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二十頁目 聖しこの前夜雪が降り。(聖夜前日)

めりくり

 十二月も半分以上が過ぎ、残すところ一週間で今年も終わろうとしていた。


「え? 期末テスト? なにそれ? あの騒ぎの後で勉強出来るとでも?」


 と俺は周りに主張したが、殴られた。川澄さんと白藤の一撃が一番こたえた。辛い。要はいつも通り上位確保、辻堂もそこそこ維持を果たしたというのに。俺は結局いくつかの教科に足を引っ張られたままウインターバケーションに入ることと相成あいなった。

 要と辻堂はあの一件が終わってから宿に呼び、俺が吸血鬼であること、この世には様々な不思議が遍在していること、を話した。もちろん、俺が吸血鬼であるために手練の使い手が送り込まれてくることも。あのテオドールも、その一人だったと。だが二人はあっさりとそれを受け止め、「だからと言っておまえの何が変わるでもない」と笑った。嬉しいことだ。

 しかし気がかりなのは、テオドールがあのあとどのようにしてかは知らないが、統合協会の監視をくぐりぬけて脱走したということだ。統合協会関係者にツテがあるぱとりしあ、川澄さんから聞くところ、監視員が急に魔術を使えなくなり、その隙をつかれたとのことだったが……。真相は闇の中だった。



 さて、そんな中宿屋は順調な営業中で全員フル稼働していた。さすがにこの時期くらいは稼いでこないと、深刻な飢えに悩みながらの正月となる。

 だが今日も温泉利用客、宿泊客合わせて十数人来ており、財政難の心配はなさそうだった。労働基準法に明らかに違反していそうな人間が四人ほど働いているが、そこは「お手伝い中です」の一言で毎度済ませている。便宜上しかたなく、川澄さんが経営者で祖父、ということにして。


「実際、食事と寝床とある程度の衣服は全員で買ってるようなものだし。この宿でちゃんと給料らしきものを貰ってる人間って、誰もいないんだよな。となると、お手伝い中というのもあながち嘘じゃない」


 大人であり色々買いそうな川澄さんでさえ「私は先々代の主人に拾われた身、ここを守りここで死ぬためにここに居るのだ。だから特に金は要無い」と言われ、まったく賃金を受け取ってくれない。五十路いそじになったばかりだというが、その年代はもう金を要しない人生なのだろうか。

 そして他の一同も正直言って小遣い程度しか金は渡しておらず、買うのも小さな趣味のものだけのようだ。姫で言えば本、葛葉なら調理道具、ぱとりしあは玩具、柊は仕送りだとか。白藤は外に出られないがたまに服を買いたいというので、大抵俺が買いに行かされる。恐らくはいじめだろうと踏んでいる。前回は下着まで買いに行かされて、泣きそうになりながら要に同行を頼んだら、なにか勘違いされたらしく凄まじい勢いでひかれた。


「さて、お茶でもれるか」


 大分思考が横道逸れたが、まあともかく大変だった。さっきまで。

 つい先ほど宿泊していた最後の客が表玄関から外に出て行き、白藤の能力〝流転漂流〟が発動した。ふっと景色が歪み、徐々に色が消え、空間を転移してどこだかまたさっぱりわからないところに行き着いた。山の頂上なのか、見晴らしはいいがどこか未開の匂いがする。……わりと近くに大きな黒い熊の背中が見えた気がするのは気のせいか。

 何はともあれ、さっきの客が置いていったのは金銭ではなく米俵や山菜など、食料が大半。この年末の時期にはありがたいことだった。ちなみに客とは昔この宿に枯れない井戸を作ってくれた風雨を司る龍であり、前回のその超過料金分俺たちは精一杯もてなした。だが最後にはどん、と大量の食料で払われて、また貸しとなっている。豪儀なお客さんだ。

 その食料の山から、玉露の茶を見つける。よく出来たまんじゅうもその横に据えてあり、つくづくニクイ演出をするお客さんだ、と思う。神格の精霊などという偉い方であるからこそ、こういう細かい気配りが出来るところが素晴らしい、と俺は思う。


「さて、じゃあお茶にするか……おい柊、おまえなぜ勝手に、先に、まんじゅうを食べてる?」

「疲れたからですな。僕もさすがにここ数日の目が回るような仕事量に圧倒され、ロクに寝ていないのです。だからお疲れです。ならば糖分摂取は肝要のこと、違うのですか?」


 ぐでー、と厨房のテーブルに突っ伏す柊。テーブルの横にある俺の食料の山から、無造作にまんじゅうを掴んできては食べている。――いつも通りの栗色の髪、短く細いツインテールにして肩に流されているそれはツヤも変わらず、執事服もぴしっと整ってはいる。目の下にクマがあるわけでもなく、細い瞳は面倒だから開いていないだけのようだ。


「何時に寝てたんだ?」

「十一時です。普段は九時に寝るというのに、オーバーワークもいいとこなのです」


 ちなみに俺の就寝時刻は午前四時だった。寝ない日もあった。まあ年齢を考えると仕方ないのかもしれないが……どうにも許せない気持ちがふつふつと沸き上がる。落ち着け俺。


「ふわーあ、仕事明けは疲れがどっと押し寄せんなぁ」


 うーんと大きく伸びをしながら厨房に入ってくる姫。疲れたからかポニーテールを解いて、長い赤髪を腰まで垂らしている。疲れた様子でやはり柊の横にぽてーと倒れ込み、大きく一息ついた。


「おつかれさん。お茶淹れたから飲むか?」

「うー。本来ならダンナに頼むことじゃねーけど、お願いする……」


 ことりと置かれた専用の湯飲みを両手で抱え、ちびちびと舐めるように玉露のお茶を飲む姫。他のメンバーもお疲れだろうな、と思い、厨房から顔を出すと。中庭に面した縁側で白藤が寝転んだままキセルを吸っていた。横には川澄さんも立ち、無心に煙草を吸っている。見れば、燃えつきかけた吸殻の火で次の一本に火を点けている。恐るべきチェインスモーカー。


「お茶用意したから飲んだらどうだ? 白藤も川澄さんも」


 近づいて問いかけると、白藤は俺の顔に煙をふーっと吹きかけた。咳き込むと、川澄さんからの第二波。なんだ、なんだ。


「主人は呼吸と水分どちらが大事だと思うのだ?」

「いやそれはもちろん呼吸でしょ」

「喫煙者にとって煙は呼吸じゃ。それが、ここ最近仕事仕事でまったく吸えなかったのじゃぞ?! わしらに死ねと申すか! 酸素と書いてわしらはニコチンと読むんじゃ! ……すーっ」


 いらいらしてるのか激昂げっこうし、またキセルを吸う。お疲れの、ご様子。


「……あーうまい。これがなければわしゃすぐに死ぬのぅ。おまえも吸うか、主人」


 こちらに差し出されるキセルの吸い口。気管支が強いわけでもないので遠慮すると、白藤は口をとがらせる。


「なんじゃ、わしの吸ったキセルじゃ吸えんのか。おい源一郎、おまえのシガレットを渡してやれ。間接的でも接吻を拒まれて、わしは立腹じゃ。もう口を利く暇も惜しんで煙を吸う。もう決めた」


 川澄さんは特に意思のない様子でショートピースの箱をこちらに差し出す、が俺は遠慮した。すると俺に差し出していた一本にも火をつけ、同時に二本吸い始める。……なんの意味があるのかはまったくもって不明だ。こればかりは喫煙者の方に聞かないと。

 俺としては、未成年の喫煙は体を壊すだけなのでいただけないと思います。


「まあいいや。お茶もまんじゅうもあるから、気が向いたら厨房に」

「ニコチンが頭に回るまでは私は動かんがな」


 煙のせいで黄ばんだのかそれとも最初からべっこう色なのか、ちょっと色のついた四角い眼鏡のレンズごしにこちらを睨み、川澄さんはそう口にする。喫煙者の意思って固い。もうちょっと柔軟な思考を持ってほしい。




 さて、ぱとりしあは年賀はがきを買いに出かけ、葛葉は表玄関の落ち葉を集めてそれを燃し、焼き芋を作っている。

 久々に来た手持ち無沙汰な暇状態。だが体が限界を超えたらしく、眠りに移行することも出来そうに無い。――暇だ。やばい、眠気とかを越えて体が言うこと利かなくなってきてる。胸のうちがむかむかする。さすがに働きすぎたか。


「だいじょーぶかぁ、ダンナ」


 横合いの部屋から出てきた姫が、眼鏡を外しながら俺を見る。おそらくは、顔色の悪い今にも倒れそうな男がその金色の瞳には映されている。姫も出来る限り隠そうとしていたが、疲労の様子は簡単に見てとれる。互い、それだけ働かなくてはならない状態だったのだ。


「いや、めまいが」


 ちょっとふらっとして前方に倒れ込む。その先は窓。ここは二階。おや、なんか、吸い込まれるような、


「おわああっ!」

「ひゃ」


 中庭に向けてズームする視界、そこから逃れるために必死で空を掻き、近くに居た姫にしがみつく。姫の両肩をがしっと掴んで踏ん張ることで、なんとか俺は二階からの落下を止めることに成功した。我ながら危機一髪で生還…………いや、踏ん張ったものの結局今、俺は姫にかなり接近した状態であって、両手は肩を抱いたりしてるわけだが。何もなかったかのように振舞えば、それも大丈夫だろう、うん。


「あ、その、ごめん」


 頭を下げて飛びのくと、姫はあさっての方向を向きながらぼそぼそと呟く。


「いや、いーんだけどよ。それより、やっぱ働きすぎだろ。今日はゆっくり休んだ方がいいんじゃねえのか」


 なるほど、それもそうだ。幸いにもまだ今は朝の十時。客もいないことだし、これからしばらく眠るのも悪くは無い。


「なら姫もそうした方がいいだろう。眼鏡かけてたってことは、また本読んでたんじゃないのか」

「あたしはダンナよりは働くのにも慣れてるからいーんだよ。体動かさないんだから、休んでんのとほぼ同じだしよ」

「ま、少なくとも俺みたいに倒れそうにもなってないようだしね。ならいいか……じゃ、しばらく横になるよ」

「ん。ゆっくり休め」


 眠ることは出来ないだろうな、と思いつつ布団に転がる。冬の布団の冷たい質感が、働きすぎて火照ほてった体にはちょうどよかった。そのまま、しばらく横になってるだけのつもりだったのだが、気が付くと眠りに落ち、深い闇の向こう側に意識は放り込まれた。


        +


 どれくらい眠っていたのか知らないが、目が覚めて一番最初に見たのは曇天の灰色雲から舞い落ちる雪だった。廊下に面したふすまを開けたまま寝ていたため、上下反転した景色を眺めながらの起床となる。どれくらい眠っていたのかと思い柱時計を見上げるが、時刻はまだ一時、三時間弱しか寝ていなかった。だが疲れはその短時間の間に大体取れ、頭の中もわりとすっきりしている。……吸血鬼としての逃亡生活の中で身に付けた、短時間での体力回復だろう。実際、戦いの技術よりも生き延びるに必要なのは、体力の配分とその保たせ方だ。

 逃げ延びるというのは精神的にも肉体的にも追い詰められる。思考しなくて済む睡眠という時間が、心身双方に安定をもたらすのだ。だが多くの時間をそれに割くことは出来ない、となればどれだけ効率的に睡眠による回復を図れるかが、生存確率に大きく関わってくる……まあつまり、今の俺は無意識にそんな睡眠方法をとってしまうほどに、疲れていたということだろう。

 下の階に降りていくと、葛葉が作り置きしておいてくれたのか、昼ごはんらしきお茶漬けがあった。味に手抜きはないが、やはり葛葉も相当疲れていたと見える。普段なら常に凝った食事を出してくるのが、この宿の調理担当者だった。だが、それでも梅を入れてクエン酸などで疲れがとれるよう配慮してあるところが嬉しい。

 それを食べてある程度腹も満たされると、することが無くなった。しんと静まり返った宿の中を察するに、全員眠っているに違いない。


「暇だな……」

「なら寝ていればよいではありませんか」

「え、葛葉?」


 背後から突然話しかけられ、つんのめる俺。見れば、キッチンの端にある毛布(黒猫スミスの寝具)にスミスともどもくるまっていた葛葉がすっくと立ち上がっていた。だがまだ寝ぼけた様子で、スミスもあくびをかましている。


「それともダンナ様も姫のように動いていないと落ち着かない、という人ですか」


 葛葉がぼそぼそとそう言うものの、宿の中には姫の居る様子は無い。ということは。


「出かけたのか?」

「駅前に。小さいですがデパートもありますしね、買い物に行ったのですからあそこ以外はないでしょう」

「買い物?」


 買う必要のあるものなどそう無い。食料は揃っているし備品で買い足すべきものもない。一体、何を買いに出かけたのか。


「……ダンナ様、わたしたちの宿屋には、ぱとりしあ以外宗教の信奉者はいないんですよ」

「でも術を使ってるじゃないか、川澄さんとか、姫とか」

「川澄様や姫は術としては陰陽道、神道を用いますが、代償としての奉納などはあれど信仰しているとはいえません」

「ふうん……で、だからなんなんだ……って、ああ」


 さっきから尋ねてばかりだ。だが、厨房の窓から見えた白い雪の存在で、ようやく今の時期を思い出す。


「ようやく納得いただけましたか。そうです、今日はクリスマスイヴですよ。だからケーキを買いに行ってもらったんです」

「日本はそういうとこ、宗教に寛容でらくだね」

「本当に。ただ、姫は少々方向音痴のきらいがありますので。若干心配ではありますね」

「ならやることもないし、姫を迎えに行くよ」

「左様で。でしたら、お願いできますか? わたしはまだ少し、眠り足りないものでして。では失礼いたします」

「ゆっくりしてきな」


 去り行く後姿にそう呼びかけたが、どこまで聞こえているのやら。町に出るなら、と俺は服をジーンズと黒いシャツ、深緑のジャケットに着替え、その上からさらに灰色のハーフコートをまとうと傘を差して外に出た。

 外は無音のようで、ある種の音に包まれている。雪の降り積もる音。楽しそうな笑い声。様々な音を内包していた。


「さむ」


 えりを立てて雪が服の中に入らないようにして、俺は静かな町の中を一人、歩き始めた。




 雪のためかいつもよりはスローペースで歩くうち、駅に着いた。雪は量も少なくゆっくりと降り続いており、駅名の書いてある看板も少し雪で隠れていた。俺はその看板に粉砂糖のように降りかかっている雪を手で払い、「八尾町やおちょう」という地名が見えるようにした。そして、その下にある周辺見取り図でデパートの位置を探す。赤い点で示されている現在地から、デパートまでの距離はそう遠くは無い。


「迷うとは思えないけどな」


 実際、ここまで来るのにかかった時間は雪のため足が遅いと言っても三十分かからない。

 と、視界の端に公園が見えた。緑化を推進しているとの話を聞く公園だが、すっかり冬景色で緑は見えない。その中に、銀色の無機質な鈍い光を放つベンチが見えた。葵さんたちが襲撃してきた時に俺が逃げてきて、時計に会い、姫が迎えに来てくれた場所でもある。


「そういえば、あのときも随分経ってから姫が来たような……」


 方向音痴は嘘ではなさそうだ。探すのは困難になるかもしれない。


「しけたツラしてどうしたのだ、有和良」

「人探しの最中だ」


 振り向くことなく答えると、辻堂がぎょっとした様子で正面に回りこむ。相変わらず派手な、オレンジ色のローブみたいなコートを着ており、頭には茶色のハンチング。井戸の底のように死んだ目で、大きなフレームの丸メガネの奥からこちらを見ていた。

 手には厚い手袋をつけているが、先日の怪我はだいぶ癒えてきているらしい。ただ寒さにあてられるとひりひりするため、手袋をはずしても軟膏を塗りたくった包帯を巻いている。ちなみにこの軟膏、うちの川澄さんがくれたもので、妙によく効く。

 鼻の頭をあかくしている辻堂は、俺を見下ろしながらくつくつと笑った。


「誰をお探し中なのだね? この謎探偵辻堂が探して進ぜよう」

「謎探偵ってなんだよ、迷探偵とかじゃないのか」

「舐めてくれるなよ。私は対象が女性(十五歳以下限定)の時に限ってはヘビのピット器官並みの正確さで探し当てることができるのだよ!」

「分かりづらいんだよヘビのピット器官とか。なんで熱源探知能力なんだよ」

「触れあってみるとわかるが、子供って体温高いからな」

「え、マジでこいつ気持ち悪いんだけど。おまえこそ発情期で体温上がってるんじゃないの」


 誰が盛りのついたバター犬だ、と街中で発言するに相応しくないことを叫び始める。幸い、この天候のためかあまり人がいないのが救いだった。

 ……本当に、心底こいつの横に居たくない。どうせ、イヴの日なのに女の子と過ごせない、寂しいーとかいう理由でここをぶらついてたに決まってるからだ。


「大体、人間はどいつも年中発情期だ! 私が特別変なわけじゃないのだ!」

「まだ引きずってたのかその話題。わかったわかった、おまえは変じゃない」

「ぬぅ……なんだか釈然としないのだがね。で、誰か探してたのだろう? 一応手伝おう、どうせ待ち合わせ時刻まで暇な身だ」


 待て。今おまえなんつった。


「おまえが待ち合わせ? いや、そんな嘘はつかなくていいから。片腹痛い」

「片腹痛いとはなんだね。仕事が忙しいからと言って時計の誘いを断ったのはおまえさんだろう、それで奴も私も暇だったから会うことにしただけなのだ」


 そういえば、要に今日の日付で会えないかと誘われたこともあった。結局、仕事がいつ片付くかちょっとわからなかったから断っておいたのだが。それで辻堂に会うことにするというのも、退廃的なプランだとは思う。


「あっそ。まあでも片腹痛い、っていうのに間違いはないな。語源は『かたわらに居て〝こいつは痛い〟と思うこと』で表記が変わっただけらしいから」

「ほう、横に居て私は痛々しい人間だと言うのだね」


 いやそこまで露骨には、とうそぶいて、怒れる辻堂の右ストレートをかわす。


「とりあえず、要にはよろしく言っておいてくれ。初詣はつもうでの時にでも会おう、って」

「ないことないこと吹き込んでおいてやろう。覚えていろ、有和良」


 バカなやり取りを終わらせて、俺はデパートの方向に歩いていった。


        +


「――やれやれ、気づけないからとて、ああいう態度をとり続けてしまうとは酷な奴め」


 有和良の後姿を見送ってから数分、辻堂が頭のハンチングに載った雪を払っている時に、ようやく要は到着した。バスから降りてきたその姿は、白いコートに蒼のマフラー、銀髪が風に舞いさながら雪の精を思わせる恰好だった。


「遅かったな。まあ、クラス会など遅れようが構わないがね」

「ごめんね、辻堂君。本読んでたら、遅刻、しちゃって」

「……せめてそこは服選びに手間取ったと言う方が良いのではないかね?」

「あう、また、それ言われた」


 なんのことだ、と呟く辻堂に、首を振って苦笑、なんでもないと答える要。そのまま、駅の構内に入ってゆく。


「さっき有和良に会ったよ」

「え? お仕事、終わったの?」


 頭に載った雪をぱんぱんと辻堂に払われ、目を細めつつ尋ねる。辻堂はどこか遠くを見据えながらそれに答えた。


「でなきゃ休めないだろう。仮にも宿屋の主人、だそうだからな」

「そっか」

「なぜ嬉しそうなのだね?」


 微笑んでいる要を不思議に思い、長身を屈み込ませて横の要の顔を覗き込む辻堂。要はそれでも笑顔を崩さず、切符を買ってすたすたと進む。辻堂もそれに続き、ふらふらとした所作で切符を買った。そして改札を通り、プラットホームに並んで立つ。やがて、構内に列車の接近を知らせる音が響き、重厚な車体を載せた車輪が近づく音。乗り込む時になってようやく、要は辻堂の質問に答えた。


「ようやく、有和良君も、休めるだろう、から」

「なるほどな。あ、そうだ。初詣は一緒に行こう、と言っていたのをすっかり忘れていた」

「それ、本当!」

「ん、ああ」


 元気良く返事をした要に少々面食らった辻堂。要の笑顔が、さらに倍の威力を持った。列車は二人を隣町へと運ぶ。

 乗り合わせたクラスメイトとしゃべりながら、要は少しだけ上の空だった。


        +


 宿の二階には、もうもうと煙が立ち込めていた。


「……けふっ。ごほっ、ちょっと川澄さん、白藤さん。もう少し未成年の体のことを考えて欲しいのです、と思うのはいささか自分勝手と認識されるのですか? だとしたらこちらも老体はもう若者に人生を譲れ、程度のことは言わせてもらうのです!」


 自室のふすまを開け、廊下に首を出して隣部屋に向かって怒鳴る柊。返事は無い。

 だが突然、ふすまが少しだけ開く。そしてそこからさらに煙が、ふーっと吐き出された。


「ッたく老害め……いい加減にするのですっ! 僕の部屋まで煙の臭いが立ち込めているのですよ!」


 少しだけ開いたふすまに手をかけ、強引に開く柊。川澄の部屋の中はぼやーと霞がかったように煙で満たされ、その中央できらりと光る川澄の四角い眼鏡、白藤の片眼鏡モノクル。二人はしぶしぶ火を消し、最後の煙を大きく吸い込んだ。刻み煙草の小粋も、缶ピースも、灰と化して尽きかけていた。


「縁側に居るのは、少々寒くなってきたのでな。部屋に移動して吸うことにしたのだが。いかんかったかね?」

「老人に居場所を与えんとは哀しい社会じゃ」

規則ルールを守ってこその居場所なのですがそこのところどう履き違えなのです?」


 ぴきぴきとこめかみに力が入る柊。ぱとりしあもそこにやってくる。


「なぁに? さっき柊君が大声で怒鳴ってたの」

「この部屋から漂ってくる煙の量が半端でないのですな、ぱとりしあさん。なんとか言っていただけないのですか」


 そう言うと、ぱとりしあは一瞬うんー? と考え込んで小首を傾げる。そして、一言。


「別に。そう大したことないんじゃないのかな?」


 味方を失って頬を引きつらせる柊の肩に手を置き、川澄が呟く。


「ぱとりしあは囲碁の相手を探しに、町の雑居ビルにある碁会所に頻繁に出入りしていたのだそうでな。残念だが煙草の臭いには慣れておる、同じ考えを持つことはまずないだろうよ」

「今からは少しは押さえることにするからのぅ、我慢するのじゃ少年」


 年配者だけでなく同年代にも味方を見つけられず、柊は一階にとぼとぼと下りていった。


「……加齢臭と煙草のにおいが、不快なのです」


 最後にただ一言を言い残され、年配者二人組は鼻で笑った。喫煙者の勝利だった。ぱとりしあも横であははと笑っている。

 と、静かな摩擦音とともに、すーっと開くもう一つのふすま。そこから出てきたのは、黒猫スミスを肩に乗せた、葛葉。


「……うるさいですね、皆さん。わたしもスミスも、寝られないじゃないですか。元気なようでしたら残っているお仕事を頼んでもよろしいですか?」


 外の寒さが部屋まで沁み渡ってきたようだった。


        +


 デパートのどこを探しても姫の姿は見つからなかった。地下階から屋上遊園地まで全ての箇所を見て回ったのだが、さっぱり見つからない。一応、服は着替えて出かけたとのことだからあの目立つ着物姿ではないだろうが、それでも赤い髪はなかなか見ないもののはずだ。はあ、まったくどこに行ったのやら……。

 仕方なくデパートを出ると、自動ドアが開け放たれた瞬間に寒風が暖気を吹き飛ばす。まったく。寒くてつらい。

 歩き出して数分、気が付くと住宅街に入っていた。もうこれは見つからないなと観念して、ぐるりと町を回って帰ることにする。小高い斜面に沿って立ち並ぶ住宅地は、どの屋根も薄く雪に覆われて淡く光を反射していた。どの家からも楽しげな雰囲気が伝わってくる。子供達が外に出て雪球をぶつけあっているのも見える。宗教がごたまぜになっても楽しめるということは、それだけ平和で幸せなことだと、俺は思った。

 どの宗教でも吸血鬼は嫌われ者だろうが、信仰心の薄い人が多い国ならそれもまた詮無せんなきことだ。


「……それでも、俺には追っ手があるわけだが。今日くらいは、考えないでおくか」


 ざし、と雪を踏みしめて、再度歩き出す。手に持った袋も持ち直した。そして歩き出してすぐ、方向を宿の方に向けるために角を左折する。と、そこには。

 見慣れた赤い髪。本来は腰まで届くそれを折りたたんで毛先を天に向け、大きな琥珀色のブローチで留めている。髪の下にある小さな顔、それを形作る白い柔肌の中で目立つ、大きな金色の瞳。

 普段の黒いマフラーとは対照的に、大きな白いマフラーで首と肩を覆っている。その下には、淡い桃色のワンピース。厚手のものだろうが、レースなどがところどころに付けられているためかどことなく軽い印象。袖の先は折り返し織られて少し回りの部位より大きくなり、白い手袋をはめた手先の小ささが強調される。

 細い足を包むはオーバーニーソックス。ワンピースのすそがある膝上と、明るい茶色のブーツの間にわずか、見えている。かかとが少しだけ高いせいか普段よりはちょっとだけ身長が高く見えているかもしれない。と、空を仰いでいた金色の瞳が少し揺らいでこちらを向き――俺の役職名を、呼んだ。


「ダンナ、何やってんだこんなとこで」


 紡ぎだされた清涼な鈴の音を思わせる声。相手が誰かはわかっているが、反応に遅れる。近づいていって、俺は姫の頭に載った雪を払った。そして黒い大きな傘の下に入れてやる。


「……いや、帰ってくるのが遅いから探してた。デパートにいたんじゃないのか」

「うん? そうだぞ。でも知ってるケーキ屋の方がいいかなって思ってよ、結局そっちに行くことにしたんさ。けど一、二本道を間違えちまったみたい。気が付いたら住宅地のど真ん中で漂流、……おい、笑うとこじゃないぞ」


 むっとした顔でこちらを見上げる。見慣れた行動、表情ではあるのだが。服装が違うだけで、人間変わるものだ。


「ごめんごめん。じゃあケーキ屋、だっけ。デパートまで戻れば道もわかるだろ?」

「多分。……だから笑うなっての!」

「はいはい」


 俺は姫をうながして、今来た道を戻る。横を歩く姫はしばらくぶつぶつと方向音痴扱いされたことを怒っていたが、やがて黙り込んだ。方向音痴は事実だということを、ようやく認めてくれたのだろうか。いや、それはなさそうだ。目線が「こっちの方が近いだろ」と見当外れの道を見ている。苦笑してしまって、また膨れつらを見せられることになった。

 こうして歩く道すがら、ちょくちょく横の顔を見やる。


「一瞬、誰だかわからなかった」

「え?」


 無言でいるのもなんなので、話を切り出す。だが唐突に話しかけたからか、姫は聞き返してきた。


「姫のこと。服装も髪型も普段と違いすぎて、頭の中で結びつかなかった」

「そりゃそうだ。基本的にあたし、こういう洋装はしねーもんな。おとなしすぎて、似合ってねーだろ?」

「そうでもない、似合ってるよ」


 またそんな、と手をぱたぱた振る姫。

 たしかに普段とギャップはある。でもそれが似合っていないということに繋がるとは、思えない。雪をバックに、一枚絵のように出来すぎた様子。話しかけることがためらわれた一瞬では、あったかもしれない。本人は随分と否定するが。


「きれいだと思ったけど」

「あん?」

「なんでもない」


 デパートに着くと、裏手の搬入口の方に一本入る。そこの通りの、ごく普通の民家。青白い看板が〝洋菓子専門店 ROOmoon〟と茶色い文字を描かれて浮かび上がっている。中は手狭で品揃えも多くはないが、ショーウインドーに飾られて買われることを待つケーキというのはどれも、おいしそうに見える。暖かな室内には、甘い匂いが満ちていた。


「イチゴのショートケーキ、一つ」


 姫は丸ごと一つを頼み、箱に入れてもらって受け取る。だがお金を出そうとしたもののどこにしまったのか財布が出てこず、慌てふためく。後ろがつかえていたので、俺が財布を差し出して支払い、事なきを得た。姫はケーキの入った箱を紙袋に入れて両手で持ち、申し訳なさそうに俺の後ろから出てくる。


「ごめんダンナ。財布忘れた」

「仕方ないさ、みんな仕事明けで疲れてたみたいだし」

「ダンナはなぜか元気そうだな」

「姫よりは休息のとり方、慣れてるからね」


 なんだよそれ、などと笑いあいながらデパートの前に出る。すると夕方になって駅から出てくる人々が多くなったのか、駅前は人が多くなっていた。小柄な姫はいくら髪の色で目立つとはいえ、人垣の向こうに行くとさっぱり見えなくなる。俺は周りに押されてはぐれる前に、手袋に包まれた小さな手を掴んだ。


「な、なんだよ。突然」

「はぐれたらまた探さなきゃいけないだろう」

「そうそう何度も迷子になるかっての」


 とは言われても可能性があると心配にはなる。俺は手を引いて人だかりの中を歩き、バスターミナルを過ぎてようやく人の流れから解放された。降雪はまだ続いていて、傘に溜まったそれを一度、振って落とす。

 そのとき、傘と一緒に持っていた荷物を姫が見つける。


「なんだ、それ」

「家帰ってからな」


 そう言って、また歩き出す。だが姫は立ち止まったまま。振り返って、下を見て、ようやく俺は手を握りっぱなしだったことに気づく。慌てて俺は指を離したが、顔を上げると姫は既に不服そうな顔をしていた。


「寒い。早く帰ろ」

「ん、ああ」


 曖昧に答えて歩き出してから、俺はもう一つの事実に気づく。

 傘があまり大きくない。だから、結局は寄り添うような形になって、手を離したかそうでないかなど小さな問題だということに。俺は恐る恐る横の姫を見たが、身長差が災いして顔の様子がわからない。緊張したまま、帰路につくこととなった。


        +


 厨房で完全回復した葛葉のふるまう料理に舌鼓を打ち、姫の買ったケーキを食べ。ケーキも存外に美味い、と感嘆すると部屋に戻る一同。俺は一人、厨房に残って少し葛葉に渡す物があったのだが、姫は気にせず自室に戻っていった。

 あとを追いかけるようにふすまを叩くと、姫は適当に返事をする。


「ふぁい、どーぞ」

「どうも」

「なんかよう?」

「あのさ、これ」


 部屋に入っていき、こたつに座り込みながら手に持っていたピンク色の包みを姫の方に差し出す。一瞬首をかしげ、頭の中でクリスマスとプレゼントという単語が結びつくまでに、少々の時間を要した。やがて気付いたのか、渡されたそれにおずおずと手を伸ばし、受け取る。


「あ、ありがと……でもあたし、なんも用意してないぞ」

「別に見返りが欲しくてしたことじゃないし、気にしなくていいよ。ま、開けてみて」


 笑ってみせる。つられたように、姫も口角をあげた。視線を落とし、それなりの厚さと大きさを持つ包みを抱える。厚みがある品ということでなんとなく包装の中身に思い当ったのか、急いで開封する。あんまり急いだので、紙のふちで少し手を切った。


「あ!」


 中から出てきたのは、一冊の本。今月の頭に発売していたのだが、仕事の忙しさからまだ手に入れていなかった、姫の好きな連作推理小説の新刊だった。よほどうれしかったのか、ぱらぱらとページをめくりはじめ、気になる続きに目を通そうとして――あわてて閉じると、俺に笑顔をみせた。


「わざわざ、調べといてくれたのか? あたしの好きな本」


 笑顔になっていく自分の表情に、俺は戸惑いを覚えた。いや、渡されてうれしいのは姫のはずで、俺まで笑えてしまうのはなんだろうね。


「よく読んでたから調べるまでもなかったよ。喜んでるみたいでよかった」

「でも、本当に嬉しいぞ。すっごく読みたかったんだけど、お金が足りなくってよ」


 それを聞いて給料少ないかな、と真剣に考え込む。いやそうじゃない、と否定の言葉があったので、すこぶる安心した。今回のお客様も、現金での支払いはなかったからなあ。

 加えて言うなら、プレゼント買ったせいで俺はすっからかんだったりする。


「いや、ぱとりしあにチェス盤渡したら『もっと良いのあるよ』とか言われて。葛葉に万能包丁あげたら『ちょっと前に買いました』と返され。他のみんなも大体、何かしら言われてね……純粋に喜んでもらえたのは姫だけだから。こっちも本当に嬉しい」

「なんだ、全員にあげてたのか」

「世話になった人には全員に返す方針だよ」


 そんなことをしていたらあっという間に金はなくなるだろうが、損な性分だなと自分でも思う。今度は姫が苦笑いを浮かべる番で、気恥ずかしくなった俺は目をそらした。

 姫がちょいと、ちいさな掌を伸ばして、頬に触れた。こたつの向こうから身を乗り出してきて、頬杖ついていた俺に、顔を寄せてくる。


「ダンナ」

「ん?」

「ちょっと、目、閉じて」

「なんで」

「いーから」


 強い語調で言われ、仕方なく目を閉じる。呼吸すら、緊張で止まってしまった。

 吐息がかかる。鼻先をくすぐる距離にいるらしい。そして、しばらく間を置いて。

 唇にわずか、小さな感触。


「……っ!」


 だが俺が目を開いた時には、既に姫は元の位置に戻っている。そ知らぬ顔で、しかしわずかに頬を染めて、目線を逸らしていた。


「……姫、今の」

「うん、指」


 唇についた甘い香り。

 舌先でそれをすくうと、知っている、しかし既知の味のどれとも違う風合いが舌を刺激した。それは緋色に染まる、濃厚なバターのような、味。


「血」

「そ。さっき包装の紙で切っちまって、出た」


 わずかに一滴。だがその甘い、魅惑的な香りと味は吸血鬼である俺を忘我させるには必要にして十分。


「……うまいな」

「あたしにゃわかんないけど、ダンナにはそうなのかもな」


 ちらりとこちらを見て、やはり顔を赤くしている。俺は、背筋に汗が流れるのを感じた。自身の中で猛り始めた吸血鬼。その存在を感じて、心中で理性を総動員。吸血鬼側を押さえ込む。

 暴走させるわけにはいかない、いくらなんでも、従業員相手に。こんな小さな子相手に。いや年齢はほぼ同じだけど。いやだめだ。理性の頑張りが鉄壁の城を築いてくれる。


「うー……あー、逆にきついよ。アイスのフタだけ舐めさせられたようなものだよこれ。冗談のつもりかもしれないけどさ」

「冗談のつもりじゃなかったら、いいのか?」


 だが姫の言葉が、それすら崩壊させようとする。

 いま、なんと言ったのか。


「だって前、言っちまったもん。腕から、少しなら、血をあげてもいい、ってよ……」


 止めの一言。最悪の一撃が、こちらを見上げる姫の眼差まなざしと共に、向けられた。姫は座高も低いため、向かい合うと座った状態でも俺相手には上目遣いになってしまう。震える唇と、うるんだ目元と、上下して息遣いを知らせる喉とを、俺の視線がぐるぐる回る。


「あの、な……ほんと、やめてくれよ。そういう、あれはさ……」

「ヤなの?」


 口調ちがくない?

 奥歯を食いしばって抑える。冷や汗と脂汗が混ざり合って背を流れ落ちてゆく。視界に映るのは姫の赤い頬。潤んだ瞳。姫の所作、表情が理性の防御を突破しそうだった。……とりあえずあれだ、ひとつ認めよう。さんざん見た目が小学生だとか言ってきたけど、その幼さを差し引いても魅力的に映る程度には、姫は見目麗しいのだ。

 ああそうだ。吸血鬼であるとかなんとか以前に、まず俺が男だったというのがまずい。それでも耐えろ。ギリギリと音を立てて歯が軋み、限界が来るまで。……あれ、じゃあ限界が訪れた、そのあとは? あれ……限界って、なんだっけ。ひょっとして俺はもう、限界なんてとっくに到達してるんじゃないか。

 だったらもう我慢の必要は――いやだめだなにを考えてる俺。


「だか……ら」


 諦めかけた、その一瞬。

 そこで、姫がぱたりとこたつに突っ伏した。赤いうなじが見えているのが心臓に悪かったが、彼女の身を案じる紳士的精神のほうが、ごくわずかに吸血鬼を上回った。た、たすかった、のか? それともこれは、日本的表現に即して言うところの、据え膳とかいうやつか?

 何が起こったのやらさっぱり理解出来ない。心中では、まだ吸血鬼が暴れている。


「あ、やっぱり」

「ぎゃ!」


 が、その吸血鬼も思わぬ乱入者で吹き飛ぶ。ようやく落ち着いた俺が胸を押さえつつ振り返ると、入り口のところに葛葉が立っていた。


「シャンパンが少ないな、と思っていたんですけど、やっぱり姫がくすねてたんですね」

「え」


 有和良も立ち上がってよく見てみると、姫の横にはシャンパンとグラス。

 ……まさかとは思うけど。これって、酔って無意識の上での、犯行ですか。


「あの子、お酒には弱くてすぐ寝ちゃいますけど。嫌いというわけでも、ないんですよ」

「そういう状態を狙ってくれば、ボクも幸せなのひゃっほ――あうっ」


 ぱとりしあが通りがかりに部屋に入ろうとしたが、葛葉にデコをはたかれて廊下に戻る。溜め息をついて、葛葉は部屋の中に入る。ぐーすかと眠ってしまっている姫を尻目に、シャンパンとグラスを撤去、こたつの横にあるわずかなスペースに布団を準備。姫を転がすと毛布をかぶせ、俺の背を押して部屋を出た。


「これでよし、と」


 一仕事終えた葛葉は息一つ。自室に戻っていこうとした。その背中に、呼びかける。


「……まあ、なんというか葛葉。助かったよ」

「なにがです?」

「色々」


 深くは語れまい。とりあえず感謝の意は伝えられたので、立ち去ろうとする。だが、こちらの首根っこを葛葉が掴んだ。


「ぐえ」

「……なにかあったんですか?」


 むすっとした顔で俺を見据える黒い鋭い瞳が、逃れることを許さずに射抜く。


「何もない、何もないんだってば」

「本当ですか?」

「誓って」


 それでもいぶかしげに見ていたが、やがて諦めたようにうつむく。


「わかりました。ではダンナ様を信じます。でも、姫に何かしたら絶対ダメですよ?」

「し、しないよ……」

「……え。あの、わたしも冗談で釘をさしたのですが。まさか、本当に……?」

「しないよ! してないよ!」


 必死の叫びが余計に怪しいと思わせてしまったか、葛葉は廊下にある窓のへりに腰掛ける。雪はまだ降り続いて、中庭も大半が白く染まっている。池にいる鯉は大丈夫だろうか、などと現実逃避ぎみにふと思った。

 葛葉もふと考え事でもしていたか、天井の方を見つめながら、俺に言葉を投げかけてきた。


「ふと気になりましたが、ダンナ様は一体どういう女の子が好みなんですか?」

「あの、葛葉。まだ、疑って」

「そういうわけではありません。ただ、ちょっと関心があるだけです」

「ええ? ううん……とくには。どういうのが好き、とか、自分で自分の好意を自覚できたことって、ないし」

「そうですか」


 さっきのはどっちかっていうと混じりッ気なしの欲情と食欲だもんな、と口が裂けても言えないことを心中でつぶやく。

 俺の弱った答えに葛葉はあまり関心を示さず、さらに続ける。


「わたしは色々ありますけど」

「え、ほんとに。例えば?」

「陳腐なものです。だから、言いません」


 黒髪のショートカットを掻き分けながらそう呟き、照れたように笑う。俺もそっか、と返す他なく、それ以上何も言えない。

 ただ、雪はしんしんと降り積もっていた。


次回

デート。

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