三十二頁目 渡り、対面の時。(短命二人)
ロンドン近郊のとある墓地に、アジア系の顔立ちをした男が立っていた。霧雨の降りしきる薄暗い墓地の中、礼儀をわきまえないことに、男は十字架型の墓標にもたれている。黒革のジャケットの袖を絞るように固く腕組みする男は、厳格そうないかめしい顔を固く硬直させている。まるで彫像か何かのようだった。
「待たせたか、爪刃」
「……クライアントとはいえ、本名を呼ぶな。そして、もう少しばかり時間に配慮してほしいものよな」
わずかに皺の寄っている、しかし壮年の頃の勢いをそのまま残したような男、李小龍は、墓標から背を離して向き直る。靄の向こうから突然に現れたように、いつの間にかそこにリオが立っていた。小龍の仕事の依頼主であり、吸血鬼なのだというこの少年。ロングコートのポケットに手を突っ込んだまま、爪刃、もとい小龍に相対している。
「さて……オレが来た理由は、わかってると思うが」
「任務が失敗したから、か」
「そういうことだな」
小龍は足音を立てずに歩き、リオが今来た墓地の入り口へと進む。腕組みを解き、両手はぶらりと体の脇を舞う。
「すまなかったな。クライアントの希望に添えぬとは、仕事をする者として失格よの」
この言葉だけは本当に残念そうに呟いた。リオはその言葉に反論するかのように、少々強めの語調を飛ばす。
「なに、心配には及ばない。この失敗を口外する気もないのだし、これまで通り仕事を請け負えばいいだろうさ。ただ、オレとしてはもうお前を雇うつもりは無いが」
「厳しい言葉だ」
「では、これで契約は破棄ということで」
「ああ」
ズン、と音がして、リオの周囲の土が盛り上がる。
「――心置きなく、殺しあおう」
口約束など意味を持たない。仕事の達成率というのは、そのまま業界での信用度に直結する。九尾という極東最強の神格精霊まで従えて仕事をしくじったなどと知られれば、裏で今まで小龍が築き上げてきた全てが無くなる。ならば、どうするか。――その事実を知りうるリオを、殺害してしまえばいい。
もっとも、リオにも戦わなくてはならない理由があった。もしもこういう状況に陥った時のための保険だったのか、小龍はリオやマリア、四季折が根城としているツエペシュ城の場所を知っている。もしもか弱い吸血鬼である四季折がそこに居ることが裏業界に知れれば、リオが彼女を守ることは一層困難になってしまう。ならば、殺せばいい――。
二人共が、己の弱みをもみ消すために構える。
「最後に一つ問わせてもらうが」
「なんだ?」
「なぜ、吸血鬼の身でありながらにして同属を狙う?」
数日前に有和良に頼まれた言伝を、小龍は問いかけた。別段答えを得られても伝えに行く気はないのだが。純粋に、同属を狙う意味が解らず小龍は尋ねてみたくなったのだ。そしてその問いかけにリオは嘲笑で返す。無知を嘲笑う、識者の笑み。なんだ、そんなこともわからないのか、と。
「女が居るんだ」
「なに?」
「惚れた女が居る、と言っているんだ。その女のために、その女の命を繋ぐために同属が必要。だからこそ求める。他に理由は無く、それ以上に理由など要らない。己が全てを掛けるに値する人が居れば、それは何をおいても優先されうるに決まっているだろう?」
真っ直ぐな言葉に、小龍は一瞬固まり、そして笑って返す。それは嘲笑でも失笑でもなく、純粋に微笑ましいものを見たかのような表情。リオにすっと向き直り、構えを取りながら呟く。
「これは失礼したな。成る程……それは、解り易く良い答えだ」
「だろう? だからこそ。敗れるわけにはいかない」
その言葉を皮切りに表情を互い、引き締める。ぞわりと立ち上る殺気、一般人では近寄ることも出来ないような気迫。覚悟の元に向き合った二人は、一切の手加減なく全てを掛けて戦うことを無言のうちに誓い合う。
「――かかれ」
事前に術式を仕掛けておいたのか、墓地に眠っていた死体が蘇る。
屍人を操る符札が、それぞれの額に貼り付けられていた。骸骨からまだ肉片残るモノまで、ざっと七十体。言葉も無く取り囲むそれらは、見た目に反して強い力を持つ。キョンシーと言っても死後硬直で固まった肉体より、白骨と化しているものが多いため、お決まりの両腕を掲げたポーズで飛び交うようなこともない。骨ゾンビと言った方が形容としては当てはまる、そんなモノどもだった。
だがリオは。
「……やれやれ、術を仕掛けるのをわざわざ待ってやったのにこの程度か?」
涼しい顔でコートの内に手を伸ばす。
「こんなもの、術者がやられれば終わる術式だ。普通、トラップとして使用して術者は離れているのが基本だろうに」
リオの言葉には耳を貸さず、手を上げて攻撃の指示をする小龍。
がり、と石畳の地面を蹴りつけて飛び上がるキョンシー。それぞれの腕が空を引き裂き、リオに襲い掛かろうとする。その速度は、人間であった頃には決して出せない。術式のみで操られる、肉の無い人形だからこそのトップスピード。
しかし。
「――『 』。」
小龍の目とリオの目が合う。ぼそりと呟いた言葉はしかし、届かない。ただその琥珀色の眼が、小龍の中から何かを奪い去った。瞬間、キョンシーの動きが見えない糸に巻きつかれたかのように急激な停止を見せる。しかし小龍はそれをどうすることも出来ない。
「な、なん、だ?」
「――まだ戦闘中だぞ」
呆けた様子の相手を短くたしなめたリオは、人間の限界を遥か越える速度で、コートの内から武器を抜き放つ。右手でするりと取り出したのは、細い槍。いや、全長七十センチほどのそれは、投槍と言った方が良いのかもしれない。白銀に輝く両刃の槍。
それが。
小龍の胸にめがけて、一直線に撃ち出される。ただの吸血鬼に過ぎない彼が、いかにしてそこまでの膂力を手に入れたのか。ともかく、その投槍の一撃は霧雨を吹き飛ばしながら、小龍の心臓を射抜こうとしていた。が、キョンシーの動きが止まったことに気をとられていた小龍も、既に意識をリオに戻している。冷静に状況を分析した。
(かわせる速度では、無いな。だが、逸らす程度ならば!)
風水術を行使する。この時、現在地に置ける方角と、地脈の流れ、地磁気を算出。大地の力とも呼ぶべき地脈の流れの中を、一直線に貫いてくる槍。小龍にとっては、地磁気は己が皮膚の触覚。言葉では伝えきれない第六の感覚。それを頼りに、軌道を読む。そして、左手で作った拳が、下からその槍を打ち払おうと、
(――っなに?)
出来ない。
時間が引き延ばされる。恐怖が体感時間を延長する。細い槍は、建築用の鉄骨のようなとんでもない重量感を持ち合わせていた。どう攻撃しようとも、決して動かせないような。その事実が、小龍を恐怖させる。この攻撃はかわせず、そして逸らせない。その事実が突きつけるのは、単純な一つ。
李小龍は、ここで死ぬ。
(なぜ、そんな、ことが)
槍を投げたリオを見る。軽く、小石でも投げるかのような体勢で、こんな重たい一撃を放っている。その表情は、憐れみでも感じているかのような呆れ果てたものだった。
――体感時間が、元に戻ってゆく。
元々、刹那の出来事でしかない。
走馬灯がぐるぐると頭の中で駆け出したのと同時に、心臓がすとん、と小気味のいい音と共に貫かれた。重たいが、洗練された鋭い一撃。仰向けに、霧雨舞う曇天を眺めるかのように、倒れる小龍。
リオを取り囲んでいたキョンシーの群れが、ばらりと力を失って砕ける。
「……たかだか三十年の修行で得た術式で、千年級の神器に勝てると思ったのか、お前は」
神器。その言葉が、血液の失われ行く小龍の脳内にこだまする。槍は今や、見た目通りの重量に戻り、心臓に突き立っていた。それが、ふっと姿をかき消し、いつの間にか隣に歩いてきていたリオの手の中に戻っている。
「神、器、だ……と?」
そう神器さ、と笑いながら呟く。細い槍は、コートの内に仕舞われた。
「一つ目の神オーディンが所有したとされる、絶対必中の神槍」
ばさりとコートを翻し、重い音を立てながらリオのコンバットブーツが石畳を踏みしめ、去ってゆく。霧雨は強くなる一方で、雨粒も大きくなり始めていた。事切れた小龍の血も、雨に流され排水溝へと流れ込んでゆく。
「北欧を回って探し出してきた、神代の武具。〝神威貫きし槍〟」
まったく人間のようにしか見えない吸血鬼は笑う。
霧深いロンドンの街を闊歩し、その姿はやがて人ごみに紛れ消えた。
+
遺書。
それを見つけた俺は、まず最初に戸惑いを隠しきれず、泣きかけた。父さんはもうこの世には、多分いない。その事実が重く重く、胸に突き刺さる。ひとしきり感情を押さえ込んで、かなり疲弊した後で。俺は、この遺書をみんなに見せることにした。
反応は、俺と皆変わらない。当たり前だ、死んでいるはずはない。と、思える。あの父さんだ。俺の、父さんだ。死ぬはずが無い、と。感覚が伝えてきても感情がそれを無視して叫ぶのだ。
「ふう、よし」
今後についてはその時、全員で話し合った。
+
「俺は、事の真相を知るために今度はルーマニアに渡ろうと思う。宿屋の方は、全権を川澄さんに預けるから」
「何ゆえ私に任される。私ら全員、ついていくに決まっておろうが」
川澄さんは決まりきったことのように、即座に答えを返してきた。だが俺にとってもその回答は予定調和、台本に載っているかのように決まりきった決定事項。だから頭の中にあったシナリオ通りに答えを返す。
「そのボロボロの柊も引っ張りまわして、か? 大体、宿屋を休みすぎてるんだよ。今回だって捜索から何から、時間をどれだけとられるかもわからないというのに。宿屋はみんなで続ける、俺は単独で真相を究明する、以上だ」
「……自分勝手なわがままで一人暴走する気かよ。あたしは許さねーぞ」
「私もです」
「ボクも」
「わしもじゃな」
全員の目が――言葉を発していない柊も含めて――こちらを向く。
わかってるさ。ああ、わかってた。
そんなみんなだからこそ俺は、ついて来て欲しくない。
「……わがままだけど、な。みんなが着いて来て怪我でもしたらどうなる。正直、今回柊がボロボロになったので俺はいっぱいいっぱいなんだよ。葛葉の時も、要の時も……誰かが傷つくっていうのはさ、いくら見ても慣れないんだ。その上、父さんまで死んだ……かも、しれないなんて。ついて来られるのが、それで怪我されたり、死んだりされるのが、俺は――――途轍もなく怖い」
だから嫌だ、と続けようとしたところで、姫がゲンコツを振るった。厨房の端まで、とは言わないが、小柄な体から放たれたとは思えない威力に俺は吹っ飛ばされる。皮膚がじんじんと痺れ、左の顔の皮が削げたんじゃないかと疑う。顔を上げると、姫は泣きそうな顔をしていた。
「そういうこと言うな。あたしらだって同じように、ひととせに死んでほしくないんだ! ……一人で全部抱えなくても、いいじゃねーか。あたしらだって今まで、ひととせに救われてきたんだからよ」
――――結局、俺はみんなと行くことにした。
+
表向きは。
「よし、あとは音を立てないように運ぶか」
深夜二時、草木も眠る丑三つ時。ジーンズに黒いシャツ、濃緑のジャケットを着て、俺は部屋を出る。片手には灰色のトランク。中には、海外を歩くに必要なものをいくつか。英語はそれなりに話せるので辞書は入れていないが。
「みんなに気づかれないように出なくちゃな」
見張られるだろうことは気づいていたため、俺はこの数日、まったくその素振りを見せないよう行動した。要に会いに行った以外は何一つ行動を起こさず、水面下、思考の範囲内でのみ延々と考えを巡らし続けた。
そして今日。逃亡生活の産物、決めた時間に確実に起きれる能力を活用し、俺は外に出ようとする。廊下の端を歩き、階段の軋む段を飛ばし。慎重に慎重を重ねて、トランクと共に外に出る。裏口の引き戸を開ける際、少々カラカラと音が鳴ったが、それで気づかれた様子はなかった。
「……みんな、ごめん」
言い残し、俺は外に出る。
瞬間、右の頬から衝撃が伝わり、俺はまたも吹っ飛ぶ。
「なにがゴメンだよ、ばか」
くわんくわんと揺れる視界の中に、いつもの赤いポニーテールが見えた。着物ではなく、洋装に身を包んで仁王立ちしている。姫の横にも、俺と同じようにトランクが置いてあった。
「あたしも一緒に行くに決まってんだろ」
「……はあ」
「溜め息つくな」
「ふう」
尻についた砂を払い、俺は立ち上がる。姫は腕組みしてふん、とこちらを見上げていて、俺は再度溜め息をつきそうになる。トランクを起こしてから、姫に向き直った。
「他のみんなもか」
「いんや? あたしだけだよ」
きょろきょろと辺りを見回しても人気は無い。それから視線を戻すと、既に姫は赤いトランクを引いて歩き出していた。
「ひととせが一人で行くのは反対だ。でも、それで宿屋を放っていくのも確かに悪いかもしんない。なら、あたしだけでもついて行く、って決めた」
「今後は絶対に自分勝手という言葉を他人に使わない方がいいと思う」
「そんなの知らねーもん」
笑いながら横を歩く姫。俺は溜め息を聞かれないように一つ、吐き出し、頭を抱える。
「まあ、当然の話ですが」
そこで、聞き覚えのある声が前方から響いた。
「姫のやることを私が思いつかないはずもないわけでして」
「やっほー」
さらに二人、追加された。
「あと」
後ろからも声。
「あれだけの物音を立ててバレておらんと思うのは、少々間抜けが過ぎるがな」
「宿屋はわしの体表なんじゃぞ?」
さらに二人。いや、三人。声を発していないだけで、もう一人、あいつが。
「柊……お前、もう歩けるようになったのか?」
最近の常となってしまったが、首肯するのみで声は出ない。当然だ。まともな会話ができるような、精神状態じゃないはずなんだ。それなのにここまで見送りに出てきてくれただけで――十分だった。
それなのに、今日は。
「…………主人」
ぼそりと呟く。
「我の怪我は我のもの、なのです。それをあなたが悔いる必要は、ない。……我は、ここに居られて、それなりに良かった、と思えているのですから。家族は無くなりましたが、死ぬこと無く、ここに居る。いまはそれで、いまだけは、十分。なのです。だから……今度は、我の番、だと思うのです」
…………アホ臭い。
これではまるきり、俺が悪役か何かのようだった。いや、実際のところみんなの気持ちを踏みにじろうとしたのだから悪役の一種ではあるのかもしれないが。それにしたってこの不意打ちは、卑怯だった。
「わかったよ」
ああ。
俺は、独りじゃないらしい。
「ありがとう、みんな」
+
リオは、久々に戻ってきた城の中に居た。小龍を始末し、これで不安要素も全て無くなった。
あとは春夏秋冬に呼び出しの手紙を出し、戦う。父の死を呼び水にすれば、まず間違いなく来る、とリオは踏んでいた。
『いささか、卑怯な気もしなくはないが。全て利用するくらいの心構えが無くては、何も為すことは出来ん』
暖炉の前にあるロッキングチェアーに腰掛けたリオは、同様に前に座っている四季折に話しかける。リオの言葉に、四季折はにこりと笑って返す。今日も今日とて、病弱そうな肌は火に照らされて白く輝いていた。黒い艶やかな髪も同色のドレスに溶け込まない、別種の輝きを放つ。
金色の瞳のみが異彩、文字通り異なる彩色、を放っていた。
『では……兄、春夏秋冬が来れば、これまでの全てをリオは終わらせるおつもりなのですね』
『ああ。必ずお前を助ける。その辛い病も、オレのように治るんだ』
立ち上がって、リオは四季折の頭を撫でる。嬉しそうに顔をほころばせながら、四季折はその手を掴んで引き寄せる。
『全てが終わったら、その時こそゆっくりと体を休めながら暮らそう。それからは、もう絶対に傍を離れない』
『わたしも……ですわ。何があっても』
ちゃり、と四季折が胸に提げたアクセサリーが擦れる。リオから四季折に渡された品。二人を結びつける何かの一つ。と、そこにドアを開けて、にやりと笑いながらマリアが二人の様子をのぞきこんでいた。下世話な笑みだ、とリオは苦笑しながら四季折から離れた。
『あらあら、入ったらいけない空気かしら?』
『無粋な声かけの時点で常識という禁は破ってるだろう……』
『か、母様。わかってて入るのやめてくださいます?』
三者三様の態度、その後誰からともなく笑い出す。近くの机から椅子を一脚引いてきて、マリアも暖炉の前に座り込んだ。肘掛に置かれた左腕がガシャン、と音を立てる。どこかで買ってきたのかそれとも城の中に最初からあったのか、左腕は鉄製の義手。風を纏って動くそれは、人の限界を凌駕する動きを見せるが、人にあるはずの体温だけは再現しない。
四季折はそれを見るとやるせない気持ちになる。
『さて。いよいよ大詰めね』
膝の上に両肘を乗せ、手を組み合わせてその上に顎を載せ。マリアは真剣な面持ちを焔に照らされながら、ぼそりと呟く。声色は先ほどまでと打って変わって冷え切っており、リオがそれに続けて言葉を繋ぐ。同様に、声音を低くして。
『……春夏秋冬にはオレから招待状を出そう。事前に状況も説明して、あくまで対等な条件で戦いあう。そういうことで、いいな?』
対等、とは言っても進むしかない道を提示した上でマリア、リオの二人と(一応、一対一で、だが)戦わせるのだから、平等とは言いがたい。だが、二人はその方法を採る。有和良斎がそうしたように、彼らもまた、他の全てを捨てて四季折の命を救うことを望んでいるから。
と、リオの問いかけに、しかしマリアは首を横に振る。
『了承したいところなんだけどね。ちょっと問題が発生したわよ』
『なんだ?』
『あの宿屋一行、もう日本を出てこちらに向かってるらしいわ』
マリアが嘆息と共にそう言うと、リオは驚きを混ぜた呆れ笑いを浮かべる。
『……なんだ? まさか、誰に教わるでもなく吸血鬼のことについて悟ったか』
『普通に考えて永夜の症状から気づく可能性より、誰かに教わる可能性が高いでしょう。吸血鬼についてある程度見識のある人間にあったか、それとも……有和良斎が、事前に伝えておいたのか。多分どちらかよ』
軽く爪を噛もうとして、左腕だったことに気づくマリア。こっそりと右親指の爪を齧りにくそうに歯の間に挟み、暖炉の火を見つめる。四季折はそんな母を見て、なんとなく居心地悪そうに椅子にもたれかかっている。
『まあ、計画にそこまでの支障は出ないだろう。到着したあいつらに、こちらからコンタクトをとればいい』
『あいつ「ら」なのよ? 事情を知った上でこちらに来ているとなったら、会った瞬間に敵対、全面的な戦闘が始まる可能性だって否定しきれないわ』
『……、』
二人が話すのをよそに、四季折は霧雨が掛かり始めた外を見る。窓の向こうは室内との温度差が大きいのだろう、窓の縁から曇りが広がっていた。やがて曇りは大きく広がり、マリアが押し潰して開けた平原の大穴などが見える景色を、覆い隠した。
『例えそうなったとして、オレが四季折には手を出させない。貴女にはシルフも居る。やはり、計画が早まるだけだ。それ以上の何かなど有り得ない。そうだろう? 違うというのか?』
『それはそうだけど……楽観的に言うわね。九尾の妖狐と言えば、魔術に疎いあの国の人間だってそれなりに知っている大物よ? それを倒せた技量を持つあの宿屋の連中は、半端じゃない。それは、間近で見てたあんたが一番よくわかってるでしょうに』
『楽観的とは言うが。悲観しても仕方ない……それにあの九尾を倒せたのは、西洋で名を挙げた〝光輝の聖者〟粛聖魔術のマスタークラスが居たからだ。神罰の制裁などという魔術を使える人間が、今も仕事無くのうのうと暮らしているハズが無いだろう? 要するに、あの戦いにおいて決着をつけさせた魔術師は今回、相手として出てこない』
『なら…………まあ、そこまでの心配はなさそうね』
リオはこうしてマリアを落ち着かせたが、内心ではあの戦いの勝因の六割、ヘタをすれば七割を占めたのはあの宿屋の一行だった、とリオは確信している。しかし、だからと言って自分達に敗北の未来が明確に啓示されたわけではないのだ。
そも、戦いとは相性の問題が大きい。あの戦いにおいての宿屋一行の動きを見るに、リオの現在の身体能力についてこれる人間は刀遣いの女しかいない。が、その剣技も場数が足りないのかいまいちキレが無いため、さほど心配は要らない。
春夏秋冬と暗殺者の少年は肉体面ではリオに追いつかない。その分経験で迫るだろうが、それもどこまで追いつけるか。残りの人間は得意とする武器の射程、威力、身体能力、経験、そのどれもを総合して、相手になる人間はいない。もっとも、これは真正面からぶつかった場合であり、罠などの戦術を駆使されれば、式神使いの男には苦戦を強いられるやもしれない。
様々に思考を巡らし、リオは考え込む。
『そうだな……全員で向かってきた場合を考えて、マリア、あなたが城の正面階段のところを塞いでくれ。相手は吸血鬼だがかなりの身体能力を誇る春夏秋冬、抜刀術で衝撃波を生み出す刀遣い、鋼糸と投擲刃と体術の暗殺者、これで前衛。まあ暗殺者は深手を負っている、警戒は要るまい。後方には退魔の弓遣い、式神使い、障壁破りの魔術師。一人、宿屋が本体の剣遣いが居たがこれはさしたる力は無い、捨て置いて構わないだろう。この全員で向かって来られても、対処は十分利くな?』
考えた末に出した結論に、異論無い様子でマリアは頷く。
ここまでリオが様々な刺客を放ってきたのは、こうして宿屋メンツの戦闘力を存分に測るためでもあったのだ。
『……ええ、問題無いわね。衝撃波と退魔の弓が少々気になるところだけれど、考えれば防ぐ手は考え付くと思うわ。とりあえず、残りの面子も出来るだけ詳細な情報を教えてくれる? 思わぬ手を考え付かれると困るから』
『一番問題なのはやはり春夏秋冬の魔眼だと思うが。とは言っても、空気という目に見えないそれを操る以上、認識対象入れ替えを受けてもそこまで危険は無い、か』
『何が起こるかわからない以上、気は引き締めておくことね』
議論が白熱してきたためか、すっかり蚊帳の外になってしまった四季折。弱ったような困ったような微妙で曖昧な笑みを浮かべながら、二人の話す様子を見やる。と、ごほりと咳が出た。手で口を押さえると、続けざまに咳が出る。手には、べとりとした唾液の感触が張り付いた。手をどけると、
――血が付いていた。
『…………っ』
『? 四季折、咳をしていたが大丈夫か』
『……、平気ですわ』
『そうか。無理はするなよ』
『もちろん。わかっていますのよ』
死に追い立てられる瞬間。
血の臭いに敏感な吸血鬼であるリオも、マリアも、四季折の強がりに気づいていた。
けれどどうせ、あと少しでそんな悩みからも解消されるのだからと。
三者三様に心配しながら、強がっていた。
それからもしばらく情報から推察される春夏秋冬たちの行動を読み、そんなことをしている内に日が暮れた。すっかり寝入ってしまっている四季折を尻目に、二人はようやく議論を終える。そして準備を完璧に済ませたにも関わらず、何か忘れ物をしているような、そんな気分で向かい合っていた。
何か足りない、そんな気分に急かされるのがどうにもむずがゆくて、しかしこれ以上どうすることも出来そうに無い二人は休憩、というか議論の中段をすることにした。それが終了という形に移行したに過ぎない。
『何はともあれ、あとは実際に春夏秋冬を呼び寄せてからだな』
『そうね。果たして……倒せるのかしら』
『やらなければならないだけだ』
椅子から立ち上がり、リオは部屋の出口横にかけてあったコートを着て、部屋を出る。
『どこかへ行くの?』
『涼みに』
パタンと扉が閉じ、しばらくして。
窓の外、城の表にある草原で、リオはグングニルを構え、体を動かしていた。人間の規格を越える速度で動くその体は、科学的な薬品などによるドーピングと魔草毒草織り交ぜて作った魔法薬の効能によるもので、もちろん害も大きい。
本来、一般人レベルの身体能力しか持たない吸血鬼が規格外の動きをする能力を得るのは、ジェットエンジンを車に搭載するのに近いニュアンスを持つ。それも春夏秋冬の場合は戦闘中というごく短い時間だけだからいいが、リオは二十四時間三百六十五日、延々とその害に耐えなくてはならない。
事実、副作用から心不全を起こして死にかけたことがリオには何度かある。
『それでも』
やれることを。
それがリオの信念だった。
+
「んー……時差ぼけしちまうなぁ」
横で大きく伸びをしながらぼやく姫。その後ろからぞろぞろと着いてくるみんな。燃油サーチャージ込み、全員分の旅費は結構大変なものになってしまった。が、今までみんなに渡した給金、ほとんど手付かずで残っていたらしく自分の旅費は自分で出すことが可能になってしまっていた。本当に、何と言うか。
かなりの長時間飛行機に乗っていたため(当然エコノミー)体の血の巡りが悪く、どうにも体が動かしにくい。オレは大きく伸びをして、とりあえず近場で今日の宿泊先を選ぶことにした。時刻は深夜、普段なら別に空港の椅子とかで寝てしまっても良いのだが。今日は俺だけでなく、他のみんなも居る。
「さて、なるだけ安いホテルでも探すか……」
元々居たことも少ない上、最近じゃさっぱりルーマニア語など使っていない。恐らく、今の俺のルーマニア語力は普通に日本で生まれ育った高校生の英語力くらい拙いだろう。まあ、英語と織り交ぜてある程度意思疎通が出来ればいいんだけれど。
「とりあえず、あんまり離れないで。ここではぐれると多分ぱとりしあ以外はアウトだから」
「ボクは英国語しか喋れないからねー」
ぱとりしあもダメかもしれない。ともかく、はぐれず離れないように言いくるめてから俺は歩き出す。土地勘があるわけではないが、旅生活のおかげで街の構造をある程度捉えるのはわりと得意だ。安い宿ともなるとそれなりの危険があったりするが、そこはこの面子なら心配も無いだろうし。
夜の街は薄暗く、赤っぽい電灯が多い。のそのそと七人で固まって歩きつつ、俺は宿を探した。日本とは全く違う味の空気が、風と共に体に纏わりつく。こちらも寒い季節だ。
「なあひととせ」
「なんだ?」
「リオたちを探して斎がどうなったのかを訊くのはいーけどよ……ちゃんと居場所のあてはあんのか?」
「一応。あいつ自身が言ってた言葉を信用すれば、だけど、でもあの局面で嘘をつく必要性は無い」
ふーん、と納得したのか引き下がる姫。
リオが俺に示した居場所、というか決闘の場となるであろう位置は、ルーマニアにあるという『ツエペシュ城』らしい。そしてここ、ルーマニアでツエペシュと言えば、俺には一人しか思い浮かばない。『串刺し公ヴラド・ツエペシュ』。残虐非道な吸血鬼。そいつが住んでいた城だというならば、まず場所は限定出来る。それでなくとも城というのはそこまで多くは無いだろう。
「なあひととせ」
「またか」
「さっきから何で歩いてんだ?」
「決まってるだろ。宿屋が無いか探して」
「……主。わしを何だと心得ておるんじゃ?」
そういえば、そうだった。
白藤の持つ異能〝流転漂流〟は国内限定、しかも白藤の通ったこともある場所にしか移動出来ない限定的なもの故にここでは発動不可らしいが、宿屋の憑喪神としての能力はまた別。それなりの広さの空き地さえあれば、どこでも宿屋を展開することは出来るらしい。そのために街の外にまで出る羽目になったが、これは仕方ないだろう。
異郷の土地に、やたら大きい東洋建築が現れる。誰がどう見ても異常事態だが、そこはこの現代社会、映画の撮影かなんかだと思われるんじゃないだろうか。ひょっとすると中に入って金品を漁ろうとする輩も居るかもしれないが、それは自殺行為に過ぎないだろうから考慮するつもりはなかった。
「ふう……」
俺は溜め息をつきながら、異郷まで来たのにいつもの中庭を見やる。一階の縁側に腰掛けて見上げる空の月は、万国共通。永夜も過ぎたことだし、しばらく、少なくとも一ヶ月は、体も安全だろう。
今回の永夜は特に酷かった。全身から骨が突き出してるんじゃないかと疑うくらいの、凄まじいダメージを体に受けた。
自分の拳を見る。
殺しまくった手は血に塗れ、そんな俺は生きる資格など無い人間。
――俺は結局、どうするのだろう。どうしたいのだろう。要にはああ言って出てきたが、俺は、この、命を。
「風呂空いたぞ」
「うわ、びっくりした」
いつの間にか後ろに立っていた姫が、まだぬれている髪をタオルで拭きながら俺の横に座った。薄赤の、パジャマ姿だった。ぼーっと庭を眺めて、時折思い出したように頭を拭く。
「斎、死んでねーといいな」
ぼそりと切り出す。俺は反応に遅れ、その間がなんだか俺の動揺をそのまま表してしまったようだった。こっちはまだ何も言っていないのに、悪い、ごめんと呟いて姫は会話を打ち切ってしまう。
……そう、それも、考えなくてはならない一つだった。
父さんが生きていた場合。その場合はともかくとして……死んで、殺されて、いた場合。俺は、どういう行動に出るのか、出たいのか。何の考えもなしで、ただ居ても立っても居られないからここに着てしまったが。周りを巻き込むだけ巻き込んでおいて、俺は未だ何も考えが浮かんでいなかった。
俺の意思は、どのようにしたいのだろう。
「今は、真相が知りたい。ただそれだけだ。もちろん、死んでるかもしれないことを……いや、その可能性の方が高いことを考えると泣きたくなるけど……だからと言って、俺は殺した相手をどうしたいか、わからない。きっと憎いだろうけど。今まで殺しまくった俺が憎んだり怒ったりしていいか、わからない。自分のためになにかしていいのか、わからない……」
姫から言葉は返って来ない。ひょっとしたら独り言だと思われたかな、と俺がその場を離れようか考え始めた頃、ようやく返答がくる。無理に感情を押し広げて、明るく振舞っているような声だった。
「まあ、さ。でも、この一件が終わったらよ。今度こそ宿屋に戻って、また今までと同じよーに暮らしていけるんだろ?」
「ああ」
「生きてたら……斎も、一緒にさ」
「うん」
「一生とは言わねーけど、しばらくは。宿屋主人で、居てくれるんだろ?」
「一応今は、死ぬまでやめる気ないよ」
「そっか」
――――――は。
その『死』が。
割と、結構、かなり。近いんだけど、さ。
「明日からは少ない情報で探し回ることになるだろうから、早めに今日は寝ておこう」
俺が立ち上がると、姫も横で立ち上がる。ちっこい背丈は俺の肩にすら届かない。
「ん。じゃー、おやすみ」
「おやすみ」
とたとたと駆けて行く姫から視線を外し、俺は柱にもたれかかる。腕を組んで、中庭の池を見やった。月が写りこんで揺れる水面は、掬い上げたらその光の欠片を手中に収めることが出来そうな気がした。もちろん、そんなことは、不可能だ。
この俺が、この先長く生きることが出来ないだろうことと、同じく。リオの言葉を信じるなら、あと二年。
間隔が短くなり、ダメージがきつくなってきている永夜。そして父さんからの手紙。リオの言葉。これだけ揃えば、まず俺の寿命のことは真実だろう。しかし、真実だからこそ、か。俺は、みんなに寿命のことを明言できず、せずに居た。
永夜の時は最後に辻堂とお別れしてくる、などと嘘をついて山にこもり、バレないように過ごした。父さんの手紙については、導入部分と母親に狙われてることの示唆、最後の部分、と三枚しか見せていない。俺の寿命のことは、リオの妄言だというくらいにしかみんなは思って居ないだろう。
それでいい。
余計な心配をかけても仕方ない。
「……ホント、どうしような……」
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夜が明け、俺たちは白藤の中から出てリオたちを探し始めることにした。
今のところ情報はツエペシュ城という名称だけ。ともかく、片っ端から調べてゆく他無い。とはいえ、ルーマニア語さっぱり英語もさっぱり、というみんなは手分けして探すことも出来ず、七人全員で固まって動くことになる。効率の悪さが際立った。
「足引っ張るだけですね」
自嘲気味にふっと呟く葛葉。いやそんなことは、と返す俺。確かに現地人に話しかけられて焦っているのを何度も見受けるが、それはそれで見ていて面白い。他のみんなもたまには話しかけられるが、そこは愛想笑いでうまく誤魔化してすり抜ける。ところが、なぜか葛葉はかわすことが出来ず、気が付くと数メートル離れた地点で現地人にまくし立てられているのだった。
「すいません」
「いや、別に気にしてないけど」
名所案内のパンフレットを眺めつつ、俺は本心からそう言う。しゅんとした様子で葛葉は下がり、後ろでみんなと談笑している。これでも、別に構わない。みんなは手伝うことが出来ないことを気にしているようだったが、居てくれるだけで、構わない。そう思う。
さて、五冊目のパンフレットを歩きながら読み終わり、名所ではないのかなんなのかツエペシュ城という場所は記載されていない。仕方なく、近辺の全体図なども買ってみる。だが見つからない。果たしてどこにあるのか。
「……見つからんか」
「さっぱりだね」
川澄さんが見かねた様子でこちらに近づいてくる。他のみんなはわりと洋装で整えていて目立たないが、川澄さんはいつもと変わらず藍色の着物姿だった。その風貌は目だって周囲から目を引いているが、本人は一向に気にする気配なし。
「ひょっとして、なんらかの術式で座標隠蔽をしているのではないか?」
「だとすると本当にお手上げだけどさ。座標を隠し切る魔術だって、実際にそこにあることは見れば一目両全なんだよ。姿まで視界から隠すことも出来ないじゃないけど……それやれば一般人が『城が消えた!』って大騒ぎのはずだし」
「どうやっても完璧な秘匿、隠匿は出来んはず、それが魔術の限界だな」
「そういうこと。でももしかしたら、一般人には絶対見つけられないように自動発動式で境界を越えさせる気持ちを留まらせる機能の結界とかもあるかもしれない。名称から察するに、何世代も前からある城みたいだからそれくらいの防護は出来てる可能性は大きい」
何より、狙われ易い吸血鬼が隠れ家に選ぶのだ。それなりの迎撃策がある城でなければ、身を守ることも出来ない。色々と思考しながら俺は歩き、川澄さんも考え込む。やがて、何か手でも思いついたのかぽんと手を打った。同時に懐から、居心地悪そうな黒猫スミスの鳴き声。
「結界術式が張ってあるならば、式神を使えばある程度は探せるかもしれんぞ」
「異郷の術式の臭いを簡単に察知出来るの? 宗教的な何かに引き寄せられるのが大半だと思うよ」
それにそんなことで簡単に見つけられるなら、宿屋白藤だってどれだけの回数襲撃を受けることになるやら。
「一体どこに居るのか」
角を曲がる。裏路地の方だが、こうなればこっちの世界の情報屋でも探してあいつらの居場所を探ってや
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「あまり先に行くな、主――あるじ?」
川澄が続いて曲がり角を行くと、その先から有和良の姿は忽然と消えていた。
「……一体」
「どーした川澄」
「主が、いない」
なんとなく、だが。その、誰もいない空間から六人は嫌な気配を感じ取る。まず最初に、無言で柊が飛び出した。比喩ではなく、路地を形作る両側の建物の壁、それを蹴り飛ばし反対側へ飛びまた蹴り飛ばし、と三角飛びを繰り返して屋根にまであっという間に到達、駆けて行ってしまう。
「あー、あれじゃあ見つけてもどこに集まるかとかがわからないよ……」
「見つければ自然と会えるであろう。しかし、まさかとは思うがあちらから仕掛けてきたのか?」
符札を取り出し、川澄は蝿縄を呼び出す。大きな群は空に飛び立ち、広範囲を探しに飛び散る。白藤もでは、と言い残して駆け出し、姫と葛葉もそれぞれ違う方向に出て行った――
宿屋主人は、そこから遥か上空を風に乗って漂っていたとも知らず。
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目を覚ます。目前に石の壁が見えて、昔突っ込まれた牢獄を思い出した。がばっと起き上がるとそこは冷たい独房などではなく、暖炉で火が燃える洋風の部屋の中だった。自分が寝ていたのは大きめのソファで、ご丁寧にも体には毛布まで掛けられている。
「なんだ、この状況」
首筋に少し痛みが走る。上手いこと気絶させられたな、と少し反省するべきかもしれない。いや、むしろ相手を賞賛する方がいいのか。
部屋はそこまで広くないが、暖かな光に包まれており過ごし易そうな雰囲気。立ち上がって振り返ると窓が見え、そこから外を眺めるとどうやら存外に高い場所らしかった。眼下には草原が広がり、離れたところには森、もっと先には山。美しい、自然の風景だった。ただ、ところどころ草原に穴ぼこが空いているのが気に障る。
「しかし、高いなここは。まさか、ここ」
『こんばんは。そろそろ、気づいていただけないかしら』
背後から声がした。綺麗な、上流階級の人間が喋るような英国語。振り向くと、暖炉の横にある椅子に腰掛けた、小柄で細身な少女が目に入る。黒い髪をかなり長く伸ばしていて、身に付けているドレスから靴までどれもが漆黒。対照的に白い肌はぼんやりと光っているように見え、端整な顔の中で、金色の瞳が輝く。
まるで姫のような。しかし、全然違う目つき。目の色。視線。ただ、黒『猫』のような印象は受ける。
「誰だ、君は」
『悪いのですけど、わたしはクイーンズイングリッシュしか話せませんの。とは言っても、通じていなかったらこれも独り言ですわね』
くすりと笑う。なるほど、独り言の矛盾。『I can't speak Engrish』みたいなものか。なかなか高尚な笑いのセンスを、相手は持っているようだった。
『……ああ、通じてなかったのか。俺は日本語を主に使って生活してるから』
『あら。全く話せないわけではないんですのね。確かに、少し発音に濁りがあるようですけど……日本人にしたら及第点ですわ』
『半分しか日本人じゃないらしいけどね』
『それはわたしと同じですわよ。でも、心が国籍を決める。そう思いませんこと?』
『まあ、そうだな』
窓の傍を離れ、暖かい暖炉の近くへと歩みを進める。暖炉の焔が作る影を挟んで、俺は椅子に座る彼女と向き合った。
わずかに微笑んだままの彼女。その表情に、あいつの面影は確かにあった。多分、相手にも同じようなことを考えられているのだろう。思い浮かべる人間が違うだけで、人間としての立場は同じ人物を。
『はじめまして、になるな』
『ええ、はじめまして』
互いに相手に現段階で使える呼称は口にしなかった。要するに、俺は妹と呼びかけず、彼女は兄と呼ばなかった。
それでいい。そういう、関係になるのだろう。
『俺は有和良春夏秋冬。宿屋主人だ』
『四季折・アナスターシャ・クリアウォーターですわ。吸血姫の娘』
四季折――俺と同じ、一巡りの季節を全て名に織り込まれた少女。父さんの手紙に書いてあった字面から察するに、四季折々からくるこの名は一つ一つの季節を指し、春夏秋冬は全体を指す。どちらの意味が欠けても完成しない。全体無くして全ては成らず、一つが無くして全体は成らず。
こうなることを示唆して付けられた名だと言うのなら――皮肉な冗句としては出来すぎだ。悪趣味だよ、父さん。
『さて、まずは腰掛けてくださいませんこと? レディにいつまでも見上げさせるのは失礼ですわ』
『初めて聞いたけどな、そんなマナー』
手近な木製の椅子を引いてきて、俺は正面に座り込む。陶人形のような四季折は、しかし俺から視線を外さない。俺も視線を逸らさず、真っ向から向かい合う。金色の瞳の中で焔がのたくり、そこに映る俺が焼かれている。
『話しましょう』
他にするべきことは無い、と言わんばかりに四季折は告げた。
俺はそれに頷いた。