十八頁目 其の吸血鬼の正体。(仰天心痛)
姫の部屋に閉じ込められてしまった俺は、為す術もなく勉強を始めることとした。白藤が運んできた教科書類を雑多に積み上げ、危ういバランスを取る。それを見ていた姫も、部屋の三方を取り囲む本棚から数学の教科書を取り出し、そろそろと鉛筆を手に取った。
「くそ、でもやっぱりさっぱりわからない。やっぱりきちんと誰かに教えてもらうべきだった」
俺の頭をたちまち取り囲む意味不明な公式の群れ。
「分からせる気があるとは思えない!」
開始十五分。匙投げた。
「……そんなんだから試験に落ちるんだろ。もっとしっかりやりやがれ」
正面に座る姫が呆れ顔でこちらを見る。頬杖をついて片手で教科書をめくり、時たまノートに数式を書き込む様子は真面目な一学生のように思われる。もし年相応に普通の世界で生きていれば、ひょっとしたらそういう姫を見ることもあったのかもしれない。
「でもその場合、姫は中学生か」
「誰が中学生だっての!」
「ああいや、もし普通に俺とかと学生生活を送ってたら、そうなったのかな、と」
ひどく怒った様子なので、慌てて理由を話す。すると姫はまだ不満そうに俺を見ながら、呟く。
「あたしは十五だけど、それは三月生まれだからだぞ。普通に学校に行ってたら、ダンナと学年は同じだよ」
「え」
普通に学校に来ていたら。たとえば、うちの制服を着た姫も考えられなくはない、と。
クラス内で普通に座り授業を受け、一心不乱に黒板に書かれた言葉を書き写し、放課後はアーチェリー部にでも顔を出して規格外の能力を発揮して驚かれ、最後に夕飯の買出しなどをし宿に帰る。
率直に思う。似合わない。
「ぶっ」
「おい、今笑ったろ。絶対笑ったよな、もしくしゃみだって言っても許さないかんな。なんだよ、あたしが高校生やってたらおかしいって言うのか? そりゃダンナの友達の時計とかに比べるとあたしは小さいけど、笑うこたねーだろ!」
いや、そうやってわなわな震えてる様子とかを見てても、どうにも高校生なんてやるガラには見えない。せいぜい中学校に通って学ラン生徒の中に混じってる程度だろう。セーラー服でも着て……セーラー服?
「くくっ」
「短い時間の間に二回もっ……! んだよ、そんなにおかしいのか! もういい、ダンナのばか」
教科書の薄い背が鋭いスイングで側頭部に打ち込まれる。吹っ飛んで部屋の出入り口に当たった俺だが、結界に反射されて元の位置までカムバック。じんじん痛む頭を押さえて机に突っ伏すが、姫はふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。哀しい。
にしても、結界は相当強力に張られているようだ。ほとんど人間に近く、魔力というものが眼にしか宿っていない俺でさえ、外に出ることを禁じられる。さっき軽く触れたときはなんともなかったのにぶつかって行くと跳ね返されるということは、恐らく与えられたダメージの分を直接返すという結界なのだろう。軽く押せばその力を返されて相殺され、引き戸は開かず。強く押せば跳ね返される。畳も歩いていて違和感があるが、踏みしめた分の力をこちらに返されているからだろう。
「こりゃ本当に出られそうにないな」
「……その方がいーよ、あたしは」
穏やかにそう告げ、ノートに視線を戻す。話題が外の騒ぎに向いたせいか、またも表情が翳った。そういう顔を見るのは、こちらもいささか心苦しい。
「でも、そのせいでこの部屋で俺と一晩過ごさなきゃならないみたいなんだけど、いいのか?」
「……それは」
「言いよどんだな。信じてくれてないのか」
いやそんなことは、と少し表情を和らげてこちらに向き直る。俺がからかった笑みを浮かべていたのを見てとると、かあっと顔を赤くした。
「……こっのぉ! あたしはまだ伸びきってないだけだ!」
バシンと脳天に一撃、大上段からの面。数学の教科書、その表紙にある無機質なキャラクターが視界内で拡大し、そして唐突に消失した。背中からどさりと畳に突っ伏す。
これでいい。元気でいるのが一番だ。とはいえ、少々やられすぎな気もしなくもないが。
「お食事お持ちしました。とはいえ、わたしも結界内部に入ると出られなくなってしまいますので。床に置いて差し入れますがお許しください」
そのまま大の字になってしばらく寝ていると、葛葉が食事を運んできた。二人分乗せられたお盆を床に置き、スライドさせてこちらに差し入れる。俺は上体だけ起こしてそれを受け取り、コタツの上に乗せた。姫はこちらを向いてむすっとしているが、おもむろに箸をつかむとお椀を取った。小声でいただきます、と呟き、澄まし汁に口を付けている。
「ところで、ダンナ様。お風呂はいかがなされますか? まだなのでしたらわたしたちが先に使わせてもらいますが」
「まだも何も入れないよ。ここから出られないんだから」
ああ、そうでしたか、と呟き、一礼して踵を返す。そして、ぴたりと動きが止まってこちらを振り向いた。なんとなくぎこちない表情で、黒いショートカットを掻き分けると澄んだ瞳で俺を見る。なんだか心中を見透かされているようで怖い。
「あー、その、えと、ですね。本当に、ここに、泊まるのですか?」
口元に手を当て、少しくぐもった声を出す葛葉。なんだかそわそわと落ち着かない。言葉がつかえることも含めて、これはかなり珍しいことだ。
試しに葛葉の居る廊下の方へと手を伸ばす。しかし虚空でその手は弾き返され、やむなく俺は座り込んだ。葛葉はその様子を見て、これは仕方が無い、と納得してくれたらしき顔になる。姫はその間ももくもくと食事を口に運んでいた。
「結界がこれだけ強力だと出るのは無理だ。術師としての技量があれば抜けられるっぽいんだけど、俺はそっちの才能はゼロだから肉体で破壊出来ない檻は出られないし。重いだろうし悪いんだけど、部屋から布団を一式、取ってきてくれるか」
俺の説明に頷き、階段とは逆方向の俺の部屋へと足を向ける葛葉。少しして、一式を両手で抱えて歩いてくる。俺は「そこからさっきみたく差し入れてくれ」と言おうとしたのだが、次の瞬間には廊下と部屋の間にあるへりにつまづいた葛葉が、布団ごとこちらに倒れ込んできた。慌てて受け止めるが、押し潰されて畳と一体化してしまう。
「ぐぎゅ」
「あ、ああ! 申し訳ありません、ダンナ様!」
布団と葛葉のボディプレスから脱した俺は、息をついて本棚に背をもたせかけた。するとその振動で本の山が崩れたのか、頭上からドサドサドサーッと雪崩が発生。バコッと音がして脳天に本の背がめり込み、眼の奥で火花舞い散る。
「びっくりさせんなよ葛葉、そんなドジするなんてらしくもない、っていうかダンナ大丈夫か? うずくまって動かないけど!」
視界がブラックアウトしかけていて見えないが、どうも慌てた様子の姫がこちらに駆け寄ってきているらしい。狭い部屋で暴れるとこういうことになる。哀しい。痛い。らしくない。
「とりあえず、葛葉。落ち着け。いでで」
「だ、ダンナ様、すいません。ちょっと慌ててしまいまして」
「大丈夫か?」
なんとか顔を上げると叱られた子犬のような目をした葛葉が布団の上でうなだれていた。姫は片手に箸を持ったまま、俺の頭を触ってダメージを確認してくれている。うぐ、触るな、まだ痛い。って、うわー、当たったの大辞林かー……よく無事だったなー……。
「ホント、慌てるなんてらしくないな、葛葉。まあコブで済みそうだし、どうでもいいけど。なんでそんなに慌てたんだ?」
「いやその、特に理由はないんですが」
本棚を向いて俺から目をそらす葛葉。理由ないなら別に気にしないけれど。さて、これは弱ったことになった。
「どうすんだ。これで葛葉も囚われの身じゃねーか」
やれやれ、と首をすくめる姫。その通り。人外、魔力を持った人物を内部に閉じ込めるこの結界は、中に入ってしまえば罠のごとく外に出ることは出来ない。無論、妖狐の血族である葛葉にも、その効果は及ぶ。吸血鬼に猫又に妖狐と三種の人外が檻の中、だ。代わる代わる二人の顔を見るが、双方とも溜め息一つついている。
「ただでさえ大きくない部屋だってのに、あたしの他に二人も寝るスペースはないぞ?」
「うう、そうですね。四畳の部屋に、三方を本棚が占拠。押入れは封印状態。布団を広げてもいい場所がありません」
姫は狭い部屋の方が好きとのことでここを使っているのだが、実はここは物置だったとのことである。その狭さは本来居住スペースでないという事柄が示している通り、天井さえもそう高くはない。
今俺の前には長身の葛葉が座っているわけだが、俺より背が高いのだから寝転がれば畳一つ分はスペースを取ってしまう。無論、これは寝返りをうつスペースを考慮しない場合であり、俺と触れ合わないだけのスペースを確保するにはさらにハードルが高くなる。それに、小柄とはいえ姫も寝るのだ。俺に許される場所は、ない。
「恐るべし結界、入ったら出られない」
「その言い方やめてくんない。なんか哀しくなってくんだろが」
「ごめんなさい、わたしの不注意です」
しおれた様子の葛葉は、しかしなぜだろう、口調ほどに表情が固くは無い。姫は頭を抱えて机に肘を突き、これからどうしたものかと思考しているように見えた。俺はどうしたものかわからず、とりあえず本棚と本棚の間に立ってみたりする。
「なにやってんだ?」
「寝る場所ないから立って寝ようかなと」
わりと本気で言ってみたのだが、今度は二人ともが頭を抱えた。
「ダンナ様はわたしたちよりも立場が上なんです。立って寝させるわけにはまいりません」
「でも俺も女の子を立って寝させるような鬼畜にはなりたくないんだよ。どんな姿勢で寝るのにも俺、慣れてるしね。それなら主人権限で二人を布団で寝させるさ」
「そういうとこで持ち出すなよ、ずるいぞダンナ」
「なんとでも言え、もしくはフェミニストと言え。それとも全員で折り重なって寝るのか?」
冗談混じりで言ってみたのだが、二人は真剣に考え込み始めた。待て待て。女の子と折り重なって寝るなんて出来るわけないだろ。精神的に色々きついものがあるんだよ、一応男なんだからな。
「……まあ妥協案だし仕方ないか。これ以上の譲歩は互いに出来ねーだろ」
片目を閉じた姫が、腕組みしてそっぽ向いたまま肯定の言葉を吐き出す。おい。
「仕方ないですよね他に何も方法がないんですから。ダンナ様、わたしの膝枕でよろしいですか」
何言ってるんだい葛葉? それは冗談だよな?
「いくらなんでもその案は勘弁してくれ。お願いします。テキトーなこと言ってすいませんでした」
誠心誠意手を合わせてお願いする。二人は喜怒哀楽入り混じった微妙な顔をしたが、冗談だと言って笑い返してくれた。さっきの微妙な顔の意図は探りたいような放っておきたいような微妙なラインなんだけど、まあ結果オーライか。
「少しくらい触れられてもわたしは気にしませんよ。全員横になることは、寝返りをしないようにすれば出来ないこともないでしょう。ダンナ様も一応男ですけど、節度くらいは守ってくださいますよね」
「あたしもあんまし気にはしてねーんだけどさ、一応ダンナも男だろ? 全然気にならないって言えば嘘になる。けど、気をつけてもらえるってんなら、こっちは構わないぞ」
一応一応って二人して言うな。なんか男としての尊厳傷つけられた気分だ。
「はぁ。なんかとんでもない結界に入れられたな。『勉強させるため』入れられたはずなのに、これじゃ全く手につかない」
そこは集中力だろ、と姫に言われ、返す言葉も無い。でも、精神統一、一点集中の気構えでいけば色香に惑わされることもない、というのは結構正しい言葉ではある。よし、一度頑張ってみるか。
「さて、鉛筆と消しゴム」
「ダンナさーん、お風呂とかトイレはさすがに行った方がいいよね! ずっと閉じこもりっぱなしには出来ないもの。あはは、すっかり忘れてたよー、あや、葛葉ちゃんもいるの?」
筆記具を取った途端にぱとりしあがやってきて、一瞬で結界を解いた。
……なんだ、何回もかけ直し可能だったのか。
+
川澄さんは召喚した式神の視界を使って町をくまなく探したが、結局今夜は誰も犯人らしき人物が見つからなかったとのことだった。ぱとりしあも索敵術式を使ったそうだが、この近辺には潜伏していないとのこと。
「異界を作るとかして、魔力を遮断してたらわかんないけどね」
「つまり、白藤みたいに世界の狭間があったら、ってことか?」
「作るの難しいしできても狭いけどね。白藤ちゃんみたいに大きい空間は、九十九の年月が溜めた気とか魔力とかが生んだものだから。インスタントに作る異界は、ごくごく狭いものになるよ」
「で、そこの察知は難しいのか」
「術は届かんからまず無理だ。見鬼の術を持つ眼の中でも、上位にある淨眼でなければ異界をみることは適わん。我ら宿の人間も霊視程度は可能な眼を持ってはいるが、けしてそれ以上ではないのでな」
俺も魔眼を除くと、幽霊を視るくらいのスキルしかない。あとは魔術関係のトラップを見切ることも可能ではあるが、それは術的なものではなく長い逃亡生活の経験からくる『勘』に近いものだからなあ。
ちなみにぱとりしあの術式、吸血鬼など魔力の弱い種族は察知できないそうだ。結界など範囲を限定した術式なら察知する効果も高まるとのことだったが、そういうのは悪魔祓いの仕事などで「この館にいる」とわかっていて追い詰める際に使うものであり、広範囲を探すためのものではないらしい。
風呂を上がって黒いトレーナーとジーンズを穿いた俺は、そんな話を聞きつつボサボサと広がる髪の毛をタオルで拭く。姫と葛葉は俺と交代して風呂に入っており、厨房に居るのは残りの従業員だった。
「じゃあまだ犯人は捕まえられないのですね。どうしたものですかね、これは」
柊が頭の後ろに両手を回し、椅子を船漕ぎさせながら誰ともなく問う。川澄さんはそれを見てたしなめ、不満そうな顔をしつつも柊はそれに従っている。白藤もぱとりしあも黙り込んで、どうにも話は進展しない。
「こうなったらもう、足で探す以外に方法はないかもしれんのぅ」
「それは最後の手段だ。大きくないとはいえ、この町を四、五人で歩いて犯人を見つけられるとは思えないよ。向こうも逃げるんだから。それに、見つけたとして俺みたいな吸血鬼とか、弱くても面倒な能力を持った奴が相手だったらどうするんだ?」
とは言っても俺の魔眼は特異体質で、普通の吸血鬼ならばただ幻覚を見せるだけの能力が大半だ。
人を永久に操り支配するという魔眼も古代にはあったそうだが、現代にはそんな化け物の存在は確認されていない。吸血鬼は狩りつくされ、数が減っている……まあともかくも、対吸血鬼戦になったとしても目さえ合わせなければ大体大丈夫なのだが。念には念だ。
「大丈夫であろう。これで実際、柊も私もぱとりしあも腕は立つ。葛葉は言わずもがな、白藤はここに残ってもらわねばならんが、侵入者があればなんとかしてくれよう。皆、力を合わせれば十分な力を持っている」
「でも通常業務の方もあるだろ。姫が抜けた分の穴埋めも必要だし」
「ふむ。しかし懸念があり、しかもこちらにも実害がありそうな状態で営業を続けるのはいかがなものか」
言うことはわからなくもない。とはいえ、どちらも追いすぎるのはよくない。そこで俺は、先ほど結界をかけ直しているのを見て、思いついた策を述べる。
「良案がある。これさえあれば、次の事件が起こるまでには犯人を捕まえられると思う。おまけに人数も、そこまで割かなくていい」
「そんな方法思いついたの?」
ぱとりしあが目を丸くする。いや、そう大したことじゃないんだけどな。
「今日中にこれをやってくれ。それで万事解決、だ」
俺は四人の耳を集めて、犯人捕縛のための方法を提示した。
+
翌朝、学校に行くためシャツとブレザーを着込み、鏡の前に立って相変わらずなハリネズミ頭に嘆息。勝手口で靴を履きながら、背後にある階段を振り返り、そこで寝ているであろう姫のことを考える。
もうまもなく、真犯人は捕まる。そうすれば、姫も自分が何かしたかもしれない、という考えに捕らわれずに済むのだ。体ごとでなく首だけ後ろを向いていたためか、ずきりと姫に噛まれた傷が痛んだ。
「ふわ、ダンナさんいってらっしゃい」
「なんだぱとりしあ、今日は早いな」
別に普段もそう遅いわけではないが、この時間帯は朝食を取っていることが多い。ぱとりしあは寝ぼけ眼を桃色のネグリジェの裾でぬぐいつつ、片手で俺の通学カバンを差し出す。その所作はとてものんびりだ。
「結界を張り続けてるから、寝てないの。寝てても一応大丈夫だけど、精度は落ちちゃうから」
「そうか、悪い」
「じゃあ貸し一つ。こんど、久しぶりに将棋の相手してね」
にこっと笑ってそう呟く。約束を取り付けてしまうとこれからが面倒なので、俺はあーとかうーとか濁った発音を交えながらカバンを奪取、引き戸を開けて逃げ出した。振り向くと口をとがらせてぷいとそっぽを向いた姿が見えたが、気にしないでさらに足を急がせた。
冬の朝の冷たい空気を裂いて、走る間も口からのぼる白い息。すっかり寒い季節になり、最初会った時は少々違和感を感じた姫のマフラー姿も、町に溶け込むことが出来そうな頃合になった。もっとも、あの赤い髪と緋色の着物が目立ちすぎて溶け込むのは不可能に近い話なのだが。
と、考え事をしていると前方に見慣れた茶髪が歩いている。百八十ちょいの長身でムダに威圧感を与えつつふらふらと歩く男。横から前に回りこむと、両手で携帯ゲーム機を握り締めていた。
「よ、辻堂」
「なんだね有和良、今忙しいのだが」
パチパチとボタンを押し、戦闘を進めている。ゾンビを殺して進むゲームのようだ。俺は現実で殺伐としたものを見すぎたためにあまりゲームというのは好かないが、毎日暇を持て余している人間にはちょっとした刺激があるといい、らしい。辻堂の言葉だから信憑性は皆無だが。
大きなフレームの眼鏡の奥にある暗く濁った瞳は、今や焔のごとき揺らめきと輝きを持って、画面を真剣ににらんでいた。この様子だけ見ているとたしかに刺激も必要なのかもしれない、などと考えてしまうが、それも「個人差」の一言で片付ければ済む。要するに、辻堂個人が少々おかしいと考えるのが妥当だ。
「なんだね、その目は」
「いや別に」
「ふん……昨日、また休んだな。おまえさん、調子でも崩してたのかね。時計が心配していたが」
尋ねてくるが、その目は俺が病欠だったなどとは少しも思っていない。画面から一切目を離さないというのに、俺の状態は把握出来ているようだ。おそらく、要に聞いたのだろう。
「ああ、用事がちょっとあっただけだ。今日は大丈夫だよ」
「最近用事がやたら多いようだが? おまえさんの一族は命日が今月に集中しているようだな」
「命日が用事とは限らないだろ。宿屋の仕事でちょっと、な」
「色々と大変なようだな、宿屋主人よ」
「おかげさまで仕事も板についたよ」
他愛もないことをしゃべりながら物静かな通学路を歩く。学校までは、もうそんなに距離は無い。辻堂はゲーム機をカバンにしまい込む。
「本当に色々と大変なようだな、おまえさんは。色々と、な」
「?」
やがて、校門が見えてくる。生活指導部の方々や風紀委員が立っている難所。服装を改めろと難癖つけられる場所、というのが生徒の正直な感想だろう。俺も辻堂も服装はそう乱れていないので文句は言われないが、どうも気分的にクールダウンする。
だが、今日はそこに彼らがいない。どうしたことかと思って見ていると、どうやら校門から少し離れた花壇のところに集まっている様子だった。野次馬根性で辻堂は俺をつつき、仕方なく俺は奴の後ろについていく。五、六人からなる人の壁の向こう、何があるのかと思いきや。見慣れた銀髪がぐったりしていた。
「要!」
俺が声を上げると要は目を開き、黒い大きめの瞳でこちらを見た。周りに居た生活指導部の方々や風紀委員は知り合いと思しき人物つまり俺の登場で落ち着いたのか、数人は散らばりながら説明をしてくれた。
「君この子の知り合いかい? いやあ参ったよ、貧血で倒れたみたいなんだけどわしらで運ぼうとすると嫌がってね」
「ちょっと人見知りするタチなもので。特に男はあんまり近づけないんです、俺は大丈夫みたいなんですが」
「じゃ、頼むよ。保健室に運んでいってあげてくれ」
角刈りで蒼いジャージを着た先生は、竹刀を振り上げながら持ち場に戻っていった。実のところ、要は男嫌いらしく触れられるのを少し嫌がる。例外的に触れても嫌な顔をしないのは、俺と辻堂だけだ。しかしあの茶髪メガネはいつの間にやら雲隠れしてしまったらしく辺りに見当たらないので、結局運ぶのは俺の仕事のようだ。
腰を下ろし、花壇にへたり込んでいる要に呼びかける。一瞬戸惑ったような間があったが、他に手もないのでそろそろと背に覆いかぶさってくる。姫ほどじゃないにしても、要も驚くほど軽い。
「どうせまた減量でもしたんだろう」
「あうう……そんなに、そんなにひどくは、やってないん、だけど……」
「食事制限するとな、朝昼は少なかったから夜はもう少し、とかやって最終的にバランスが崩れるらしい。その崩れた分が何になるのかは、恐ろしくて俺は言えないんだけどね」
しゅーんとうなだれた様子が伝わってくる。黙ってのろのろ歩き、俺は正門から外れたところにある搬入用の入り口から入る。正門から行くと他の生徒の登校時間に重なって、このおんぶお化けの状態をさらすことになるからだ。要の分の通学カバンも持って歩くのは少々辛いが、幸いにも正門からそう遠くないところに保健室はある。
「すいませーん」
一階の、中庭に面した出入り口。カーテンが閉まっている保健室の中に呼びかけると、さっとドアが開く。すらりとした長身が視界に入り、理知的とコミカルの中間みたいなメガネ。立っていたのは、白衣に身を包んだ辻堂だった。
「おまえ、どこに行ったのかと思ったらこんなところに」
「倒れてるのが時計だと気づいて、すぐにこちらを開けておいたのだよ感謝してくれ。朝のうちはここ、開いてないことが多いのだからな」
たまに気が利くな、と思いつつ靴を脱いで室内に上がると、暖房の効いた部屋特有の乾いた空気に包まれた。そのまま俺は奥にあるベッドに要を寝かせ、枕元にカバンを置く。肩がこった。
「ごめん、ね。わざわざ、運んでもらって」
「気にするなよ、大したことじゃあない」
「その通りだ、有和良は劣情のためにこの行為に及んだに過ぎないのだ。朝っぱらから愉しんだかね、いやむしろ朝だからか」
「何言ってんだおまえ」
殺意を込めて肩に手を置くと、辻堂は慌てて備え付けのソファの裏に隠れた。チキンめ。臆病なら最初からやるな。
「じゃあ俺は先生呼んでくるよ。いつもの貧血だろうけど、念のためな」
「了解、私は看病しておこう」
大事無いようで安心した。俺は校舎内に続く方の出入り口から冷えた重苦しい空気の漂う廊下に出て、職員室に走った。
+
有和良が出て行って数秒後、中庭につながる出入り口から先生が入ってきた。本職の白衣の天使は室内に居る堕天使を見ると顔をしかめ、慌てて辻堂はそれを脱ぐ。
「どうもどうも。すいません、私の友人が倒れてしまいまして」
「貧血?」
そうですそうです、と呟き、へこへこと下手に出る。そんな辻堂を無視して、ベッドの所に居る要の元に向かう先生。
辻堂はその様子を見届け、カーテンの閉まったベッド周りを見やる。
それからおもむろにソファより立ち上がり、そっとカーテンに近づいていった。
「有和良。たまには日常を大事にするがいい」
+
まさか先生と入れ違いになるとは思わなかった。俺はとりあえず誰も連れてこないで、もしまた入れ違いで辻堂などが来たら戻ってもらうよう言伝だけ残して保健室に戻る。だがドアの近くに近寄る瞬間、嗅ぎなれた臭いで背筋に緊張が走る。
鉄だ。鉄臭い、血の臭い。
「なんだ?」
ドアを開けると、カーテンがはためいていた。ベッドの周りを囲むクリーム色のカーテン。その下から、人の足。足が突き出していた。
「ッ!?」
駆け寄ってカーテンを開け、そこに居た人物を確認する。白衣姿の、保健の先生。
首筋には牙痕があり、まだ血が流れている。頬を叩くとうめき声がした。
他には誰も、いない。
要と辻堂は――どこに行った?
ベッドの横、中庭に向いた窓が開け放たれている。ベタな状態だが、これはこちらに二人が行ったということに他ならない。まさかこの部屋のどこかに隠れていることもないだろう。窓枠を飛び越え、冷たい地面を踏みしめる。二人の姿は……居た! 一階の校舎と校舎をつなぐ渡り廊下のところを、要を追って辻堂が走っている!
「辻堂ッ!」
呼びかけると、びくりとこちらを向く。その両手には、血。風下であるここに居ても匂う、濃厚な血の香り。
「おまえ、」
しかしこちらを向いたままでいること七秒、奴はまた走り始めた。俺はすぐに、遠ざかろうとする後姿を追う。辻堂は駐車場の方へと逃げていき、学校の敷地と外を隔てる一番低い部分の柵を飛び越えた。俺も後に続く。
――頭をよぎるのはくだらないことばかり。みょうちきりんな奴の口調、容姿、性格。何度も呆れ、疲れさせられた。趣味も人より外れて、周りから虐げられることも多かった。それでも、奴はまっすぐな奴だった。そこだけは、唯一にして一番、好ましいものだった。なのに。なんで、あいつが、犯人なんだ。
三、四百メートル走った辺りで追いついた。学校から離れ、川に架かっている橋の上。元々そう体力のない辻堂は、俺の体当たりで転げて止まった。
「何をする!」
「こっちのセリフだ……! 何やってんだ、おまえ! なんだ、その血は!」
詰問すると、辻堂は掌を見つめる。真っ赤に染まった両手、恐ろしいまでの鮮烈な色彩。
「血……? バカか、有和良! これは私の血だ!」
「え?」
こちらに突き出した手、その中心には大きく、一直線に切り裂かれた痕があった。傷口はぐずぐずと血を噴出し、辻堂は痛そうに顔をしかめる。俺は一体何がどうなっているのかわからず、ただただ困惑するだけ。
「くそ、おまえさんが足止めするから見失ってしまった! どうするのだよ」
「見失った、って…………」
「時計だよ……あの状況で他に犯人が居るのなら、お目にかかりたいものだ。私だってショックだがね、クソ、まったくなんでこんなことになったのか皆目検討もつかんよ! 突然、保健の先生に噛み付いた! それを止めようとしたら、これだ。カッターナイフで切られるだけで済んだのは、マシな方かね」
地面を殴りつける辻堂。
俺はその横でうなだれる。
〝時計要は、吸血鬼〟そんな事実が、胸の奥に沈みこんでいった。
友の正体。