端書き弐 間違うことなき復讐鬼。(鬼乃終極)
Avenger ending
これは、
有り得たかもしれない、
その物語の終焉の中のひとつ。
全てが、
終わってしまった、
始まってゆく物語の中のひとつ。
さて、
それではそろそろ。
ひとつ、語り始めましょうか。
+
Title : Avenger ending.
Heroine : Tokei Kaname.
Result : Sad ending.
+
一週間ぶりという久々に駅前で会った辻堂は、この俺、有和良春夏秋冬を見ると顔をしかめた。というのも、別に奴と会ったのは偶然であり待ち合わせていたなどのものではないためだ。いや、普段ならそんなことでこいつは怒らない。
怒らない、のだが、今日は少々特別な日だ。なので奴の仏頂面にも気合いが入る。
「どうした。そんなツラしてると幸せが逃げるってもんだぞ」
「……そうかね。少なくとも不幸は舞い込んだからこんなツラなのだがね」
「不幸か? 三人で居れば一応寂しい男という認識も持たれないだろ」
「その優位者意識がひっじょ――――――にっ、腹立つっ!」
「まあすぐに俺らは離れるんだけどさ」
「しかも放置プレイ!!」
うがーと唸る辻堂に怯えたように、俺の腕にしがみついていた要はさらに力を込めてこちらへ寄る。
なんでこんな風に連れ立って歩いてるのかと問われても、問うは愚問答えるは愚の骨頂という奴だ。
今日はクリスマスイヴ。こうして歩いてるということは、そういうことであり、そういう関係ということだ。だから周りにも察してほしい、と思うのだが、今まで長々と友人関係から発展していなかったのを見続けてきた学校の知人たちは、今日こうやっている俺たちに出会うと皆一様に「ん?!」と驚いた表情をする。
……一応、付き合ってもう十ヶ月なんだけどなぁ。未だに認知されていない間柄だ。
「ごめん、ね。辻堂君」
と、要がおずおずと進み出て辻堂に謝る。奴は鼻を鳴らして顔を背け、長身を少しだけ屈ませて要に視線を合わせた。
「謝らなくともよいが。ただ、三人で行動するというのもまた別種の寂しさというものがな」
「あ、え、と。そうじゃなくて。今日は、ひととせ君と、だけだから。だから」
「悪いけどさっさと散れと。そういう謝罪かねコラ!」
「あうう」
「脅すな脅すな」
「なんだそのガーディアン発言! もう既におまえさんらはそういう関係かね? これから夜まで遊んだ後は夜伽とか同衾とか逢瀬でも愉しむのかね。……なんだその目は痛ましいものを見るような目で。見るな、私を見るな! むしろ見ないで! 輝かしいおまえさんらが羨ましくて仕方ない!」
可哀想だった。というか、ほぼ同じ意味の言葉を並べてるだけだ。俺はハアと溜め息を吐きつつ、なぜ辻堂が女に縁が無いか考える。しかし思考は一秒で済んだ。要するに、変。そして良い人ではあるが良識人ではなく悪い人ではないがそれ以上でもない。以上、これにて証明終了。
「なんというか、あんまり気にするなよ」
「勝者が敗者にかける言葉などこの世には存在しないのだ」
「いや、というよりおまえ、実はそんなに気にしてないんだろう」
「……よくわかるな」
「だって、辻堂君。ちっちゃい子が、好きだし」
言葉の剣が辻堂の胸を深々と刺した。だがすぐに立ち直り、開き直る。お決まりのパターンだ。
「子供が好きで何が悪い!」
「いや、それを除いてもだ」
「こっちが振ったんだから少しは乗るとかしないのかね貴様!」
「真面目な話、そこまで恋人とか要らないんだろう、おまえ」
「……よくわかるな。でも二回も私の振りをシカトするな」
「なんにしてもおまえ、そういうキャラ作ってるだけだろうし。その方が面白いからやってるだけなんだろ。まあ、本心も含まれてはいるんだろうけどそこは一応考慮に入れないものとする」
「会話に齟齬が生じたままなのだが」
「大丈夫だ。そのうちおまえを理解してくれる人も現れる」
「……はっ! おまえさん、適当に結論づけて逃げようとしているのだな!?」
「というわけでチャオ」
「なんだその逃げ台詞!! って待て、ちょっと私ホントに今日さみし、ぐふっ」
人の波が駅から出てきたのを見計らって距離を離し、雑踏の向こう側に辻堂を置き去りにする。
冬休みに入ってから会っていなかったので久々に会ったのは確かにそうだが、辻堂より今の俺には要の方が重要性において高かった。多分この順位はこれから先の一生でも変動しないものだと思われる。
「友情って果敢無いもんだよな」
「なんでそれ、堂々と言うかな……」
苦笑しつつこちらを見上げる要。俺は肩をすくめて同じように苦笑した。
しばらく歩いてある程度奴と距離を離してから、スーパーに入って今日の夕食に使う食材を買う。多すぎず少なすぎず、適度な量。ケーキは既に要がチョコレートケーキを焼いてくれたとのことなので、買わないでおく。
……わーい手作りケーキだ、手作りケーキ。こういうところで誰かに惚気たくなるような楚々とした優しさが、要のチャームポイントだ。と言ったら照れて気絶しかけた。あまり褒めすぎるのも良くないものだと知った十七の冬。
要が一緒に暮らしている祖父母は寝るのが早く、八時になれば床についてしまうらしい。そんな家でどんちゃんやらかすわけにもいかないので、俺は自分の家に要を上げた。平屋作りのプレハブ小屋。四畳半の部屋と六畳の部屋、キッチン風呂トイレがついて月々四万五千円。
家具はテレビ以外の生活に必要なものは揃っていたので助かったし、住み心地は悪くない。立地条件が駅から徒歩三十分の住宅街にある空き地の隅だけど。
おじゃまします、と後ろで呟いてから上がってきた要は、夜に男と二人だけで過ごしていることに緊張するのか、動きが硬かった。何かやらかすつもりなど欠片もないが、要に魅力がないかと言えばそれは有り得ない。結構、微妙なバランスの元に今この空気は成り立っている。
とりあえず咳払いして、石油ストーブに火を入れる。背後ではキッチンに食材を置くごとん、という音がした。冷蔵庫からも食材を出そうと俺はドアの取ってに手をかけたが、横合いから伸びた要の手が俺の手をがしっと掴んだ。
「ま、まだ開けちゃ、ダメ」
「なんで?」
「ケーキ、最後まで秘密」
「ケチだな。後で見ても今見ても同じだろう?」
「ううー……でも、やっぱりダメ。恥ずかしいよ」
あ、そう。
俺はすんなり手を放す。ほっとした様子の要は、そのまま頭に三角巾をして包丁を手に取った。だが俺がじっと見ていることに気づくと、怪訝な顔をして向き直る。
「なに?」
「いや、ケーキは見れなくても要を見てると楽しいかなって」
「恥ずかしいよ」
「気にするなよ」
要はもー、と呟いて俺を無視することに決め込んだらしい。だが横に立って俺が白身魚でムニエルを作っていると、そろそろとこちらを窺っている。目を合わせると、慌てて逸らす。……果たして俺は理性が保てるのでしょうか、などと考えるあたり我ながら相当バカだなぁと思わなくもないが、こういう空気が楽しくて仕方ないのだからどうしようもない。
さて、我が家には音楽をかける機械の類が一切無い。よって、二人だけだと音というものに欠ける部分がある。なので、試しにテレビをつける。中古で買ったブラウン管テレビは、クリスマススペシャルとやらの名目でやっている恋愛モノのドラマをやっていた。それをちらちら見ながら調理をしていると、ふと思った。
「俺らってさ」
「うん?」
「ああいうドラマみたいに派手なモノはなかったよなぁ」
「……わたしが、一方的に。告白、したんだもんね」
「そうそう。特にどんでん返しも障害もなく。でも俺は、要にそういう風に好かれてるだなんて全く予想もしてなかったんだ。それがある意味、一番の障害だったんじゃないか?」
「一いえば普通、わかるのに。ひととせ君は、十いわないと。わからないもの」
鈍くてごめんなさい。でも、人からの好意ってものを受けることが少ない人生だったもので。気づいたらそういう、人の心の機微とかがあまりわからない人間に育ってた。そんなわけで要がずっと俺のことを好いていてくれたことにも、気づけなかった。じつは、あの冬の事件の前から、好いてくれていたらしい。
ちなみに告白されて呆然としている俺を辻堂が叱咤してくれやがったのはある意味人生の汚点、一生の恥にして、思い出だ。ああいう場面では強いのに、なんで普段はああもボケた奇妙思考の持ち主なのかさっぱりわからないけど。
「しっかし、今日は男女連れ立って歩いてるのが多かったよな。他人のことは言えないけど」
「うん。……なんか辻堂君、浮いて、たよね」
「言ってやるな」
あいつの手にはケーキ屋の紙袋がぶら下がっていた。家に持って帰って、家族で団欒するためのものだろう。従姉が遊びに来てるとかでグチをこぼしてはいたが、細かい気配りの得意なあいつは自分なりに今日を盛り上げるつもりなのだと思う。
「でも本当に孤独を苦に思ってるわけでもないだろう、あいつは」
「そう、かな?」
「そうだよ。あいつが望んでるのはそういう、私的なものじゃないと思う」
「むー。わたしは、ひととせ君を、望んでるけど。それ自体は私的、でも。両思いなら、私的じゃ、ないと思う」
「そういう考え方もアリっちゃアリだな」
俺は肩をすくめて笑い、フライパンに脂を引く。ちょいちょいと料理が済んだら、二人だけのパーティだ。
「今年も色々あったなぁ」
「まだ、終わってないよ」
「そうだった。なら大晦日はどうする? 初詣くらいは辻堂も誘ってやるか」
「うん、そうしよう。あ、ひととせ君。初詣、着物を着た方が、嬉しい?」
「着物か」
要の着物姿。見たいと言えば、そうかもしれない。着物か――
――ごめん、ひととせ――
「……っぐ」
「ど、どうしたのひととせ君」
「い、いや。なんでもない……それはともかく、着物じゃなくても、別にいいと思う」
片手で胸を押さえてシンクに手をついて俺を見て、要がふっと瞳に影を揺らす。
しまった。感づかれたか。
「ひととせ君が言うなら、そうするけど」
少し沈んだ調子で、要は笑った。
くそ。
そんな顔はもう、誰にもさせたくないのに。
「悪いな」
嫌な想像を頭から振り払い、俺は調理に向おうとした。だが包丁が握れない。刃物のイメージが、血のイメージと直結する。思い出したくない。忘れてしまいたい。荒くなる呼吸、少なくなる酸素……心が、揺れている。ちくしょう。もう、乗り越えたつもりでいたのに。まだ、俺は囚われている。
「大丈夫、だよ」
軽いフラッシュバックから未だ抜けきらない俺の手に、そっと手を重ねてきた要。柔らかで暖かなその手は、俺にいくらかの安心感を与えてくれた。呼吸が少しずつ取り戻されてゆく。暗くなりかけていた視界が明るさを取り戻す。深海から、光ある海面へ向かうように。
「わたしが、いるよ」
「…………要」
ゆっくりとだが、確実に収まっていく感情の奔流。やがて呼吸はほぼ完全に落ち着いた。そして、記憶のしがらみから離れたおかげか、熱い涙がこみ上げる。
だがさすがに嗚咽を聞かせるのは俺のプライドが許さない。洗面所に駆け込んで、静かに涙をこぼす。と、後ろからやってきた要が背中から俺の体に手を回して、抱きしめてきた。
「恐く、ないよ」
そこで――耐えられなく、なった。要は続けて、耐えなくてもいい、と言ってくれた。
「泣かない、で」
「…………くそ……」
それでも、涙は止まらなかった。
食事を終えてソファに腰掛け、ケーキの登場を待つ。
なんだか泣いた後というのはすっきりするが、ああも情けないところを見せてしまうと気まずい気分にならなくも無い。もっとも、そんなことを気にしているのは器の小さい俺だけで、要はそうさして気にしてはいないようだが。
「はい、ケーキだよ」
「うわあ……」
机の上に置かれたケーキはどう見ても二人で食べるには大きすぎる代物だった。八等分しても一つ一つがかなり大きい。こんなチョコレートケーキ、全部食べきったらどれほどのカロリーを摂取することになるのか……。
切り分けた一つを皿に載せ、俺はフォークと紅茶を用意する。そういえば去年の一月ごろも、こんな風に向かい合って、喫茶店に居た。
「じゃあ、食べよう」
「いただきます。それから、メリークリスマス」
「メリー、クリスマス」
フォークで豪快に崩して口に運ぶ。甘さは見た目よりは控えめで、生クリームとの相性も良かった。もぐもぐと口に運んでいるのを見て嬉しそうに顔をほころばせると、要も少しずつ口に入れる。そして大きい大きいと思いながら食べていくうち、気が付けば俺は八等分したうち三つを食べてしまっていた。要の分も合わせると四つ減り、半円の形になってしまったケーキ。
……美味すぎるものも、罪だな。これは太る。
「ふう、ご馳走様」
「おそまつ様、でした」
紅茶で口の中をさっぱりさせつつ、最後だけは行儀よくいようと思う俺。なんだかなぁと思って頭を掻く。
「っと、もう九時か」
柱時計が鳴ったことで時間がずいぶん過ぎたことを悟る俺。要は一応今日は遅くなると言ってきたらしいが、あまり遅い時間まで留めておくのもやはり良くないだろう。いくら相手方の保護者二人が「硬派だねぇ、もう少し柔らかく考えたら?」と言ってくるような人であってもだ。
「そう、だね。あ、もうすぐ映画やるよ」
「へえ。って違う違う。もう遅いぞ?」
「大丈夫だよ。最悪、朝帰りだ、って。言って、あるから」
「最悪ってなんだよ……」
と言いつつ、流されてしまう俺。
いや、そりゃなんだかんだ言っても少しでも長く一緒にいたいさ。男だもの。それに俺、自覚ある優柔不断だし。
「この映画、去年やってたけど、見にいけなかったんだよね」
「――ああ、この映画か」
「見たの?」
「ちょっとな」
嫌われ者の勇者や没落した王、狂ってない狂信者や最弱になった最強。それに居場所無き英雄が登場人物。去年、見に行った。
同僚だった彼女と。
「そのうち、二人で映画も見に行こうか」
「本当? 約束だよ」
「おまえには嘘つかないよ。絶対だ」
言いながら頭を撫でてやると、口をとがらせる要。けれど目が笑っているので、別にやめなくても良さそうだ。でもしばらくわしゃわしゃと髪をかき混ぜたら、さすがに手を払いのけられた。そのかわり、払いのけるままに手を繋ぐ。まあこれはこれでいいか。
無くしたものは存外に多い。けど。手にしたものも無くは無い。
だから悪くない。
今の生活は、悪くない。
映画が終わる頃には要はぐっすりと眠ってしまっていた。俺の肩に寄りかかるようにして眠るので、髪から甘い香りが漂ってきて煩悩を刺激される。ゆっくりと頭をソファに下ろし、隣の部屋から毛布を取ってきてかぶせる。やれやれ、起こすのも可哀想な寝顔だし、これは本当に朝帰りだな……。
と、そこで電話が鳴る。手近な戸棚の上に置いておいた子機を手に取った。
「有和良だ」
《――どうも、有和良さん。葛葉です》
連絡してきたのは、丁度今見終わった映画を去年一緒に見に行った彼女。神代、葛葉。
凛とした声は即座に頼んだ仕事内容を思い出させる。俺は、はやる気持ちを抑えて、出来るだけ平坦な口調で問いかけた。
「ようやく連絡してきたってことは……見つかったんだな?」
《ええ、なんとか。捕まえることが出来ました》
知らず、笑みがこぼれる。電話越しにも伝わったんじゃないかというくらいに、心音が大きく跳ねる。堪えきれず、口の端からクッ、と笑い声が漏れた。ともすればそのまま笑い続けてしまいそうなのを、懸命に耐えて冷静を装う。
「そうか。でかした、ありがとう。ならそのまま拘束しておいてくれ。絶対に、逃がすな」
《承知。この後は、どうするおつもりです?》
「決まっている」
ふと振り返ると、窓ガラスに映る俺の姿。
口は裂けたように大笑いの形をとっており、全身が嬉々とした表情を示す。
ただ、瞳だけが暗く、闇を残す。
「あれはただの、奴を呼び寄せるエサだ。その後は、血を吸って俺の命の糧にしてから、殺すさ」
《……了解しました。活かさず殺さず、捕らえて置きます》
「頼む。細かい内容は、追って連絡する。じゃあな」
《おやすみなさい、有和良さん》
ぴっ、と通話が途絶える。
興奮冷めやらぬ俺は、そのままうろうろと狭い部屋の中を歩き回った。待ち望んだ時が、すぐそこまで着ている。そのことを考えたためか脳裏には、苦い記憶が這いずり回る。だが今はそれすらもある種、心地よい。
この記憶のために、この記憶を払うために、俺は今ここに居ると言っていいのだから。苦ければ苦いほど、ことを為し終えたときには甘く転化されることだろう。それがたまらなく、楽しみだった。
「ん……ひととせ、くん?」
「起きたか」
歩き回る俺の足音で目を覚ましたか、要がこしこしと目を擦りながら毛布の下から出てくる。
「んー。ん? あ、もうこんな時間……」
「映画の途中で寝てたからな。どうする、帰るなら見送るけど」
「んう―……ん。今日は、やっぱりここで、寝る」
「そっか。なら布団敷くからそっちで寝た方がいい」
もぞもぞと立ち上がった要の手を引いて、俺は隣の部屋に移動する。毛布をひきずりながら歩いてきた要は、布団を指で示すとすぐにごろん、と横になってしまった。その様子を見て俺は微笑み、その部屋の押入れにある枕と毛布を引っ張り出し、ソファで寝るため部屋を出ようとした。すると、要が俺のかかとを掴んで、むっとした顔をしてみせる。
「一緒の布団で、寝よう」
「……まあ、いいけど」
えへへ、と笑う要。半分ねぼけているのか、感情表現がストレートだ。横に並んで、少し狭い布団の中、俺は毛布をかぶった。毛布の中、要は俺の手を握ってくる。ぎゅっと、放さないように。
「ふう。落ち着く」
「逆に落ち着かない気分だけどな、俺は」
「慣れるよ」
「ないない」
少しだけ黙り込む。ふと見ると窓の外には、ちらほらと雪。月に照らされて、狭い空き地の片隅にも舞い降りてきたらしい。
「……また、出かけるん、でしょ」
俺と同じく窓を見ている、つまり俺から顔を背けている要は、唐突に核心を突く。少し前に出かけようとした時も、やはり今と同じように、今と同じような間でバレた。隠し立て出来ないのはわかっているので、俺は素直に即答することにした。
「ああ」
「わかるよ。去年と、同じ。そういう、顔してる」
「だろうな」
「そういう――とっても、怖い顔」
「……だろうな」
俺の目は、暗くて恐ろしい。見通せない闇の洞窟。そう、少し前に言われた。いつの間にやら吸血鬼らしくなったからだろ、と俺は返した。その時の話し相手、川澄さんは、だからお前には手を貸せない、と言った。俺は笑って、川澄さんと別れた。多分、もう二度と会わない。会えない。
あの人には俺が視えていた。闇に本質を堕落せしめた、俺の腐りきった本性が。だからこそ、手を貸さないと断言し、俺を引き戻そうとしてくれたのだろう。そのことには純粋にありがたいと思うが――もう、俺は引き返せない位置まで堕ちこんでいる。自ら進んで、貶めた。
「…………今でも。過去が、大事なんだね」
「過去、って言うほど昔じゃないからな。十七年しか生きてない俺にとって、一年前なんてほんの少しの前だ」
「大事、ってことは否定、しないんだね」
「言うまでも無いことだ」
ごろりと、今度は俺が背を向けた。薄暗い部屋の中、要の視線が背に刺さっているのを感じる。
「うん。わかってる、だからもう、聞かない。じゃあ、いつも通り。わたしは、待ってるね」
「……ありがとな」
「ん」
要が、笑った。
+
要と会ってから一週間後、俺はロンドンに居た。時刻は深夜十二時。
巨大な時計塔の上で、俺は待っていた。黒いロングコートの襟を立てて、荒れ狂う風にもまれながら。先ほど、霧雨が吹き付けてきたため体は濡れ、髪も湿っている。だがそれでも寒くはない、むしろ体は火照ってうずいていた。今にも歓喜に打ち震えそうになっているのを、なんとか圧し留めているに過ぎない。
さて、ようやく雨も止んだので、俺は湿気た煙草を口から放して、摩天楼の根元へと落ちゆくのを見やってから新しい一本を口にくわえる。ライターで火を点け、深く吸って煙で肺を満たす。充足感があるわけでも無いが、暇つぶしにはなる。
いつからか、一人で居ることが多くなった俺は、気が付くと一人の時間を潰すため、煙草を嗜むようになっている。
「……さて、ようやくおでましか」
まだ半分は残っていたが、俺は足元に煙草を吐き捨てる。肺から出てきた煙は、高く上にのぼる。薄く霞がかった空気の中に溶けて消えていった。
振り返ると俺と同じように黒いコートに身を包んだ、シルバーブロンドの毛色をのぞかせる男、リオが立っていた。眼鏡は水滴がつくと思ったのか、かけていない。琥珀色の瞳から放たれる射殺すような視線が、俺を見据えている。俺は肩をすくめて、目の前に居る敵に対峙した。リオが踏み出すたびに、傾斜のついた足元の屋根がゴン、と音を響かせる。
「よぉ、殺人者」
「……殺人鬼が言えたセリフなのか? なんでもいい、オレの用件は解っているのだろう。四季折を返せ」
「そう焦るなよ。俺は少しばかりお前と話そうと思ってここに来たんだからさ」
かつかつと歩み寄り、奴より少し離れた位置、時計盤の真正面に立つ。時計塔の内部構造に入るための出入り口にあるドアを開き、中に居た人物――四季折を引きずり出す。魔眼を使われないように目隠しをし、さるぐつわをかけ手足も鎖で縛って南京錠をかけてある。黒いドレスの首根を掴んで俺はそいつを立ち上がらせ、リオに向けて体をゆすぶってみせた。
「ほら、ちゃんと生きてる」
「貴様」
「ハ、おいおい、口の利き方に気をつけてくれよ。今は一応、俺の方が立場は上。だろ?」
「…………、」
口をつぐむリオ。俺はその様子を見て頷き、ポケットから鍵を取り出し、四季折を縛る錠前を開錠していく。リオは怪訝そうな顔をしたが、解放する分には文句もないだろう、何も言わない。まずは足の錠。統合協会でも用いられる、魔術的な拘束具でもある錠前は、がしゃんと耳障りな音と共に外された。
「ま、態度なんかは正直どうでもいい。それより何より、俺はお前に聞きたいことがあってさ……」
がしゃん。二つ目の錠前。今度は手首へ。
「聞きたい、ことだと……?」
「ああ。簡単簡潔で、まあすぐに答えられることだ。答えろ」
手首に赤黒い痕を残して、鎖がジャラリと落ち、すぐさま駆け出そうとする四季折を俺は首に腕をかけて留めた。リオはびくりと動こうとしたが、俺の視線で意図を察したのか、一歩も踏み出さない。この体勢が示すことなど、子供だってわかることだ。
「さて……質問だ」
ナイフを取り出し、四季折の首にあてがいながら。
俺は最後の質問を始める。
「お前は、姫を殺したことを悔やんでいるのか」
リオの表情が苦悶に歪む。四季折は身じろぎもしないが、一瞬心拍が跳ね上がった。
――雨が、降り始めた。
あの日のことについては、語る必要は無い。
というより、語ることが少なすぎた。
あの時俺は父さんの最期を知るため、そしてこの果敢無い命を引き延ばすため、母親と妹の元を訪れることにした。結果、わかったことは。母親がシルフという精霊の力を行使して父さんを殺したこと。その理由も、やはり父さんが戦った理由と同じだったこと。
俺は母親を殺した。血の繋がりなど関係ない。俺にとっては父さんが肉親の全てだった。
そして城の奥へと進む。
そこには命を奪い合う、四季折が居るはずだった。だが居たのは、リオ・エヴァンス・ド・ブロワ。宿屋に客として来訪した、俺の同属。彼は戦えるほどに強くは無い四季折の代わりに、四季折を誰よりも強く思う、自分が戦うと宣言した。血を奪い、四季折を延命するためだ。誰が相手でも構わない、俺は戦うことにした。
だが戦いも佳境に入り、俺がしくじって。
必殺の神槍に貫かれそうになった、正にその時。
――姫が、俺とリオとの間に割って入ってきてしまったのだ。
+
俺は消耗していた。
とはいえしくじってはならない局面だった。例えどんな理由があっても。勝たなくては、ならない局面だった。
なのに。
膝はがくりと力を受け流し、踏み込むことが出来なくなる。マリアとの戦いから、間を置かずこの城の最深部までやってきて。延々と戦いを繰り広げてきて、とうとう体が限界に達したのだ。人狼の暗示がもたらしたダメージの集積。ズキンと膝に鋭く痛みが走り、避けなくてはならない位置から脱することが出来ない。
「――もらったッ!!」
リオが渾身の力を込め、神の槍を投擲。どう足掻いても回避は不可。絶対命中の能力を有する槍は、狙った位置を外さない。風を纏い、風を切り裂き、風に成り、音を越える。断空の力を余すところなく一点突破の形で集束、その槍は全てを貫く。
咄嗟に出した左腕も、ほとんど意味は成さない。そのまま貫き、心臓へと直撃する。そんなイメージが脳内を占めた、その瞬間。いや、周りが見えていない俺とリオが気づいていなかっただけで、それよりもずっと前から。
走り出していた赤い影。姫が、その槍と俺との間に、割って、入った――
「バッッ………………カヤロオォッッ!!」
その体を押しのけようと俺が、もう力を入れることも叶わない膝に力を込めた刹那。
緋色の服は、どす黒い鮮血に染め上げられた。
この事態に一番驚愕していたのは、誰よりも槍を投げ放ったリオだったのかもしれない。その証拠に、槍の能力を使用しない。ただただ、己の起こした今の事態に、指先を震わすのみ。そうしている間にも、姫の胸からはどくどくと血が泉のように溢れ、俺の体と大広間の床を塗らし、濡らしてゆく。背中から突き刺さった槍は、心臓には当たっていないようだが十分すぎる致命傷だった。
そして、姫の体は俺の腕の中に崩れ落ちる。槍の穂先が、わずかに体を擦った。白い、滑らかな頬から、血の気が失せてゆくのが見える。俺は抱きとめる腕にも力を入れられず、茫然自失の状態で言葉を紡いだ。
「ひ、め」
あ、かふ、と小さく姫の喉が上下する。口の端から血がこぼれた。桜色の艶やかな唇が、青く精彩を欠いてゆく。鼓動の音が小さくなってゆく。柔らかな体から力が抜けてゆく。血と共に、命が流れ出してゆく。
むせ返るように濃い、喉を乾かす血の匂い。だがそれすらも気にならず、一筋、涙を流した。こんな涙が、まだ俺の中にあるのかと思った。それくらい涙はあつくて、止まらなくて、
「ひめ。姫。おい、しっかり、してくれ……っ!」
「ぁ…………ぅ……」
金色の瞳の、焦点がズレていく。死が迫っている。その事実に背筋が総毛立つ。喪失への恐怖しかない。
そして、ようやく理解する。
その恐怖の根底にあった気持ち、それは――
「…………ごめん、ひととせ…………」
だがそれを伝える間もなく。
姫は、事切れた。ただ一言、謝罪の言葉のみを残して。
――俺は。俺は、俺は。
他の一切の感情も見せず。
涙も、その一滴で最後にして。
「――う゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛っっ!!」
叫ぶ。その怒気、殺気、いや、どれともつかない、しかし壮絶な気迫。自分でもおぞましいと思わせるまでのその重い気配に、リオは動じた。恐怖した。一歩、後ろへと後退してしまう。強い感情が、頭の中に渦を巻いて場を支配する。リオはもう一度槍を構えたが、気配に圧倒されてか、微動だにしない。俺は、ゆっくりと静かに、姫を床に下ろした。そして。
一歩。
大きく、踏み出す。その歩みに、リオは怖気づく。
無言。
それ故の、多弁。言葉にせずとも、気迫が物を言う。
「あ、く」
ほぼ全ての行動を封じられたリオに、唯一残っていた選択肢は「そのまま殺される」か、「尻尾を巻いて逃げ出す」のどちらかしかなかった。そして、彼には玉砕して守れるものなど何も無い。じり、と一歩下がりながら俺の様子をうかがい、そして背を向けて一気に逃亡する。
こちらは、残されて、そのまま数歩歩き、そして、とっくに到来していた限界を感じて、倒れ込んだ。
「……ちくしょう……畜生……!」
離れた位置に居る姫の小さな肢体は、もう動くこともなく、熱も失われてゆく。
失われゆく彼女の全てを見据えつつ、俺はただ後悔、した。
大切さに気づいた時には既に遅く。
何一つ言葉をかけられないまま、姫は逝ってしまった。
俺に残されたのは、痛烈な悔恨。
「…………、」
火葬場から立ち上る煙を見つめながら。
俺は煙草に、火を点した。
「――珍しいですね。煙草、お吸いになられるのですか」
「いや。普段は吸わない。でも」
黒い喪服姿で横に並んだ葛葉に一切の視線を向けられず、ただただ空へと上ってゆく煙を見つめる。
「独りになりたい時だけ、吸うことにした」
足元に落とした吸殻を踏み消しながら、そんなことを言う。その言葉がどういう意味なのかは、葛葉は敢えて問わなかった。冷たい空気が頬を一撫で、その場に立ち込めていた煙を吹き払い、空へと上がっていく。有和良はポケットに手を突っ込んだままその場でいつまでも立ち尽くし、火葬場から煙が昇らなくなるまで、そこに居た。上る煙を、見送るかのように。
+
それから少しして俺は連日、川澄さん、白藤と長く長く、話をしていた。会話の内容は、宿屋主人をやめるという旨について。年長者二人は止めようと尽力したが、俺の意思を曲げることは敵わなかった。そして、宿屋をいよいよ出て行くというその日。厨房に集まった全員の前で、俺は宣言した。
「――俺は、復讐のために生きるよ」
川澄と白藤は、激昂した。出て行こうとする俺を懸命に止めようとした。薄々そんなことを考えているとは感づいていたようだったが、なにか危うさを感じ取ったのだろう。だが止めることは敵わない。俺はもう止まらない。
これか。
この感情が、復讐心か。
+
葛葉、柊、ぱとりしあの三人が有和良の消息を掴んだのは、それからしばらく後だった。川澄、白藤の説得に一ヶ月、そして足跡を掴むのに二週間。ようやく見つけた有和良は、八尾町の外れにあるプレハブ小屋に住んでいた。電話で誰かと連絡していて、葛葉たちの姿を認めると通話を終えた。薄暗い室内の奥に通し、並んだ座布団にそれぞれ座らせる。
「何しにきたんだ?」
「復讐を、止めに」
「それは無理だな。お前ら三人が、全力で以て俺を殺す気で止めるなら、それも可能だろうけど」
無理だろ? と続け、笑う有和良。
復讐をその身に受けることもあった彼にとって、憎悪の思念が潰えることなど滅多にないというのは、当然の真理だった。葛葉も、ある程度それをわかった上で説得に来たのだが。川澄や白藤に言われた通りの展開になったことに、少々面食らっていた。
「……そんなことをしても、姫さんは、喜ばないのです」
柊が口を開く。目線は上げられず、有和良の目を見ることはない。葛葉やぱとりしあも、あの黒く暗い瞳を真っ向から見据えられる自信はない。おどけたように振る舞うがその実、いつ崩れ落ち、砕け散るかわからない危うさだけが、有和良の目の中にあった。
「わかってるさ。これは、俺の個人的な復讐だ。いや、復讐ってのはそもそも、生き残った個々人が抱える八つ当たり、みたいなものだしな。当然の帰結と言えるだろう」
「けれど、それが何も生まないことは、あなた自身よくわかっているはず……っ」
「わかってるよ。だからこそ、やるんだ。終わった後に残るであろう徒労感、無力感、寂寥感、罪悪感。そういうもの全てを受け止めて、自分自身に枷をつけ、罰を受けなきゃここに居ることすら耐えられない。……自己正当化っていうより、自己否定で自らを律して、戒めなきゃダメなんだ。そうしなくちゃ……あいつを失わせた自分を……」
胸を押さえ、顔を青くした有和良は洗面所に駆け込む。げほっ、ごぶ、と吐瀉物をぶちまける音がして、それを流した水の音の後、戻ってくる。……話題に上らせただけでこの過剰反応。彼の胸奥深くには、いまだに姫の最期が焼きついて離れないのだと、三人は知った。
「そんな生き方、しなくちゃ駄目なのかな?」
ぱとりしあの問いかけに、即うなずく。すると溜め息をつきながら彼女は立ち上がり、有和良に手招きした。
「なら。勝負しようよ」
「何をだ?」
「ボクらと、あなたで。勝負して、もしあなたが勝ったらボクらもその復讐に手を貸すよ」
「ぱとりしあ、あなた何を!」
「やるの、やらないの? ボクら程度にも勝てなかったら、どうせリオにも勝てないと思うけど」
何か言いたそうな葛葉を押さえ、ぱとりしあはあくまで冷たい目線を崩さないまま問う。有和良はくすりと不気味に微笑み、あの黒く暗い瞳を差し向け逆に問い返す。
「――本気で言ってるんだな?」
「もちろん。でも、負けたら。その時は、わかってるよね?」
「当然」
有和良はもう、笑わなかった。
そして、数日経って。
とある盆地にあった広い草原の中。
有和良は三人に同時に仕掛けさせ、そして、勝利した。
何らかの違法外法で身体能力を向上させたわけでもない。魔道具などに頼ったわけでもない。ただ、動きに迷いが無く、最短最速最良の手段だけを選び、打つのみの体運び。口で言うのは簡単でも、そんなことは常人には出来ない。感情に流され、感覚に惑わされ、なんらかの要因である程度の迷いは生じるはずなのだ。しかし。
有和良はまるで機械のように動き、三人を屈させる。本気で、とは言ったものの、三人にはまだ迷いがあった。その間隙を突き、仕掛ける。実はその時の戦闘の後遺症で、有和良の左手は指が動かない。肘にある神経を切断されたためだ。肩も、高く上げることは出来ない。それどころか、内臓も複数箇所やられている。
それらの傷は全て、恐怖心を排したかのように動く有和良が自ら突っ込み、葛葉たちに攻撃させた傷である。まだ迷いのあった葛葉たちは、自分のつけた傷、というものに怯え、動きが鈍る。その瞬間を突いて、全員を倒したのだった。
自己の体について犠牲を省みず、ただ今の戦いのみを優先する。その迷い無き戦い方に、葛葉たちは敗北した。現在しか見ない、先を生きるつもりのない、戦い方だった。
「――さて、お前らは、負けたわけだが」
ぶらりとぶら下がるだけの左腕。苦無の突き刺さった足。ワイヤーで切られた背。刀で貫かれた腹。術式で焼け爛れた胸。
「約束は、果たしてもらう」
水月を蹴られ、首筋を打たれ、鼓膜を破られ。様々な攻撃方法で各自、草原に転がっている三人。共通しているのは、全員一撃でやられたということ。だがその一撃のために、有和良が三度にわたって捨てに来たのは己の命といっても過言ではなかった。
(……まさか、ここまで、とは……)
力量自体ではない。
覚悟。ただそれだけで、全てを制圧する。
生半な力を持つ者よりも、遥かに恐怖に値する、化け物。
(……ごめんなさい、姫……わたしたちは、ひととせさんを…………止められ、ません)
全ては、彼女の死から。
修羅と化した彼。宿屋主人。
復讐の完遂。
ただそれだけを、見る。
「――悔やんでいるのかいないのか。はっきりしろ、リオ・エヴァンス・ド・ブロワ」
指の動かない左腕は、四季折の首を押さえるためのみに使い。右手でナイフを、首筋に突きつける。なるべく刀身を見ないようにしながら、有和良は問うた。
リオは、目線を一度地面に落とし、呟く。
脳裏を過ぎる最期の瞬間。姫を貫いた槍の禍々しい刃先は、刃物は、有和良にとってトラウマになっていた。死なせてしまった、全てをなくさせた、自分の罪。有和良は夜中に、自分の腕の中で姫が死ぬ瞬間を夢に見て起きることがあったが、おまえは、どうなんだと。
これに対してリオは、なにも偽ることなく答えた。
「……後悔、している。関係のなかった彼女を巻き込んだことについては、オレも弁明の仕様が無い。ただ、許されるなら。墓前に赴き、謝罪したい。すまなかった……」
精一杯の、素直な気持ち。それを伝えても有和良は憤怒するかもしれない。そしてその怒りは、ある種正しいものではある。正しさが全てでは、ないのだろうけれど。
リオの言葉を噛み締めるようにしばらく黙り込んだ有和良は、悲しげな笑みと共に呟き返した。
「…………そうか」
有和良の腕からふっと力が抜ける。
ナイフが転がる。力なく立ち尽くす有和良。雨はひどくなり始めて、顔の表面を雨粒が撫でる。四季折は目隠しとさるぐつわを自分で外し、後ろに居た男の――涙を流している様子を、見た。雨に混じってほとんどわからないが、確かに有和良は、泣いていた。
その涙の理由、由縁はわからない。だが、四季折には今目の前に居る男は修羅でもなんでもなく、ただ人の死を哀しむ一人の人間のように思えた。リオも痛烈な表情でそこに立ち、自己の犯した罪に対して、罪悪感を感じている。
「もう、いい」
有和良は左手を上げる。そして、追い払うような動作をした。
「もういい。早く、向こうに行け……」
泣いている有和良は、離れたら倒れてしまうのではないかというくらいに果敢無げで、消えてしまいそうな印象を受けた。しかし、視線で示している。早く、リオの元へ行け、と。四季折は少しだけ迷った様子だったが、兄のそばを離れ、リオの元へと歩き出した。
「リオ。あの人は、兄は。悪い人では、ありませんの」
「……そのようだな」
そして、ぐいっと四季折の細い体を引っ張り、抱きとめるリオ。
雨で冷えた体は、元々の体温の低さもあるのか氷のように冷たい。病弱な四季折をこれ以上雨にさらすのは良くない、とコートの中に入れようとするリオ。そこでふと、四季折がリオの顔を見上げた。そして、何事か呟こうとして、
「――――んな綺麗な終わり方、あるわけねぇだろうが」
雨の中、四季折の体越しに見えていた有和良の姿が掻き消える。
神速の一撃。ロングコートの中に隠されていた、細い西洋剣が閃く。次の瞬間には、四季折の背からリオの胸まで、深々と貫き通した。ぐり、と手首の捻りで刃が抉り、風穴を広げる。冷たい雨の中、暖かな水気が頬に当たるのをリオは感じた。鮮血の迸り。有和良を見れば、先ほどまでの表情が嘘のように、歪んだ笑みを浮かべ、自分の顔に散った血を舌で舐めとっている。
「おま、え」
「あのな。俺がまさかそんな謝罪の一言で、全部許すと思ってたんじゃねぇだろうな?」
リオの表情が苦悶に歪む。
それを見据えて有和良は嘲笑う。
「……正しさだけで割り切れちまうほど、正答だけを胸に秘めて生きてけるほど、俺はきれーな人間じゃねぇんだよ。ただ己の思いのため、楽に人殺しだって出来ちまうんだよ。どうせ汚れきった人生だ、死ぬまで、生き続けてやる!」
それだけだ、と呟き、剣を引き抜く。栓が無くなったために、ごぼりと溢れる血液。どぼどぼと雨に混じってゆく血。リオはゆっくりと倒れ込む。四季折の体にすがるように、倒れ込む。上を見上げると、四季折の首筋に有和良が喰らいついていた。延命の、秘法。
「まずいったらねぇな、こりゃ」
ぶちぶちと首の血管を引き裂き、肉を噛み千切る。噴水のように血は流れ、ぽたぽたと西洋剣にも落ちる。落ちた血は、まるで刀身に吸い込まれたかのように消え行く。そしてそれ以外の血は、大口を開けた有和良の喉へと。
「まーどうでもいいか。ともかく、これで俺は永夜の苦しみも味わうことなく、普通の人間と同じくらいの人生が歩めるってことだな」
「……ぐ、が」
「あ? なんだ、最期にこいつと話したいってか? 無理なんじゃねぇの、喉噛み切っちまったしよ。それに」
がん、とリオの頭を踏みつけ、有和良は囁く。
「俺は、あいつの末期の言葉のせいで未だに絶望してる――聞かない方が、身のためだ」
その言葉を最期まで聞いていたのかいなかったのかは、わからない。
リオ・エヴァンス・ド・ブロワはそこで、苦悶と絶望と憎悪に満ちた表情のまま、絶命した。四季折も程無くして出血多量で死に至り、時計塔の上で生きている人間は有和良のみ、となった。雨が、上がっていく。
「……さて。帰るか」
その場に墓標のように。十字架の形をした剣を、突き立てて。赤黒いコートをはためかせながら、有和良は去る。
待つ人の居る場所へ。
+
「遅いよ、ひととせ君」
「悪い悪い。ちょっと道が混んでてさ」
「……電車なのに?」
「路線が混んでた。ダイヤがズレた。まあそんなところだ」
しれっと嘘を並べるひととせ君に、わたしは笑いかける。
一体何のためにここを離れたのか、宿屋をやめたのはなんでなのか、いまだにわたしは訊いていない。多分、恐くて訊けないから。かっこ悪いけれど、今の状態でわたしは満足。わざわざこれを、壊したく、ない。
「もう始まっちゃうよ」
「まあ、アレだな、席が無かったら肩車してやるから」
「子供じゃないんだから……ちゃんと、見えるよ」
「あれ、要の身長は何センチだっけ」
「百五十六……だった、かな?」
「曖昧だな。ひょっとしてちょっとサバ読んでるんじゃないのか」
待ち合わせた駅から、並んで歩き出す。手を繋いで歩き出すのも、いつの間にか自然になってきた。というより、ひととせ君から握ってくることが多い。ふとした瞬間、気づくと体のどこかを触れ合わせていたりする。別にこちらとしては一向に構わないけども。
わたしの身長が百五十六だ、そうじゃない(実際には百五十四……)、と言い合っているうちに、映画館に着く。古めかしいとまでは言わないけれど、ちょっと年季の入った映画館。中に入ると、上映している映画の中に大昔の大怪獣映画がある。……ちゃんと見たかったものが見れるのか、心配になってきた。
「大丈夫だ、最新の映画もやってるから。一日一本だけど」
「残りの、時間は?」
「そりゃああいう昔の映画だろう。マニアがよく来るらしい」
そんな微妙なスポットでなんで見ようとするかな、と思わなくもないけど、深く訊いても仕方ないような気もする。多分、辻堂君から聞いたんだと思うから。
ポップコーンやジュースをひととせ君が買ってきて、その間にわたしはチケットを買う。時間ギリギリだったのに、席はほとんど空いてるみたいだった。一ヶ月くらい経ってから来たら、もうこの映画館はつぶれてるような気がした。
「早く行こう。席が埋まってるかもしれないんだろ」
だから、ガラガラなんだってば。そう思いながら入ると、上映が始まるギリギリくらいに、ちょっとだけお客さんは増えた。それを除くと、最初はわたしとひととせ君、それと男女ペアが三組。それだけしかいなかったので、驚いた。元々五十人くらいしか入らないシアターだったことも、驚いたけど。
映画が始まると、やっぱりひととせ君は手を握ってきた。
「うーん、予告映画のホラーもいいな。やっぱりこっちにするべきだったか……」
「やめてね、絶対。わたし、ホラー嫌いだから」
「俺も好きじゃないなぁ。でも要の反応を見れるとなると」
「……ばか」
軽口も、叩き合うようになった。少しずつ、遠慮が少なくなってきてるのがわかる。そのことが衝突の原因になることもあるけど……やっぱり、それを含めても今は楽しい。だから、これでいいのだろうと思う。
映画は淡々と進む。過疎地になりかけたような温泉郷を、若い世代が立て直す話。その過程で殺人事件が起こったりする、なんともシュールなコメディ。でも少しずつ笑わされながら、結局最後まで飽きることなく見てしまった。ひととせ君は途中、寝てたけど。
帰り道。今日は泊まっていくつもりなので、ひととせ君の家への、帰り道。
「いや、なんとも奇妙な終わり方だな。あの赤い扇風機を頭に載せてた男はなんだったんだ」
「頻繁に出てきたのに、結局、わからなかったね」
実は話の途中で種明かしはあったけれど、そこは寝てたからひととせ君は気づかなかったんだと思う。でも教えてあげない。デートの最中に寝るような人には、これくらいのバツも、当然だと思う。
家に帰って、夕飯を作って、一緒に食べて、しばらく話して。いつも通りの過ごし方。途中、お風呂に入ろうとしたら先にひととせ君が入ってたりしたけど、それ以外は、まあ、いつも通り。
寝る布団が一つだけなのも、いつも通り。ひととせ君が手を握ってくることも。
「おやすみ」
「ん」
すやすやと眠りに落ちるひととせ君。
でもわたしは知ってる。
安らかに見える眠りが、どこか不安定で、おぼろげなものだってこと。
はっきりと口にしたわけじゃないから、寝言とかの端々から推測したに過ぎないけれど。その不安定さには、宿屋に居た頃一緒に働いていたらしい、姫さんが関わっている、みたいだった。うなされて、謝ったり呻いたりしているのを、時たまわたしは見かける。そういうひととせ君を見るとき、わたしは思ってしまう。
ひょっとしたら、わたしは。その大事な人だった、姫さんの。代わりに過ぎないんじゃないか、とか。ふとした瞬間に何かのフラッシュバックに襲われたりしているひととせ君を見ていると、自分の存在が小さく、薄っぺらに感じてしまう。何も出来ないわたし。
けれど、その思いは考えないようにして。
あくまでも、わたしはわたしに出来る、わたしにしか出来ないことをする。
たとえひととせ君が過去に囚われていても。今、ここにわたしは居て、わたしには待つことが出来るから。ひととせ君の隣に、わたしは居るから。だから、居ない人相手に吼えたりはしない。わたしはただ声をかけるだけ。「待ってる」と。
それが。
どれだけ重たい鎖になり、枷になり。
ひととせ君を縛っているのかはわかってる。けれど、たとえそれしかなくても。
ずっと、一緒に居る。そのために、待つよ。
それじゃあ、また明日。
おやすみなさい。