「駄目ね。通せないわ」
「なんで」
「わたしがこういう手に出た以上、あなたたちもそういう手に出ないと、どうして言い切れるの? いくら決闘だから、と主人の肩書きの下にあなたたちが手を出さないよう春夏秋冬が命令していたとして、あなたたちが加勢しないと言い張るとして。信じるに値するほどのことじゃないわ」
「……とことん、自分勝手だな。あんたはよ」
「本当に大事な者が出来たらあなたもそのうちわかるわよ、子猫さん……いえ、女は女になるため生まれてくる。むしろ今もう既に、半分わかりかけているのかもしれないけれど」
ごほ、と咳き込んで、杖を横に下ろす。風が渦を巻き、気迫が大気を満たす。臨戦態勢に入ったことを察知して、四人もそれぞれ武器を構えた。とは言っても満身創痍で、武器も傷んでいるのだが。それでも現状からのベストコンディションを、四人は体現した。
「……どうしても通って、伝えたいことがあるのなら。その意思で以って、わたしを下して通りなさい」
「戦わなくては駄目なんですか?」
「この期に及んでそれ以外のやり方が通ると思う? 話し合いで解決しているなら、春夏秋冬との時点で終わっているわ。あいつ、やたらと口先で戦うのは強いみたいなのよね。まあそれでも、わたしを屈服させるほどじゃなかったわ」
瞳を閉じて、何か思うような素振りを見せる。しかし次に瞳が開いた時に見えたのは、確かな敵意。己の進みたい道を邪魔するものに対する、不快感の表れ。むしろそれしか、うかがうことが出来ない。どこまでも敵対する他接する術をもたない、そんな親子なのだった。
「ひととせは口先が強いんじゃ、ねーぞ」
と、わずかに鏃を下げ、姫が強い語調で言う。マリアは、眉をひそめた。
「色々なことを識っちまってるから、強くあろうとしてるだけだよ。そんで誰かと一緒に居ようとしてるだけだ。……本当、根幹にはそれしかねーんだと思う。自分の周りだけでも、一緒に居ようと思える奴らにだけでも、力になってやりたいと思ってるだけ――あたしも、そうなりてぇよ。周りと一緒に戦ってやれるように、なりてーよ。だから、あたしはここに来たんだぞ」
「人徳ね」
嘲るでも呆れるでもなく、マリアは微笑んだ。
「それは、確かにわたしにはないわ。わたしと、有和良斎が捨てたものだもの。冴えなくても美しい、たった一つの不恰好なやり方……もう二度と取り戻せないもの。最後に聞かせて。あなたたちはそれで、本当に後悔、しないの?」
風が止まり、形を成す。その〝形成された形〟が再び動き、風を作る。風を纏う。
膨れ上がる大気に怖気を感じながらも、四人は構える。弓を。刀を。糸を。書を。
「……色々、諦めた。けどそこに、後悔はねーんだよ」
かくして。
意思を通す戦いが、再び始まることとなった。
「誰でもいいです。通れる機会があったら通りましょう。一番あの大扉に近い人間を補助して、先に通してください!」
真っ先に前線に飛び込む葛葉、柊。疾走して大階段の頂点を目指す。そんな二人目がけてマリアは加減する気など欠片も無く、大気の砲撃を練り上げる。だがその空気が密集する空間に、次々に突き刺さる姫の矢。蟇目と梓弓の音が鳴り響き、術の構成が揺らぐ。しかし、マリアは動じずに杖を、砲撃が作られる空間に突き刺す。
「くっそ、あたしの退魔の矢は物質に直で流れる魔力までは消せねーってのに」
あくまでも空間に満ちる魔力と、矢が当たった術式を解く代物でしかないのだ。おまけに、集められている空気は最初こそ魔力をかけて作られるが、構成し終わった後はただ大気圧の弾丸として存在しているに過ぎず、魔力を消されても問題ない。結局、砲撃を完全に崩すどころか数秒の遅延にしかならず、放たれる一撃。
葛葉はすぐに飛び去り城の壁面へ、柊も城の壁面に打ち込んだ苦無に結んだワイヤーを手繰って離脱。大階段は砲撃を受けて粉々になり、瓦礫が崩壊の足音を奏でた。その間に砲撃を避けた二人は壁面を駆け、上空からマリアに迫る。
振るった杖、生み出される空弾が空中の二人を迎撃する。柊は短刀で、葛葉は折れた刀で、それぞれ眼前の弾丸を切り払い、一撃見舞おうとする。しかしその時には既にマリアはそこにいない。風の翼で空を舞い、二人の背後を取っていた。撃たれる空弾、反応の遅れた葛葉は背中に直撃し、苦悶の表情と共に大扉前の踊り場でバウンド、階段から落ちて大地に叩きつけられる。
柊はというとその磨き上げた戦闘センスでこれを察知、鋼糸で空弾を輪切りにしてみせる。しかしその斬糸はマリアには届かず、踊り場に着地。すかさず苦無を投げたがかわされる。
『Get out of here.』
扉に近づこうとした柊は、しかし大気圧で作られた壁に阻まれ、やはり階段から落ちてしまう。だが柊はすぐに空中で体勢を立て直し、両手に構えた苦無の二刀を壁に突き刺し、蜘蛛のように駆け上がり始める。糸は、使わない。その間にマリアは再び踊り場に着地、砲撃を練り上げはじめる。姫も下で矢をつがえ、そして放った。
「〝連矢・青鳥穿爪〟!」
五本の矢が同時に飛ぶ。そしてその先につけられた大きな鏃が爆発的な『蟇目』の音を鳴らし、魔力の流れをかき消す破魔矢として空を穿つ。攻撃は降り注いだが、しかし一つ一つの威力が小さいためか突破できない。貫矢を使うべきだったか、と己の失策に舌打ちした。
そこに、ぱとりしあが文言を練った術式を加え放つ。
『Invoke a bless magic,exertion of my authority. You are veiled in mystery,you are veiled in mist……This lance's name is "rampart breaker"……I'll penetrate the enemy's defenses!!』
光の柱が練り上げられていた砲撃に突き刺さる。そして、砲撃は崩された。大量の風が荒れ狂い、辺りを巻き上げる。
「……で、外側だけ壊して、なんなの?」
荒れ狂う風が方向性を持った。
砲撃は崩れ去った、しかしそのことで油断したぱとりしあは術式を解いてしまった。
中にまだ、竜巻が存在していたというのに。
「偽装して一撃を温存する程度、よくある技法よ」
おまけに崩されて流れた風もわずかに調整することで竜巻の内に取り込み、通常よりも高威力な一撃が完成。切り裂く回転の刃は、草原を抉りぬいた。ようやく再び踊り場に辿りついた柊は、唖然としてその光景を見やる。
「きっ………………貴様ぁぁぁアアッッ!」
切りかかる。マリアは対して、空弾を一つ、撃ち出したのみ。
当然のごとく、それは切り裂かれる。しかし一発目で死角となる真後ろにもう一発、放たれていた。これは突きで制す。しかし、その時には既にマリアは空に躍り出て、飛んで逃げていた。そこに目がけて柊は――落下した後のことも考えず、跳んだ。
突破を目論んだはずが、優先順位を間違えてしまった。もちろん、マリアを無視して大扉に向かっていた場合、後ろから狙撃されることになったのだろうが。
飛び出し、空中で袈裟に斬りつける。しかし斬撃は届かない。短刀は空振りした。が。
スイッチを押した瞬間、刀身が柄に内蔵された強力なスプリングで射出される。スペツナズ・ナイフ。この奇襲は予想外だったようで、マリアの腕に刃が突き刺さる。しかしその腕とは、既に斎が潰し、今や鉄製の義手であるところの、左腕だった。
「残念ね」
「畜生っ……!」
自由落下。どこまでも落ちてゆく。この高さでは死ぬかもしれない、などとマリアは考えた。
「これで、全滅……呆気ないものね」
纏う風を落ち着かせ、高く空から下を見やる。竜巻が直撃した地点は、未だ土ぼこりが立っていてよく見えない。
ふと、その中に赤い色が見えた気がした。血の色か、と吸血鬼としての彼女が疼く。しかし、違う。あんな鮮やかな色はない。血とは、もっとおぞましく暗い、闇に程近い黒ずんだ色の、はず。
「……まだ、終わって、ねーぞ」
白い槍のような巨大な矢が、頭をかすめた。驚いて、土ぼこりの中を凝視する。
すると――居た。
鮮やかな赤い色の髪を振り乱し、ボロボロになった緋色の着物を着た、小さな人影が。大きな金色の瞳で、真っ直ぐにこちらを見据えているのを。そしてその人影は走り出す。結局のところ、彼女はここを突破して大扉さえ通れればどうでもいいのだから。そして、その脚力がまた、やたらと速い。すぐに、空弾で追撃しようとする。
しかし追撃は、一瞬姫の周囲に働いた防壁で防がれる。ぱとりしあの術式。
「"Bless magic,reinforcement"……なんてね、ちょっとした身体能力強化と、防壁術式なの。元々、祝福の魔術なんだから補助効果の方が強力、なんだよね」
「あなたたちには、直撃、したはず」
「させてませんよ」
崩れた階段の影から、葛葉がよろりと現れる。手にした刀は、刀身が先ほどまでよりさらに短くなっていた。そして、彼女がキャッチしたのだろう、柊も後ろから続く。
「先の戦いで短くなってしまいましたが、その分軽くなって無刃剣戟が撃ち易くなりましたよ。それで竜巻の弾道を逸らしました。……まあ、威力に耐え切れずさらに折れてしまいましたけどね」
「ボクらも全く防御しなかったわけじゃないしねー。回避と矢と防壁と、まあそれでも、ちょっとダメージもらっちゃった」
呟くぱとりしあの左腕と左足は、完全に折れている。これでもかする程度で終わらせたのだが、それだけ竜巻の威力は凄まじかったということだ。歯噛みして、マリアはもう一度空弾を姫に向けて連射したが、そのことごとくが打ち落とされる。柊が、姫の放った矢を再利用して、投擲したためだ。
「くっ……」
そして姫は。
小さな体を空に投げ出し、葛葉が重ねた手の上に。そして一気に跳躍、柊が上る際に壁面に突き刺した苦無を掴んで、よじ登る。そのまま、大扉へとひた走り、振り返ることもせず通り抜けた。葛葉の手の上で飛んだとき、一言だけ「ありがと」と言い残して。
「頼みましたよ、姫」
後に残されるのは、為す術も無くそれを見送り、草原に降り立ったマリアと葛葉たち。
「さて。これでわたしたちはやるべきことも無くなりましたし、降参しておきます。どの道このなりではひととせさんに加勢は出来ませんしね。ぱとりしあも、柊君も。それで、良いのでしょう?」
問いかけられて二人は頷き、では、と一礼して葛葉はマリアの前から歩み去る。ぱとりしあに肩を貸して、柊と三人でその場を離れていく。マリアとしては向かって来ない者、しかも敵意も無い者に攻撃しても意味は無く、今から姫を追ってもやはり、ほとんど意味は無いことも理解した。
完敗だった。
「……大したものね。被害も最小限に、目的を達する。どうして、そこまで出来るの?」
「簡単ですよ」
負け惜しみのようなマリアの言葉に、やはり振り返りもせず、車の方向に向かいつつ葛葉は返す。
「あなたと同じです」
扉を抜けて進み、戦いの音が響く方を目指す。
「ひととせ……」
もはや矢も無く弓だけを持って走る姫。奥のホールの方向に、行くべき道を見定める。
しかし全く隠す気配も無い移動の音――エレベーターが降りてくる音で、足を止める。そこは廊下の途中少し開けた場所で、エレベーターホールになっているらしかった。一体誰が降りてきたのか、と思案して、すぐにここにはあと一人しかいないことを思い出す。
表で戦ったマリア。奥で戦うリオ。その二人が何よりも大切にしている、一人の少女。この戦いが起こることとなった、そもそもの理由とも言える人物。ちん、とベルの音がして、その鉄の箱は開いた。
『……あら、見慣れない客人ですわね。こんにちは』
長い黒髪と、マリアのと似た意匠を凝らしたドレス。有和良や斎との共通点を探すのは難しいが、とにかく整った顔。その冗談のような美しい面立ちの中で、自分と同じ、しかし決定的に違う、金色の瞳が輝いているのを見た。
同性にもかかわらず見惚れて、一瞬姫の動きが止まる。それから、話しかけられたことに気づいてあたふたと動揺する。
「え、えっと、英語、だよな? あーっと、ハロー」
『……春夏秋冬の宿屋の、従業員の方のようですわね。赤毛で私と目の色は同じだけれど、よくよく見ればアジア圏の顔立ちですわ。ということは、さっき玄関で二度目の戦いが起こったのは――あなたたちが突破してきたからじゃありませんこと? と聞いても、どうもほとんど伝わっていないみたいですけれ、ど』
溜め息を一つ、そしてごほがはと咳き込む四季折。その咳が一過性の埃によるものなどでなく、病などによるものだというのは姫にも容易に想像がついた。そして次に取った行動は、なぜか手にしていた弓を投げだし、空いた手でその背をさすってやることだった。四季折に敵意が、感じられなかったからだ。
『あ、ありがとうございます……しかし、あなたにとってわたしは敵では?』
「…………あー。別に戦ったのも仕方なくだし、あたし個人に至ってはあんたらにさっぱり因縁も何もねーからな。敵なんて感じじゃねーよ。って、日本語わかんねーか。えーと、I'm not your enemy.OK?」
独学ながらも一応勉強している姫は、四季折の喋った短い英文はなんとか読み解くことが出来た。しかし、それに対して気の利いた言葉を返せるほどには、英語を操ることは出来なかったのだが。
それでも、会話は言葉だけで成立するものではない。
『そう、ですか。何にせよ、感謝いたしますわ。……しかし、春夏秋冬とリオはまだ、戦っているようですの。あなたは、それをお探し?』
「ん。ひととせを、探してる」
言葉は通じずとも、表情や所作から相手のことを察することは出来る。姫が既に矢を一本も持っていなかったことも功を奏したかもしれない。危機感も覚えず、不思議なことに、立場を異にする二人は行動を共にすることにした。よろよろとしている四季折を、エレベーターホールにあった椅子に座らせる姫。
「……あんたも、待ってらんなくなったのか?」
『?』
「いや、こっちの話なんだけどよ。……あたしはなんだかんだ言って、ひととせに早く会いたくてここに来ちまったからさ」
待ってるっつったのはあたしなのにな、と苦笑いしながら頭を掻く。言葉の意味は伝わらなかったが、四季折にも姫が照れていること、そしてそれは好ましい感情から出る表情だ、ということはわかった。四季折は表情を緩め、問いかける。
『春夏秋冬は、ひょっとしてあなたの大事な人?』
「?」
『回りくどかったかしらね。じゃあ――春夏秋冬は、あなたの、恋人?』
出来る限りゆっくりと発音し、相手に意味が伝わるようにする。すると姫はゆっくりと顔を赤くし、いやまさか、と首を横に振る。わかりやすいな、と四季折は感じた。くすりと笑みをこぼして、姫に言う。
『わたしは、リオの恋人なのですけれどね』
「そうなのか?」
首を傾げる所作に疑問を見て、ええ、と頷く四季折。まるでそれが誇りであるかのように、胸を張る。そして、奥の方。いまだ剣戟と槍撃の音が響く、ダンスホールの扉を見やる。
『そろそろ、戦いも終わると思ったのですわ。だから降りてきたんですの』
「戦いが……」
それを聞いた姫は踵を返し、急ぎダンスホールへ向かおうとする。しかし、その袖を四季折が掴んだため、すぐに足は止まった。
『危険ですわよ』
「でもひととせに伝えなきゃなんねーことがあんだよ」
『どんな理由かはわかりませんけど、それで命を懸ければ春夏秋冬が哀しむのではありませんこと? 待つしか、ありませんの』
その言葉には強い意志があった。いや、弱いことから来る、強い意志。
弱いから。リオとマリアに、戦いを任せなくてはならないから。そんな彼女に出来ることは、いつまでも何度でも待ち続けること。己のために戦ってくれている人たちを、せめて笑顔で迎えること。それを知るからこそ、四季折は姫を制止した。
「でもよ」
『彼を信じて待つこと、ですわ。そのためには、自分が傷ついてはいけませんの。よろしくて? わたしはリオを信じていますの。そこに一片の迷いもないのですわ』
戸惑うように視線を伏せようとした姫だが、四季折の眼に見据えられて、姫は踏み出しかけた足を、元の位置にそろそろと戻す。そして向き直って、真正面から。視線を合わせて言い放つ。
「……言っとくけどひととせは負けねぇよ」
『元よりそれしき、覚悟していますわ』
「ま、そんなら」
姫はふっと笑い。
歩き出す。
「あんたはそこで待ってるといい」
『正気ですの?』
「ん」
かつかつと、歩みは止めない。
「安全圏に居んのは好きじゃねーんだよ。それに、あたしもあいつも、死なない」
ただ一言言い残して、廊下を歩く。
+
くそ。
何が起きた。自動再生能力? それに、瞬間移動?
「理解出来ていないようだな」
リオの手の中に現れる神の槍、グングニル。俺は腕を振るい、床につき立っていたダインスレイヴの狩人の牙を発動させる。しかし、グングニルでその攻撃は易々と弾かれる。続けざまに連撃を繰り出すも、リオに届くことはない。
俺ほどでは無いにせよ、リオだって相当なダメージを負っているはずなのに。空を斬る牙の舞踏は、繰り手である俺の全力と同等の力を持つはず。しかも繰り手が振るっているわけではない以上、普通なら出来ない軌道での攻撃なども仕掛けられる。だのに、なぜ。
……目を凝らす。
すると、気づいた。
槍は、リオに振るわれるままに動いているだけではない。瞬時に、『何も無かった空間に現れることで』俺の攻撃を防いでいる……!
「……空間を司る、絶対の槍……」
「その通りだ」
つまらなそうに言って、今度は自身の腕で振るう剛槍。重々しい音と共に弾き飛ばされた剣は、俺の横に突き立った。
「けど、確かにさっき、俺は切り捨てたはずだ! 壊れた槍がなぜ直る?!」
「壊れていなかっただけだ」
槍が消える。速すぎて見切れないわけでなく、実際に消えた。脇腹からだくだくと流れる血を空に浮かべ、俺は後退。槍を避ける。予想通り、先ほど俺を貫いたのと同じように、突然槍が現れる。俺は狩人の牙により手元に剣を戻し、再びリオに向かい合う。脇腹からの出血は、少なくない。
「ぐ、ぐうう……」
連投、連射、顕現。空間に現れる際は出現後の一瞬なら剣戟も通じるらしく、弾くことが出来る。だが攻撃が終わった後でそんなことが出来ても仕方ない。そして、当然のように『絶対命中』の攻撃は軌道を逸らせない。より多彩になった攻撃に、俺は追い詰められる。裂傷がどんどん体に増えていき、血が失われていく。
「大したものだ。まだそれだけ動けるか」
と言っても、リオも肋骨を何本か折ったためだろう、投擲の速度は少し、遅くなっている。しかしその分空間出現能力がカバーしているので、さらに厄介なのは変わりないのだが。
さっきと同じように円を描いてリオの周囲を疾走。なんとしてでも付け入る隙を、と頭を働かすが、ロクな手が思いつかない。特攻するわけには、いかないのだ。勝ち目のある策を。そう思いつめれば、余計に行き詰る思考。
「射程内だ」
剣で動きを補助しなくては、とてもではないが避けきれない。そうある以上、もう『狩人の牙』を使うことも出来なかった。手元から剣を放すわけには、いかない。
逃げ続け、避け続け、息は続かなくなる。接近しても空間に突然出現するあの攻撃が相手では、勝ち目はない。そんな弱気なことを考えたためか、刃が左足のふくらはぎを斬った。たまらず転び、ゴロゴロと地面を転がる俺。
「さて」
床を這う俺に、穂先が向けられているのを感じる。
鋭い視線が俺を射抜く。このままやられ、四季折に血を吸われて、俺は死ぬのか。
――くそ。
我儘を、通すことすら――
「ひととせ!」
――扉が、開け放たれた。
そこには姫が。ボロボロの、姿で。
……ああ、ということは。宿屋のみんなは、襲撃を切り抜けたのか。
「良かったな。最後に知り合いに会えて」
風斬り、空間を飛び越える槍。
それを目にした途端、時間が凝縮されたように感じた。
時間――空間――。
――視界の端で姫が、泣き出しそうな顔を、した。
「っまだだッッ!!」
ガン、と床を蹴りつけ。血が失われたことで渇きはじめた体が軋むのを感じながら。
死んでる暇は無い。
生きる時間が惜しい。
気力で、踏み込む!
「まだ動くか」
静止していた俺を狙ったために目測を誤り、外した。その間に詰め寄り、その一瞬、もう一撃さえ凌げれば。
だから俺は。
顔を上げて、リオと目線を合わす。この戦いで初めて。そして、今日最後の魔眼を。
「『――識」
「『忘却せよ』」
魔眼同士のぶつかり合い。リオは同時に槍を放った。それを、身を低く屈めて、ほとんどヘッドスライディングしながらかわす。そして、逆手に構えたダインスレイヴを。踏み出していたリオの足に、突き立てた。
「今さらこれが、どうしたッ!」
それを頼りに俺は立ち上がり、そのままリオの前に間を詰める。
またも、超接近戦。投擲は使えず、槍も空間出現の他は使えない。そしてリオの足はダインスレイヴで縫いとめた。もうどちらも退くことは出来ない、倒れるまでの決戦。右手で、ジャケットの裏からナイフを抜いた。
振り上げ、斬りつける。槍が現れ防がれる。記憶。
返す刀で横薙ぎに。手首を止められる。もう片方の拳が俺を襲った。顔を逸らしてそれを避けつつ、手首を返して突きを狙う。槍が現れ防がれる。またも記憶。リオの顔にも、俺の顔にも、焦りが表れる。
記憶。記憶。記憶。記憶。覚えろ忘れるな。思い出せそして動け。
「くっ――」
片刃のナイフの峰でリオの脇腹を殴りつける。ごき、とさらに骨を砕いた。そのダメージで一瞬、殴りかかろうとした動きが止まる。防御に再び槍を使った。三合前の打ち合いで使った位置。左腕が使えない俺と、これでようやくいい勝負だろう。
「お前、まさか――」
「気づいたよ」
目の前に出現して袈裟切りを防ぐ槍。そのまま切り落とし、床でバウンド。一瞬で姿を消し、下から俺の喉元を狙って現れる。記憶。槍を薙ぎ払う、と見せかけリオの左肩を粉砕する。
記憶した位置には体を入れない。リオの周囲を移動しながら、斬りつけ続ける。その間触れられる時は左腕でダインスレイヴに触れ、素人剣術と達人剣術で緩急をつける。斬りつけるといっても峰であるため、殺す心配をする必要も少ない。
やがてリオの槍での防御、拳でのラッシュも速度ががくりと落ち込み始める。しかしこちらも出血が多い。ナイフの重さが腕に辛く、なってくる。時間切れが来るのはどちらが先か――その好機を、互いに窺う。天秤はどちらに傾いてもおかしくない。時間が長引けば長引くほど両者に危険は増える。
「く、お」
と。
ふらりと。
リオの体が崩れ落ちた。わずかな時間、わずかな瞬間。意識が少しだけ飛んだその勝機を、俺は見逃さない。切り上げようとしていたナイフを強く握り締める。倒れこんできたリオの体はこんなものが振るえる間合いではない。
最初に触れたのは肘。だからリオの胸に強く押し当てたその部分に全身のバネを使って、突き入れる。
重心を落とし、下腿にて踏み込みの力を増幅。反作用を後ろ脚の伸長、腰の回転でまとめあげ、肩から一直線に送り、密着した肘での零距離打撃――〝徹甲〟!!
「おおおおあああああアアぁぁッッ!!」
意識が戻ったと思しきリオはしかし、既に思考し、槍を出現させるよう念じる暇すらない。
肘が突き刺さり、背中まで衝撃が打ち抜いたことを感じる。
狼の牙は、いままさに神槍の使い手を、噛み砕いた。
「ご、あ、が……」
リオは少しも体を動かすことなく、苦悶の表情を浮かべるままに、仰向けに倒れる。俺はダインスレイヴを、リオの足先から引き抜いた。〝嚥下の血〟の能力により『血を吸い取り続けていた』刀身は、名残惜しそうに血の糸を引いて鞘に納められる。
「っても、俺も随分、血を流したか……」
ぐらりと体が崩れる。
駆け寄る姫に笑いかけつつ、俺は、意識を手放した。
次、フィナーレ最終回。