三十五頁目 戦支度と約束の。(準備万端)
決戦を明日に控えた朝。俺は何か悪意のある気配を感じて、早朝に目が覚めた。そして勘に従うままに部屋を出て、正面の窓から中庭に飛び降りる。探すまでもなく、いや見つけてもらうのが目的なのだろうが、気配は明確にその位置を示していた。
案の定、池を挟んだ向かい側に見るからに怪しいのっぺりしたマスクをつけた、全身黒一色の人物を見つける。
『……誰だ?』
俺の問いかけにくつくつと忍び笑いを漏らしながら、その黒一色の人物は腕を組んだ。
『マリアという女から金で雇われてねぇ。なに、今から前哨戦をやらかそうというわけでないさぁ』
高い声。それでも話し方と、一オクターブ低いその声は相手が男だと俺に悟らせる。声と未発達な体型から察するに、まだ若いのだろう。しかしその威圧感は、確かにこちら側の、プロの気迫。マスクに開けられた丸いのぞき穴から、値踏みするような視線で見られているのもわかった。
『にしても、話に聞いた容姿から察するにぃ、あんたが春夏秋冬? ふぅん、修羅場をくぐってはいそうだけど、一般人に近いなぁ。こんなのに、あのシルフを引き連れた人が決闘を申し込むのかぁ……わっかんないねぇ』
『まあ確かに、今ここで君と戦っても、卑怯な手ナシなら勝てないから』
『決闘で卑怯な手を使う気かぁ? なんでもいいけどぉ……基本、仕事外のことは依頼主に深入りしないからぁ』
『賢明な判断だよ』
でぇ、本題だったぁ。などと言いつつ頭を掻き、黒一色のその男(多分、年下)は俺に詰め寄る。何か仕掛ける気はなさそうだったので、こちらも特に構えたりはしない。男はぽいっと俺に白い封筒を渡す。
蝋で閉じられたその手紙には、『見張りをつけた。逃げることは赦されない』と簡潔な文章が記載されていた。……なるほど。気配が一つだけでなく、いくつもこの宿屋の周囲に配備されているわけだ。
『ま、そういうことで……逃げられたらぁ、ぼくらが叱られるんでぇ』
『逃げられないだろう、これだけ居れば』
『まあねぇ』
その言葉だけは少し誇らしげに、男は言った。マスクのせいで表情は読めないが、笑みをわずかでも浮かべているような気がした。俺は受け取った手紙を何度か見直して、特に暗号めいたことや隠してある何かが無いことを確認してから、それを封筒の中にしまう。そして、わざわざ配達してくれた彼に礼を言い、背を向ける。彼も同時に背を向け、塀をひょいっと飛び越えようとして、塀の上で俺に振り向いた。
『……じゃ、確かに渡したからぁ……これはぼく個人の意見だけどぉ。明日、あんた確実に死ぬよぉ。相手はなんてっても「空」そのものだからねぇ……今のうちに、大事な人にゃお別れしといた方がいいんじゃないかなぁ』
表情は見えないが、声音に何か、恐れが混じる。マリアの力を見ての、これは彼の感想なのだろう。
『ありがとう。親切な傭兵だな』
『親切設計なんでーぇ。……でもまぁ、表情見てるとぉ、覚悟は出来てそうだねぇ』
どの種類の覚悟かはぁ、わかんないけどぉ、と呟きながら一礼し、男は塀の向こうに飛び降りる。
朝もやの残る中庭に残された俺は、くしゃっと手紙を握り締める。
「……覚悟、ね。殺さず死なず、ってこれただのわがままでしかないような気もするけど」
わがままを通すのが覚悟、か。
一人納得して、俺は縁側から部屋に戻った。
+
みんなも殺気には気づいていたのか、俺が戻ってくると同時に詰め寄ってくる。特に戦闘になったりしてないことは気づいてはいただろうが、それでもある程度心配された。俺はとりあえず『今は』危害を加えられることは無いと伝え、朝食をとることにする。みんな怪訝そうな顔をしていたが、敢えて何も言う気はないらしい。
だが朝食の間川澄さんと白藤はずっと俺を見ていて、食後になると部屋に呼ばれた。煙草臭い、ごちゃごちゃと雑多に物が溢れた部屋。文机とその周りに空いたスペースに座布団を敷き、煙草に火を点しながら川澄さんは俺に話しかけた。
「で、どうなのだ。あの監視役、主が攻撃に移れば動く、というわけではなさそうだが。……逃さぬための監視、ではないのか」
「……さすがにわかるか。そうだよ、あれは俺を逃がさず、確実に捕まえて四季折に与えるための、障害だ」
「兵糧攻めにあっとる気分で、今の状況はあまり好かんのぅ」
後ろから白藤も呟き、肩をすくめる。
「迂闊に相手の領地に近づきすぎたということか。これでは、退くも往くも儘成らん」
「それで別に構わないよ。少なくとも、往くことに関しちゃ、障害にはならないだろうから」
「行く気なのか、主人」
しっかりと頷いて、俺は背後の白藤を見上げた。その目に映る色は、何か憂いや、悲しみというだけではなくて。どこか、もっと違う立場の人間を見るような色が窺えた。だが俺は追及することも無く、もう一度川澄さんに向き直る。
「俺は戦いに行くよ。でも、死ぬ気はないし、殺す気も無い。……この考えを通すだけなら逃げるんでも別にいいだろうけれど、それじゃダメだ。きっとあいつらは納得しないし、俺も納得出来ない。だから、戦って我儘を通す。『生きたい』と俺が願うなら、逃避じゃダメなんだ。勝ち取らなくちゃ、責任と向き合わなきゃ、ダメだ」
真っ向から川澄さんを見据える。川澄さんも、白藤がさっき瞳に浮かべた気色を見せ、まだ半分ほど残る煙草を灰皿に押し付けて火を消した。そしてその先を俺に向け、呟く。苦笑しながら。
「あなたが決めたのならば、何も言うまい。しかし、心配くらいはさせてくれ。斎様は、心配する暇すらなく死んでしまった。もう私は、あのような後悔はしたくないのでな」
「心配してくれるのはいいけど、決闘だから加勢はしないでくれよ」
「努力はしよう」
「大丈夫、勝つから」
笑ってみせると、堅い顔のままにわずか、唇を歪めた。心配、させてしまうだろうけれど。それも含めて、全部が俺の戦う理由だから。そう思いここを後にしようと立ち上がる。すると、横を通り過ぎようとした瞬間に白藤が盛大に溜め息をついた。俺の目を、見ないようにしながら。
「……死ぬでないぞ」
「もちろん」
「――そっか。ダンナさん、戦うんだね」
隣の部屋に移動して、ぱとりしあと、部屋に居た柊に語る。俺が、決めたことを。やりぬくことを。
「明日、マリアたちの居る城に向かうよ。敵に回して戦うには、ちょっと強すぎる相手だけど。俺は勝つ」
「行くな。……と、止めても。行ってしまうようなのですな」
「戦いたいと、俺がそう思ったんだ。この気持ちはどうしたって変わらない。だから、絶対に生きて、勝って戻ることだけは約束する。他に、言い残して良さそうなものがないからさ」
「その言葉だけで十分なのです」
ふっと、力の抜けた笑みを浮かべて俺に言う柊。気のせいか、その表情には、どこか毒気が抜けた様子がうかがえた。あの戦いから戻ってから、ずっと柊の表情を塞いでいた翳りが、消えていた。
じっと顔を見ていたので何か感づいたのか、柊はゆっくりと頷いて、俺に告げる。
「……我は復讐をしようと、ずっと考えていたのです。あの時の術士、李小龍に」
小龍。柊の故郷である暗狩一族の住まう里を、九尾を従えて滅ぼした大陸の風水術士。辛くも俺たちはあの九尾を倒すことに相成ったが、結局術士である小龍は取り逃がすこととなった。柊に、殺人の重荷を背負わせたくなかったからだ。
恐らくは、俺と柊は似ている。必要性に迫られて、人を殺さねばならなかったことが。けれど、最終的に選んだのは自分だとしても、自分から進んで殺したことは一度も無かった。……甘えたことを言わせてもらえるなら、だが。それ故に、人間性を捨てておらず、捨てたくなかった。
今、柊の目を見る。
淀んだ、虚ろで黒い感情を含んだ視線は、そこにはあまり無い。薄くなっていた。
「主を見ていたら、考えが少し変わったのです」
「どんな風に」
澄んだ目でこちらを見る柊は、慎重に言葉を選んでいるようだった。横に居るぱとりしあのことも視界に入れて、あの時、九尾との戦いの時を考えているように見える。あの時の柊は周囲を視界に入れず、ただ復讐のために、己一人で復讐を遂行するためだけに向かっていこうとしていた。そのために、ぱとりしあを邪魔と見て刃を向けていたこともあったのだったか。
「我はあの男の影をこれからも追おうと、そう考えていたのですな。一族を、家族を殺され。これから先一生、あの男の影に悩まされると。倒した先のことも考えず、倒すことがどういうことかも考えず。――ただ、己に意味を持たせて、何も出来なかった歯がゆさをぶつけるためだけに、なのです」
悩みながら、自分で自分の言葉を手さぐりで、見つけ出していく。俺たちは黙って、耳を澄ました。
「しかし――それを、主はしないのですな。先代主人を、父を殺されたというのに。それどころか、自分の命すら勘定に入れず道を、選んだのです。だから、何と言うか……。それに、この場所で、我は今それなりに、満足なのですし。あの男に対して様々に感情は入り混じり、今でも殺意も憎しみも消えないのですが……なんでしょうな、とにかく、我は……今迷っているのです」
「――いいんじゃないかそれでも。今は、迷ってるくらいでも、いいと思う。変わり始めた、って思えるなら、それで」
結局、それを迷い始めたと思った理由を、柊は最後まで上手く口には出せなかった。それは難しいことであるからというより、様々な感情があってどれが一番なのかわからないからだろう。そして、復讐は甘い蜜だ。そう簡単に止めようとは思えない感情。俺だって現に今、色々な感情がせめぎ合っている。その中に復讐心が無いとは言えない。
けれどそれでも。
「――我でも、道を選べるのでしょうか?」
誰だって、道を選べる。自分の行きたい、生きたい道を。
「おまえだって選べるよ。したいことを出来る。何が正しいかなんてやるまでは決まってないけど、選ぶ前に考えることも出来るしさ。本当は、おまえは、ずっと前からそのことがわかってたんだと思うよ」
「……だといいのですが」
俺と柊は顔を見合わせて、微笑む。しばらくぶりの、笑みだった。
すると、後ろからぱとりしあが飛びかかってきた。
「ダンナさんっ! 柊君!」
「うわっ」
「な、なんなのですか」
「これからも一緒だよっ!」
俺たち二人をぎゅーっと抱き寄せ、なにやら嬉しそうに笑う。為されるがまま、俺たちは顔を見合わせていた。
厨房でたんたんと規則的な音を響かせて昼食の下ごしらえをしていた葛葉は、俺が入り口に立ったことに気づいたのか包丁を置いた。
そんな、いつも通りの慣れた風景も、なんだか今日は不思議と違って見えた。
明日からも、同じように毎日を過ごすつもりなのに。
「行くのですか」
「生きるために、な」
後ろを向いたままの葛葉は、一瞬肩を上下させた。溜め息でもついていたのかもしれない。
「……どのような選択をしても、わたしにそれを止める権利はないんですけどね」
「止めたかったのか?」
「いえ、全然」
俺は苦笑した。葛葉は表情を変えた気配は無い。
「でも昨日とは、違う。俺は決めたよ――殺したくない、だから俺は殺さない。でも生きたい、だから俺は生きる。どこまでも、このままの命が続くまで生きようと思ってる。勝って俺は我儘を通して、生きて戻る。だから、それまで。待ってて、ほしいんだ」
「勝って、我儘を……ですか。勝手なことですね」
「それを通したいんだよ。俺にとってもみんなは、大事だ。家族だと思ってる。そのみんなと生きるために、俺は」
「わかりましたよ」
言葉を断ち切って、葛葉は肩越しにこちらを振り向いた。
なんとも言えなさそうな顔をしていた。
「ひととせさん」
「ん?」
「戦うの、怖いですか?」
「……怖いな」
「なら生きて帰ってこれますよ。師匠がわたしに最初に教えたことです。『生きて帰るのがまず肝要、相撃ち覚悟で倒すのは流儀でない。その生き方は芯に一つ、真っ直ぐに打ち立てた生きて戻るということのみにあり』と。生きるという目的のためのみに、真っ直ぐ進めということだそうです。まあ、無尽流は香車のような猪突猛進ぶりも有名ですけど」
「そっか」
「そうです。もっと早くに、この教えを伝えておけばよかったですよ」
こう言って、今日はじめて葛葉は笑った。苦笑いだった。さらに続ける。
「死ぬなんて赦しませんよ。あなたは、わたしにとって一番、大事な人なんですから」
「大丈夫だ」
笑って返す。すると葛葉は微妙な表情をしたが、なぜか溜め息をついた。そう長くも無い、一息の溜め息でしかなかったが。なぜか、色々と複雑な溜め息のような、そんな気がした。だが表情に何か大きな変化があるわけでもなく、その感情は読めない。
そして顔を上げて、葛葉は言った。
「……わたしは、あなたに今まで仕えてきました。宿屋の従業員として、先代から『主人』を引き継がれたあなたを。けれど今、もう一度。先代からの後継者ということや、肩書きを全て考えから捨て去って、素のままのあなたに、わたしは仕えたいと思っています」
つかつかと歩み寄る。淀みない歩調には、先ほどまでの複雑な何かは見えない。
俺の前までやってくると、葛葉は突然、跪いた。そして顔を伏せて、呟く。
「不肖、神代葛葉。今一度、あなたにお仕えしたく思います。わたしにはこの一身の他捧げられるものは何もありませんが、それでよろしければ、あなたの下に置いていただきたく存じます」
唐突な出来事。俺は慌てそうになったが、葛葉の真剣な様子には答えなければならない、と。そう思った。
跪いた葛葉の前に、俺も膝を折る。そして、咳払い一つしてから、声をかける。
「……わかった。これからも、よろしく」
「はい」
了承の言葉一つ。葛葉は俺が立ち上がるのを待ってから、横に並ぶ。
「基本的に、何か変わるわけじゃないだろ? 『宿屋主人』から『俺個人』に仕えるようになったって」
「そうですね。でもいいんです」
わたしには、それで――と、言い残して葛葉は厨房を出て行く。後ろ手を組んで、すたすたと歩き去っていく。
結局俺にはよく、意味がわからなかった。
+
『む……』
ごほっ、と咳き込んだリオは、舌打ちしながらコートの内側に手を伸ばし酒でも入れるようなボトルを取り出した。そして中身を一気に飲み下し、発作を押さえ込む。
常人から外れた身体能力を得ようとした代償に、彼の体は常に副作用に蝕まれていた。そしてその副作用を抑えるために強い薬を使い、強い薬にはまた、必然的にひどい副作用があるわけで。堂々巡りの地獄に堕ちながらも、それでもリオは力に固執していた。
冷え込むツエペシュ城の内部では、コートを手放すことは出来ない。リオはボトルをしまいこむと、ロングコートの襟を立ててかつかつと音を鳴らしながら長い廊下を再び歩き始めた。城の最奥部に位置する部屋を目指して。
冷えた金属製の取っ手を押し込み、大きな扉を開ける。そこには広いダンスホールが、ほこりっぽい空気と共に佇んでいた。もう随分と長い間使用されていないそのホールは広さの分だけ寂寥感が満ち満ちており、歩くと響くその足音だけで天井からぱらぱらとほこりが落ちてきそうな気がした。
『まあ、ここならば暴れても問題は無いだろう』
リオは呟き、ステージのようになっている一段フロアから高い位置に上がる。そしてまたもコートの内に手を入れ、今度は白い槍を取り出す。神器、グングニル。必中の一撃を誇る武器。
空を切り投じられたそれは、手を離れた次の瞬間には壁にその刃先をめり込ませていた。堅い石材を攻撃したとは思えない、むしろスカッと刃が刺し入ったような、小気味のいい音が響く。木材に鉈を入れたような音、とでも形容すれば丁度いいだろうか。
と、次の瞬間。
刺さっていた槍はリオの手元に戻っていた。
『絶対命中。そして、空間回帰。命中したあとは手元に戻る』
スカッ、とまたも投じられる。矢のように、弾丸のように。音と、刹那に輝く軌跡だけを残して槍は虚空を舞う。何度も何度も、同じ場所に刺さる。一度たりとも、一ミリたりともずらさない。
グングニルという神器について残る伝承によれば、その槍が持つ能力は二つ。一つに、狙った場所を絶対に外さず。二つに、目標を撃ち抜いたあとは持ち主の手元へと自動的に戻る。今のリオは、その二つの能力をドーピングで得た超人的な身体能力で駆使して攻撃を行う。
連撃は連なりを越えて同時となり、幾数本もの槍が壁を穿っているようにさえ感じられる。それだけの速さを持ちながらにして、命中した際に一欠けら石材を砕き崩すことも無い。精緻を極めつつ速射を収め威力を落とさない。理想的な、理想的すぎる攻撃。
やがてリオは投槍の練習をやめ、ステージから降りた。懐に槍をしまうと同時、ボトルを取り出し。今度は、中に入っていた血を飲み下す。鉄臭い口腔の嗅覚を拭い去るように、手の甲で口許を拭い、ホールを出た。
『……あまり練習というのは人に見られたいものじゃないんだが』
『たまたま近くを通ったら槍が風切る音が聞こえてきたのよ。仕方ないじゃない』
ホールの扉に背をもたせかけて、マリアが立っていた。練習を見られたことにリオは不服そうな顔をしたが、過ぎたことをそれ以上口に出す気もないのかスタスタと先を歩く。マリアはその後ろからついていきながら、リオの顔を見やる。汗の浮かぶ顔。
『大丈夫なの? 副作用の方は』
『見てのとおりだ』
『今もその真っ最中ということね』
何も言わず顔を背けるリオ。玉のような汗が浮かぶ表情は一見、ただ運動したためと見えるが、その実薬の副作用で発汗しているだけなのだ。強すぎる薬は、体を壊す毒になる。転じて、毒も使いようでは薬になる。毒にも薬にもならない、という言葉がどうやっても何の役にも立たないという意味になるのは、こういうところからだ。
『薬、切れたりしてないの?』
『今のところはな』
『そう。……あんたは気にしてるみたいだけど、薬の費用とかは気にしなくていいのよ。安くないけど、リオのため、というか四季折のためならわたしは金くらい惜しまないわ』
『だがその金、本来は貴女だけのものでもないだろう……実家の金だ』
『一応後継者なんだからそんなのは関係ないのよ。一族の財産は、いずれ全てわたしのものなんだから。今さら男子を親が生むわけないし。生んだところで、既にわたしは――呪いを回避しているから、共食いをさせるわけにもいかない。今生まれた男子がその年齢で一族の実務なんて出来るわけもないでしょうし、実権はどうあってもわたしが握るに決まってるわ』
基本的に、マリアの生家も貴族である以上正統後継者は男子である。しかし、マリアが長女として生まれ、二年経ってから妹が生まれ。その後、さらに下に男子が授かることは無かった。そのため二十歳を過ぎマリアが成人したあたりで、とりあえず一族はマリアに後継者の座を譲り渡したのだ。
マリアに、妹を殺し、その血を喰らうことを課して。
『妹の分も、わたしは背負ってるから。あんたと同じにね』
『……そうだな』
罪深い血族だ、とリオは口には出さず思った。
『なんにせよいつもすまないな。あれだけ高額な薬を恒常的に買わせて』
懐のボトルを取り出しつつ、リオは言う。彼が四季折を守るため、先のことを考えず服用を続けている魔薬、秘薬の類。それは力を手に入れる方法としては最短で、寿命が磨り減ることを考慮に入れなければもっとも効率の良い手段なのだが……材料費、人件費、それら手に入るまでにかかる過程から、値段はお高いものとなっている。一般人ではとても、恒常的に手に入れることが出来ない程度には。
『ああ、でも最近は値段は少しはリーズナブルになったのよ? 「黄金の夜明け団」も首領が堕ちたあと混乱していたから、それを収めるのに一役買って恩を売っておいたから。普通の流通価格の半額くらいにはなってるわ』
『それでも一ヶ月分の薬代が家一軒にはなると思うが……』
『細かいこと気にしないの』
長い金色の髪をがしがしと掻きながら、マリアはリオに言い聞かせる。
『簡単に言えば、わたしは四季折のためにあんたを買ってるだけなんだから。もちろん、あんた自身をわたしが見た上で、気に入っているから、だけどね。くだらない男だったら大事な四季折に近づけさせたりしないわよ。要するに、あんたにはそれだけ価値があるのよ。わかったかしら?』
『……やれやれ、オレも高く買われたものだな』
『比率で言えば傭兵としての役割が七、四季折の恋人としてが三、ってところかしらね』
『前言撤回だ。やはり、あなたの評価とオレの自己評価は同じくらいのようだ』
エレベーターで上がって行き、リオは下の階層より少し天井が低く、幅が狭くなった廊下を歩く。廊下の中ほどで窓の外を見ると、小雨が降りてきていた。冷え込んできそうだ、と思い、暖炉にくべるための薪が残っていたか考えつつ小さなドアを開け、四季折の部屋に入る。
天蓋つきのベッドに横たわる四季折は、調子が良さそうだった。白い磁器のように滑らかな頬にもわずかだが朱が差し、マリア譲りの金色の瞳もぱちりと開いている。この瞳も、調子の悪い日は重たいまぶたを無理やりこじ開けたように、不貞腐れた目になることをリオは知っている。
『いよいよ明日に戦いの期日が迫っているというのに、あなたはさして変わった様子がありませんわね、リオ』
『慌てても騒いでも変わらないことだしな。そう、オレは変わらない』
ベッドの端に座り込みながら、リオは言う。変わらない。それは、気持ちが折れないからだ。
『……明日、ですわね』
『これでおまえの命を繋げることが出来る。これで――あとは、ゆっくりと過ごせる。これからもずっと、一緒にいられるさ』
手を伸ばし、くしゃりと四季折の髪を撫でる。黒い絹のような髪はふわりと手を受け止め、四季折はひゃ、と小さく声を上げた。だが為されるままに、くすぐったそうな笑みを浮かべる。リオも力を緩めた笑みを浮かべた。
『思えば』
手をどけたリオは、その手を四季折の手に載せる。四季折はその手を包み込むように、もう片方の手を載せた。
『あの日、世界の終わり、全ての最果てに自分はいると、オレは思っていた。そこで、もう一度全てを始めさせてくれたのが、おまえだった。だから、オレはおまえを止めたくない。オレはおまえと、ずっと生きて生きたい』
『わたしも。横に、ずっと生きていくつもりですわ』
『だから、勝つ』
リオは決意を固める。
その手にもう一度命を、生きる意味をつかませてくれた少女のため、己に価値を見出す。
『負けられないのは、あちらも同じじゃありませんこと?』
『……だろうな。特に、マリアに対しては父親の仇として強い恨みを抱いてもいることだろう。暗狩一族の生き残りも結局春夏秋冬の下に戻ったようだし、一族郎党皆殺しにされた奴の分、オレに対しても復讐心があるだろう』
『恨みの連鎖ですわね』
『他に生きるということに道は無い』
故にオレたちは殺しあう他無い、とリオは唇を噛む。四季折はそんな彼の様子になんとなく声をかけづらく、しばし沈黙が落ちた。――生きるには。誰かから奪い取って得るしか方法は無く。それを知るからこそ、リオもマリアも強く、生きてきた。
『正直、気は重い』
『でしょうね……ねえリオ。嫌だったら、やめても構わないんですのよ?』
『それは断る。罪を背負い業を抱くより、おまえが死ぬことがオレは怖い』
『……ありがとう』
もぞ、と起き上がり、後ろから抱きつく四季折。リオの肩に顔を乗せ、微笑む。
『でもいつかは、わたしかあなたかどちらかが早く死にますわ』
ぎゅっと抱きしめ、放さないようにする。リオは自分の前に回された手を取り、目を閉じた。四季折も瞳を閉じて、リオの手を握る。二人は、生きていた。生きたいと願っているから、生きていた。
『わたしたちより早く、母様は死ぬでしょう。けれど、わたしも、リオも母様を忘れることは無い。隣に、わたしたちが母様の席を空けている。戻ってくることはないと知っていてもその席を空けていることで、きっと母様は生きてる。だからリオも、もしわたしが先に、早く死んだとしても。隣じゃなく後ろでも、三歩離れた場所でも構いませんわ。わたしのために、リオの近くへ席を空けておいてほしいんですのよ』
『……まるで死にゆく人間の言葉だな』
けれど是非を問うまでもなく、リオは了承した。きっと自分が先に死んだとしても、四季折はそうするだろうと思ったからだ。
目を閉じたまま、リオは頷いた。だから、四季折が浮かべた、穏やかな瞳の色を見ることは、なかった。
『明日で、終わり』
『約束しよう』
リオは目を開いた。強い意志を瞳に燃やして。
+
翌朝。
いつもとなんら変わり無い朝食風景のあと、何をするでもなく俺は縁側でぼーっとしていた。動き易い黒のシャツとボトムスに、濃い緑のミリタリージャケットを着込む。ジャケットの裏地には縫いつけられたホルスターがありそこにナイフが一振り、それと昨日紐解いた吸血剣が、俺の武器だった。
いつ出かけても良かったが、早すぎるのもなんだと思ったので俺は適当に時間を潰していた。縁側で日差しを受けていると、とても今から命を賭けた決戦に出かけるような日だとは思えない。膝の上で頬杖をついていると、横に姫が座った。
「やあ」
「うん」
鯉にえさをやりに来たのか、サンダルを履いて池に近づく。十二匹の鯉がぱちゃぱちゃと水面を揺らして、浮いていくえさをぱくぱくと食べていた。屈みこんでその様子を眺めている姫の横に、近づく。徐々に水面は静まっていき、俺たち二人の姿が日差しと共に映りこんだ。
「今日の夕飯、何がいい?」
唐突に、姫は俺に尋ねた。
「姫が作るのか?」
「たまにゃ葛葉に楽させてやんねーと……っていうか、単にひととせに作ってやりたくなってさ」
「へえ。なら、そうだな。ぶり大根と肉じゃがとほうれん草のおひたし」
「ん、わかった」
好物を挙げると姫は笑って頷いてくれた。ちゃんと作れるのか、と声をかけたが努力する、と返してきたのでそれ以上何か言うべくもなかった。姫は立ち上がって、俺の顔を見据えながら言った。
「だから、ちゃんと夕飯の頃には帰ってこいよ」
――昨日。
俺が決意を固めることが出来たあとも、いくらか姫と話しをした。
だから、もう今はこれ以上言うべくもなく。
俺は一つ、言いたいから、言っておくことにした。
「なあ、伝えたいことがあるんだ」
「あとにしろよ」
笑った顔のまま発言は切られた。ちょっと拍子抜けしたが、それもそうかと割り切って、俺は再度言い直す。
「帰ったら、伝えるよ」
「うん」
今度は頷き、俺はそれに笑顔を返した。
剣を手に縁側を離れ、玄関で靴を履く。履き終わってとんとんと調子を整えながら立ち上がると、後ろにいつの間にか立っていた葛葉が、俺に灰色のコートを手渡してくれた。
「昨日小雨が降ってましたし、今日は冷えますから」
「そっか。ありがとう」
袖を通させてもらって、俺は玄関の扉に手をかける。いかにも偶然を装った風に、そろそろとぱとりしあも厨房から出てきた。なんだかおかしくなって、ふき出しそうになる。が、挨拶だけは残していくことにした。
「行ってくるよ」
「いってらっしゃいませ」
「気をつけてね」
からからと戸を開け、外に出る。やはり、というか。白藤と川澄さんが煙草を吸っていて、少し辺りを見回すと、柊は宿屋の壁面に背をもたせかけて、腕組みしたまま堅い表情で突っ立っていた。
さっきの葛葉たちとのやり取りも見ていたのか、堪えきれなくなったらしい白藤がくっくっと笑いを漏らし始め、それは川澄さんや柊、俺にも伝染した。軽く、小さく笑いながら。すたすたと進む俺に、三人は声をかけてくれた。
「うむ」
「行って来い」
「……では。主」
宿屋と外界を区切る門に手をかける。
振り向くと、扉は開いたままで。玄関に立っている葛葉、ぱとりしあ。奥には、まだ縁側のところに立っている姫が見えた。みんな、俺の方を見ていて。俺も、みんなを見ていた。
みんながいる。
「じゃあ」
ぎ、と門を開ける。周りを見張っている連中が手配してくれたのか、馬車が待っていた。
「いってきます」
+
ひづめの音を鳴らして、去っていく馬車。
それから少しして、宿屋の中に居た面々は、それぞれいつも通りの生活に戻っていた。
「さって……と」
ぐるぐると腕を回し、背伸びしてから。
姫は縁側の床を強く踏みしめた。瞬間、天井に仕掛けられていたボーガンが、手元に落ちてくる。横を通った白藤も同じように柱の隅を小突き、板を外して中から長い柄を持つ刀、長巻を取り出す。
二階でも。
床の間に置いていた刀を手に取る葛葉。ぱらりと書の頁をめくるぱとりしあ。屋根の上では、柊が辺りに鋼糸を張り巡らし、川澄が符札を袖口から取り出していた。懐に居るのか、黒猫スミスがにゃーと鳴く。
「ひととせがいねー間にここを叩いて、戻って逃げる可能性を完全に潰すって……保険にしちゃやりすぎのような気もすんだけどな」
「ある意味、楽じゃがのぅ。こんな手を使うなら、もはやそれは決闘ではあるまいて」
中庭にずらずらと、塀を乗り越えてきた傭兵達が居並ぶ。
「ですからこの方々を片付けたあとは、わたしたちが加勢しても問題ないわけで」
「むしろマリアちゃんは失策だったねー」
ぞろぞろと、塀を乗り越えて刺客が迫り来る。
「あちらも容赦をしないというのなら」
「こちらも手抜きはせんだけだ」
傭兵に取り囲まれながら、それでも面々は笑っていた。
まったく問題にならないとでも言いたげに。
「さて、そんじゃ始めるとするか」
決戦を前に、前座の試合が始まった。