端書き四 俺が終わらせた世界。(思考閉鎖)
それは、
終わりという
そのものの観点の差。
何かが
違ったために
変わったなにか。
語り部は
騙りカタリと
足音を届かせる。
+
Title:Philosophy ending
Heroine:Kajiro Kuzuha
Result:Lament ending
+
目覚めると、左腕が上がらなかった。一体何が起こったのか、とかなり焦りながらよく見てみれば、何と言うことはない。左手を、葛葉と指を絡めたまま寝入ってしまっただけだった。
……いや、結構、大変なことか。何と言うことはない、なんて冷静では居られない。俺はそろそろと組んだ指を外し、大きく伸びをする。バランスを崩してベッドから落ちそうになったが、寝ぼけていたにしてはそこそこな動きで俺は重心移動、危機を脱した。
代わりに、葛葉の寝顔に急接近してしまうというアクシデントはあったが。
ぱちりと目覚める葛葉。当然だ、基本的に俺の方が朝起きるのは遅い。
「お、遅かったな」
「……襲いかかったな、ですか? いや、そんなことされた覚えは……」
「いや、そんなことは言って無い」
「左様で。おはようございます……」
もぞもぞとベッドから這い出る葛葉。白いパジャマ姿がなんだか朝から眩しかった。
……本当だ。信じてほしい。断固として言い張らせてもらうが何もしてない。出来るわけがない。なんとなしに自分の誠実が疑われていないか葛葉の表情を見るが、寝起きでぼーっとしていて俺のさっきの行動もそう気にされてはいないようだった。
「朝食、適当でいいですか?」
「葛葉の適当って手抜きとかないから、いいよ」
「はい。ではそれなりに」
顔を洗いに姿を消す葛葉。ベッドの上に一人取り残された俺は、とりあえず窓を開けて部屋の換気をした。しけた空気の漂う室内。部屋の湿度が高くて嫌になっている今日この頃。台所に移動し、置いてあった濡れタオルで顔を拭いていると葛葉が戻ってくる。
赤いエプロンをパジャマの上からつけて、フライパンやさいばしを用意している。そんな後姿を眺めているのも、悪くない。と、振り返って卵を俺に見せ付ける。
「卵、半熟がいいですか?」
「葛葉の好きなように」
「じゃあ生で」
「……それはどうだろう。今日、ごはんないよな。パンしかないよな」
「冗談です。ちゃんと焼きましょう。そうですね、スクランブルドエッグにしますよ」
笑って、葛葉はフライパンを手に取る。火が通るじゅう、という音が聞こえて、それだけで早く食べたくなる。……毎朝のことだけれど。やはり料理上手な人が一緒に暮らしているというのは、それだけで嬉しく楽しいものだ。
と、先日辻堂にのろけてみたところ、『そうか。毎朝食べたくなるのか。いい加減押し倒してしまえ』と言ったので全力でナックルを打ち込んだ。俺の鋼の拳で、辻堂の顔面はかなり歪んだ。まったく、見るに耐えない顔だった。要すら引いていた。
ゆっくりとスプーンやフォークを並べているうちに、葛葉は用意を整えてしまう。ふわふわしたスクランブルドエッグに、フレンチトースト。トマトサラダに自家製カスピ海ヨーグルト、ドリンクは紅茶。葛葉にフォークをわたしてもらい、切り分けられたフレンチトーストを口に運ぶ。ヨーグルトを食べるにはフォークでは難しいので、左手にスプーンもわたしてもらう。なぜか葛葉は箸で食べていた。
満腹になった頃に時間を見て、朝の九時であることを認識する。もう、だいぶ暑くなってきた。時節は、夏の手前。梅雨が明けかけた。
「今日は日曜だしな……仕事も無いし、どうする?」
「とりあえず午前中は家でいいんじゃないですか」
「そうだな」
エアコンなどに縁が無いこの部屋は、じっとしている内に湿度も温度も上がってくる。扇風機のスイッチを足で一押し、俺たちは一時の涼しさに頼る。ベッドに座り込み、葛葉は家計簿兼日記帳を開いていた。日記部分に今の食事内容を書いているのだろう。
「……夏だなー」
じーわじーわ、とセミが鳴いている。アパート二階のここまで、夏を運んできていた。窓の傍に寄ると、暑い風がふわりと吹きつける。日差しはかんかん照り、逃げ水も蒸発しそうな暑さだ。自然、汗がにじみ出る。扇風機くらいではどうにもならない。
視線を向けると、同じことを考えていそうな葛葉と目が合った。
「お金が……」
「ないよな」
エアーコンディショナーへの道は遠い。貯金が溜まる頃には、多分暖房として使うことになるだろう。そしてこの家には一応、こたつだけはある。あいつからのもらい物だが十分機能するので、冬は凌げてしまう。
それなら貯金なんてしないで、泡銭は使うに限るだろう。
「空は青いし山も蒼い。ついでに海も青いだろうな。海、行こうか」
「だから、お金ですよ」
「なおこの問題はお金があったと仮定します」
「……無いじゃないですか」
「この前溜めてた貯金の箱が見つかった。エアコンは買えないけど、運賃くらいなら余裕だ。あっちで買い食いしても大丈夫だし、水着を買っても大丈夫だな。ありがとう昔の自分、何に使うのかわからない貯金だったし今使わないでいつ使う」
俺の発言にしばし悩みこむ葛葉。家計簿に視線を落とそうとしたので、俺はそれを奪い取る。
「こんな夢の無いものを見ないで考えよう」
「……うーん。……じゃあ、白か黒か」
「?」
「どっちがいいですか?」
「……黒?」
「じゃあ黒い水着にしましょう」
行くんだ。行ってくれるんだ。
というか黒い、って。
なんか頬染めてるし。一体どんなのを買う気なのか。……大体何を着ても似合うんだろうなあ。
「いつにしよう?」
家計簿を返しながら俺は言う。この家計簿兼日記帳、日記帳部分にはスケジュールも書き込まれていたりする。パラパラと六月、七月のスケジュールを見て、葛葉はある日付を指差す。海の日だった。
「ここなら行けますね」
「じゃあそうしようか」
「はい」
笑顔でスケジュールに書き込み、葛葉は本を閉じようとした。が、そこでぽたりと頁に汗が滴る。温度計を見れば、室内の気温がそろそろ三十度を指そうとしていた。
「……そろそろ着替えるか。ずっとパジャマだったし」
「そうですね。じゃあ、着替えましょうか」
「起きてすぐ着替えるべきだったな」
「そんなことしたら見られちゃうじゃないですか」
「いや、その……そのパジャマ白いから、汗でだんだん」
体を縮こまらせて腕で前を隠し、葛葉は恨みがましい目でこちらを見る。この寝室部分に葛葉のタンスはあるので、追い出される形で俺は隣の部屋にある自分のクロゼットまで移動する。ボタンを外さず上を脱ぎ捨て、適当なシャツを漁りながら思う。……やっぱり白が良かっただろうか、と。
+
一ヶ月弱、それなりに仕事もこなして生活費を稼ぎ、その間の葛葉曰く、『何を嬉しそうにしとるんだ』などと川澄さんに勘ぐられたり『怪しいのう』と白藤に睨まれたりしたらしいが、つつがなく時は過ぎて今。ごとごとと荷物を集めて、俺はそれをアパートの前に止めた黒いマツダ・ロードスターに積み込む。積み込むと言っても水着に手提げカバンくらいなのでそう大した量じゃない。
服は白い長袖のパーカーに黒いボトムス。海パンを下に穿いたままでも良かったが、服を忘れていきそうなのでやめておいた。
運転するのは、免許を持っている葛葉だ。何かの折に、『身分証は便利だから』と父さんにそそのかされて取得したらしい。余談ながら、俺が最初葛葉に会った時載せてもらったバイク、あれはどうやら再開業の費用の足しに売り飛ばしてしまったらしい。そしてこのロードスターの出所は無賃宿泊しようとした輩から奪い取ったもの。なんともはや。
「お待たせしました」
「ん」
黒いポロシャツに白いネクタイ、膝までの白いスカート、足には皮製のサンダル。最近伸ばし気味で肩を少々越えたくらいの黒髪。白いバッグを後ろ手に持った葛葉は、ちょこんと頭を下げた。
「ああ、うん。似合ってる」
「ありがとうございます」
満面の笑みを浮かべながら車にもたれていた俺を迂回し、運転席に乗り込む。俺も助手席に乗り込んで、カーナビに行き先の海水浴場を入力した。しかしまあ、普段から見慣れているはずなのにここぞという時は本当に、ツボを心得た服装をしてくれる。
これまでの付き合いでわかったことだが、葛葉は可愛らしい服装が本当は好きだ。もちろん、きちっとした着物姿も似合っているが、タンスに着物は入っていない。あくまでもあれは仕事着らしい。
「じゃあ行きましょうか」
「おう」
心地よいエンジン音を始動させて、ロードスターは走り始めた。風が気持ちいい。
高速道路に入り、山間の道を追い越し車線で独走しながら俺たちはしゃべっていた。最近は宿屋の方も顔を出すことは少なく、俺は電卓計算を家でこなすことが多い。なので最近宿屋で起こったことも知らずにいた。
「葵さんが来たのか?」
「最近は諸国漫遊に温泉巡りを加えてるようです。行く先々で無銭飲食や無断宿泊を繰り広げているそうで……」
「無断宿泊ってなんだよ」
「空いてる部屋に勝手に忍び込んで泊まっていくそうです。……ああ、宿屋に来た、と言ってもあの人、最初無断宿泊しようとしていたんですよ。それで、おなかが空いたのか厨房に入り込んでいたのをわたしが後ろから」
「ドカっと」
「ですね。サスペンスドラマのマネをしちゃいました」
やったのかよ。ジト目で俺が横を見ると、視線に気づいた葛葉は慌てて取り繕う。
「もちろん峰ですよ」
「まず考えよう。その場ですぐに刀が出るのはおかしいと」
まさか今日も持って着てるんじゃないだろうか、と俺は心配になった。そういえばなんか細長い包みがあったような……いや、でも刀あれば変なナンパにあわないようになるか? その前に警察を呼び寄せてしまうか。
「そういえば、結局どういう水着にしたんだ?」
「ふふ、着くまでヒミツですよ。最近の流行などがわからないので、ぱとりしあについて来てもらったのですが」
「……あれ? 失敗する方向に進んでいないか?」
あのマニアックな趣味嗜好を多く持ち合わせたぱとりしあに、水着購入の際同行を願うなんて。正に自爆行為だ。
当の本人はまったくそのことに気づいていないらしく、不思議そうに首を傾げていた。
「標準的なのを、と頼んだら学校指定で使われていそうな水着を渡されました」
葛葉にそんなのを渡すな、あの色欲魔女。似合ったらどうする。
「でも試着してみたらきつかったので。結局上下分かれたタイプのを買いましたよ」
「そりゃよかった」
「着てきてるんですけどね、この下に」
ガスンと頭を前にぶつけた。エアバッグが作動しかねない衝撃だったと思う。
「……着替えるのが面倒だったからか」
「そうですね。すぐに海に入りたいじゃないですか」
狙いすぎだ、と俺は思う。わざとじゃないというのがなんとも恐ろしい。言ってしまってはなんだが、葛葉は一般教養に秀でてはいるが、一般常識からはかけ離れた生活を送ってしまっている。最近は多少なりとも直ってきたと思っていたが、まだまだだったらしい。
「ぱとりしあの奴は元気そうだな」
「みんな元気ですよ。相変わらず、柊君は無口ですけどね」
「俺の前じゃそうでもないんだけど。これだけは色々あった弊害だろうから」
「そうですね。でも、無口な分行動で伝わるものもありますよ。そういう点では、あの無口も心地いいものに感じるときもありますね」
重畳だな、と俺は言う。川澄さんはよく俺の元を訪ねてくれるので、近況を聞くまでもない。白藤とは宿屋に顔を出した時しか会わないが、葛葉との生活はどうかとしょっちゅう(下世話な方向で)つつかれるので、こちらも元気に決まっているだろう。
最近は家を離れることが少なくなったが、その分辻堂なども家を訪ねてくれることが多い。要とは家から出ないと会うことが無い、というか誘っても家には来ないので、ここ最近は特に、会うことも無かった。だが辻堂などから伝え聞く限り、元気でいることだろう。
気になる人間は、あとたった一人。
「そうか。それじゃあ……あいつは、帰ってきたのか?」
会話の端に挟んだだけだが。葛葉は途端に口を閉ざしてしまった。か細い声で「いいえ、まだ」と呟き、俺はその言葉にも「そうか」と返す他無い。表情はあまり変えていないが、どこか、後ろめたさでも感じているような微妙な雰囲気の変化が感じ取れた。
少しの沈黙を置いてから、シフトレバーの上に置かれた葛葉の手に、俺は自分の手を重ねた。少しだけ、戸惑うようにこちらを見る葛葉。俺は、笑う。
「――俺は、葛葉を選んだよ。葛葉も、俺を選んでくれたよ。だから、誰にも気兼ねする必要は、ない」
「ですが」
「他に、いないんだ」
葛葉は一度だけ俺と目を会わせた。
そして、少し悲しげに目を伏せ、次いで無理な笑みを作った。
「そろそろ、海も見えてくるんじゃないですか」
峠を下り始め、遠く山と山の合間に小さく、蒼い輝きが見えた気がした。
+
俺は着替えるのにやたら時間を食うので、葛葉が駐車場を探してくる間に着替えておくことにした。荷物もある程度預かってきたので(気にしていた細長い包みには木刀が入っており、スイカを割るためだと葛葉は言ったがスイカの影はない)、時間に余裕があれば場所取りもしよう、と思った。
黒い七分丈の水着を着て、上の白いパーカーだけは羽織っておく。海の家で貸し出しされているパラソルをざくりと砂浜に差し、熱気と人気で向こうの景色が見えないような砂浜を少し歩いてみた。日向を平気で歩く、吸血鬼の俺。燦燦と照りつける日差しに抱かれながら、心地よい熱を味わう。
ああ、もう夏なんだな、と。
「――場所、空いてましたか?」
「うん一応そこに荷物は、かため、て……」
声をかけられ、振り返って、すぐにうつむいて。
「ど、どうしました? 何かわたし、変ですか?」
「いや似合ってるよ。それは俺だけじゃなくて周りみんなが肯定してくれる」
日差しを受けて輝く、肩に広がる艶やかな黒髪。それでいて月光しか知らないような白い肌。黒曜石のような瞳。すらりとした長身はスタイルも良く、その体型を際立たせているのは、黒い、ビキニだった。思わず目を逸らして下ばかり見るよううつむいてしまいそうになったが、腰からのラインと連なって見える白い脚も十分すぎる凶悪さを秘めており、正直後ろを向きたくなった。
実際後ろを見てみて、周囲から葛葉が視線を集めていることに気づいた。慌てて俺は自分の着ていたパーカを脱ぎ、葛葉の肩にかける。小さくだが確かに、周囲から落胆の声が上がった。同時に、少し驚いたような声も。
「ひととせさん。別にわたしはこんなものをかけてもらわなくても。第一、それじゃあひととせさんが目だってしまいます」
「どうせポケットから手を出してればみんな気づくだろ。それに、この国の人間によくある対応として、なんらかの目立つ部分がある人間とは目線を合わせない、そちらを見ない、ってのがあるから。すぐに目立たなくなる」
無理やりに葛葉を納得させて、場所取りに置いた荷物を適当に整理しながら、俺は周囲の目を気にしないようにする。葛葉は、持ってきた浮き輪をぷうぷうと膨らませていた。周りからは騒がしい声や、水遊びに興じる声。波の音や水音の方が、小さいように感じられた。
しかしこの潮風は間違いなく、海。用意を整え、ようやく海に向き直る。
「よし、泳ぐか」
「そうですね」
いまだ真正面から葛葉の方を見られないが、俺たちは海の方へ進んで行った。
寄せては引く波に脚をとられそうになりながら、冷たいその感触を楽しむ。葛葉はというと、おそるおそるといった感じで爪先からそろそろと入って行った。……そういえば、葛葉は泳げるのだろうか。浮き輪を用意してきていることといい、ひょっとして。と、疑念がもたげた俺の視線を察したのか、葛葉は詰め寄ってくる。
「……たしかに、あまりわたしは泳げません」
「やっぱりか」
「初めて泳いだ経験が、雪の降る夜の脱走中に落ちた氷点下の川で、ですから。水を怖がらないだけいい方ですっ」
「距離に換算すると」
「泳げるのは五十メートルです」
「まあ、なら大丈夫か」
腰辺りまで水に浸かる。相変わらず葛葉は浮き輪を持っていたが、五十メートル泳げるなら必要ないだろう。
と思ったのだがどうやら浮き輪無しでは泳げないらしかった。取り上げようとすると慌てるので、仕方なく手を放す。そして、ざぶざぶと水を蹴って葛葉は進み始める。ただのバタ脚なのに、やたら早かった。
しかも、五十メートルほどの距離を息継ぎ無しで泳いだ。
「……息継ぎ無しで、が『泳げる』の基準か……」
「だから、ちゃんと泳げるんです」
「もっと楽な泳ぎ方覚えればいいのに……」
「息継ぎしようとすると、なんだか耳に水が入りそうな気がするんです」
「背泳ぎなら大丈夫だろ」
「顔が沈んだら怖いじゃないですか。不恰好ですし」
先人の知恵を不恰好の一言で切り捨てなくてもいいのに。
結局、浅瀬でぱしゃぱしゃと遊ぶことになった。俺も今はあまり泳げない。こういう過ごし方でも、別に楽しければいいだろう。
「沖まで出て行ってみようか」
「……あの、出来れば足がつく範囲がいいのですが」
足がつかないとダメですか。
「……わかった」
どこも人でいっぱいなので、出来れば人気の少ない沖の方に二人でいきたかったのだが。なかなか、そうはいかないらしい。葛葉は浮き輪をつかんでぷかぷかと浮いていて、俺もその脇で体を浮かせていた。直射日光が目に痛い。
「そういえば葛葉、日焼け止めは塗ってきたのか?」
「はい。でも、背中の方は自分ではちょっと無理だったんですよね」
「そうか」
「ひととせさんに手伝ってもらえばよかったですよ」
「精神的にきついぞそれは……」
「わたしは気にしませんが?」
真顔で言う葛葉に苦笑しつつ、もう一度空を仰ぎ見て思う。
人でごったがえしていたが、それでも悪くない、と。
「しかし、こう浅瀬で人が多いとなんか、やだな」
「どうしてですか」
「なんとなく」
葛葉を見つつ、思う。いやむしろ、見るというより警護の監視。誰かしら葛葉に近づくような輩がいないか、厳重に。過保護だと言われるかもしれないが、こればかりはどうしても譲れない心情であり真情だ。もし、本当にそんな輩に遭遇すれば、多分俺はぶち切れる。だからもう少し、人気の少ないところに移動したい。みっともなく切れたくはないのだ。
「向こうの方に行くか」
浮き輪に手を伸ばす。そしてぐいっと引っ張ろうとして、ふにゃっとした感触が肘に触れたのを感じてしまった。
……あれ?
「どうしました、ひととせさん」
「いや、なんでも……」
まさか。警戒しているはずの俺が、そんな役回りなのか。葛葉は気にしていない様子だったが、なぜか周囲の音が小さくなったように感じ、ちゃぷちゃぷと波打つ音しか耳に届かなくなる。振り返って確認したい気もしたが、何か本能がそれを許さない。
「あ」
「ど、どうした」
肘に当たる感触がさらに強くなった。だらりと嫌な汗。
「くらげですね。食用以外のは初めて見ました」
「…………」
穴があったら入りたかったが、ここには生憎と水しかなかったので、俺はぶくぶくと沈むことにした。
しばらくして空腹になってきたので、海の家で適当な食事を買ってくる。やきそば、ラーメン、たこ焼き、焼き鳥。さらに、葛葉の容姿が人を呼び、なぜか酒類や焼肉ももらった。まあ、ただでもらえるならありがたくもらっておくことにする。
「たまにはこういうのもいいですね」
たこ焼きをもぐもぐと食べながら、水平線を見やる葛葉は言う。食事の味自体はあれだったが、それでもこういう天気の下、こういう空気を味わいながら食べるというのは、やはり何か心が浮き立つ。
「……そうだな」
「あ、そうだひととせさん」
「ん?」
横を向くと、つまようじに刺したたこ焼きをこちらに向けている。俺はどうすべきか対処に困った。
「あーん、って一度くらい外でもやってみたかったんですよね」
くすくすと笑いながら、なおも体勢を崩さない。いや、たしかに俺の場合そういう風にされても仕方ない事情もあるが。
「……、」
などと色々考えても、最後にはむぐむぐと口の中でタコが小さいたこ焼きを頬張ってしまっている。意外に俺たち二人の関係で押しが強いのは、葛葉なのだった。にこにことこちらを見ているので、照れくさくて目をあわせられない。
「あんまりやらせてくれないですよね、こういうこと」
「……あんまり頼りすぎると、自分で何もやれなくなる気がする」
「まあ、それもそうですね」
今度はこちらにラーメンを箸ですくって差し出している。さっきのは善意での行動だとすれば、今回は完全にイタズラだ。
「でも、頼ってくださっていいんですよ。そのために、わたしは居るんですから」
ズルズルとめんをすすりながら、俺はそれでも頷かなかった。
「頼るってのもあるんだろうけどさ」
「?」
「それ以上に、一緒に居れたらいいな、と思ったから、俺は葛葉と居るつもりだ。世話してくれるのは嬉しいし助かるけど、それを抜きにしたところで。精神的に、俺は頼ってるよ。そこが一番、俺にとっては大事なんだ」
少し顔を赤くして、ラーメンをすする葛葉。俺は仕返しの本音が済んだので、パラソルの影に寝転んだ。日の当たる脚は暑いけれど、日陰は丁度暑さと涼しさの中間点。穏やかな時間は、様々なしがらみを忘れさせてくれる。のんびりと、ゆったりと。余生を過ごせる自分は、案外人生を楽しめてると。そう、思わないでもなかった。色々な、しがらみはあったけれど。
なんだか眠くなり、まぶたがゆらりと落ちかけた。が、顔に水をかけられる。目を開くと、葛葉が俺の顔を覗き込んでいた。
「まだまだ今日は日が高いです」
「だから?」
「眠るには早いです」
くすりと笑って葛葉の手が俺を引っ張った。
「せっかく来たんですから、もっと楽しみましょう」
「だな」
握る手は俺の固い手を包み込む。柔らかなのだろうが、俺がそれを感じることは無い。
けれど。
こうして、一緒に居てくれることだけで、俺は心地よかった。しがらみを、忘れていられるくらいに。
+
夕日が沈み、山の端から白く透き通る月が昇り始める頃。海水浴に来た客は大半が帰ってしまったのか、ビーチは閑散としていた。ここのビーチは比較的マナーのしっかりした客が多いのか、ゴミがそう落ちていないので景観を損なうこともない。もっとも、たった今も花火をやってゴミを出している人間が居るには居るのだが。
……断っておくが俺たちではない。
「ただで見せてもらうのも、なんだか悪い気がしますね」
「別にいいだろ。打ち上げ花火ならともかく、閃光花火はこんな距離じゃ見ても楽しめないんだからさ。ちょっとしたおこぼれを見るくらい、構わないだろ」
海岸から少し離れたところにある防波堤に腰掛けて、二人して上を見る。時折上がる打ち上げ花火を、とっくりと見物するためだ。
昼間もらった酒類(泳ぐ時は危ないので飲まなかった)がまだ残っていたので、水道の水で冷やしたのをちびちびと葛葉が飲む。たまに上を見れば、赤青緑の閃光が、夜空をバックに花を散らした。ここまで来る途中に神社の前で祭りなどもやっていたためか、小さく高らかにお囃子などが聞こえるのがまた風流。海、花火、祭りと夏の風物詩が全てここにある。
「楽しかったです」
「最後には本気で追いかけっこになったけどな」
俺と葛葉が、ではない。うかつにも見張りも何もない状態で放置していた葛葉の荷物(財布と服)を盗ろうとした輩がいたからだ。俺が投げた木刀がうまいこと背中に当たって、あえなくとっ捕まったが。許せん。
「でも、楽しめたな」
「はい」
その時花火が上がって、葛葉の顔を照らした。微笑む顔が少し、赤い。あいつほどでは無いにせよ、葛葉もそう酒に強い方ではないのだ。
「帰ったら結構遅い時間になってそうだな……葛葉、明日も早いんだろ?」
「そうですね。でも、今の時間は今しか楽しめませんから。明日より、今日ですよ」
「と言いつつ、二日酔いとかで休むなよ?」
「さすがにそれはないですよ」
くすくすと忍び笑いを漏らす。実際、よほど悪酔いでもしない限り葛葉は翌日までアルコールを持ち越すことはない。俺はまず飲んでいないので、明日も普段どおりに生活できるだろう。そう、今までどおりに。
「また、来たいな」
「……そうですね。この夏の間に、もう一度、来ませんか?」
「でも二度目来ると感動が薄れるかもしれないな」
「――何度だって来ましょう。きっと、楽しいですから」
少し言葉に詰まった様子だったが、葛葉は平静を取り戻す。俺も敢えて突っ込んで聞くようなことはしない。――もう、この夏でなければ、俺が海に来ることはないだろうとしても。
既に、俺の寿命はあと半年。次の夏が来るまでには、ほぼ間違いなく死亡している。運良く生きていたとしても、泳げるほどの体力は残っていないだろう。今現在も、俺の体力は低下する一方だった。体が、どんどん脆くなってきている。
「でも、この一度だけでも構わないよ俺は。明日来ればまたそれは違う一日で、楽しめるだろうけど。それが無くても今日を楽しめたことは、ずっと残るし変わらないから。それだけでも俺は満足出来るよ」
「わたしは、もっと何度でも、満足したいと思いますけど」
ごにょごにょと言いながらうつむく葛葉。俺の口にした言葉のためか、葛葉の瞳は潤んでいた。なんとなしに視線を下ろすと既に服は着ていたが、暑いからかボタンは外して首筋を露にしている。首筋も少々赤みがさしており、喉が上下した。
俺は自分の固い、感触も感覚も無い手を、葛葉の手に重ねる。いつ終わるともしれない日々の証を残す、と言えば聞こえはいいが。要するに、血を啜る行動。しかしその、吸血鬼が決まった人間から血をもらうという行動には、特別な意味がある。だからこそ、俺は葛葉に頼む。葛葉にしか、頼まない。
「……喉が、かわいた」
ごまかしでしか無いとはわかっているが。それでも俺は、葛葉にささやいた。俺の目を覗き込んで葛葉は、少し目を伏せるようにして笑った。襟元をつかんで、大きくむき出しにする首下。
「……どうぞ」
「ありがとう」
何度も穿たれたことで痕になってしまっているそこに、歯牙をかける。最近、葛葉が髪を伸ばしているのはひょっとしたらこの痕を見えなくするためかもしれなかった。だとしたら申し訳ないと思うが、謝れば葛葉はむしろ呆れた顔をするだろう。顎に力を込めて、俺は柔らかい肌を突いた。
「――――っつ」
軽く腕で抱き寄せるようにした体が、びくりと震えた。だくだくと、暖かい血液が口を満たす。ああ、おいしい。体に染み込むこの血は、俺の体と心を占める。堪えているのか、時折短く小さく息を吐く葛葉。痙攣しているように小刻みに、震えは少しずつ起こり、止まらない。
やがて、しっかりと喉を潤したところで、俺は血を啜るのをやめた。口を離すと、血が糸を引く。涙目になって息を荒げる葛葉に、俺は小さく頭を下げた。口の中に残る鉄の味が、いまだ脳内も占めていたが。
俺は軽く抱きしめるような体勢で、葛葉は俺にしがみつくような体勢で。しばらくそうして支えあっている内に、花火は終わり祭りも終わり、波の音だけが俺たちの周りに残された。少しだけ強く、抱き寄せる。相変わらず掌は何も感じなかったが、背中まで回した腕には確かに、葛葉の温度を感じた。
「……もう俺は、葛葉がいないとダメだな」
「わたしだって、そうですよ」
葛葉はそう言いながら顔を上げ、俺にくすりと微笑みかける。
けれどその言葉は他のどんな言葉よりも残酷に、俺に突き刺さる。なぜなら、葛葉がそんな風に俺を想ってくれるなら。俺が死んだあと、一人残されて寂しすぎるじゃないか、と。
もちろん、口には出せない。勝手に置いていって楽になる身であるのは、こちらの方なのだから。
「――帰ろうか」
小さく頷いた葛葉とロードスターに戻り、最後に夜空と海の溶け合いを眺めてから、俺たちは海岸をあとにした。
+
家に着いたのは、夜も十一時を回った頃だった。一番近場の海水浴場を選んだつもりだったのだが、ずいぶんかかってしまった。帰りは、葛葉は貧血で(……吸いすぎた)ちょっと運転出来そうになかったので、俺が運転してきた。無免許だしそう上手くはないが、動かすだけなら一応出来た。
「……色々と注意することが多すぎて、むしろわたしは疲れましたよ」
「……いや、オートマとマニュアルだとここまで違うとは正直思ってなかったから」
俺の運転技術はオートマ限定だった。
「何はともあれ、今日は早く寝ましょう。っと、でも髪がごわごわしますから、お風呂には入りたいですね」
「今から沸かすとうちの給湯器じゃ時間かかりすぎる。二十四時間営業の風呂屋があったから、あそこに行こうよ」
俺の案を聞いて、葛葉は顔をしかめてからロードスターを見る。
「ならタクシーでも呼びますか」
「あー、一応歩いていける距離だから、安心してくれ」
「そうですか」
運転技術については、俺の信頼度は零に近くなったようだった。苦笑いを浮かべつつ、俺は葛葉と風呂セットを取りに、アパートの二階へ上がる。すると、玄関から入って靴べらを取ろうと振り向いた時、ポストに乱雑な突っ込まれ方をした茶封筒が挟んであったのに気づいた。急いでいると言えばそうなので無視しようかとも思ったが、結局封を開けながらセットを取りに行くことにした。
口に挟んで、両手で挟んで食い破るように開く。そこには、時間と日付のみが簡潔に記されていて――あいつの名が、最後に書いてあった。心拍が跳ね上がる。葛葉はそんな俺を脱衣所から顔をのぞかせて不思議そうに見ていたが、俺はその手紙を「保険の業者からだ」と適当な嘘をついてゴミ箱に捨てた。
「ああ、そうだ葛葉。今期の決算表、まだもらいに行ってなかったから。宿屋に行って取ってから俺は行くよ」
+
ドアは開いていた。俺への配慮か、蹴って開けることが出来るように完全には閉まっていない。指定されたのは、八尾町に結構昔からある空き家。むしろ、廃屋。半分崩れかけているため近寄るな、と周辺の住民には注意がなされているその二階建て建築の奥の部屋に、あいつは立っていた。
ガラス片や木片のちらばる生命の気配が無い部屋で、闇に溶け込むようにあいつは立っていた。窓から入るわずかな月光を頼りにしているように、俺を見る。
短く肩辺りで切った髪。かつて赤く染色していたその髪は、今やところどころ色が抜けて、まだらに、白い本来の毛色がのぞいていた。黒いハイネックの上から白いジャケットを着て、下はジーンズとブーツだった。肩に弓と矢筒をかけ、こちらを見る瞳――金色。
「……一体何しに来た、って顔してんな。久しぶり、ひととせ」
少ししゃがれた声。最後に会ったのは一年と五ヶ月前だったというのに。その間、何をしていたのか。俺と葛葉のかつての同僚――白猫明神姫は、その名が示す本来の何かを、取り戻そうとしていた。
「どうだよ。あたしがいねー間も、元気にしてたか?」
「――ああ。一応、命に支障が無い程度には、な。マリアやリオの見立ても、正しかったわけだ」
「そっか。ならまだ、間に合うよな」
瞳が揺らぐ。狂気に、揺らぐ。魔眼と呼べるほどの眼力に気圧されて、俺は少しの間黙り込んでしまう。姫はけらけらと、そんな俺を見て笑う。よくよく見れば、マフラーもチョーカーも付けていない。猫又としての本能たる食人衝動を抑えるための、拘束具が。
「ん? ああ、暴走を抑制するアレがない、って? 大丈夫、ひととせを食ったりはしねーよ。吸血鬼の吸血衝動とは違って、あたしらのこれは強力な嗜好ってだけで、食わねーでも生きてはいけるかんな」
「それでも中毒症状と同じくらいには厄介な代物のはずだったろう」
「さあ? 長い間、結構悲惨な目にあったり惨状を目の当たりにしながら旅してたからよ。なーんか、心が磨耗しちまったのか、そういうのもほとんど簡単に抑えることが出来るようになっちまったんさ」
渇いた笑みを浮かべながら、姫の瞳は俺を捉える。しかし虚ろな視線はさまようようで、こちらから捉えきることは出来ない。目の前に居るのにつかみきれないその様子は、幽霊を思わせた。
「おまえ、疲れてるんだよ」
「別に……ひととせの生活に比べれば、疲れたりしてねーよ」
「俺の手のことは気にするな。無くてもなんとかやっていけるんだから」
鋼で出来た義手に変貌してしまった、かつての己の手を俺は見る。右は手首から先が、左は前腕の中ほどから先が、フックや洗濯バサミみたいな『指』を付けた義手となっている。
最後の、リオとの決戦の際に、奴の槍グングニルの刃で両断されてしまったためだ。そして、その原因となってしまったのは、あの時戦いの最中に間に入ってきた姫であって。それをかばったために俺は両手を失い、今に至る。
「この手のことは気にするな、ってあれほど言ったのに……バカだよ姫は」
「ばかでも構わない。って、あの日決めちまったんだよ。だからリオやマリアを追って方々飛びまわったってのに……四季折の奴は、半年くらい前にくたばっちまった」
「だから、それはやめろって俺は言ったはずだ。もう俺は誰かの犠牲の上に立ちたくない、だから絶対殺すなって」
あの日、両手を切り落とされながらも結果的にそれがリオの隙につながり、辛くも勝利を得た俺は。リオとマリアに俺から四季折を狙う気はないことを伝えた。だからその時、宿屋の面子にも四季折を狙わないよう、言いくるめたのだが。
ルーマニアから飛び立つというその日に、姫は俺たちの元から忽然と姿を消した。どこに行ったのか、と俺たちは出発予定まで繰り上げて探したが、結局その後姫が見つかることはなかった。
「どこに行って何をしてるのか。まあ大体見当はついてたから、リオたちにこっちから姫のことは伝えておいたけど。まさか、本当に四季折が死ぬまで、追い続けてたなんてね……バカだよ。本当にバカだ。もう俺は誰の犠牲の上にも立ちたくない、それは姫のことだってもちろん、犠牲になんてしたくないっていうのに。なんで、勝手にそんなことをした!」
怒号。声を荒げて目の前に居る小さな少女に詰め寄る。すると、うつむき加減に姫が何か、ぼそりと呟いたのが見えた。
「…………っ! ………い………っ……」
「なんだ」
キツイ語調になりつつあるのを感じながら問いかけると、姫はきっと顔をあげて俺をにらみつけた。
あまりの怒気に、むしろこちらが下がりそうになる。
「……あたしはっ、あたしは、どうなるんだよ! ひととせのせいで、あんたの両手っていう犠牲の上に、今あたしの命は続いてんだぞ! それが辛い以外のなんだっつーんだよ!? あたしは、あんたに命を返さなきゃ、あんたの前に居ることすら辛いんだよ!」
「ふ、ふざけるなよ! それは俺が勝手にしたことだ、おまえは何にも非に思う必要はないだろう!」
「思うに決まってんだろ!」
弾、と床を踏みしめて姫は叫ぶ。今にも泣きそうな、悲しくて仕方ないような表情で。
――やめろ、そんな表情はするな。それじゃあ、俺は。俺が。
「なんで、そんなに自分を責める……」
問いかけたが、答えはなかった。しばし黙り込んで、怒鳴ったことで乱れた呼吸を整える。
次に顔を上げたときには、もう姫の顔にさっきまでの表情は見受けられなかった。
「――とにかく。あたしは四季折が死んでからも、外国を渡り歩いて吸血鬼の情報を探し続けた。結果、見つけたよ。アジアの端で、大富豪が若い吸血鬼を飼い殺しにしてる、っていう情報を」
渇いた笑みで。疲れた笑みで。姫はただ、そんなことを言った。嬉々とした表情、とまではいかないまでも、どこかすっきりしかけた顔で。ジャケットからメモなどを取り出して、俺に詳細な情報を伝えようとしている。しかし、俺の耳にはそんな言葉はまったく入ってこなかった。
「…………で。その吸血鬼の情報を俺に伝えて、おまえはどうする気なんだ。姫」
「え? 決まってんだろ、ここに襲撃かけて助けるんだよ。ただ、防御が固すぎてあたし一人じゃどうにもならねーんだ。だから、日本でもうちょっと準備してから、またあっち行ってくるぞ。それまでひととせが保つかどうか、それを訊きに今日は来たんだけどな」
「……助ける? 誰をだ」
「何言ってんだよ、ひととせに決まってんじゃねぇか」
姫はさも当然のように俺に言う。しかし、俺はその言葉に嘆息せざるを得なかった。
この一年五ヶ月会っていない間に、姫は俺の言葉を真っ向から否定して、俺の決意を全て蔑ろにしていたのだから。何も言えずぶらりと両手を体の脇に垂らした俺は、まだ説明を続けている姫にささやきかける。聞こえているのかいないのか、理解しているのかそうでないのか、かなりきわどいと思ったけれど。
「……せっかくの申し出だけど、俺はやめておくよ」
「へ?」
まったく理解出来ない、という様子で、今度は姫が俺に詰め寄る。唇を噛む俺に、姫は手を伸ばした。俺の義手をつかむ手。
「俺は誰も殺したくない。天寿だけで満足出来る。だから、他の吸血鬼を捕らえに行くなんて、出来ない」
「っなに言ってやがんだ! やらなきゃ死ぬんだぞ!」
「それでいいだろ。死なんて、別れなんていつかは訪れるんだ、それが早いだけだろ」
「死ぬな! ……あたしがあんたの分の罪も罰も咎も背負うから……だから、生きてくれよ!」
悲痛な叫び声を上げながら、姫は俺の胸を叩く。それでも、俺は決めた。命を諦めて、今日を輝かせることを。
俺は決めた。葛葉と共に歩いていくことを。
「……俺は死ぬ。それを、享受する」
止めの一言。姫は一瞬全身に力をいれ、そのままその力は拳となってこちらに飛ぶのではないかと思われたが、やがて緩やかに脱力していき、そのまま床に手をついた。ガシャン、と背負っていた弓と矢筒が落ちる。俺はそのままその場を離れ、部屋を出る前に一言だけ、言い残した。
「…………身勝手に自分の命を諦めておいてなんだけど、ついでにもう一つお願いだ。――お前は、死ぬな」
部屋を出る俺。廃屋から出て行く俺。
夏のしけた夜の空気は俺の体にまとわりつき――姫の絶叫は、俺の耳にこびりついた。
+
風呂屋の前まで歩いていくと、葛葉が風呂屋の壁に背をもたせかけて、待っていた。髪は濡れた様子がなく、ごわごわと広がっている。まさかとは思うが、と少々ひやりとしながら近寄ると、案の定葛葉は俺が来るまで一時間弱、ずっと待っていてくれたらしい。
「先に入っててくれればよかったのに」
「そういうわけにもいきませんよ。出てきてすぐ帰らないと、湯冷めしちゃいますから」
「あー、葛葉はからすの行水ってくらいに風呂早いからな」
「そんなに早くはないですよ?」
それでも、女は風呂が長いという定説に当てはまらないくらいには早いはずだ。
「まあいいか。待っててくれてありがとう」
「どういたしまして」
並んで風呂屋に入る。当然入る湯は違うが、それでもなんとなく近くに感じた。頭を流し、体を洗い、そろそろと湯に浸かる。
思い返すことは色々と、無いわけではなかったけれど。ざぶりと湯を掻く義手。これは結局のところ、俺が自分の甘さゆえに招いてしまった結果でしか、ないのだと思った。指先が湯の中でぐるりとうねる。そしてこの結果に後悔しないために、俺は今日、生きている。
「だから、これでいいんだよな」
湯船に浸かって十分に温まったところで、俺は軽く口笛を吹いた。周りのほかのお客さんもなんとなしに俺の意図に気づいたのか、微笑ましげにこちらを見てくる。向こうの湯船から、ざばりと湯が流れる音がした。
コーヒー牛乳を口にしながら、家まで戻る帰り道。火照った顔でこちらを見る葛葉に、俺は視線を合わせた。
「決算表は、ちゃんとありましたか?」
全て識っていそうな目線。それでも俺は、葛葉が俺の嘘を立ててくれた優しさに乗る。
「ああ、あったよ」
「ちゃんとあっていましたか?」
「そうでも、なかったかな」
返答に困っているのか、それとも何か思うところがあるのか。横顔からは読み取れなかったが、葛葉は何か言おうとはしていた。俺は黙って、歩きながらその返事を待つ。
「……あの子が間違えてしまった道は、もしかしたらわたしが居た道かもしれません」
結局、話題に上らせることにしたらしい。俺は黙ってそれを聞く。
「あの子とわたしは、同じ、共通の部分があった。それが、今あの子がやっていることに繋がっているんだと、思います」
「葛葉がああなっていたかどうかは、わからないと思うけど」
「いいえ。確実でした。ただ、わたしは一人じゃありませんでした。ひととせさんが、傍に居てくれましたから」
「そりゃあ、ね」
「それだけです。けれど、その差がわたしをここに留めて、姫をあの道に走らせたんだと思います」
あの時止められなかったことを悔やんででも居るのか、葛葉は歯がゆそうに語尾を絞る。俺はその時返す言葉も無く、葛葉と視線を合わせられなかった。俺は止めることも叶わず、結果として姫がこの一年五ヶ月やってきたことを、否定した。
諦めた俺と、咎を負いながらも諦めなかった姫。物語のように俺の人生を見るならば、きっと悪役は俺の方だ。
本当は、俺に誰かを否定する権利はないはずなのに。自分の決意を否定されたとしても。
「……だとしても、俺たちは『今』を大事にすると。そう、決めただろう」
ぽつりと、葛葉に問いかける。いや、確認を取る。
「はい。そのためにわたしは、あなたの横に居るんです」
「……ならそんな話をしても仕方ないな。俺たちが置き去りにした『過去』に、姫がしがみついてるっていうんなら。『今』しか無いと、昨日も明日も否定した俺たちには、そこにそもそも何かを言うことは出来ない。そんな大きすぎること、俺には言えない」
それに、と俺は葛葉に向き直る。
そこに咲く笑顔は他の誰でもないもので、俺はきっとそれを選んだから。
そのうち、アパートの前に、俺たちは立っていた。
「今日はもう、寝ようか」
「そうですね」
かんかんと音を鳴らしながら階段を上がり、二階の俺たちの部屋の前に立つ。あ、と思い出したように葛葉は鍵を出し、ドアを開けると入ろうとした俺を制止した。そして先に中に入って、俺に言う。
「おかえりなさい」
俺にとっては、いつだってこの言葉を言ってもらえる『今』。それが一番大事で、かけがえの無いもので。
だから俺は、葛葉と生きる。そして、いつだってこの言葉を言う。
「ただいま」