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二十一頁目 誰かの陰謀と思しきペアチケット!(番外編?)

 いつかの、どこかの、奇妙な空間。 

 引かれた札に書かれた名は姫。

 番外編と思しきものの、はじまりである。



        +



 なんだか、嫌な夢を見たような気がして、俺は目を開けた。外はまだ暗く、早い時間に起きてしまったことがうかがえる。「階段で足を踏み外してそこで起きる」パターンだったため、寝なおす気にはなれない。仕方なく、下に降りてポストに向かった。冬の朝は寒く、また昨日降った雪が少し残っていて、気分的にも冷たかった。白い息を吐きつつ新聞を取る。

 すると、奥の方に何か茶封筒が引っかかっているのが見えた。表面に、見慣れた筆跡を発見、したような気がして、無視するか否か迷う。顔が反射的に引きつる。だが結局は重要な案件だったら困る、ということで、手を伸ばすことにした。自分の感情を押し殺すのに一苦労だ。寒くて白くなった手で、その場で開きながら宿の中へ戻る。


「『拝啓、有和良春夏秋冬ありわらひととせ様、有和良斎ありわらいつきより。久しぶり、僕のこと忘れたりしてないかな。忘れられても困るので久しぶりにお手紙しました。なお読まずに捨てたり燃やしたりしようとした場合は中に入れておいた符札術式でヒドい目に遭うから、開いてもらえてこの文を読んでるなら本当に良かったよ』……爆弾魔かあいつ」


 毒づきながら厨房の椅子に座り込み、さらに読む。薄い便箋につらつらと書かれている文面は、前半部分は俺に対しての仕事は大丈夫かだのこっちは心配要らないだの。普通のことばかり書かれていたが、父の手にかかるとこうまで腹の立つ文章に成り変わるのが息子としても不思議だ。

 大半を読み飛ばして、やはり重要でもなんでもなくただ旅の道中をつづった紀行文だ、とがっくり肩を落とす。だが最後の方になって、気になる部分があったのでそこだけ目を凝らす。


「なになに、『で、最近ちょっと日本に帰って来たのだけどね、面白い女の人に会ったんだ。さる流派の剣客だとかいうカッコいい女の人でね、どうも葛葉のお師匠さんなんだって。僕としてもビックリだったよ、どのくらいのビックリだったかは察してくれたまえ』――知るか。『その葵さんという人から、葛葉に伝言だよ。元気にやってなかったらお仕置きだわよ、だってさ。あと、その葵さんがある商店街の福引で当てたらしいんだけど、使いそうもないからと渡されたチケットがあるのでそれも同封するよ。じゃ、またお手紙する。またね』……チケット?」


 がさがさと封筒をひっくり返し、揺さぶる。

 はらりと落ちてきたのは、遊園地のチケットだった。

 はらりと落ちたのはなぜか二枚、まさかのペアチケットだった。


「……どう使えと言うんだ」


 朝一番から俺は頭を抱えた。時は十二月二十五日クリスマス。なんとなく、吸血鬼が愉しんでいいのかは微妙な日付だ。




 朝食を食べてから、俺は部屋に戻って服に着替える。適当なジャケットにボトムスを合わせて、チケットについて考えをめぐらす。

 慰安、とか勤労感謝、という意味では誰かに渡すのは相応しい……だが、これペアチケットだ。誰かに渡したらその他のみんなに申し訳ない。


「辻堂と要にあげちゃうか」


 口に出してから、あの二人が遊園地に向かう様子を想像する。一秒で否定。ダメだ、辻堂はああいう場所には向いていない。かといって、どうするか。俺と辻堂? 生理的嫌悪感にさいなまれる。要と俺? そういえば昨日誘ってくれたクラス会だかは仕事の都合で断ったからな。丁度いいか。

 早速電話をかけよう。そう思い、部屋を出る。すると今部屋を出てきたらしい姫にぶつかり、立ち止まる。寝起きだとわかる理由は、昨日の飲酒による一件と生来、基本的に朝は弱いと葛葉に聞いていたからだ。


「おっと、悪い」

「うん? あー、ダンナ」


 目をこしこしと擦っていたが、俺を見るとなんだかぼっ、と顔を赤くして視線を逸らす。床の木目を真剣に凝視し始めた。

 ……まあ一応、色々あったからな、昨日。うん。恥ずい。


「昨日のことは、まあ気にしなくても」

「うっさい。あたしは気になんだよ」


 封殺黙殺。俺は黙り込むしかない。やはり、昨日酔った勢いで発言したらしき「血をあげます宣言」を相当引きずっているようだ。

 思い出すとこちらも血の味を思い出したりとか色々マズい気分になってくるので、とりあえず頭を振って考えを追い出す。どうしよう、と悩むことしきり。目線を下げると、姫も口をきゅっと一文字に引き結んで、考え込んでいる。


「とりあえず、朝食食べてきたら」

「そうする」


 どたどたと足音を立てて姫は階下に消えてゆき、俺はどうしたものかと窓のへりに手をついて悩んだ。

 はあ。


「どうした主人。若き青少年の悩みかの」


 中庭の雪景色を見下ろして感慨にふけっていると、後ろに現れた白藤。振り返ると奴は着物がズレて肩があらわになっており、直視し辛い様相をていしていた。俺はくるりと中庭に向き直り、振り向かないよう務める。


「やはり、青少年の若き悩みのようじゃな」

「微妙に言い方変えただけで俺がものすごく疑われそうだ。服装整えろ」

「そうは言うがの、働きづめで疲れたからか、普段の外見を保っておれんのじゃ。少々外見年齢を低下させて肉体の作りを小さくせんと、どうも休むことすら出来んようでのぅ。じゃから、服の大きさが違って肌が出る」


 言われて、もう一度振り返ってみる。すると、なるほど普段は二十代中ごろくらいの外見が、十代半ばほど、俺と同年代くらいになっていた。

 背も俺と普段なら変わらないのに、目線の高さに頭頂部がある。三つ編みにしていない髪はかかと周りにその裾を垂らし、モノクルをかけた顔も幼くなっている。もっとも、鋭い目つきはあまり変わらないが……そして、着物のサイズが合わないらしく、肩が大きく露出、というかズレすぎ、


「早く直せ! あとなんであんた年齢下がっても胸だけ変わらないんだよ!」

「それは門外不出の秘密じゃな」


 シュルシュル、と帯を直して着物の前を正し始める。ここでやるな、と思ったが、今から止めに入るのも面倒だ。俺は窓を開けて冷たい風に顔をさらしながら、後ろの白藤が身なりを整えるのを待った。途中、柊が通りかかって気まずそうに俺の横に位置を定める。


「寒いから窓を閉めろ、と言いにきたのですが。これは無理なのです」

「ああ。顔面を冷やしたくなるだろ」


 しばらくして白藤は服装を整え終え、俺と柊は振り返る。締めた帯で腰の細さが強調され、その上に先ほど露出しかけていた胸が乗っていて、余計に目のやり場に困ることになってしまい、横を向いたら柊と目が合った。

 たがい、嫌悪感に満ちた表情を見せた。


「僕は部屋に戻るのです……もう一回寝なおしなのですな。あと、三が日は実家に帰るのでそこのところよろしくなのです」

「わかった。さて白藤、部屋に戻れ」

「寝なおしかの? わしが相手にならんこともない」

「一人で眠れ」


 つれん主人じゃ、とほざきながら自室……自分自身なんだからどこも自室だろうが、とにかく一応と割り振ってある部屋に戻る。まったく、どうして奴はああも俺をからかう。寝ると眠るを混同されては困る。


「ところで主人、これはなんじゃ?」

「あ?」


 にやにや笑う白藤の手の中。俺が持っていたはずのペアチケットが、ひらひらと舞っていた。


「誰を誘うんじゃ?」

「お、おま、え……」

「なに、わしなのか? それはありがたいことじゃがそうなると宿を休まねばの」

「おまえっ! なに勝手に人のもの取ってんだぁ!」


 掴みかかるがひょいとかわされる。ダメだ、腐っても元武家屋敷。体術は何の暗示もかけていない俺とは同等、しかも俺は冷静さを欠いている。普段よりは力を出し切れない。ちくしょう、でもわかっていても、冷静になれない!


「なるほどの。これか、主人が悩んでおったのは。初心うぶじゃのー」


 にやにや笑いが黒さを増す。悪魔の微笑み。そしてその一言が俺の心を刺す刃となる。だれがうぶだだれが。


「返せ!」

「や、じゃのー」


 飛びかかるがかわされ、廊下を疾走してゆく白藤。

 ――落ち着け俺。元々大事なものでもない、むきになる必要性は皆無。冷静になれ。奴はからかって愉しんでるだけだ。使用するかどうかも迷ってた品だ、どうなろうとそう気にすることはない。そうだそのまま止まれ。飽きたフリして後から奪い取れ。あれ、やっぱりいつの間にか固執してる。


「ぱとりしあにでも渡すかの。なかなか面白いことになりそうじゃ」


 冷静、に…………無理! ぱとりしあの手に渡ったら厄介すぎる!


「待て。とにかくマテ。お手」

「や、じゃと言うとるに」


 階段を駆け下り、ロビーを過ぎ去り、大浴場に向かい、のれんをくぐり、って危ない! 危うく乗せられて女湯入ってくとこだった!


「そらどうした主人、大事な券が逃げてくのう」


 中から聞こえてくる、微妙に反響した声。


「このっ……そうか。そういう手に出るのか」



 あーこんちくしょう。ならこちらも容赦はしない。全力で、追わせてもらう。


「誰か入ってるかー? いないな? いないよな! もう知らないぞ!」


 呼びかけてから全速力で脱衣所を突っ切り、浴場の出入り口で中をみやる。どうやら本当に誰もいないようなので、俺はそのまま白藤を探す。湯気の立ち込める室内浴場の中、人影はない。外に出ると、露天風呂の方に駆けていく長い黒髪がこちらを向いた。


「ふははは、主人ー、こーこまでおーいでー」「『れ』!」


 容赦なく魔眼発動。後は白藤がそれを『識って』いるかどうかにかかってくるが。


「ふぎゃぁー!」


 思惑通りに白藤は卒倒していた。飛び石で頭を打っていないか心配ではなるが、首を絞め落とした時も大丈夫だったからそう心配は要らないだろう。倒れこんでばたばたと両足を空中に泳がせ、両目を押さえてのた打ち回っていた。

 即興で思いついたにしては良い手だったようだな。『湯気』を『催涙ガス』に視せるというのは。知ってるかどうか少々心配ではあったが、さすがに長い時を生きて戦いを乗り越えてきただけある、だが逆にその知識があだとなったな。ふん。


「さて、返してもらう」


 むんずと掴んだままのチケットを奪い取り、ばったんばったん暴れる白藤を放置する。一分も経たずに幻覚時間はきれるはずだ。というわけでさっさと戻ろうとして――以前もこんなことがあって、葛葉に遭遇して気まずいことになったっけか。今度は同じようにはいかないな。


「よいせと」


 垣根を乗り越えて男湯の方に入る。これでよし。


「主人、何をしておられる」

「へ?」


 だがそこには川澄さんが立っていた。湯に濡れたからだと思うが、短い白髪が逆立っている。


「日本男児たるもの、のぞきとは感心せんな」

「い、いやいや、色々事情があったんですよ? 大体日本男児って、俺日本の血は半分しか」

「半分でも流れる大和魂に申し開きをせねばな」


 ダメだこりゃ。


        +


 散々な朝を過ごし、午前十時。要に電話をかけると一緒に暮らしているおじいさんが出て、教会に行ってボランティアの清掃をしていると言われた。つまりいない。携帯電話もマナーモードだ。いよいよどうしたものかと悩み、俺は部屋で畳の上を転がった。

 いっそのこと、ゴミ箱にでも放り込むか。うん、そうしよう。まったく、父さんの送ってくるものは毎回俺を悩ませる……ほいっと。入った、これでよし。


「ダンナ様、ゴミがたまっていましたら捨てますが」

「なぜこのタイミングでくるんだ?」

「へ? 何か問題でもございましたか」


 持ち上げられるゴミ箱。その中に入っていたチケットを見て、葛葉は首を傾げる。沈黙する俺、ゴミ箱を抱えてしばらく動きを止める葛葉。永遠とも思えるほどに長い数秒の静寂を切り開き、葛葉がぼそりと俺に尋ねてくる。


「お出かけの予定がなくなったのですか?」

「え……あ、ああ。うん。そういうこと」

「残念でしたね」


 ああ、そういう風に解釈してもらえたか。まあそりゃそうか、慰安目的でペアチケット買ってくる馬鹿なんて、いないもんな。

 あっと、伝言を忘れるところだった。


「そう言えば、父さんからの手紙があってね。旅の途中で日本に帰ってきて、なんと葵さんに会ったんだって」


 久しぶりに聞いた名に、ふっと表情がほころぶ葛葉。


「師匠が? それはまた、偶然というのは面白いですね。何か言っておられましたか?」

「元気にしてないとお仕置き、だとさ。あっちは元気そうだよ」

「そうですか。それにしても偶然ですね」

「だな」

「ええ、本当に偶然。なぜかこのチケットに、師匠の名前が書いてあるのですが」


 ……あれ?




 たまに、こういう人が居る。自分の所持品には大体全てに名前を書く人。買い物しておつりをもらったときにこんな経験はないだろうか。でかでかと名前が書いてあること。昔、田所と大きく表記されて哀しげに笑う夏目漱石を、俺はもらったことがある。

 葵さんもそこまではいかないだろうが、似たような人種だったらしい。


「なんだ、ではこれは師が斎様にお会いして、託されたものだったんですね」

「まあそういうことだけど。ペアチケットだから、誰に渡そうか悩んで。誰かに渡すと他のみんなに不公平だし」

「でも、期限が切れたわけでもないですし。勿体無いですよ」

「と言っても今日までだけど。そうだなぁ……」


 バレてしまっては仕方ないと、俺は葛葉に洗いざらい全部話した。で、このように使途について真剣に二人で悩んだりしているわけだ。


「行きたい人行きたくない人いますでしょうし。一度訊いてみたらいいじゃないですか」

「やっぱり、行きたがってる人にあげるのが一番か。じゃあ葛葉は行きたい?」


 訊いてみると、葛葉は首を傾げて考え込んだ。


「え、えーと。相手によります、ね」

「じゃあ保留か。ありがと、他にも訊いてくる」

「あ、あの!」

「へ?」

「な、なんでも……ないです」


 奇妙に間が空いたが、ぶつぶつと独りごちて葛葉は次第に静かになっていった。なんだか妙だな、と思いながらも部屋を出て、俺は他のみんなを訪ねにいくことにした。


 しかし結果は大体読めてはいたが、どうも微妙なものだった。


 柊は寝ていて、起こそうとしたらとんでもない威力で蹴られた。腹が立ってこちらも蹴り飛ばすと、しぶしぶ起きる。行きたくない、眠い、と答えた。ぱとりしあにはあまり訊きたくなかったが、俺か姫となら行きたいと言った。川澄さんは空気を読めと言われた。白藤は不貞寝したままだった。

 最後に、姫が残る。ちょっと気まずかったが、小さな部屋のふすまを三回ノック。


「姫」

「んだよ」


 部屋の中からは不機嫌な声。どうもまだ昨日のことを引きずっているらしい。だがここで退くのもなんなので、一応呼びかけるだけ呼びかけてみる。


「葵さんが要らない遊園地のチケットを送ってきたんだけど、行きたい? 期限今日までなんだよ」


 しばらく沈黙。まだ沈黙。それから、中でこたつからのそのそと這い出る衣擦きぬずれの音がした。その遅さが、何か悩んで出るかどうか決めかねている逡巡の表れのように感じた。そしてすっとふすまが開く。小さな顔がこちらを見上げている。


「ダンナは、行くのか?」

「どうだろう、ペアチケットだから二人しか行けないんだよ。葛葉も相手によっては行く、って言ってたしどうするかな」


 さりげなくぱとりしあを除外したのはまあ、ご愛嬌。姫は確実にイヤだというだろうし、俺も二人だけで回るのは身の危険が伴うので出来ればご遠慮したい。

 となれば、葛葉と姫が行くのが順当なところなのだが……って、よく見たら、『男女』でのペアチケットなのでそのペアは却下じゃないか。本当に、どうしたものだろうか? 考えつつ視線を下げると、姫もまた考え込んでいた。


「遊園地、か」

「そんなに深く考え込まなくてもいいと思うけどな」


 軽い気持ちでそう言うと、ぎろりと姫に睨まれる。


「だってあたし行ったことねーもん。どうしようか迷うに決まってんだろ」

「あー、そうか」


 ここで働きづめだったらしい姫は、外出らしい外出は昨日のような買い物くらいしかない。となれば、デパートの屋上遊園地など比較的ランクの低いものはともかく、本物の遊園地は一度も体験したことがないのは道理。葛葉も多分同じだろう。


「葛葉も相手によっては、って言ってたんだけど?」

「でも、それ男女ペアチケットなんだろ? 相手を務められんのはダンナくらいしかいねーぞ、川澄も柊も行きたくないだろうし」


 たしかに。だが葛葉はそれで納得するのだろうか。

 いや、それ以前にそう言っている姫はどうなのだろう。ちょっと屈んで顔をのぞき込むと――結構、目が輝いていた。


「ひょっとして、かなり行きたいと思ってないか?」

「うっ…………まあその、一度も行ったことねーし」


 ついさっきまで昨日の一件を悩んでいたとは思えないな。遊園地恐るべし。


「いいんじゃないですか、行ってきても」

「あ、葛葉」


 振り返ると葛葉が溜め息を一つ吐きながら、腕組みして立っていた。


「どうも姫は行きたくてしょうがない顔をしてますし。わたしは今日も休みたいので、行ってらしても構いませんよ」

「そんなに行きたいわけじゃねーよぅ……」


 もごもごと口ごもる姫。苦笑する葛葉を尻目に、既に体は動き出そうとしている。思わず笑ってしまいそうになった。


「じゃあ、行くか」

「…………ん。すぐ準備すっから」


 ふすまを閉じて、部屋の中に戻る姫。苦笑する葛葉と顔を見合わせながら、俺も肩をすくめた。


「葛葉はよかったのか、やっぱり行ったことないんだろう?」

「そうですね。でもあそこまで嬉しそうではちょっと。また折りを見て誘ってくださると嬉しいですね」

「俺とならいいってことか?」

「……ええ、まあ」


 口元を手で隠しながらぼそぼそと呟き、すぐに階下に下りてゆく。どうしたものかなと思いつつ、俺はそのままその場で待ち続けた。窓のへりに手をかけ、中庭の池にいる鯉を見やる。あの鯉たちは寒くなさそうだが、今日も結構冷え込む。つまり外出は控えたくなる天候なわけだが、遊園地は人でひしめき合っているであろうこと請け合いだ。日付的にも。まあ昨日が本番という人も多いのだろうが。

 おや? よく考えてみなくても、これって。デート、か?


        +


「待たせちまって悪いな」

「いや別に、十分くらいだし」


 出てきた姫はその長い赤髪を腰まで垂らし、普段のポニーテールを解いていた。ハイネックの襟が大きく広がって首元の見える桃色のセーターを着ており、襟周りには細い糸に通した透き通るいくつもの赤い石のネックレス。腰まで隠すセーターの下には黒いミニスカート、同色のニーソックスを穿いている。さらに防寒具として大きなベージュ色のコートを着て、腰の辺りにあるベルトを締めていた。

 俺のいい加減な服装とは違い、洒落た恰好だ。昨日も思ったが、一応服を買っていないわけでもないらしい。しかし、どこか普段と決定的に違う。


「姫、おまえマフラーは?」

「ん? ああ、これこれ」


 落ち着いた様子でそう言って、首に巻かれた赤いチョーカーのようなものを指差す。


「これ。本来はこれか、首に埋め込んである糸だけでいいんだよ。この前はあの魔術師の術のせいで首のも引き抜いちまったけど、また縫って埋め込んだから」


 ……なるほど。しかし縫って埋め込むってなんか痛々しいな。


「さって、じゃあ行きますか」

「うん」


 歩き出し、宿を出て昨日の駅とは逆方向にあるバス停に向かう。隣町にある駅まで乗り、そこから続く路線に乗れば遊園地まで一時間弱で着けるはずだ。まだ昼前なので、そこそこな時間まで遊んでいられるだろう。


「そうだ、電車とかも乗ったことないんじゃないか?」

「バカにすんなよ。一度斎が慰安旅行だー、つって強引に白藤まで連れて旅行に行ったこともあったんだかんな。まあ、行き先がしなびた温泉旅館で『これじゃ普段とあんまり変わらんだろ』ってみんなから突っ込まれてたけどよ」

「やりかねないな、あの父さんなら」


 乾いた笑いを漏らしつつ、すたすたと歩く。雪がほとんど無くなっているため普段どおりの歩幅になってしまい、そうすると姫を置いていきそうになるので歩幅を狭めて合わせなくてはならない。小柄な姫の歩幅は本当に小さく、なかなか大変だった。

 姫の横についてすたすたと歩くと、やがてバス停に着く。定刻通りにやってきたバスは少々混んでいて、俺は空いている席に姫を座らせつり革に掴まった。


「悪いな、ダンナ」

「まあ気にするな。あと、今は仕事中じゃないしダンナはやめてくれないか? それと車内ではもう少し静かに」

「声、大きいか?」


 呼称のために周りからもちょっと見られた。しかも姫はあまり乗ったことがないからか、それとも単に出かけることで浮き足立っているからか。車内で話すには少々大きめの声でその役職名を呼んだので、かなりの人が俺の方を見た、ような気がする。考えすぎだろうか?


「じゃあ少しは声量小さくすんよ。えと、ひととせ」

「そっちの名前で呼ばれたの、ものすごく久しぶりだな」


 そう考えつつ、やはり周りから視線を感じる。弱った。姫はまったくそんなことに気づいていないのか、窓の外を見て流れ行く景色を眺めつつ、呟く。


「たまにゃいいもんだな。遠くまで足をのばすってのも」

「……そうだな」


 ガタガタと斜面に沿ってバスは登り、俺たちの住む八尾町から遠のいてゆく。山を貫通して作られた短いトンネルを抜け、近所では最大のショッピングモールがある隣町に入ってゆく。ここ、手八町も一応は市町村でいう「町」なので八尾町とあまり変わらないように思えるが、少なくともここはビル群もありある程度発展が見られ、大きめの路線も通っている。それに乗って向かうのだ。

 やがてその手八町駅にあるバスターミナルに停車し、俺たちは下りる。広いプラットホームに向かう階段の前で切符を買い(一応、俺の自腹)、次の列車が来るのをベンチに座って待つ。吹き付けてくる風が季節を感じさせ、駅独特の臭いが鼻をつく。


「そういや、昨日の」

「あん?」


 話しかけると、ちょっとトゲのある声を返された。横を見ると、ちょっと頬を膨らませてこちらではないどちらかを向いている。


「そう過敏に反応するなよ。本だよ、本。どうだった?」


 ああそっちか、と頭を掻いて、姫はベンチに深くもたれる。コートのポケットに手を入れて、風が吹く度に体を震わす。


「まだ読み終わってねーや」

「あれ、そうか。相当な速さでパパパッと読み終わったんじゃないかと思ってた」

「昨日は……あのあと寝ちまったし。今日も朝起きんの遅かったから、ダンナ、じゃなかった。ひととせに呼ばれるまでは読んでたけど、出かけるならと思ってしおり挟んで置いてあるぞ」

「悪いことしたかな」


 気になる続きを読んでる最中に、俺が中断させてしまったわけだ。けれど姫は短く笑い、俺の方に向き直る。


「まさか。今しか出来ねぇことがあるんなら、そっちに行くに決まってんだろ」

「そうか」


 そうこうするうちにプアーンと列車の近づく音が聞こえ、その音に飛び上がった姫を笑ってしまった。軽く頭をはたかれる。そこでふと思ったが、やはり視線を感じるような気がする。今は特に何かした覚えはないので、多分姫の赤い髪と、金色の瞳のことが物珍しいのだろう。俺と姫は禁煙車両に乗り込み、暖気に触れて上着を脱いだ。


「急行列車だからあっという間だけど、適当に席を決めて座ろう」

「窓際にしてくれっとうれしいな」


 そういう姫の意見を尊重して、窓際の空いた席に座る。腰を落ち着けても心は落ち着きないのか、姫は座ってからも窓の外を眺めて楽しそうにしていた。到着するまでにもここまで楽しそうにしてもらえるというのは、連れてきた側としては結構嬉しいものだな、と思う。

 普段はしっかり者でよく働き、口調も男っぽくはあるけれど。こういう様子を見ていると、内面的にはやはり俺と同年代の普通の女の子なんだな、ということを改めて実感させられる。外見的には同年代と比べると明らかに小さいが。


「なんか言ったか? ひととせ」

「なんにも」

「じゃあなんか考えたか」

「すこし」




 三十分ほどして、目的地である遊園地近くの駅に着く。ホームを出て街の中に出ると、乾いた都会の空気が肺に滑り込んだ。ここからバスでも良いのだが、十五分かそこらだというので歩いて行くことにする。周りを見渡してはー、と感嘆の溜め息をついている姫を引っ張り、歩き出す。


「すぐだから歩くよ」

「ん。しかし、こりゃでっかい街だな」

「俺もこっちの方まではあんまり来ないしね。広くて迷いそうに……ってそういえば姫は方向音痴だった」

「そんな心配されるほどじゃねーって」


 手をぱたぱた振って大丈夫とアピールするが、地元ドいなかの狭い町でも迷っていたような姫だ。用心はした方がいい、か。


「服の袖掴んでおいてくれ。はぐれないように」

「言い方変えてんだけど結局迷子になるの心配してんだろおまえ……」


 低い声で文句を言いつつ、一応握ってくる。だが服の裾ではなく、俺の手を握ってきた。


「……まあいいけど」


 昨日のことがあって手を握るのに慣れてしまったのだろうか、とまったく慣れないこちらはふと思った。どうにも小さくて細い手先は、握っていて不安になる。動悸が少し早くなる。気にしないようにしよう。


「ひととせの手は案外あったかいな」

「この寒い中だからだろう。平熱低いよ俺」


 たわいもないことを話しながら、歩みを進める。駅は街でもわりと外れに位置しているらしく、すたすた歩けばあっという間に周りに建物が少なくなった。同時に、周りから人気ひとけもなくなってきたので、手を離しても大丈夫かな、などとちらりと考えた。しかし離される気配はないので、そのまま歩く。

 正面からは宣伝などでも流れている音楽が聞こえ、遊園地『ヘブンスアイランド』の正面ゲートに辿りつく。入場口のアーチに気圧されたかのように動きを止め、遥か上空に向けてそびえるジェットコースターの頂上部などを見やっている姫。俺は手を引き、チケットを受付で手渡して中に入る。近所だが来たこともないので、俺もどこに行こうか迷ってしまう。


「どこ行こうか?」


 横の姫に話しかけると、受付脇に置いてあった園内マップを熱心に眺めていた。いつの間にか手も離れており、俺もマップを一部手にとる。どうやら園内は天使がたくさん、愉快でわくわくなゾーン『ヘブンス』と、悪魔がいっぱい、恐怖とはらはらなゾーン『ヘル』に分かれているらしい。この二区分で大体わかるが、ヘブンスが子供向け、ヘルが中高生から大人向け、ということだろう。

 入場口に居る俺たちから見て右側がヘル。左側がヘブンス。俺はどちらでも良かったので姫に判断を仰ぐことにした。周囲を見渡すと、やはり年齢層がゾーンによって結構分かれていく。ヘブンスには家族連れが多く、ヘルの方にはまあ時期が時期、日付が日付だからだろうが、同年代くらいのカップルが多い。……周りから見れば俺らもそうなのだろうか。


「で、どうする?」


 考え始めるとオーバーヒートしそうだったので、もう一度聞きなおす。姫は小さなあごに手を当てて、難事件に挑む刑事のように真剣な面持ちでマップを見つめていた。このままでは、決まりそうに無い。


「あと十秒」

「ええ! そりゃねーだろ!」


 時間制限を設けると、わたわたと俺の顔とマップの間を視線が行き来し、やはり考え込んでいる。


「六、五、四、三」

「すとっぷ! すとっぷ!」

「零。はい終了。ヘルゾーンに行こうか」


 ぶすっとした顔で俺の顔を見上げ、あー、と口を開けかけて、結局閉じる。文句を言おうとしてやめたのだろう。


「まあいっか……あとから向こうは回れば」

「でも向こうはそう面白そうなものはないだろう? 子供向けのものが多いし」

「誰が子供だよ!」

「言ってないって」


 ぶつぶつ言いながら、少々色合いもダークなヘルゾーンに向かう。空を見上げると本物のカラスが数羽、飛んでいった。天気はからっと晴れているが、少々肌寒い。マップをジャケットの胸ポケットにしまい込むと、姫も同じようにコートの内ポケットにしまっていた。

 再び手ぶらになり、また正面方向には人ごみがあったりしたので、俺は姫の方を向く。すると、言わんとしていることがわかったのか、少々不本意そうだがもう一度手を握ってくれた。いや、だから、掴むのは袖でもいいんだけど。


「じゃ、最初からインパクトありそうなのにしようか」

「む。ってことは、ジェットコースターかよ」


 向かう先に目に付いたのは『巨大な廃工場内を縦横無尽に駆け巡る国内最大規模の室内ライド! 亡霊にビビるか、速度にビビるか!?』とあからさまな挑発文を掲げたアトラクション『ナイトメアファクトリー』。

 廃工場とは言っても白い味気ない長方形の建物にはブタの人形が腹を天に向けて置いてあり、明らかに食肉加工場だ。亡霊よりも死体系のグロいものが想像される。


「とりあえず乗ってみようか」

「あんまり並んでねーしな」


 すたすたと中に入る。薄暗い闇の中にホッケーマスクをかぶった係員が立っており、薄気味悪い録音の笑い声をあげた。小さく姫が叫び声をもらしたのも聞こえたが、そこは追及しないことにする。

 中にはそこそこに人が並んでおり、緊張のためか急に無口になった姫の手が俺の手を粉砕骨折させようと握撃あくげきをかましてくる。


「いたいいたいいたいいたいたいたい」

「え、ああ、ごめんひととせ」

「……そんなにイヤなら出ようか? 後ろの人にちょっとどいてもらって」

「それは、ヤダぞ」


 要するに逃げたくないと。猫又だからだろうか、暗闇でもわりとよく光る金色の瞳で、こちらをじっと見据えた。


「わかったわかった」


 そして予想していたよりも遥かに早く回ってきた順番、俺と姫は並んでライドに乗り込み、セーフティバーを下げる。姫がそのまま乗ろうとしていたので、俺がバーを下げてやることとなった。


「これしてないと落ちるよ」

「? 遊園地ってのは危険なんだな」


 だが最大まで下げても、小柄な姫だと隙間からするりと出ることが出来そうで怖かった。大体、ここのアトラクションにおける身長制限(百四十センチ)もギリギリでクリアーしたのだし。


「しっかり掴まって」

「ん」


 ……セーフティバーのことを言ったんだけど。だからなんで俺の手? 別にいいけど。

 そんな考えを浮かべている間に、体が大きく傾いた。二階まで上ってゆく。このアトラクションを選んだ理由として挙げられるのは、まず姫が身長制限で引っかからないこと。それに工場内を回るライドなので、外から見た限りこの二階以上の高さからの落下がないこと。ジェットコースターに初めて乗る姫でも怖くはないだろうとの配慮だ。

 ガタガタときしむライドは薄暗い中を右往左往して食肉加工場の有様を存分に見せつけ、ナレーションが時折入ると工場長が狂っていく過程がわかる。蝋人形ろうにんぎょうか何かだろうが、人間がブタと一緒に冷凍室に吊り下げられている様など結構怖い。恐怖で息を呑む姫が、またも俺の手の骨を握りつぶそうとしている。痛い痛い。

 やがてライドに乗る俺たちを工場長が見つけ、肉きり包丁を両手に追ってくるというクライマックス。逃げ切るための一階層分の落下。予想通り大したことはなく、姫も息が一瞬止まっていたがそれ以上のことはない。あーよかった、などと安堵している。


『細切れダぁあぁぁぁあぁぁあぁぁああぁああッ!!』


 だが工場長しつこかった。白い服を血で真っ赤に染めた工場長は、本当にライドの後ろを追ってきている。なかなかに怖い演出。だが、もう一回落下をしてしまったので、これ以上の加速はない。逃げ切れないんじゃないか? と俺は苦笑いを浮かべて姫を見る。顔面蒼白だった。


「大丈夫だって、もう出口だ」

「でもなんかどんどん速度落ちてんだけどよ……」

「あれ? そういえば」


 油断した次の瞬間。

 垂直に近い落下。さっきの落下よりもなお長い、内臓を後ろに持っていかれたような衝撃。

 実は食肉加工場には地下があり、ここから工場長は街に出て夜な夜な人を襲っていたのでしたー、などと呑気なナレーション。外見で判断したのは間違いだった。地下深くまで作られているらしいこのライドは、そのままさっきの落下の三倍くらい長い降下時間を経て、ようやく止まる。なんとか逃げ切れてよかったですね、などとやはり呑気なナレーション。


「姫……? だいじょぶ、か?」

「むりだぞ。もうダメだろ。死んでしまう」


 心底疲れた様子で、千鳥足でライドを下りた。顔面は蒼白、涙ぐんでいる。




 しばらくは疲れきって、文句を言ったり、怒ることすらない姫。一応事前に下調べしなけりゃこういうのはダメなんだな、とつくづく反省した。丁度時間も昼時だったので、俺は休憩がてら昼食と飲み物を買いに行く。


「えっと、ビーフハンバーグセット一つ。ビッグチキンサンド二つ。あと、チュロス一つに飲み物はコーラ二つで」

「はいよー、どなた様とのお越しなのだね」


 うつむいてメニューを見ていた俺は、聞き覚えのある声に顔を上げる。やはり覚えがあることに間違いはなく、そこには茶髪を後ろで一つに束ねた不良店員。眼鏡をかけた、井戸の底みたいに暗く死んだ目をした男。制服らしい黒いエプロンをつけて、俺のことを見下ろしている。


「神出鬼没、というかストーカーかおまえは」

「馬鹿を言ってはいけない。友人が用事入ったとかでバイトを任されたのだよ」


 てきぱきと用意をしつつ笑っているが、目は笑っていない。それはまあ、クリスマスにバイトを任されるなんて確実に相手は辻堂のことをどーでもいいと思っている奴なのだろうし、日付的に今、何をやっているのかも明白だ。不愉快にもなるだろう。


「で、誰と来ているのかね。時計か?」

「いや、誘おうとしたけど教会でボランティアとかで連絡つかなかった。で、今は姫と来てる」

「すまん、有和良。死んでくださいませんかね? よりによってあの姫さん? あんな可愛い子と遊園地? 勝ち組が。負け組に呪われるがいいさ。むしろ私が率先して呪ってやらう。貴様みたいな奴は死ねばいいのでせう」


 そう言って俺に九字の印を切り始める辻堂。そんなんでも効力は零じゃないらしいからやめてほしい。


「しかし、可愛い子、ね……」

「今さら何を言っているのだね、今すぐヒモなしバンジーしてくれんか」


 言いながら俺のハンバーグセットにブラックペッパーをガリガリ削ってドンドン載せている。積載量を超えそうなほどにかけられてからようやくそのことに気づき、俺はカウンターの向こうに居る辻堂に拳を繰り出しながらそれを奪った。食べれるだろうか。


「だからかな、なんか今日はむやみに視線を感じるのは」

「それはそうだろう。おまえさんなどに視線を向ける暇があるなら、横に居る可愛い姫さんに視線を向ける方が余程目の保養なのだよ。いいなあ外出姿。ちょっと見てみたいがね、いかんせん仕事中だ……写真に取っておいてくれるかね」

「肖像権の問題からパス」

「やっぱ呪われてくれんかね」


 実のない会話を切り上げ、俺は昼食と飲み物を席に運ぶ。白い丸型テーブルに突っ伏していた姫は、近づいていくと顔を上げる。――たしかに、目の保養と言われればそうかも、しれない。たまにしか気づかないというのもアホらしい話なのだが。


「ほら、チキンサンドとチュロス。しかし、こんな大きいの食べるのか」

「そんな大きいか?」


 トレイに載せたチキンサンドを姫の前に置きながら、やはり思う。直径十五センチ四方くらいの食パン五枚で、チキン、レタス、香辛料など各種材料を挟み込み作られたサンドイッチ。それは分厚く、もはや立方体に近い。そんな規格外の巨大サンドイッチを、姫はさらにもう一つ食べようとしているのだ。食後に控えるデザートのチュロスも、狐色に揚げられた表面を天高く突き上げ、五十センチほどの長さを誇る。ムダに、でかい。


「よく食べるな」


 ビーフハンバーグをプラスチックのナイフで切り分け、同じくプラスチックのフォークで口に運びつつ思う。俺のこのハンバーグもわりと大きいが、それでも姫のサンドに比べると子供の食事だ。うぐ、やっぱ辻堂にかけられた黒こしょうがかなり効いてる。


「疲れたんだよ。なんか食べて気をまぎらわしたくもなんだろ」


 姫の手では一度につかむことは出来なかったらしく、真ん中で二分割して、もくもくと小さな口でかじっていく。やたらと早いペースというわけでもないのに、放っておくとあっという間にサンドが消えている。まるで魔術だ。


「食が細いよりはいいけどね」

「そうだぞ」


 言いつつ、マップを見て次行く場所を定める。しかしコースター系がダメだったとは。となると、ライド系ではない場所、もしくはライドでもなるだけ怖くないところが良い。


「次、ここの『フィアーマンション』でどうだ?」


 黒こしょうでヒリヒリする喉にコーラを流し込んで冷却してから、姫に尋ねる。姫はサンドを食べる手を止めて、じとっとした目でこちらを見ている。


「……ジェットコースターじゃねーんだろうな」

「歩いて洋館の中を回るって方式だから大丈夫。ライドじゃなきゃいいんだろう?」

「一応な。じゃあそこでいいぞ」

 

        +


「ダメだ! もう進みたくねぇよ!」


 食事の時はここでいい、と言ったのに、洋館に踏み入って一分後、姫は叫んだ。


「……ダメか」

「こんな怖いと思ってなかったんだぞ。なんでひととせは大丈夫なんだ」

「だって本物のゴーストハウスに逃げ込んで一晩過ごしたこともあったし」

「無神経にもほどがあるってもんだろあんた」


 姫が呆れた顔でこちらを見る。仕方ないだろう、あの時は教会直属の聖堂騎士団ホーリーナイツとかいう連中に追われて、他に逃げ込めそうな場所なかったんだから。いやぁ、ポルターガイストにさらされ悪霊に追い回されで、結局ほとんど休めなかったのをよく覚えてる。


「ひととせが先に行ってくれよ……。もうあたし前を行きたくねーもん」

「いいけどさ別に」


 小さい学校くらいの大きさがある紫色の洋館内は、長い廊下といくつもの部屋があり、三階建て構造になっているらしい。脱出には各階の寝室を回って三つの鍵を探さなくてはならず、ひどい時は一、二時間ここに拘束されるハメになる。ギブアップ用の逃走経路も用意されてあるのだが、そこまで行くのにも一苦労という大層面倒なお化け屋敷だった。


「化け物と戦ったりとかも多かったしね、俺」


 気をまぎらしてやろうと話しかける。姫は俺の後ろに背後霊のようにぴったりと張り付いて、もはや目を開ける気すらないようだ。


「……あたしだって魔狩りで少しはそういう経験あんだよ。梓弓の退魔効果をアテにされてよ……でも大抵遠距離から蟇目ひきめの矢で射抜いてそれでおしまい、だったもんだからさ」

「直接近距離で見るのは怖い、か」


 それでも相手は化け物でなく人間なのだが、これはもはやそういう問題ではないのだろう。

 長く長く広々と続く廊下の果て。階段が見えたので、そちらに向かって歩き出す。


「あんま離れんなよ。置いてくなよ」

「どっちもしないから安心しなって」


 振り向く俺。

 すると後ろに居た姫の背後に、さらに人影があった。チェーンソウを構えた、包帯だらけの老人。まだ姫は気づいていない。


「……さて姫、行くか」

「早く出るぞこんなとこ。そんでもうこっちの怖いゾーンからは出る。最初っからあたしは向こうの天国の方でよかったんだかんな」

「わかってるわかってる、さあ行こう」


 まったく無視して進もうとすると、チェーンソウの包帯老人はさすがに沽券こけんに関わると思ったのか、録音と思しきエンジン駆動音を響かせながら俺たちに向かって奇天烈な叫び声をあげた。


『ブゴフォオオぉ――――ッッ』

「みひゃあ!」


 背後からの叫び声に驚き、俺を突き飛ばして逃げようとする姫。すぐに立ち上がって追いかけたが、暗闇なので見えなくなる。延々と続く廊下の彼方に駆け去っていく足音は聞こえたが、それ以上には探せるアテがない。やがて、足音もふっつりと聞こえなくなった。


「……おまえの方が置いてくんだから世話無いよな」


 かぶりを振って走り、追いかける。ひんやりと重い、埃の浮くような空気の中をひた走る。途中出てきた怪物役の方々にはご苦労様ですと声をかけながら走っても大丈夫なくらいだ。しばらく走るうちに寝室が一つあったのでベッドに横たわるミイラ化した女の人の手から鍵を奪い、予想通り起き上がって追いかけてくるのを軽くいなす。

 だがミイラ女は寝室の入り口にあったマットで盛大に転んで顔面を打つという悲惨なことになったので、仕方なく戻って手を貸してやる。手を貸してやったのに、そこは役者根性なのかメイクの落ちた顔で叫び声をあげられた。

 タイムロスしたな、と思いながら、リタイア用の非常口に辿りつく。だがそこは開けられた形跡がない。どうやら、慌てすぎてここを通り過ぎてしまったようだ。そしてその先にあるのはさらに恐怖渦巻く二階への階段。今頃どうしてるのやら、と頭を抱えながら、俺はそこを上がっていった。


 二階は廊下の途中が大量の家具により分断され、三階に上がってから戻ってこないと反対側には行けないつくりになっていた。手の込んだ設計だ、と舌打ちしつつ、俺は寝室を探して一部屋一部屋捜索する。途中で、天井から落ちてきたり鏡の向こうから現れたり床目に這いながら出てきたりする怪物役は全て素通り。角を曲がった瞬間に待っていたのには少々驚かされたが、逃げ出すほどでもない。


「まったくどこに行ったのやら」


 一瞬戻って怪物役の方々に姫の消息を訊こうかとさえ考えたが、ウガウガ言ってて話が通じそうにないキャラを演じてる人ばかりなのでやめた。ああもう、本当にどこにいるんだ。

 三階を回って寝室を探す途中、赤い絨毯を敷いた廊下の向こうから首なしの執事が走ってくる。壁にあるろうそく型の電灯もゆらゆらと頼りない光を放ち、闇の先を少しだけ明るくしている。その光が当たるか当たらないかのところに、うずくまっている影。ベージュ色のコートが見えたので、ようやく俺は一息ついた。


「ほら立ち上がれ姫。いきなり走り出すからびっくりした」


 手を伸ばし、立たせようと試みる。しかし首を横に振るばかり、立ち上がろうとしない。


「腰が抜けたのか?」


 こくこくと頷き。そしてようやく振り返った。


『ガグワア――――――――――――――ッッ』

「どわぁぁああッ!」


 よく見ればベージュ色のコートではなくタキシードジャケットだった。そして腰が抜けたというのもある意味嘘は無く、

 下半身がない。赤い絨毯もよく見ればドス黒い部分があり、どうやらこの男は上半身だけで動く配役の様子。大きなロイド眼鏡にも血が飛び散る、口からの盛大な出血サービス。


「…………って、何してやがるてめぇ」

「がははは。ビビってしまったようだな」


 上半身だけでじたばたしている(つまり下半身は床にめり込んでいる)辻堂は、目をぎょろりとこちらに向けた。ムダに演技が上手い。


「姫さんと私を見間違えるとはいよいよヤキが回ったようだな有和良。こういう場所では普通に『キャーこわーい』というヒロインを守り通すフラグが立つものだろうに。逃げ出されるとはフラグの神様に嫌われてるのではないかね、おまえさん♪」

「なにがフラグだこのヤロー。というかおまえここのバイトまで請け負ってたのか」

「うん? 今日は園内を朝からほとんど周り詰めなのだよ?」


 ……ちょっと同情してしまいそうになった。


「絶対あの連中には落とし前つけさせるつもりだがね。加良部といい阿取といい……ま、そんなことは今はどうでもいい、早く姫さんを見つけてやれ。多分この先だと推測されるからな。私を見たときには既に足腰ガタガタだったから。いやー可愛かった可愛かった」

「おまえ脅かしたんじゃないだろうな」

「迷ったさ。私だって脅かさずにそっと見守るだけにするかどうか、相当迷ったのだ。だがね、ビクビクおどおどしながら手を胸の前に持ってきて小走りしてる姿を見たら……もう一段階表情がほしいなと思ってしまったのだよ」

「死んでくださいませんかね」


 さっきの奴のセリフをそのまま返し、かかと落としを喰らわしてから先に進む。


 薄暗い闇の向こう、廊下の隅の辺りで、ようやく見慣れた赤い髪を見つける。脅かさないように声をかけてから、俺は姫の正面に移動した。


「姫」


 相当長い沈黙のあと、一度だけぐすっとしゃくりあげる音。それから姫は顔を上げ、眉の角度をつりあげる。瞳は潤んで、どうも泣いていたのではないかと思われたが、敢えてそこを指摘するような真似はしない。こちとら、辻堂とは違って人に優しくが信条だ。手を貸して、ひんやりした冷たい、小さなてのひらを握る。


「……遅せーぞ」

「元はと言えば姫が走って逃げ出したからだろうに。立てるのか?」


 ぎゅっと手を握り返して顔はうつむき、薄暗いろうそく型照明の下では表情が読めない。どうしたものかと思案していると、ぐいっと手を引っ張られた。


「乗せてけ」


 怒ったような語調で耳元にそう呟くので、俺は苦笑して姫を背負った。


「じゃあもうひと頑張りしようか」

「はあっ! もう怖いのはヤダっつってんだろが!」


 背中に居る姫は手刀を俺の首に振り下ろす。ちょっと待て、真剣に意識を手放しかけた。


「たたた。でも、もうここからならリタイア用非常口より出口の方が近いよ。ここに来るまでに俺、鍵は全部集めたから」

「それ探してたせいで遅かったのかよ!? 本気で首絞めるぞ!」

「そう言わないでくれって。どうせ出るのが同じなら、ちゃんと出口から出たいと思ったんだ」

「つまんねーことで待たせやがって……! 見つかんなかったらどーする気だったんだ」


 怒っている。ブーツのかかとで俺の大腿だいたいをげしげし蹴ってくる。痛い。


「見つけられるって。ちょっと時間はかかるかもしれないけど、ちゃんと俺は来ただろ」

「うー……」


 静かになったので、これ以上蹴られないためこれ好機チャンスとばかりに出口に向かって早歩き。背中に居る姫はやたらと軽く、また背負っているため距離が近いのだが、余計な感触とかに対する神経は遮断。

 わずかに光が漏れている出口に、三つの鍵を差し込む。姫を背負ったままだったのでどうもやりにくかったが、確実に一つずつ開錠していく。

 だが予想していた通り、最後の難関とばかりに。出口だと思った先は、ゾンビの密集地帯だった。隙間から漏れていた光も、一瞬で消えうせる。


「姫、目はつぶってるか? 訊くまでも無いか」

「うっさい!」


 姫を背負ったまま手を伸ばしてくるゾンビの間をすり抜け、群れの向こう側にあった小さなドアを開ける。俺は吸血鬼だというのに、約一時間ぶりの陽光に喜んでしまった。


「もう目を開けてもいいよ。ようやく出られた」

「……なら降ろせよ。誰かに見られたら恥ずかしくて死んじまう」


 多分誰も十五歳だとは思わないんじゃないか、とは思ったが、口に出すようなへまはしない。手を離して、姫を地面に下ろす。だが、口ではああ言ったもののまだ立てないらしく、手を離すとへたり込みそうになった。笑いそうになり、そんな俺をきっと姫が睨む。それから少し時間をおいて、俺たちはこちらのゾーンを出ることにした。


        +


「――ふわーあ。もう日が暮れちまう時間かよ」


 向かい側に座る姫が、窓のへりに頬杖つきながらそう呟く。窓の外に広がる景色を見る姫の目は、夕日を反射して輝く黄金の色合い。橙色、緋色、金色、飴色。様々な色が混ざり合い、多層的な輝きを生んでいる。ストレートに下ろした長い赤髪も、夕日を受けて一層鮮やかに光沢を放っている。

 対照的に、俺は暗い色。服も瞳も髪も、すべからく統一。だがその色合いは、夕日が照り輝く時間帯と隣り合わせにある、夜の色。

 コースターに乗りお化け屋敷に入り、その後は延々と遊園地の定番を回り続けた。子供向けの方も客がそこそこに居たためあまり多くは乗れなかったが、元々昼頃に来たことが悪かったのだろう。結局三分の一くらいしか回れなかった。乗れたものが少なかったのは、絶叫系には姫が行けなかったからでもあるが、そこは追及しない。楽しむために来たのだから。

 そして今は観覧車に乗っている。日が沈み始めたので、景色がいいだろうと思ってのことだ。思った通り、遥か彼方まで見渡せる。刻一刻と時間が過ぎ、同時に変わりゆく景色。

 駅のある街の方を見れば、既にそちらの空はすみれ色に染まっている。それも徐々に群青に近づき、最後には深い黒となる。短時間の間に闇に沈んだ街は、深海に向かって宝石をばら撒いたかのように様々な色合いの美しい光を放っていた。


「夜景も、きれいだな」

「ん。でもまだこれでも頂上部じゃねーんだな」


 俺の方をちらりと見、そしてまた景色に視線を戻す。しかし、今日は疲れた。俺は何も言わず景色を堪能していたが、やがてぼそりと姫が話しかけてくる。


「……ホント、ひととせには貰ってばっかだな」

「本一冊と遊園地のチケットだけだろう?」


 そうじゃない、とゆっくり首を横に振る姫。沈みかけた日が燃え尽きる寸前の灯火のように、最大級の輝きを放ち、姫の横顔を照らす。そして、少しずつ、溶けるようにその明るさが消え落ちてゆく。


「最初は、宿屋の主人をやってくれた。白藤と和解させてもくれた。葛葉を連れ戻してくれたし、あたしが自分の食人衝動に負けた時も、許してくれた。探しに来てくれた。全部、あんたが『くれた』んだぞ」

「その分助けてくれてるだろう。この前だって、要を助けるために手を貸してくれた」


 やはり、首を横に振る姫。


「でもまだ返しきれてないんだよ。それがあたしにゃ気分悪い……違うな、そうじゃねーな。単純に、その分何かを返したい、と思ってんだよ。あたしや、みんなのために頑張ってるあんただから。何か、返したいと。そう思うんさ」


 語る姫の顔には、もう光が射してこない。だが、そんなことは関係なく、ちょっと顔が赤い。瞳にも光が宿り、真剣な面差しでこちらを見上げている。俺はどうしたものかと、頬を掻きながら目を逸らした。

 ゴンドラは回り、上がり、頂上部にあとわずかで届く位置。一番景色のいい地点に来ようというのに、姫は俺を見ている。俺も姫を見る。


「俺は自分のしたいようにやってきただけだよ。それに、俺だってたくさんのものを姫たちから貰った。帰る場所が出来て、迎えてくれる人になってくれて。生活は変わって、俺は日々楽しかった。それらは全部姫たちから与えられたもので、俺はそのことに感謝してる。だから、今さら礼なんていいんだ」

「……無欲なのかバカなのかわかんねーな、ひととせは」

「ほっとけ」


 下り始めたゴンドラの中。俺と姫は小さく笑いあった。狭いゴンドラ内は暖房が結構効いており、姫はだんだん暑くなってきたのか、コートを脱いだ。大きく広がったセーターの襟元にある、白い首筋がよく見えるようになる。


「でもさ、感謝とか礼じゃなくてよ。単に、あたしはひととせに何かしてあげたいんだ」

「難しいことを言う」


 言いつつ、俺の目は白い首元を見つめてしまう。そういえば今朝白藤を追い回している時に、魔眼を一回使ったっけ。そのせいで体内の魔力が少し減って、疲れているのかもしれない。俺はかぶりを振って目を閉じ、無心になろうと心がけた。だが一瞬早く、姫が俺の視線に気づく。


「…………」


 しかし無言。手を膝の上にそろえて、じっと黙り込んでいる。せめて、何か言ってくれれば間を保たせることも出来るのだが。瞳はこちらを見据え、軽く下唇を噛んでいるのか、犬歯がわずかにのぞいている。


「……昨日は、結局途中で寝ちまったから」

「いや、だから酔ってたんだろう」

「今は酔ってねーぞ」


 またも無言。早くゴンドラが地上についてくれればうやむやに出来るというのに、どうにも時間の進みが遅いような気さえする。まだ、地上まで五分はかかりそうだ。遠く離れた地上を見てから、正面に居る姫に向き直る。

 目を逸らすことも、目を閉じることも許されそうにない強い目だ。どうしろと、言うんだ。たしかに、喉は渇いてきたが。


「俺は、したくないんだけど」

「うそつけ」


 いや確かに姫の言う通りなんだけど。ここで折れてしまうのも、どうかと思う。

 じれったくなったのか、姫が俺の横に移動する。軽い姫の移動でも、わずかながらゴンドラがかしいだ。


「……体のしたいことと、心のしたいことは違うよ。それに大抵、心以外には従わない方がいい」

「じゃあなんか、あたしがひととせにしてあげられることは、ねーのか」


 こちらを見る姫に、どう答えを返したものか迷う。しかし、暖房が確かにきつい。こんな状況では正に笑えないのだが、本当に喉が渇いて乾いて、血を欲していると言っても差し支えないくらいだ。けれど。


「――なあ、姫。その思いってのはさ、どういう種類の」


 呟きかけ、ふと見上げた空。

 そこに、本来あるべきものがない。


「あ…………」


 別に珍しいことではない。先月も、先々月もあったことだ。

 けれど、直感的にわかった。

 今日はまずい、ということが脳内に事実として染み渡っていく。


「ひとと、せ?」


 意識したせいか、喉の渇きがひどくなっていく。

 さっきから感じていた渇きが、尋常でない領域に踏み込んでいく。

 これは、まさか。


「――――永夜が、くる」


 周期が、早い。基本的に俺に起こるのは四ヶ月ごとだった。だが、まだ前回から二ヶ月と少ししか経っていないだろう? なにかの間違いじゃないのか? ただの体調不良――いや、自分を誤魔化すことはできそうにない。この感覚、まぎれもない。


「永夜、って、あの吸血鬼に起こる呪いかよ?」


 心配そうにこちらを見上げる瞳。俺は呼吸を整えて上がりかけた体温を維持するよう努める。


「ああ。このままだと多分、保って一時間」


 嫌な汗がにじみでる。さっきまでとは違い、あっという間に過ぎてゆく時間。俺はゴンドラが地上についた瞬間に外に走り出て、月の無い夜闇の下を走り続ける。幸い、この遊園地は山の近くに作られている。急げば、なんとか人気の無いところまで辿りつけるだろう。


「ひととせ」

「来るなよ、姫。あの状態は見ただろ、理性が保てないんだ。おまえを襲うかもしれない」

「それでも独りにしておけるかよ!」


 後ろを追走してくる姫。単純な体力で言えば、前の共感魔術師との戦いから察するに姫の方が多分、上だろう。

 だがついて来させるわけにはいかない。


「一人でも帰れるよな。先に帰っててくれ」

「ひととせ! ……ダンナ!」


 通りかかった入場口、そこは夜になったことでガラスが鏡のように俺を映す。その暗い瞳に俺の姿を映し、人狼の暗示を。


「――識れ――」


 体が軽い。これならなんとか山の方まで辿りつけ、姫をくことも出来るだろう。

 後ろには少しの間足音が聞こえていたが、人狼である俺にはさすがに追いつけないらしい。しばらくして、俺は一人になった。もう数分もしないうちに山に着いて、俺はさらに、独りになれるだろう。そうでなくてはならない。周囲を傷つけるような真似は、出来ない。

 黒い山々が、俺を見下ろす。その懐に俺は潜り込み――苦痛が始まる。


「  あ   」



        +


 ――どれほど経ったのか。

 星座の動きから、現在の時刻を割り出す。オリオン座があの辺りだから、多分今の時期なら九時前後。だと思う、多分。

 体は動かない。人狼の暗示をかけて人間の限界を越えたことと、永夜によるダメージの繰り返しでボロボロだからだ。服も随分と破れ放題だし、体をところどころぶつけたからか、打ち身や擦り傷だらけ。ゆっくりと腕を上げて頬を撫でると、乾いた血がパリっとはがれる。額から頬にかけて、幾筋か血が流れたようだ。

 やれやれ、せっかく外出したのに、結局最後は悲惨なことになった。


「やっぱり吸血鬼なんてのは神様に嫌われてるのかな」


 自嘲気味な呟きは、森の中の静かな虚空に消えてゆく。


「……寝るか」


 ここで即座にこんな判断が出来るあたりは、長い逃亡生活の中で見につけた図太さだと思う。決して生まれついての性格では、ないと思いたい……。

 大の字になって地面と並び、目を閉じて体が動けるようになるのを待つ。最低でも明日の朝までは待たないと、この全身を突き刺す痛みも抜けてはくれない。冬の風が身に染み、多分風邪をひくだろう。せめて新聞紙でもあれば、少しは寒さをしのげるのだが。


「もしくは誰かが居てくれれば、だな」


 一人は辛い。独りは寂しい。それは寒さにも通じる。

 考えるのはやめ、思考をカット。明日の朝まですべきことは、体力の回復。

 おやすみなさい。


        +


 姫は結局、帰っていなかった。

 有和良を探して、山の方に走っていた。相手の体力は自分とはケタ違い、追いつくことはないだろうし探し出せる保証もなかったが。やるべきことだと、本当に思えたからだ。


「ひととせは、大丈夫なんかな……」


 時折独り言が口をついて出て、姫は自分でも驚く。

 頭ではやれることがないのでとりあえず思うのは、今日一日。遊園地を回ったこと。そして、最後の最後で有和良に何かしてやりたいと思い、血を与えようとして拒まれたこと。なぜか、血をあげようとして拒まれたことが、強く印象に残っている。

 そしてもう一つ思うことは。有和良がゴンドラ内で口にしかけた、言葉。


「……あたしの思いはどういう種類のものなんだ、って、言いかけたんだよな、多分」


 考え込む。

 自分の思いは、気持ちは、どういうものなのかを。だが、正直よくわからなかった。とりあえず言えることは、今まで姫が出会った人々に抱いた感情、そのどれもと微妙にニュアンスが違うだろう、ということだった。それしか、わからない。わからなくなったので、考えることは結局途中でやめた。なにか、おかしくなりそうだったから。歯車が、狂いそうだったから。


「なんにしても、今やりたいことは決まってんだしな」


 一人になりたくない。独りにしたくない。

 ならそうならねーようにやるべきをやってればいいだろ、と心の中で結論し、走りながらもコートのポケットの中で手を握り締める。ただ探し続けよう、と心に決めて、誓いを立てるように。闇の中を駆ける長い、赤い髪が、風にそよいだ。


        +


 朝もやが出て、日が昇り始める少し前。

 ようやく動けるようになったので、俺は山を下りてきた。結構高い、人気のないところに来ていたため、下山には手間取ったが気にしない。駅までは、多分二時間も歩けば着くだろう。今の俺の身体状況では、その程度が限界だ。風邪をひかなかった奇跡に祝福。


「とりあえず少し休憩……下山で疲れた」


 下山などと気取ってはみたものの、マウンテンではなくヒルと言った方が正しいような山くだりだった。

 ちょっと休んだらまた歩こう。歩みが零じゃないんだから、多分いつかは着く。

 ポジティヴに考えて、ネガティヴの塊である溜め息を吐き出す。全身筋肉痛でつらいが、気持ちが折れなければ多分歩くことは出来る。こんなことがあると、確かに携帯電話というのは便利かもしれないなあ、と考えざるを得ない。タクシー呼んでさっさと帰りたい。だが、今のこの泥だらけ血だらけ傷だらけで服もボロボロ状態の人間を、乗せてくれるタクシーはないかもしれない。乗車拒否の嵐かもしれない。

 ……意味のないこと考えても仕方ない。早く歩こう。

 ギシギシと音を立てる膝に手をつき体を持ち上げ、俺は駅へと再度、歩き出す。




 そういえば、姫はちゃんと帰れたのだろうか。一度乗り方は教えたし大丈夫だとは思うのだが。方向音痴を発揮して、隣の県に行ってしまっただとか、そういうことがないといいのだが。

 まだ早朝のため、門の閉じたままの『ヘブンスアイランド』を見て思う。つい昨日、十三時間くらい前までは、楽しい時間を送れていたはずなのに。どうしてあそこで、吸血鬼の病が発生しなくてはならないのか。久々に、吸血鬼としての出自を哀しく思う。それでも歩かなくては家には帰れないので、痛みを我慢して体を酷使する。

 足が棒になる、というよりはとっくの昔に棒になって折れてそれを乱雑に繋げただけ、というくらいにはボロボロの体を引きずってきた、だがそこで力尽きる。また、しばらく休憩を入れなくては歩けそうにない。荒い息遣いを整えて、俺はヘブンスアイランドの入場門にあるアーチに背をもたせかけ、ずずず、と地面に座り込んだ。

 と、どこからか軽快な足音。早朝にトレーニングしているマラソンランナーでもいたのだろうか、と思いつつ、俺は薄く目を開ける。だがそこには、見慣れた影があった。長い髪を風にあそばせ、こちらに気づくと駆け寄ってくる。


「ひととせ……探したぞ!」


 駆け寄ってきて、そして俺の方に向かってきて倒れ込む。足がもつれたのだろう。息も荒く、冬の朝の冷たい空気の中に、白い吐息を吹き込んでいる。

 なぜ、こんなに、ずっと走り続けてたような様子なのか。


「おまえ、なにやってたんだ」

「一晩中探した。山の、方に行くって、言ってたからよ」


 ぜーはーと荒い息を徐々に整えながら、姫は俺に笑いかける。本当に一睡もせずに、姫は俺のことを探し回ってくれたのだろう。その目の下には薄くクマがあり、体は汗だくだ。


「……なんでそこまで」


 心底驚いて問うと、姫は素早く答えを返してきた。


「一番早く、会える方法だと思ったから」


 そう、さも当然のように言う姫に返す言葉が見つからず、俺はしどろもどろになる。そんな俺を気にした風でもなく、姫は俺の体の上に倒れ込む。子猫が乗っかってきたくらいの軽い感触。俺の腹の上に、頭を乗せて。


「お、おい」

「さすがに、疲れちまった。あと、なんか、安心しちまって」

「俺は大丈夫だよ。姫、大丈夫なのか?」


 問いかけに、平気だぞ、と目を閉じて返してくる。風が吹き、姫の前髪がそよいだ。


「あたしは、自分がしたいようにしただけだからよ。でもそれがきっと、ひととせにしてあげられることになるんじゃねーかな、って思ったんだ。自己満足かもしれねぇけど、一方的なのかもしんないけど。感謝でも礼でもなく、そう思えたんだよ」


 それはいろんな意味に通じる。だが俺は、いまは言葉通りにそれを受け止めることにした。


「そっか」

「ん」


 風がそよぐ。痛みが少しずつ、流れて消えてゆく。早朝のごく短い、平穏で静かな時間。始発に乗って帰ることは、ちょっとばかり無理そうだが。このままここでしばらく休むのも、悪くはない。そう思った途端、緊張の糸が切れたらしく体がぐっと重くなる。やっぱ、ダメか。暗示をかけて体を酷使した上、永夜のダメージも抜け切らない。魔力が足りていない。

 でも不思議と、そこまで血がほしいとは思わない。願わくば、この平穏な時間がもう少し続いてほしいと、そればかりを強く願う。


「もう少し休んだら、帰ろう。姫」


 姫の顔を覗き見る。眠ってしまったかのように、穏やかな顔をしていた。


「……ん。また、ここじゃなくてもいーから、どっか行こうな」


 姫が目を閉じたままわずかに口を動かして、そう呟く。口角が少しだけ上がった。


「そうだな」


 俺もつられて笑い、空を仰ぐ。と、地面に投げ出したままだった手が、強くもなく弱くもない力で握られる。俺も軽く握り返し、その温かみを感じる。ずっと走り回ってくれていたからか、姫の柔らかな手は熱いと言ってもいいくらいに熱を持っていた。


「ありがとな」

「何がだよ?」

「ずっと、探してくれて」

「だからあたしがやりたかったから、やっただけだっての」


 照れたように顔を背ける姫。けれども、俺がそのことを嬉しく思うことは止められない。やはり、これも俺がやりたくてやっていることなのだろうから。


「ずいぶん遅れたけど、メリークリスマス」

「ん。メリークリスマス」


 日が昇る中。俺と姫は寄り添うまま。

 握られた手だけが、暖かだった。


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