三十三頁目 殺す本気と殺せない気力。(罪罰回顧)
『――ならば俺の父さん、有和良斎の行方についてまずは問わせてもらおうか』
静かに俺は始めた。
人生で最初の、兄妹の会話を。
『あなたのお父さんの行方は、詳しくは母様から聞いた方がいいですわよ。ただ一つ言えるのは確実に亡くなっていて、そこの窓から見える草原に埋まっているということかしら』
無情ながら無関心な表情で、四季折はそう告げてきた。
予想は出来ていた、というか、父さんの言った通りの展開では、あったけど。
死体を見ていないこともあってまだ実感は湧かなかった。少なくとも、頭でしか理解出来ていない。いや、頭でも理解出来て、いないのかもしれない……なぜなら、どうしようもなく、留めようのない、
『そう、か。――あーあ、やっぱり……死んでたの、か…………』
涙が。俺は片手で顔面をつかむように押さえる。目頭が熱くなる。ふっと頭の中を、これまで父さんと過ごした日々がよぎった。いままで、ここまで、これまで、どこまで。共にあった時間を思い、涙がこぼれる。
……数秒。よし。収まった。ここに来るまでに、いくらでも涙は流した。それこそ枯れるほど。
今は、話すべき時だ。
『あなたはここへ、何をしにきたのです?』
落ち着いたところを見計らって、四季折は尋ねてくる。俺は少し、返答に困った。だが考えても出そうに無かったので、思いつくままに言う。考えながら話して、話した内容について考える。話せるということは部分部分は揃っているのだろうから、口にしてからそれをくみ上げるのは難くない。
『父さんがどうなったのか。それを知るために来たんだけど……ああ、死んだっていうのが認められないから、とりあえず動くことにしただけだったのかな。どうにもならない気持ちを、とりあえず動いているということで発散したかったのかもしれない』
『死んでいたら、その後どうするかなどは考えていなかったということ?』
『生きてるって信じてた。信じたかったし、信じるしか出来なかったから他のことなんか考えてなかった』
ぱちん、と薪が弾ける音。こちらを真っ直ぐに見据える四季折の視線は、少々の物音ぐらいでは逸れない。おかげで、俺も視線をどこかへと適当に向けるタイミングを完全に逸する。このまま、硬直させられそうな視線の只中にいるままに会話を続けることになりそうだった。
『では、これから復讐……などをする気は、ありませんのね?』
『質問しかしてないな、お前は』
『これは失礼しましたわ。では、今度はそちらからどうぞ』
すいっと引き下がり、促すように掌を向ける。毒気の抜かれた心地がした。
『……とは言っても問われたことに答えないのはどうかと思うからね。一応、答えておくよ』
毒気の代わりに、怒気が満ちる。
『復讐。ああ、やりたいに決まってる』
火が爆ぜる。それは俺の中で起こった事柄なのか、それともただ暖炉が火を巻き上げただけだったのか。床に目を落とすと、焔の揺らめく光が激しくブレて、とらえどころの無い影を落とす。目を上げると、四季折も視線を外していた。
さっきまでよりも少しだけ深く椅子に腰掛け、頬杖をつきながら天井を見ている。やがて、同意の言葉を口にした。口にしてしまう。
『……ですわよね』
『行動に移すかどうかはともかく、な……さて、じゃあ今度は俺からの質問だ。リオ。あいつは、一体何なんだ?』
相変わらず視線は逸れたままだったが、眼の色に喜色が宿る。くすりと、思い出し笑いのような息を漏らしてから、四季折は語る。
『恋人、ですわ。あら、存外に驚かないようですわね、まるで想像していたみたい』
『いや……まあ普通に考えて、必死になれるような相手で、しかも異性なら、恋人だろうと思っていただけだ』
『友人、という見方は思いつかなかったのかしら。恋人として見られる方が、わたしたちとしては嬉しいのですけれど……リオは、既に母様と同じで吸血鬼の呪いから脱していますの。だからこそ、わたしの分の吸血鬼を探すようにしてくれている』
『訊いてないことまで教えてくれるとはサービスがいいな』
『ならそちらも色を付けて答えてくれるとありがたいですわね。じゃあ、こちらの順番』
言って、少しだけ四季折は考え込む。小さなあごに手を添えて、何かいい質問は無いか、と頭を捻っている様子。
しかしそれは、俺の弱点を見つけようとか、何か聞き出して自分にとって有利に進めようとか、そういうことを考えている様子ではなかった。この場でするべきことを、する。会うべくして会ったから。そういうニュアンス。もちろん、今回は会うべく、と言っても強制連行だったわけだが。
やがてこちらに視線を向け、わずかに笑みを浮かべながら、問う。
『あなたには、誰か好きな人はいらっしゃるの?』
『……特別な人間、か』
『そう硬く考えなくてもよろしいのよ。単純な、好奇心ですから』
そこから余計な茶々を入れることもなく、四季折はそのまま待った。俺はその間考える。思いつく、好意を抱くに値する人物。宿屋のみんなや、少ないがいくらか居る友人。その中から、特別だと思える人間を探す。探している時点で、特別なのかどうか曖昧だと思った。
『わからないな。答えられないよ』
『寂しい話ですわ』
『特別な存在なんて、そうそう居るもんじゃないさ。でも、特別と言い切れなくても、俺はすぐに思い浮かんだ人々のことが、好きだと思う。そいつらには幸せになってほしいし、そいつらが死んだらいまみたいに、死ぬほど悲しい。そういう存在であるっていう時点で、寂しく無いと思うね』
『気がついていないというのが、一番悲しい話ですの。それとも、ものすごく気が多い人なのかしらね』
『なら俺は多分、悲しい話の人かもな。気が多いと言われたことも、感じたことも無い』
『あまりにも自然すぎて気づかない、というのは普通で凡庸でどこにでもある、普遍の事象じゃありませんこと? 難しく考えすぎて、遠いものだと感じて、自ら遠ざけているんじゃないのかしら?』
そうなのだろうか。本当に、それは簡単なこと、なのだろうか。今まで俺は他者からの好意というものを受けることも、こちらから好意を向けることも少なかった。それは状況とか、環境とか、色々なものの所為でもあったのだろうが……有和良春夏秋冬の性質として、元々そういう感情などが多くない、そんな気もする。
それにしても、その問いはどうも難しい。明確な心の動きなんて、わかるはずも無い。俺にあるのは――なんなのだろう。
問いに答えるのを待つこともなく、四季折は自分からまた切り出した。
『わたしは、リオが居るから生きたいと思っていますの』
『唐突に違う話だな』
『いいえ、同じ話ですわ。だからこそ、寿命を引き延ばすため、吸血鬼が必要なのです』
真摯にまっすぐに、俺の目を見据える四季折。ぐらりと、体が崩れかける。
それはその気持ちの強さに押されたためか。それとも――脳内がぐるぐると回る。少しばかりこみ上げた吐き気を押さえ込んで、今度は俺の方から四季折に向き合う。出来る限り平静を装い、あまつさえ口許には笑みを浮かべておいた。それにしても――なるほど。今までの話もやはり全て、そこに、繋がる話でもあったわけだ。
『なら、ここからそれについて話さないか』
『構いませんわよ』
四季折の瞳がかげり、暗い色を見せる。それは絶望に似た色合いで、話すことを拒む気色も表していた。だが俺は、いや誰であってもそうだろう、ムダに無意味に殺し合いなんて演じたく無い。
本当の本当に可能性がないのなら、それを示してから戦いの場にしてほしい。何を言えた義理でもないが、戦うしかないならせめて平等な位置で、としたい。そう、思っていた。
『ならまず和平の話。両方、助ける方法は無いのか?』
『ありませんわね』
一蹴。黙ったまま見ていると、四季折は諦めたように嘆息と共に始めた。
『何か思いつく方法があるのでしたら仰ってくださいな。片端からその案を却下して差し上げますわ』
『じゃあまず一つ。同時に血を吸う、というのはダメなのか?』
最初に思いついた案だった。殺しあうことなく、同時にその先の命を手に入れる方法。四季折はそれを歯牙にもかけず失笑と共に流す。
『……吸血鬼の牙から出る毒は、同属殺しの毒です。噛み付いた瞬間に絶命しますのよ、死体が二つに増えるだけですの。一定量、少なくともグラスに一杯ほどは摂取しないとなりませんし』
『なら血液を注射器とかで体外に出して、それを飲むのは』
『無理ですわ。この症状、永夜は病ではなく、科学でどうにかなる代物ではありませんもの。これは吸血鬼が搾取し続けた人間という種族全体の呪いですのよ。相手するにはスケールが大きすぎますわ……それが「血」という概念を介して発生しているというだけで、呪われているのは個人ではなく吸血鬼という「種族」全体。その反則技をしたところで、世界に根付く吸血鬼という種族、その存在という概念にかかった呪いは解けませんわ』
絶望的な事実を淡々と告げ、四季折は腕を組んだ。種族全体、人間の呪い、というところは父さんの遺書にあったのと同じ内容で、俺の心中にもうすら寒いものが芽生えてくる。
『言うなれば世界が審判。世界自体に吸血鬼が弾かれかけているという考え方、いや事実。口にした時間がほんの刹那でも早かった方だけを助け、もう一方の口にする血はその瞬間に呪いを解かれた普通の血液になりますのよ』
呪われているのは存在という概念自体。魔術的なそれは、人の呪い。脈々と受け継がれてきた吸血鬼の血族全てに起こる、呪いの夜。それを回避するため同属の血に手を伸ばそうにも、まず今では世界的にその数が激減を続けている。チャンスは少なく、今目の前に居る獲物を、逃す手は無い――。そんな、状況を自然と構成されてしまう。
『どうあっても、殺しあうしか、減り続けるしか無いように出来てるわけか……理不尽な、選択肢』
『世界に嫌われた存在、と言ったところですわね。けれど、嫌っているのはあくまでも人間という存在。つまるところ、吸血鬼にとっては世界に匹敵するほど、人間という存在は大きいんですのよ。生命線でもありますし、ね』
文字通り生命線。吸血鬼は、人間とそれに近い存在から血を搾取しているわけだが……実のところ、頼らないと生きていけないという時点でこちらの方が脆い生物であることには違いない。
『他に、吸血鬼を探せてはいないのか?』
『……強力な術士を何十人も護衛に付けた屋敷の最深部で飼われている吸血鬼以外では、あなた以外存在しませんわ。少なくとも、この十六年母様が探した限りでは、ね……それに、探しおおせていたところで助かるのはわたし一人ですの。あなたに分けることは、出来ませんのよ』
『…………』
考え込む俺を前に、疲れたように顔を傾ける四季折。その動作の影には、なぜか憂いや悲しみがあるように取れた。もちろん、俺の勘違いである可能性も否めないのだが、それにしては真剣に過ぎる顔つきだった。
と、この間隙を突いたかのようにドアがノックされる。俺が四季折の方向さらに奥にある樫製の扉を見ると、黒いロングコートを着たリオが部屋に入ってくるところだった。
「久しいな、春夏秋冬」
「それほど長く離れてたわけじゃないけどね」
無意味に表情を作ることもなく、無表情に対面する。それだけで、俺たちは互いが互いを敵と認めたことを察する。しかし四季折には日本語がわからないため、俺たちが軽く挨拶を交わすのを聞いても怪訝な顔をするのみ。なので、俺はあちらに合わせて英国語で話すことにした。
『一応今は四季折と話している最中なんだけどな』
『……わざわざこちらに合わせてくれるのは有難いが、そろそろ食事だ。続きは夕食をとりながらでも遅くない』
『敵地で夕食、ね』
『いやなら皿を下げるだけですわよ』
つんと素っ気無く言われて、ふっと息をつき俺は立ち上がる。リオに向かい合い、仕方なしに着いていくことにした。
『毒を盛ったりするなよ?』
『殺す気ならば今でも出来ていたが。回りくどい真似も卑怯な真似も、出来る限りオレは避けたいと思っている』
こつこつと音を響かせ、廊下を歩く。やたらと冷え込む廊下は奥まで続いており、そこから古めかしい鉄柵がかかるエレベーターに乗る。四季折に合わせているのか歩くスピードはとても遅く、ちらちらと後ろを窺うのも俺への警戒というより四季折への気遣いが多かった。もちろん、少なからず警戒はされている。
『普段なら四季折の部屋まで食事を運ぶことも多いのだが。今日は、一応主賓であるお前が居る手前そういう訳にもいかんのさ。四季折もそれなりに体調が良さそうではある、たまには歩かないと体にも悪いしな』
『あら。普段歩けると言い張っても背中を差し出すあなたらしくないセリフですわね、リオ』
『……いや、それは仕方ないだろう。顔を赤くして咳き込んでいるのを見ると心配になるんだ、オレは』
『背負っている時はリオも顔を赤くしていますのよ。下心もあるのではないかしら』
『ふん』
俺が話しかけられていたはずが、いつの間にやら二人だけで話し込んでいる。
というか惚気だろう、これは。
『……空気読んでないみたいで悪いんだけどさ、俺のこと忘れてない』
『何の話だ』
すっとぼける気でいやがる。それとも意識していないのか。いずれにせよ迷惑で性質が悪いことは疑いようも無かった。ゴトン、と音がして箱が軋み、柵がスライドしてエレベーターは下の階層に着く。
そこから少し歩いて右手を見ると、二階堂家のホール入り口に似た大きな扉があった。両側を押してリオが中に入ると、ロウソクなどの明かり揺らめく室内が広がる。しかし二階堂家のように長々とした机に何脚も椅子が並んでいる様子ではなく、少し大きめの円形テーブルの向こうにマリアが腰掛けていた。ふと、リオが顔をしかめる。だがその意図は読めない。
四季折とリオも椅子に座る。テーブルを時計に見立てると、マリアが十二時にリオが三時、俺が六時で四季折は九時。それぞれがくつろいで座る。俺自身ですら、ほとんど開き直って。
『初めまして、春夏秋冬』
『どうも。マリア・ミハイロブナ・クリアウォーター』
長い、ところどころカールした黄金の糸のような髪。燃える火のような金色の瞳。透けるような白い肌、とがった顎はシャープな顔の印象を強める。全身は四季折と同じく黒いドレスで纏っていて、左手だけが少し不自然な動きをしていた。
確かに。父さんが惚れたのも、わからないではない。エルフみたいに美しい。
『……流石に血縁の者にはわたしの魅了の魔眼も効き目が薄いみたいね』
『なんだ、やたら綺麗だと思ったら幻覚か』
『失礼ね春夏秋冬。この顔は生まれつきよ。魔眼の効果は、たとえわたしが口の裂けた化け物であっても惚れさせる能力』
『整った顔で良かったな』
どうかしらね、と言って、マリアは指を打ち鳴らす。瞬間、マリアの背後に長い髪の少女が現れる。一目見てわかるその存在感は、精霊のもの。だがしかし、神格級の精霊だ。これが……シルフか。
風を操ったのか、ワゴンがカラカラと音を立ててやってくる。そして一皿ずつ俺たちの前に食事を運び、それぞれ手をつけはじめる。俺は一応警戒して、食べないことにした。
『警戒、しているわね』
『当然だろう』
『殺すならいつでも出来ているのにしていない。その意味を、ちゃんと考えて欲しいですわ』
もくもくとフォークを使いながら、四季折が言う。俺はそれでも食欲が湧かない。代わりに疑問が湧いてくる。
『なんで殺さなかったんだ? いや、気絶させてすぐ血を吸わせることは出来たろう?』
『――忘れたのか。オレは決闘をお前に申し込んだんだぞ。それならばフェアな条件にお前を引き上げなくてはならない。だから、オレたちの知る全てを話し、対等な状態を作る必要があった』
ちらりとこちらに琥珀色の視線を向けてから、リオはグラスの水を傾ける。
『貴族、だからか?』
『まあそれもあるな。……ん? オレはお前に自分が貴族だったと言ったか?』
『なんとなく所作から判断した。それにマリアの一族も貴族だったらしいし。関連性ゼロってわけでもないかなと』
貴族にとって威信をかけた『決闘』は何にも増して大事なものだ。一度仕掛けた闘いを逃げれば、それはもはやプライドを失った負け犬。卑怯な手を使えば鬼畜。姑息な策を弄せば畜生。それくらいに、大事なものだ。俺は貴族でも何でもないから、そういうことにはとんと無頓着だけど。
『にしても、過去形か』
確認を取るように俺が言うと、リオは不愉快そうに鼻を鳴らした。
『貴族であっても無くてもどうだっていい。要は心と力があれば、な……オレには昔、力が足りなかった。それで貴族で無くなった。それだけだ……。後悔しか、過去には存在していない』
『俺だって後悔の連続なんだけどね、過去なんて』
そう言うと何か言いたそうにリオはこちらに視線を向けた。しかし考え直したのか、そのまま視線を下げてグラスをあおる。
まあ、威信をかけて闘いを申し込まれたとしても。そんなことに頓着しないとも限らない。俺はやはり、何も飲まず食わずでいくことに決める。すると、今度はマリアがこちらに視線を投げかけてきた。
『――――斎の死については何か言うところは無いの?』
一番デリケートな話題を、躊躇さえ見せずに告げた。赤ワインの入ったグラスを揺らしながら、グラスの色越しにこちらを見る。瞬間、俺の中で感情が昂ぶる。目の前に居るこの女が、父さんを殺した相手なのだと。感情が理性を撃ち殺して泣き叫ぼうとする。
だが、今ここで。無策のまま突進してどうなる。
復讐鬼と化すのか? と、冷静で居られる自分も居た。
なぜか。
『……怒ることは無いのね。正直、激昂すると思っていた』
『試した、つもりか』
『ううん。純粋に気になっただけよ』
こんなになった腕を見てたら、ね――。そういうマリアの左腕は、鉄製の義手だった。これを、父さんが。
『彼は本気だったわよ。けれど、負けた……わたしに、負けた。めちゃくちゃに押し潰されて、今はその草原で眠っている。東洋最強だった術士、〝輪廻転回〟。しかし〝翠風環〟のわたしは、西洋最強だった。それだけね』
歌うように言うマリア。
また熱くなる心。しかし、それを押し留める心もある。
『父さんを、殺したのか……』
『今さらの言葉ね、春夏秋冬。殺したわよ。わたしがこのシルフの魔術で。全力で以て、叩き潰した。あの男は、わたしの知る中で最高の男だった……。でもあなたは、そのステージに指をかけてすらいない。リオ、本当にこの男に決闘を仕掛けるだけの価値はあるの?』
唐突な言葉に、俺は当惑する。
価値、だと? 一体何を。
『――言いたいことはわかるが。それにしても、こいつの能力は相当に厄介で、警戒に値する敵であることには変わり無いだろう。何を言っているんだ、マリア』
『警戒なんてネズミ相手でも獅子相手でもするでしょうよ。この男は、獅子の気迫を持っては居ない。そんな相手に全力の警戒態勢など必要ないでしょう、とわたしは言っているのよ』
冷ややかに言うマリア。
そして今、ようやく気づく。
本当の本当に、この女は、今。俺に対して、警戒をしていない。
多分、ずっと前。俺がこの部屋に足を踏み入れた時から。
俺がマリアを、殺せる状況に置いていた。部屋に入った時にリオが顔をしかめたのは、俺相手にだらけているマリアを、見たため――。俺は、全く見られていない。スルーしても構わない、その程度の相手だと、認識、されて。
『あんた、本当にわたしたちを殺す気はあるの?』
マリアの言葉がぞくりと響く。胸に痛い。耳に痛い。
リオは気まずそうに俺から視線を逸らす。急速に、俺の中の何かがしおれていく。
俺は、父さんを殺した相手を、本当に本当に憎んでいるはず、なのに。
どうして、沈む。どうして折れる。
『最初っから気持ち折れてるくせに、いっぱしに敵討ちでも考えてたの? お笑い種ね』
そう、なのか?
燃えていたような気がした心持ち、あれは、いつ消えた。
最初からなかったのか。
なぜだ。
『……なんにしても決闘はしなくちゃならないわ。あんた相手なんて鬱陶しいけれどね。期限は三日後。それまでに、心を奮い立たせるなり逃げるなり好きにするといいわ。もちろん、逃げたところで捕まえるけれど』
リオは。
俺を心底呆れたような、失望した眼の色で見ていた。
四季折は俯いていて表情が読めない。
『近くの村から車が出ているわ。それに乗って帰りなさい。見ているだけで、不愉快なのよ。あれだけ戦略を立てたのも全て無為の無意味、何のためにしたのかわからなくなる』
俺は、席を立った。これ以上この場にいられない。いたたまれなくて、逃げ出すように歩き出した。
去り際、立ち上がった四季折に詰め寄られた。玄関ホールに出てくると寒いんじゃないかと思ったが、肩にはリオのロングコートが羽織られていた。
『……もう一度よくお考えになるのですわね』
「なにをだよ」
思わず日本語で返してしまったが、四季折は俺の目をじっと見ているだけだった。
『あなたにとって特別なものがなにかを。あなたの人生の意味を』
吸いこまれるような瞳の輝きに俺はぐらりと視界が揺れるのを感じた。ふっと、頭の中に激流が過ぎ去り、記憶の大河から漏れ出たいくつかの支流の行方を見たような、不可思議な気持ちになった。ホールに出てきたリオは四季折を見るとすぐに肩を抱き、部屋に連れ戻していく。
俺は頭痛が収まるのを待ってから、ふらつく足取りで平原へ出た。
+
何をしに来たのか、この国まで。
生き長らえたいから、と漠然と考えてはいても、敵討ち、と薄く考えてはいても、殺す、ということを本気で考えていなかった。それは、なんだろう。最近、人間の死を感じないように生活出来ていたから、だろうか。
星火燎原の時は葛葉が斬った。テオドールは柊が殺した。九尾は……殺すのは嫌だったけど、人間ではなかった。それに俺が直接手を下して居ない。小龍もだ。そもそも、日本に着いてからは俺が殺しを禁じえないほどの力量の相手はそう居なかったし、居ても輪廻転回たる父さんが現れれば早々に逃げていく。
最近、血の味を忘れた。
「いいことじゃないかよ……」
だがそれがここに来て弊害になっているのか。殺しの妨げになっているのか。ならば、それはなぜだ? 俺は恨む気持ちや憎む心地を落としてきたのか? わからない。いや、今も恨み憎んではいるんだ。けれど、それをどう向ければいいのか……。
ごとごと揺れる車はみんなの居る街へと戻っていく。俺は未だにどうすればいいのかわからない。
どうすればいいんだ。何をするべきなんだ。
わからない。
「ひととせ!」
街に着いて車を降り、代金を払っていると姫に会った。片手を挙げると飛びついてきて、しかしそれは可愛らしい威力ではなかった。軽く吹き飛ぶ。
「どこ行ってたんだ、探してるぞみんな!」
「ああ、ちょっと。奴らに連れ去られてさ……」
「だ、大丈夫だったのか?」
「見てのとおりだ」
体は、な。とは言えなかった。
「そっか……でも、倒してきた、ってわけじゃねえみてーだな」
「ん。双方様子見って感じかな。ただの顔合わせ、決闘を前にしての、さ」
ふらふらと歩き出し、俺はバスの停留所として設置してあるらしいベンチに腰掛ける。透き通る空気に、夜空は綺麗だった。横に姫も座る。寒いからか、間を出来るだけ詰めて。触れている部分が少しだけ、暖かだった。
「……本当に、何もなかったのかよ」
「なかったさ。ちょっとした精神戦があっただけで」
ぎし、と音を立てるベンチに深く腰掛け、俺は俯く。自分の心が、わからない。
「なあ、ひととせ……敵に会った、って言うなら、その……斎の、ことは」
「死んでたよ」
それだけは間違いようが無い。俺は姫の言葉に即答して、村まで歩く際に草原を通って確認したことを告げる。
杖の突き立った地面の下からは、吸血鬼の嗅覚でしっかりと捉えられるだけの血と脂、それらの腐った臭いがした。素手で掘り返していくと、徐々に臭いがきつくなる。耐えられなくなってもどしそうになったところで、俺の指先はべとべとに濡れた着物に触れた。
そっと。探ると。その布の向こうでは内臓が一欠けらも残すことなく押し潰されており。上へ上へと土をどかすと、顔が、出てきた。土気色になってすっかり生気を失った、父の顔。ずっと俺を見守ってくれていた父の、死に顔。それが、そこに在った。
「……俺を、吸血鬼である俺を狙う奴らだったから。そいつらを倒すために父さんはここまで来て、そして破れた……ずたぼろにされて、死んでた。生きてなかった。俺のために戦ってくれて、そして………………しん、だ」
「――そっか」
姫も俯く。長いポニーテールが揺れて、垂れ下がる。
父さんの死。初めての、身内の死。
そうか、これが――――俺が他人に与えてきた痛みだ。ずっと正当性ばかりを、防衛のためだったと言い聞かせてきたけれど。この痛みが、俺の真に受けるべき罰。身を引き千切るどころじゃ済まされない、どんな痛みにも勝る、心痛。……辛いな。本当に、辛い。
「こんなんじゃ、戦う覚悟なんて出来るわけ、ないよな……」
「戦う、のか?」
横から姫が驚いた顔でこちらを見る。それは、俺が復讐に身を落とすことを心配するような顔つきだった。
「いや……どうかな。でも、戦わなきゃならないのは事実。そうなると」
握って、開く拳。染み付いた腐臭が今にも掌から漂ってきそうだった。でも、それは決して父さんの死を暴いた時の臭いだけではなくて。これまで殺し続けた人々の血の、肉の、骨の、皮の。そこまで考えて、拳を閉じた。
「確かに。でも、生きなきゃならないほどの価値なんて、俺にはないな」
「なに言ってんだよ。生きなきゃならねーだろ、生きるためによ」
「そんな循環論法をしてもしょうがないんだよ。俺には、生きる可能性が無くなろうとしてるんだからさ」
脱力する。そのまま地面にめり込んで消え行きそうな心地で。
今まで生きてきた中で、一番。重たい死の気配がのしかかる。殺す気が起こらない以上殺される。ならば俺が生きることは出来ない。絶望し気力を失うこの状況で、何より絶望したのは自分自身に対してだった。
あれほど人を殺して生きてきて、恥さらしでも進んできたというのに。今また、道を塞ぐ者が現れたというのに殺す気が起きないとは。責任なんて死者に対してしか無い。だから殺した分も、生きようなどと考えていたはずなのに。
死が、ぐっと身近に感じられている。それは本気で殺す気で対峙されたこと、それに自分は気力を返せなかったこと、その二つに起因する。
「生きろよ」
「無理だ。もう、殺される他無い」
「最後まで戦えよ!」
立ち上がる姫。何がなんだかこの会話だけではわかっていないだろうに、その瞳の端には涙が浮かんで。俺の話していることが全て、考えていることまで補完されて知られているように感じた。
風が通り抜け、俺の思考から余分なものもかっさらっていく。
もう、隠し通せない。
「……姫。一つ訊きたいことがあるんだけど、いいか」
こちらを向く顔は少しだけ曇ったが、一応頷く。
「なんだよ?」
「いや……、あのさ」
立ち上がり、俺も姫に向き直る。暗い夜空の下、姫の金色の瞳が輝いた。
「あと二年で俺が死ぬとしたら、これからどうすればいい?」
次回楽園エンド。
ではまた次回