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二頁目 いや、そういうのじゃないよ。(誤解発生)

 朝、目が覚めて和室の天井を見上げ、妙なほどスムーズに起床した。もう自分の家はここだと認識してしまっているらしい。まだここに住んで二日目だというのに。

 廊下に出ると窓の下に見ゆる庭園の中央にある池で、鯉が一匹ぽちゃんと跳ねるのが見えた。少し離れた階段からは涼しい風に乗って朝食のいい匂いがしてきている。朝、普段より少し早く起きるだけでも、人間というのは一日を得した気分で過ごせるものだ。

 ……俺だけか?


「ま、いいか。とりあえず下行って朝ごはんにしよう」


 寝巻きにしていた甚平じんべいを脱ぎ、制服のシャツ、ブレザーに袖を通す。まだ学校まで時間はあるし、キツく締められた首で朝食を食うこともない。臙脂色のネクタイは少しだけ緩めた。と、再度廊下に出たところで二つ隣の部屋から出てきた姫に遭遇する。

 髪はポニーテールにされておらず、目をこしこしと浴衣の袖でこすっている。白い浴衣は寝てる間に着崩れたのか、肩があらわになっていて朝っぱらからなんか変な気分になった。体型は幼いが、昨日のことを思い出してしまい、今度はこちらが赤面してしまう。うう。


「おはよぉ、ダンナぁ……」


 おまけに寝起きでまだ本調子じゃないためか、声が甘ったるい。コケティッシュなしゃべり方、というやつか。ううむ。


「ああ、姫おはよ」

「……ぁ朝ごはん」


 むにゃむにゃと呟き、障子にもたれて睡眠の続きを始める。だんだん体勢が崩れていき、最後は部屋の畳の上にごろんと寝転がってしまった。どうしたものかと俺が迷っていると、すでに着物に着替え、エプロンも装着した葛葉がとたとた音を立てて階段を上がってきた。


「おはようございます、ダンナ様。すみません、姫は朝にとても弱いんです」

「それって、仕事あるときは相当まずいことじゃないのか?」


 よいしょと姫を抱え上げ、布団に寝かせる。身長に見合うだけの力が、葛葉にはあるらしい。


「お客さんがいれば気が張るのか、しっかりしてるんです。ただ、こうも退屈な日々が続くとだらけきってしまうようでして。お見苦しいところをお見せしました。と、こちらが本当の用事でした。ダンナ様、朝食の準備が出来ました。朝風呂にお入りになるのでしたら、中浴場の用意ができておりますが」

「いや、朝風呂は今日はいいよ。それより、朝食のメニューが聞きたいかな」


 俺が尋ねると葛葉はにこりと営業スマイルっぽい笑みを浮かべ、今日は和風、めざしと白米と味噌汁です、と俺に告げた。なるほど、漂ってきていた香りは、たしかに焼き魚のそれだ。


「姫はいつ起こすの?」

「一度起きましたから、三十分以内には目覚めるかと。ダンナ様の手前、サボるわけにはいきませんから」


 俺の手前、とはなんだか照れる物言いだったが、俺は葛葉の後ろについて階段を下りていたので、へんな表情を見られずに済んだ。

 朝食のメニューは白米に味噌汁、漬物。めざしに玉子焼き、焼き海苔のりにかまぼこ。この宿屋の朝食メニューをそのまま作ったものらしい。とは説明されたものの、俺は和風の宿というものに泊まるどころか、日本に来てからはこの町の外に出たことすら少なかったため、他の宿の朝食と比較することはできないのだった。


「全て手作りですので、お口に合いますかどうか」


 盆を胸の前で抱えて俺の横に立つ葛葉。そうじっと見られながらだと食べづらかったが、とてつもなく美味しかったので次第に目を気にしていられなくなり、最後の方などがっついて食べてしまった。

 生涯で一番美味かったと断言できる朝食のあと、昨晩の夕食も美味しかったんだろうという後悔に襲われたが、次からはちゃんと俺のぶんをとっておいてくれると葛葉が約束してくれたので、安心した。

 そうしてのんびりと過ごし、茶をすすっていると姫が現れた。葛葉はすぐに姫の分の朝食を用意したが、俺のとは違って味噌汁の具が少なかったり、漬物に野菜の根元部分が入っていたりした。


「それ、なんで俺よりも幾分グレードが落ちてるんだ」

「ダンナ様に出す物と従業員に出す物を、同じにはできません。昨晩の夕食は大鍋で作ったので、同じでしたが」


 逆に怪訝な顔をされた。


「別にそんなの気にしないよ。俺はダンナなんていっても形だけのお飾りだし、基本的にみんなと同じ立場だと思ってるんだから。それに俺は野菜も根元が好きだったり、お米もオコゲが好きだったりする」


 きょとんとした顔でこちらを見る、二対の瞳。二人とも俺の発言が意外だったようだ。


「コゲた部分を食べるとガンになるんだぞ、ダンナ」

「あれ、論点そこ?」


 なんだか拍子抜けした。そこでお茶も飲み終えていたので、柱時計に目をやる。

 七時半、じつに丁度いい時刻だ。


「じゃ、そろそろ行ってくるよ。二日続けてバイクで送ってもらうわけにもいかないし」

「いってらっしゃいませ、ダンナ様」

「また夕方にな、ダンナ」


 もぐもぐと食事を頬張った姫は、お茶で一気にそれらを胃へと流し込む。何を急いでいるのやら、と思いながら勝手口に行き靴を履いていると、後ろから姫が追いついてきていた。


「何やってるんだ?」

「見送り。斎の時もよくやってたからよ」


 俺、いま口をポカンと開けて突っ立っているのだろう。

 そんなことをされたのは生まれて始めての経験だった。父さんは仕事の時間が早かったからか俺寄り早い時刻に家を出ることが多かったため、見送りという形になったことは一度もない。母さんは物心つく前にいなかったし。兄弟とかもいない。

 だからなのか、見送りというものは、意外に嬉しかった。帰れば出迎えてくれる場所があるのだと、たしかに実感できた。


「あ、ありがとう」

「うん。じゃーいってらっしゃいダンナ」


 大して気にした風でもない姫はひらひら手を振る。

 勝手口から出て、俺は通りに出た。門をくぐる瞬間少しだけ背後に気配などを感じて、やっぱりここは外とは違う場所なのだとあらためて理解した。大体家が一軒、一夜にして建て変わったことを近所の人が微塵も気にしていないというのはやはり異常だと思う。

 いまさら異常とか言っても仕方ないけど。なんか日本式の呪術だの陰陽だのの、そういう仕様ってやつなんだろう。




 たっぷり四十分かけて学校につくと、後ろからガーッガーッとうるさい音がした。後ろを見やると、閉まりゆく校門にキックボードを使って全速力で通り抜ける影があった。影は俺に追いつき、横を走る。


「やっぱり今日はギリギリか、辻堂」

「昨日はネトゲやってて完徹だったというだけのこと。あ、ところでコレを隠しておけそうな場所はないかね?」


 はた迷惑な音を奏でながら走る、二輪でハンドルとブレーキ付きの板をあごでしゃくりながら、辻堂は呟く。


「知ってるぞ。丁度いい場所」

「本当か。持つべきものは友だねえ」

「生徒指導室とかどうだ」


 前方には、青いジャージを着た角刈りの教師が立っている。

 俺の記憶に間違いがなければ、あの教師は柔道部顧問にして生徒指導部の一人だったはずだ。校内であんなものに乗っていれば、まず間違いなく雷が落ちるだろう。辻堂の顔が恐怖に歪んだ。わりと滑稽だが、教師の顔と比して見ると笑えない。俺は急いで横をすり抜け、脱兎のごとく逃げた。

 朝のショートホームルームが終わったところで、ようやく解放されたと見える辻堂が、教室にフラフラと戻ってきた。俺は教室のロッカーに保管してあったパック入りの水分をズルズルと補給しながら様子を眺めていたが、奴は窓際の自分の席に倒れこむと、授業が始まっても目覚めなかった。

 雷が落ちて黒く灰になってしまったのだろう。ここから見ていると日光に当たって灰になった吸血鬼のようでもあった。


「ご愁傷様」


 呼びかけてやると懐からハンカチを取り出し、辻堂はパタパタそれを振る。白旗の合図なのだろう、芸が細かいというか元気じゃないか。

 そんなあいつを横目で見ながら、俺は渇いた喉を潤す。今日は学校のロッカーに保存してあった水分のおかげでなんとかもちそうだ。帰りには病院に寄ろう。


        +


 六時限目が終わってほっと一息ついた俺は、さっさと帰ろうと思い立つ。席を立つと、後ろから話しかけられた。


「有和良君。一緒に、帰ろう」

「あー……悪いけど今日は病院に寄らなきゃいけないんだ。だから最後まで一緒に帰れないや」


 声で誰だか判断し、振り向きながら返事をした。後ろにいたのは、腰まで伸ばした白銀のストレートヘアーをなびかせる少女。黒く、潤んだ大きな瞳が俺を見上げていて。さいきん衣替えしたのか、女子用の萌黄色もえぎいろのブレザーを着ている。シャツの襟元には、赤いリボンが結んであるのだが、リボンはシャツの膨らみの上に乗っている。俺は目を逸らす。


「ひどいねえ有和良。時計から男女で行う共同作業の申し入れがあるのに、それを断ってまで病院かね」

「その変な言い方はやめてくれ。行かなきゃならないんだから仕方ないだろ。それに最後までは無理、っていうだけで途中までは一緒に行くよ。なあ、かなめ


 俺の呼びかけにこくりとうなずいてわずかに微笑む。時計要とけいかなめ。変わった名前のために覚えやすかったこの友人は、俺と辻堂とつるむことが多い。……というか俺はこの二人の他はそんなに親しい友人がいない、というだけだったりする。


「だいたいそんな反応するならおまえが一緒に帰ればいいだろ」

「私はこの後まだお説教があるんだな、これが」

「逃げたら、どうか、な」


 要の提案に俺と辻堂は同時に首を横に振る。

 すでにその手は三回やっている。次はどうなるかわからない。


「じゃあな、有和良、時計。またな。私が再起不能になっていなければ、だがね」

「ああ」

「また、ね」


 いい加減に聞き流し、俺は歩き出す。要も後ろについてきた。

 要と俺と辻堂の家は方向が同じだ。それに比較的近くに住んでいるため、会うことも多い。特に要とは中学の頃から知り合いで、なぜか気がつくと高校も同じになっていた。クラスまで同じだったのだから相当な偶然だと思う。

 さて、今日は帰る途中で病院に寄り、いつもの品を受け取る。ところが別に付き合わなくてもいいと言ったのに要は病院まできて待っていてくれたので、結局俺はいつも通りに二人で帰ることになった。


「そういえば、ね」

「うん?」

「有和良君の、家。リフォームした、の?」


 ……秀吉の一夜城プレハブじゃあるまいし。そんな簡単に変えられるわけがないだろう。

 ただ、普通に疑問は持ってもらえるのだと思い、少し驚いた。バレないものだと思っていたから。


「ちょっと色々あってね。ホント、びっくりするようなことがたくさんあった」

「悩んでる、の?」


 大きな瞳が潤いを帯びてこちらを覗き込む。話せばある程度の理解はしてくれるだろうが、それでどうにかなるわけでもなし。大体、自分でもまだうまく現状把握が出来ていない。がむしゃらなだけだ。現状打開はできてない。


「ちょっとね。でも今はまだ整理ついてないから、出来たら相談するよ」

「おともだち、だから。困ったら、いつでも、言って」


 ふんわりとした笑顔で要は俺を見つめていた。いや、まあたしかに困ってはいる。これからどうすればいいんだろう。仕事とかもわかってないし。今はとにかく全部任せきりなわけだし。

 ……平穏な日常の中にさっきまで居たせいか、先行き不安な気持ちがあふれ出すと止まらなかった。少しだけだが、宿に帰りたくなくなってくる。二日前までとちがって現状がどういう結果をもたらすのかが、不明だから。このまま、要や辻堂がいる日常の中に逃げ込んでしまいたい。

 などと言っても、俺は他に住める場所もないわけで。いまさらだよなあ、と慣れたネガティブ思考に区切りをつけることにした。


「本当に、大丈夫? すごく、暗い、顔、してる」


 暗い思考は取りやめにしたのだが、目の前の要は心配そうな顔になってしまった。大きな瞳に映る俺は、たしかに暗くみじめそうな顔をしていた。

 でも、結局帰る場所はあそこだ。それはそこしか場所がないからじゃなくて、頼ってくれた人が、見送ってくれた人がいるからだ。居場所をあそこに決めるのは、そこに居ようと思う俺の気持ち。だから、きちんと返事も出来る。


「大丈夫。本当に大変な時は頼るから」

「……女の子の、こと?」


 どこからそんな推測が出てきた。ひょっとして顔に出てたか?従業員のこと考えてたし。

 たしかにあの二人は女の子だったけど。


「顔、出てる」

「ウソぉ?」


 要は曇った顔で俺から目を逸らした。おいカマかけたのか。


「朝早く、有和良君の、家から。黒い、着物の女の人、出てくるの、見た」


 葛葉か。


「朝帰、り?」

「そんな言葉使わないで、な。そういうんじゃないんだよ、本当に。あの人は俺のところの従業員なんだ」


 余計に疑わしげな顔つきになってしまった。早朝に出てくる従業員=夜が仕事=水商売。といった構図が完成したのだろうか。疑われたら困る、という以前に要にそういう知識を付けてほしくない、と思う。友人として。


「本当? その人の、せいで、悩んでない?」


 わりあい真剣に、要は俺のことを心配してくれているようだった。俺もはぐらかすようなことは言えない。いやまあはぐらかすような内容は少しもないんだけどさ。


「大丈夫だいじょうぶ。それに俺は、要にウソついたことないよ」

「ん……そか。うん、わかった。なら、いいの」


 たった一言そう言っただけだったが、それですんなりと信用してくれた。やれやれ、助かった。いや、別に何もやましいことはないんだけど。……どうも女の子に詰め寄られると、俺は妙に焦るくせがある。

 とりあえず、帰宅までに誤解を解くことは出来た。ただ、これを要が辻堂に話した場合が問題だ。あいつの場合は変に歪曲される恐れがある。


「辻堂には、話さないでくれるか?」

「うん。辻堂君、色々、ゆがめてものを、言うから」


 よし。ちゃんと理解している。と、そこで丁度家の前についた。要がちょっと笑って、片手をふりふり離れていく。俺も応じて、手を伸ばしてタッチした。


「じゃあまた明日」

「うん。また、明日」

「お、ダンナおかえり」


 そして要の顔が凍りついた。


「……違う。ダンナってのは宿の主人って意味なんだよ」

「宿。泊まる、ところ。泊まる。とま、る。……」

「うん。ここは宿泊施設だけど。ダンナこの子だれだい? お客さん?」

「お、お客、さん、ちがうよ。あの、じゃあ有和良くん、ばいばい」

「ちょ、要、なんかアレなこと考えって速いなおーい!」


 かああっと顔を赤くして、あらぬ妄想をしているようなそぶりを見せながら猛スピードで駆けていった。もはや後姿も見えない。俺は追いかけようと踏み出しかけた足を戻して、悪意はないのであろう従業員さんを見た。


「……ただいま姫」

「おかえりダンナ」




 部屋に戻るとまもなく、部屋に葛葉がやってきた。手には紙の束。全部読め、とばかりに手渡される。

 それら資料には『経営指南書』とか『より良い仕事場作り』とか『必読! お客様へのマナー百選』とか、様々な本が含まれていた。残念なことに軽く読んでみても内容は殆ど理解出来ない。俺は絶望的な表情をしているだろうが、葛葉の方を見た。葛葉が少し引いた。


「これからダンナ様にはこの宿の主人となっていただきます。ですから、こうした資料で経営について学んでもらいます」

「……うんまあ、一応これでも十六年生きてきたし。こういう感じのこともやらなきゃいけないんだろうな、とは薄々感じてたけどね。いざ目の前にすると結構、厳しいものがある」

「しばらくの間はサポートがありますので、大丈夫です。経営と対外折衝については、エキスパートがおりますので」

「葛葉のこと?」

「いいえ。男性従業員の方です」


 ふうんと納得の溜め息を漏らした俺の前に、どさりと下ろされた資料の山が机の半分を埋める。では、と呟いて葛葉は部屋を出て行く。残された俺。


「……ちょっと苦しいな」


 会計報告とか数字の並んだ資料を見て、どちらかと言えば文系人間の俺は呻いた。


        +


「ダンナー、お茶淹れてきたぞ、っておい。大丈夫か?今にもショートしそうな気がすんだけど」


 遥か彼方から此方へと、幼い高い声が聞こえる。


「見えてるか? ダンナ、意識はあるかー」


 だんだん声が近づいてきている。しかし視界は真っ暗だ。


「なんで本を顔にかぶせて寝込んでるんだよ」


 それはね、熱が出たんじゃないかと疑うくらいに頭を使ったからだよ。本を頭からどけて、かぶりを振ってあ゛ー、なんて疲れ切った声が喉から出るのを、自分で他人事のように見ていた。


「なあ、俺は本当にこの宿の主人を務めていくことが出来るんだろうか」

「知るか。とにかくお茶飲んで休め」

「ん……わかった」


 ぶっきらぼうな気遣いをありがとう。それにしてもなんだな、やはり裏があってここを利用しようなんて考えてるから、ばちがあたってこうなったのかな。

 すると、まだ何か言うことでもあったのか、姫が俺の後ろに立っていた。なにかと思ったら、とんとんと小気味よく肩を叩かれた。意表を突かれて、動きが止まる。


「あのな、そんな初っ端からやれるなんて思ってねーよ。だから休め。少しずつでも大丈夫だ、ちゃんと覚えていってくれさえすれば。それまでは、あたしとか他の従業員でなんとでもサポートしてやるから。だから、な」


 そう言って差し出された緑茶は茶柱が立っていた。

 ……そうだな。最初から全部やれるはずもないし。少しずつでも主人という形に近づいていけばいいか。形だけ、になるのもなかなか大変だ。すすったお茶を置くと、俺の横に正座した姫がお盆に載せて去ろうとする。

 しかし去り際、表情に陰りを見せて、思い直したように座るとぼそりと言った。


「大体、ダンナはあたしらに無理やりこの立場をやらされてるんだし、よ。こっちとしては、もっと頼ってくれても構わないんさ」

「んー、まあたしかに頼まれたから、っていうのも理由の一部だけど。俺は自分の意思で、ここにいようと思ったんだ。強制されたからじゃないよ」


 うつむいていた姫は呆気にとられた顔でこちらを見上げる。


「じゃあ、頼まれた以外ではなんでここで働くことを承諾したんだよ? 成り行きだからか?」


 成り行きか。それも……やっぱり違うな。

 でもなあ。それ以外だとちょっとまずいことを言わなきゃならなくなりそうだ。うん。


「勘?」

「なんだそりゃ」

「ここにいればなんか大丈夫そうな感じがした」

「なんだ、そりゃ」


 ぼかしたがセーフ。姫は特に気にした風もなく、気が殺がれたのかあさっての方向を向いてくれた。

 気楽そうな俺に毒気を抜かれたのだろうか。そうであってくれると嬉しい気もする。


「ま、なんにせよ俺はやると決めたことはきちんとやるよ。だから安心していい」

「……安心、ねえ。仕事を覚えてから言ってくれよな、ダンナ」

「わかってるよ。というか、姫こそこんなとこで油売ってていいのか? お客さまをもてなさなくちゃならないだろう」

「だっていまお客さまいねーもん。葛葉は夕飯作っててあたしは仕事が終わっちまった。暇だからここにいてもいいか?」


 暇って。従業員少ないのに暇が出来る宿って。経営大丈夫なのか? ひょっとしてぼったくる感じの宿じゃなかろうか。というか、姫はなんで問いかけておきながらまったく俺の意見を聞く気がないんだ。普通に自室みたいにくつろいでるし。

 おーい、寝転がるなよ。




 ……そのまま三十分経過。姫は本格的に睡眠に入り始めていた。視界の端で緋色の着物がひらひらと動くのは案外集中力をがれる。ダメだ。もうこれ以上は続けられそうにない。


「つーか、寝相悪いなあ、こいつ」


 ぐーすーと寝息を立て始めた姫は、身体を丸めて座布団を枕にした状態。ひなたぼっこをしている猫のようにじっとしているかと思えば、ぱっと寝返りを打ったりする。まったく落ち着きがない。

 おまけにわずかながら、着物が乱れ始めている。まったく精神衛生に悪い。


「仕方ない」


 寝巻きにしている甚平や作務衣の上に羽織ることのある、茶色いどてらを取り出し、姫にかぶせる。秋とはいえだんだん肌寒くなってきた。日が落ちた今の時間帯では、俺も少しばかり厚着をしたい衝動に駆られる。

 だというのに歴史を感じさせるこの古めかしい宿には、石油ストーブとコタツを越えるレベルの暖房器具が一つもなかった。厨房には業務用冷蔵庫とか置いてるくせに。


「んー……」

「起きて、ないか」


 いかに小柄な姫とはいえ、どてら一枚では全身を覆えない。足が少しだけはみ出している。

 ……おまけに足袋たびから上は素足が見えている。どてらをかぶせたのは逆効果だったような気がしてきた。足の白さとかが強調されてしまったというか。


「いやでも相手は子供だしな。慌てることもないね」


 一歳年下というのは大きいような気がする。特に姫と俺の場合は、一つの年齢差が中学生と高校生を分けているところであるのだし。

 というか、なんで十五歳で働いてるんだろう。学校は? 葛葉は、まあここを就職先とした、と考えられなくもないけど。随分と不安定そうな職場だのによくここに決めたな、とは思うが。

 ……ダンナがそれを言ってちゃ世話ないか。


「働く、って大変だろうにな」


 ほんの一昨日までは庇護され、養われる側だった俺。なのに今は、こうして形だけでも人の上に立つことになってしまっている。そして、この膨大かつわかりにくい資料に気圧され、これからやっていけるかどうか不安で胸が潰れそうになっている。

 仕事というのは、自分のことだけを考えればいいわけではない。特に宿屋の主人なんかは、従業員だけではなくお客様にも気をつかわなくてはならない。常に人の顔色を窺う、というと聞こえが悪いが、常に人のことを気にかけなくてはならない仕事だと思う。


「従業員だって、色々お客に言いたいこともあったりするだろうに」


 あどけない寝顔を見せる姫。口元からマフラーがズレ、少し八重歯やえばがのぞく。

 考えてみれば、今の年齢でも働いているのはおかしいというのに、父さんのいた頃から働いているということはここでずっと働いていることになる。俺が父さんと日本に渡ってきたのは三年前だから、もしかすると十二歳からここで働いてたのかもしれないのだ。それは、ちょっと有り得ないような。

 不可思議なことは増えるばかりだ。

 でも、やるべきことは、今は一つか。

 手元の資料を見つめなおした時、階下から葛葉の声がした。夕食の準備が出来たらしい。

 軽く姫を揺り起こすと、なにやらむにゃむにゃと寝言を言いながらだが後ろについてきた。きっと厨房につけば、夕食の匂いで完全な覚醒を遂げるだろう。


        +


 食後、夜の散歩に出かけた。別にどこか目的地があるわけでもなかったが、資料を三時間ほど読んでいたので肩がこった。つまり運動して身体をほぐすのが目的。

 勝手口から出て狭い裏口の庭を過ぎ、家の敷地からも出てしまうとやはり一瞬、何か背中に気配を感じる。この宿全体が何か意図を持って俺を見つめているかのようだ。でもま、気にすることはないか。

 夜風が涼しい。そうだ、コンビニにでも行って肉まんとかを買おう。やっぱり今日も、二人が夕食のほとんどを食べてしまったから俺はあまり食べていない。パワハラと言われても構わないから、上司権限で食事を制限させたい。そもそも、葛葉は夕食とっておくって言ってくれたのに……

 などと心中で愚痴りつつ入店。


「いらっしゃー、ってなんだおまえさんかい」

「失礼な店員だな。接客態度が悪いと店長に言い付けてみようか」


 レジにいたのは大きなフレームの眼鏡をかけ、死んだような目をした覇気のない男。後ろでちょんと一つに束ねた茶色の髪を振りつつ、俺の態度に対抗するように腕組みをした。


「大体なんだね、おまえさんは自宅に帰っても寝巻き以外に着替えたりしないのか?」

「いや、甚平を着てるからってそれは早計だろう。一応外出用の甚平だよこれは。というか相変わらずこのコンビニはガラガラだね、辻堂。潰れたらどうするんだ?」

「やかましい。コンビニなんていくらでもある、別に私はここが特別大事というわけじゃないわい」

「あ、店長さんだ」

「すいません店長、私めはこの職場を愛し抜いておりますゆえひらにご容赦をば」


 だれもいない虚空に向かって、辻堂は叫んだ。軽い冗談なのにキレたのか、カラーボールを投げつけてこようとする。なんと恐ろしい奴。


「いいからはよ、肉まん二つ」

「ネズミのひき肉でも混ぜてやろうか貴様」


 悪態をつきながらそれらを袋につめ、辻堂は財布ごと俺からひったくろうとしたので華麗に回避し、釣り銭が出ないようにきっちり支払うとその場を後にしようとした。

 と、出入り口のところで人とすれ違う。白いブラウスにかかる、夜風に流れる銀髪。少しおどおどした態度。誰かと思うまでもなく、要だった。


「よ、こんばんは、要」


 挨拶したが微妙な顔をされた。……ひょっとして、夕方帰ってくるときのやり取りをまだ引きずっているのだろうか。恐るべし。


「要?あのさ、さっきの話なんだけど」


 耳を塞ぐという最高レベルの拒絶ジェスチャー発動。


「有和良……おまえさんとうとう時計に何かしたな」


 なにかって何が?


「要ー。おーい。うちにいた人はね、そういうのじゃないから。宿屋の従業員でね」

「宿ってどんな宿なんだかねえ」

「辻堂おまえ少し黙れ」


 一睨みすると辻堂は口にジッパーでもあるかのようなジェスチャーをした。ふう。

 要は端っこにあるドリンクコーナーでレジ前の俺の様子を窺っていた。最高レベルの警戒態勢ではあったが、完全に拒絶されてるわけでは、ないらしい。よし。


「実はな、うちは親が宿屋の経営をしてたらしいんだよ。でも、つい昨日その親がいなくなって。で、俺に宿屋主人の仕事が回ってきたんだ。要が見かけたのは、その宿の従業員なんだよ」


 恐る恐る巣穴の外を窺うウサギのように、棚の上から首をのぞかせる要。


「……じゃ、じゃあ、ただの、お仕事の、人?」

「そうだよ」

「時計。有和良に女が出来るなんて百年早いと私は思うが、ねえ。それに、誠実さが売りのこいつはいかがわしい宿屋なんて経営できんだろうさ。…………ん? 経営? おまえさんが?」

「ああそうだよ」


 しばし沈黙。要がぱたぱたと駆け寄ってきて、辻堂と顔を見合わせる。


「ええ゛!?」


 タイミングいいな、君たち。というか要が叫ぶなんて珍しいこともあったものだ。


「そんなに驚くことかな?」

「驚くだろう。それともおまえさん、かなり私とは思考が違うのか」

「有和良君、お仕事、してるの?」


 ここまで驚かれるとは思ってなかった。

 ああ、でも辻堂がここのバイトに受かった時もクラス全員がこんな驚き方をしてたかな。つまり、俺が宿屋主人をやるのは辻堂がバイトに受かるのと同じくらいの驚愕を世間に与えるわけか。なるほど、したくなかった納得だな。


「おまえさん、なんだか随分と遠く離れたところに行ってしまったなあ。私ゃ寂しいよ」

「就職、内定、将来確定? 有和良君、これからは、仕事人?」

「その言い方は暗殺者を思わせるからどうかと思うけど。一応仕事はやってくつもりだよ」


 二人はまたも顔を見合わせて。大きく大きく、盛大に溜め息をついた。


「じゃあな、有和良。高校一年の生活、短い間ながら楽しかった。また会う日まで」

「有和良君、さようなら、また、ね」

「どういう意味だよそれ?」

「学校やめるんじゃないの?」


 ……やめないよ。


「仕事一辺倒で生きるわけじゃないんだから。家に帰ってからは仕事、それ以外はちゃんと学生生活もやっていくよ」

「なんだじゃあ結局いつも通りなのかい」

「よかっ、た」


 妙に安堵している二人。ひょっとして、俺がいなくならないことに安心してくれたのだろうか。それならそれはちょっとばかし嬉しいことだけど。

 なんやかんやでだいぶ時間を過ごしてしまったので、そろそろ辻堂をきちんと労働に戻すことにして、コンビニを後にする。後ろから、結局何も買わなかった要がついてくる。俺は若干冷めた肉まんを口にして、なんとなくもう一つを差し出す。


「あげるよ」

「あ、ありが、とう」


 紙袋を破いて取り出し、はむはむと少しずつそれを口にする要を横目で見ながら、次第にそれぞれの家路につく。

 長い髪を翻して去る要。一度振り向いて、俺に一礼して、


「さっき、へんな勘違い、ごめんね」

「なんだまだ気にしてたのか。べつにいいよ、誤解とけたなら」

「うん、ありがと、う。それじゃ、また、あした」

「また明日」


 自然といつでも口に出る言葉。また会おうと言うだけ。

 ただの小さな約束。でもそれが、なんだか俺にはとても重要なことに思えた。

 宿屋の主人を務めるからって、今の日常を捨てるわけじゃない。むしろ、これからの生活も日常に加えていくことが、大事なのではないかと。そう、思えた。


「さむ。そろそろ、帰るか」


 なんとなく足取りは軽くなった。



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