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十六頁目 本能を抑えるのはとても難しい。(衝動衝動)

 事件というのは何気ない行動のために起こる。派手に凄惨なものであれ、陰湿で地味な物であれ。

 ともかく、一人の人間の行動を狂わせる要素は、大したものではないということ。


 姫は夢を見ていた。

 遠く近く、離れては触れる記憶。

 過去と決別し、住み慣れた場所を出た幼い日。

 血に濡れて立ち尽くし、尚、微笑みを浮かべたその日。

 忘れたくても忘れられない手に降り注ぐ鮮血の感触と甘い匂い。

 口の中に残り引き千切れる肉の食感、その粗悪なひき肉のような味。

 夢を夢と気づいた瞬間、姫は自分が随分と動揺していることに気づいた。

 だが、なぜこんな夢を見たのかだけは、正確に理解が出来た。

 つまらないくだらないどうでもいい理由だけれども。

 あの日も、酒を呑まされたということが。

 明確に脳裏をよぎったから。

 清め、洗い流すため。

 浴びるように。


「う……頭痛いよぅ……」


 普段の彼女からはちょっと想像出来ない、弱りきった声。赤い髪の少女は、ぐったりした様子でむくりと起き上がった。その瞬間、寝返りをうった際に首から外れかけていた、黒いマフラーがはらりと落ちる。

 その隙間に見えた、チョーカーが、指先に削ぎ取られた。喉の渇きに、がりがりと爪が喉をかきむしる。痛ましい音と共に、尖った先端が、皮膚を裂いてしまう。一筋の血が流れ、そして、皮膚の下に埋め込まれていたある特殊な糸が、切断された。

 時刻は明け方三時。場所は冬の訪れを感じる、肌寒い廊下。水を飲みに階下に下りた姫の金色の瞳、その瞳孔が引き絞られる。猫のように細い、切れ込みのような瞳孔。頭にも白い耳、着物の裾をめくって尻尾も出てきている。空には、ぼんやりとした月が、光を落としている。

 姫の瞳は、もうその光を映さない。


        +


「はっ、寝てた。まずい、いかん、もう寝てる暇もない、ってうえぇ、なんだこれぇぇ」


 しかし二時間前さっきまで見ていた生物のレポートは、こぼしたお茶で解読不能。勉強出来るような代物ではなくなってしまっている。と、それだけのことでモチベーションの低下を感じてしまった。

 勉強とは集中力こそが大事。逆に言えば、少しのことでそれを乱してしまった時点で俺の負け、か。


「……すぐ戻ってきてやる、そこで待ってろ」


 馬鹿にしたようにふやけたレポートに一瞥いちべつくれてから、俺は廊下に出た。最近めっきり寒くなってきたので、厚手の作務衣で寝ないとこうして夜中に目覚めることが多い。こうなると、体を中から温める以外に方法はない。この宿には、石油ストーブよりも性能のいい暖房器具はコタツしかないのだから。

 次、給料入ったら自室にヒーターをつけることをみんなに提案したいな。さて、寒くて仕方ない、下に行ってお茶でも飲んでこよう。


 薄暗がりの厨房はひっそりと静まり返り、突然入ってきた俺がなんだかここでは異端のように感じる。とりあえずポットから急須に湯を注ぎ、急須から湯のみに茶を注ぐ。上がっていく湯気をふっと吹いて散らし、湯のみに口をつけた。熱い緑茶が、喉の奥へと滑り込んでいく。

 なんだか哀しいことだが、こうして茶を飲んでいてもやっぱり、これが血だったらな、と考えてしまう。魔力の回復により日に日にそういう気持ちは薄れつつあるのが唯一の救いだが。さて、戻るか。

 そして厨房を出てふと、白藤やぱとりしあが宴会をしていた、中庭に面する縁側を見る。そこには――


 血。


 じゃなかった、赤ワインがこぼれてるだけか。そういえば、俺たちが戻る頃にはワインで宴会の続きをやる、と言っていたような気もする。ああ、びっくりした。もし本当に血だったら、色々な意味で危険だ。


「ん?」


 床にこぼれていたワインから少し目を上げる。闇に満たされた廊下の向こうから、誰かが歩いてくるのが見えた。俺の記憶には幼い頃から諸外国を父さんと旅して、その過程には髪が白くなりそうなくらいの恐怖譚も多いのだが。やはり、突然闇の中から現れる影には驚く。

 その影は、闇の中から赤い色を引きずり出して歩いてきている。


「なんだ、姫か。何やってるんだ?」


 返事は無い。そこで、気づく。普段は見せていない、永夜の時にだけ一瞬見せた、白くしなやかな耳と、尻尾が姿を現していることに。なぜ、そんなものを出しているのか。問いかけようと思ったが、やはり返事は無いような気がした。

 金色の瞳が、瞳孔が細くなって消えてしまいそうなほどに絞り込まれた。その様子に、ただならぬ物事の気配を感じさせられたから。ところが、異様な気配のわりに、足取りはしっかりと普段通りに進んでくる。……俺の考えすぎだろうか? いや、そうでもないような……。

 そのまま進んできた姫は、俺の胸に頭をもたせかける。表情が、見えなくなった。


「お、おい、姫」


 どぎまぎしつつ呼びかけるが、答えない。なんだかそれが怖かった。肩を掴んで引き離し、頭を屈めて顔を覗き込む。白い肌にはわずか、汗をかき。瞳は瞳孔が細くなり猫を思わせる。そして、口の端で、犬歯が輝いていた。口角が少しだけ吊りあがる。

 瞬間的に、増大する異様な気配!


「おま、え」


 素早い挙動で、噛み付かれた。首筋にざっくり。本来は吸血鬼おれの専売特許である行動に、面食らって倒れ込む。荒々しい噛み付きは、血をすするためでなく肉を食いちぎらんとしていた。痛い。ようやくその事実を認識。ショックと流血で正に血の気が引いたが、全身に力を込めて振りほどこうともがく。が、がっしりと背に回された手のせいで、外れない拘束。


「ぐ、くっ!」


 痛みのあまり体を折り曲げる。と、目に入る、白い首筋。青い血管が、透けて見える。

 わずかながら血が流れているのを見て、俺の興奮は容易く最高潮に達してしまった。

 その行動は、身を守るための防衛的なものか、それとも吸血鬼の本能か。

 俺は、牙を姫の首筋に突き立てた。


「あ゛っ……」


 儚く消える声、瞬時に回る毒。牙から注入された麻酔と感覚鋭敏化の毒により、姫は噛み付くことを止めた。俺も自制心を総動員して、「血をすすらない」ことを強制する。噛み付くまでを行動に移した時点で既にアウトなのだが、そこだけは譲れない。俺の、尊厳にかけて。

 柔らかなうなじから口を離し、惜しいな、と思う心情を殺して。俺はゆっくりと問いかけた。


「どうしたんだ姫? なんでこんな」


 返事は荒い息遣い。何も言えないのか、その場に崩れ落ちる。俺では、どうにもなりそうにない。


「待ってろ、今誰か呼んでくる」


 ここにきて二ヶ月ほど、まだ姫のことはあまり多く知らない俺。それよりも、ずっとここで一緒に働いてきたほかの従業員の方が色々と知っているだろう。俺は急いで二階に行こうと、踵を返す。こんな状態の姫を放っておくのも難ありだったが、何も出来ないのだから仕方ない。急いで離れ、葛葉を呼びに行くことにした。


        +


 水を飲んですぐ、姫は胸が熱く、苦しいことに気づいた。なぜこんなにも調子が悪いのだろう、と思い、首を傾げながら厨房を出て廊下を歩く。そして床にこぼれた赤ワインを見て、血だと勘違い。同時に、頭の中に先ほど見た夢が蘇る。


「うぁ…………あ、マフラーが、ない」


 ようやく、いつも身につけていた黒いマフラーが無いことに気づく。同様に、チョーカーも、そして首に埋められていたはずの糸も。床を手探りで探し回り、しかし見つからない。ここに来るまでに既に落としていたのだと思い、立ち上がろうとする。だが、もう腰に力が入らない。

 夏の日のアスファルトのように、喉が急速に乾いていくのを感じた。体が重くなった。

 そして、廊下の向こうに、厨房を出てきた有和良を見つけた。


 柔らかな血の雨。

 歯で食いちぎる硬い肉塊。

 ガラスが割れるように瓦解する精神。

 もっと。もっと。もっと、もっと、もっと、もっっと!

 血を雨のように噴き上げて、肉を寄越せ!


 過去の自分が頭をよぎって、そして消える。

 体が紙のように軽く、希薄になったことを感じる。

 心も同じ。視界の向こうに居る有和良を見つけ、狂喜。

 記憶はそこで途切れている。


        +


 二階に上がって部屋を訪ねたのだが、葛葉はいなかった。代わりに足音で目が覚めたのか、隣の部屋から川澄さんが出てくる。いつ帰って来たのかはわからないが、年をとると眠りが浅くなるというのは本当のことらしい。


「どうした、主人。まだ若者が起きる時刻ではあるまい」

「今起きたんじゃなくてもう起きてたってことなの、川澄さん」

「左様。これでもまだ若いつもりなのだが、どうも最近起きるのが早くなってな」


 実年齢はいくつなんだろう。と、そんなことを考えてる場合じゃなかった。


「大変なんです、姫が突然暴れだして。今下の階の縁側にいるんですけど」


 なに、と眉根まゆねを寄せて、川澄さんは四角い眼鏡を押し上げる。そして、なぜか一階に行こうとはせず、この階にある姫の部屋に向かった。勝手に入るのはいかがなものかと思うし、何よりなんでこんなことをするのか。問おうと横を走ったが、その固い表情から察するに、重要なことがあると考えられた。


「……ちっ。やはりそうか」


 部屋には特に変わった様子はなく、コタツの横に普段姫がつけているマフラーがあるだけ。それを拾い上げた川澄さんは、舌打ちして拳を握った。


「何があったんだ?」

「気をつけるようには常々言い聞かせていたのだがな。寝ている間にほどけたか、あのバカ娘。……だがいくらなんでも、〝糸〟は外さんはずだが……いや、理由は本人から聞くのがよかろう。ともかくまずはこれを奴に渡さねばならん。主人、行きますぞ」


 すたすたと階下に移動する俺たち、しかし川澄さんの足袋たびがびちゃり、と水気を踏みしめたことで足が止まる。そこにあったのは、暗闇の中でもわずかに色彩を主張している、血。おそらくは姫が噛み付いた時に、口の中に残っていたと思われる血だった。


「なぜ血がここに」

「さっき姫が俺に噛み付いてきて、そのとき口の中に残ってたんだと思う」


 気づかないうちに傷口を手で押さえていたので、川澄さんは気づかなかったらしい。手を離すと、どろりとした血の塊が手に張り付いていた。それを見て眼を見開き、白髪を掻きながら頭を下げた。


「すみません、主人! このような事態が訪れるやもしれぬことは予測出来ていたのだが……それを事前に止められなんだことは全て私の責任だ。本当に申し訳ない!」

「え? ちょっと待て、なら姫がああやって暴れることは、みんな知ってたのか?」


 唇を噛み、言葉を探す川澄さん。やがて、決心したように溜め息を一つ。藍色の着物の裾を直しながら、話し始めた。


「本来なら、こうしたことは本人の口から語ってもらうのが一番なのだろうが。事態が事態、おまけに勝手口の近くに血痕があるということは、外に出たのかもしれん。手短に話すぞ、そのあとは皆を呼んで探すこととしよう」

「わかった」


 ――――川澄さんの話は本当に短く、勝手口を出て門をくぐり、表に出る頃には終わっていた。

 みんなも呼び手分けして探すこととなり、全員が勝手口に集まると川澄さんは黒猫のスミスを肩に乗せ、なにやらふだを取り出す。懐から、矢立やたてとかいう、大き目の煙管きせるみたいな形をしたすずり入れと筆を取り出すと、器用にそれらを指に挟み持ちながら札に一息で、長々と文言を書きこんだ。


「〝浸透結界〟及びに〝越境結界〟並びに〝模倣式神〟及びに〝性質強化〟を結合」


 書き記した言の葉を川澄さんが読み上げると、符札が完成した。

 ……符札術式ふさつじゅつしきは呪文を唱える詠唱術式えいしょうじゅつしきに比べて発動が容易く携帯するにも便利だが、符札が多少値の張ること、書きこんで時間が経つとすぐ威力が落ちること、書きこんだ術の威力・性質を状況に応じて変化させられないことが難点らしい。

 逆に詠唱術式は唱える文言次第で状況に応じた性質変化をうながすことが可能で、長く詠唱すれば威力も上げることができる。ただ当然長くなれば隙が大きく、また呪文に含まれる言葉から性質・属性を把握されることもある。戦闘に於いてはどちらも、一長一短ということである。

 ちなみに俺のように詠唱でも符札でもないタイプは、また別種。人外には、魔術が習得しにくい代わりに固有能力が秘められることが多いのだ。俺の魔眼しかり、葛葉の狐火しかり、だ。


「……式神融合、乙弐型結界術〝結式ゆいしき伍番〟! 急急如律令、〝蠅縄ハエナワ〟!!」


 そして符札が燃え尽きる。炎をあげることもなく、黒ずんで灰化して散っていく。

 散った中から、二匹の蠅が飛び出す。……あれ、これだけ?


「はじめて川澄さんの術を見たけど、これだけ?」

「左様。私は陰陽道における式神と密教における結界を学び、体得しておる」

「式神、っていうのはあれだよね、日本の魔術でいう使い魔。それに、結界……?」

「いずれ説明しよう。いまは、こいつらの目で探索範囲を広げる」


 こいつら、ってたった二匹……と思いながら、蠅の方へ意識をやると。先ほどまでたった二匹だったはずの蠅は、いつの間にか数を増やしていた。俺は仰天した。比喩ではなく、その大群を見るには、仰天するしかなかったのだ。

 尋常でない数だ。威嚇音としか思えない羽音の重なり、連なりは、大気を震わすひとつの群体の現れだった。天に向け鎌首をもたげた大蛇のごとく、蠅の嵐が顕現している。おそらくはこの使い魔による

視界の共有で、姫を探そうというのだろう。見る間に、空高く吸い込まれるように、黒い渦が去っていく。目を閉じた川澄さんはさらに、懐から数枚のマフラーを取り出し、勝手口に集まったみんなに手渡した。


「もし皆が先に姫を見つけたら、この襟巻きを渡してやってくれ。それで落ち着くはずだ」

「了解」

「わしは留守番とするかのぅ」


 全員渡されたマフラーを握ってうなずく。とりあえず五人で適当な方向に走り、途中で別れる。白藤は宿という本体が動かせない以上離れられないので、もし帰ってきた時に捕まえる役目を任せた。

 どこに行ったのかはさっぱりだったが、とにかく心配だった。だが、思い当たる場所はない。何も頼れるものはなかったので、一か八か山の方へと走ることにした。なんとなく、だが逃げる人というのは北とか山に逃げるイメージがある。


 この町は正直言って発展している場所が少ない。駅前などの地域からでも五分走れば田畑と川のせせらぎに出くわす。だから、そう長く走ることもないうちに山に着いた。山と言っても小高い丘と言った方がいいくらいの高さだが。


「ひめっ、姫!」


 しかし人影が見当たらなくて焦る。――川澄さんが言ったことが現実になっているとしたら、姫は俺に噛み付いたように誰かを襲っているかもしれない。そんなことは無い、と思いたかったが、本能と戦う辛さは俺自身良く知っているから、絶対大丈夫と言い切ることは出来なかった。だが、一つだけ断言できることがある。

 それは、もし本能に負けたら一番心を傷つけるのは姫だ、ということだ。

 焦りを脚力に変えて、どこへ行ったかもわからない姫を探す。全身赤と緋で目立つ着物姿だ、そう見つけるのに時間はかからないと思われた。だが、隠れているのか遠くにいるのか。姫はさっぱり見つからない。


「くそ、ここじゃないか」


 やはり山へ来たのは見当違いだったか、と下り始めたとき。

 斜面を基盤とした森の中、大きな木の根元に作られたベンチに、探していた姿があった。行きですれ違ったのか見落としていたのか、とにもかくにも、見つけることができた。胸の内に安堵が満ちてきて、はあ、と深く息を漏らしたあと、俺は歩み寄った。そう言えば葵さんとの一件の時は、こうやって息を切らして探しにきたのは姫の方だったか。


「……今度は逆の立場だ、な」


 ゆっくりと近づく。が、獣のような勘の良さで悟ったのか、こちらを向いて唸り声をあげる姫。低く身をかがめて、突進してくる。だが考えなしの突撃など、さっきのような不意打ちとはちがって俺には通じない。紙一重でかわすことなど造作も無く、そのついでにマフラーをかぶせるのもちょっと手首を返すだけで簡単に出来た。

 そのまま放っておくと顔面から地面に突っ込みそうだったので、俺は着物の首筋の辺りを掴んで持ち上げた。小さな体躯に見合う、軽さだった。そして立ち上がらせて様子を見ていると、細くなりっ放しだった金色の瞳、その瞳孔が徐々に大きく広がっていった。唇の端から見えていた犬歯も、心なしか小さくなったような。

 今日一番の特徴だった白い耳と、二又ふたまたに分かれた尻尾も、引っ込んでいった。


「だん……な?」

「ようやくお目覚めか」


 マフラーを整えてやると、はっとした様子でそれを掴み、うつむく。


「あ、あたし……」

「事情は少しばかり川澄さんに聞いた。まあ、それは本能的なものだから仕方ないな。気にしないことだ」


 秘め事がバレたことを気にしているのか、マフラーを口元まで上げてうつむく。姫は、以前〝永夜〟の時に話してくれたが猫又の一族であるらしい。

 その本質は人、特に男を食い殺す化け物だとかで、一定の周期でやってくる、ある時期……川澄さんは言葉を濁していたので、まあ、たぶんアレの時期。そこで異性を見ると本能的にどうにもならないらしい。だから制御するためのマフラー、チョーカーを巻き、最後に父さん特製の魔術糸を首輪として埋め込むことで抑制していたらしい。


「じゃあ、もう知ってるのか……ごめん。不注意で、マフラーが外れてることに気づかなかったんだよ。おまけに、なんでか、首かきむしって糸まで解いてて……そのせいで、ダンナに……そうだ、ダンナ! ケガは? あたしのせいで、どこかに傷つけたりしてねーか!? 記憶がとんでるから、自分の行動もわかんなくてっ……」

「ああ、うん……専売特許をとられたというか、ある意味で沽券こけんに関わる負傷、かな」


 首は一部皮が剥げたりしてぐずぐずになっていたが、出血も止まっていたので包帯だけ巻いてある。それを見て、姫は辛そうに目を逸らす。


「そんなにしょげた顔するなって。大したケガじゃない」

「でも、あたしがケガさせたことは事実だろ。首に噛み付いて、ケガさせたんだぞ。こんなの……」


 泣きそうな顔をしている姫を見ているとこちらも居たたまれなくなってくる。姫の口元にこびりついている俺の血は、黒く固まっていた。俺は手を伸ばしてそれを落とそうとした。が、触れようとした瞬間に、びくりとして逃げられる。その反応は、いささか傷つくものがあるのだが。


「口、血がついてる。落としたほうがいいだろう」

「……今近寄られて、またあたしが噛み付いたりしたらどーすんだよ」

「その時はさっきと違って状況が正確に分かってるから、ある程度対処も出来る。何も問題ないよ」


 落ち着かせようと軽い口調で返すと、逆効果だった。姫は激昂しながら一歩引いた。


「そうじゃねーだろ! また噛み付くかもしれないっていうのが、怖いんだよ!」

「今はマフラーつけてるから大丈夫なんだろ。それに、俺もあの時噛み付き返したからあいこだ」


 麻酔がかかるせいで今の今まで気づいていなかったのか、首筋に手をやって顔をしかめる姫。そういう所作をされると、やっぱり吸血鬼の噛み付きと猫又の噛み付きは違うんだな、と感じる。正直、今も俺は痛い。


「そりゃ正当防衛だろ。あたしが噛み付かなきゃそれで済んだことだぞ」

「とはいってもこの噛み付きも相当アレなものだし……そういえば、ある程度麻酔がかかるのによく歩けたな。それに、感覚神経が鋭くなるからちょっと、な。ごめん。大丈夫か?」

「あたしより、自分の心配をしやがれ!」


 荒くなる語調、依然として泣きそうな顔。本気で心配してくれてることがわかった。

 だからこそこっちも、本気で心配になるんだ。


「結果だけ見ればいいだろ。何も大したことはない、だから気にすることもない……どうしようもない理由があって、なにかことが起こったなら。それは仕方ないことだ、罪を認めて前に進めれば、それでいいだろ? 生きてく上では、間違いは起こる。完璧なんて存在しない。だからこそ、罪を認めることに意味がある。取り返しのつかないことを既にやった人間の、ただの言い訳に過ぎないだろうけどさ」

「でもあたしは、自分で自分を許せない。本能に負けてダンナを襲って、最悪じゃねーかよ。従業員失格だろうが」


 また、それか。がっくりしてしまって、俺は気が萎える。そこはもう解決した問題で、むしろ俺の方が日々の生活の中で恩を感じ続けてるというのに。

 聞き分けのない奴。


「前に俺が吸血鬼としての病に苦しんでる時、おまえと葛葉は来てくれたろ。言ってくれたじゃないか。頼れ、って」


 ぴく、と姫の体が動いた。


「だから今度は俺が受け止めてやる番だろ。あの延々と今まで続いてきた孤独な夜を、終わらせてくれたのはおまえと葛葉だ。生まれ持ったそういうハンデは、誰にだって、大なり小なりあるもんだろ。それでなにか起こったからって、罪に悔やむのはともかく、長々と気に病むのは間違いだ。もしどうしても自分が許せないなら、俺がおまえの分も許すよ」


 ぴく、と姫の頬が動いた。……ようやく、いつもの調子に戻ってこれたかな。お互いに。

 立ち尽くす俺の胸に頭を持たせかけて、表情がうかがえないようになってしまった姫が、言う。


「……とんだお人よしだぞ、あんた。何様なのさ、二人分許すって」

「さあ? なんだっていいだろ。俺がそうしたいから、そうするんだよ。

「帰ろう。みんなも探してるから、連絡入れないとな」


 撫でるように姫の頭に手を置いてやって、俺は帰り道を歩き始めた。気恥ずかしかったが、無理に着物の袖を引っ張って、手をつないでいるような感覚のまま、歩いた。山を下り、道路に出て、街灯の緩い明かりの下を並んで歩く。

 声もなくついてきた姫は、しばらくしゃくりあげていたものの、落ちついてきたらまた心配になったのか、横目で俺の傷をうかがっていた。


「ダンナ、本当にごめんな。ケガ、痛くないか?」

「大丈夫だ。出血もそう多くはなかったし。それなら、姫こそどうだ。吸血鬼の牙だから麻酔もあるし、感覚が鋭くなって大変じゃなかったか」

「別になんも不自由はないぞ。元々、あの状態になると記憶がとんでるからな……そんな感覚もねーんだ」


 のんびりと帰る。携帯電話も何も持っていない従業員達なので連絡方法をどうしたものか考え物だが、それは多分どうにかなるだろう。横を歩く姫はまだ少し表情が固いが、多分それもそのうちどうにかなるだろう。


「それなら良かった。でも、けっこう自制心を総動員したな。やっぱり、本能ってのは抗いがたい力があるよ。あのとき、噛み付いたのは反射的だったから……でも、血は一滴も吸ってないよ。人間からの吸血は、本当に困った時と相手が許した時だけって決めてるからさ」

「優しいな、ダンナは」

「ただ臆病なだけだよ。吸血鬼として生まれついたことに対する、俺のささやかな反抗でしかない」


 だから、本音(本能)としては血を吸いたいとも思っている。俺よりも頭一つ低いところにある姫の頭、そこから背にかけて広がる首筋。白く、柔らかで張りがあり、わずかに汗ばんだ肌。血を吸ったらどんな味だったのか、と考えずにはいられない。もちろん、我慢はするが。

 と、視線に気づいたのかこちらを見上げる姫。さっき噛み付いた跡から慌てて目を逸らし、歩くことに集中する。

 無言が続く。冷や汗が出た。


「…………あたしの血、吸いたいと、思ってんのか」

「ごめんなさい」


 なにか言われる前に謝る。先手を打つことは何事にも大事だ。ところが、姫は続けて何か言おうとはしない。そっと目を向けると、こちらを見つめていた。目を逸らせない。逸らさせない。そんな一瞬が、感覚的には長く続いて。


「別に、ちょっとならいいぞ」


 という、望外の一言で元の時の流れに戻る。

 え。


「こっちも噛み付いたわけだしな、一回だけなら、ちょっとだけなら」


 ごにょごにょと呟いている。

 本当に、いいのだろうか。


「……いいのか?」

「こんな往来じゃやだぞ! 部屋に戻ってから、腕から、ってことだ! いや、どうしてもってんなら、必要なら首からでも、仕方ないんだけど、ああやっぱだめ!」


 顔を背けてずんずん先に行ってしまう。なんだか妙なことになった。が、直に人から血が吸えるというのは、やはり嬉しい……いやいや、ここで血を吸ってしまうとなんだか俺は俺を軽蔑してしまいそうな気が。


「う、嬉しいけど、なんだか複雑だ」

「あんでだよ?」

「いや、ここで衝動に負けると、なんだか吸血鬼である()に負けたような気がして」


 単なる感覚と意識の問題ではあるが、常識の外で生きる身にとって、自分で引いた最後の一線というのは、なかなか崩しがたい理性の根城なのだ。人間らしく生きるために人間ぶる。人外として生まれたときから、自分自身に課して、抱えてきた難題である。

 心配すんな、と呟いて姫はこちらに首だけ振り向く。


「その分は、あたしが許すぞ」

「……そうきたか」

「さっき少し吸ってたとしても、許す」

「誓って言うがそれはない」


 しかつめらしく話すと、姫も真面目ぶった顔で、冗談だと言った。

 どちらともなく笑い出して、家路を急ぐ。夜は既に明け始めていて、遠く、東の空が白く赤く染まり始めていた。結局、今日はさっぱり勉強が出来なかった。明日こそ頑張ろう。

 あとは、角を曲がればすぐだ。並んで歩き、角を曲がる。そのすると、電柱の陰に何かが居た。驚いたが、マネキンか人形が捨てられているのだと思った。だが、違う。三十過ぎのおっさんが、ぐったりと塀に背をもたせて座っていた。

 酔って寝ているにしては、穏やかでない様子。少し気になって、立ち止まる。いや、酔った人なんだとしても放っておくほど冷たいつもりは無い。


「どーした。酔っ払いか?」

「かな?」


 起こそうと肩に手を置こうとした。そこで、気づく。

 首筋には牙痕。流れ出た血は既に固まっているが、倒れている人の顔に生気はない。


「……これ」


 状況が思い出させる。さっきの姫の言葉が這い出てきた。やめろ思い出したくない、と拒否しても、冷静な自分が無理やりに、脳内に浮かび上がらせる。

〝あの状態になると記憶がとんでるからな……〟


「姫」


 振り向く。

 だがそこには誰も居ない。


「姫ッ!!」


 夜明けの住宅街に、俺の声が響き渡った。

 返事は、無い。


人間に噛み付くという行為は傷害罪に当たるだけでなく飲み込んだ血液から病気を感染させる恐れがあります

とか考えたらなんか吸血鬼ネタかけなくなりそう


次回に続く

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