二十六頁目 宿屋『紅梅乃花弁』、休業。(続行不可)
今回は幕間。
ずたぼろのまま担ぎ込まれた俺は、姫がインターホンで呼んだみんなに囲まれて、自室に運ばれた。そしてとにかく失われた分の血液を補給するため、葛葉に言って俺が普段飲んでいた輸血パックを持ってきてもらう。自分と同じ血液型のものも用意しておいて良かった。
有事の際のために用意してあったのか、白藤が持ってきた注射針を腕に打ち込み血液を補給する。少しずつ血を体に回されて、混濁していた意識も徐々に取り戻されてゆく。体中に出来た切り傷は、深いものは川澄さんが糸と針で縫いつけ、傷口には軟膏を塗り込んで血を止めた。施術が終わったところは包帯を巻いて、手早く他の部位に移る。麻酔もかけていないのでちくちくと皮膚が痛むが、気にしないことにした。
ぼんやりと取り戻された視界の中では、右側に懸命に俺の傷を縫いとめ、応急処置とはいえ治療をしている川澄さん。部屋の中をうろうろしているのは白藤。ぱとりしあは俺の左手で川澄さんの補助を担当し、葛葉は心配そうに俺の顔を見ながら輸血パックを上に掲げていた。どうやら、パックを吊るしておく器具はないらしい。
姫と父さんと、そして――柊が、いない。それを確認すると俺はふっと視界がブラックアウトし、背にした布団に沈みこんでいくように感じた。これだけ血を流して気絶してなかったのが不思議だな、と俺は今までの経験に照らし合わせ、やがてその思考も途絶えた。
起きた時には夜。横を見るとうつらうつらしながらまだパックを支えてくれている葛葉。隅っこの方では折り重なって眠っているぱとりしあと白藤。
川澄さんは俺の文机の前に座り込み、卓上灯だけを点けた暗い部屋の中で煙草をふかしていた。俺の瞳が開いたことに気づいたのか、こちらに目を向ける。
「起きたか、主人」
「……まあ起き上がることは出来ないけど。目は覚めた」
「何か胃にいれておくか?」
「結構。腹は減ってない」
少しだけ力を入れて起き上がろうとして、傷口が開きかけたのを感じて諦める。全身、包帯に巻かれて仰向けに寝かされていた。左肩から袈裟に入った一撃は、特にひどいらしく動かなくても熱と痛みを放出し続けている。
「まあこんなケガも慣れてないではないけど、さすがに今回は堪えた、かな。ところで、父さんは? こういうケガをしても、前は父さんが治してくれたんだけどな」
「斎様は主人が出て行って少ししてから、忽然と姿を消しおった。どこに行ったのかは本人のみぞ知る。まったく、放浪癖のある方だが、いくらなんでもこんなことが起こる時にいなくならんでも良かろうに」
また出て行ったのか、あの親父。俺は一つ嘆息して、それから川澄さんに問う。
「なら、姫は?」
「食事を作りに行った。あまり部屋には入らず、客の世話をしたり色々だ。そういえば、客も一度主人の様子を見にきておったよ」
やっぱり、血を吸ったことでちょっと意識されてるのだろうか。そうだよな、やっぱりな。なんだか今さらながら叫びだしそうなくらいに罪悪感と羞恥心を感じ始めた。心臓が痛い。俺が再度嘆息すると、川澄さんが眼鏡を押し上げながら俺に向かって呟く。
「……その傷、負わせたのは柊か」
当然にして必然の問いかけ。俺は黙って、もう一度だけ嘆息した。川澄さんは居住まいを正す。俺の態度から、肯定の意を受けてくれたようだ。まぶたを閉じると視えるのは、先ほど切り結んだ柊の顔。本気のようで本気ではなかった、暗殺者。薄く目を開けると、川澄さんが嘆息していた。
「私の監督下にありながら……これは、私の責任であろうな」
「違う。結局、俺にあいつを止められるだけの力が、無かったんだ。主人としても、有和良春夏秋冬としても」
ぎり、と奥歯を噛み締める。今まで感じたことの無い喪失感。俺は今まで、自分の命さえ守ってこればそれで良かった。けれど、宿屋に来て、それは変わった。俺は守るべきものが出来て、それを守るため邁進することを決意した。その後、葛葉の時はなんとか星火燎原を退け葵さんと和解し、助けることも出来たが。
結局、俺は弱かったらしい。
自分の決意が果たせないということは、こんなにも辛いものなのだろうか。川澄さんも何か思うところがあるのだろう、じっと俺の話を聞いて、俯いていた。
「私はこれから、あやつの所在を探ってくる。悪いが、しばらく宿屋を空ける」
「……そうか」
俺はこのケガではしばらく動けない。そういうことを任せられそうなのは、対外折衝を任として外に出向くこともある川澄さんくらいだろう。ただ、ここのところずっと川澄さんは宿に居てくれたので、いなくなることにより人手が減り営業に影響が出ることは否めない。だが、それはそれだ。
「索敵などは苦手だが、人脈というのは察知の異能などより余程大きな捜索網になるものだ。出来るだけ早く戻るよう努力する。あやつを見つけたら、ぶん殴ってひっ捕まえて主人の前まで引きずり出させる所存だ」
そう言うと川澄さんは立ち上がって、俺の部屋を出て行く。今から行くのか? と俺が問うと、早ければ早いほど良い、と呟きを残してふすまを閉めようとする。その隙間を、黒猫スミスが走り抜けて川澄さんの肩に乗ったのが見えた。煙草の臭いがわずかに空気を乱し、そして静けさが部屋の中に満ちていく。
正月だっていうのに年の初めからいいことがない、と思いつつ、俺は拳を握った。と、葛葉がうっすらと目を開ける。
「…………ひととせさん?」
「ああ、目が覚めたか」
俺が軽い調子で言うと、文机の上にある小さな卓上灯に照らされた葛葉の瞳にじわっと涙がにじんだ。俺がぎょっとしてそれを見ていると、すぐに袖を押し付けて葛葉は顔を隠し、数十秒経ってから袖を離すと、もう涙はなかった。哀しげに微笑んで、あまり心配させないでください、とささやくような声で言った。
それから自分の手にしていた輸血パックの中身がほとんど無くなっていることに気づき、新しいパックを取ろうとする。しかし、俺は大分回復していた上にこれ以上葛葉の手をわずらわせるのもなんなので、また管に繋げようとしたそれを飲むためにもらおうと手を伸ばす。少々、腕の傷がひきつった。
「喉が渇いたし、輸血よりもそのまま飲みたい気分なんだ」
「左様で……あ。ですが、仰向けに寝られたその体勢ですと、うまく飲むことが出来ないのではないですか?」
それはそうだ。とはいえ、起き上がれるような状態でもない。
「どうしよ」
「そうですね……でしたら、先ほど姫が作ってきたお粥に添えられていたスプーンを使ってはどうでしょう? 少しずつですが、口に運ぶのは簡単になりますし」
「……いや、それはそれでちょっと」
しかし俺がもごもごと口ごもっている間に、仕事の早い葛葉は用意を整えてしまっていた。大きめの銀のスプーンにパックから出した血液を、少し顔をしかめながら少しずつたらし、こぼれないよう手を添えながら俺の口元にもってくる。
「口を開けてください」
慈愛に満ちた笑みを浮かべられては何も言えない。なんだろうこの愉快なイベントは。もしこれで膝枕だったりしたら落ちてたかもしれない、いや、今も十分やばい。そんな思考が頭を駆け巡ること二秒弱、結局そのまま口を開き、中にスプーンが入れられるのを感じる。
いつも通りの、そこそこ美味いが新鮮な直飲みとは雲泥の差と言える風味が、口の中に広がる。そして、飲み下してから口を開けた。葛葉は出したスプーンにもう一度血を補給しようとしているので、飲みにくいからパス、と言って俺は葛葉を止めた。
「そうですか。ならば、姫の作った粥はどうですか? 食べるのであれば冷めているので温めてきますが」
「さっきも川澄さんに訊かれたけど、あんまり腹減ってないからいいよ。もう、葛葉も寝た方がいい」
「いえ、ダンナ様より先に眠るわけには」
「ずっと起きててもらったしな。気にしないでいいからさ」
ぎぎぎ、と音がしそうな腕を動かし、葛葉に手を伸ばす。起き上がれない俺でも、撫でることが出来るくらいの位置まで頭が下がっている。もう、眠りかけているのだろう。ぽんぽんとさらさらした手触りの黒髪に触れると、一言「では少しだけ」と言い残して柔らかな微笑みを浮かべ、まどろみの中に落ちていった。
「……俺はどうするかな」
柊はどうしたかとか父さんはどこ行ったとか姫には悪いことしたなとか、色々考えたいことはあったけれど。徐々に、まぶたが下りてくる。普段はけむたいだけの煙草の香りが、今日はなぜか安心出来る匂いに感じられた。
+
斎はその頃空港に居た。宵の帳に包まれた国際線のロビーにて椅子に座り、静かに窓の外を飛び交うジャンボジェットを眺めている。
服装は相変わらずのすすけた茶色の着物に群青色の帯だが、その上から黒い外套を着ている。横には、少し大きめの旅行用鞄。四角い眼鏡越しに見える瞳は嘆きと苦しみの具現のように、暗く輝いていた。
やがて、広さのわりに時間のためか人の少ないロビーに、搭乗アナウンスが流れる。イギリス行きの便が出ることを放送していた。それを聞くとよっこらしょ、と掛け声をかけて立ち上がり。ゴロゴロとキャスターのついた鞄を転がしながら、くたびれた背中の斎は歩き出す。
鞄は中に何が詰め込まれているのか、やたらと重たそうな音を回りに響かせていた。しかしすれ違う忙しそうなビジネスマン風の男は、やはり忙しいのかその音にも興味を向けない。
だが、鞄の中からボ、と空気の塊を吐き出したような音がした時は、さすがに少しばかり目を向ける。けれど、この現代に空港で着物を着ている男がその鞄の所有者だと気づくと、係わり合いにならないように目をそむけた。斎は頭を掻きながら、鞄を蹴飛ばす。すると、続いていた異音は止まった。
「外国は好きじゃないな。日本は着物を着ていてもああやって無反応でいてくれるけれど、海の向こうでは珍しがって寄って来ることが多い。それに、言葉が通じないわけじゃないのに、追われることも多いんだよね。ああ嫌だな、理屈の通じない連中も多いんだよ、英国は……その筆頭に、僕の元かみさんが居るというのが笑えないんだけどねぇ」
独り言をぶつくさ言いながら、ゲートでチケットを手渡す。機体まで続く無機質なブリッジは、外に張り出している分外気の影響を受けて温度が低くなった。外套の襟を立て、機体に乗り込む斎。考えてみれば機体の中は暖房もかかっているのだが、それでも外套を脱がない。窓際にあるエコノミークラスの椅子に深く座り込み、機内アナウンス通りにシートベルトを締め、ブランケットを膝にかけた。
やがて動き出す機体。ガタガタと滑走路を走り、シートに体が押し付けられる。そのままどんどんと速度を上げていき、一際強い重力を感じた瞬間に空へと飛んだ。その瞬間に感じる得体のしれない感覚が嫌で、思わず一瞬目をつぶる斎。
そして、目を開けて外に見える最後の日本の景色を拝んだ。光が点々と輝く街、その遥か上を行く自分。数時間前は宿屋に居て、今はこうして空の上に居る。そんなことが不思議で、地上を遠く感じた。宿屋に残してきた息子のことも考える。
これから先も敵襲に遭うことは多いだろうがそれを切り抜けられるのか。信じてはいたが、全幅ではない信頼。親にとっては、子供とはどれだけ成長しても子供なのだから。そういう風に考えてしまうのも、無理からぬことだった。
じきに、この点々とした光も見えなくなり、さらに自分にとって日本は遠くなる。そうなる前に寝てしまおうと、斎は眼鏡を外してアイマスクをかけた。そして、周りの客にも聞こえないくらいのか細い声で誰にともなく言う。
「男子三日合わざれば刮目して見よ、か」
しばらくは会わないだろう自分の息子のことを考え、斎はふっと乾いた笑い声を上げた。
「今度こそ仕留められるかな……? 雌狐め」
+
海の向こう、イギリスの山間部。大きめの洋館が、森の奥に立っていた。
洋館の中からは窓越しに、わずかに霧がかった森を見つめる影。膝裏まで伸びる、赤みがかった眩いばかりの金色の髪。ところどころ内側に向けてカールしたそれは、窓辺に立つ彼女を纏う不思議なベールのよう。そのベールの間からのぞく、黒と白を基調としたゴシック調のドレス。レースとフリルをふんだんに使われたそれは、人が作ったとは思えないほど精巧で、精緻の極みだった。
もっとも、着ている彼女が人間離れして美しいからこそ着こなせるのだろうが。彼女は、実年齢に比して規格外の若さを持っていた。
コツ、と彼女の履いているブーツのかかとが床を叩いた。踵を返したためだ。彼女の手足はすらりと長く、身長もそれなりにあるため一つ一つの動作が映える。窓の外を見つめていた黄玉の瞳は、牙を剥く狼に似た攻撃的気質を表す眼。その瞳が、窓の外ではなく持っていたティーカップの中身に向く。高価なマイセン磁器。中にあるのも、ウバのセイロンティー。濃い目に淹れたそれに、ミルクを垂らして飲んでいる。
洋館の佇まいといい、服といい、紅茶といい。ある程度財産を持て余していることが明白だった。
『霧が、出てきたようね』
流暢な英語でぼそりと呟き、薄暗い室内へと歩を進める。家具は少なく、シンプルかつアンティークな品を揃えられた室内。机に向けて並べられる使い込まれた木の心地よい質感を持つ椅子、そのうち一脚を引いて、そこに座り込む。湿気た空気は重く淀み、彼女の周囲も取り囲む。
『嫌なお天気ですわね、母様』
その横から、声がかかる。革張りのソファに腰掛けた、真っ黒い小さな人影。金髪の彼女、マリアと同じくゴシック調の服だが、こちらは全てが黒い。
三段にフリルをあしらったスカート部分の裾からのぞく脚は、白い磁器で出来た作り物のような細さだった。髪はしなやかな、黒猫を思わせる毛色。しかし、瞳だけはマリアと同じく黄玉。その色合いは全体が黒い中で目立つため、正に黒猫を思わせる。細い指先や青白いと言える顔はマリアと似て真っ白で、人間離れした美しさがあったが。
少々、彼女は病的にすぎた。
『眠っていると思っていたわ、四季折』
『ええ、たった今さっきまでは。でも、紅茶のいい香りで目が覚めましたわ』
手を口許に添えてくすりと微笑む。その仕草さえ、儚げで、手折られた花のような脆さを見せる。マリアはそんな四季折に薄く笑みを返し、ポットから紅茶を注ぐため、もう一つのカップを手に取る。ポットの載った盆にカップがあったことから、最初からお茶を飲むのは四季折と一緒にしようとしていたことが窺える。
やがて、静かに注がれた紅茶が湯気を立たせるカップを、マリアは四季折の元に運ぼうとする。しかし四季折はマリアより頭一つ小さな体で歩き、机に近づこうとしていた。だが、その歩みは遅い。見た目の通り、四季折の体は弱かった。
『あまり無茶はしないでほしいわね』
『……大丈夫ですわ。むしろ、椅子に腰掛けてばかりで動かない方が、体に悪いですもの』
ゆっくりと歩いて椅子に近づき、座り込む。そして手にマイセン磁器のカップを持ち、口をつける。鼻腔をくすぐる芳香が、四季折の心を落ち着かせた。それからしばらくは、二人共黙り込んでゆったりとお茶の時間を楽しんだ。
ポットの紅茶もなくなると、二人は揃って窓を向く。長方形の大きな窓はウッドデッキに続く出入り口でもあり、真っ白なレースのカーテンがかかっていた。
『そういえば、話しておかなくちゃいけなかったわね』
『何をですの? マリア母様』
『もうすぐ、私の昔の夫――つまり、あなたの父親がここに来るのよ』
冷めたカップを手に、マリアは黙り込む。四季折はそれを聞いても特に思うところは無いようだったが、マリアはそうではないらしい。心配そうに瞳を翳らせるマリアに、四季折は淡々と状況から判断される事柄を告げる。
『仕方のないことですわ。わたしは弱っているもの。そしてその方が居所を掴むことの出来た、唯一の吸血種ですから。でも、執事もいてくれるのでしょう? でしたら、わたし自身が逃げるくらいは、そう難しいことではないのでは?』
『私は、少しでもあなたに危害が及ぶのが嫌なのよ、四季折。だから、これからここを捨てて逃げるわ』
少々勿体無いし名残惜しくはあるけど、と付け足して、マリアは笑った。名残惜しい、とは言うものの、この別荘に居たのは三ヶ月少々なのだが。愛娘と過ごす時間というのは、そんなわずかな時間でも貴重であった。四季折はそれに頷いて、手にしていたカップを机の上に戻す。そして母親の瞳をのぞきこみながら問う。
『今度はどこへ行くのかしら?』
『そうね。ここはひとつ吸血鬼らしく、ルーマニアの古城にでも行きましょうか』
『……電気やガスは通っているの?』
『もちろん。インターネットは使えないけど』
二人、微笑みながら。霧深い森の奥にある洋館では、そんなやり取りが行われていた。
吸血種の生き残りが、二名。斎に狙われていることを自覚して、迫る対峙の時を逃れようとしていた。
+
朝になると、ある程度体も動かせるようになっていた。しかし左腕が動かない上、しびれを感じる。ひょっとして袈裟に斬られた時に神経でもやられたか、と恐ろしい考えにとらわれたが、なんということは無い。見れば、葛葉が俺の腕を枕にして眠っているだけだった。布団も、俺と半分共有している。
……なんということは無い。あどけない、綺麗な寝顔だっただけだ。ちょっと心臓に悪かっただけだ。起こさないようにそっとその頭をどかし、代わりに座布団を頭と畳の間に入れる。それから立ち上がってみるとやたらと寒い。
よく見れば、包帯を巻いた体は、下半身にずたずたになったボトムスを穿いている他は何も着ていない。俺はいそいそとタンスの中をあさり、白いシャツと黒い厚手のジャケットを着てジッパーを上げた。部屋の隅っこで寝ていたぱとりしあと白藤に毛布をかけてやり、俺は部屋を出る。
廊下は冷えた空気に満たされ、白い息こそ出なかったが長居は避けたい。まだ節々がぎしぎしと痛む体を引きずりながら、喉が渇いたので下の厨房に降りようとする。と、階段脇すぐのところにある、姫の部屋が目に入った。まだ、昨日のことを気にされているのだろうか。
「姫?」
とんとんとふすまを叩いて、部屋に入る。しかし、もぬけの空。部屋中に散見される本の山が放つ威圧感に圧され、俺は部屋を出た。どこに居るのかはさっぱり掴めない。とりあえず、部屋に戻ろうして。そこで、下にある中庭で姫が弓を構えているのが見えた。
構えて一矢、離れた位置にある的に向かって射て、呼吸を整え、また構え、放つ。無駄のない流麗な動き。普段、体の調子が良い時なら二階から飛び降りて中庭に下りることも出来るが――今日は、普通に階段を下りることにした。
「何やってるんだ、こんな朝早くから」
後ろから話しかけるが、集中は乱れない。構えていた一矢が放たれ、ダン、と音を立てて的を射抜く。それからこちらに向き直った。
「……朝からってより、昨日の夜からだよ」
「ずっと練習してたのか?」
「なんかやってねーと落ち着かなくなってんだ。それに、こうやって弓が使えれば、今度はひととせを助けられるかもしんないだろ」
そう言って、姫は弓を縁側に立てかけ、座り込む。ぐし、と鼻をすする音が聞こえた。袖で目元を拭っている。俺も横に座り、朝の中庭を眺めた。そのまま何も言わずじっとしていることしばし、姫から口を開く。
「……生きてて、良かったよ」
横を見ると、小さな肩が震えていた。膝の上でぎゅっと握った拳、うつむいた頭。俺はその頭に手を置いて、ゆっくり撫でてやった。少しそれで落ち着いたのか、震えが止まる。俺は姫が落ち着いたのをある程度確認してから、撫でるのをやめた。
それからもしばらく頭に手を置いたままで、姫の体温が感じられた。ふと下を見ると、首筋には牙痕。俺の噛み付いた痕が、くっきりと残っていた。
「ごめんな、血を吸ったこと」
「そんなの、いい。おかげで、生きてて、くれたんだ」
「――そうか。なら言い直そう。ありがとう、姫」
俺がいま生きていられるのは姫のおかげだ。そう付け足そうかとも思ったけれど、恥ずかしかったのでやめておいた。姫はそのままたまにしゃくりあげたりしていたが、じきに静かになる。俺の肩に頭を寄せて、眠り込んでいた。
穏やかな寝顔は年相応のものではあるが、綺麗で、可愛いと思える。急に緊張してきて、体が固まった。こちらに身を寄せる姫の体が、近い。ところが、唐突に電話のベルが鳴り響く。裏口近くの土間に置いてある黒電話だ。姫もその音でぱっと目を覚ましてくれたので、俺は急いで受話器を取りに向かった。
良いタイミングだった、と思うのとなんだか悔しいような気分が同居している俺は、どこかおかしいのだろうか?
「はい、有和良です」
裏口近くに設置してある電話は、一応『有和良』の家の電話ということになっている。だがここの番号を知っているのは俺の友人や学校の先生、それと宿屋関係者しかいない。ひょっとして川澄さんが忘れ物でもしたのかな、と思いつつ受話器の向こうに話しかける。
遠く離れたどこか向こうから聞こえたのは、ソプラノの綺麗な声。発音に少し拙い部分があることや、独特の口調から恐らくは外国人、それも英語圏の人だろうと推測する。
「どおも、いつも娘がお世話なっていますねー」
「……えーと、ひょっとして、ぱとりしあの?」
なんとなく間の抜けた話し方が、ぱとりしあの子供っぽい話し方とかぶらないわけでもない。受話器の向こうのぱとりしあの母は、そおですよー、とやはり間延びした声で返事を返してくる。
「ふつーならここで挨拶もきちんとするですがー、今日はちょっと急ぐの用なのでー。ぱてぃを呼んでもらえますかー?」
「あ、はい。ちょっと待ってください」
愛称で呼ばれたぱとりしあを、上の階まで呼びに行く。姫は誰から? という顔をしていたが、俺がぱとりしあの親から、と返すと興味無さそうに厨房に入っていった。
俺の部屋で眠りこけていたぱとりしあを起こし、母親から急ぎの用だと伝える。するといつもの柔らかい雰囲気はなりを潜め、瞳が細く引き絞られる。受話器を受け取ったぱとりしあは、神妙にうんうんとうなずいていた。
しばらく話し続けるぱとりしあ。その間に、白藤と葛葉も起きてきた。四人で厨房に入り葛葉は朝食を作り始めた頃、ぱとりしあは受話器を置く。溜め息をついている。俺たちは、ぱとりしあに電話の内容を尋ねた。するとぱとりしあは髪を掻き分けながら、暗い面持ちで告げる。
「……うん、ちょっとボク、宿屋を離れないといけないみたい」
「どうして?」
「悪魔祓いのお仕事なの。元々ボクらの一族は東欧の方で働いてたんだけど、ママがパパと結婚するために日本に来てね。それからはここの宿屋みたいに、世界の狭間とか裏の魔術世界で祓いの仕事をしてたの。ボクがここに来たのも元々はそういう、日本の精霊さんたちの生態を調べて、暴走した荒神さんを鎮める方法を探すためだったんだけど……つい昨日、すごく大きい荒神さんが出て寒村が一つ滅んだ、って。だから、それの討滅に行かなきゃ」
あらがみ、というのは聞きなれない単語だったが、恐らくは暴走した悪魔、くらいに考えておけばいいだろう。つまり、それを討伐するためにぱとりしあも駆り出される、ということだ。しかし、それはちょっと困ったことだ。
「どれくらいかかるんじゃ?」
白藤が問いかけると、ぱとりしあは右手で頭を押さえた。
「うー。大体、ボクが呼ばれるっていうのは、相当人手が足りないってことだから。普段はパパとママと、あとは日本の陰陽師さんたちでなんとかしてるの。それが、ボクを呼んでまでってことは。多分、早くても一ヶ月、大仕事になると思うの」
「その荒神というのは何なのですか?」
ぱとりしあは一瞬、戸惑った様子で目を見開き。しかし話すべきと思ったのか、重い口を開く。
「……九つの尾を持つ巨大な狐。九尾、って呼ばれてるんだよね」
葛葉が固まる。それは、葛葉にとってはトラウマの象徴。妖狐の里を滅ぼした、悪夢の化け物だ。しかし葛葉は引かず、そのトラウマを飲み込む。指先のわずかな震えも、無理やりに押さえ込んだ様子だった。
「……わたしの里を滅ぼした後、何処へかと姿を消しましたが。新たな霊地にてまた神格の精霊として君臨しているとばかり、思っていました」
「そうだったみたいだよ? でも、突然暴れだしたの。このことにも何か裏があるかもしれないから、首謀者がいるならそれも追い詰めて倒さなきゃいけない。だからそれも全部ひっくるめて、ちょっと時間かかっちゃうの。ごめんね、ダンナさん。しばらくお休み取ることになっちゃうんだけど」
「それは構わない、けどな。人数が、少なくなりすぎたか」
俺に姫に葛葉に白藤。四人というのは、きちんと宿を運営していくにあたりあまりにも人手が足らなさ過ぎる。
「ところで、ぱとりしあ。その討伐、わたしも参加してよろしいのでしょうか?」
人手不足を考えている最中にさらに減りそうな予感。葛葉は暗い表情で、震えも押し殺して拳を握っていた。
しかしぱとりしあは固い表情に鋭い視線でもって、その意見を首を振りながら却下する。
「ダメ。統合協会の仕事で、ボクらは行くから。感情的になってる上、関係ある一般人を巻き込むことは出来ないの。でも、虫がいい話をしようとしてるんだとはわかってるけど、弱点とか苦手なものとか生態とか、何かわかることがあったら、それは教えて欲しいかな。……あと、これはエクソシストとしてじゃなくて、ボク個人のセリフなんだけど。一般人とか以前に、葛葉ちゃんはお友達だから、巻き込みたくないの。ごめんね」
最後の言葉だけは柔らかに、いつものぱとりしあに戻って告げる。葛葉はうなずき、肩を落とす。今回の暴走も結局、根元まで辿れば自分が原因だと、そう感じてしまっているのだろう。
一度背負った罪というのは下ろせない。いつまでもいつまでも、どこまで行っても付きまとい続ける。でも一人で罪を受け続けることもない。俺は葛葉の肩に手を置いて、周りがいることを意識させた。そうすることで少しだけ、表情に生気が戻る。
「じゃあ、早めに、って言われてたから。荷造り始めなくちゃなの」
「ならぱとりしあ、後でわたしの部屋に来てください。九尾について知っているだけの情報を渡します」
「うん、ありがとうね」
最後に一度厨房の中に居る俺たちを振り返って、とたとたと二階に上がっていくぱとりしあ。俺は残された四人で、これからローテーションしていけるのかを考えた。
ちょっと難しいかな、と思う。
「やれやれじゃな。たった一日で随分少なくなってしもうた。これでやっていけるかの、主人」
「……いや、無理だろう。最初俺が来た時はこれだけの人数だったけど、その分再開業したてだったから客も少なくて済んでたし。正月休みを抜けてまたいつも通りになれば、多分人数が少なすぎてどこかでほころびが出てくると思う」
「じゃ、一旦休業にすんのか?」
椅子に腰掛けたままの姫に問われる。だいぶ客も多くなってきて(まあそれでも少ないが)仕事にも慣れてきたところだったのだが。
「質の落ちた接客業、サービス業なんて見るに堪えないしな。ここは、しばらく休業にするしかない、と思う」
「はあ、また長期休暇ですか。働いていないと逆に疲れるのですが」
困った顔をしている葛葉。姫も、似たような表情だった。白藤だけは何とも読みづらい表情をしていたが、とりあえず疲れた感じがするのは間違ってはいないだろう。俺も椅子を一脚引いてきて、そこに座り込み。頭を掻きながら今後のことについて考えた。
+
正月休みが終わり、通常通り学校が始まる。俺は制服のブレザーの上から黒い襟の立ったコートを着て、通学路を歩いていた。歩いて十五分、正面に、通いなれた高校が見えてくる。しかし歩幅は変わらず、急ぐでもなく。普段ギリギリくらいで来る俺としては、かなり早めの登校だった。周囲の人影もまばら。
正門のところを通り抜け、下駄箱を通り抜け、普段ならすぐに左折して階段に向かうのだが、今日はまっすぐ進んで職員室に出向く。やることをやってから、上の階にある自分のクラスに向かった。
「あれ、今日は。早いんだね……ッ?! ど、どうしたのひととせくん!」
俺が全身ズタボロなことを気にしているのだろう。とりあえず立ち上がりかけた要を制し、座らせる。
「ちょっと色々あった。それと、早く来たのは用事があってね」
既に登校して本を読んでいた要に心配されつつ、席に鞄を置いて要の前にある俺の机に座る。辻堂の奴は――当然のことだが、来ていない。というより、他の生徒の姿がクラスにない。当然か、始業式の朝、七時半にクラスに居る方がおかしい。
「要はなんで早く来たんだ?」
「えと、なんなの、かな? わからないけど、早く起きて、今日は、早く来たくて」
「そっか」
これも何か、虫の知らせという奴なのだろうか。それにしては奴の姿が無いので、やはり俺と奴の間にあった友人関係は希薄だった、ということだろう。鏡で見れば渇いた笑いを浮かべているであろう俺の表情。
しかし、ガララと教室の引き戸を開ける音でその表情は崩れた。まさかまさか、遅刻常習犯のあの男が、今日に限ってはこんな時間に来た。
「……なんだね、有和良と時計も早く来ていたのか」
「び、びっくりした。なんで、辻堂君、こんなに、早いの?」
「世界が終わるかもな、これは」
「やかましいわ! 正月イベントの最終日に参加しようとネットゲームをやっていたら朝になっていたのだよ。ここで寝たらサボってしまうと思い、早く来ただけだ。そんなに不思議か、おまえさんらには」
朝から未確認飛行物体を見た気分だ、と伝えると辻堂はがっくりうな垂れた。
なんにせよ、虫の知らせという奴は信じても、いいのかもしれない。変に笑えてきて、俺は声を漏らした。
「どうしたのだね。そんなに私が早く登校したことがおかしいか」
「いや? なんか、人生で初めてめぐり合わせとか運命とかを信じたくなっただけだ」
二人は分からない、という表情で俺を見る。もったいぶるつもりも無かったので、俺は二人に告げた。
「俺、しばらく休学するから。ひょっとしたら……そのままずっと来ないかもな。その時は退学って奴か」
二人が固まった。そして、辻堂の方が笑い声を上げ始める。大きなフレームの眼鏡の中で、死んだような目が俺を見ていた。
「……なんだねそれは? とうとう、『向こう側』の世界のみで生きていく、と決めたわけか?」
「どうかな、ちょっと違う」
だが辻堂の言葉はわりと的確に俺の考えを見抜いていた。バカなことばかりやってはいるが、元々辻堂の奴は頭は悪くない。というか、バカが将棋で強いわけも無い。それに、それなりに付き合いも長かった。俺の考えくらいすぐに分かるというわけだろう。
そうだ。俺は向こうだけで生きていくつもりは、ない。だがもう少し深く、向こうの世界に足を踏み入れようとしていた。
「ほんと、なの? これから、もう。学校も、来ないの?」
「ああ。ちょっと、仕事のことで色々あったから。それが全て片付くまでは、戻ってこないつもりだ」
だからさっき職員室に顔を出してきた。校長の許可を得て正式な手続きを取らないので、長期に渡る病欠とでもしておこうと思い。担任教師の牛勿は渋い顔をしていたが、理由があることを(こちらの世界についてはあまり触れず)話したら、大体了解はしてくれた。わりと先生受けのいい生徒、として生活してきたことが、ここで活きてきたようだ。
要はオロオロしていたが、辻堂はふうと溜め息一つ。それから重く、低い声を出す。
「なぜなのかね?」
「仕事仲間がな……辛そうな顔していなくなったんだ。おかげで、連れ戻しに行くために一人従業員が減って。さらに一人、本業のためにいなくなった奴もいて……結局、三人も減って宿屋はうまく運営出来なくなったんだ。だから、その出て行った奴を助けに行く。辛そうな顔で出て行った、そいつを。ま、一筋縄じゃいかなさそうだし、危ないけどな」
俺の言葉に辻堂は納得したようなそうでもないような、微妙な表情になった。普段死んだような目をしているくせに、こういう時ばかりは俺をまっすぐ見て、瞳に生気が宿る。要はというと、やはり納得出来ないような顔だった。
「……そのケガを負ったのも、お仕事で、なの?」
「一応そうなるか」
「なら、やめて」
強い語調だった。椅子に座ったまま、うつむいた要は、ぼそりと呟いただけなのに。
「なんでだ?」
「ひととせくんは、お仕事で、ケガばっかり。前も、松葉杖ついてきたり、わたしの時も、危なかった。なのに、また危ないこと、しようとしてる。だから――――もう、行ってほしくない。休業になった、なら、それで、いいでしょ。……もう、危ないこと、しないでよ」
ほとんど懇願に近かった。銀髪のかかる肩が小刻みに震えて、膝の上で拳が握られる。
辻堂の方を向くが、あいつは今度は無視。俺の方を見ようともしない。
「要」
話しかける。しかし、震えは止まらない。
「わかった。なら危ないことはしない」
少しだけ震えが止まる。そして、わずかに顔を上げる。
「でもそれは、危なくならないよう努力するってことだ。それ以上の譲歩は出来ない」
上がりかけていた顔に、涙の色が見えた。辻堂を見ると、かぶりを振っている。
俺は立ち上がって、窓に向かい。外の、晴れ渡った空を眺めた。窓は閉まっているから寒くないが、外に一歩出ると非常に寒い。それは、今の俺の状況に似ている。このまま部屋の中、暖かな『普通』の中に居れば危険は無い。対して、外に出ればそこは『異常』。危険が満ち満ちて、普通に歩くこともままならないかもしれない場所だ。
けれど、それでも。俺は後者を選ぶ。
「前に話したけど、俺は吸血鬼だ。生き残るため人を手にかけたことも数知れない。多くの人の恨みを買ってる身だ」
「……だからなんだ。そんな人間だから無価値、だからこそ自分をないがしろにしても構わないとでも言う気かね」
違うよ、と俺は呟きを漏らす。恐らく、そんな風に考えていた時期もあったけど。
「そうやって『人殺し』っていう最悪の不条理を生み出し続けた俺だから……逆に、不条理ってものの最悪さが身に沁みてわかってる。そのことが今の俺を形作ってるんだと思う。俺は、不条理が許せない。俺の存在に対して矛盾かもしれないけど、そう、思ったんだ」
「不条理と思えるような何かが、あったのだな」
深く嘆息して、辻堂はポケットに手を入れる。ちゃら、ちゃら、とポケットの奥底から、将棋の駒をいじくるような音がした。
「不条理、か。確かに。だってそうだろ、嫌そうな顔で人を殺しにかかるって、間違いなくそいつは不条理な何かに動かされてる」
辻堂はごほごほと咳き込んで、俺を見る。
「お。おまっ、おまえさんバカか? まさか、その手傷を負わされた相手が従業員の一人で、それを助けに行くとかほざいてるのかね?」
「その通りだ」
奴は盛大に呆れた顔を俺に向けた。放っておいてくれ。呆れかえるような奴だっていうのは、俺が自分で一番よくわかってるよ。
「……おまえさんはバカだ」
「何度も言うな」
「だから、決めたからには変える気も無いのだろう。クソ忌々しい。本当は、私らにも会う気はなかったのじゃないか」
「そうだな。でも、最後に教室に行ってみようと思ったら、結局会えた。だからさっき運命とか信じられるかな、って言ったんだ」
変な電波受信してるんじゃないかね、と言って、辻堂は今日始めてきちんとした笑い顔を見せた。それから再度ポケットを探り、何かを掴んで取り出す。掌の上に握られていたそれは、将棋のコマ、桂馬だった。そしてそれを、ごそごそとクラスのだれかの机を漁って取り出した、大き目のペンチで二つに割る。
「割符の代わりだ。きちんと五体満足に帰ってくると、約束してから行くのだ。私とおまえさんが会ったのは将棋が縁、ならば再会を約束するのも将棋で結ぶのが一番良いだろうと思ったのだよ」
「約束の割符にしては桂馬って安すぎないか。王将とかにしろよ」
「おまえさんごときにはこれで十分だ」
ぴっと投げ渡されるそれを、俺は片手で受け止めた。割った内の左側を渡されて、手の中でそれを転がしてみる。
「きちんと帰って来い、有和良。おまえさんが何と言おうと、人殺しだろうと。裏の世界だけではない。私や時計が居る場所はどこであっても表の世界だ。飛車や角なら迷わず成るのがいいだろうがね、おまえさん、せいぜい桂馬だよ。なら、戦局によって成る方がいいか成らない方がいいかは変わるはずなのだ」
び、っと人差し指をこちらに向けて、奴は言う。片手はポケットに入ったまま。
「どうせどこかの漫画から拾ってきたポーズとセリフだろ」
「カッコいいのだろう? だが実はそうではない。これは私のオリジナルだよ」
「なら誰にも文句は言えないわけだ……責任はおまえにしかないんだから。そのポーズとセリフ、果てしなくダサい」
「しばらく会わなくなるというのにこんなやり取りかね」
「俺とおまえはそういう関係だろ」
違いない、と笑いあう。そして、辻堂は笑うのをやめると出て行った。
あとに残されるのは俺と要。要はまだ俯いていたが、やがて、そのまま立ち上がる。
そして、俺に抱きついてきた――え?
「……約束。して。元気で、帰ってくる、って」
「あ、ああ、うん。わかった。無事に戻るよ」
それだけしか言わなかったが、要はそれで満足したらしく、俺から離れる。それから笑顔で、俺にささやきかける。
「いってらっしゃい」
「……ん」
笑い返して、教室を出る。なぜか、出入り口の横では辻堂がひっくり返って「なんじゃそりゃ!」と呟いていたが気にしないことにした。
さて。
日常への別れは告げた。ここからは、三年前までずっと居た俺の最初の場所。つまり――非日常への帰還だ。
+
「時計要よ」
「え、えと。なんで、フルネームで、呼ぶのかな?」
「おまえさん、それでいいのかね」
辻堂はかなり険しい顔をしながら、ずっと溜め息を吐き続けている。要はどうしようもなくおろおろして、そんな辻堂と相対していた。有和良と入れ違いに入ってきてからずっと、辻堂はこんな黒く暗いオーラをまとい続けている。
「別れなのだよ。感動の場面なのだよ。なのに、なぜあれだけだったのか」
ようやく要も得心する。辻堂が言っているのは、さっきの自分が特に大きな行動に出なかったことなのだと。そして要も溜め息を、しかし辻堂のそれとは意味合いの違うそれを、吐いて。柔らかく微笑んで、校庭を横切っていく影を見ていた。
「いいの。余計な重荷、背負わせたく、ないし。わたしが居るべき、なのは、きっと。こっち側の、世界だから。それだけは、きっと。他の、誰にも出来ない、ことだから」
「そういう、ものかね」
「うん」
辻堂は要の横に並ぶ。百八十を越えてまだ伸びている長身が並ぶと、要は余計に小さく見えるのだが。この時ばかりは、大きな存在感を周囲に放っていた。去り行く背中を見て、聞こえないことを知りつつ声をかける。
「待ってる」
有和良は一瞬こちらを振り向いた。
全てが語られる日も近く。