二十七頁目 蝿の王と手負いの暗殺者。(墓地埋葬)
客室にて、俺はリオ様と向かい合っていた。宿屋主人として。
「当宿、紅梅乃花弁にご宿泊いただき、誠にありがとうございました。しかし、あと十日の滞在のご予定と聞いておりましたが、こちらの方で不手際がありまして。従業員の数が減ってしまい、これまでと同じ水準のサービスを提供することが出来なくなってしまったのです。なので、非常に申し訳ないのですが、これ以上ご宿泊していただくことがかないません。もちろん、ここまでの滞在でかかった料金はいただきません。……至らないところがあるばかりか、滞在期間を短縮させてしまい、すみませんでした。お客様に満足いただけるだけの環境を整えられず、誠に、申し訳ありませんでした」
深々と土下座し、相手の空気を確かめる。リオ様は座椅子に座ったまま、こちらに向かって顔を上げるように言った。
「……そうか。まあそれは確かに残念だが、事情があるようだし致し方ない。おれはこのまま帰るとする。ところで、あんまり固いままで接してこられても困るしな、春夏秋冬個人として話してくれないか」
「ん、ならそうする」
心中で「様」付けて呼ぶのもアレだったし。と、すぐに言葉遣いを改めた。改悪か。
俺を見て、リオは苦笑を漏らす。それから、俺の全身に付けられた、まだ完治していない傷を見やる。
「そのケガ、やはりおれが会った復讐者によるものか?」
「違う。これは宿屋の、同僚にやられた。それが原因で従業員が少なくなってね、だから出て行ってもらう他無くなったんだ。本当に、ごめん」
「……おまえも色々あったようだ。深くは聞かないが」
リオは立ち上がり、シルバーブロンドの髪を揺らしながら窓際まで歩いていった。俺も足を組みなおし、あぐらをかく。
「絶対為る真理。吸血鬼という出自は、面倒なものだろう」
異名で呼ばれて、少しばかり俺の中にあった昔の自分、つまり戦場に居た頃の性質を思い出す。吸血鬼であるために得た異能、戦いの力。その異能が何度も俺の窮地を救ったが、最初から何もなければ襲われることもなかったのも確か。
何度も『普通』である人々を羨んだが、まさかその中に入って生活する日がくるとは思ってもみなかった。色々なことがあった、この数年。けれど、俺はついさっきその日常に別れを告げた。また戻る日は来るだろうが、今しばらくは危険な非日常の世界の中に身を投げ打つ。全ては、吸血鬼の出自のためでもある。
けれど。
「そりゃまあ、面倒だけど……そのおかげで色んな人とも出会えた。もちろん良いことの方が少なかった、でもそんなのは日常、普通の世界に暮らす人だって同じだ。それに、俺は吸血鬼だったおかげで救えたものもある。誰かのために何かを出来ることを知った。だから、吸血鬼として生まれついたのも、悪くはなかったんじゃないか、って思えるんだよ」
「そうか」
リオは窓の外を琥珀色の瞳で眺めてから、俺に向き直る。逆光になっていて、リオの表情が読めない。だが固い声だった。
「なら、後悔しないように歩くがいいさ。おまえが思う通りに、な」
どう返答したものか迷っているうちに、リオはあさっての方を向いてしまった。そのまま黙り込んで何も言う様子がないので、俺は一礼して部屋を出て行くことにした。ドアを閉めて、従業員棟に戻ろうとする。が、そこで一番大事なものを渡しそびれていたことを思い出す。ボトムスの尻ポケットに入れていた封筒を取り出し、慌ててリオの部屋に引き返す。
「おぅいリオ、そういえば今日まで払ってもらった分のお金、返しそびれて……って、あれ?」
部屋を出てから十数秒しか経っていないというのに、リオの姿は部屋の中から忽然と消えていた。
ぱとりしあが出て行った翌日。学校にも休むことは告げたので、俺たちも宿を閉めて出て行くことにした。リオはなんだか気がついたらいなかった、という感じなので、封筒に入れたお金はもし次にリオが来た時に盛大にもてなすために使うか、もしくは直接返金しようと思って金庫の中にしまい込んだ。
宿の表玄関に四人揃って集合し、俺は鳶色のジャケットのジッパーを上げ、襟の立った深緑のロングコートをその上から羽織る。
葛葉はジーンズに白いカットソー、その上から臙脂色のブルゾンを着ていた。肩に届くくらいの黒髪は短く束ねて留めてあり、普段よりも動き易さを重視した様子。
白藤は袴に蒼い留袖、普段は踝まで届く長い黒髪は団子状に結って、余った分を後ろに流している。いつものモノクルは今日はかけておらず、代わりにその鋭い視線を覆うように眼鏡をかけていた。上着としては鳶をまとっており、一番シルエットが大きい。
姫は膝上くらいの黒い短パン、同色のニーソックスを穿いて、短パンが半分隠れるくらいの丈の緋色のチュニックを着ている。その上からさらに黒いロングコート。髪はストレートに腰まで垂らした。
「よし、全員揃ったな。じゃあ行くか」
俺たちも柊を探しに出ることになり。しかし何にせよまずは今、川澄さんがどうしているかなどを探る方がいいとぱとりしあに言われ、先に出て行った彼女の実家に一度集まることとなっていた。さすがに九尾の討伐などを統合協会から任されるだけはあり、情報網はわりと大きいそうだ。
さて、これからの行動が決定できたのはそれで良いのだが、いかんせんまだ俺たちには課題が残っていた。白藤の空間転移はランダムに行き先を定めるため、表玄関から出てもぱとりしあの実家からは遠く離れた場所に出ることになるということだ。だからぱとりしあのところまでの旅費を捻出するのが、また俺たちの貯蓄に大きな痛手を与えるのだが……そこは気にしてはならない。
「金はちゃんと持ってんだろーな?」
「安心しろ。寝台列車に乗っていくことになるから時間はかかるけどな、旅費はまあまあ安いのを選んだ」
旅行用鞄を掴み、外に踏み出す。葛葉と姫の鞄からは刀や弓を入れた袋が覗いているのが気にかかるが、見ないことにした。踏み出した先は東京の近くにあるわりと田舎で、振り返れば白藤が出てきて宿屋は消失していた。
この村からしばらく電車に乗って東北行きの新幹線がある駅まで移動し、そこから夜、寝台列車に乗っていくこととなる。ぱとりしあの実家は、青森の端の方にあるらしい。
「旅行ではないのはわかってるんじゃがのぅ。やはり外の空気は良いものじゃな」
「さて、ではぱとりしあを追いかけますか」
「その言い方なんかヤダぞあたし」
のんびりと歩き始めて。
俺たちは、列車に乗った。このまま東京は上野駅まで乗っていき、そこからブルートレインと呼ばれている上野から青森間を一日かけて走っている夜行寝台列車に乗ることになるわけだ。まだまだ先の道のりは長いが……着いたらすぐに探し出してやる。
待ってろよ、柊。
+
「…………これは」
絶句する川澄。全てが焼き焦がされた死の臭いが立ち込める、そこは煉獄だった。
焼き払われた村。全てが焼失した村。被害を聞いて駆けつけた統合協会の陰陽師などが辺りにちらほら見えるが、まだ大事件として世間に報道された様子は無い。川澄自身は、村に一般人が入れないように張ってあった結界を式神によって一部「食い荒らして」入ってきたのだが。
どうも、かなりの大物が居たらしいということを察する。動物の勘か、肩に乗るスミスも蒼い瞳を細くして唸る。
「すまんが、ちょっと」
「? 誰ですか、あなたは」
近くに居たスーツ姿の男に話しかける。統合協会の人間と見受けられ、胸には神威精霊対策課である『梟首機関』の印章がついていた。被害の痕から死体を運び出し、遺族と確認をするための準備をしている様子で、担架を持っていた。しかし担架の反対側を持つ人がいないらしい。川澄は屈み込む。
「私も手伝いましょう。ああ、怪しい者ではない。知り合いがここに来たようなのでな、それを探しに来たのです」
「となると、ご親戚の方でしょうか」
「いや、その子の親の友人と言いますかな。ともかく、この仏さんを運びながら少しばかり話を聞かせてもらえんだろうか……なんともはや、酷い惨状ですな。つい二日ほど前に、あの子は里帰りをするとかで……あの時引き止めておけば」
「まだ、巻き込まれたかどうかはわからないですよ。希望は捨てないでください」
川澄自身は柊が巻き込まれたとはこれっぽっちも思っていない。それはただの勘に過ぎなかったが、それでも確信していた。そして二日前に空間転移の符札で逃げた、との情報からわりと離れたところだろうと推測し、有和良の見た短刀を操る体術の運び、苦無とワイヤーを駆使した暗器術、そういった要素を知り合いに伝えてどういった流派か判断した。
結果、東北の方にある廃れかけた暗殺一族の名が浮かび上がり、ここまでやってきた。
しかし、今はそういう被害者家族を演じた方が話を聞きだしやすく、動き回り易くなるだろうと考えての演技。身内が被害に遭っているだろうと考え、心配で駆けつけたように、それでいてまだ希望を捨てないでいるように。
微妙なさじ加減で表情を演出し、泣くか泣かざるかの精神的にギリギリな境界を演じる。対外交渉とは心理戦。演技や騙しはお手の物だった。
(ま、相手は若造。人生経験の差というものだな)
心中で思いながら臆面もなく深い溜め息。そのまま周囲を見渡し、術士としての勘からこれは特級の化け物が暴れたな、と目算をつける。
「何がここで起こったのですかな」
「はい……九尾という化け物をご存知ですか。あれが、荒神になって暴れたようです」
「なるほど、この蒼い焔は九尾の吐いた狐火というわけですな」
建物は倒壊して原型を留めていない。その下には、焼け焦げた人々の死体がうず高く積まれている。その周りでは、未だに九尾の放った蒼き焔がチロチロと下火になりながらも地を嘗めていた。川澄が顔を上げると仮設の巨大な白いテントが村の端に見え、そこに死体は運び込まれているようだった。
――居るとすれば、そこで家族を探しているか? 川澄は考えた。
「遺族の方などは着いていますでしょうか。私が探しているのは年の頃十二、三の少年なのですがな」
「子供で来ていたご遺族の方は、居ませんね。大体、まだこの事件自体が大きく伝わっていませんから。あなたで六人目です、この村に人探しに来た方は」
となると。柊はどこへ行ったのか。色々考えながら遺体をテントに運び込み、川澄はそこを離れる。ドライアイスなどを設置して温度を下げ、遺体がこれ以上劣化することを防ごうとしている様子だったが、テント内部は少しずつ少しずつ死臭に満たされていくのがわかる。
懐から一枚の紙、知り合いに頼んで作ってもらった情報をまとめたそれを、頭に上ったスミスと共に眺める。知ろうと思えば、宿に来てすぐのころにも、経歴を調べることはできた。しかしそのようなことをするのはマナー違反と感じ、あえて斎も川澄も柊を奉公に出してきた一族を調べはしなかったが。
いまは、マナーを破ってでも調べるべきだったと、後悔していた。
「『柊。本名、暗狩秋水。宿屋に来る前の経歴、暗殺者。歴史の影で暗躍した暗狩一族の天才、本家の次男。子供であるということで様々なところに警戒させずもぐりこみ、十の年齢に達するまでに二十三の殺人を請け負う。武器術のエキスパート。現地調達の武器及び携帯する暗器、もしくは徒手空拳のみで暗殺を実行してきた。しかし気弱な性格が災いして暗殺稼業に常々難色を示す。そのことから一族の爪弾きとなり奉公に出され、宿屋に着く』……だからなのだろうな、最初の頃に固い態度だったのは。自分が一族に捨てられたことを、悟っておったのか」
紙をしまい込み、死屍累々とした空間を歩く。砂利と共に投げ出された四肢を踏みそうになることもしばしば。小さな寒村とはいえ、一族の性質上戦える者も多かった村のはず。ここまで徹底的に焼き尽くすとは九尾の神威は計り知れない。
川澄は歩いた。そして、村で一番大きな家、本家の建物に近づく。大きな平屋造りの家屋は、どこか武家屋敷に似た雰囲気を醸し出している。魔改造と言えるまでの増改築をした白藤とは違う、古風で素朴な造り。
門をくぐって玄関に進み、崩れた中に入って最初に大きな血だまりを見つける。間違いなく致死量に至っている血痕からは、脂の臭いが漂っていた。そこを迂回してさらに進むと、やはりまた血痕がある。しかしこちらはさほど大きな血痕ではなく、出血では死に至ることは考えられない。が、その血痕を押し潰すように大黒柱が倒れていた。
地震やそれに伴う火災などで死に至るケースは、大半が家具に押し潰されての圧死、または家具に束縛されて動けないことで起こる一酸化炭素中毒である。九尾の突進で崩れた家、その下敷きになった人々も同じく、死の気体をたらふく吸い込んでその生を終えたのだろう。そう考えて、川澄はぞっとした。
大黒柱の横に、それに匹敵するほどの丸太が打ち捨てられているのを見つけてから、川澄はそこを後にした。
柊を見つけたのは、それからしばらく経ってからだった。死体があった痕跡があり、そしてそれが本家の人間であろうことは確実に分かる状況。なぜ分かるかというと、一酸化炭素中毒で死んだのであれば外見はほとんど変わらず、まず間違いなく本人だと判断できるだろうからだ。
しかし死体はテントに無い。このことで川澄は柊の居場所に目星をつけた。
「やはりここに居たか」
ぴくりとも動かない柊。そこは、村からそう離れていないところにある、森の中の墓地。その中でも特別大きく造られた墓の前に、柊は立っていた。玉砂利を踏みしめながら近づく川澄。
「本来は勝手に遺体を燃やして骨を埋めると法に触れるのだが……今はそういうことを言っている場合ではないな。だが、後から骨は取り出して、きちんと供養してから墓に納めておけ。その方がおまえの家族の心も安らぐであろう」
ボロボロの服装で立ち尽くし、髪もまとめていない柊。煤けた背中には深い哀しみなどよりも、喪失感が背負われていた。
柊の家族の死体が無い。ならば、どうにかして処理をしたのだろう。そう考えて川澄が本家の近くをぐるりと探すと、何かを焼いた痕跡があった。しかしそこには肉や脂の焼けた臭いと炭がこびりついているのみ。
つまり、焼いて残ったものを持ち去ったということ。狐火から火種を頂戴して焼いた死体、残る骨。それをどこに運ぶべきかなど、決まっている。なので川澄は近くを通った人に墓場の位置を尋ね、ここまでやってきたのだ。
「お節介もいい加減にしてもらおう、川澄源一郎」
「随分な口の利き方だな。小僧、貴様いつから私に向かってそんな口が利けるようになったのだ?」
精神が不安定になっているであろう柊。もしかすると斬られるかもしれないな、と感じ、袖の中で符札を握る川澄。だが柊にはどこまでも存在感が無く、激しい喪失感から全ての感情も排したように見えた。現に、先ほどの言葉も冷たくはあっても思いは感じられていない。
空虚で、色が無い。それが今、川澄の前に立っている少年に対する印象だった。
「主人を裏切り一族も絶え果て。これから一体どうするつもりなのだ、柊」
「あなたの知ったことではない。居場所も意義も無くした者は闇に消え行くのみ。無常の観念とはそういうものだ」
踵を返し、本当に背を向けてどこかへと消え去ろうとする。
「逃げるな。こちらを向かんか、柊」
足を止めて肩を落とし、首をゴキゴキと鳴らす柊。
「……なんだ。まだ何か用事でもあるか」
「ああ。私は主人に柊は連れて帰る、と約束をしたのでな。それを守るため、おまえにはこちらに来てもらおう」
「それは残念だった、な」
後ろ足にかけていた重心を軸に、体を反転。
苦無を左手で一本投擲、さらに右袖からは取り出した短刀を逆手に構え、低い体勢で疾走する柊。年老いた、しかも接近戦術士ではない川澄には、とても対応可能な速度ではない。苦無は体を射線上から逸らしてかわすが、突っ込んできた柊は止められない。
「今も昔も、我は暗狩秋水以外の何物でもない」
下からの切り上げ。川澄の脇腹から入って肩まで対角線上を裁断するはずの一撃。
だが当たる前にスミスが一声、鳴いた。瞬間にパシンと電気が走るような音がして、川澄の足元にある影が、波紋を浮かべる。
「……〝結式陸番〟急急如律令〝猫描〟!!」
煙草をくわえて火を点す川澄は、波紋の向こうで冷たい目をしていた。コンマ一秒でスミスの姿が溶け落ち、川澄の足元に液体のように融け込むとぞわりと面積を広げ、川澄の周囲に円形に暗く影を落とす。影の領空に刃が入ったとたん、波のように伸びてきた影の壁が、切っ先をはじき返した。
「連れて帰る」
式神と結界の融合術が構築されたことに気づき、柊は間合いを空ける。式神の自動操作による防禦術式の結界だ。全方位を常に防御するのではなく、攻撃される一瞬だけ影が集合し、一点を防ぐ。全方位防御を常時展開する結界とちがって低出力で長時間防御するためのもので、要は時間稼ぎのための術だ。そして、時間を稼げさえすれば、川澄には必勝の術がある。
その前にこの防御を抜くには――自動防御しきれない速度で広範囲に攻撃を仕掛けるしかない。柊は短刀をしまい、苦無を抜いた。
「多少、痛めつけてでもな」
川澄の言葉をロクに聞いていなかった柊だが、その一言は体の隅々まで染み渡る。
瞬間、川澄の人差し指と中指に挟まれた符札に封じ込められていた式神が、その姿を顕現する。
「〝結式伍番〟急急如律令〝蠅縄〟。〝結式肆番〟急急如律令〝蜂峰〟。〝結式参番〟急急如律令〝蟻犠〟」
三枚の符札が黒く変色して灰のようにボロボロと崩れ、その中から現れる二匹のつがいの蝿。蜂。蟻。それを見つつ連続突きを繰り出し、結界の防御を前面に集中させる。そして影の面積が減ったところで、一瞬で横に回り込み、苦無の連撃と鋼糸による広範囲にまたがる攻め手を生む。だが結界の薄いところを貫いた、と感じたとたん、隙間からあふれ出した蜂と蟻に動きを止められる。
大量の蜂にまとわりつかれ、刺されぬように羽織で打ち払いかわすが、地面から群れをなして襲い来る蟻の顎も馬鹿にはできない。川澄の得意とする結界術〝越境結界〟と〝浸透結界〟はほんのわずかずつではあるが結界の範囲を増やし、境を越えて浸み透る、城壁崩しの防御砕きだ。
その力を載せられた〝模倣式神〟であるこれらの生物は、〝性質強化〟の術もかけられており本来それら生物が持つ力を飛躍的に上昇させている。蟻の顎の力を増し、蜂の針と牙を研ぎ、襲いかからせるのだ。
けれど蟻も蜂も、彼にとっては前戯に過ぎない。余った材料で作っただけの、時間稼ぎにしか用いない歩兵に過ぎない。彼の大駒は――蝿縄。その存在と、そして川澄の冷たい目を見た柊は、久しぶりに恐怖感から反射で短刀を構えた。その固い表情の上を、冷や汗が落ちてゆく。
そうしているうちに蝿はどんどんと増えてゆき、気づけば羽音が五月蝿くて耳を塞ぎたくなるくらいの量だった。
「……やはりあの二つ名が、貴公を表すに相応しい。蝿の王、だったか」
「二つ名などもらうほど私は大層な人間ではない。才能も乏しく人格も貧相。せいぜい、蠱悪党とでも呼べ」
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世の中には様々な術式があるが、川澄にはあまり才能が無かった。逆に、有和良の父、斎は五行に秀でた陰陽師だったが、式神を操る才能も相当なもの。今は、五行の力が一番高いためにそれに頼っているというだけで、基本的にはなんでもできる術師であった。
そのことが川澄には羨ましく、嫉ましかった。何しろ、自分が数年かけて習得した式神の術を、斎は一日足らずで再現してみせたのだ。このとき、川澄は十二歳。術を習い始めて七年の頃。斎は四歳。術を習った初日の頃。
拾われ子で、有和良家の四代目主人に斎と共に育てられた川澄は、劣等感と嫉妬で斎から距離を置くようになる。十八になる頃には宿を出て、統合協会にて魔狩りの職に就いていた。しかしどれだけ実戦の中で研鑽を積んでも、時たま聞こえてくる宿屋主人の息子の風評は自分の遥か上だった。
神格級の精霊を退けた。西洋の悪魔を封印した。汎用的な符札を発明した。術士の反乱を収めた。武功から生活に繋がる技まで、あらゆる分野で活躍した。
その頃には自分の出自についても調べがついて、半ば諦めの感も見られるようになる。川澄はただの捨て子ではなく、著名な術士の家系に生まれついて魔力をほとんど持たないという『欠陥品』だったために捨てられたのだと。
地力が無い分、賢しくなった川澄は、戦術のみでその家を潰した。そこで、ようやく自分の小ささに気づいた。白蟻の式神や毒虫の式神で自分を捨てた家を文字通りに潰し、父母と兄二人を拳で黙らせ、地面にのびている四人の上にあぐらをかいている最中に。
煙草をふかして立ち上る煙を見ているうちに、むなしさが込み上げてきた。この時、川澄は二十六歳。宿を出て八年が経過していた。
気恥ずかしく思いながら宿屋に帰る。追い出されたらその時だな、と諦念も抱きながら。それでもその表情はわずかに微笑んで。
しかし出迎えたのは義父でも義弟でもなく、阿鼻叫喚の地獄絵図であった。現在最強と名高い次代の主人候補、斎が出払っている時の凶行。金銭目当ての夜盗が押し入り、宿はところどころ焼かれたり客が人質になったりしていた。
白藤はボロボロで、表玄関の隅に転がっていた。客だけでも放すように犯人に申し出たところ、このような目に遭わされたらしい。このことが原因で白藤は「客を守れない自分では資格が無い」と思い宿屋をやめたいと常々言うようになり、人間として生きて、宿として情けなかったことも忘れたいと思うようになるのだがそれはまた別の話である。
そして、父と慕った四代目主人は、客を守るために全身を切り裂かれ絶命していた。
川澄の中で激情があふれ、それは式神に力として宿り、夜盗の二十人を戦闘不能にした。そこから、川澄はその式神を操る恐怖の術士として名を知られることとなる。しかし色々なところから来る戦闘術士としての仕事の誘いを全て断り、川澄は宿屋に残ることを決意した。
夜盗の襲撃があった翌日、帰ってきた斎は青ざめた。惨状を知り、うな垂れる。その後、宿屋主人の部屋で待っていた川澄と相対した。川澄はまず今まで宿を空けた非礼を詫び、斎はそれを受けて夜盗から客を守ってくれたことに礼を言った。
四代目主人は遺言状を残していた。いつだって誰にだって偶には危険なことがある、だから私はこれを記す、という書き出しから始まり『五代目主人は有和良斎に任命すること。遺産は我が息子二人に二分割すること。そしてその一人とは、川澄源一郎である』としてあった。これを読んで川澄は泣いた。つまらない劣等感に囚われた自分を、まだあの人は息子と思ってくれていたのだ、と。また遺言状には、出来れば斎と仲良くしてほしい、との旨も書いてあり、だからこそ川澄はまず斎に詫びた。
それから斎は主人を継いだのだが、六年後諸事情から恋仲となったマリアとの間に二人の子を授かる。それからイギリスへ飛び、なぜか離婚。その後も外国を漂流し、川澄のサポートを受けながら仕事をこなした。そんな生活は十二年ほども続いたのだが、三年前に帰国。それからは義兄の川澄と共に仕事をこなし、宿屋を経営した。
平穏無事とはいかないまでも、愉快な日々であった。
その日々を乱す者は、すべて――その式神が片づけていた。
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柊が戦慄する。目の前に居る蝿の群れは、宿屋を守り続けるという不屈の信念が叩き上げた屈強の式神。
その数がどんどんと増えていく。理由は簡単。只の生殖行動による繁殖だ。しかしその速度が尋常ではないだけだ。そう、まさにその一点をこそ〝性質強化〟されていた。
蝿縄の本体たる二匹つがいのアダムとイヴ。それがまず子を造り、その卵は父の体に植えつけられ父を貪り食う蛆虫となる。蛆虫は成長し蝿となり、母と子を成しまたその父が餌となる。近親相姦というタブーを犯すことで呪いとしての力を強めており、しかも生殖の循環が限りなく早いため、ネズミ算式に増え、嵐のごとき数となる。
たったそれだけの術。しかしそれだけの群れを完璧に操作出来うる川澄は、やはり化け物と呼ばざるを得ない。努力でその境地に達した一点突破の戦闘術。いつの間にか蜂も蟻も姿を消した。足元の影も元に戻り、スミスが猫の姿を取り戻して鳴いている。
もう、他の術など必要ないということだ。
「さて、足か腕か。どれかは……貰うか」
背筋が粟立つ。柊が歩を刻んで後退すると、一瞬前まで居た位置を蝿の群れが叩く。何匹か地面と衝突して潰れた。羽音が五月蝿く、あまりの音による振動で視界の中で蝿より向こうが歪んでさえいた。まだ、距離が近い。
本来の柊の身体能力ならばもっと素早く回避することも出来たのだが、予想外の大殺戮が起こっていて家族を失った痛みから、その精神も肉体も本来のポテンシャルを発揮できていない。おまけに、ここに来て有和良との戦いで負った傷が痛み始めた。密着状態で拳を放つことで運動エネルギーを拡散させず体内へと打ち込む中国拳法の技、寸勁によるダメージで、内臓系統も荒れている。
自分の身体状況を確認していて、周囲への察知がおろそかになる。川澄が指揮するかのように腕を振るうと蝿の群れが飛び交い、柊を襲った。目の前で六つの群れに分裂し、各方向から打ち下ろし打ち上げ直進し、襲い掛かる蟲、蟲、蟲。肌着の襦袢をも脱ぎ捨て、それで薙ぎ打ちつつ、必死で逃げ惑う。
ただの蝿の群れならばそこまで柊も恐怖はしない。川澄のこの術で問題なのは、その繁殖のサイクルに自分の体を巻き込まれかねないということだ。
肉に卵を生みつけられ蛆虫が孵化し肉を喰らい成長し卵を産みつけ。ある程度まで数を増やした上でそのサイクルに巻き込まれれば止める術はなく、全身を食われて死に至るのみ。防禦術式を展開しようにも、『三日で世代交代する』という蠅の性質を強化されたこの式神は、生殖の繰り返しにより『眼前の物を食い荒らせるように』進化することでどんな結界も防禦術式もぶち抜いてくる。
残虐非道なる式神。以前視界を共有して人を探すなどという技を使ったことがあるが、そんなものはオマケに過ぎない。この術の本質は、ただ喰らう。悪食による暴食の王。
「くぅっ……」
後ろに転がって蝿を避けながら、柊は苦無を擲つ。しかし蝿の群れに遮られ、地面に落ちる。それほどの密度で群れは動いていた。しかも群れは柊が逃げれば逃げるほど、その分の時間で増殖する。五秒で二倍の数に増える、との冗談を川澄から聞いたことがあるが、それ以上じゃないかと柊は思った。
「終わるぞ」
襲い掛かる蝿の嵐。小さな個体から為る群体には柊の技はどれも通じない。そして羽音が左右と上に分かれていき、囲まれる。逃げ場は無く、外も見えない蝿のドームに柊は閉じ込められていた。羽音が一層強く柊の鼓膜を叩く。川澄の声も既に聞こえない。仕方ない、と短刀をしまう。だがまだギブアップではなかった。
拳を握る。ごきり、と音がする。そして五指を開き、目の前の蝿の群れに手を突っ込み――
「残念だったな。内部は全て見えている。前に使っただろう、視界の共有だ」
蝿の群れが霧が晴れるように失せ、渾身の力で腕を突き出した柊はバランスを崩す。そして倒れ込みかけた先に、川澄が居た。
その強張った手に握られた符札が投げつけられ、柊は手でそれを弾いてしまう。
「〝結式弐番〟急急如律令〝百舌百足〟」
触れた符札から巨大な百足が飛び出し、川澄が拳を握ると巻き付いて柊の体を絞めた。百の足にて這いまわり、強靭な甲殻に覆われた身体で全身を隙間無く埋める。二秒足らずでくまなく関節を締められ、柊は全ての挙動を封じられた。川澄はふうと溜め息をついて汗を拭い、柊を担ぎ上げる。
「……周りが見えていない。あれでは私ごときにしてやられるのも必然というものだ」
私は結界と式神しか使えんからこれを破られたら今度こそ勝ち目はないがな、と呟き、腰を叩きながら歩き始める。さすがに、年齢のせいか運ぶのにも難儀している様子だった。
「殺す、つもりでは」
「殺す気など毛頭ない。若人へのちょっとした仕置きに過ぎんよ。小便を垂らすようなことがなくてよかったわ」
「なにを、ふざけたことを! 戦の場に於いて甘いことを、」
しゅるりと百足が伸び、口まで塞ぐ。じろりと目を流して柊をにらんだ川澄は、動きを止めた彼を見ると、奪い取って喉元に突きつけた苦無を下ろした。
「生殺与奪は勝者が握る。おまえには今後一切の決定権がないと思え」
川澄はそれ以上は黙して語らなかった。
+
冷たい風を切り裂きながら走る夜行急行列車。青い車体は闇に溶けて、冬の夜を横断していく。
安い客室――つまり車両の内部に二段ベッドを持ち込んで区切った部屋――のうちの一つに、俺は横たわっていた。上には姫。通路を挟んで反対側には葛葉。葛葉の上には白藤。四つのベッドで一つの部屋、となっていたので人数は丁度だった。
部屋の入り口の反対にある、足を向ける方向である窓を眺めていると、暗い中に見える景色が後ろに過ぎ去っていく。夜景は綺麗だ。夜目は利くので遠くまで見える。だが、徐々にその景色は田舎に入っていき、見える光も街灯の小さな光のみになる。
そうやってしばらくぼんやりしていたのだが、ふと上にある電灯からの光が遮られたので顔を上げる。そこにはひょこっと上のベッドから顔だけ覗かせた、姫の顔があった。垂れてきた髪が目に刺さりそうになる。
「ちょ、ちょっと待て。髪が目に入る」
「うん? あー、悪い悪い」
ちょちょいとゴム紐で束ねて、ポニーテールにしてベッドの方に流す。いつも見ている通りの姿になった姫は、俺の見ていた窓に目をやる。
「なんか見えんのか?」
「いや、なんにも。でも落ち着かなくてな、眠れないんだ」
「あたしもだ。大体、宿屋を出ることが珍しいことだかんな。環境が変わりすぎて全然寝らんない、……っていうかな、なんでダンナ、その、えと」
「どうした」
言ってから、自分の今の状態を見る。包帯を解いて、上半身裸。傷口に軟膏を塗り込んでいるところだった。
「わ、ごめん。いや、外が暗いから窓ガラスに姿が映るだろ、だから背中とかに軟膏を塗る時に便利だったから」
そう。実のところ俺は外の景色なんて見ていなかった。単に、鏡のように姿を映す窓ガラスを見て軟膏を塗り込んでいただけ。届かないところは孫の手で塗ろうとしていた。姫は顔を赤くして目を逸らすので、仕方なく俺は服を着ることにした。まだ背中は塗っていなかったのだが。
「あれ、まだ背中に塗っていないじゃないですか」
「でも姫が着ろ、ってアイコンタクトをってうわ!」
正面のカーテンが開いて、葛葉も顔を出していた。しかし、姫とは違い上半身裸の俺を見ても特に戸惑う様子は無い。……慣れてるのか? いや、慣れるとかそんな機会ないよな。単純に心構えが出来てただけだろう。
「わたしが背中は塗りましょうか? 届かないでしょうし」
「え、いやそれはちょっとその」
「……葛葉に塗られんのが嫌ならあたしがやってもいーぞ」
「いや、そういう問題だと思われても困るから。葛葉にやられるのが嫌なわけじゃないからそんなうつむかないでほしいんだけど」
細い指先が背中を這う様を想像して、すぐに脳裏から消却。黒いスウェットを着こんで、これ以上妙な話題が続くのを止める。二人はなんだか微妙な顔をしたが、そんなことは知ったことじゃない。
「はぁ。じゃあ俺もう寝るから」
「誰とじゃ」
「そういう意味じゃないって前も言ったろ白藤、寝るじゃなくて『眠る』だ『眠る』」
カーテンも開けずただそれだけ呟いた白藤はチッ、と舌打ちしてそれっきりしゃべらない。なんだかこの数分でやたらと疲れたので、俺は本格的に眠ることにする。正面の葛葉と真上の姫に片手を挙げてじゃ、と呟き、いそいそとカーテンを閉めてベッドにもぐりこむ。二人もそれきりしゃべる気配は無く、室内に静寂が続いた。相変わらず目は冴えていたが、ゆっくりと体を休ませるくらいは出来そうだ。
と思ってから数秒、静かなる室内にごそごそと音がし始める。なんだ、と思って薄く目を開けるが、当然他のみんなの様子が見えるわけでもない。すぐに音はしなくなるだろうと考え、再び固く目を閉じる。だが、まぶたの裏で変な考えが浮かんだ。
さっき二人共、まだ着替えていなかったなぁ。
「………………」
寝る前なら着替えるだろう、多分。衣擦れの音はまだ薄く聞こえる。カーテン越しにくぐもった音、なのだが。
「……小さくなっちまったな、これ。少しは大きくなったんかな。今度買い換えよ……」
なんか聞こえた。
「……さらしもいちいち巻くのが面倒です。……また大きくなりましたかね……」
布団を頭にかぶった。そのまましばらく待つと、衣擦れの音も消える。これでもう大丈夫だと安堵したはいいが、また目が冴えた。
すっかり眠れる状態じゃなくなり、俺はゴロゴロとベッドの上で転がりまわる。そうしているうちに姫も葛葉も寝てしまったのか、くうくうと静かな寝息が聞こえるようになってきた。
十分経過。だいぶ、落ち着いてきたようだ。俺も。
「…………っぅん……く、ふ……」
と思ったら、なんか今度は寝息以上寝言未満の声。今度こそダメだと思った。
……外に出よう。そう思って、火照ったツラのままカーテンを開ける。
すると正面上から、首だけカーテンの隙間から出した白藤が、凶悪な笑みを浮かべていた。
「小用か?」
「そんなとこ」
「ナニしに行くのじゃ?」
「……その口閉じてくれ」
そんなに俺が飢えてるように見えたのか。そんな言葉が口をついて出そうになったが、何を言ってもムダだろうと思い、無視して外に出る。部屋の外、通路をしばらく歩く。他の車両との連結部近くに、公衆電話はあった。ポケットの中を探って百円玉を出し、受話器を取る。
葛葉に借りた懐中時計で時間を確認した。まだ、十時前。一応失礼にはあたらないだろうと予想。カチカチとボタンをプッシュし、事前に番号を聞いておいたぱとりしあの家に連絡する。コール三回でその家の侍従さんらしき人が出て、取次ぎを頼む。それから待つ間中「白鳥の湖」が流れていたが、電子音ではあまり心は穏やかにならなかった。
《もしもし、ダンナさん》
寝ぼけた声のぱとりしあがぼそぼそと呟く。さっきの声とかを聞くよりは数倍マシだな、と思った。
「俺だ。列車に乗って結構経った。多分明日の昼には着くだろうと思うよ」
《うんーじゃあお昼ご飯は用意しとくね。でも、姫ちゃんたちと同じ部屋で寝れるなんていいなーダンナさん。あ、ちなみにボクはダンナさんと一緒でも嬉しいの。二人っきりでもいーよ、いつでもうえるかむなの》
「そんな機会は無い。というかやっぱり辛い。寝れる気がしない」
《寝る、ってダンナさん大胆だね》
「……まあいいよもうそれで」
白藤より頭が桃色な人間と会話していることをすっかり忘れていた。真剣な話、もう今日は寝ないでおこうかと思うくらいだ。そんな俺の気分を察してか、ぱとりしあが少し早口に、元気出してとささやいた。別に一晩寝ないなんて昔はザラだったさ、と俺は返した。かみ合ってないですねー、と聞き覚えのある声がした。
《ぱてぃじゃ主人さんゆーわく出来ませんかー?》
「そろそろ切る。百円無くなるから」
嘘ついて逃げようとすると、慌ててぱとりしあが母から受話器を取り返す音が聞こえた。やたらと早口でまくしたてる。
《え、えっとねダンナさん。最後に言っておくんだけど、もう柊君は探しに行かなくていいんだよ?》
「……どういう意味だよそれ」
《川澄さんがもう見つけた、って夕方に連絡があったの。みんなも探しに出てるって言ったら「おまえの家に連れていく」って言ってたから、明日ボクのおうちで会おうね! じゃ、みんなにもよろしく、おやすみなさい~》
「え?! ちょ、もうちょっと詳しく」
思わず大きな声になるが、既に通話は向こうから切られていた。
寝台列車ってあこがれる。