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十七頁目 押し潰されそうな、自己の罪。(自己不信)

 弱った。事態は、どうなったのかさっぱりわからない。

 倒れていた男の人は多少血を抜かれてはいるがさして命に別状はないだろう、ということは血の流れに詳しい吸血鬼としての勘でわかる。血の気は引いているが、しばらくすれば回復するだろう。一応、救急車だけは近所の人に電話を借りて手配しておいた。それから、家に戻る。


「おや主。見つかってもいないのに帰って来たのですか」

「それならおまえはどうなんだ」

「主人に無礼な口をきくでない、柊」


 勝手口には川澄さんと柊が立っていた。どうやら残りの二人はまだ探してくれているらしく、俺としては申し訳ない気分になる。無理やりにでも、姫を引き止めておけば良かった。


「見つからなかったのですな、主」


 肩甲骨にかかる細い栗色の二つ結びをくりくりと指に巻きつけながら、弱り声で柊がぼやく。川澄さんはというと、外で何か起こっていることに関心を寄せていて、こちらは見ていない。

 俺は二人に外で今さっき倒れている男の人が見つかり、その首筋に牙痕があったことから誰かが襲ったのだろう、と推測されること。そして猫又の本能が目覚めている時は記憶がとぶという姫が、自分がやったかもしれないという思いに駆られてか、逃げ出したことを話した。


「……となると。また探しに出た方が良いということになるな」


 紺の羽織をはためかせ、袖口から再び札を取り出す。その所作に合わせて、黒猫スミスがささっと川澄さんの肩に乗った。柊はというと既に走り出していて、素早い動きで塀を乗り越え屋根を伝い忍者のように……あんな子供にも運動能力で負けるのか。哀しい。


「探索はどちらかと言えばぱとりしあの専門なのだが」


 ぶつくさ言いながらも用意し、先ほどと同じように札で術を行使。またも蠅の群れを飛ばし、同じ方へ走り出す。ちなみに術士である川澄さんには蠅の感覚が捉えた位置の見当はつくらしく、その気になれば街一つ探しつくすことも可能だそうだが、魔力の消耗が激しいためにそれは最終手段だと述べていた。

 俺も白藤に葛葉とぱとりしあにまだ捜索を続ける言伝ことづてを残し、門をくぐる。




 完全に夜が明けて夜気の残り香が辺りから消え失せていく。代わりにこの季節特有の冷たく乾いた素っ気無い風が吹き、落ち葉と共に夜明けという時間帯を吹き散らす。学校に行かなければならない時間だが、そんなことも気にしてはいられない。走って走って、どこかへと逃げ去ってしまった姫を探さなければならない。

 だが走り出して数分、角を曲がったところでどっ、と誰かに衝突した。とっさに手を伸ばしてその細い手首を掴み、地面に倒れないように補助してやる。だが見慣れた萌黄色のブレザーと青いプリーツスカートが目に入り、ふと顔を上げるとかなめだった。


「要、どうしてこんなところに? 普段はこっちの道通らないじゃないか」

「有和良君? えと、たまには、一緒に学校、行こうと思って。昨日はごめんね」


 そのためにわざわざ回り道をしてきたらしく、嬉しそうに頬を緩めていた。


「そうか。でもごめん、要。今日はちょっと用事があって、学校にも遅れるんだ。出来たら、クラスに遅刻することを連絡しておいてもらえるか?」


 わざわざ来てくれたのにこう返すのはちょっと心苦しかったが、今は非常事態だった。表情からある程度事情を察してくれたらしく、要は残念そうだが納得の表情を浮かべて頷いた。そしてそのまま別れて、俺は再び走り出す。


「くそっ」


 そのまま駅前に走ったり商店街へ向かったり、様々な場所を探した。だが、どこにも姫の姿は見当たらない。ひょっとして、もう二度とその姿を見つけられないんじゃないかと、そんな考えが頭をぎって怖くなった。首筋の傷が、動き回ったせいでまた開いている。

 だからといって、足を止めたら体の痛みなど比べ物にならない痛み、恐怖に襲われる。足を止めるわけにはいかなかった。

 今頃、姫は俺の感じているそれよりもっと大きな恐怖にさらされている。押しつぶしてしまいそうな巨大な恐怖は、一人で居ても絶対に解決することが出来ないものだ。人は一人でも生きられるけれど、他の人と助け合って生きてゆけることは無意味なんかじゃない。一人で絶望の中に居る必要を、失くすことが出来るのだから。


 もうこの近辺にはいないんじゃないかと、そんなことを考え始めた頃。商店街の端から住宅街に伸びる交差点のところで、ぱとりしあに出会う。やはりぱとりしあも見つけていないらしく、頭を掻きながら他にどこか行っていない場所はないか、考えた。


「姫ちゃん、気配消してるみたいなの。ダンナさんと同じでもともと魔力の多い方じゃないし……ボクも感覚を研ぎ澄まして探したけど、全然見つからないよ」


 動き易くするためか、白いブラウスと黒いスカートに服を変えたぱとりしあはしょげている。俺の探した場所とぱとりしあの探した場所はほとんど重複していなかったので、探すべき範囲はぐっと狭まってはいたのだが。逆に言えば、それだけの広範囲を探していないということは、遠く離れたところへと移動してしまった可能性も示唆しさしている。


「自分が誰かを襲ったかもしれないことが、よっぽど怖かったんだろうな」

「さっき白藤ちゃんに聞いたけど、誰かが咬まれてたんだよね?」

「ああ。首筋に牙痕がくっきり。でも、姫がやったっていう証拠はどこにもない。やってないって証拠もないけど、それならそれを証明するまでだ。見捨てるわけも、突き放すわけもない。早く見つけてやらないと」


 焦る俺。駆け出そうとして、服の裾を掴まれ。ズボンの端を握るぱとりしあは尋ねてくる。


「……すごいね。どうしてダンナさんは、そこまで他の人のために頑張れるの?」


 こちらを見据える緑の瞳に宿る光は少し冷たく、なんだか普段のぱとりしあよりも大人びて見えた。


「俺だって姫と似たようなものだから。吸血鬼として迫害され、追われ、何をやったのかやってないのか自分でもわからなくなる時があった。そういう時は、一人にしてたら駄目なんだよ。誰かが近くに居て、理屈も何もない、ただ安心させてやるのが大事なんだ。俺はそうやって生き延びることが出来た」

「そっか。そうだよね――ならボクも。また、みんなで集まって遊びたいの」


 なら探さなくちゃな、と俺はぱとりしあの肩に手を置く。そして互いに別方向へ走り、姫を探した。


        +


 姫は有和良の学校に居た。授業中の学校というのは、体育を受けている生徒以外で歩き回っている人間は教師くらいしかいない。目立つ恰好の姫であっても、場所を選べば隠れる場所はいくらでもあった。

 その中から彼女が選んだのは、誰も来ることの出来ない屋上。五階建ての校舎の一番上に位置する場所は、誰からも遠く拒絶された場所。

 給水タンクに背を持たせかけ、膝を抱えてうずくまっている小さな体。金色の瞳は力なく開かれ、片手では鋭い犬歯を撫でていた。まだ血のこびりつく口腔内こうくうないは、生暖かい血の味と感触を覚えている。舌を突き刺す鉄の味は、自身の罪の証明。


(あたしは、ダンナだけじゃなく。誰とも知らない人まで、手にかけちまったんだな……)


 蒼穹そうきゅうから飛び降りてくる風は冷たく、厚い着物とマフラーの隙間から姫の体温を奪い去っていく。

 誰かを襲ったかもしれない、という事実に耐えきれず、姫は気づくと逃げ出していた。行く当ては無く、戻る気も起きず。どうすればいいのかわからず、この場所を選んでいた。そうする内に自身に対する落胆から存在感も薄くなり、宿屋のみんなが感知することも出来ずに居る。そこまで己を追い詰めている原因は昔の出来事にあったのだが、それに気づく者は未だ本人以外にはいない。

 やがて、終礼のチャイムが鳴り。がやがやと階下で騒ぐ声がし始める。そのことにすら気づかないほど憔悴しょうすいし切っていた姫だが、数分してさすがに顔を上げる。その理由は、ガチャガチャと屋上の出入り口で音がし始めたからだった。


「暖かいランチルームは満席御礼、居場所が無いのは哀しいことだねぇ」


 バラバラとドライバーや針金、ペンチといった工具セットを取り落としながら入ってきたのは、姫も多少面識のある辻堂だった。


「おや、姫さん。なぜにこんなところに」


 大きな眼鏡のブリッジを押し上げながら、長身の男は首をかしげた。姫は逃げようか迷ったが、その前に近づかれてしまったので、タイミングを逃す。


「パンはいかがかな?」

「え、あの……」


 自信ありげに差し出されたので、断るのも失礼に思い。辻堂が持ってきた数種類のパンからなるだけまともそうなものを選んだ姫は、軽く頭を下げながら礼を呟く。


「ありがと……」

「なに気にすることはない、姫さんにだったらいくらでもおごろう」


 にやっと不敵な笑みを浮かべて、辻堂は姫の横五十センチのところに腰を下ろした。長めの茶髪は風にもてあそばれてバサバサと広がり、鬱陶うっとうしくなったらしい辻堂はそれをゴムで一つに束ねた。並んでいたパンの山から一つ、誤記としか思えない『ハムカツクサンド』を選び取り、むしゃむしゃと美味そうに頬張る。姫は普通のピーナツバターサンドを少しずつ食べ、うつむいたまま。

 うれいを秘めた姫の横顔を見て、眼鏡の奥で井戸の底を思わせるほの暗い目をしばたかせる辻堂。何かあったのだろうな、と推測してきたのか、口の中のものを飲み込み。ぼそりと声を漏らす。


「何かあったのかね」


 蒼く澄み渡り、それゆえに何の変化もない空を見上げて。辻堂の呟きは虚空に飲まれて消えた。

 間を空けるというには長すぎる沈黙、ストレートな問いに答えあぐねていると、辻堂も居心地悪そうに尻を浮かせていた。姫はどう答えたらいいかわからないままに、考えながら言葉を紡いだ。


「自分の行動がよ、大事な人を傷つけたんだ。さらに言えば、無関係な人も。それがすごく辛くて苦しくて、どうしたらいいのかわかんないんだ。どうすれば、いいんだろ……あたしは、もう誰も、傷つけたくないのに」


 沈んだ言葉は辻堂の耳に届き、しばし考え込む。辻堂の脳裏には、今頃購買であたふたと仕事をしている級友の姿が思い浮かんだが、その記憶を思考の片隅に押しやる。銀髪の少女は現在笑顔で居ることが出来ている。もう心配はないのだと。

 だからこそ、その時の教訓をかてに助言を与える。だが姫の言葉の中に、既に答えは出ていた。辻堂は頭を掻いて、ぽつりと返す。


「誰も傷つけたくない、とは言うがね、それはどうやっても上手くいきっこないのだよ姫さん。人間、誰しも誰かに迷惑をかけ、傷つけあって生きている。だからと言って動くことを止めれば、周りの人々はそれを気遣きづかって、やはり心が傷つく。誰かとつながりを持ったら誰だって責任を持つのさ。それは逃れる必要のない責任だがね。誰だって持っているのだから、それぞれがそれぞれに少しずつ働きかけて、互いにあわせ持てば良い。

 心から大事にしている人というのは、そういうことも含めて許してくれるものだと思うがね。どこから見ても、姫さんの様子は過失から起こった何かのようだし……一言のびと、これからの償い。なんであっても、一番大事なのはそこだろうさ。逆に、一番ダメなのは逃げてしまうこと、かね」


 アボガドジュースを飲み込み、辻堂はごみを片付けた。横に居た姫の顔をかがんでのぞき込み、ちょっとだけ頬染めてから背を向ける。


「事態の進展には行動が不可欠なのだよ。それをおこたっては何が起こっても文句を言う権利すらない」


 ぐすり、と鼻をすすった音が聞こえた。振り向く辻堂の視界には、ちょっとだけ微笑む姫の姿がある。


「いいこと、言う人だな。あんたは」

「まあ、全てどっかの本の引用だがね。なんにしても、一人でこんなところに居ても仕方がないだろう? 女の子の泣き顔は、私の精神にかなり辛いダメージを与えるのでね、笑顔になったらその誰かに謝りに行くのがいいさ」


 そうする、と呟いて微笑んだ姫に、辻堂も笑い返す。校舎の中に消え行く背中に、姫はお礼を言った。


「ありがとな、辻堂さん」

「どういたしまして」


 ドアを閉め、鍵をかけなおす。手馴れた様子でカチャカチャと工具を駆使したが、ふと気づく。姫はどうやってあそこに居たのか。

 慌ててドアを開けたが、屋上には誰の姿も無い。実は配管を伝って正に猫のように下りていったのだが、そんなことに気づくよしもない一般人は、首をかしげながら校舎に戻る。しかしそこで教師に見つかり、延々と逃走劇を繰り広げることとなった。当然のことながら学校の屋上は進入禁止である。

 しばらく後。こってりしぼられて戻ってきた辻堂は、ぱたりと席に伏して動かない。そこに時計がやってきて、苦笑いをしつつも揺り起こす。よどんだ目をした辻堂は、死にそうだ死にそうだとリフレインしながら徐々に声量をフェードアウト。やがて目を閉じ、時計に向けて語りかける。


「……なんであっても、償いは大事だ、なぁ。時計」


 その呼びかけに、真剣な顔で頷く時計。辻堂は目を開け、時計の首元を見やる。


「大丈夫か」

「うん。昔は、昔、だもの」


 ふんわりと笑顔を浮かべたのを確認して、辻堂は再び瞳を閉じた。





 するすると屋上から校庭に降り立った姫は、誰かに見られないようにそろそろと歩き、プールの裏手を通って宿に戻ることにした。どう言って戻ろうかは考え物だったが、前進の心意気があるだけ以前よりはいい。そう思い、プールを囲う柵の周りを小さな背をさらに屈めて歩こうとしたのだが。

 人が居ることに気づいて立ち止まる。その人は力なく天を仰いで、気絶している。

 首筋には、やはり牙のあと


「なっ……」


 姫は立ち止まり、次いで逃げ出した。


        +


 俺が姫を見つけたのは、午後も四時を過ぎて暗く、寒くなり始めた頃だった。とうに足が動かなくなり、息を切らして神社の境内けいだいに腰掛けていた時。後ろで玉砂利を踏みしめる音がして、俺は振り返った。そこには沈んだ表情だがたしかに姫が居て、何よりもまず俺はほっとした。


「よかった。随分、探したよ。姫」


 だが歩み寄ろうとすると後ろに引く。これでまた逃げられてはたまらないので、俺はそこで進むことをやめた。姫は何か言いあぐねている様子だったが、口を開いてから数秒、ようやく言葉をつむぎだす。


「もう一人噛み付かれた奴が、出た」

「なんだって」


 思わず語調が強くなり、それにおびえたように姫は縮こまる。俺は冷静に努めて、姫に問いかける。そのまま放っておいたら、また逃げ出されてしまいそうだったから。目の前の小さな影は着物をぎゅっと握り締め、うつむいたまま立っていた。


「あたしがまた、襲い掛かったのかもしんない」

「そんなバカな。ちゃんと記憶はあるんだろう? だったら」


 俺の言葉にかぶりを振って、姫は耳をふさぐ。

 自分に閉じこもって、外の世界に触れんとするかのように。


「記憶なんてあたしの主観に過ぎないだろが。ひょっとしたら、もう、マフラーの術式だけじゃ抑えきれなく、なっちまったのかも。……そうなったら、おしまいだぞ。あたしは、本能のおもむくままに人を襲う、化け物だ。居場所を失くしたから、宿屋にきたけど。――――今度こそ、世界のどこにも、居場所が無いんだ」


 切れ切れに言葉を絞り出す。痛ましい様子。

 知らず、足が出ていた。嗚咽おえつを漏らし、泣き出しそうな姫の元へ。


「俺は信じるよ。姫はやってないはずだ」

「そんなもんわかんねーだろ!? あたしは自分で自分が信用出来ない! ダンナが信じてくれたって化け物には変わりない!」

「もし何かやってしまったんだとしても、俺も一緒に謝ってやる。俺はおまえの主人なんだから。罪も痛みも共有してやれる。俺だって罪人だから。その上で、思うんだよ、きっと。姫には居てもらわなきゃいけない、って」


 こちらを見上げていた姫の手を取る。一筋の涙を流していた少女の手は小さい。

 一度しゃくりあげて、姫もその手を握り返してくれた。必死な様子で。離さぬように。


「だからさ、今度こそ帰ろう」


 うなずいて、冷えたその手が少しだけ熱を持った。




 ようやく連れ帰ることが出来そうなのはいいが、思わずつないでしまった手は離される様子がない。柔らかで小さな手は俺の無骨な手の中に収まり、わりと強い力で掴んで離さない。振り返ると少しうつむいたまま、姫は俺の二歩後ろを歩いてきている。一歩ごとに、頭の後ろにある真っ赤なポニーテールが揺れていた。


「姫」


 離してくれ、と言おうと思い、呼びかけると姫は顔を上げた。

 桜色の唇はきゅっと力を入れて引き結ばれ、何か言葉を探している。細いまゆは力を失くしてうなだれ、その下にある大きな金色の瞳には少しだけ涙が溜まり、まばたきのたびに朱色に染まった頬の上を、滑り落ちる。

 潤んだ瞳に視線を戻すと、こちらを上目遣いで見上げながら、不安そうな表情を見せていた。


「……手、なんだけど。もうすぐ宿に着くし、みんなに何か言われないように離しておきたいんだが」


 そう話しかけると姫は瞳をぎゅっと閉じて、いっそう力を込めて手を握ってくる。首は小さくふるふると横に振られ、手を離したくない、という意思を発していた。離すつもりは毛頭なさそう。どうしてもこのままがいいということなら、こちらも別に強く出るつもりはない。

 結局宿に着いても手はつないだままで、仕方無くそのまま縁側に移動し座り込む。すると川澄さんとぱとりしあがやってきて、二人目の被害が出たことを俺は報告した。姫は何か話せそうな様子ではなかったので、マフラーの術式を破ったんじゃないかと恐れていることも、俺から話した。二人はそれを聞くと眉根を寄せる。


「とは言っても、そのマフラー、及びチョーカーと糸に編み込んだ術式は斎様が作られたのだ。神降ろしをしくじって鬼神と成り果てた魔性の化け物でさえ押さえ込む代物を、たかだか猫又の血族が破れるはずもない」


 俺には『神降ろし』というものがよく理解出来なかったが、要するに儀式に失敗して悪魔に乗っ取られたような奴でも押さえ込める、くらいに思えば良さそうだ。たしかに、今気づいたがこのマフラーに触れていると俺も血が吸いたくならない。人外の本能を抑制出来る道具、ということか。


「なんにしても、そんなに心配ならボクと川澄さんで結界バリアを張るよ。その中に居れば姫ちゃんは外に出られないから、事件の犯人が誰だったのかもわかると思うの」

「結界なんて張れるのか?」


 薄緑色の着物に着替えたぱとりしあは胸を張って「これでも悪魔祓い(エクソシスト)なの」と高らかに宣言した。……初めて聞いたよ。普通に考えて俺の天敵じゃないか。

 ともかく、術士二人はしばらく準備をするということだったので俺と姫はそのまま縁側に残り、空に昇り行く月をぼんやりと眺めた。手はつないだままで、少しでも動かすと姫が反応するため動けない。ちょっと気まずい沈黙。と、その手が動いた。今度はこちらが反応する番だった。見ると、小さな細い手は震えている。理由は、なんとなくわかる。

 ちょっとの慰めだけじゃ、全ての感情は振り払えないということ。さっきは一旦落ち着いたが、心にもたげた自分への不信感は、どうにも振り払えないものだったのだろう。震える小さな肩、懸命にこらえている恐怖が、掌から伝わってきた。けれど、その感情を和らげるために俺はここに居るんだ。

 こんな話で、ぬぐえるのかはわからないけど。


「――さっきさ。俺も罪人だ、って言ったろう」


 震える手をつないだまま、俺は横に居る姫に語りかけた。


「どれくらいの罪だと思う?」


 答えはしばらくの静寂の後、首を横に振ることで返された。つまり、罪人ではない、と姫は言いたいらしい。


「二百五十七人を、殺した。傷つけた相手はその三倍はある。俺が殺した人間の死に引きずられて、間接的に死んだ人数を含めたら、殺した人数も三倍になるかもしれないけど」


 眼を見開いて、姫はゆっくりとこちらを見上げる。葛葉くずはには葵さんの時の一件で知られることとなったが、まだ他の従業員には明かしていなかった事実だ。というより、言っても本気にはしてもらえないだろう。普段の俺は結構弱いから。


「吸血鬼の牙により得られる快楽。それを求めて好事家どもが送り込んでくる敵。その全てをこの手で薙ぎ払って、叩き斬って、引き千切った。私設の軍隊らしき奴らが五十人、やってきたこともあった。やっぱり、その全員に魔眼で幻覚を視せ、殺した。一人でも残したら報告に逃げられて面倒になるから、誰一人逃さず。利己的な考えの下に、皆殺しだ。

 許されるとは思ってない。相手だって家族が居て友人が居て、生活がかかっていただろう。そのつながりを断ち切って、壊して、焼き尽くした。それが俺だ。相手の遺族からすれば憎悪の対象だ。実際、好事家の手先じゃなく復讐鬼と化した遺族と戦ったこともある。全てはそう、つながりを失わせた俺の罪のためだ」


 つないだままの手を持ち上げ、姫の前にかざす。びくりとして、姫はすくんでいる。

 俺はこれを引き裂いて生きてきた。誰かと誰かの間にあった暖かなものを、微塵みじんに粉砕して生き抜いた。相手も仕事で、覚悟は出来てるとか出来てないとか、そんなことは関係ない。どんなに御託ごたくを並べても、罪は消えない。罪とは、何かを犯した時に自らの内側より湧き上がるものだから。逃れることは、決して出来ない。それを、つい最近葛葉と葵さんの一件で心に刻んだ。


「ここまで外れた人生を送ってる俺でもさ、誰かは必要としてくれてるみたいなんだ。きっと、そこには意味はあっても理由なんてなくて。だから、ここに居たいって心から俺は思えるんだ。理由なしでも必要とされてることが、単純に嬉しいから。そして俺も、誰かを必要としてる。今目の前に居る、誰かを」


 だからこそ罪を認めて前に進むことにした。誰かに迷惑をかけて生きているけれど、その分誰かのために命を使おうと思う。取り返しがつかないからといって逃げるのはやめなくちゃならない。取り返しがつかないとしても、頑張ることに意味があるから。


「……人殺しだけど、手をつないでても、いいか?」

「うん」

「ごめん」

「いいよ」


 どちらともなく言った。どちらともなく。

 つないだ手はまだここにある。これを残すことも、今の俺のすべきことだと思う。誰かと、つないだ手を。

 姫は俺の目を見つめ、そして視線を逸らした。薄くわかりにくい微笑みを浮かべて、中庭を眺めている。そしてそれからは会話をかわすこともなく、ただ手をつないだままぼんやりしていた。




 結界の形成が済んだと報告に来た二人に礼を言って、姫は自室に戻る。部屋の中にはなるほど、四隅に札が貼られペンタグラムや陣を描かれ、結界という場を作っているという実感の湧く内装だった。この室内は人外ひとはずれが入ると発動、外に逃がさないという術式で出来ているらしく、当然吸血鬼である俺も効果対象だ。よって、つないだままだった手を離す。

 手が離れた瞬間、姫は小さく笑って「ありがと」と呟いた。少しは、元気が出た様子だ。


「この間に、真犯人を探さなきゃいけないな」

「まったくだ。少なくとも、この近辺に犯人が居ることは確定しておる。なんとかして探し出さねば」


 川澄さんと共に腕組みし、どうにかして犯行現場を押さえる手を考える。と、そこに紙の束を数枚持った白藤が現れ、俺にそれを押し付けた。


「なんだよ、これ」

「おまえの知り合いからじゃろ。今日は寺子屋がっこうを休んだから、とか言ってたがの」


 問うと片眼鏡モノクルを外しながら、白藤はそう答えた。

 学校………………あ。


「そう言えば結局今日は休んだな。姫を探すのに必死になってたから全然気づかなかった。じゃあこれは辻堂か要が持ってきてくれたのか」


 プリントの束を見ると、「テスト勉強、大丈夫?」と丸っこい字で書いてあった。可愛らしい字体からして、要が持ってきてくれたらしい。マズイ、もう試験まで時間が無いんだった。とは言っても……そんなことより大事なこともある。


「ふむ、学業をおろそかにするのはいかんな。主人は犯人探しではなく、勉学に励んだ方がよかろう」


 さて足を使って犯人を捜しに行こう、と意気込んだ途端、横から俺のプリントをのぞき込んだ川澄さんが、腕組みしたままそんなことを呟く。


「もとより、ここから先は探すのにも足より術が重視されるじゃろ。なれば、主人が関わる必要性はないのう」


 白藤も頷き、俺を押す。ちょ、ちょっと待て。


「今は勉強どころじゃないだろう! こんな心境で強制されてもちっともやれそうにな、うわ」


 突き飛ばされ、姫の部屋に転がり込む。出ようとして入り口のふすまに手をかけたが、動かない。しまった、人外が入ると外に出られないように術式を編み込まれてるんだった。見上げると、廊下でやれやれ、と肩をすくめている二人。なんだ、その保護者面は。


「そこで勉学に励んでおるのが一番だろう。その間に、なんとしてでも私らが真犯人を挙げる。白藤、あとは頼む」

「了解じゃ、源一郎。外のことは任せるからの」


 そんな会話。待て、というのに聞く耳持たず。二人はそそくさとその場を後にした。


「ダンナも。出られないままか」

「たしかに試験は心配だけど、それよりも事件の犯人を捜すことが大事な気も」

「それを理由にしちゃならねーだろ。勉強はした方がいいと思うぞ」


 コタツに入ったままそう呟く姫。俺もそのままで居ても仕方が無いので、俺もコタツに潜り込んで嘆息。


「……あたしじゃないといいな。犯人」

「大丈夫だ。絶対に犯人なんかじゃないさ。きっと、すぐにみんなが真犯人を見つけてくれる」

「どれくらいで見つかんのかな」


 それはよくわからないが、すぐに見つかると思いたい。


「あれ」

「どーした?」

「じゃあ見つかるまでは、俺はずっと姫とこの部屋にカンヅメか?」


 沈黙が、場を支配した。


        +


 その頃、宿の中庭。広いスペースを取って、川澄は大規模な陣を縄で描いていた。屋根の上ではぱとりしあも、〝クロムウェルの書〟という名の魔術書を片手に索敵の術を行使している最中。しかし強い魔力の反応、術式の反応にばかり特化した術では何も情報を得られず、不満そうに顔を曇らせている。

 ふと顔を下に向けると、川澄の描く陣が目に入る。その中央に立った川澄は、パンパンと手を叩いて長い詠唱に入った。


「ボクの術式には引っかからなかったの。後は、川澄さんの術に頼るしかないね」


 屋根の上でゴロゴロしていた黒猫のスミスを捕まえ、ひょひょいと屋根から窓を伝って二階の廊下に入るぱとりしあ。スミスはぱとりしあの肩に乗っていたが、やがて川澄の姿を見つけるとそちらに向かって飛び降りていった。


「――出でよ。〝蝿縄はえなわ〟〝蜂峰はちみね〟〝蟻犠ありのぎ〟」


 ブブブブ、と羽音がして二匹の蝿がどこからともなく現れる。その二匹は空に飛んでいく間にどんどんと数を増やし、一つ塊の砂塵を思わせる形で、そのまま飛んで行った。また羽音が増して、今度は蜂が。次に音もなく、川澄の影から蟻の群れが這いだし、姫を探しに出ていく。


「本来は感知用の式神ではないのだが、ある程度視界を私自身と同調させることが出来るのでな。群れの一匹一匹からなる多数の視界をくまなく探せば、どこかには姿を見つけられるであろう。真犯人の、な」


 四角い眼鏡の奥に隠した老熟した瞳は、己の放った式神の行方を眺めていた。そこに、二階から降りてきたぱとりしあが話しかける。


「川澄さん、ボクの術式で見つからなかったっていうことは、ひょっとして犯人はあんまり強くない人外かもしれないの」

「どういうことだ?」


 尋ねられて、少し考え込む。そこで上手い例えを思いつき、呟く。


「たとえば……吸血鬼とか。ダンナさんを見てるとわかるけど、あの特殊な眼を使う時以外はほとんど普通の人間と同じなの。簡単な言い方をすると、普段は人間になってるんだよ」

「だから見鬼けんきの技にもかからない、と?」


 うなずくぱとりしあ。普段はお気楽極楽トンボな彼女だが、エクソシストとしての技量は以前見たことがあり、川澄も信用している。その道のプロが言うことには、それなりの重みがあるということだ。ぱとりしあの見鬼、すなわち索敵の術法は半径十キロメートル以内を探索する強力な術である。


「まだ、続きそうだよ。この事件」


 杞憂だと思いたいな、と川澄は舌打ちした。


 そして長い、長い夜が始まる。


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