二十三頁目 父の帰還と久々の上客。(千客万来)
通常業務に戻る。
という言葉を、ちゃんと言えたらよかったんだけどなぁ……。
「ぐふぅ」
殴られたわけでもないのに続く腹痛。胸焼け。頭痛。喰いすぎと呑みすぎからくる諸症状。寝返りを打つだけで奇妙な叫び声を上げなくてはならない。隣の部屋とか、というかこの部屋から出られないのであまり他の部屋の様子はわからないのだが、多分みんな倒れてると思う。
元日の間。葛葉のおせちに舌鼓を打ち、それだけならここまでバカな真似はしなかったのだが。
「大丈夫かい春夏秋冬、ラッパのマークの薬を持ってきてあげたろう?」
――たった今ふすまを開けて俺の部屋に入ってきたこいつ――そう、元日の朝に帰ってきやがったこいつ。こいつが持ってきたバカみたいにアルコール度数の高い酒のせいで呑んでは吐き、吐くと腹が減るからまた食べるという愚行を繰り返してしまったのだ。
多分、なにか自分の行動のおかしさに気づかせない類のオクスリが入っていたに違いない。
「うるさい、黙れクソ親父。頭蓋に響くその腐った声を聞かせるな」
「つれないな。せっかく帰ってきたのに。凧揚げやらないかい?」
人の話を聞け。
+
身長は俺より少し高いくらい、おそらくは百七十センチ。白髪がところどころ目立つ、肩にかかるくらいの髪。楕円形の眼鏡をかけた、ちょっとしわの寄る黒い目をしばたかせる男が、有和良斎四十二歳。俺の、親父だ。
この宿屋主人という仕事を俺に押し付けて突然蒸発しやがった、しかも俺をゴミ捨て場に置いていきやがった、憎むべき敵。
それがなぜか、元日の朝。表玄関に立っていた。いつものようにくたびれた黄土色の着物に、黒い帯をしめて。脇には、大きな皮製のトランクが置いてある。インターホンを押して、まるで客のように正面から来た親父に、俺はまず中段にケリをかました。
「危ないな、おい」
平手で弾いて後ろに流す。普通にかわしやがった。チッ。
「なんだい、久々に帰ってきた父親にすることが、中段蹴りかい?」
「うるさいダメ親父。今までどこほっつき歩いてたんだ。というか突然宿屋主人なんて肩書きを背負わせてくれて、くたばれこの野郎とどれだけ思い続けたことか。現在進行形でそう思い続けてるよ」
「まぁ、そう言うなかれ、色々あったんだ。それで、旅に出なくてはならなかった。今もその途中で、近かったから寄っただけでね。そうそう、この前送ったチケット、どうしたんだい? 結局誰と行ったの、くくく」
笑ってやがる。マジで腹立たしい。
「誰と行ったの、じゃない! そんなことわざわざおまえに話すかよ!」
「父親に向かって『おまえ』という呼び方はいただけないな。まあ何はともあれ、あけましておめでとう。お年玉も持ってきたよ」
「さりげなくぽち袋握らせて忘れさせようとするな、っていうか中身少ないな! 今時の高校生に五百円玉二枚ってどういうことだおまえ! 金銭感覚が旅の間に磨り減ったんじゃないのか!」
「なんだかんだ言いながら貰う辺りが実に今時の高校生らしいと思うけどね……まあなんだ、金銭感覚がどうにかなったんじゃなくて、単純にお金がないんだよね、旅で結構使ってしまったのさ。だからちょっと、お金をね、せびりに来たんだよね」
左ジャブ右フック左アッパー右足を前に進めて寸勁。跪け!
「息子に仕事場任せて、挙句の果てに金せびるってどういう了見だよ?」
「……なんかあったの? 技のキレ、上がってないかい?」
「おまえがいない間も何回か襲撃受けたから。鍛錬も欠かしてないし、三日会わなきゃカツモクして見よって言うくらいだ。当然ある程度強くなってる、でなきゃ自分すら守れないからな」
拳を打ち込まれた腹部を押さえながら床にうずくまる父。それを見下しつつ、もう一発くらいはいいかな、などと考える俺。そこでふと顔を上げた父の顔は、なんだか憂いを帯びた、哀しげな顔だった。
俺は構えていた拳を下ろし、もう片方の手で頭を掻く。結局のところ、なんだかんだでこいつは帰ってきたのだ。ならば、言うべきことは一つだ。
「帰るなら連絡くらい入れろ。早く上がれ」
「ん……色々、悪かったね」
立ち上がるのに手を貸してやって、ようやく帰宅が成立した。
「帰っておられたのですか、斎様!」
藍色の着物を着た川澄さんが、短い白髪を撫で付けながら洗面所より出てくる。それに片手を挙げて返事をし、にやりと笑う父。
「ただいま、源一郎。元気かい?」
「まあそれなりです。この歳になれば、体はもうポンコツですからな」
笑いあっている二人。歳は八つほど離れているはずだが、どちらかというとその関係は友人のように見える。そして、二人の話し声が聞こえたのか、厨房で朝食を食べていたと見える他のみんなも顔をのぞかせる。
「斎様がお帰りになられたのですか?」
「帰ってきちまったのかよ、斎の奴」
「あー、ダンナさんだ! じゃないか、えっと、元、ダンナさん?」
「なんじゃ、わりあい早く帰ってきたのぅ」
口々に何事か呟きながら、みんなが周りに寄って来る。横に居る父の笑みがさらに大きくなった。
「有和良斎、ただいま帰還したよ。というわけで、お正月じゃないか。みんなで思い切り、騒いでしまおうよ」
そう言って、トランクから取り出されるはどこかで見たような、アルコール度数がとんでもない酒。
「さすがにそれはまずいのではないかの?」
「白藤、そんな固いこと言うなんてらしくないな。お正月くらい、騒いで羽目を外さないとやっていられない、それが社会人というものじゃないかい? 現に、昔の僕は年末の忘年会から年始の新年会まで十日間くらいずっとハシゴを続けた覚えがあるよ」
「そりゃおまえがザルだからだろが。あたしらに、特にあたしみてーな酒弱い奴には呑ませんじゃねーぞ」
姫が文句を言う。どうやら、父の頃から宿屋主人というのはそう大して地位の高くないものであるらしい。父は渋面をつくって考え込み、「それなら何のために僕は帰ってきたのだろうか」などと意味のわからないことを呟き始めている。ちょっとだけ、可哀想な気もした。
「……年始くらいは、いいか。年度末には特に何をしたというわけでもなかったし。ちょっとくらいなら、酒もいいだろう」
「よく言った、春夏秋冬。さすがは僕の息子だね。では、始めよう。新年会の始まりだ」
満面の笑みを浮かべてどたどたと奥の厨房に駆けて行き、その足音を聞いて、思う。
ああ、俺の父親が帰ってきたんだな、と。
+
――それが悪夢の始まりになるとは、その時の俺は思ってもいなかったんだ――という、モノローグを入れたくなる。むしろ、タイムマシンがあったら全力でもって俺と我が父を止めに行きたいと思う。くそ、頭が痛い。半分が優しさで出来てる薬も必要になってきたみたいだ。二日酔いには効くかな、あれ。
「暇だね。そして、のどかで平穏だね」
「俺の部屋に居座るな…………ぱとりしあとか、白藤とか。おまえと同じくザルの奴らのところにでも、行け……」
布団の中でうつぶせになり、俺の文机に向かって宿屋主人の証である台帳を開いている。パラパラと頁をめくるその目つきは、それなりに真剣ではある。
「ふーむ。客数はあまり増減無し、か。これなら、このまま春夏秋冬に宿を任せても大丈夫、かな? 細かいところまでよく書けてるじゃないかい、仕事のチェックに客からの言葉に、存外に活用してくれてるみたいだね。ところどころ日記調だけども」
「てめ……勝手に読むな……というか、結局このまま俺に、任せてくつもりかよ」
「そのつもりだ。まだまだ、旅を終えるわけにはいかないのでね。君には悪いが、もうしばらくは宿屋を任せるよ。それとも、他に何か、どうしてもやりたいことでも出来たのかい? そういうことなら、自由意志を尊重して辞めてもらうけど」
「やめる気は……ないよ」
ならいいじゃないか、と微笑みを浮かべる父。なんだかペースを握られているようで癪に触るが、実際、この宿を離れる気は、もうほとんどない。始まりこそ、このクソ親父の気まぐれな旅のせいで据えられた位置だが、今は、気に入っている。
ここに来れたことで得られたものは少なくないし、それは手放すことが簡単に出来るほど軽いものじゃない。だから、俺がここを離れようと考えることは、多分ないだろう。
「いい顔をするようになったね。白藤とみんなの関係も、だいぶ改善してくれたようだし」
「……ありゃもともと、土台はあったんだろ、たぶん。俺は特になにもしてない」
「謙遜かい? ふむ。しかしあれだね、だいぶ、余裕のできてきた顔だ。別に昔の顔も、生きるためだけにギラギラしてて悪くはなかったけども」
「それだけが大事なわけじゃないんだよ、今は」
「そうかい。それは良い変化だと思うよ。もっとも、君自身も周りに影響を与え始めているようだけれどね。そこのところ、ちゃんと気づいてるのかい? いや、愚問だったかな。気づいてないだろうね、我が息子は」
うんうん、と一人納得している父。俺は溜め息を吐いて、もうこのペースに挑むのはやめることにした。上体くらいは起こせるようになったので、部屋の柱にかけてある古めかしい発条仕掛けの時計を見やる。針は十時十五分を差し、それは俺が十時間眠っていたことを意味する。実際に睡眠をとれたのはその半分くらいで、残りの時間は布団の上を転がってうだうだしていただけだが。
そこでぱたん、と台帳を閉じる音。父はよっこいしょと立ち上がって、腰に手を当て俺に向き直った。
「次は、いつ帰ってこれるんだ」
機先を制し、先に俺が口を開く。何事か言おうとしていた様子だったが、ペースに持ち込まれる前にこちらの用を済ませる。正面から立ち向かって勝てないなら絡め手に出るまでだ。父は少し面食らった様子だったが、やがて肩をすくめる。
「今回は前に送った符札の調子を見に来たのと、またきみを狙う人間対策で、防御用の術式を追加しにきただけだからね。いつ帰れるかは……わからないな、わからない。この旅がいつ終わるのかも未定だというのに、途中経過がどうなるかなんて予測出来ると思うのかい?」
「ならさらに訊くが、そもそも何のために旅に出たんだ? これは予想でしかないけどな、自分でもいつ終わるかわからないってことは、相当に難しい『何か』を成そうとしているか、もしくは誰かを追いかけているか、そんな感じだろう。なあ、それが本当に必要なのか?」
「なぜそんなことを訊くのかな」
こちらを見下す。その言葉の発音も、わからないと言う人間に対し見下した態度が生む発音。冷ややかで、遠慮の無い一言。俺はごそりと布団から這い出て、父の正面に立ち上がる。
「あんたも宿屋に居た方がいいんじゃないか、と思うからだよ」
「寂しくなったのかい?」
「あんたこそ。だから旅の途中でもここに寄ったんじゃないのか」
せせら笑うつもりだったのだろうが、言葉に詰まって唇を噛む。こちらを見据える瞳は、どこか輝きがない。
「……終われない。まだ、僕はやらなくてはならないことが山積みなんだからね。春夏秋冬には悪いと思っている、小さい頃から吸血鬼ということで追われて、色々大変だったのに。あの頃も、僕は近くに居てやることが出来なくて、君にも一人で頑張ってもらうことが多かった」
「済んだ話だろう、それは。大体、父さんだって俺を逃がすために聖堂騎士団を食い止める術を構成したり、全力を使うと俺が危ないから別れたんだろ。そのために俺が一人で行動することが多かっただけだ。恨んでない」
俺がそう返すと、父は短く一息つくように鼻で笑いながら、俺の周りを歩いて部屋の出入り口であるふすまに近づいていく。
「そう言ってもらえるならいいけどね。それだけで自分を許せるほど、親ってのは単純じゃないんだ。僕のその行動のせいで、君は体にも、心にも傷を負った。特に、殺さなければならない状況を強いられたことは、君の心に深い闇をもたらしたはずなんだからね」
「俺は、」
「拭いさることは出来ないし、出来たとしても、僕は自責の念にさいなまれる。だって親っていうのはね、子供を少しでも傷つけるものはなんだって許せないものじゃないか。――っと、話がズレたね。ともかく、僕はまだまだ旅をやめるわけにはいかない。そういう後悔の下、今度は後悔しないために動いているんだ。突然出発したのは悪かったね、でも、出来るだけ急いで動きたかったんだよ」
「待て。なら、今あんたが旅をしてるのは、俺のせいなのか?」
問いかけると、父さんは首を横に振った。
「君のためではある。しかし、君のせいじゃない。残念だけど、今はまだ話せない。旅が終わって、ここに戻ってこれた時に、全てを話そうじゃないか。その頃には、きっと君も一人前の宿屋主人になっているはずさ」
話はこれで終わりだ、と厳然たる口調で言い放ち、父さんはふすまを開ける。朝の日差しが窓越しに部屋に入ってきて、俺は目をしばたかせた。逆光になって顔の見えない父さんは、俺の方を向いて。微かにだが、苦笑いを浮かべたような気がした。
「ま、早く一人前になれってことさ」
午後に差し掛かる頃には、体の調子は大体よくなっていた。みんなもその時刻には起き出し、ちょっと遅い昼食として葛葉が野菜のスープを作ってくれた。胃に優しい味で、ザルでありまったく酒による影響を受けていない白藤とぱとりしあと父さん以外はようやくこれで息を吹き返す。調理担当者様様と言いたいところだ。
新年二日目。まだ柊の奴は戻ってこないが、別にもう正月休みを終わらせても構わないかな、と思う。散々騒いで、そこから立ち直ったことだし。表にかけてある休業中の看板、外しておこうか、などと姫に言ってみる。
「まだ始めなくてもいいんじゃねーか? どうせ三が日なんて、外を出歩いて、しかもこんな宿屋に泊まる奴そうそういねーだろ。つか、まだあたしは体が重いぞ。酒に弱いの知ってんだろ、もうしばらく休ませてくれたっていいじゃねーかよぅ」
力の抜けた様子で、ぐでーと机に突っ伏す姫。確かに、それもそうかもしれない。
「普段はゆっくりすることも、羽目を外すことも出来ませんからね。こんなときくらい、休んでおいてもいいんではないでしょうか」
「それはそうかもしれないけどな。ちょっと派手に騒ぎすぎたかな、とも思うんだ。今どれくらい貯蓄がある?」
俺の隣に座っていた葛葉は、顔を背けてひざの上にいた黒猫スミスを撫で始めた。
「……赤字じゃありません」
「ならこっち向いても大丈夫だな」
「……黒字でもありません」
「つまり零じゃねーか」
正面に居た姫がさらに脱力する。葛葉は溜め息を吐いて、スミスを抱え上げた。
「ちょっとおせちを豪華にしてみようかな、とか、ちょっといい道具を仕入れてみようかな、とか。そういう、小さな積み重なりで気がついたら貯蓄が少なくなっていました。今日のお昼に作ったスープも材料は水と貰い物の野菜だけです。少しずつ節約していけば、またすぐにそこそこお金も貯められるとは思いますが……。何にしても、お正月と貯蓄がないのは別問題です。今は休むということで、良いのではないかと思いますよ」
葛葉が抱えていたスミスを放すと、台所の隅にあるエサ皿まで一目散に駆けて行った。中を見ると、どうもおせちの余りを入れてあるようだ。たまにしかない豪華な食事を目一杯腹に詰め込もうと、スミスはがつがつとあわただしく食事を続けている。
「んー。なら、休むことにするかな。どうせ客は少ないし。来たら来たで、その時対応を考えよう」
「だな。じゃ、あたしはまた寝てくんぞ。どーも頭が重てぇもんだからさ」
「お大事に」
姫は厨房を出て行ってしまい、俺と葛葉だけが残される。
「去年の今頃は考えてなかったな。自分が、まさかこんな場所で年越しをしてるなんてさ」
「去年、ですか……去年のお正月は、どういうものだったのですか?」
なんとなしにぼやくと、隣の葛葉が反応した。左手で机に頬杖ついて、その手でさらさらしたショートカットを掻き分けている。
「『あの』父さんと二人の正月だ。途中で要とか辻堂も来たけど、近所も交えての正月遊び大会だったかな。独楽とか凧揚げとか福笑いとか羽子板とか。でも結局最後には飽きて、トランプで大富豪やってたよ。お年玉を賭けて」
「二人――ああいや、その。別にそういうことではなくてですね」
まずいことを言いかけたと思ったのか、慌てて口をつぐむ。
葛葉だって昔は色々あっただろうに、わざわざ俺のことを気遣ってくれてるのだろう。そのことが、なんだか嬉しい。
「気にしなくていい。母親は、気がついたらいなかったし。父さんいわく別れたらしいんだけどな。まあそれで、詰まるところ俺の吸血鬼の血筋は、母方の一族から流れてきてるわけだ。だから実は日本人の血は半分。残り半分は、吸血鬼で西洋の魔女だった母親からだ。もっとも、俺は術士としての才能がさっぱりだから、父さんの五行の符札術式も母親の西洋魔術も使えないけど。それでも、誰かを少しばかり手助け出来るくらいの力は、与えられていた」
自分の瞳を指差す。色が赤くなるわけでも奇妙な紋様が浮かび上がるわけでもなく、ひたすらに使いにくい能力ではあったが。俺の眼が宿す魔力は、人の認識を狂わす特殊な力を持っていた。最初は自分の身を守るためだけに使っていたが、今は違う。俺は、誰かのために力を奮うことを知った。
葛葉は複雑そうな顔をしていたが、やがていつも通りの顔になる。
「そう、ですか」
「そうだよ。家族っていうのは、血の繋がりから生まれるわけじゃない。単に、互いを認め合えるかどうかだ。だから俺にとっての母親は、他人でしかない。俺にとって家族と呼べるのは、そう。父さんと、あとはここのみんなだけだ」
「わたしも、ですか?」
「もちろん」
しばらく沈黙して、やがて顔を赤くして葛葉はガタッと立ち上がる。
「な、なんだ? なにか気に障ることを言ったか?」
「いえ、その。なんでもないです……ただ、家族って、その、立ち位置が気になって」
ごにょごにょと何事か囁いている。聞き取れないので、俺は首をかしげた。
「ひょっとして、家族扱いなんて厚かましかったか」
「いえ! けっして、そういう意味ではないんですけど」
素っ頓狂な声を上げてしどろもどろになる。なんだかこちらが虐めているみたいでいたたまれなくなってきたので、俺も苦笑しつつ立ち上がる。俺よりわずかに高いかもしれない葛葉の正面に立って、その瞳を見据える。
「ん。なら、そういうことで」
「え? あ、う、その」
まだ何か言いたそうな顔の葛葉だったが、しばらく待っても何も言わないので俺は厨房を後にする。二階に上がり、自室に戻った。
+
冬の日が傾き始めた時間帯の、宿屋『紅梅乃花弁』表玄関。そこに、一人の男が立つ。茶色い、裾のほつれたコートを着た、中肉中背の男。
白人のその男はハンチングをかぶり直しながら、宿屋に恨みをぶつけんがごとく、鋭く睨みつける。節くれだった手には金属の板が握られ、それには縦横に線が入り、いくつかの文字が升目の中に描かれている。
短くその護符に向かって文言を呟くと、男――テオドール・メイザースの背後に、焔を纏う古めかしい戦車に乗った、天使が現れた。しかしその笑顔にはどこか人を落ち着かせない、魔性の力が秘められている。それもそのはず、テオドールの背後に現れた天使は天使にあらず。
地獄の大王と称される、かの高名な魔術師ソロモン王が従えし七十二柱の悪魔が一柱、名をべリアル。
「ふム……やはりまダ、調子が良いわけでは無さソウだネ。ベリアルが来るとは」
振り返り、自分が召喚した地獄の大王を見つめる。ベリアルは首をかしげ、しかし瞳の奥で何か妖しげな光を輝かせた。
「まア、仕方が無イ。本来は半年かけテ行う清めの手順を簡略化シテしまったし。アブラメリンは厄介ダ」
アブラメリン。それは、黄金の夜明け団という魔術結社、すなわち魔術を学ぶ者たちの結社、それを創設した三人のうち一人、マグレガー・メイザースが得意とした魔術。その手順は六ヶ月の静かな暮らしで体と心を清め、自分の中の神聖によって守護を得つつ悪魔を隷従させる。そういう、最強の一つに数えられる魔術だった。
テオドール・メイザースは一個人の、身体能力で戦うことに関してはそこまで強くはない。共感魔術による遠距離攻撃を好むことがその証だ。しかし、今回は本気で準備をしてきていた。前回は相手を侮った自分を恥じて。メイザースの名を持ちながらあの程度の相手に敗北した、自分を許せないから。
雇い主により統合協会の拘束を抜け出せた彼は祖国に戻り、本来半年は必要な清めを二週間というばかげた速度で終わらせ、こうして護符によりベリアルを従えている。詰まるところ、術士としての能力で見れば、テオドールは世界でも有数のプロフェッショナルだった。
そして、往々にしてプロフェッショナルというものには高いプライドがついてまわることが多い。テオドールも例に漏れず、自身でも魔術結社を束ねる身でもある。今回、この吸血鬼狩りの仕事を引き受けた理由も、多額の報酬により経営資金を潤沢にしようという意図からだった。
もちろん、それだけで高位の魔術師たるテオドールは動かない。相手は、他にも様々な魔道具を『おまけ』に付け、テオドールに仕事を頼んだ。その魔道具の幾つかとは、世間でも幻とされている一品も含まれる。相手がどうやってそんなものを手に入れたかは知らなかったが、そんなことはどうでも良かった。
要は、自分の権威の象徴を増やせるのである。
「さテ、後始末を始めるカ」
自分の成し遂げられなかった仕事。それを今度こそ終わらせると、己のプライドに賭けて。
――しかし、その執念は行き場を失う。
突如として感じた殺気、即座にそれに反応。テオドールは振り向きざまに、手にした金属板、護符に向かって文言を唱える。地獄の大王、この世に顕在する最強の化け物の一つ、ベリアルへの指令。『誰だか知らんがとりあえず殺せ』
けれども、その文言は護符に伝わらない。
喉を、何か投擲されたもので潰されたから。
「ァ゛ッ゛…………」
めり込んだ石ころが軌道をふさいで声を封じられ、指令を出せず、瞬時に間合いを詰められる。相手の姿を見ることは、終になかった。
ただの手刀で首をへし折られ。
何の捻りもなく、テオドール・メイザースは死んだ。所詮、どれだけ強力な魔術師であろうとも。戦闘に特化しているかどうかは、別の話だ。魔術の知識を得るためにテオドールが費やした年月は、長い。六の齢で模倣から始まり、今の歳に至るまで実に二十五年。その歳月の間、実戦を積んだことは極めて少ない。それでも、遠距離からの共感魔術、そしてきちんと準備を整えてのアブラメリンは最強の一言に尽きた。
だがそれだけだ。奇襲などに対して強いかと言われれば、そうではない。究極の攻め手、つまり最強の矛を持った者でも、その懐に入られれば力を失う。強すぎたから、実戦や練習をしなかった。ただそれだけのことが、テオドールの敗因だった。
「――すまない。彼を殺すことは、今は我の仕事となっている。ゆえに殺させるわけにはいかない」
最期に、ただそれだけの言葉がテオドールの耳に届き。目は、自分を殺した人物は背後にいたためそれを見ることも出来ず。ただ、前に居たベリアルが、薄い笑いと共に従属から解き放たれ、元の世界に戻っていくのを見た。護符が、割れた。
折れ曲がった頚椎に熱を感じながら、地面へと、死へと。ゆっくり、沈んでいった。
+
表玄関のインターホンが鳴った。自室で本を読んでいた俺はその音で体を起こし、玄関口へと急ぐ。多分、柊の奴が帰ってきたのだろう。俺がそう考えつつ玄関に辿りつくと、既にぱとりしあが来て応対していた。この到着の速さ、さすがは接客を専門としているだけはある。そう、接客、だ。やってきたのは、柊ではなかった。
「いらっしゃいませ、宿屋『紅梅の花弁』へようこそ。お一人ですか? あと、日本語はお話しになられますか」
ぱとりしあが朗らかに話しかける。やってきた客はシルバーブロンドの短い髪、琥珀色の瞳。透けるように白い肌にぶ厚い黒のコートを着た、異国を感じさせる少年。俺と同じくらいの歳ではないだろうか。歩くたび、コンバットブーツが床を擦ってゴトゴト音が鳴る。
「ああ、大丈夫。日本語は一応喋れるんでね。しばらく厄介になる」
意外なほど流暢にすらすらと日本語を操り、ぱとりしあと話込んでいる。と、少し離れたところに居た俺に気づく。
「あなたも従業員の方か?」
「いや、えと。そうです。いらっしゃいませ、お客様」
一瞬『いえ、宿屋主人です』と答えそうになるが、説明が面倒になるので口を閉じる。
「おれと同じくらいの歳に見えるが……そうなのか。じゃあ、しばらくよろしく頼む」
軽く会釈をかわし、そのまま帳簿に記名してもらう。珍しいことに、二週間ほど滞在する予定のようだった。
「リオ・エヴァンス・ド・ブロワ。リオと呼んでくれるか」
「かしこまりましたリオ様。では客室は花の棟、六〇三号室になります」
リオはそのまま輝く髪を風にあそばせながら立ち去り、俺お客様が来てしまったので休業状態を解くことにした。
「まあ、二週間も滞在するならそこそこに金も入るだろう」
「お客様が通ることも多い表玄関ロビーでそういう俗なことを言うのは最悪だと思うのですな」
「うわっ」
横を見ると、たった今帰ってきたらしい柊が、大きな風呂敷包みを抱えて立っていた。三日ぶりの対面となると、見慣れた執事服もなんだか懐かしい。奴は横に並んできて細い目で俺を見据えながら、従業員の棟に戻る。栗色のツインテールが、三角巾の下でゆらゆらと揺れていた。
「どうだった、実家は?」
「堅苦しいので疲れるのです。大体、奉公に出すという家系的な慣習はまあ認めるのですが、奉公先の方が実家よりも楽というのではあまり意味が無いのでは、と思うのですよ。仕事も、一通りこなしてきましたし」
やれやれ肩が凝った、と重たい音を立てて下ろされる風呂敷。柊は自身の部屋の中にそれを運び込みながら、俺に聞き返す。
「そちらはどうだったのです?」
「父さんが帰ってきた。おかげで惨憺たる有様だ。あのヤロウが持ってきた酒のせいでみんなダウンした」
「……いなくて正解だったようなのです。というか、主が止めればよかったのです」
前に白藤やぱとりしあと酒を呑んで昏倒していたことがあったっけ、こいつ。相当嫌そうな顔をしている。そうだな、酔っ払いの相手とかは誰だってイヤだよな。俺だけが責任逃れしようとしたわけじゃないよな。
「出来たら苦労しない。逃げるので手一杯だ」
「役に立たない人なのです」
さっぱり変わらない減らず口。俺は心中で奴に向かって親指を下げた。
「で、さっき客が着いたから。久々の上客だ、なんと二週間も滞在してくれるらしい。帰ってきたばかりだけど、仕事をもう始めるからな」
「了解したのです。では、仕事を始めるですか」
きゅっと三角巾を縛りなおし、柊はとたとたと廊下の向こうへ去っていった。入れ替わりに、父さんが袖に手を突っ込んだ状態で向こうから歩いてくる。気の抜けた様子、というかうだつの上がらない中年にしか見えないその風貌は、朝方に俺と話していた時のような真剣さは微塵もない。
「お客さん、来たのかい」
「ああ。あんたも仕事してくれよ」
俺としては至極まっとうなことを言ったつもりだが、父は呆れた顔をして横に首を振る。
「おいおい、今この宿屋の主人を務めているのは、僕じゃない。きみじゃないか。もう既に白藤とも契約をし直したみたいだし、僕はもう一度契約し直さない限りは宿屋の従業員ですらない。それに、そろそろまた旅に出ようと思っていたんだけどね」
「その旅費が無くなったから来たんじゃなかったか?」
「うん。だからちょっとお金を渡してもらえるかな」
真顔で言ってのけやがった。とんでもない性悪だ。このクソ親父。ダメ親父。ダメ人間。
「……バイトとしてあんたを雇う。宿屋主人として。そう簡単に金が手に入ると思うなよ」
「親が子に言われるセリフとしては、なんとも情けない限りだね」
自分で言ってれば世話はない。俺は溜め息を吐きながら温泉のボイラーの様子を見てくることと、タオル類の取替えと、ストーブの給油と、干してた布団の取り込みと、庭木の手入れとを命令する。
「バイトにやらせる仕事じゃないような気がするんだけど」
「経験者だろ、斎」
「……呼び捨てかい」
「バイト相手だからな。早く働け」
鬼、悪魔、宿屋主人、不能、などと悪態を吐きながらボイラー室に向かう父。最後の捨てセリフは覚えておこう。後で仕返しだ。
+
普段、客のいない時ならば夕食の時間。だが今日はリオという客が居るため今はその時間ではなく、先にリオに食事を提供する。この宿屋はあまり客がいないため従業員も自由奔放に生きているが、本来なら食事も後、風呂も後、自由時間などほとんどないくらいにお客様に対して働く。そういうものだ。
作った料理を膳に載せて、すたすたと運ぶ葛葉。久しぶりの客が頼んだのは、この宿で一番高い膳。葛葉も、作る時非常に力を入れた。
「失礼いたします。夕食をお持ちいたしました」
「ああ、ありがとう。どうぞ」
眼鏡をかけて窓際で本を読んでいたリオは、葛葉の声で活字から目を逸らし、机に向かう。風呂に入って浴衣に着替えたリオは、細身だが風格漂う若者になっていた。座椅子に座り込み、葛葉が料理を並べるのを見る。料理について説明も始めた。
「……椀物は蕪を飛び魚で出汁を取って煮ました。そして冬ですし寒いので、牛のしゃぶしゃぶです。下の火種が燃え尽きたらお召し上がりください。お飲み物は特に指定もありませんでしたし、未成年の方ですので山で汲んできた湧き水です。鯉のあらいにも使っている水ですが、そのままお召し上がりになっても十分美味しいです。では、ごゆっくり」
にっこりと笑みを浮かべて礼をし、立ち上がる葛葉。そこに、リオが呼びかける。
「これを作ったのは、あなたか」
「? ええ、はい。若輩ですが、この宿では食事に関して全てを取り仕切らせていただいております」
「へえ。大した人だ。にしても、この宿は何故か若い人が多く働いているようだが」
葛葉はちらりと有和良や姫のことを考え、自分もそう老いてはいないことを考える。まだ葛葉は二十歳だった。リオはそんなことは考えてはいなかっただろうが、葛葉は自分が老けて見えたのだろうか、と少しばかりへこむ。
「そうですね。従業員も十代で務めている者が四人おります。しかし、全員昔からここで働いておりますし、仕事の方はきちんとこなせる人物ばかりです。それに、まとめ役として二人ほど務めている者もおりますし」
労働基準法はどうなったのかと問われたらおしまいだが。リオはそれで納得した。
「なるほど、わかった。ところで、その十代の勤め人の中に、ここの主人を務めている者がいるだろう」
「え……? なぜ、それを」
思わず少し腰を落とし、迎撃出来る体勢を作ってしまう。普通、一見して宿屋主人が十代などと思う人間はいない。それを、確信を持って見抜くということは、主人である有和良春夏秋冬を狙ってきた場合が考えられるからだ。しかし構えた葛葉にひらひらと手を振って、リオは琥珀色の瞳を笑わせる。
「身構えなくていい。多分あなたが危惧していることの逆だ。おれは警告をしに来たんだぜ」
「警告、ですか」
「本人を呼んだ方が良さそうな話題だが。出来れば、主人を呼んでもらえるか? 急とは言わないまでも早めに知るのがいいんでな」
そう言ってリオは箸を握り、食事を始めた。来るまではこれを食べてるから、などと言って、鯉のあらいを口にする。
不信感は無くならなかったが、自分の大切な人に危害が及ぶ可能性を示唆する発言があるのは不安だった。なので、何か起こりそうな時は部屋の中に飛び込もう、と決めて、葛葉は従業員棟に有和良を呼びに向かった。
+
「ん? なんだ、やはりあんたが主人だったか」
葛葉に引っ張られて客の部屋に向かうと、リオと名乗った男は牛しゃぶを口に運んでからそう呟いた。
「宿屋主人、有和良春夏秋冬と言います」
「敬語じゃなくていいぜ。同年代の人間に接するだけだと思ってくれ。で、早速なんだが。おれはあんたとは面識も何もない。しかし、最近旅の途中で不穏な噂を聞いたんでね。それを聞いて少しして、偶然にもこの人外が多く居る宿に出会った。これも何かの縁、世話になるわけでもあるし、危険があるなら取り除く方がいいだろうと思ってな」
この国の人ではないはずなのに、やけにリオは浴衣が似合った。細身だがしなやかに体をつくっているようで、風格があった。
「じゃあ、リオ。君も人外なのか?」
「一応な。今は祖国を離れて日本文化に親しむ旅の途中、ってところだ。まあその途中で少しばかり危険な目にあって、その時に会った奴が言った。今はとある移動式宿屋の主人を務める男、『絶対為る真理』を殺す、と。まったく耳にした覚えのない名じゃないが、その時はまさか会うとは思わなかったぜ。……英国、また我が祖国でも暴れたろ、春夏秋冬」
悪意はない様子で、リオはにやっと笑った。しかしすぐに表情を引き締め、俺に向き直る。
「そいつらの話を聞いたからあんたの事情には多少踏み込むが、許せ。そいつらが言うには、春夏秋冬が親の仇だとのことだった。これに、覚えはあるか?」
「……多分真実だ」
認めるしかない。そういうことを冗談で言う奴はいないだろうし、この手は血で汚れすぎている。
「そうか。だが、春夏秋冬はそのことを深く悔いている、ようでもある」
「悔いてもどうにもならないし、許してもらえもしないだろうけど。悔いないわけがない。つまり、リオが会ったのは俺が生きるため手にかけた人々の遺族だ。今までも、こういうことは何度かあった。……俺が今ここに居るってことは、そういう復讐のために来た人々もまた、手にかけたってことだ」
「別に軽蔑はしない。おれがこうして牛を食べないと生きていられないことと同じだ。たった一つの生を守り抜くため、人は誰もが戦いに身を投じている。その果てに春夏秋冬が生を勝ち取ったなら、生きなければいけないということになるだろう」
水を一口含んで、リオは満足そうに頬を緩める。口に合ったようだ。
「もうしばらくで、そう言った連中が来る。もしも春夏秋冬が極悪人であったならそのまま復讐を遂行させてやろうかとも思っていたが、気が変わった。おまえは、生きるべきだろう」
「死ぬ気は、最初からないよ。今まで生きてきたことに対して、そして今まで殺した人々に対して、俺は生きると誓った」
「そうか。なら、おれはこの件に関してはもうこれ以上何も言わない、何もしない。だが一つだけ言わせてもらうなら、おれとしては、おまえに生きていてほしいが。いや、プレッシャーになるだけだな。忘れろ」
話は終わったらしく、リオは食事を再開する。俺は席を立ち、リオに礼を言った。しかしリオは首を横に振り、喉を嚥下させてから呟く。
「礼なんていらない。ここに泊めてもらって、十分すぎるほどくつろがせてもらっている」
「なら、これからもゆっくりお過ごしください。お客様」
リオの部屋の扉を閉じ、俺は従業員棟に戻る。
月はまだ満ちるには遠く、淡く冷たい輝きを見せていた。
ではまた次回