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三頁目 事情はわかった、助けてくれ。(救援要請)

 俺が寝ぼけまなこで二度寝を選択しようとしている、ただいまの時刻は自室柱時計で午前七時。昨日のどたばたもなんのそので走り回っている従業員二人の足音が聞こえる。

 お二人さん、おはようございます。そしておやすみなさい……………………。


「葛葉、すっかり忘れてたことがあんだけど」

「なんですか?」


 ……………………。


「これこれ。昨日どたばたしててすっかり忘れてたんさ」

「うわ、どうするんですか」


 ……………。


「まあそうだな、昨日どたばたしててダンナも疲れてるだろーし」

「休ませてあげる、ってことですか」


 ……。


「すっかり忘れてたな、柱時計のねじ巻いてなかったなんて」


 オイ。


「部屋の前でボソボソ話すな、二人して! 最悪だ、秒針がないから気づかなかったよ! 姫、葛葉!」


「おはようございますダンナ様」

「おはよ、ダンナ」


 わあ、朝から礼儀正しいなぁ。腰からきっちり六十度くらい頭下げてさ。


「違う! ねじ巻き忘れたって完全にアウトじゃないか! で、今何時なんだ!」


 いきり立つ、というか語調が強いのは致し方ないと思う。誰だって、自分以外の人の過失で遅刻しそうになればこう言うと思う。

 葛葉はのんびりした所作で胸元から赤銅色の懐中時計を取り出した。早くしてくれ!


「六時です」

「……俺もう一回寝てきていいかな」


        +


 なしくずし的に普段より早く起きてしまった俺は、通常の出発時刻である七時半まで従業員二人の仕事ぶりを眺めて過ごすことになった。無論、寝てしまえば今度こそ完全に遅刻するだろう、と職務怠慢な従業員(姫)に言われて睡眠に移行出来なかったからだ。そうでなければ今頃昨晩の夢の続きを視てるだろう。


「二人ともよく働くな」


 ぼそりと呟いたが忙しなく働いている二人には聞こえなかったらしい。手伝うべきかとも考えるのだが、俺が入ると邪魔にしかならないような気もする。

 厨房の中央にあるはずのテーブルの角に陣取っている俺は、果てしなく存在感がない。寂しい。パック入りの水分をずるずると飲み干す音だけが、断続的に耳に響いている。


「朝食はなにかな」

「昨日がAセットの朝食でしたが、今日はどうしますか?」

「あ、選択式なのか。なら今日は、Bで」

「A以外はSとMとLの三つしかねーよ」


 横を通り過ぎながら姫が俺の返事に応える。なんなんだSとMとLって。


「じゃあS、で」


 出された食事は昨日と同じメニュー、しかし量が極端に少ない。おまけに昨日とは違い玉子焼きとめざしとかまぼこと焼き海苔がなかった。あれ、これ同じメニュー、とは言い難いか?

 SMLとはどうやら量のことだったらしい。……ならAはなんなんだ。


「オールという単語の頭文字です。L、M、Sと順に量が少なくなり、同時に品数も減りますから。Aセットだけは全品ついてて量も多いんです」


 学校に行って、俺はひどく空腹に悩まされた。恐るべしSセット、と。


       +


 午前中の宿『紅梅乃花弁べにうめのはなびら』では、二人しかいない従業員がバタバタと忙しなく駆け回っていた。

 人数が普段より減っているとしても仕事はあまり減らない。接客がなくとも、宿をきれいに保ったり改善案を反映したり、すべきことはたくさんある。休暇は宿でゴロゴロしてる、などと姫は有和良に言ったが、それも朝の間だけのことだった。

 忙しなく働く二人は従業員としてはかなり有能だった。が、それは持ち前の才能頼りのものではない。毎日毎日宿の従業員として暮らすうち、当たり前に出来るようになったのだ。そう、全ては経験という蓄積された力によるものである。

 とはいえ、たった二人ではいかに有能な人間でも疲れてくる。二階建て構造四棟からなる客棟は、部屋数六十。そこの清掃。おまけに大浴場や遊技場、表玄関にロビーに大広間も清掃。自動販売機の補充に食材の注文・受け取り。古くなった備品の発注・取り換え。他にもまだある。


「さすがに、目が回って、きましたね」

「でもよ、ダンナに迷惑は、かけられねー。仕事は、全てやるんだ」


 ここで客が来ようものならさらに忙しさは数割増しだ。二人の心には、自然と祈りが芽生えてきた。宿で働く一員としてはあまり好ましい祈りではないが、出来れば客が来てほしくない、と。

 しかし、願いを打ち砕くかのように表玄関をガララと開ける音がする。


「来た、のか? 客が」

「どうでしょう」


 とりあえず作業を姫に任せ、葛葉はロビーに向かって早歩きする。受付に直通している階段を下りて、たった今戸を開けて入ってきた人物を見やる。お客様であれば、と身構えたが、現れたシルエットは見覚えのあるものだった。


「ああ、ぱとりしあでしたか。東北からの列車、ずいぶん早くとれたんですね」


 肩の力を抜いて、葛葉が尋ねた。やってきた人物の名が、ぱとりしあというらしい。


「えへー、まあね。新しいダンナさんの声が聞こえたから戻ってきたの」


 明るく楽しげな口調で話す、大きな黒いボストンバッグをげた小柄な人物。と言っても姫ほどの低身長ではなく、丁度葛葉の顎あたりに頭が届く身長だ。服は黒いロングスカートに白のブラウス、赤いベストを合わせており、どうにも異国のカントリーな雰囲気が漂っているが、それが似合うだけの見た目をしていた。

 ふわりふわり波打つ、空気のように軽そうな金髪を肩まで伸ばしており、瞳はエメラルドの輝きを留めて、まばたきのたびにきらめきを振りまいている。


「あれ? ひょっとしてボクが一番最初に帰ったの?」

「まあ一応。出かけていたメンバーでは最初に戻ってきましたね、あなたは」

「あはは。ほっとした顔してるね、葛葉ちゃん。お仕事大変だったでしょ? 着物が乱れてるよ。きっと、二人だけだったからだね。でも、もう安心していいの!」

「助かります、ぱとりしあ」


 よいしょ、と呟いて革靴を脱ぎ、ぱとりしあはそれを受付のカウンター下に置く。お客様用の下駄箱は使えないからだ。


「姫ちゃんはお仕事中か。ボクもすぐに着替えてお仕事始めるね」


 一人でうんうんと頷いて、上の階へと駆けていく。そのまま従業員棟に入り、自室で着替えるのだろうと葛葉は推察した。それから葛葉は受付カウンターの椅子に座り、つかの間の休息をとった。


「なんにせよ、この宿で一番元気でよく働く人が最初に戻ってきてくれて、よかったですね……彼女は接客担当ですから、お客様がいらっしゃっても慌てなくて済むようになりました」


 葛葉は洗濯や食事の担当、姫は清掃とトラブルの担当である。

 一応全員、お互いが居ない時のために仕事を一通りこなす訓練を受けているが、それでも向き不向き、得意不得意というものは出てくる。なので、この宿では従業員一人一人が得意な仕事を一手に引き受け、余った時間で他の面子めんつの仕事を分担することになっている。

 その中で、ぱとりしあは接客担当だった。素直で明るく、笑顔の絶えない彼女は接客が得意だったのだ。……なぜ旅館なのに外国人、と問われることもままあったが、そんな疑問を跳ねのけてしまうだけの人柄があるらしい。


「さて、わたしも休む暇はありませんね。仕事に戻りましょう。……姫が従業員棟からいなくなりますしね」


 立ち上がって首を鳴らし、大きく伸びをしてから、葛葉もぱとりしあの後を追った。


        +


 家に帰って俺が勝手口を開けると、厨房から葛葉が出てきてお帰りなさい、と言ってくれた。姫も後ろから出てきたのだが、どうにもこうにも機嫌が悪い。

 二階の突き当たりにある部屋に通された俺は、周りを見回す。和室は見事なまでにファンシー一色、ぬいぐるみに囲まれ桃色の絨毯とカーテンに包まれレースのヒラヒラがやたらと目に付く。その中にちょこんと正座した、一見しただけでは人形の一体と見間違えてしまいそうな少女がいた。


「初めまして、ダンナさん。ボクの名前は、ぱとりしあと申します。どうぞ呼び捨てでお願いします! ちなみに名前はひらがな表記なの」

「ん、よろしく……ぱとりしあ」


 金髪緑眼の異国風な女の子が、深々と頭を下げた。つられて俺も頭を下げたが、ぱとりしあの後頭部に俺のおでこがぶつかることになった。痛い。頭を押さえてあううとうめく彼女は俺より少し低いくらいの身長で、着物の色は薄緑。オビ浅黄あさぎで、明るい雰囲気漂う人物だった。


「彼女の仕事は接客が中心です。これで食事、接客、衛生と基本的に必要な人材は揃いました。あとは会計、交渉の二人が戻ってきてくれれば完璧です」

「あれ、ぜんぶで六人だって、姫から聞いてるけど」

「ああ、お話されていましたか。六人目はですね、なんというか、ないものと考えておいてください」

「? そうなんだ。わかったよ」

「はい」


 なぜか少しばかり戸惑った様子で、葛葉は呟いた。

 それにしても態度から察するに、葛葉と姫はかなり疲れている。それも当然か、ぱとりしあが来るまで、この広い宿の全ての物事をたった二人で切り盛りしていたのだから。そう考えると、自然とねぎらいの言葉が出た。


「お疲れ様、二人とも。もちろんぱとりしあも。俺は働けてないのに、上から目線でこんなことを言うのもおこがましいんだけど、でもみんなの働きを俺も見習っていきた」

「チッ」


 ……盛大に舌打ちが聞こえた。音の出所を確かめると、俺の目線よりかなり低い位置から。

 姫、だよな。


「えっと、なにか、俺が気にさわること言ったかな」

「別にぃ」


 イライラした様子でそっぽを向く。

 勘弁してくれ、これから宿を経営していかなくちゃならないのに、二日目で少ない従業員のうちの一人に嫌われるなんて。


「……ダンナ様」


 ぼそぼそと耳に息が吹きかかる。なんだこのイタズラは人が真剣に悩んでる時に、と思ってそちらを振り向くと、葛葉が間近に立っていた。細い眉根を寄せて、青みがかった瞳を、困ったように泳がせている。


「なに? 葛葉」

「ダンナ様が姫のイライラの原因ではありません」

「え、そうなの」


 コクコクと首を縦に振って答える葛葉。じゃあ何が、と思って俺がもう一度姫の方を見てみると、姫は俺と言うよりはぱとりしあから顔を背けていた。その顔というのがまた、歯軋はぎしりしていそうなくらいに険しい。

 元の顔がやたらと可愛らしいせいか、怒っているのを見ると心が穏やかではない。


「あの二人、相性悪いのか」

「ぱとりしあの方は別に嫌っていたりとかそういうことはないんです。ただ、姫の方が一方的に毛嫌いしていまして」


 ぱとりしあがニコニコしている横で、そっぽを向いたまま険しい顔をしている姫。対比すればするほどに、両方の表情が際立ってしまうコンビ。一体何があったんだろう。何が姫にあんな顔をさせているんだろう。


「理由が気になるご様子ですね。直接訊いてみたらいかがですか」

「あんな顔の人間に怒っている理由を訊けって? 自殺行為に等しいよそれは」

「と、言われましても。わたしも理由はお教えしたくとも出来ないのです」


 知ったら知ったで怖いと思うから別にいいよもう。


「おい葛葉、ダンナ。二人揃ってなにを話してやがる」


 ほらにらまれた。


「いや別に何も」

「ならそんなに引っ付いていちゃいちゃすんな」


 たしかに。よく見てみれば、コソコソ話すために葛葉と俺は必要以上に近づきすぎていた。慌てて葛葉が俺の耳元から離れたが、その時にふわりと香った髪の匂いが余計に俺を緊張させる。

 やばい。なんか今度は違う理由で姫に睨まれてるみたいだ。


「あーちくしょ。もういい。あたしは仕事に戻る。こいつにも仕事言い付けておいてくれよ、ダンナ」


 ガシガシと髪を掻いてから、首元のマフラーを巻きなおして部屋を出て行く姫。普段眠そうな目が金色に輝き、瞳孔が細められていてはなんとも言葉をかけづらい。どうしたもんだか、と思った俺は振り返ってぱとりしあを見たが、大きなくりくりした瞳でこちらを見据え、首をかしげるだけ。多分姫が怒っていたことすら気づいていない。


「葛葉。今まではどういう風に扱ってたんだ、この二人」

「ご自分でお考えになった方がよろしいかと存じあげます。斎様には斎様のやり方が、あなたにはあなたのやり方があるでしょう」


 では、と呟いて一礼、葛葉も部屋を出て行く。逃げられた。


「ダンナさん、ボクのお仕事はなんなの?」

「え? あー。どうしよう」


 大体、接客中心で仕事をしている人間にどの仕事を申し付ければいいのか。とりあえず、姫とはかぶらないように仕事をさせなくてはならない、と俺の全神経が危険を感知して告げている。掃除とか衛生面の仕事が姫だったはずだから、ここは食事作りに回ってもらおう。


「じゃ、食事の仕事をお願いする」

「あ、ボクお料理ダメなの。卵かけご飯しか作れないよ」


 どんなレベルだよ。


「それに、今はお客さんいないから葛葉ちゃん一人で十分食事は作れるでしょ? それじゃあボクはお仕事がないね」


 あはは、と笑われてしまった。どうしたものか。掃除は姫がやっているし、ほとんどそれは済んでしまっている。食事は手伝いの必要ナシ、その他の仕事は会計担当や交渉担当が戻ってこないとダメらしいし。


「休むしかないかな」

「わーい。ダンナさんもここで休もう」

「いやそれはちょっと。俺は部屋に戻るから一人で休んでくれ」

「えー? 遊ぼうよお。ね?」


 甘え上手な子供のように、袖をぐいぐいと引っ張られる。一応これでも主人の身、従業員の怠慢を見過ごすわけにもいかない。なにかしら断る口実がないか、頭の中を探してみる。が、該当するデータはありませんでした。だって仕事がどういうのあるか把握できてないし。

 仕方ないのであぐらをかいて座り込み、ぱとりしあと向き合う。従業員との交流も大事ってことで、ここはひとつ。


「あんまり遊びすぎないように、な」

「わかってるの。じゃ、コマを並べてね」


 じゃら、と音を立てて広げられるコマ。かなり久しぶりに目にした盤上遊戯、それは将棋だった。


「ぱとりしあの外見と相当にミスマッチなんだけど。この部屋の装飾もファンシーだし、てっきり趣味も洋風なんだとばかり思ってた。こんな和風なものがあるなんて気づかなかったよ」


 指摘してやるとぱとりしあはきょとんとした顔で俺を見つめた。異国の香り漂うその顔立ちは、姫のような可憐さ、とかではなく性格そのもの、子供らしさを如実に現したような可愛らしさがあった。

 明るく元気、天真爛漫な性格。まあ、まだどういう性格かはっきりとはつかめていないが、第一印象は少なくとも、そうだ。


「うーん、内装とか服装は洋風な方がボクは好きだよ? でも、こういう遊びは二人だけで出来るから。好きなの」

「そっか。たしかに、トランプとかは大人数でないと楽しめないし、な。とは言っても、俺将棋なんて最後にやったの、かなり昔だよ」

「そなの? おもしろいよ将棋ー。チェスとちがって引き分けは少ないしね。腕試し腕試し!」


 ぱちぱちと小気味のいい音を立てながら並べられていくコマ。

 最後に王将を並べてみると、俺が取ったのは玉の将。将棋においては、格下の人間が使わされるコマだ。つまり、ぱとりしあに俺は見下されてるわけか? 見た目と違って意外に性格悪いのかなこいつ。

 すっと視線を上げて真向かいに座る少女の表情を窺う。ニコニコしていてよく考えが掴めなかった。まあいいか。


「よろしくお願いします」

「よろしくお願いしまぁす」


 ……くっくく。

 こう見えても中学時代は囲碁将棋クラブに所属していたんだ。格下に見てくれたお礼に、こちらも衰えていないか腕を試してみよう。


        +


「姫、ここから先のき掃除はしてあります。そろそろ夕食にしましょう」


 ガタガタと脚立きゃたつから降りながら、姫は下からの声に返答する。


「あー、わかった」


 手には高枝切りばさみ。橙色の帯周りには革のベルトが巻かれ、各種・庭弄にわいじり道具が納められている。専門にしている従業員は別にいるのだが、適当に伸び放題になり始めている庭木を見ているうちにいても立ってもいられなくなったらしい。


「悪いな、葛葉。食事の用意が終わったからって手伝ってもらっちまってさ」

「お気になさらず。わたし一人の頑張りが、この宿を支えているのですから。サボるわけにはいかないでしょう」

「自信もってそういうこと言えるおまえはすごい奴だよな、ホント」


 宵の口になり冷え込んできた。秋風に吹かれたマフラーを押さえつつ、庭弄りセットを倉庫に放り込む姫。葛葉も脚立の片づけを手伝いながら、はて、自信も何も当たり前のことを言っただけなのに、という顔をしていた。そして、唐突に溜め息交じりの言葉を姫に投げかける。


「夕食に行きたくないですね」

「なんでだ?」


 金色の瞳をぱちくりさせる姫。


「あなたとぱとりしあを同席させたくありません」


 名前が出ただけでひくっと顔を歪ませる姫。心なしか赤いポニーテールがしんなりしたような気がする。その反応を横目で見た葛葉は、歩き出しつつもさらに大きな溜め息をついた。あわてて取り繕おうとするが、なかなかうまくいかなかった。


「その反応、食欲減退を招きます。以前は少なくとも斎様がいらっしゃいましたから、あの方をクッションとして、会話も出来たというのに」

「うっせえ。だってあいつはよ」

「毛嫌いするのは簡単ですけどね、姫。これだけは言っておきます。露骨に人を嫌う態度を見せて、それでいて理由も話さない。これでは人に嫌われます。それに、大多数の男は女が陰口を言うのも嫌います。ダンナ様に嫌われたいんですか? あなたは」


 途端に姫は口をつぐむ。その様子を見て葛葉はさらに溜め息をついた。


「これしきの言葉で動揺する感情なら、いっそ完全に捨ててしまう方がいいですよ。従業員同士の間で確執。それを知ってダンナ様も呆れる。ただの悪循環になるだけです。あなたの方から大人にならなくてはどうにもなりませんよ」

「あたしの方がぱとりしあより二つ年下なんだけど」

「そんなうんざりした顔でわたしに言われても困りますよ。うまくさばくことを覚えてください、流すのも大事です。お客様に対してもあなた、流すのが下手な時ありますよね。特に年齢とか体型を指摘されると」


 腰に手を当てて詰め寄ってくる葛葉。あ、これは説教モードに入る気だ、と察知した姫は、そそくさと背を向けてその場を去る。


「わかったって。こっちが大人になりゃいーんだろ。葛葉ほどうまくは出来ないと思うけど、努力はなるだけしてみる。だからまあこの話はナシで」

「本当にわかったんですか、姫。あなたはぐらかす時はいつも背を向けます」


 問いかけには答えず、日暮れで暗くなりつつある中庭を姫はすたこらと逃げていった。


         +


 勝負開始から二時間ほど経っただろうか。ただいま、二局目だ。

 一局目はしてやられた。最初に真ん中へと飛車を移動させたから、へたな振り飛車か、と思いきや。甘かった。認識が、甘かった。まさかあんな戦法でボコボコにされるとは。あなどっていたのは俺だった。


「ダンナさんよわーい」

「傷つくなぁ」


 集中力を取り戻せ。懐に入れていたパックを取り出し、俺はずるずるとそれを飲む。しかし、ぱち、と置かれた桂馬。鉄壁の金の間隙を突いた一撃で、詰めろをかけてくる。やばいやばいと思っているうちに、守りがじわじわと崩されていた。そしてひび割れだらけになった城壁に、銀の大槍が叩きこまれて。


「……ぱとりしあ、強いな」


 俺は下手だけども、相手が上級者かどうかくらいはわかるさ。もう悔しさよりも感嘆の方が先に出るような上手い手でしてやられて、自然に褒め言葉が出てきた。


「えへへ。前のダンナさんともよくやってたから。五分五分の戦績だったの」


 胸を張るぱとりしあ。なるほど、俺が将棋をやっていたのも父さんから教えてもらったからだった。多分暇つぶしに手ほどきしていたのだろう。……それに俺は父さんに勝てたことは一度もなかったし。父さんと同格の相手に勝てるはずもない。


「さて、さっきから食事の匂いがしてるな……夕食が出来たんだろう。そろそろ食べに行こう」

「えー? まだボクは勝負したいの」

「これ以上やっても俺は勝てる気がしないんだけどな」

「上達はすると思うのー」


 ぐいっと袖を引っ張られる。見た目は細いのに力が強い。


「またそのうち、な」

「約束だよ。あ、今度はオセロがいいかも」


 目を輝かす。なんだか子供を相手にしているような気分になった。

 父性が目覚めるってこういう感覚だろうか。などと思っていたら、乱暴に障子を開ける音。廊下に、姫が立っていた。妙に気負った感じで、背に湯気が立ち上っているような気がする。なんだこれ。


「夕飯だ、ダンナ」

「ほらやっぱりだろ、ぱとりしあ。また今度な」

「うー。姫ちゃんが来たせいなの。せっかく一緒に遊んでたのに」


 膨れ面で姫を睨むぱとりしあ。本当に行動とかも子供っぽい。と、それまで無表情を貫いていた姫が少しだけ顔をゆがめる。口の端が「うぜえ」と言ったような気がする。


「うるせえ。とっとと下に来い」


 あ、うるせえ、だったんだな。多分。きっと。おそらく。

 不機嫌全開で接する姫。しかしぱとりしあは全くそれを気にしていない。いや、まず不機嫌な表情の人間がいることに気づいている様子がない。空気を読まないとかいうレベルじゃない、人の感情を読めてない。……これで接客できるのかな。

 姫はその態度にイラだっている。傍に寄ると熱気を感じそうなほどに。


「なんでそんなに怒ってるんだ、姫」

「ダンナにゃ関係ない。言っとくけど仕事上の問題じゃない。プライベートな問題だ」

「なら尚更なおさらだろ。個人間の感情を仕事に持ち込むのはどうなの」

「あんたにわかるもんか」


 泣き出しそうな表情で大股に歩き、階段を下りていく姫。その後を、今時見なくなったスキップという移動方法で追いかけるぱとりしあ。どうにも、悪感情を抱いているのは姫の方だけらしい。




 食事の席は、空気が重かった。カチャカチャと無機質に食器の擦れる音のみが響き、広い厨房にはそれ以外の音が存在しない。気まずさでおなかいっぱい、今すぐに逃げ出したくなる。

 そんな中でもただ一人笑顔なのは、ぱとりしあだった。周りを気にしない心持ち。ぱくぱくと平気で食事をとっている。俺には無理だ。もうこの空気だけで食う気がなくなるっていうかむしろ真空じゃないのかっていうか。


「姫、しょうゆとってもらえますか。お豆腐はしょうゆ無しでは寂しいので」

「自分で取れよ」


 トゲのある言葉。葛葉は肩をすくめ、手を伸ばす。その方向には、ぱとりしあが居た。

 なんだろう。なんでか、違和感がある。俺はひょっとして、何か認識間違いをしてるんじゃないだろうか。姫の態度は、とげとげしいけど。それは敵意とかじゃ、なくて。


「んだよダンナ。あたしの顔に何かついてるか?」

「いや別に」

「ならジロジロ見んなよ、うっとうしい」


 姫、と態度の悪さをたしなめる葛葉。ふん、とそっぽを向く。

 でもその態度は、やっぱりどこか違う。俺は考え違いをしている、そんな気がする。


        +


 食後、姫の部屋へ行く。部屋の出入り口は障子なので、ノックは壁を叩いて行う。少し間を置いて、姫はほんの少しだけ隙間を開けた。そこから不審がるような目つきで俺を見上げ、何か口にしようとして――やめた。


「やあ、姫」

「なんだよ……」


 不機嫌な顔。でも上目遣いになってるから見た目の機嫌はどういう風にもとれる。


「少し話をしようかと思って。いいか?」


 一瞬にして障子が閉まる。しまった、直接的すぎたか?と思い、諦めて自室に戻ることにする。と、後ろですっと障子が開く。


「いーよ。入れよダンナ」

「あ、そう? なら、遠慮なく」


 いや、姫の部屋で話そうという意図ではなかったんだけど。

 お邪魔させてもらうと、なんで一瞬障子を閉めたのかは、部屋に踏み込んですぐにわかった。部屋は三方の壁が見えなくなるほど本棚で囲まれていて、部屋の隅にはたった今積み上げました的な様子がうかがえる本の山が見える。確実に今の短時間でスペース作りをしてたな、こいつ。

 部屋の中央にはコタツが置かれ、その横には万年床まんねんどこと思しき布団。我が悪友辻堂の部屋も、こんな感じだった気がする。


「す、座れるところは作ったぞ。これ以上は譲歩できないからな」

「なんでしょぱなから逆切れなんだよ。まあいいけど姫、本好きなのか?」


 コタツに潜り込みながら尋ねる俺。東側の出入り口付近の壁にはタンスがあるが、それ以外は西南北と背の高い本棚がそびえ立っているのだ。そもそも、あの本棚の最上段は俺でも届きそうにない。一体どうやって姫の低身長で本を取っているのか……。


「踏み台にされたいのか、ダンナ?」

「ゴメン、そんな特殊な趣味してないから」


 顔に出てたらしい。そりゃあ、姫と本棚を交互に見てれば思考も読まれるか。


「で、なんだよ話って。まさかあたしの部屋を見に来ただけじゃねーだろーな」

「そんなバカな。ただアレさ、ぱとりしあのことで」

「その名を出すな……」


 いきなり切れました。


「何があったんだよ。プライベートで何があったかなんて本当はかないほうがいいんだろうけど、このままじゃ宿全体に関わってきそうだし。理由だけでも、聞かせてほしいよ」


 心底恨みがましそうな目で姫はこちらを睨む。あーあ、結局昼に葛葉と話してたことを実行に移してるな、俺。こんなに怒ってる人間に怒りの原因を訊くなんて、自殺行為もいいとこだ。見てみろ、あの眼。刺し殺されそうな視線だ。超がつくほど臆した。


「あーもう。わかったよ。話せばいいんだろ、話せば!」

「……いや、そこまで嫌がるなら、別に理由は話してくれなくても、いいデスケド」

「すっきりしてない顔で言うな! あーいいよわかったよ言うよ言うよいま言うよ! あのな、ぱとりしあの奴はな……あたしを、襲ったことがあんだよ!」


 え。


「見境ねーんだよ! ふっと気づいたら襲われてんだぞ! トラウマなんだよ!」

「えと、その、ごめん」

「謝るな! 訊く前に覚悟しとけよ!」


 う〜っ、と唸り声を上げる。ど、どうしよう。と、こちらに飛びかかるように猛烈な勢いで、突然姫は立ち上がり、どすどす音を立てて部屋を出て行った。一瞬踏みつぶされるんじゃないかと身構えてしまうほど、とんでもない殺気を漂わせて。


「…………悪いこと訊いたなー」


 後悔してももう遅い。溜め息をついて俺はこたつから出た。すると、廊下を歩いてきた葛葉に遭遇する。腕には洗濯籠を抱えていて、その陰からひょこっと顔を出す形で俺に話しかけてきた。


「姫のトラウマに触れましたね」

「知ってたんだよね、葛葉は」

「無論」


 しれっと言ってのけて、また洗濯籠の陰に顔を隠す。そのまま屋上に繋がる階段の方へと歩いていってしまった。実は底意地の悪い人物なのか、はたまた元からそういう人柄なのか。後者の方がタチ悪い気もする。


「ダンナ様」


 途中、一度だけ立ち止まって振り返らずに尋ねてきた。


「なに?」

「ダンナ様はぱとりしあとさっき、遊んでましたよね」


 ぼそっと、葛葉は呟くように尋ねた。


「そうだけど」

「どれくらいの間?」

「二時間弱」


 軽く嘆息。そして深呼吸。大きな溜め息。やがて、憐憫あわれみを込めた眼差しで俺を数秒振り返る。そして一言、何かを口中で呟く。その言葉は耳には聞こえなかったが、唇の動きから察するに。


「ご愁傷様です」


 こう言っていた。


        +


「姫、お風呂ですか」

「うん。葛葉、出来ればついてきてくんねーかな」


 少し泣いた様子の姫は、ぼそっと葛葉に頼む。


「わかってますよ。たぶんいまは大丈夫だと思いますけど、それなら、早めに入りましょうか。遅くなるとあの子も入ってくるでしょうから、念には念を入れないといけませんしね。それに、ひょっとしたらダンナ様もあの子にくみしてしまうかもしれません」


 そりゃねーだろ、と苦笑する姫。だが葛葉は、存外に真剣な表情で姫に詰め寄る。


「わからないでしょう。ダンナ様だって男ですから、まかり間違って危険行動に走らないとも限りません。男性は皆そういう欲求は強い、これは鉄則です」

「嫌な鉄則だな、というか、も少しダンナを信じらんねーのかおまえは」


 その問いにはついっと顔を背けて聞かなかったことにする葛葉。もう随分一緒に仕事をしている姫は、仕事仲間のそういう性格ところもちゃんとわかっているが。


「あなたも大変ですね、姫。色欲魔女(あの子)に狙われると日々の生活が危機感を以て対処すべき難題になります。……まったく、あの子はどうして男女見境なく手を出すのでしょうね」

「なんか今ものすっごく悪意を持ってあいつの名前呼んでた気がすんだけど」

「気のせいでしょう。あなたが来る前にわたしになにかあったということなどかけらもありませんよ」


 すたすたと歩み去る葛葉。慌ててその後ろに追いつきつつ、周囲を警戒する姫。


「まあいっか。今はダンナの方に興味を持ってるみてーだし。あいつは長い時間遊ぶ相手イコール襲う相手、と思ってるみたいだから。……とにかく、しばらくはあたしも周囲を気にせず、風呂に入れるってことだな」


 自分の主人に色々押し付けたわけだが。トラウマを思い出して泣かされた分、厄介ごとも背負い込んでもらうことにした、そう自分に言い聞かせる姫だった。


       +


「ところでそろそろ風呂入りに行きたいんだけど、いいかな?」

「だめなのー」

「いやダメってなにさ、俺疲れてきたんだけど」

「まだまだなのー」

「まだまだってなにが、ってかもうオセロも飽きてきたんだけど」

「ダンナさーん」

「ん?」

「えへへへ」

「え?」



「え?」




終劇。


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