表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/41

十九頁目 支えると信じると思う。(共感魔術)

 いなくなってしまった要。俺はどうすることも出来ないので、ともかく辻堂の出血を止めて治療するために学校に戻った。


「なあ」

「なんだ、辻堂」


 ケガによるものか発汗しながら、辻堂は俺の一歩前を歩く。ひょろりとして柳を思わせる印象のある長身は、やはり背中も広い。だが今はその背も萎縮して見え、軽佻浮薄けいちょうふはくな態度もなりを潜めていた。


「手ひどくやられてしまったな、どうも。手ひどく、だ。文字通りだねぇ……実を言うとな、右はまあ一応大丈夫そうなのだが……左手、感覚がないというか動かしにくいというか。ひょっとすると神経をやられたかもしれんのだ」

「ばっ、バカかおまえ?! なんですぐに救急車呼ばないで追いかけたりしてるんだ!」


 慌てて俺は奴の前に進み出て、左手を深く横一線に運命線の辺りを断ち切っている傷を見た。右手は親指の付け根を浅く切られているのみで、もう出血はほぼ止まっている。しかし、左手は。放っておけば血が止まらないことも明白、場合によっては今後指が動かないかも知れないほどの傷だった。しかし辻堂はうるさそうに俺の手を振り払うと、前を向いて歩き出す。


「いやいや、バカは貴様の方だな、有和良。あの状況で、時計を放って自分のことを気にしていられるものかね。本当に痛いのはあっちの方だ、私のケガの方じゃない。貴様には見えていなかっただろうがな、あんな悲痛な顔をして逃げていく奴……追わなかったら、壊れてしまうよ」


 ふんと鼻息一つ、辻堂は保健室に入って行った。俺が後についていくと、奴は振り向いて唸る。


「このケガだ、私は足手まといだろう。まあ、元々体力も保たんがね。だから、おまえさんが探してやれ。あいつはそれを望んでるだろうさ」

「探すって言っても、どうやってだよ」

「さぁーな。誰かそういうのを探すに得意な人に頼むとか、だろう。また後で会おう」


 中に入って行き、消えた辻堂。俺は奴の言葉を頭の中で反芻はんすうすること一秒、全力で駆け出していた。

 向かう先は宿屋。結界術師二人組のところだ。




「あれ、どうしたのダンナさん、学校は?」

「犯人が出た。仕掛けてある結界の方に引っかかってないか?」


 厨房に居たぱとりしあに早口でまくしたてると、二階から降りてきた川澄さんが四角い眼鏡を拭きながら俺の問いに答える。


「町に仕掛けた結界には特に異常はないがな。あれだけ仕掛けたのだ、どこにも掛からない心配はないであろう」

「まだ掛かってないのか」


 町に仕掛けた結界。それが俺の昨晩考えた策だった。

 俺と姫と葛葉が閉じ込められた結界、名を〝浸透結界しんとうけっかい自業自縛じごうじばく〟という。内部に入ったものは種を人外・魔力を持つ者に限り、結界内部と外との境界線に加えた力をそのまま反射されるというもの。

 魔狩まがりという職業の連中が化け物の捕縛用術式として長く使ってきたもので、それゆえ実は術師としての能力がある程度あれば構造看破も可能だとかいう話だが、人外には俺のように術師としての才能及び魔力量に乏しい奴が多い。そしてぱとりしあの索敵によると、相手は魔力量が乏しい可能性があった。つまり――人外の可能性がある。

 故に、中に入ったらまず出られないということだ。その効果を利用して、俺は町で人を襲っている奴を捕らえることにした。犯人は犯行の様子から見て吸血鬼。俺と同種であるなら、結界の効果で外に出ることは出来ない。そこでぱとりしあと川澄さんに頼んで出来る限り広範囲、具体的には町の中心点から半径三百メートルにわたって、一晩がかりで結界を張ってもらった。一般人にはまったく迷惑の及ばない形で町中に網を張ったということだ。


「どんな人が犯人だったの?」


 くりくりした緑の瞳でこちらを見上げるぱとりしあ。言葉に詰まった俺は、厨房を離れて勝手口に向かう。


「……知り合い、だったのだな」


 低い声色で川澄さんから断言され、息が詰まる。

 少しおどおどして、中学の頃から俺の後ろに居ることが多かった要。高校に入ってからは辻堂とも出会い、それなりに楽しく過ごせていた。けれど、中学の終わりにあった事件は、要の心にも体にも傷をつけたままだ。


 中学の頃。まだ、あの銀髪が黒色を保っていた頃。辻堂を交えてのあの事件。


「出かける」

「どこへ?」

「わからないけど。結界に引っかかるのを待つ間、何もしないよりはマシだろうから。走ってその辺りを探してくる」


 制服のブレザーを脱ぎ捨て、ネクタイを外す。動き易くなったシャツとズボンのみという軽装で軽く跳躍、具合を確かめる。そして、走り出した。


        +


「――――ハあっ、はあっ、ぁっ、ああ――――」


 要は息を切らして町の外れにある廃工場に辿りついていた。人気ひとけのない工場、ガラスの破片などが散らばる床目に這い。血に塗れた手で血に塗れた口を拭いた。白い丸襟のシャツも萌黄色のブレザーも血塗れで、青いプリーツスカートにも黒く変色した血が、こびりついている。

 血を飲み込んで潤っていた喉も今は渇き、呼吸をすることさえ苦しいと思わせる。吸血鬼と呼ばれるに相応しい姿。


「――ああ。あ、あああああッ」


 だが吸血鬼はいていた。苦しくて哀しくて、何よりも辛くて。友を手にかけその返り血を浴びたことが、吸血鬼にはたまらない心の痛みとなっていた。右手にはいまだ、辻堂を切り裂いたカッターナイフがある。


「ごめ、なさい。ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」


 涙と謝罪の声。あふれるそれを止めることなく、ただただ要は床に伏す。

 思い返すは過去。約十ヶ月前。

 まだ十ヶ月しか経っていないのか、と気づき、要は時間の密度は誰と過ごすかで変わることを痛感した。その記憶の中には、有和良と、そして辻堂が笑っていた。首に残る傷跡を撫でる。長い銀髪に覆われ、ほとんど見えない傷。うなじから切られた傷跡は、心すら切り裂いている。


        +


 俺が最初に辻堂と出会ったのは、中三の頃入っていた将棋部の試合で、だった。かなり近所に住んでいた辻堂だが、学区が違うため奴は隣町の中学に通っており、会ったことは一度もなかった。そして、最初の出会いで俺に強烈な印象を叩きつけた。あのヤロウは俺を負かしたのだ。

 負かしたと言ってもぱとりしあに負けたようなレベルじゃない。本当に、十手目辺りから読み違えていた、対処が出来なかった。奴と俺との間にあった実力差は天と地ほど、俺は部の仲間や相手校の生徒が去ってもまだ盤を眺めていた覚えがある。それなりに自信のあった将棋だが、その苦い思い出以降、あまりやらなくなった。

 近所のスーパーである日辻堂に会った。試合から二週間くらい後だったと思う。秋口で旬の野菜でも買おうかと思って出かけたら、どこかで見たようなひょろい男が立っていたのだ。


「おや、この前の」

「あっ、おまえは」


 顔を合わせた途端、どちらともなく逃げ出したのをよく覚えている。しかしその後どうしてこんな風に縁が出来たのかは、さっぱり覚えていない。それからもちょくちょく会って、気づいたら同じ高校、同じクラスに居た。それだけだ。


 要に出会ったのはそこからもう少し前だ。

 やはり中三の頃、クラスで部の仲間とバカ騒ぎしていた時。たまに見かけていた。いつも、クラスの隅っこでそっと本を開いているような儚げ少女だったから。黒いストレートなロングヘア、大きくて深い瞳、背はちっちゃくスタイルは良く、頭も良ければ運動も出来た。と言って疎まれることはなく、と言って人気者というわけでもなく。なぜあんなポジションでいられたのかは永遠の謎かもしれない。

 ある日、軽く騒ぎを起こして罰を喰らい、夕方遅くまで校内を掃除していたことがあった。まだ初夏の頃、日が沈むまでは時間があるのに、終わったのは完全に日が暮れてからだった、ということから相当遅い時間まで残っていたことがわかる。そんな時、まだ教室に居た要を見つけた。


「何やってるんだ、こんな遅くまで」


 教室の入り口辺りから、一番奥の窓際に居る要に話しかけた。だが返事はない。


「? おーい」

「……すー」


 寝ていた。窓から吹き込んだぬるい風で、机の上にある本のページがぱらぱらとめくれる。風は要の髪もかき回し、ぼさぼさと広がった髪の中でようやく瞳が開かれる。慌てて本にしおりを挟もうとするが、時既に遅く読んでいたページはどこなのやら。


「あ、あうう」

「意外だな、なんか意外」


 そこでようやく要は俺を見つけたらしく、はっとした様子で目を見開いた。


「もう遅いし、早く帰ったほうがいいよ」

「あ、うん。じゃあ、有和良君」


 ばたばたとせわしなく本を片付け、要は去って行った。翌日も、その次も、というか一ヶ月くらい掃除の罰を喰らっていた俺は、それから毎日要に会うこととなった。交流が出来て、日中クラスに居る時もたまに話すようになる。それから四ヶ月くらいした秋の頃、辻堂と出会い、負け、しばらく要に愚痴った覚えもあった。


 俺、要、辻堂、と三人が揃ったのは冬の終わりだ。二月の下旬。時たま出くわす奇妙な男、辻堂のことを面白おかしく話していた俺だが、次第に興味を持ったらしい要は一度会ってみたい、などと言い出した。辻堂の方も出会いが欲しい、などとたわけたことを言っていたがこちらは知らん。要の意見を尊重しての会合となった。


「どうも、辻堂です。下の名前? いやこれが名前も含めてなのだ」

「時計、要です。初め、まして。辻堂、さん」

「気をつけろ要、辻堂の頭の中は常にピンク色だ」


 うるさいわ、などと言い返す辻堂、苦笑している要。だがそれから間もなく、事件が起こる。


        +


 まだ寒い三月の頭。事件は起こる。有和良も辻堂も要も受験が終わり、会うことが多くなっていた。ある日、三人が学校に集まってのんびりと過ごしていた時。要はいつも通り分厚いハードカバーの本を、辻堂は薄くて挿絵のある文庫本を、有和良は買ってきた週刊少年なんとかを読みつつ、会話をかわしていた。


「なんの因果か宿命か、気が付いたら同じ学校に通うことになってしまったのだな」


 あくびをかみ殺しながら辻堂がぼやく。ロッカーの上に寝そべったまま、退屈そうに、だがつまらなくはなさそうにしていた。ちなみに有和良の学ランも辻堂の学ランもボタン意外は同じなので、よほど注意深く見ないと他校の生徒が敷地をまたいでいるとはわからない。

 紺色のセーラー服に溶け込むことは決してなさそうな、黒い絹のような髪を揺らしつつ要は振り向く。辻堂は今にも眠り込みそうだったが、要と目が合うとへらりと笑った。有和良は要の座る最後列窓際座席の横にある机に座って、そんな二人をぼんやりと眺めている。やがて、校内に鳴り響くチャイム。その音に真っ先に反応したのはやはり有和良だった。


「さ! 今日はうちで夕食だ! 要が言うからこの時間までは待ったけど、これ以上は腹が待てない」


 ばっと立ち上がり、頭の中にメニューを考える。父・斎が不在であることの多い有和良家では、夕食を考えるのも息子である彼の仕事だった。もっとも、得意というわけでもなく、食えないわけではない、というレベルでしかないことが玉にきずだったが。

 しかし、今日は一味違う。家で常に調理を担当しているとかで、調理実習でも突出した能力を発揮した要が調理に加わるからだ。そんな思いを込めて期待のまなざしを要に向ける有和良だが、要は恥ずかしそうにうつむくのみだった。

 代わりに要の前に立っていた辻堂がナイスポーズを決めてささやく。


「まかせろ、つまみぐいは私の仕事だ」

「せめてそこは味見と言え」


 辻堂の脇腹を軽く殴りつつ、有和良はにっと笑った。つられて要も微笑み、学生カバンを手に手に、有和良家への帰路につく。


「でもさ、なんでこの時間までは待て、なんて言ったんだ?」


 アスファルトに伸びる三人の影。学校に残ることが許される、日没三十分前のこの時間。既にうす暗がりに包まれ始めた一帯を見つめながら、有和良は横を歩く要に尋ねる。要は少し慌てた、というより取り乱した様子で、有和良の問いに答えようとした。その顔には夕日のためではないかげりがあったのだが、有和良は気づかない。


「あの、ね。家に、帰りたく、なくて……」

「なにか家にあるのかね?」


 さらりと強く踏み込み、しかしずけずけとしたイメージではない。やんわりと問いかけた辻堂に、要は首を振る。


「ううん! 家で、なにかあるわけじゃ、ないの。家だと、一人で。それが、いやだから」


 力強く否定する要。有和良と辻堂はその言葉に気圧されて、それ以上は何も言えない。

 二人とも、喉元までせり上がったセリフがあったが。何も、言えない。


「よし、早く帰って暖かいものを作ろう。辻堂、材料を切ることくらいは手伝ってくれないと困るよ」

「それくらいはわかっている……まあなんだ、今日はどれくらいで門限なのだね、時計」

「八時、くらい」


 じゃあそれまでパーッと騒ぐか、と提案し、カバンから一升瓶を取り出す辻堂。すると夕闇の向こうからぬっと自転車で巡回中の警官が現れ、学生服姿の有和良たちに似合わぬ品を見咎めてがみがみと怒鳴り始めた。三人とも急いで回れ右し、笑いあいながら有和良の家に走った。




 結局材料的にカレーしか作れず、それでも腹を満たし尽くすほどに食べた辻堂。有和良と要は腹八分目に留めたのだが、暴走した辻堂は酒と一緒にあおるように食べ続け、そして今倒れている。腹痛の薬をいくらか飲ませたのだがさっぱり治らないので、こうなったら吐かせるしかないか、などと有和良が拳を握り始めた。その時、柱時計が八時を告げた。


「あ、門限……」

「シンデレラみたいだな。まあいい、じゃあこいつはここに放っておいて、俺は送っていくよ。おい辻堂、要が帰るよ」


 うぐぐ、とうめき声をあげるだけの辻堂、しかし立ち上がると腹を叩いて溜め息をつく。


「む、ぐぐ、ぬぬ。まあ、いちおう大丈夫か。歩くくらいなら支障ない」

「無理して送っていくことはないだろう」


 そう言い聞かせる有和良だが、酔った辻堂は聞く耳を持たない。仕方なく平屋作りの家を出て、三人で固まって夜道を歩くこととなった。


「家、わりと近いのだったな」

「うん……」


 門限になった途端、元気を失くす要。その様子を見て、先ほど抱いた疑念をさらに強める有和良と辻堂。ひょっとしたら、家で要は居場所がないとか。虐げられ、辛い思いをしているのではないか、と。

 実のところ、知り合ってからしばらくで有和良はなぜ要が遅くまで残って本を読んでいるのか気にしたことがあった。直接それを問うたこともあったが、場の雰囲気で流され、答えを聞くことはなかった。

 だがそれは裏を返せば要が回答を拒否する雰囲気を出していたということでもあり、いずれにせよ『家』というものに対して否定的な考えを持つことを意味する。


「じゃあ、また明日」

「おう」

「うむ、ぐう」


 閉じていくクリーム色のドア。普通の二階建て住宅には明かりもついておらず、人が居るようには見えなくて有和良と辻堂はほっとした。人が居ないなら、要に何か危害が及ぶこともないだろう、と。しかし、閉じゆくドアの隙間に居る要の顔は、暗い。だが、有和良たちはそれに気づくことがない。

 やがて扉が完全に閉じ。まだ具合の悪そうな辻堂の背を叩きながら、有和良は帰路に着こうとした。しかし。閉じたドアの方向からわずかに、香った。それが、足を止める要因と為り得る。


「どうした?」


 鼻腔びこうをくすぐり、喉を焼き胃をあぶる濃厚な、甘い香り。

 嗅ぎなれたそれが脳髄を刺激した瞬間、有和良は駆け出す。


「お、おい」

「血だ。血の匂いがした」


 吸血鬼としての部分をくすぐる挑発的な匂いは、要の家から香っている。しかし家のドアは鍵をかけられており、開けることが出来ない。辻堂も有和良の様子に只ならぬものを感じたらしくインターホンを押すが、一向に返事はなく。しびれを切らして、有和良は庭の方に回って落ちていた石でガラスを叩き割った。


「や、やりすぎじゃないかね?」

「手遅れになってたらそんなこと言えないだろ」


 窓のロックを開錠、フローリングのリビングに踏み込む。これまでの生涯で何度となく感じた、異常の起こっている領域特有のにおいがしていた。リビングには何もいなかったが、その気配は漂っている。重苦しい空気の向こうには、うごめく何かが居る。

 長年の勘が伝えてくる侵入者の気配を辿り、二階に上る。だが階段を半ばまで上ったところで、激しい物音が聞こえてきた。慌てて二階突き当たり、音のした部屋に飛び込む。


 そこは。

 血の海。

 踏み込んだ瞬間にむわっと体を包む生と死の匂い。生臭い血と脂肪の匂いで頭がクラクラし、危うく一瞬我を失いかける。しかし、手放しかけたそれを吸血鬼としての自分から瞬時に奪い返し、その場を直視する。

 転がっているのは二人。少々年老いた様子だが、それは死の瞬間に生まれた恐怖から老け込んだのだろうか。二人は床をおびただしい量の血液で満たし、この世から去っていた。胸を一突き、ナイフを引き抜かれた瞬間のショックの方が失血よりも早く死を呼んだだろう。そこまで考察し、顔を上げる。後ろの辻堂はあまりの惨状に恐怖し、吐瀉物としゃぶつをぶちまけている。


「んだ、テメエラ?」


 ぐるんと目がこちらを向く。壁に要を押さえつけ、喉元に血に染まったナイフを突きつけ、元は薄汚れてるようだが血で鮮やかに彩られたスーツを着た、ニット帽の男。臆することなく、有和良はその目をじっと見据える。寸前に目に入ったフルートを、認識変換の対象とした。


「――れ」


 男に暗示をかける。『ナイフ』を『フルート』と視せる。


「ハア? アア?」


 しかし、何も起こらない。

 魔眼の能力は、両の眼で相手に『対象Aに対する認識を対象Bに対する認識に変える』能力である。相手は自分でAというものをBというものだったのだ、と思い込むため、自力で認識を変えることはまず出来ない。そんな、強力な自己暗示をかける能力なのだ。

 しかし、その能力は相手がまずAとBについて正確な認識を持っていることが必要となる。そのため、魔眼を使用しても相手に認識がないと、このように全く効果が無い、ということも往々にして有り得るのだ。まあ、いま現在この男に認識がないのは――ぎょろりとあさってを剥いた目、半開きの口、震える指先から察するに、自分の得物も行動も理解できていない精神状態だからだろう。


「ラリってんのか、サイコ野郎」


 毒づきながら、もう一度。先ほどは急いでいたため室内にあったフルートを思わず認識変更の対象にしてしまったが、今度は相手の刀身を見て、己を人狼に見せようと――その魔眼が発動する前に男は身をひるがえし、有和良に襲い掛かる。


(人質を捨てた? くそ、馬鹿の考えることは本当に読みづらい!)


 突き出された切っ先を屈んで避け、懐に飛び込んで殴りつける。だが耐衝撃性能を有するジャケットでも着込んでいるのか、感触は鈍い。仕方なくナイフを持った右腕を取り、襟元を掴んで足をかけ、有和良にとっての正面に男を押す。男は背中からフローリングに叩きつけられ、一瞬息が詰まる。それを見逃す有和良ではない。

 拳を相手に密着させる。普通の打撃ならば打点で衝撃は拡散するが、密着状態となれば拡散はなく、その威力は内部へと貫通する。貫通した威力は心臓に達し、外からの強い攻撃に押された心臓は跳ね上がるのだ。場合によっては心室細動を起こして殺しかねない技だが、有和良は加減した。

 耐衝撃性能のあるジャケットを着込んでいるとなると一寸離した位置で放つあの拳士の技〝鐵甲〟――中国拳法でいうところの〝寸勁〟も効果は薄い。しかし、零距離で放つ〝徹甲てっこう〟の打撃、すなわち〝零勁れいけい〟ならばそれも関係ない。

 零距離仕様のため打つには体勢を崩す、あるいはいまのように一撃当てたあとの密着時しか使えないので、普段実戦では用いないのだが。こうした相手に届く技としては使い勝手がよい。

 そんなことを考えながら拳を打ち抜いた有和良は、壁に沿って床にへたり込んだ要を見て、辛い表情を浮かべる。


「おとう、さん。おかあ、さん…………ひうっ、う、うう、うああああ……」


 泣きじゃくる要。その首筋には、ナイフにより切られたきずあと

 部屋の外では辻堂が携帯電話で警察と病院に電話をかけ、惨状から目を逸らしていた。

 有和良は自分がやったわけではないというのに、血の海に溺れている自分を嫌悪する。

 止められなかったことを、気に病んで。




 数日経って、春休みに入った有和良は通知表や卒業アルバムなどを届けに要の居る病院を訪れた。首の傷は大したことはなく、入院するほどではなかったのだが。精神面のダメージが大きかったらしく、この数日ずっと病室でぼんやりしている、と看護士からは聞き及んでいた。

 要の家には虐待などはなかった。しかし、親が知人の借金の連帯保証人となったために、暴力団などを背景に置く闇金融から嫌がらせを受けていたらしい。そのため、夜でも明かりを点けず、人がいないように見せかけることが多かったのだ。そして要が家に帰りたがらない理由もそこに起因する。だが、最終的には暴力団の末端に居る男が暴走し、脅しをかけるつもりが殺してしまった。そういうことらしい。

 有和良は、見舞いに持ってきた花束を握る力を強めた。


(俺が、もう少し早く異常に気づいてやれたら。そうしたら、要も傷つかず、要の両親も死ぬことは)


 病室の前まで来て、有和良は考えを振り払う。たらればのことを考えても仕方が無い。制服の襟を正し、がちゃりとドアを開けた。

 部屋は個室、真っ白で味気ない室内。

 その中で要は少し異なる色彩を放っていた。


「かな、め?」

「――あ」


 こちらを振り向いた要の髪は、白銀に輝く。しかし、生気を失った輝きを持っていた。その中で大きな黒い瞳が、やはり生を感じさせない、よどんだ色を辺りに振りまく。言葉を失い、ともすれば感情に流されてしまいそうになる有和良。しかしそれをぐっとこらえ、病室に踏み込む。


「髪、色が抜けたのか」

「……うん。昔、本で読んだ。ショックなことが、あると。たまに、こうなる人が居る、って」


 簡素なパイプ椅子に座り込む有和良、ベッドの上で白いパジャマを着て上体を起こしている要。二人の間に特に会話はなく。有和良は学校の持ち物を渡すことすら忘れていた。そこに辻堂もやってきて、三人で何するでもなく、窓から入り込む春の風に吹かれていた。

 それから、高校の入学式まで。有和良も辻堂も、毎日要に会いに来た。二人とも、何が出来るでもないことはわかっていた。だが止めたくなかった。髪が透き通るような白銀に変わり、空気に溶け込みそうなほど薄い存在感しか持たなくなった要が、いつか本当に消えてしまうのではないか、と恐れたから。




 そしてある日、要は手首を切った。見つけたのは昼過ぎにやってきた有和良だった。


「なにやってる!」


 ぬるま湯につけた手を血で濡らし、呆けた顔で天井を眺めていた要。有和良は急いで直接圧迫し、血の流れを止め、ナースコールを押す。


「……血、がね。流れてる」

「ああ?」

「わたしは、生きてる。でも、もう、わたしを見る人は、いない。誰も見てくれなかったら、それはもう、生きてると言えない。……目を、背けないで。わたしを、見て。もう、おとうさんも、おかあさんも、見てくれない、から」


 絶望の染み込んだ面持ちで、そう呟く要。ろくに物を食べていないその顔はやせ、痛ましい。


「俺も辻堂も、おまえの傍にいたよ」

「いない。見えてない。二人ともわたしを、肯定して、くれない。痛々しいわたしから、目を逸らして。ただ、いるだけ」


 有和良はようやく間違いに気づく。

 居ただけの自分たち。それは人形を置くのと変わらず、何の意味も無かったと。

 本当に心配なら、本当に思っているなら。口に出して言わなければならなかったのだと。不安定になってしまった彼女には、なんでもいいから支えが必要だったのに。人形のように軽い有和良と辻堂では、何の足しにもなっていなかったのだ。

 ここにきてようやく、せきを切ったように、有和良も嗚咽と共に本音を漏らした。口にしても、いまの彼女には重荷にしかならないのでは、と危惧し、黙っていた言葉を。


「……ごめん。ごめんな、要。ごめん。でもおまえのこと、俺たちは必要なんだよ……大事なんだよ、頼むよ、死なないでくれよ……!」

「――――寂しい、よ。寂しかった。でも、だからって、これは。これは、ちがうよね。ごめんね……死のうとして、ごめんね、有和良君」


 ぽろぽろと流れた涙が、血の混じる洗面台に落ちていく。


        +


 そう、あの日辻堂と俺は、何の支えにも、何の守りにもなってやれなかった。だから俺は、今度こそ。

 助ける。全力で走る最中、頭に思うのはそれだけだ。俺は踏み込む足に力を込め、坂を駆け上がる。

 町を騒がせた吸血鬼事件の犯人は、要だ。それはほぼ確定事項だろう。だが、それが本当に本意から行われているとは、俺にはとても思えない。あいつは優しい。強い。でも、誰かにひどいことをして平気でいられるわけが無い。きっと、そんなことをすれば自分が一番傷つくはずなんだ。辻堂が言っていたように。姫が俺を襲ったことを気に病むように。

 坂は中腹辺りから整備されていない道となり、草を踏みしめて進むこととなる。その先にあったのは、崩れかけた廃工場。二階建ての建物の中から錆び付いたクレーンが覗いている様子は、全体の色とあいまって巨大な昆虫の死骸のようにも見える。――人が隠れるには、うってつけの場所だ。


「静か、だな」


 じゃり、と足元でガラスの破片が細かく砕ける。冬のすきま風は余すことなく建物全体に吹き渡り、俺はどこかに要の影がないか、探した。静かな建物の中、天井もほとんど破れているのに、俺の足音が響く。静かだ。けど、ここに居る。ここには、微かだが血の匂いが香る。

 嗅覚を頼りに歩を進める。行き着く先は、クレーンの操作をするための小部屋。四畳半ほどしかないそこに踏み込むと、乾いた香ばしい血の匂い。


「要」


 呼ばれて、影は震えた。部屋の隅で丸まっていた要は、白銀の髪にもいくらか返り血を浴びている。

 そして、血に染まった手を口にくわえていた。


「……?」


 だが、その手からは乾いた古い血ではなく、今流れている新しい血の匂いがした。見れば、座り込んでいる要の膝元にあるのは、カッターナイフ。手首には、

 俺の知る過ちの傷の他に、新たな傷が生まれていた。


「要、それは」

「まあつまり、彼女は吸血鬼、というわけではないのですが、ネエ」


 背後からした声に、反射的に身構えながら振り向く。陽気でハスキーな声を発するのは、奇妙な白人の男だった。つばつきのべレットをかぶり、茶色いハーフコートに身を包む、年は三十かそこいらだろうが、印象だけは若々しい男。俺より少し高い程度の背丈、体格にもかかわらず威圧感があり、こつこつと足音を立てこちらに近づいてくる。

 べレットを外し、うねる短いブロンドの髪を晒すと、きついオーデコロンの香る男は大仰にお辞儀をしてみせた。


「はじめまして、宿屋の主人サン。私はテオドール・メイザース。一応、魔術師なのデスヨ」


 人をいらつかせる口調。だが聞き覚えのある名に、警戒を含んだ声色で尋ねる。


「メイザース。西洋魔術師なら誰でも知っている、マグレガー・メイザースの一族か」


 古くから存在する、黄金の夜明け団という魔術組織の創設者三人のうちの一人。

 アブラメリンという天使と悪魔を使役する魔術を駆使する、世界でも屈指の魔術師だったとのことだ。その子孫を相手にするとなると、悪魔とも戦うことになるかもしれない。俺の焦りを知ってか知らずか、テオドールは満足そうに微笑んだ。


「心配しなくても、アブラメリンは使わないヨ。アレも色々と面倒な儀式をしなくちゃあならないのでネ、こういう旅の途中ではそう易々とは使えナイ……大体、この国は神格の精霊が多すぎマスヨ。これじゃ場を整えて自前の神殿は作れない、イヤハヤさすがはヤオヨロズの神が住まう国ダネ」


 耳障りな声でしゃべるテオドールは、首を振りつつこちらに歩み寄る。俺は思わず引いたが、奴は気にすることなく部屋の奥へ。だがそこには要が居る。俺はすぐさま奴の前に出て、要との間に割りこんだ。


「騎士気取り? 色々大変デスネ君も」

「大きなお世話だ。おまえ、一体。要の何を知っている?」

「んー、しいて言えば知ってることは何もナイノデスヨ? だけどネ、ちょーっと彼女には私の得意魔術の餌食になってもらっ」


 人狼の力ではなく、純粋に俺個人、吸血鬼の力で殴り飛ばす。あごに向けて当たる一撃を出したが、テオドールは一歩退いてそれをかわした。魔術師といえど、まったく体術の心得がないわけではないらしい。


「……沸点低いネ。別に魔術って言っても変なことはしてないノニ。ただ少々、共感魔術を使わせてもらったがネ」

「んだと、テメエ」


 共感魔術。風土の迷信などの中に息づくあれか。狩りで獣を追うとき、足跡に矢を射すことで離れた獣の足にダメージを与えるなど、関連性を持たせたものを媒介に本体に影響を及ぼす魔術!


「それであいつはあんな凶行にっ……いやおい、ちょっと待て。おまえ……まさかとは思うが、要以外も術にかけたか(、、、、、、、、、、)?」

「んん、正解セイカイ。だがネ、人間を完璧に操る魔術なんてないのだからシテ。私の魔術は単に、相手がやりたいと願っていることヲ実行させるのサ。つまるところ、きっかけは私デモ最終的な原因は彼女たち(、、、、)にあるのデスヨ?」


 彼女たち。

 つまり、やっぱりこいつが原因で、姫も暴れたってことか。


「原因なんてどうでもいい。あいつらが仮に物騒な刃だとしても、鞘から抜いた奴が悪いに決まってるだろうが」


 耳障りなその声を今すぐ封じるため、俺は再度殴りかかる。だがかわしざま、テオドールは左手で儀礼剣を抜いており、油断なく俺の体を切りつけていた。パリイング・ダガー……西洋剣術か。


「ならそう思っていればいいダロウ? まあ、すぐ現実に気づくダロウ」


 その言葉と同時に、俺は左肩に痛みを感じる。馬鹿な、剣はかわした、はず……そう思って振り向いた俺と、見開かれた瞳と、視線が交錯する。

 要が、喰らいついていた。


        +


「相変わらず、結界には誰も引っかからないね」


 ぽりぽりとせんべいをかじりながら、ぱとりしあがつぶやく。目の前には、部屋から出た姫が居た。有和良が犯人を見つけた、との一報を聞いて、結界内に閉じ込めておく必要性がなくなったからだ。

 もっとも、宿屋の一同は全員姫が犯人だとは少しも疑っていなかったが。ただ、あの結界は姫の精神を安定させてやるためのものとして、機能させていた。


「それで、出かけるの? 姫ちゃん」


 勝手口に続く階段を降りていく姫。ぱとりしあは廊下の窓枠に腰掛けて相変わらずせんべいを齧っている。


「だってよ。ダンナは、犯人だった友達のために今走ってんだろ。そんであたしが、今ここに居るのは。そのダンナが、ちゃんと捕まえて引き止めてくれたからだ。だったら、あたしは今ダンナを助けるべきだと思う」


 朱色の弓と矢を入れる空穂うつほを背負い、右手に弓懸をつけた姫は、赤き射手となり歩き出した。


「それって、武器だよね」

「当てる気はねえよ。でもこの〝梓弓あずさゆみ〟なら矢を当てなくても効果はあんだろ」


 じゃあな、と呟く言葉、それがぱとりしあの耳に届く前に、姫の足音は消えていた。


「……結界を解いて、また索敵の術を使った方がいいかなあ」

「かもな。いずれにせよ私は、昨晩手持ちの式神をほぼ使いきったのでな、魔力が足りん。これでは、加勢に行くことも適わん……おとなしく仕事をしておくとしよう」


 宿屋の業務が滞りすぎるのはいけない。宿泊客は相変わらず両手の指で数えられるほどしか来ていないが、温泉だけ浸かっていく客を合わせれば、一応少ない従業員が食べていける収入にはなる。

 だから、たとえプライベートの方で色々と起こってしまっていても、それに人員を割きすぎるのも問題なのだ。仕事と人情の板ばさみ、などと口にしながら、せんべいをぽりっと齧るぱとりしあ。そこに柊と白藤と三人、少ない人員で仕事をしていた葛葉が、少し疲れた様子で歩いてくる。


「姫は行きましたか」

「梓弓もって、出て行ったよ。たしかにあの武器は非殺傷での効果も高いから、相手が人外でとくべつな固有能力、たとえばダンナさんみたいな魔眼持ちでも、十分な助けになると思うの」

「統合協会三役職のひとつ〝魔狩り〟随一の弓使い、星野流末席〝白猫弓鬼はくびょうきゅうき〟でしたからね。元、がつきますけど」

「ほんと、すごい人ばっかりいるよね、この宿屋」

「あなたもでしょう、二階堂にかいどうぱとりしあ」

「……ボクはしょせん、ただの、没落貴族なの」

 くすりと笑って冷たい瞳に光を宿し、ぱとりしあは空を見た。灰色に、くすんだ色合いだった。

 そこで、呑気にインターホンが鳴った。

 

        +


「くそったれ……」


 切れた口の中から血を吐き出し、目の前に居る相手に向き直る。

 場所は地上十メートルほど、廃工場の天井上。屋根としての体裁は保っておらず、茶色いトタンがところどころで足場になっている程度、という悲惨な戦場だ。時折、強い北風が吹いてバランスが取りにくく、寒い。おまけに天候は悪くなる一方、雨でも降りそうだった。

 目の前に立つのは、先ほどのカッターナイフを持った、要。うつろな瞳で、危うげに足場を確保している。恐ろしいことに、あのカッターは相当切れ味が良い。さっき二の腕をかすった時の傷口を見ればわかる。

 ただ、その切れ味の良さは俺の命が危ぶまれることが恐ろしいのではない。


「どうしたのカナ? 友達相手じゃやり辛い? だろうネエ。なら、早く降参して、下りて来ナヨ。そして、私の主人の元までついてくるのダ。もうめっきり見なくなった吸血鬼ダヨ、君のコトはきっと可愛がってくれるサ。私も金が入るし、いいことづくめというモノ……さあ早く、さもないと」


 要は荒い息遣いをしながら、カッターを振り上げる。しかし、それは俺に対する攻撃じゃなく、


「やめろおおおおぉっ!!」


 自分の首筋へ、突き立てようとしていた。それは、済んでのところで止まる。


「だーかラさっきから言ってるじゃないカ。やめて欲しければこちらに下れ、ってネ。まったく、大変だよこの子モ。自傷行為で自分の血を吸ったりシテ、その衝動を必死にこらえてたいたのだかラ。早くしないと、イッちゃうヨ?」


 この男、テオドールの言うことが、真実なら。

 時計要は吸血鬼では、ない。一つの病気を抱えた、ただの女の子だということになる。


吸血病ヴァンパイア・フィリアっていうんだッケ、この子の病気。自傷で出した血や他人の血を吸いたくなるってイウ、めんどうクサイ病気デスネ」


 ……吸血病。それは、精神的な問題などで起こる病、もしくは単純に血の味が好きということを指す。

 それは自己の血を吸う者から他人の血を吸う者まで色々いるが、病自体はそこまで危険な病気というわけではないらしい。命に別状もなく、普通に社会生活も送れる。そういう意味では、『危険』はない。

 だが、それは中毒に近く抑制が困難で直しにくい病気。血液から感染症を伝染してしまったりする恐れもあり、何より人に知られると社会的には難色を示されてしまう。

 きっと、だから隠した。


「私の共感魔術、〝我慾の従僕ディザイアーズ・マリオネット〟の効果はいたって単純。相手に、ヤリタイと思ってることを実行さセル。この子の場合ハ、それが他人からの血液摂取だッタ……私としてもコレは笑ったネ、なかなかおもむきがあル。吸血鬼を捕らえるノニ吸血鬼を使うなんてサ、くく、実に笑える笑えない話デスよ。……さあアリワラ・ヒトトセ。西洋の吸血鬼の血を引く者ヨ。この子にかけた共感魔術を解きたけレバ、さっさと来い。ちなみに言っておくのダガ、この私を殺しても魔術は解けナイよ。むしろ、効力は私の送る魔力で強マリ、自殺する。君の選択肢ハ、この子か自分かどちらかだけなのダ」


 きっと、いま要は泣いてる。

 あの日病室で手首を掻き切った要を見て、ちゃんと支えになってやろう、と思ったのに。また、俺はしくじった。


「……!」


 無言で気迫のみを背に飛びかかってくる。足場の少ない場所だし、人狼の暗示もかけていない。今の俺は、ここから落ちればひとたまりもなく死ぬ。

 弱い、弱い吸血鬼だ。何も、出来ない。何も、ない。


「っく、」


 切り上げるカッターの一閃。避けられる一撃だったが、心に迷いがありすぎて避けられない。顔をかばった左腕に、赤い線が走る。痛みを感じる暇もなく突き。頚動脈はかわしたが、右肩を浅く切られる。二メートルもないトタンの屋根から俺は飛び、隣にあるもう一つの足場へ。そこは五十センチ四方しかなく、二人は一緒に立てないはず。

 だが要の行動に躊躇ためらいはなく。落ちるかもしれないのに飛び込んできた。俺は要を落とさせまいと、後ろにあったもう一つの足場へ飛ぶ。だが、長く風雨にさらされて劣化していたトタンは、俺の体重を支えきれない。


「あ」


 もろくも崩れる発泡スチロールのような足場、落ちてゆく体。ぞくりと下腹部からせりあがる悪寒。

 しかし途中で機械のワイヤーに引っかかり、落下は止まる。背中に痛みが走るが、そのワイヤーにぶら下がって二階の部屋の窓へ飛び込んだ。床に転がっていたガラスの破片で、体を切らないように着地する。部屋はなにやら瓶詰めの薬品が並んだ棚に囲まれており、俺はすぐにそこから出た。


「やれやれ、逃げ回るばかり、カイ? そろそろ、この子の腕の腱クライは切ろうカ? そうすれば決断も早くナル」


 上を見上げると、トタンの足場に立つテオドールがにやにやと笑い、横に居た要を指差す。刃は、肘の腱に向けて。


「ってめえッ!」


 反射的に、考えもほとんどなく魔眼を発動。脳内に金属板を曲げたような音、思考回路への過負荷の音がこだまする。

 要の目と俺の眼が合う。瞬間、カッターが手から離れた。どうやら、刃物を別のものと認識したため、腱を切れないと思ったようだ。おかげで、カッターはくるくると回転しながら一階の床に落ちて、折れる。テオドールの表情に驚愕が見え、ついで俺を睨みつける。


「……なんダ、吸血鬼の魔眼カ。まさか私の魔術にヨル行動指定を乗り越えさせたノカ。まったく、反則技ばかりダナおまえら吸血鬼ハ……ええ、絶対為る真理アブソリュート・トゥルース


 明らかに気分を害したらしいテオドールは、替えのナイフをハーフコートから取り出す。頷いてそれを受け取り、またも振りかざす要。刃が曇天を映して曇る。灰色の凶刃。それが、今、振り下ろされ――ない。

 シッと風切る鋭い音と共に、要の瞳に意思が戻る。なぜか、空気が弾けた音。


「なんだ、なにが起こったノダネ?」


 また貴様が何かしたのか、とこちらを睨むテオドール。しかし、北風の中を突き進んでくる問いかけに対する回答。


「元凶はてめーか、そこの男。今のは警告の意味で矢はなかったけどよ、次は、その頭ぶち抜くぞ」

 

 廃工場の入り口、ドラム缶などの転がった中に、目立つ赤い人影。朱色の和弓を構えてテオドールを睨む、金色の双眸そうぼう

 絶妙のタイミングで、姫が現れてくれた。上の要を見上げると、その瞳が俺をとらえて叫んだ。


「有和良君!」


 ――意識が、ちゃんと戻っている。


「加勢に来たぞ、ダンナ」

「いや、それはありがたいんだけど。どうして、来てくれたんだ」


 姫は歩を進める。思わぬ伏兵の登場に、テオドールも手が止まっていた。


「来たのはそりゃ、犯人が見つかったっていうから、大詰めだろうと思ってね。この弓なら傷つけることなく無力化するにも向いてると思ってきたんさ……でも、どうやら、傷つけても構わねぇような奴もいたらしいな」


 ぎろりと睨みつける。その手にある弓が、また掻き鳴らされる。まるで箏でも弾くように。


「梓弓。巫女が弦を弾いた音で場を清めるっていう、神道における儀式んための道具さ……言葉を〝話す〟ってのはもともと〝放つ〟が語源だ。人は自分のあずかり知らぬ遠くまで届く声、音に呪術的な力を見た。故に鉄砲や弓の音を、魔をはらう力の象徴と見る。でもあたしのは儀式用なんぞじゃねぇ、特別製でね」


 途端に姫の動きがブレる。凄まじい速度で後ろ腰にあった空穂から矢を抜き、つがえ、斜面打ちおこしで構えて放つ。テオドールは握っていた儀礼剣で弾く、と見せかけ、必要な術式動作と呪文を唱え終えた。だが梓弓の退魔効果により術式が消されたらしく、矢は肩をかすめて抜けていった。


「媒体を介さない魔力は、梓弓こいつの前じゃ霧散するぞ」


 弦を手で叩き微笑む姫。日本の魔術には疎い俺だが、とりあえず効果が分かれば十分だ。

 つまり、これで要を助けられる!

 ところが、上から響いてきた大きな音で、俺の意識は姫から離れる。


「…………コノ。ジャップの魔術めガ。我が魔術を退ケタ? 有り得ん、有り得ん、有り得ン」


 顔面を手で押さえ、トタンの屋根を強く踏みしめるテオドール。要はびくついたが、やがてすっと瞳から生気が失われる。


「また……!?」


 俺の反応を見て、再び要が魔術にかかったことを察する姫。俺に向かって話す。


「その魔術って、持続性の強い奴なのか。だと、音が範囲を満たした瞬間だけしか祓えないぞ。根本的な原因を排除しちまわないと、だ」


 姫が面目なさそうに答える。つまり、梓弓の効果は一時的、音が無くなればまた元に戻るのか。ちくしょう、それじゃあ助けることは、出来ない。歯がみしつつ見ていると、テオドールはコートの中から短い、棒を取り出した。

 いや、棒じゃない。杖だ。あれは、蓮の杖(ロータス・ワンド)……!


「交渉は、終わりダ。もういい――めんどうダ。To deal in sympathetic magick. My power goes by way of a shadow. Defeat an enemy connected to the shadow――!!」


 ひゅ、と飛来するナイフ、それが俺の影に当たる。影の肩口に刺さったナイフ。

 俺の体の、ナイフが刺さったところから血が噴出す。


「ぐっ!」

「言ったハズだ。私は、媒介を通じて本体に影響を与エル。全世界に散見さレル類感魔術・共感魔術。アブラメリンのみではナイ。それらをも自在に操るガこのテオドール・メイザースだ。人質が意味を成さナクなりそうなラバ、君を痛めつけて運ぶ方がやりヤスイ」


 影を媒介に、俺本体へダメージを与えたのか。卑怯なマネばかりすると思ったが、まともにやり合っても十分強いんじゃないか、コイツ。このままだと、さすがにマズい。とっさに身を引く。だが、動けない。影を地面に縫いとめられているからか!


「次は頭ダ」


 クイックモーションで投げたナイフ、腹部に当たりそうだったのをギリギリでかわす。だが、今度は影の足に当たった。


「つっ……」

「〝影縫い〟か! 陰陽道にもある技!」


 近くにあったフォークリフトを足場に、二階の部屋までやってくる姫。地面に刺さっていたナイフを抜いて、そのままテオドールに向けて投げ返した。しかし、『自傷と他傷』を行動優先順位の上位に置く要が、そのナイフを身に受けようとする。それを見て、慌てて梓弓を鳴らす姫。音速で届いた退魔の力で、要は怪我せず済んだ。


「大丈夫かダンナ」

「ん、ああ、なんとか動ける。けど、これはマズいことになったな」


 このままじゃ、要を助けられない。こっちはあいつから、術を解くための方法を訊かなきゃならない。なのに相手は本体おれたちに関連性を持たせた媒介にダメージを与えることで、遠距離からでも確実に攻撃を加えてくる。いつやられるかわからない。

 ひょっとしたら、俺も術をかけられ、要のように欲望に忠実な化け物と化してしまう可能性もないではない。考えれば考えるほど、呆れかえるほど状況は最悪。だが何か案が出せるかもしれないと思い、俺は姫に奴の魔術のことを手早く話した。類似性の見られるもの同士、接触のあったもの同士を関連付けて、媒介越しに術をかけること。


「……面倒な魔術を使う相手だな。でも、ひょっとしたらと思うこともないわけじゃねぇ」

「なんだ?」


 どこから狙われるかわからないので、俺たちは身を寄せ合い二階にある小部屋の隅に移動した。冷たいコンクリートの感触がじかに伝わってくるそこで、しかし姫は梓弓の弦を鳴らし続ける。これほど切迫した状況となると、いつテオドールが要の命を切り札にしてくるかわからないからだ。要に自害させる以外に、テオドール自身が殺害に及ぶ可能性もある。時間は少ない。


「死なない程度にいたぶって、解除の方法を吐かせる……ってこれ出来ねーんだった、今のナシ」

「出来ない?」


 弦を弾きつつ、答える姫。


「かなり簡略化した術式動作ではあるけど、梓弓の退魔これは儀式魔術みたいなもんだ。使用者であるあたしの魔力が切れれば使えなくなるし、わかってっと思うけど、あたしは魔力が少ない。もって三分だな。それに、あんまし追い詰めると異界に逃げられるかもしんない。ぱとりしあの索敵で見つからなかったってこたぁ、極小の異界を作れる可能性がある」


 タイムリミットが、定められてしまった。

 どうする。俺が一旦捕まって出て行き、テオドールと共に雇い主の元へ行く間に探してもらうか。ダメだ、分が悪すぎる。ならば、なんとかして時計だけでも一時奪還するか? 時間内に出来る保証はない。

 落ち着け、考えろ。なんとかして手を考えなくては。


「……俺は結局、周りに迷惑をかけるだけの吸血鬼ばけものなのか」

「そりゃ違うぞダンナ」


 横に居た姫が、こちらを見上げつつ言う。


「間違いを真にわかってやれんのは、同じように間違った奴だけだろ。でも、間違っちまうと大半の人間はそのまんまだ。その中でダンナは、間違ったかもしんねーけどちゃんと今はここに居る。ここで、誰かのために生きてんだ」


 まあ間違わないで正せることも大事だけどよ、と付け足して、姫はにっと笑った。黒いマフラーの奥で犬歯がのぞく。凛として、きれいな笑顔だった。


「そうか。なら、正しい奴だと思ってくれるなら――もうちょっと、ついてきてくれ」

「承知」


 そこで、俺は再度思考に埋もれる。だが、すぐにそれは中断させられた。肩を叩く音。


「なんだよ、姫」

「姫さんじゃなくて悪いな。私なのだよ」


 手の甲で肩を叩いたのは、両手を包帯でぐるぐる巻きにした辻堂だった。


「お、おまえっ!」


 まだ返り血の残るブレザーとシャツを着込んだまま、辻堂はそこに居た。後ろからは、ひょこっと金髪の少女が出てくる。


「なっ、おまえなんでここにいんだよ!?」

「ぱとりしあ?」

「あはは、ダンナさんのお友達が宿に来たから。気になっちゃって、結界解いてもっかい索敵したの。そしたら――いままで察知できなかったおっきな魔力の気配が、索敵に引っ掛かったからね。おまけに西洋魔術師みたいだし。渡航許可、持ってないだろうな……ああ、あとごめんね、ダンナさん。連れてくる気はなかったんだけど、撒いたつもりがつけられちゃったみたいなの」


 冷静な顔つきで出てきたぱとりしあは、一応私服であり黒いワンピースを着ている。そして前に立つ辻堂のことをつついた。つつかれた辻堂はちらりと後ろを振り返ってから、俺に向き直る。「事情はだいたいきいた、把握した」とつぶやく。

 どうやら、ぱとりしあはある程度まで辻堂に話してしまったらしい。緊急時だから仕方ない、と俺もうなずきを返した。


「治療してからおまえさんの宿屋に行ったら、既に犯人を捜しに行ったとかこのボクっ娘が言うのでね、どこに行ったのかつけさせてもらったのだよ。で、ここに……要がいるのかね。有和良」

「まあ、そうなる。でも今、あいつは人質に取られてる」


 何か言いたいような顔をした辻堂に、二階のこの小部屋から見える屋根の上を指差す。こっそりと上を見た辻堂は、要がそこで捕らわれているのを見たようだ。見開かれる目、慌ててこちらを向き、身を隠す。


「だいたいは聞いていたが……なぜだね? あいつが犯人ではなかったのか?」

「見ての通りだが、詳しくは説明してる暇はない。とりあえずこの部屋から出るなよ、今は壁の影と一体化してるから狙われないが、俺たちの影が単一で見つかると攻撃される。……うまい説明も思いつかないし現実をありのまま伝えるとだな、上にいるあの男は影とかを媒介して攻撃出来る魔術師だ」

「なるほど、では見つからないようにせねばな」


 一同、しばらく沈黙した。


「理解出来たのか?」


 いきなり現実から遠く離れた魔術師の話を始めたというのに、何の苦もなくそれをスルーした辻堂のことが信じられない。だが奴はいつも通りの暗く淀んだ目で、いつも通りの半笑いの表情を返してきた。こんな時でもいつも通りで居られるこいつは、一体なんなのだろう。


「半分信じてはいないが、ゲームみたいなものだと解釈すれば楽なものだ。全部が全部嘘という空気でもなさそうではある。で、要はどうすれば助けられる?」


 呑み込めた表情の辻堂に、どうも呑み込めない俺は向き直って、こいつの順応力に感謝しつつ首肯する。だが要を助けることは、唯一最大の問題点だった。そして今のところ、この状況をクリア出来る条件の過程が見つかっていない。残された時間はあとわずか。

 考えろ。ここに居るのは吸血鬼、一般人、清めの射手、悪魔祓い。敵は共感・類感魔術の使い手、影を見せればやられる。人質が正気でいられる時間はあと少し。おそらくあの魔術の解除には共感・類感魔術の媒介となっているものを、破壊しなくてはならない。

 しかし、探そうにもあてはない。魔術師本体を倒しても、死の寸前に送られた魔力による行動指定で要は自殺する。手詰まり。媒体を探せないことが、敗因になって……いや、待て。


「媒体の位置……これさえ見つければ、勝てるんだ。残りの全員で足止めして、一人が破壊しに行けばいい……」

「それはそうだけどよ、その場所がわかんねーんだろ?」


 姫がダメだしする。だが。それは解決できる。


「今から探すんだよ、短時間で探し出せる方法があった。辻堂、お手柄だ」

「私か?」


 大きくうなずき、俺は背の高い辻堂の後ろに居る、ぱとりしあを見た。


「探索術式。あれを使って探し当てるんだ。魔力を持ってるものなら、何でも察知出来るんだろ?」

「でもそれは、ダンナみてぇに弱い魔力しかない奴は探せねーって言ってただろ」


 その通り。俺のように魔眼にしか魔力を持たない吸血鬼などは、小さすぎて察知の網の間をすり抜ける。だがそれは、広範囲にわたって雑に術を展開するからで、彼女の本業である悪魔祓いの時のように「この館の中のみ」などといった狭い範囲を指定するなら、察知できる可能性はかなり上がるはずだ。

 要がここに来たことと、奴がここにいたことに関係が無いとは思えない。奴の根城はここだったはずで、ならば大事な媒体を、離れた位置に置くとは考えにくい。


「やってみてくれ。この狭い工場の範囲内なら、探せるかもしれない」

「ん! 了解なの」


 話半分理解したような様子の辻堂をおいて、三人だけで会話を進める。やがて、ぱとりしあは静かに緑の瞳を閉じ、短く詠唱した。


「……Invoke a search magic. Exertion of my authority. Hear my wish, please tell me the place of the lost articles.」


 ふっと空気が静まり返る。徐々に、大気へと言葉の意味がしみこんでいくようだった。残り時間はあとわずか。要が自我を持って抵抗してくれている間に、俺たちは媒体を見つける。絶対だ。

 十秒もしないうちに目を開けたぱとりしあは、つらそうな顔をして俺たちにささやく。


「…………うそ」

「どこだ?」

「ない。ないよ、この工場のどこにも」


 ぱとりしあはか細い声でささやき、再度詠唱を始めようとするが、工場になかったという事実は覆せない。ここからしらみつぶしに探索範囲を広げるわけにもいかず、後ろの辻堂や姫にも絶望的な雰囲気が漂い始める。


「本当に、なかったのか」

「ごめんなさい。でも、術に間違いはないと思うの。この近辺、少なくとも半径三百メートル以内には、他の魔力の反応はどこにもないよ……」

「そん、な」


 先ほど現実に感じたばかりだが、また足元が崩れ落ちてしまったような錯覚を覚えた。

 それでもまだ前を向くことができたのは、姫に背を叩かれたためだった。


「しっかりしろ、ダンナ……! まだ、終わったわけじゃねぇだろ」

「でも、姫」

「うまい手がねえなら、仕方ねえよ。悪い方から二番目くらいの手だが、他にないなら仕方ねえだろ。こうなりゃ全員でかかって、とっ捕まえる。異界に逃げられるかもしんないけど、他に手なんて」

「ちょっとまて」


 焦った俺たちがどう突っ込むか考えようとしはじめた瞬間、辻堂がぼそりとつぶやいた。


「異界、といったかね? 姫さん、そりゃあれかね、別の世界とか、そんな意味の」

「ああそうだよ。あたしらの宿もそうなんだが、世界の狭間に……」


 言いかけて、俺も姫もぱとりしあも、目配せした。

 そうか。そりゃそうだ。単純な話だ。

 媒体といって漠然となにか大きなものを想像してしまっていたが、そうでないのなら、持ち歩く方が安全で、安心に決まっている。その次に安心な場所があるとしたら、絶対にだれにも侵されない領域、金庫のような場所に隠すこと――つまり、異界。


「でかした辻堂」

「本日二度目だね。お前さんから賛辞をいただくなど、こりゃ雨でも降るかな?」

「無事助けられたら、賛辞も雨あられとくれてやるよ」


 そりゃどうも、と薄く笑い。暗い、ほこりっぽい小部屋の中で、ポケットに手を突っ込んだままの辻堂は不気味に立ち尽くしていた。だが、その姿になぜか期待を持てたのも確か。認めたくはないが、一般人にもかかわらず、こいつがいるだけで妙な安心感があった。


「すぐ戻る。要と一緒に」

「ああ。腕っ節のない私は、ここまでだ。あとは頼むぞ」

「任せろ」


 できるかどうかはわからない。けれど、わずかながら糸口は見えた。姫とぱとりしあを連れて、俺は小部屋を出ると屋根の上に続く鉄梯子を上る。寒風吹きすさぶ屋根の上に戻ってくると、テオドールと、逃れようとしている要が居た。


「出てきたネ、吸血鬼。さあ、ショータイム・ダヨ」


 ぱちんと指を鳴らす。完全に梓弓の効果が切れたらしく、要の瞳はまた虚ろで明るさの欠片もない表情を見せた。

 それが、俺の感情に火を入れる。


「間もなく始めて終わらせる。――自分で幕を閉じるか、俺たちに幕を破られるか。好きに選べよ、テオドール・メイザース!!」


        +


 姫の放った一矢が、鋭い音と共にテオドールの足場を狙う。要がそれを受けようと体を動かすが、姫が矢を射るより早く動いた俺が要の体にタックルしてそれを止める。人狼の暗示は、要にケガをさせないために使っていない。今の有和良春夏秋冬はただの吸血鬼、年齢相応の身体能力しかないガキだ。そのまま要を引きずって、姫、ぱとりしあが横に並んでいるのを過ぎ、一番後ろへ移動する。

 テオドールは動じることなくナイフを投げ、矢の影を縫いとめていた。それで止まるかに思われた矢だが、なぜかテオドールの足場には確実に当たっていた。


「ほほウ」


 足場を確保するため移動すると、矢は確かに空中で動きを止められ、今落ちるところだった。ならば、もう一矢は。


「一本目の軌道とわずかにズらし、死角になるヨウに同時に射ったのカ」

「初見で看破するとは思わなかったな。その通り、星野流〝陰矢おんし鷹爪ようそう〟。得意技なんだけどよ」


 頭を掻く姫。やはり、つがえる矢は二本。同時に射るなど普通、出来る芸当ではない。そしてさらに言うなら、その技を初見で見切ることも出来るわけがない。だがここはそういう場で、俺たちはそういう奴らだった。常識の慮外に位置する、魔人の巣窟。

 何も言わず、テオドールは反撃としてナイフを投げる。数メートル離れた位置に居た有和良と要の影を、狙う一撃。


「Invoke a bless magic, exertion of my authority. Hear my wish, pleaese deliver us from evil!」


 早口で呟いたぱとりしあの文言が、魔術の障壁を張ってくれたらしい。白い光が走り、俺の影に刺さろうと迫ったナイフは空中ではじき返された。前を見れば、そこには金色の髪をなびかせ、魔術書を片手に持った黒いワンピースの後ろ姿。

 まるで修道女か何かのように見えたが、そんな敬虔けいけんな様子は見受けられず、怜悧な表情でそこに立ち尽くす。ようやく俺は、ぱとりしあも異能の使い手なのだ、と認識した。要を押さえながら、傷つけられないようにしながら、俺は彼女の姿を見やる。


「ごめんね、魔術師。邪に染まって悪魔を呼ばれると、ボクら(統合協会)のお仕事、増えちゃうから。残念だけど会ったらそれも運命、それもお仕事……Invoke a bless magic, exertion of my authority. Contracted spell, rampart breaker.」


 今度は彼女の書から、光の柱が砲弾のごとく撃ちこまれる。舌打ちして距離をとり、蓮の杖を振りかざすテオドール。だが光が走った直後には姫の矢が逃げ道をふさいでいた。両足を射抜く軌道で、二本の矢が迫り、けれどナイフの投擲で矢は止められる。空中でさらに蓮の杖を振るったテオドールは、笑みを浮かべて俺たちに杖先を向けた。


「踊れ舞い踏メ、タランテラを」


 ぐ、と持ちあがったのは、俺たちの影だった。ぐねうねと好き放題動く影は、俺たちの体の動きとは関係のない方に伸びる。自ら、ナイフの的になりにいこうとしている!


「させるか!」


 媒体に宿ってしまった魔力は、梓弓でも消せない。梓弓が消せるのは、あくまでも一瞬、空間に漂う魔力を掻き消すだけなのだ。ではどうするかと思えば、呼吸を整えた姫は、奥歯を食いしばって強い弓をぎりぎりと引き絞る。つがえた弓は太く、まるで白い大槍のように見えた。


「〝貫矢かんし白鳥衝嘴びゃくうしょうかく〟ッ!!」


 ボウっ、と矢が放たれたのとは質の違う音が聞こえた。矢自体の重さと、破格の強さを持つ弓による、ただの力任せ。けれど狙いの正確さと、あれほど重たそうな矢をつがえる早さは、力は力でも技の域に達している。

 最強の、力技だ。空気を打ちぬいた矢は着弾した位置の屋根一帯を爆発のような威力で吹き飛ばし、破片による散弾でテオドールの動きを一瞬、止める。こちらの足場である屋根もところどころが砕けたため、ナイフを届かせようにも影が少なくなる。


「Rampart breaker!!」


 詠唱時間を稼いだぱとりしあが、続けざまの連続攻撃で光の柱を放つ。体勢が立て直せていなかったために、これを儀礼剣を振るい術式で防ごうとしたテオドールだが、そこに梓弓が鳴らされようとしているのを見て躊躇する。もう魔力切れで姫は退魔の弦を鳴らすことはできないが、ブラフとして威力を発揮した。

 光の柱が、ついに奴の片腕を捉えた。儀礼剣を持っていた左腕が弾き飛ばされ、苦悶の表情で唇をゆがめる。歯と歯の隙間から、呪いの言葉がささやかれた。蓮の杖先が、自分へ向けて振るわれる。


「――ッちぃ、調子に乗ルなよ、黄色い猿ドモが――ッ!! 〝Floating(流動する) shadow(己が分身)〟!!」


 ぞぶりと、奴の影がたわんだ。

 素早い挙動で起き上がった影は大きなマントのようにその裾をはばたかせ、テオドールに巻きつく。矢は影に弾かれて、あらぬ方向へ逸らされた。

 全身をまとう影により、奴のシルエットは変貌していた。黒いぼろ布のごとく常に形状を変化させている影は、特に奴の腕を太く囲い、一対の巨大な触手のようにうごめいている。頭から胴体、爪先に至るまでも影に浸食されており、かろうじて目だけがのぞいている状態だった。

 そして、爪先から、屋根の中へと沈み込んでいく。いやちがう。影の中へ、影の世界(、、)へと入りこんでいるのだ。

 これか、と俺は直感的に確信する。


「打ち滅ボス――この類感の極地、味わいつくシテ舌禍を詫びつつ死ぬがイイ!!」


 急いでつがえた矢を撃ち込む姫だが、まとった影の一薙ぎで彼方へといなされる。先ほどの大槍のごとき矢ならちがったのかもしれないが、あの矢を射るのは相当疲れるようで、まだ姫の手先は震えていた。

 けれど、俺は目だけで会話を果たした。姫が俺を見て、俺はぱとりしあを見た。瞬時に連携の準備は整い、そして――


 一瞬の攻防が始まった。


 背後。要を押さえるべく無防備なままだった俺の背後にあった影より、テオドールが出現する。

 だが予想はできていた。向こうも俺が予想できているところまでは、予想できているだろう。ただ影からの出現などという不意打ちに、俺が対処できない可能性の方が高かっただけで。

 影を媒介した空間転移。影の上に本体がある、との思考から、影の上ならばどこにでもいるという暴論を導き出す魔術。確かに瞬間移動は脅威ではあるが……出現の瞬間、攻撃の瞬間、こちらの反撃はできないわけではない。


「鷹爪!!」


 姫の矢が、絶妙な間隔で俺を避けるよう放たれる。俺を囮にしての、背後からの攻撃。予期していたか、己の眼球を狙う矢を影でつかみとる。そしてもう一矢は回避された時のためのものであり、逃げ場を塞いでいたのみ。そのままの姿勢でいれば、当たらない。

 そう思わせてからの(、、、、、、、、、)


「『識れ』」


 高速で飛来する矢じりが、眼前を過ぎる一瞬に。

 鏡のように研ぎ澄まされた矢じりの表面に映った己の眼を見て、俺は幻視を現実へと昇華した。

 人狼の暗示が、俺の体を駆動させる。要を離し、反転して、奴の顔面に裏拳を叩きこむ。限界を越えた身体動作が、コンマ一秒だがテオドールの予想した反応速度を上回る。瞬間、生まれた奴の動揺と困惑の刹那を貪りつくして、俺の拳が弾幕となり打ちのめす。

 影の防御下にあり、いかに転移による回避が可能であれ、被弾を当人が意識し術式がコマンドを実行するまでの零コンマ五秒、攻撃は通る。


「おおおおおおぉッッ!!」


 裏拳の拳頭をそのまま押し付け寸勁。後ろに押し込んで追撃の左ストレート、送り足を持ってきての左肘鉄砲を首に打ちこみ、擦りあげるように顎を打ちあげ、距離を詰めての右ショートアッパーでさらに上に送りこむ。

 影の耐衝撃性能が優れているのか、最初の寸勁以降の手ごたえこそないものの。頭部へ揺さぶりをかける連撃に、さすがにテオドールも動けないと見えた。だが影の触手が、びくりと蠕動ぜんどうした。危険を嗅ぎ取って蹴りつけながらバック転で抜け出ると、左腕の触手のみが影に消える。

 やばい、と反応して横っ跳びに回避すれば、影から突き出た触手が俺の体を薙ぎ払おうとしていた。あぶねえ。


「読みが甘いッ! 甘いネエッ!!」


 哄笑をあげるテオドールは、触手を伸ばした。要が、囚われる。手を伸ばしたが、もう遅い。首までつかってしまい、そのまま影に――


「あんたも甘いぜ」

「Rampart breaker, 〝full dress〟!!」


 槍のように太く、巨大な白き矢が放たれ、テオドールの頭部が被弾してその重さにかしぎ、折れ曲がる。凄まじい烈風が吹き荒れ、同時にたっぷりと詠唱時間をとって威力を増したぱとりしあの光の柱が一筋、奴の影にひびを入れる。


「きさ、っまぁっ、ナゼッ、私の影ガ!」

城壁崩しランパート・ブレイカーだからね。直接打撃より、障壁突破が本来の使い道なの」


 やり取りの、ほんのわずかな硬直。人狼の脚力でなら、余裕で間に合う一瞬だ。

 首までつかった要のいる影の中に、俺は飛び込む。深く閉ざされた五感の鈍くなる暗闇ではあるが、思ったよりも広くは無い。手足を伸ばせば、床の感触、壁の弾力があった。なにも見えないが、もったりとした空気のわりに水中のような動きづらさは無く、匂いは感じ取れる。

 奴の、きついオーデコロンが付着した、媒体の形すら感じ取れるほどに。


「触れるナ、吸血鬼ィッ」

「おまえこそ」


 影の中に沈み込んできた、いや逃げてきた。敗走寸前のテオドールは、俺の方に触手を伸ばし、必死に自分の媒体を奪い返そうとした。この狭い中では、さすがに人狼の素早さでも回避はできそうにないが。

 攻撃してくるってことは、見えてるんだろう? おまえには、俺の顔も位置も。

 だったら、いつもと同じこと。俺は手の中の感触から、手足の生えたこけしを思わせるようなその媒体――奴のいう我慾の従僕(マリオネット)を、向けた。……こんなもんで人を操れると思うな。人はおまえの操り人形になんかならない。

 だれかを光指す力にだって、なれるんだ。


「『識れ』」


 人形への認識を、フラッシュライトの認識に。

 影を照らされたと誤認識したテオドールは、自ら術式を解除して、生身のままこちらに突っ込んでくる。奴が今日という日を決行に選んだのも、天候が曇りだったことが要因にちがいない。


「おまえこそ、俺の友達に気安く触るな!」


 人形を踏み砕くと奴の腹に向けて。

 俺は全力の発勁を以て、拳を突きこんだ。


        +


 解除された途端に影の異界から出てきて、テオドールはまだ殴られた勢いが残っていたせいで、屋根から落ちる。

 途中、さっきの俺のように一度ワイヤーに引っかかってから床に叩きつけられ、動けない様子だった。横には折れた蓮の杖が転がっており、これで魔術はもうほとんど使えないはずだった。


「うわ、きつそうなの」

「死にはしないだろ。一応ワンクッションあったし」


 かつかつと歩き、二階に飛び移ってからワイヤーを伝って下りてゆく姫。 ぱとりしあは普通にハシゴから下りる様子だったので、俺もそれに続く。気絶した要がいたので少々手間取ったが、無事に下りると姫たちに追いつく。


「か、あ、き、きさま、ラ」


 せき込みながら恨み言を呟くテオドール。奴に進み出て、要を姫に預けて俺は言う。


「終わりだ」

「……うる、サイ、まだ、私ハ!」


 立ち上がると、数メートルの高さから叩きつけられたとは思えない速さで工場の奥へと逃げていく。ドラム缶などにつまづきながら、それでも奥へ奥へと逃げる。それを、じりじりと追う。最後の足掻きか、とまだ油断なく。

 やがて、奥まった部屋の中へ逃げ込んだテオドール。どうやら手があったわけではないようで、みじめたらしく這いずりながら、俺たちの追撃を避けようとしているのみだった。溜め息をついて、俺は拳をかまえた。

 だが、そこでマズいことが起こる。

 曇っていた天気が晴れ、西日が工場の入り口からテオドールの居る奥の部屋までを照らした。最初、全員が状況を把握できなかった。けれど這いつくばっていたテオドールには、見えていた。強く差し込んだ光によって、俺たちの影は、テオドールのナイフが届く距離にあった!


「し、しまっ」


 狂喜に歪むテオドールの顔、そしてナイフがいま正に投じられようと――


「伏せろ!」


 辻堂が吼える。その声でまだ増援が居たと気づいたテオドールは挙動が遅れ、その隙に俺たちは伏せ、影はわずかに短くなった。それでもまだ届きそうに思えたが、辻堂はつりさげられていたワイヤーに向かって放置されていたブルーシートを投げた。高い位置からの影に影が覆われて、ナイフが届こうと意味が無くなる。


「やれ有和良!」

「ほんと、おまえ今日は役に立つよ!」


 すくんで立ち上がることもないテオドールを無理やりに立ち上がらせ、俺は奴の顔面に右の拳を叩きこんだ。

 今度こそ奴は沈黙し、俺は振り返って、姫たちに頭を下げた。ようやく、騒動にひとつ、けりが着こうとしていた。


        +


 俺はワイヤーでテオドールを縛り、転がしておいた。ぱとりしあいわく、自分の実家繋がりでこうした魔術関連の事件を解決する連中を呼んだとのことなので、俺たちはしばらくそれを待てばいいらしい。


「日本国術法統合協会、っていうんだけどね。陰陽道神道修験道密教、ありとあらゆる術の流派が手を組んで、立ち上げた機関なの」

「へえ。ああでも似たようなの、イギリスとかにもあったよ。英国秘法術総合結社(B.S.S.A)っていうんだ」

「知ってる知ってる。MI6とも関係あるんだよね。日本のは、陰陽寮っていう昔から政治とも関わってきた機関が前身でね、まあぶっちゃけいまも陰陽師が一番幅を利かせてる機関だよ。おかげで西洋魔術師のボクとか、肩身狭くって」

「大変なんだな」

「だから宿屋に来た、っていうのも少しあるかな」


 ちょっと遠い目をするぱとりしあに何も言えず、俺はうつむいていた。




 そして統合協会とやらの人間が来たのだが、俺たちが紅梅乃花弁の人間だと知ると、なんだか嫌なもの見るような眼で見られた。

 事務的な手続きで事情聴取などがなされ、テオドールは表の世界、つまり普通の旅行者としてならば問題は無いが、立場ある魔術師としては事前告知もせずに来日したことで無駄に国家間の緊張を煽ったとして厳重な処罰がなされると聞かされた。もちろん今回の一件で堅気の人間である要を襲ったことも併せて追求されるらしい。

この俺、吸血鬼を襲ったとかの事情については、ノータッチだ。そもそも俺のような存在は魔術世界のさらに裏側で語られるのみで、こうした機関など魔術世界でも表の人間には知られていない。ある意味の放置であり、特別に守られることもなければ、こちらの反撃……俺の追っ手の殺害、なども放置されている。


 後日また話を聞かれるとのことで、今日はその場から全員でさっさと退散し。すっかり日も暮れた、少し雲の残る空の下、家の近くまで戻ってきていた。

 気を利かせてくれたのかなんなのか、姫とぱとりしあは先に宿に戻って行った(姫はぱとりしあと一緒でちょっと嫌そうだったが)。


「さて、これで一件落着……といきたいんだけどな」


 沈んだ様子の要。帰路の間中、俺は話して理解してもらえるレベルまで話題を噛み砕いて、この一件について説明したのだが。


「要は、悪くないんだよ。あの魔術師が、深層心理での欲求を表に出した、っていうだけでさ」


 いくらそう諭しても、気落ちはさっぱり戻らない。どうしたものか、と俺は頭を抱える、すると要が口を開いた。こちらを見る目は先日の姫と同じ、自分を罰することにしか意識が向いていない目だ。


「わたし、ね。ほとんど、記憶がある。有和良君の家の近く、で。学校の、プール裏で。保健室では、辻堂君を、切った。最後に、有和良君、にも、噛み付いた……半分は、自分の、意思だもの。罪がないとは、言い切れない」


 強い語調。自己の犯した過ちを、真正面から受け止めようとする姿勢。

 けれど、それを行うにはあまりに、小さい。これは要のことだけじゃない、俺を含めてのことだ。自分で自分を罰することは、際限なく行えてしまう。だから、絶対に自分の許容量を超えてしまう。溢れてしまうのだ。俺はその分を、だれかのために命を使おうと考えることで、なんとかいっぱいいっぱい、やっているけど。


「でもさ」


 足を止めた要を振り返って、俺は言った。


「今まで、ずっと吸血病のことを隠して、ずっとその衝動を抑えて、戦って生きてきたんだろ、自分と」

「今日、負けた」


 自嘲を含んだ笑みが張り付き、本来の柔らかな表情がかき消されている。

 俺は、それが許せなかった。


「……一回でも負けたらダメなのか? そうじゃないだろう」


 冷たい風の吹く中、影が長く引き伸ばされてゆく。冬の日暮れは早い。


「負けたって立ち上がることが、大事なんだろ? 負けない方がいいかもしれない。でも、人間は弱いから負けることだってある。俺だって、ずっと負け続けてる。宿命に捕らわれて、生きるために罪を犯した吸血鬼だ」


 左の魔眼。幻覚を視せるだけの魔眼を発動し、俺は落ちていた枯れ枝を花束に視せた。驚く辻堂と要。


「こんな風に特殊な能力も持ってる、吸血鬼。だからああやって、狙って来る奴が居る。だから、おまえを人質にされた。……本当にすまなかった、俺のせいで、こんなことになったんだよ。それに、俺も吸血鬼だから血を吸わないと生きていけない。普段飲んでたパック入りの飲み物、あれも、輸血パックだ」


 ポケットに入っていた中身のほとんど無いパックを手渡す。辻堂はフタを開け、中身の臭いを嗅いで鉄が香ったらしく、慌てて鼻を遠ざける。


「有和良、おまえさん、本当に?」

「細かい説明はまた後日詳しくする。――要。誰だって何か抱えてるんだ。誰だって何か事情があるんだ。人を傷つけたことは、それは確かに辛いけど、まだ謝って、償える領域のことだろ。でも、辛いなら、話してくれ。事情があるなら、心配させてくれ。今度は間違えない、ちゃんと俺も、辻堂も、本当の意味で傍に居てやれるからさ」


 ゆっくりと顔が変わっていき、またも、要は泣き出した。辻堂はそれを見据えながら、どこか遠くを見る。

 今ならわかる。俺には、あの時要の気持ちがわかっていなかった。だからどう接していいかわからず、最後の方などは近くに居るだけの〝無関心な人〟になり下がってしまったのだ。それで、なんとか出来ると思っていたのだろうか。いや、多分、思っていた。まったく違う方向だというのに、自分も「酷い目」に遭ってきたから。そのうぬぼれが、要を傷つけた。

 今は、少し違う。あの日の間違いを、認めた。そして、わかろうとしている。あの時は、自分は既にわかっている、だから受け止めることだけが大事だ、と思っていたけれど。

 その深さも、重さも分からないというのに、受け止めるなどとはバカバカしい。俺は、考えるのが面倒だっただけだ。他にやるべきを放棄して逃げただけだった。それがわかっているのだから、今は、少しだけ前に進んだ、そう思う。


「じゃあまた明日、な。要」


 俺がそう言って背を向けると、要が後ろから無言で抱き付いてきた。辻堂の視線が、痛い。でも。


「……うん、また、あした……」


 大事な友達を今回は、少し、守れた。

 誰だって何か抱えていて、それも日々変わってるのだろうけど。今日俺は、抱えたものを投げなかった。

 それはきっと、進歩という変化だ。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ