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二十四頁目 殺し合いへと発展する仕事。(両雄激突)


 リオが来て、しばらくぶりに収入を得た。しかし、宿屋の営業がそのように順調なことはともかく、復讐鬼と化したであろう、俺の殺した誰かの遺族の影があることは少々不安だった。

 俺に対していつかぶつけられるであろうその怨恨。それを受け止めることは、俺の死を意味する。だが俺はまだ死にたくない。利己的で他人のことを考えない最悪の考えと言われようが、死にたくない。


「何にしても、その恨みの矛先が俺の周囲に向くのは、絶対にあってほしくないな」


 だから守る。周りを戦いに巻き込んではならない。

 そんなことを考えながら、俺は夜遅く、大浴場の点検をしていた。かけ流しになっている温泉の中に専用の器具を落とし、細菌が繁殖していないかなどを確かめる。サービス業は衛生面第一。その他にも色々大事なことがあって、一番最後に従業員の健康、とかがある。らしい。思うに、従業員が元気じゃなきゃそもそも営業できないんだから一番最初にもってくるべきではないのか、と思うけれど。

 今日もいつも通り、ちゃんと営業出来る数値が表示された。俺は満足して一つ頷き、泉質のせいでぬめる床で滑らないよう注意しながら、露天風呂の出入り口に戻る。結構寒いので、素足で裾をまくった状態で長く外に居るのはいただけない。


「ふう、寒かった」

「お疲れさん。ほれ、あっためといたタオル。これで足拭いとけ」


 引き戸を閉めて外からのすきま風を防ぐと、正面に姫が立ってタオルをこちらに差し出していた。ストーブの近くで温めてあったらしいタオルは、触れるとふかふかして感覚がなくなりかけていた足先に赤みを取り戻させた。どうやら姫は脱衣所を掃除してくれていたらしく、座り込んだ床には塵一つ無い。


「ありがと。やっぱりこの季節、外は寒い」

「ま、でもこれで今日の仕事はおしまいだぞ。厨房に戻って葛葉になんかあったかい飲み物でももらわねーとな」


 よし、と膝に手を当て、俺は立ち上がる。『風』の棟の長い廊下を姫と並んですたすた歩き、従業員専用棟である『雪』に向かう。もっとも、最近はリオがたまに出入りしているため、専用という言葉も正しいわけじゃないが。


「甘酒でも呑むかな。生姜しょうがを少しばかり入れてもらって」

「え。ダンナは生姜入れんのかよ。甘酒はそのままで呑めばいーだろ、生姜なんて入れてたら辛くて呑めやしねーもん。甘いんだから甘いままで呑んでればいーじゃねぇかよ」

「全ての味を留めたまま、最後にだらけさせることなくぴりっと締めるのがいいんだ。なんだ、姫は辛いもの食べれないのか」

「……好きじゃねーってだけだ。あ、こら! 今子供っぽいって思ったろ!」

「よく観察してるなぁ」


 軽く頬を緩めた程度だったのだが、それだけで察知されたらしい。甘く見ていた。こちらを見上げて睨みつける姫は、少々顔を赤くしている。俺はどうしたものかと頭を掻いて、先に厨房に逃げることにした。


「じゃあ、先に行ってる。姫の分にも生姜を入れてしまうというのも悪くない」

「おいこら! さりげなく嫌がらせしようとすんじゃねーぞ!」

「ぐえっ」


 駆け出した瞬間に足を払われ、空中で半回転。俺の顔面に床が急接近、慌てて両手を突き出して着地。地面にべたりとへたり込んだ体勢になってしまい、すこぶる痛い。特に、着地の衝撃を殺しきれずに床に当たってしまったあごの辺りが非常に痛い。割れたりしていないだろうか?

「いくらなんでも、駆け出した時を狙って足払いをかけるってのはやりすぎだと思うんだけど、俺の被害妄想?」

「……ふん」


 返答は足蹴という形で表れた。背中を踏みしめる姫のスリッパ。つまるところ、姫が悪いのではなく俺が悪い、だからまだ踏まれるくらいの罪はある、という意あるところを行動で示したということか。

 ちなみに、俺は踏まれてどうこうなるような奇妙な性癖は持ち合わせていないので、背中に感じる鈍痛に不快感を覚えるだけだ。まあ、姫のことだし軽いけれど、っておや? 動けない。


「足、どけてくれ。うまく体重かけられてるせいか、身動き出来ない」

「へーんだ」

「ごめん、悪かった」


 弱い立場だな俺。あっさり謝るハメになってしまった。きちんと謝ったからかわずかに姫の足から力が抜ける。この機会を逃す手はない。不恰好ながら、とかげのように床を這って拘束から逃げようともがく。なかなか外れない。

 と、そこで向かい側から近づいてきた、シルバーブロンドの短髪。ジーンズにワイシャツのみという、まあ外国人の就寝前なら普通といえば普通な恰好。寝るときはジーンズ一枚、というのはわりと外国の男性には多い。ながい海外生活の間にそういう恰好で寝る人も見かけたので俺も試したが、やはり日本人は寒がりだと思い知らされたけど。


「なんだ春夏秋冬、お取り込み中のようだが。おれは帰った方が良さそうだな」

「いやこれはそういうのじゃなくて、大体俺はそういう趣味ないからな? 姫はどうだか知らないけどぐふうっ」

「誤解招くよーなこと言ってんじゃねーぞ!」

「その君の行動こそ、正しく誤解を招こうとしているとおれは思うが。春夏秋冬の態度もなんだかあやふやなものだし、これはなんだ、そういう羞恥心を求めての行動か? だったら邪魔だてはしない、そのまま続けていればいい。ただ、おれとしてはこんな往来でそういうことをされるのは少々不快だが」


 リオは本当にどうしたものか、と肩をすくめている。……俺は嫌がってるように見えなかったのだろうか。それとも、単にリオの目が曇っているのか。あと、姫は本当に愉しんだりしていないだろうな? うう、踏まれたままじゃ顔も見えないから判断の仕様が無い。


「とりあえず本心から言う。助けてくれ」

「ん、結局イヤだったのか。なら最初からそうとわかる表情をしていればいいのに」


 やはり助けを求める顔になっていなかったのか。かなりショックだ。リオはこちらに手を伸ばし、姫の足をどけようとする。しかし、その手が届く前に、姫は自分から足をどけた。ようやく圧迫されていた肺に空気を送り込み、少しばかり過呼吸になりつつ、俺はリオに礼を述べた。

 姫はというと、自身の髪と同じくらい顔を赤くして、腕組みしたままだんまりを決め込んでいる。一応恥じてはいるようで、本気ではなかったらしいことがわかり、ほっとした。リオは、そんな俺たちを見て短く、笑い声を漏らした。


「仲良きことは睦まじきかな、なんて言葉が、この国にはあったか」

「よしてくれよそういう冗談」

「わりと真面目に言っているのだが。なんにせよ、ほどほどがいいと思うぜ」


 にやりと笑って琥珀色の瞳を細め、リオはくるりと踵を返して部屋に戻っていった。なんなんだろうな、と思いつつ俺は立ち上がり、厨房へ向かう。姫はだんまりを決め込んだまま俺の後ろについてきて、俺はリオと姫はあまり相性がよくないな、としみじみ思った。


「そういえば、話さなくちゃな。さっきリオに教えてもらったんだけど、どうやら、俺を狙っている人物が居るらしい。……それも、昔俺が殺した人の遺族が、復讐のために動いてるみたいだ」


 葛葉が酒かすを鍋でお湯と煮て作った甘酒に、ほんの少しの生姜を加えて。甘い香りが鼻腔をくすぐるそれを鼻先に近づけつつ、俺は姫と葛葉にそう話した。二人は少しも驚いた様子ではなかったが、しかし哀しそうに瞳を揺らした。姫も甘酒に口をつけてから、俺を通した向こう側を見つつ、呟く。


「復讐、か。そんなもんに固執してたら楽しめるもんも楽しめねーだろうに」

「……そうは言っても、当人にとっては存在理由になってしまうくらいに、復讐というのは黒く甘い蜜なのですよ。自分に近しい人が殺された恨みを持ち続けるのは、とても、とても苦しいことのはずでしょうが。目標としてそれを持たず、自分の中で少しずつ恨みが薄れ行くのを待つほうが、狂いそうになるほど辛いことですから。……たとえそれがその場しのぎの快楽だとしても、すがらずには居られない。終わった後でさらなる空虚が待つとしても、止められない。星火燎原は、正にそういう感情の具現でした」


 自分に向けられた殺意を。怨念を。思い出すかのように、葛葉は瞳を閉じた。これから先も、葛葉は俺と同じように『人殺しの罪科』を背負い続ける。それが生き残った者に課せられた鎖であり、それを背負う覚悟の下に俺たちは刃を振り下ろしたのだから。

 そんな俺たちを見て、姫は不服そうに鼻を鳴らした。


「ふん。でもおまえらは今ここに居るんだろ。それは生きるためだ。なら迷う必要なんてねーさ」

「簡単に言ってくれるよな」

「ごちゃごちゃ考えたって仕方ねーことを簡単簡潔に考えないでどうすんだ。いくら悩んだって正確な式は出てこねーぞ? 死者に対して罪を感じて、それをあがなおうとすんのは大事なもんさ。でも、罪を贖うために出来ることは、生きてる人間に対してしか出来ねえよ」

「それが、生きることだと言うのですか?」


 問いかけられて、顎に手を当て考え込む姫。甘酒をもう一杯注ぎこみながら、湯気を通して俺を見る。


「そこまで限定はしないけど。あくまで一つの考え方って奴。最終的に生き方を、生きるってことを決めんのは、結局おまえらしか居ないんだからよ。あたしが考えた指針に沿うのも一つの手、自分で考えんのも一つの手。こう言っちゃなんだけど、所詮あたしから見たら他人事だから。責任が無い分、間違ったことも言ってるかもしんねーし。自分で決めるから、自由な生ってのがあると思うし」


 なんかよくわかんなくなっちまった、と照れた笑いを浮かべて、姫は言葉を切った。

 ――まあ、確かに。シンプルに考えるのも、大事だとは思う。


「じゃあとりあえず、そういうことで。俺は死力を尽くしてでもみんなを守るけど、それでも足りなかったら困るから。一応、危ないこともあるかもしれないって含んでおいてくれると助かる」

「了解しました」

「あいよ」


 二人が頷き、俺は頭を下げる。少ししてから厨房を離れ、部屋に戻った。


 冷たい月がこちらを見下ろす、仄かに暗い空。窓の外にから差し込む月光は、小さめに点けた明かりの下に払われる。文机に向かい、俺は本を読む。今日は仕事関連の本ではなく、姫に借りた推理小説だ。短編集の形態をとっているので、普段あまり読書をしない俺にも読みやすい。

 ぱらぱらと頁をめくって、読み進める。よく漫画とかである大掛かりなトリックを使った非現実感たっぷりのものではなく、動機や経緯などに重点を絞った、『現実にありそうな事件』だった。もっとも、俺としてはトリックを使う非現実感ある事件の方が好きなのだが……これはこれで楽しめる。


「なるほど、そうやって通り魔が入れ替わったりしてたわけか」


 しかし探偵というキャラは、どうしてこうも皮肉屋とかうぬぼれやとか、世間的にはヘンな人が多いのか。いや、ヘンな人だらけの宿屋に務めながら言うことでもないか。後書きまでさらっと読んで、俺は本を閉じる。時刻は一時をまわっていたが、活字を追っていた目は冴えに冴えて眠れない。ということにしておこう。

 部屋の外に出ると、壁で仕切られていないというだけでここまで寒くなるものだな、と廊下の寒さを実感する。長袖の黒いスウェットの上から群青の作務衣さむえを着込み、まだそれでも寒い。深夜徘徊、というと聞こえが悪いが、ちょっとその辺を歩いてこようかな、と思う。が、横を見ると、姫の部屋のふすまから明かりが漏れていた。


「……起きてるか?」


 ふすまの固い部分を軽くノック。二十秒ほど待ったが、返事は無い。ふすまを開けると、やはり予想通り。こたつに入ったまま本に突っ伏して、姫はぐーすか眠っていた。明かりを点けたまま寝るのは、あまりよろしくない。俺は部屋の中に入って、天井からぶら下がっている電灯の紐を引っ張ろうとした。しかし、床がきしんだ音で姫が目を覚ます。


「ん……ダンナ?」

「あれ。なんだ、起きたのか」

「…………なんで、ダンナがあたしの部屋に? えっと…………えっ?!」


 飛び跳ねて、目を丸くする。なんだその反応。


「言っておくけど今ここに来たら明かりが点いてて点けっ放しは良くないと思って消しに来ただけだからホントだから」


 先手を打って早口でまくしたてる。姫は振り上げかけた右の拳を、するするとこたつの中に戻した。超危なかった。


「えっと、その。まあ。気遣い、ありがとう」

「どういたしまして」

「でも、驚いたせいで目が覚めちまった」

「……それはどうにも出来ないな。本の続きでも読んだらどうだ、というか何読んでたんだ?」


 俺は姫の体が突っ伏して隠れていた本の内容を覗き込む。慌ててそれを両手で隠し、こちらを睨む姫。


「見んなよ」

「いや、別にいいだろう。恋愛小説くらい」


 部屋に来た時に既に見えていたので、さっきのモーションはジョークだ。姫はそのことに気づいたらしく、こたつの中から立っている俺に向かって正確に蹴りを放ってきた。向こうずね、弁慶の泣き所にヒットし、俺はうずくまることを余儀なくされるほどの激痛に遭遇した。


「――つッ、ちょっと見ただけで、酷くないか?」

「うるせえ。これでもそういうのは気になんだよ」


 顔を赤くしてぶつくさ言っている姫。まだ脛からは痛覚神経の信号がバンバン発せられている。この空気でコタツに入るとまた蹴られかねないが、寒さに敗北して俺はコタツの中に入った。


「勝手に入んな」

「そうは言っても寒いしな。俺も今ので目が覚めたし。眠くなるまで本でも読むから、前に借りた推理小説の続きでも貸してくれ」


 本の話題にもっていくと、少しだけだが姫の表情が和らいだ。ごそごそと立ち上がり、棚に所狭しと並べられている中から、二冊取り出す。自分の分も含まれていたのか、そのうち一冊を手に取り、机の上にあった恋愛小説を二冊抜き取って出来た隙間に突っ込んだ。


「ほら。その作者の続編」

「ありがとう。はあ、やっぱり夜は寝れない時も多いな」

「吸血鬼だからか?」

「まあそうなるかな。でも、どっちかというと最近騒ぎすぎて疲れた、っていう方が大きいかな。……父さんが帰ってくるといつもこうだ。不出来な父親あいつが上司だった頃、さぞ大変でしたでしょう、申し訳ありませんね、なんて」

「確かにな。斎が主人だった頃は仕事以外で色々大変だった。でも今は仕事が出来ない主人になってんだから、問題点が移っただけで結局大変なのは変わってねーよ。安心しな」


 それはかなり辛いことのような気がする。最終的には俺も足手まといということは変わりない、と。


「冗談だっての。ダンナはよくやってるよ」

「頑張ってはいるけど未だそこまで報われない努力」

「最後にゃ努力は実を結ぶ。焦らず頑張れ、宿屋主人様」


 けらけらと笑われて、なんだかいじけるのもバカらしくなった。文庫本サイズの推理小説を片手に、俺はコタツの中であぐらをかく。そうしているだけで、コタツの中の暖かさになんだか眠気をもよおす。

 なぜか毎回姫の部屋に入るたび感じる、わずかに甘い匂いが、睡眠導入剤のように俺の脳髄に染み込んでいく。だが、俺はそれらを気力でシャットアウトした。


「……眠けりゃ寝てもいーんだぞ、ダンナ」


 無意識と有意識の境でフラフラしていると、姫がこちらのことを見透かしたような目で俺を見つめていた。金色の瞳はわずかに憂いを帯びて、それでいて口許は呆れたようなゆがみ方をしている。


「は? さっき言っただろ、姫に蹴っ飛ばされて眠気は飛んだって」

「うそつけ。今にも寝入りそうな顔してやがるくせして。……そんな心配すんなよ、どうせいつだって危険はあるんだ。今日寝なくても明日寝なくても、明後日眠った頃に来ちまうかもしれねーんだから」


 完全に、俺の心配は見通されていた。


「それは、そうだけど」

「むしろ寝ない方がいざって時にあぶねーよ。あたしらは、自分の身くらい自分で守れる。だから、ちょっとくらい寝てたって誰も咎めやしねーよ。な?」


 姫の小さな手が、俺の頭を撫でる。妙なくらい落ち着いて、俺はそのまま眠りに沈み込みそうになる。

 襲撃がいつ来るかは分からない時は、いつも通り眠って、体を休めることも出来る。しかし、『近々』とか『もうすぐ』とか曖昧でも、ある程度の情報が入ってしまうと、途端に俺は体を休めるより、警戒をし続けることを選択してしまう。

 以前、そうした手で常に気を張らせられて、消耗し切ったところを襲われたりもしたのだが。ここに来て、初めて。自分以外を巻き込むかもしれない状況に身を置いたことで、俺は怖くなってしまったのだ。だから、起き続けようと考えてしまった。


「もう少し、頼ってくれてもいいんだぞ」


 今でも時折目を覚ます。俺を敵とみなし、襲い掛かってくる人々の顔、顔、顔。

 自分を押さえ込む術を知っているから、そうしたフラッシュバックにも声を出さず対応出来るが。それでも、恐怖、憤怒、悲哀、そうした様々な感情が入り乱れることは否めない。そうした時は呼吸を整え、何もなかったかのように振る舞い、『いつも通り』を取り戻す。

 今も、その時だろうか。


「?」

「……いや、いい。まだ寝ない」


 姫の手をゆっくりと離し、俺は立ち上がる。ふすまに手をかけ、部屋を出る。


「――意地っ張りめ」


 最後に、そんな姫の言葉が聞こえた。

 

        +


「ふう、やっぱり寒い方が目が冴える」


 ロビーを通って、表玄関に出る。掃き清められた石畳、その向こうに続く道の先は、どこか山奥に繋がっている。

 俺を襲ってくるなら、こういうタイミングがベストだろう。周りに誰もいない、襲うには絶好の環境。ポケットの中で、鏡代わりに刀身を使おうと持ってきたナイフを転がす。相手は、こちらを知っている。こちらは、相手を知らない。そんな戦いに身を投じるため。

 二十分待った。冷たく乾いた空気の向こうから、人が来る気配はない。空は相変わらず仄かに暗い。


「誰も、今日は来ないか」


 懐中時計を見ると、一時四十分を指している。随分待ってしまった。

 そして顔を上げると、前方にある楓の向こうから、人の動く音がした。気配は、無い。


「……来たか」


 俺はナイフを構え、刀身を見ていつでも暗示をかけられるようにする。一秒一秒、秒針が時を切り刻むのが、とても遅く感じる。ゆっくりと肉に刃を入れていくように、少しずつ精神がすり減らされていく。この寒いのに、ぽたぽたと汗が地面にしたたった。


「俺は逃げない。でも負けない。来るなら、来い」


 楓の向こうに居る誰かに問いかける。一瞬、爆発的に強まり、俺を飲み込もうとする殺気。手が震えてナイフを落としかけ、もっていかれそうになった心を再度掴みなおす。やはり、自分に対してのみ、本気で向けられる殺気というのは、本当に恐ろしいものだ。少しでも気を抜けば一瞬で殺気に呑まれ、命を手放しかねない。

 姿の一向に見えない相手と俺は、そのまま緊張の糸の上で綱渡りを続ける。こちらから仕掛けてみるのもいいが、どちらかというと俺は相手の出方、得物の正体をある程度掴んでからの方が戦い易い。後手に回ってでも手数を出させ、ある程度方向性を掴むのが肝要なのだが……相手も同じタイプなのか、手を出してくる様子は全く無い。事態は一進も一退もせず、膠着状態のままただただ気迫のぶつけ合いが続く。

 その境界線は、恐らくはここから五メートルほどのところにある、庭園と石畳の境。そこを踏み越えた瞬間から、斬りあいは始まるだろう。ほんの半歩ずつ、間合いを詰めていく俺。交錯は長くなってはいけない。瞬時のぶつかり合い。そこで決める。

 殺すのはいけ好かない。けれど手加減していたらこちらが死ぬ。


 けれど――俺は負けないし、死なせない。


 息遣いが交わるくらいの近距離。あと一歩の境界線。罠が仕掛けられていることを知った上でその上を踏み越える時のような心地で、俺は緊張の糸が張られたその境界線、気迫せめぎ合う修羅の巷へと、踏み込んだ。

 しかし、突如として相手の殺気が消える。


「あれ?」


 構えていたナイフを下ろしかけたが、最初は気配を消せていたような相手だ。奇襲の一手かもしれないと疑い、周囲を見渡す。しかし、残り香も何もなく完全に相手はその場から消失していた。あとに、木の葉が舞うばかり。


「一体……」

「どうしたのだ」


 後ろから話しかけられて、とっさにナイフを向けてしまう。だが刀身越しに見えた顔は、日本人離れしたリオの顔。


「なんだ、リオか」

「おれだったからといって安全とは限らないがな」


 飄々(ひょうひょう)とした態度で言ってのけ、俺のナイフの間合いから外れる。


「こんな夜はなんとなく出歩きたくなる。というより、そもそも俺は夜行性でな」


 などと言いながら。俺は溜め息一つ、ナイフを鞘に入れてポケットにしまい込む。リオは真面目な顔つきになって、周囲を見回し、なんの気配を無いことを確認していた。俺も再度、念を入れて辺りを探るが、何一つ気配を感じない。


「やはり、来たのか?」


 リオは俺の顔色をうかがいながら、ぼそりとささやく。自分の仕入れた情報が当たったことに、少なからず動揺しているみたいだった。


「ああ。でも殺気をぶつけるだけぶつけたら消えた。何がしたかったのか」

「今日はそれで済んでよかったな。だが気をつけろ。いつまた現れるか、そしてその時はおまえの身内に手を出さないとも限らないのだからな。なんにせよ、危険は消えないままか」

「みたいだけどね。俺としては、安心しないでもない」

仮初にせものの平穏でも、か?」

「……情けない話だけど」


 俺の返答にリオは納得したようなそうでないような、複雑な笑みを浮かべた。なんにせよ、今日はこれで終わりだと思いたい。


「じゃあおれは部屋に戻るが。春夏秋冬はまだここで張り込み続けるか」

「いや、今日は戻る。気力を使い果たした」


 リオは黙ってきびすを返し、宿の中に戻っていく。俺もその後ろからついていって、最後に一瞬、後ろを振り返った。

 つい先ほどあった殺気のぶつかり合いの影もなく、平静を保つその様を見て、俺は宿屋に戻った。


        +


 翌日。

 未だよく眠れていない体を引きずりながら、俺は朝食を食べに一階に下りた。リオは既に運ばれた食事を食べ終えたのか、きれいに片付いた膳に乗せられた椀を葛葉が洗っている。席について、俺は食事が運ばれるのを待つ。横柄おうへいな態度とは言わないでほしい、仕事をとると葛葉は少しむくれるのだ。


「おい、邪魔だ父さん。起きろって」

「むぐう。……僕の一升瓶はどこだい?」


 この酔っ払いめ。机に突っ伏していた父を押しのけ、俺は朝食を置けるスペースを確保した。葛葉は苦笑しながらその様子を見ていたが、あえて止めようともしない。正しい判断だ。


「大方、白藤と呑んでたんだろ」

「違うよ。昨日は源一郎と呑んだのさ。久々の再会ともなれば、幾晩話をしていても尽きないものだね」


 次の瞬間、姫が短く叫ぶのが聞こえた。駆けつけてみると、洗面台の下にうずくまっている川澄さんが居た。


「ところで、春夏秋冬。お客さんが来たのはいいけれど、招かれざる客も昨日、いなかったかい」

「……なんだよ、気づいてたのか」

「だから晩酌ついでに起きてたんだよ?」

「ついでって言うな、バカ親父。まあ……礼は言っておく。あと、一応大丈夫だ。自分で片付けるさ」

「無理はいけないよ。きみに無理をさせないために、僕は符札術式を仕込みに戻ってきたんだからね」


 懐から取り出された符札の模様、並びに文字には、どこか見覚えがある。


「ここが白藤になる前にプレハブに仕掛けたのも、きみに渡した台帳に仕込んだのも、旅の途中で手紙を使って送ったのも。全部この、符札術式さ。輪廻転回特製の、迎撃防禦術式だよ。もちろん符札だから、日が経つにつれて効果はどんどん弱くなるけれど」

「……なら、あんたがいる間は襲撃はない、と?」

「たぶん、ね。昨日は表玄関まで侵入を許したようだけど、いや……ふむ」


 なんだか釈然としない様子の父だったが、俺は食卓につく。川澄さんは一日、暖房もないところで寝ていたせいか風邪をひいていたので部屋に寝かしつけなくてはならなかった。面倒なことも多い、いつも通りの朝だった。




 昼過ぎになり、眠気もピークに達する。


「ちょっと、出かけてくる」


 散歩と称して、外に出る。動き易いスウェットの上からミリタリージャケットを着て、下はジーンズに履き替えた。靴も、出来るだけ紐が解けないように、二重三重に結んでおく。ポケットにはナイフを入れて、俺は歩き出した。

 出来るだけ早く勝負をつけたい。そう思い、俺は普段は使わない表玄関口から外に出る。父やみんなに心配をかけてしまっていることがイヤだ。だから、早期に決着を付ける。でもきっと俺は相手を殺せない。なら、最初から全力で倒して、しばらくは再起不能になるくらいに。相手はどんなに口で言っても恐らくは認めない。ならば、その気持ちを挫く他無い。残酷だとはわかっていても。


「廃村……いや、まだかろうじて機能してる、か」


 外にあったのは寂れた村だった。とはいっても、がけ下何十メートルの位置にあるので、多分山中でもかなり上の方であるここに宿屋があるとは気づくまい。

 俺はそのまま、近くの森の中をうろつく。すると、目の前に赤茶けた色のレンガで出来た壁が見えた。壁の周囲をぐるりと回ると、錆びてボロボロになった鉄の柵。蹴り飛ばすと内側に開き、雑草が鬱蒼うっそうと生い茂る、教会の前庭辺りに出る。

 ところどころへこんで水の溜まった白レンガの石畳が続き、その両側を高いしのが囲む。もう長く使われていない様子の教会は、いただきに鐘を鎮座させていた部分に落雷が落ちたのか、焦げた頂上部が崩れている。小さな、教会だった。


「ここなら、人も来ない、か」


 教会の入り口と鉄柵の、丁度中間辺りに立つ。

 風が一陣吹き去り、人は来ない。教会を見上げつつ、俺は一人ごちる。


「ホント、神様なんていやしない」


 居たとしても、俺の銀髪の友人とかうちの宿屋の面子とか、最後に俺自身の恨みも込めて、一発本気でぶん殴る。ふと寒くなって上を見上げると、天候はからっと晴れて青空がのぞいていたが、風が乾いて味気ない。いっそ教会の中で待とうか、と思い、歩き出そうとして――

 背後に現れた気配に、気づいた。


「誘いに乗ってくれてありがたいね……。昨晩はどうも。姿を、見せてくれないか」


 俺が問いかける。人影が鉄柵の向こうから歩み寄る。

 そこに居たのは小柄な人影。黒い袴に袖の長い、白い羽織を上に着ている。


「……我が誰かは、お気づきなのか」

「父さんが返ってきて、符札術式を仕掛けてたらしい。星火燎原の時とかは、もう父さんがいなくなってだいぶ経ってたからダメージを負わせることもなかったみたいだけど、昨日張り直したばかりの術式だ。だから敷地に入ればダメージを受けるはずなのに、そんな様子はなかった。つまり術式設定でダメージを受けない奴――客として来るやつか、従業員か」


 そう、そこにいたのは、見知ったあいつ。

 だからこそ、どうにか決着をつけたくて……愚行と知りつつ、誘いをかけてしまった。

 奴の細い目が、俺をにらむ。


「その口調、あまり似合ってないぞ。――普段使ってる調子狂いのですます調はどこいった?」

「別に戻せることは戻せるのですが。所詮、仮初の姿なのです」


 しょっちゅう俺につっかかってきて、しょっちゅう俺もやり返していた、あいつ。普段着けていた三角巾を外し、二つに分けていた栗色の髪を一つ、団子状にまとめ。鋭い、狐に似た瞳でこちらを冷徹に見据える、ひいらぎという少年。


「本当に、おまえが俺の殺した誰かの、遺族なのか」


 最後の質問。しかしその問いに、奴は首をかしげ、それから納得した表情を見せた。


「ああ、それは我が昨夜、貴公に襲いかかろうとしていたのを始末した奴だな。大した殺気を放っていたが、それ故に貴公に集中し過ぎていた。後ろから仕留めるのは、容易なことこの上なかった」


 それは。

 それは……複雑な気持ちになる。復讐を受け止めてやれるわけではないが、それでも、俺は自分の与り知らぬところで復讐者が死んでいたことに、なんともいえない気持ちになった。


「その後、死体ごと消えたのか?」

「それもまた容易なること。我は、忍の一族。しかしそれ故に、我が生業なりわいに誇りと責務を負っている。なればこそ、他者がお膳立てした舞台にて貴公を殺すことは、誇りを捨てることと知った」

「だから昨日は俺に手を出さなかったと」


 そうだ、と一つ頷き、そして柊はこちらに一歩踏み出す。その一歩が放つ威圧感は、俺に痛みと恐怖を覚えさせた。


「無駄口を叩き続けるのもここまでだ。我は貴公を殺す」

「なあ、どうにか戦いを回避することは、できないのか。恨みじゃないなら、復讐じゃないなら」

「仕事が復讐に劣ると申すか? 大概にせよ。我は忍稼業『暗狩くらがり』正統血統八代目。名を秋水しゅうすい。これより任を実行す」

「……偽名だったのか、おまえ」


 どちらでも詮無きことだろう? と呟き、柊、いや秋水は低い姿勢でこちらに突進してくる。

 俺はナイフを構え、その刀身を見て人狼の暗示をかける。だがその表情は、自分でも気づかなかったが。かなり、痛々しい。だが、自分の感傷に浸っている暇は無い。今やるべきことは一つ。


「『識れ』」


 こいつを、止める。


VS柊=秋水。

この物語の核心へと徐々に近づいていきます。

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