四頁目 笑顔と襲撃と逃走とまた笑顔。(魔法発動)
この宿に住むようになってまだ一週間と経っていない。
しかし、その間一人も客が来ないというのはどうなのだろうか。それに従業員もまだ全員集合していない。このだだっ広い宿の中で、四人という少人数しか人間がいないというのは寂しい気分だった。
「客、来ないな」
受付業務の練習をしていた俺は、ロビーを通りかかったぱとりしあに話しかけてみる。
「連休とかになれば、お客さんもきっと来るの。精霊さんたちも子供に急かされたりするだろうから」
きっと、なのか。最初から抱いていた恐怖、『客無しの宿』が実現しそうな。
というか子供に急かされて来るって。精霊……なんだよね、ぱとりしあが話してるのは。人間家庭のサラリーマンお父さんの話じゃないよね。
「だけど、見るからにお金持ってなさそうな人は入れちゃダメなの。たまにリストラされた精霊さんも来るみたい、働き口を探しにね」
「姫が言ってたんだけど、ここって神さまみたいな精霊も来るんだよな?」
まさか神さまクラスの『精霊』なんて大層な存在にも、リストラがあるとは思えない。しかし眼前の金髪少女は、にぱっと笑って俺の問いに答えた。
「神格の精霊さんだって、リストラはあるんだよ? どこも不況なの」
幼い口調でそう言われると、さすがに閉口せざるを得ない。単にぱとりしあの方がこちらの世界をよく知っているからなのだろうが、こうもはっきりと言われると自分の無知さ、そしてファンタジーと現実のギャップにちょっと苦しむ。日本の精霊事情など俺は知らん。ふん。
……そんなことを気に病んでも仕方ないか。知識は教えてもらっていけばいい、環境には徐々に慣れて行けばいい。
必要なのは前進を止めないことだ。
「よし、頑張っていこう」
「? なんだかよくわかんないけど、ダンナさんが元気だとボクも嬉しいの」
小首を傾げつつも笑顔を咲かせる。そんな様子のぱとりしあに元気づけられた俺は、まず自分に出来そうな仕事から手をつけてみることにした。従業員棟に戻るか。
「仕事ぉ? 仕事なら、ダンナはアレがあんだろ。わざわざあたしたちの仕事をしてもらわなくても、いーよ」
部屋の前を通りかかった姫を捕まえて仕事をもらおうとすると、アレ、と言って俺の机に置いてある大量の資料を指差した。たしかに、アレもいずれは覚えなくてはならない仕事なんだろうけど。
「今はまず、従業員みんなの生活とかに馴染んでいきたいんだよ。少しくらい手伝わせてくれても、いいだろう?」
頼み込んでみると、姫はぽりぽりと頬を掻いた。どうやら困り気味の様子。
「つってもなあ。あたしはもう、自分の今やるべき仕事は大体終わらせちまったんだよ。残ってる仕事はダンナには出来ない仕事だろーし、見てるだけとかになっちまう。ぱとりしあか葛葉に頼んでみな」
素直に従って、とりあえず俺は二つ隣の部屋にいるぱとりしあに声をかけた。俺が呼び声をあげた途端、姫はすたこらさっさと一階へと逃げ出す。未だに苦手意識は強いらしい。……ぱとりしあはいい子だと思うんだけどなあ。そんな、襲ったりするような子とはあまり思えない。
「ダンナさーん。なにか用なの?」
「うん、ぱとりしあは何か仕事が余ってないかと思って。手伝わせてくれないかな」
「じゃあボクと遊ぼう!」
人の話聞いてたのかな。
「いや遊ぶんじゃなくてね、仕事をしたいんだけど」
「もうボクお仕事ないの。だから、ダンナさんは従業員のボクを満足させる、っていうお仕事をしてほしいと思って」
残念、仕事はないらしい。他を当たろう。立ち上がって出入り口のふすまに手をかける。すると、不思議に足が重くなった。もちろん心霊現象でもなんでもなく、単にぱとりしあがしがみついているだけ。そんなに遊びたいのか。
「悪いけどまた今度、ね」
「昨日もまた遊ぶ、って言ったのにー。ダンナさん、ボクと遊ぶのイヤ?」
うっ、なんだろうコレは。ぱとりしあの目を直視出来ない。純粋すぎる。
子供に遊ぶのをせがまれる親の気持ちって、こういう感じではないだろうか。
「こら、ぱとりしあ。ダンナ様にあまり無理を言ってはいけませんよ」
「あ、母親が来た」
「……母親?」
しまった。思ってることをつい口走ってしまった。いや、だってタイミングがものすごく良かったから。まさかあそこでその台詞を、通りすぎざまに言うとは思わなかったから……聞こえてなさそうだ、うん。
「ダンナ様、わたしそんなに老けてるように見えましたでしょうか」
「そんなことない、葛葉は十分若いし、きれいだよ、本当だよ」
一応この中では年長者だからだろうか、ちょっと気にしてるらしい。二十歳で気にするのもどうかとは思うけど。
まあともかく、葛葉に言われては仕方ないと思ったのか、ぱとりしあは名残惜しそうに手を放し、部屋の中に戻っていった。そのまま廊下に立ち尽くす俺と葛葉。この状況では切り出しづらい。
「……用事がないのでしたら失礼いたします。夕食は六時半の予定ですのでそのように」
少し顔を背けながら葛葉は早口に俺にそう告げ、そのままきびきびと歩き去っていく。なんだか顔が赤かったが、そんなに怒らせてしまったんだろうか。悪いこと、したな。
+
朝、登校しているとふらふら歩く辻堂を発見した。別段大したことでもない。あいつの奇行はいつものこと、『スベッて当然ウケて偶然』という、お祭りの端っこで一人盆踊りをしているような男だ。放っておくのが得策だ。
「有和良君、おはよう」
「うん。おはよう」
前方にいる辻堂は無視する形で、後ろからやってきた要に応対する。俺にしか挨拶しなかったところを見ると、おそらくは要も辻堂を無視するつもりなのだろう。
「辻堂君、また、ふわふわしてる」
ふにゃりと苦笑いを浮かべながら、俺の横についてきた。とりあえず少し歩幅を狭めて要にあわせ、一人で前に進んでいってしまった辻堂は無視する。後ろから見られているとは露知らず、あの男はどんな奇行を見せてくれるのか。恐らくは要には俺のように邪悪な考えはないだろうが、横をついてきて一緒になって観察しているのだから同類だ。
ぼーっと歩く。青いゴミバケツにつまずく。周囲の女子に「何アレ」という冷たい目で見られる。それに対して「こりゃどうも失礼しました」と頭を下げる。逃げられる。それを目で追いながら「なぜだ!」と叫ぶ。周りの女子に訝しげな目で見られる。謝る。エンドレスループアンドループ。
「よう、辻堂」
「……なんだ有和良。私は今すごく不機嫌なんだがな」
知ってる、見てたから。
「辻堂、君。あんまり、女の子に、話しかけないほうが、いいかも」
「寂しい人生をさらにこれ以上ないくらいのレベルにしてくれるみたいだねえ、時計」
ジトっとした目で要を睨む。怯えた要を背に隠し、俺は笑いをこらえるのに必死だった。
「たまに早く出てきてると思ったら、結局こういうオチだな。辻堂、おまえは多分徒歩通学に向いてないよ」
「なんだそのまったく新しいタイプの人間性否定は?」
うんざりした表情で背中を丸め、とぼとぼと歩き出す。
その歩み、あと六歩でドブに入ることを気づいているのだろうか。
「どふっ」
「期待を裏切らない男だよ」
「期待、するのも、どうかな……」
さて、昼食時。まだ足が黒ずんでいる辻堂に背を向け、俺と要は弁当を広げていた。正確には俺はもう食べ終えて、横でもくもくと口を動かしている要を見ているだけなのだが。サンドイッチを両手でつかんで食べる様子は、小動物を連想させる。
「有和良、なぜこっちを向かないんだね」
「辻堂がイライラしてそうだからだよ」
「時計、なんで目を逸らすんだね」
「怖い」
心底怯えた様子で俺の影に隠れてしまう。一直線に並んで席についているので、そうするだけで辻堂からは見えなくなる。そして何の皮肉か冗談か、辻堂の席にだけ日が当たらなくなってきた。影に覆われた席。
「あんまり、私をいじめないでおくれ」
よよ、と泣き始める。とはいえ、普通に横の席にいて会話をしているだけ有難いと思ってほしい。よほど自分で自分の奇人変人ぶりが理解出来ていないと見える。
「辻堂君、あんまり、悲観的にならない方が、いいよ」
「誰がこんな状態にしてると思ってるんだい」
「おまえの普段の行動が原因だと思うよ、つまり元凶もおまえだ」
がーん、と自分でわざとらしく呟いて、机に「の」の字を書き始める。
遠くから見ても近くから見ても、やはり奇人変人は奇人変人でしかない。
「世の中を知るのは辛い、世知辛いもんだ。いつから日本はこんな寂しい精神構造の人間ばかりになってしまったのだろうね」
「おまえはいつの時代の人間なんだよ。そして寂しい精神構造してるのはおまえの方だ、俺たちじゃない」
「奇人変人は自分じゃ奇人変人だと気づかないものらしいのでな、有和良、時計。気づかないうちにおまえらも常人の枠を逸脱してしまっているのかもしれんだろうに」
実例がもっともらしいことを言ってるよ。
「ええ? わたし、変なの、かな」
要も信じるなよ。
「も、いい。疲れたな。一回休みにしよう。辻堂、おまえは出来れば永久に一回休みしててくれないか」
これ以上バカな会話をする気は起きん。いつも通り、パックを取り出して水分を取り込む。食後で少しばかり乾いた喉に、流し込まれた水分が染み込んでいくのがわかるようだ。
「学校生活というのはな、有和良。人と人との係わり合いを学ぶ場だ。ムダに思えるこの時間こそが青春。振り返って懐かしむのはこういう場面なのだ。案外、こういう時に話したことと言うのは、忘れていないものだろ?」
「あ、それは、そうだね。小さいこと、でも、友達と話したことは、たくさん覚えられる」
「いや、要。納得するなって。辻堂はもっともらしいこと言ってるようだけど、思いついたことを適当に口に出してるだけなんだから。本当は頭すっからかんだよ? 昨日テレビで見た知識しか入ってないよ?」
そうなの、と首をかしげる要。なんでわかった、と驚愕の表情をしてみせる辻堂。それが事実だったことにこっちも驚愕だよ。俺も適当に言ってみただけなのに……それじゃ、辻堂と俺もそうは変わらないか。複雑な気持ちだ。
「冗談だぞ。適当に言ったら当たっただけだ」
「なんだそうか。ところで昨日のテレビも見てないのかね? 7チャンネルでやってた『驚愕の共学!』って番組」
「なんだそのタイトル。どの年齢層にも受けそうにないんだけど。というか、うちにはもうテレビないんだよ」
こう言うと、辻堂も要も不思議そうな顔になった。
そうか。考えてみれば父さんが居た頃はテレビもあった。しかし今の宿屋に切り替わってからは、テレビも何もなくなってしまったんだっけ。かなり忙しいから、今までの生活にあったものの存在もすっかり忘れてた。
「建て替え、したとき、捨てたの?」
「いやあ。もう使わないみたい、だな」
「誰も見ないのか。そう言えば、親父さんも失踪してしまったんだったか。なら、おまえさん自身は元からあまり見なかったし。使わなくなっても仕方がない……」
そこで要が俺の後ろからバッ、と立ち上がる。そのままつかつかと辻堂に歩み寄り、耳元に口を寄せて、
「辻堂くんっ」
と叫んだ。元が引っ込み思案なので、そう大きな声ではなかったけど。クラスの人々をびっくりさせるには十分な声量だった。耳元で大声を出された辻堂はというと、目をぱちくりさせて突然襲い掛かってきたショックから脱しようとしていた。
「辻堂君、いくら、なんでも、それは、無神経!」
「〜〜っつつ。――ああ、すまん、有和良。たしかに、無神経な発言だった」
気炎をあげる要。妙なくらいに怒っている。
俺としては、怒ってもらう理由など、ないのだが。
「まあ、俺としてはあんな親父、いなくなってもいいんだけどな……あいつのせいでどれだけ苦労したか。今回も突然に出て行って、俺をなんだと思ってやがるんだか。せめて通帳くらいは置いてけよあの野郎……自腹切って生活するできるほど貯金ないのに」
「おい、すまなかった。トラウマえぐったな。頼む、止まってくれ。なんか時計が泣きそうだ」
う。
久々に思い出したせいか、なんだか怒りが噴出してた。最悪だ、いつもと違って辻堂の陰に要が隠れてる。それだけ俺の雰囲気が悪かったってことか。うう、目じりに涙まで溜まってる。相当怖がらせたみたいだ。
「――ごめん、要。ちょっと、取り乱してた」
謝って頭を下げると、間が開く。死刑が確定した罪人の心境でそのまま待つ。
すると、後頭部にぽふ、と柔らかい掌が置かれた。
「おとうさんの悪口、言っちゃ、ダメ。どれだけ、変な人でも」
「変な人とは言ってないんだけどな」
「あ……ごめんなさい」
「これから言うつもりだったけど」
そう言葉を繋げると、要は呆気にとられた表情で俺を見つめ、やがてくすくすと笑い始めた。そう、それでいい。笑っててもらわないとこちらは気が気じゃない。笑顔は全ての源だ。活力の源泉。
+
「今日の仕事は風呂掃除だ、ダンナ」
皮肉交じりの笑い顔で、姫は俺の肩を叩いた。笑顔はいいものだと思っていたけど、苦笑とか冷笑とか色々な意味の笑顔があることを、すっかり忘れてた。緋色の着物の裾を紐で縛り、袖もたくし上げてたすきをかけてある。気合十分な格好だ。
「前にダンナに風呂覗かれて、掃除をするのをすっかり忘れちまってたから」
「いや待てまて。俺はのぞいてないよ。姫が男湯に来たんだよ。だからそんな冷たいジト目で俺を見ないで」
言い訳がましい、と口の中で嘲笑われた。ひどい。
「……大体、姫は見られて困るようなところなさそうなのに。むしろのぞいた男の方が困るよ」
デッキブラシの毛、その一本一本が足の甲に突き刺さる。まるで剣山のように感じられた。というか、爪の、生え際に、毛が、突き、刺さって……。
「いだだだだだ」
「じゃあ掃除始めるぞ。ただ、葛葉の奴が買い物に行ったきり戻ってこない。仕方ねーから――三人で、やるぞ」
「ボクも頑張るー!」
「まっ、ちょと、まっ……」
いきなり出鼻をくじくことに、足に突き刺さったデッキブラシのダメージが抜けない。はっきり言って足手まといだ。けんけんしながら、俺は少しずつ石の床にブラシをかけていった。
しかし俺に足のダメージがあることを差し置いても、二人の仕事ぶりはすごい。手際よく、無駄な時間をかけない。湯の花がついて固まっているところも、慣れた手つきですいすい削ぎ取る。岩風呂の砕けた破片なども、丁寧に掃き集めて回収する。俺はひたすらにデッキブラシで磨くだけ。微妙な立ち位置だ。
「でも、なんか姫少しだけぎこちないな」
「あ゛?」
聞こえてた。詰め寄ってくる。それだけで、足の甲がビリビリと痛みを感知する。条件反射だ。姫の接近がスイッチになってしまっている。パブロフ。
「いや、その、あれ」
「はっきりしろよ」
これは早めに言わないと、また足の甲を攻撃される。
「なんか仕事がぎこちないと思った。あ、ひょっとして、ぱとりしあと一緒だからか?」
俺が早口に問うと、姫は少しだけ驚いた顔をする。なぜなのかその理由はわからなかったが、とりあえずすぐに表情は戻り、後ろを振り返る。視線の先には、やはりぱとりしあ。正解だったようだ。
「……ふん。すぐには慣れねーよ。普通に接していくなんて状態、今までは考えることもなかったんだかんな」
「そうか。でも、今は少しは前向きに考えてるんだな」
進歩してるんだな、と俺が視線を落とす。ちょうどこちらを見上げていた姫と視線が合い、ふっと微笑う。
「ただ、ここがあいつに襲われた場所でなければ、な。も少し自然に接することも出来るんだろーけどよ」
え。
それって、どういう。
「……ダンナ、変な妄想してんじゃねーだろうな? 多分考えてるとおりだろーけど、劣情を持たれることがまずイヤなんだけど」
「れ、劣情って! そんなこと考えてない!」
「どーだか」
心底愉快そうに笑って、姫は湯船の方に戻っていった。残された俺の方はなんだかからかわれたことが口惜しくて、デッキブラシで磨くのにかける力が、さらに強くなった。
「あや?」
瞬間。急に戻ってきた姫に気づかなかったぱとりしあが。水の迸るホースの先を、姫に向けてしまった。
「わ」
とっさの判断か、後ろに飛びのいた姫。しかし、その先にあったのは。
派手に飛び散る水しぶき。池ポチャ。
「あ、う、水浸しじゃねーか」
「おい姫、大丈夫か」
手を貸すのが必要なほど深くはないだろうが、とりあえず駆け寄った。ぱとりしあもホースを放り投げて、ごめんねーなどと謝りながら近づいてくる。
「そりゃあ身体は大丈夫だけどよ、着物が濡れた」
胸元を開いて、着物の中まで浸透してしまっていることを確認する姫。礼儀として目を逸らしつつ、まだ立ち上がっていなかったので手を貸す。
「ありがと」
「あ、うん。早く行って着替えてきた方がいい」
ざば、と水から上がる音、軽く受け止めるような形で姫を引き上げる。
「……はあ、はあ」
途端に、姫が手を掴む力を強める。痛い。なんで。
「おい。さっきあんなこと言ったせいか? 水に濡れてるからか? いくらなんでも、息遣いに出るのはやりすぎだろ」
「はい? 俺じゃないよ」
「……はあはあはあ」
後ろから荒い息遣いが聞こえる。と、姫を見やると唇の端がひくついていた。
まさか。
「……こっ、こ、の、ばか! まさか、おい、冗談、よせ!」
振り向くと、荒い息遣いでとろけそうな笑みを浮かべるぱとりしあ。赤く染めた頬、胸元に持ってきた両手。その愛らしい様子に、逆に不気味さを感じるのは決して姫の話を聞いて先入観があるからじゃないと思う。素で怖ぇ。それと対比してみると、かなり青ざめていることがよくわかる姫。あ、今にも倒れそ。
「姫ちゃん。かわいいのー」
「うわっ、こわっ」
「だ、ダンナ、ちょっと、助けて!」
あーそう言えば。昨日俺も、ぱとりしあにやたらスキンシップを求められて焦った。のらりくらりかわしてたし多少力を出せば俺なら振りきれるけど――姫は、小柄だし。捕まったら大変マズいことになるのは目に見えている。本人もトラウマのスイッチが入ったのか、かなりパニック状態だ。
「えへー……」
なるほど、時折こうしてスイッチが入るわけか。これは確かに、姫が仲良く出来ないわけだ。このままじゃ百合の世界に飛んで行きそうだ。先着一名様を伴って。
「達観した様子を醸し出してないでなんとかしてよダンナ!」
「ん、じゃあ逃げるか」
タッと駆け出し、姫の手を引いて走る俺。後ろから迫り来る追っ手。しかし姫は腰が引けているためか足が遅く、いつ追いつかれるかわからない。俺が足止めに回るという手もあるが、しくじって突破されたら無防備で鈍足な姫が食べられる。
このままだと、非常にマズい。もし捕まったら、俺は責任問題であとから姫にボコボコにされかねない。
「かわゆいのー……。襲いたくなっちゃう、の」
「もう行動に移してるよ」
「ひぐっ、うっ、ぐすっ」
そんな泣くほどトラウマなのか。ここまでくると、確かに可哀想だ。ふむ。
……今日は調子はいいし。
一回くらい、使ってもいいか。
「姫、次の曲がり角曲がったら全力で走って。階段下りたら倉庫あったよな、そこに入って鍵をかけて」
「ひうっ、あいつ、鍵開けが、特技なんだぞ!」
「ええ、なにそれ……まあたぶん大丈夫だから。ちょっと待ってて」
まだ心配そうな顔をする姫だったが、手で追い払うジェスチャーをすると一応、うなずいた。背後から来るのは金髪の危険人物。俺はフェミニストだからひょっとすると抜けられるかもしれない、足の速い少女。
でも関係ない。
振り返って、目を合わせる。満面の笑みで追いかけてくる少女に、照準を合わせた。
「ごめんよ。――『識れ』」
ぐわんと鈍い、金属の板を曲げたような音。それを脳内に感じながら、ぱとりしあの様子を見る。予想通り、盛大にすっ転んで、自分の履いているスリッパを両手で掴んで外そうとしている。ちょっと可哀想とは思ったが姫の方が数倍可哀想な被害者なので、俺はそのままぱとりしあを抱え上げて風呂場に戻し、外から鍵をかけて出られないようにしてから姫のところに行った。
案の定怯えて隠れていた姫はノックするとかなりビクついたが、訪問者が俺だとわかると安堵した様子で崩れ落ちた。
「……な。ダンナ、あいつ、怖いだろ」
「たしかに」
ははは、と乾いた笑い声をあげて、俺は今度は姫に肩を貸した。予想してなかったのか、姫は慌てふためいて暴れた。
「なっ、ちょっ、いーよダンナ、もうあいついないんだろ」
「腰抜けてるくせに」
ちょっと意地悪く言ってやったら、姫はうなだれ、なされるがままに従う。
ただ、こちらとしても肩を貸すには身長差があるので辛いと言えば辛かったりした。従業員棟まで戻る道のり、やっと落ち着いたらしい姫は、ふと気になったのか俺の顔を見上げる。
「ダンナ」
「なに?」
「あの状態のぱとりしあを、どうやって押さえ込んだんだ? 足は速いし勘もいいし、そう簡単には押さえられなかったろ。一体、どうやって――?」
「ああ、あれ。魔法」
間髪入れずに答えてやると、呆けた顔で一瞬ぽかんとして、なんだそりゃ、と姫は笑い出した。
……まあ、もうしばらくは隠していてもいいだろ。
ようやく異能力が出せました。
ではまた次回