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十四頁目 決戦と決着、罪と居場所。(居地裁定)

葛葉編終了。

 刀を取り落としたまま、葛葉は後ずさりして逃げ出す。廃墟の彼方へと走り去ってしまった彼女の後姿を見て、俺は呆然自失の体で立ち尽くすのみ。そんな俺を見て葵が、あーあー、と呆れた溜め息をつく。


「とうとう、知られたわねぇ。あんたが人殺しだってこと」


 そんなことを言いたくて、わざとらしく溜め息をついたのか。


「……別に。どうせそのうち、言うつもりだったことさ」

「そう? まあそれはいいんだけど。あの子、あのままだと確実に帰って来ないわよ?」

「かもな」


 ごきり、と右手を握り締める。覚悟は、していたことだ。


「そうね。だれだって人殺しは嫌いだものね。でもあの子はねぇ、そういう感覚がさらに大きいのね。――生贄だったの、あの子」


 俺と対峙して正眼の構えを崩さぬままに、葵はとうとうと語り出した。


「でも逃げ出して、その自分の過失でこの村の、ほとんどの住人を死なせちゃったのよ。だから、人の生き死にに対してものすごく過敏に反応する。あたしが追っ手の妖狐を殺すときも、いつも目を逸らしたりどこかへ逃げていたり。

 実のところ、今さっき星火燎原に斬りかかったときも殺害の意思はなかったわねぇ。所詮、あたしみたいな〝明確な意思の下に殺す者〟とは違う存在なのよね。剣客としての腕は鍛え上げたけど、殺す意思がない以上その力量は二流、三流。あの子は、決して一人じゃ生きられない」


 果敢はかなげなきらめきを瞳に宿し、すぐにその光を引っ込める。

 現れし影のある瞳は、暗い意思を背負うことを雄弁に物語っていた。だが、知ったことではない。何か事情があるのかもしれないが、俺はそれを無視する。いや、むしろ何らかの理由の下でこのような行動に出ているのだとすれば、その方が苛立たしい。


「そうわかってるなら。なんであんたは、あいつを追い詰めた。敵に回り、うちの従業員を人質にして! そんな行動のせいで、今あいつは苦しんでたんじゃ」

「黙れ」


 油断は無かった。

 だというのに葵の姿が空にかき消える。上に跳躍し、山なりの軌道を描いた葵の刀はすでに納刀されており。のけぞるように回避した俺のシャツと胸の薄皮一枚、横一文字にもっていった。


「そんなことは、あたしも分かってるのよ!」


 上体を起こして迎撃しようと向かい合うが、横薙ぎに返ってきた紫電一閃を避けるために屈むこととなってしまう。ならばと、右へ体をひねり、地面に手をつき、一直線に左足で足刀を打つ。狙いは一撃で仕留められるよう鳩尾みずおちに向けたが、足が伸びきって最大の威力を持つ前に、葵はこちらに突っ込んできた。多少のダメージは気にせず、短期決戦に持ち込むつもりか。

 あまり威力の出なかった蹴りは、地面と垂直に刃を構え切っ先を天に向けた葵の右前腕にそらされた。反撃とばかり、強力な袈裟切りの気配が見えた。薬丸自顕流とかいう日本のある流派では、突進の勢いを載せ、八双はっそうに似たあのような構えからかぶとも叩き斬る斬撃を放つという。

 地面についていた手と右足を思い切り伸ばし、俺は空中に飛んだ。刹那の間に手のあった位置を刀が裂き砕き、また一瞬後に返す刀が着地の瞬間を狙って迫る。鼻っつらをかすめた切っ先におののきながら、俺はまた二歩離れる。あの人の周囲二メートル半は、踏み込めない間合いか。それでもいくつか手がないわけじゃないけど、俺としては使いたくない技の使用が前提となる。

 ……いやなときに、拳士の言葉がよみがえってきた。「剣道三倍段、槍と薙刀はさらに三倍。手加減五倍段、手抜きはさらに五倍」そのとおりだな、と実感した。


「わかってるなら。なんで、こんなことを」


 俺はさっきの発言に対して問いかけた。正眼の構えを取る葵は、そのままじりじりと横移動している。やがて、動きを止めると神速で納刀。身体を低く屈み込ませ、いつでも抜き放てるような体勢になる。そして息一つ、数秒してから、口を開いた。


「そうしなければ、あたしは葛葉を守れないからよ」


 問いかけに対する答えは矛盾したもの。だが、本心からの言葉だと思われた。


「それ以外に、方法はないと?」

「少なくともあんたたち宿屋の面子が、今のままじゃね」

「もっと強くなれってことか」

「半分正解。っていうか、いままでが強すぎたのよ」


 よくわからないことを言った。わからないの、と呆れ笑いを見せて、葵は言った。


「先代の宿屋主人が、あまりにも強すぎたからだわよ。……あんたたちじゃ、葛葉を守れない。守るというのなら、少なくとも――これに勝てなきゃね」


 爆発的に、攻撃の気配が高まる。まだ俺との間には四メートル近く間が空いているというのに、この距離を詰める方法があるとでも。

 などと愚考し、相手に応じる構えを見せてしまったのが、命取りか。

 葵の右手が、残像を焼きつけて躍動する。左の引き手も、鞘走りの瞬間も、ほとんど影すら追えずとらえず、刃は銀の線と化して空間を過ぎ抜けた。先の横薙ぎの抜刀術は、全力じゃなかったのか。


 そして空気が揺れる。熱気か冷気が突き進んでくるかのように、向こうの景色が歪められた。

 判断も何もない。危険だと感じた本能が、回避させていた。左側に、飛んで避ける。


「残念」


 葵の口が動く。そして、爆発にも似た鋭く重たい音が背後から響いた。同時に、風斬る音と共に、瓦礫が飛んでくる。俺自身は避けることが出来たが、何か見えない攻撃が背後にあった廃墟の壁を砕いていた。さっき移動していたのは、最初からこの廃墟を狙ってのことか……!


「くっそおおぉっ!」


 とっさに逃げたために十分な動きが取れず。崩落する壁や天井が、降り注いで俺の体をめった打ちにした。


「無尽流――ついの奥義、遠間の太刀。〝無刃剣戟むじんけんげき〟」


 重みをともなって背に覆いかぶさってくる瓦礫に打ち据えられながら、俺は意識を失った。


        +


 逃げ出した葛葉は、背後で何かが崩れ行く音を聞いて、足を止めた。だが、その場所に居る自分の主人、有和良が殺人鬼だったことに、いまだ戸惑いを隠せない。脳裏を過ぎるのは、宿屋に居る間に共に過ごした記憶。しかし、同時に夢想する。そんな彼が、人を殺すような人間であるということを。事実として、彼が認めたということを。それは、とても辛いことだった。

 葛葉は自分の過失で滅んだこの村を、一度だけ訪れたことがある。生き残りの妖狐の血族は職にあぶれていずこへかと大半が去った、と聞いた後、師から離れて一人で、だ。そのときもこの村は惨状の様子をそのままに残しており、葛葉は一箇所にまとめられた墓地を見て自己の犯した罪の重さに心が潰れそうになった。

 しかし、潰れることすら許されない、とも思った。どうにかして生き延びて、決してあがなわれることのない罪を、延々と償っていこうと、そう思った。例え果て無く永劫に続く罪と罰があるとしても、何もせず生きることや何もせず死ぬことよりはマシだと思えたから。

 そこまで考えて、ようやく気づく。


「……わたしは、今。幸せな生活を、送れていたんですね」


 人に対して犯した罪は人に対して償うのが筋と思い、この五年間宿屋で過ごしてきた。たまたま〝流転漂流〟の能力で転移してきた白藤紅梅という宿、そこに居た主人、斎に拾われた。古株である川澄、今よりさらに小さかった姫、それに加えて今は居ない面子。途中で東北から職を求めてきたぱとりしあ、今より人を毛嫌いしていた柊が奉公人として入り。

 繋がりが生まれ、何も無かった葛葉は次第に満たされていった。日々の生活の中で笑みを浮かべることも多くなり、寝るのが惜しいくらい毎日が楽しくなっていた。もちろん、罪を忘れたわけではない。時折生き苦しくなることがあったし、夜な夜な泣くこともあった。だが、確実に。時間の経過は、傷が治るように葛葉の中から記憶を薄れさせていた。


「だが、貴様に幸福など望めるはずもない。死するべき時に死なず、生き延びたうつけ者めが。好きに生き、好きに死の時を選べるなどと思うな。貴様の死を決めるのは、我ら害を被った者だけだ」


 廃墟の陰から、蒼く燃え盛る短刀が旋回しつつ飛来する。避ける間もなく左肩を切り裂かれ、焼け付く苦痛に顔を歪める葛葉。姿を現した星火燎原は、胸を押さえながら投擲とうてきの姿勢を取っていた。先ほど一旦有和良に気絶させられたときに、どうやら骨をやられていたらしい。


「ぐ……星火、燎原」

「覚悟は出来たか。八百万やおよろずの神とそして何より九尾に祈るがいい。これより我が炎で貴様を焼き尽くし、その腐った魂の浄化を祈ってやろう。煉獄の業火よりも熱く永久凍土よりも凍てついた、我らの恨みの情念を、その身で以て受け止めよ」


 肩を切り裂いてそのまま飛んで行き、廃墟の壁に突き刺さっていた短刀から蒼く焚ける炎が噴きあがる。それは周囲を取り囲み、葛葉を中心に円形の陣を形成。円の外に出た星火燎原は、自身の一部であるかのように炎を操る。灼熱の炎が揺らめくのは、葛葉からいくらも離れた位置であるはずだが、その熱はじりじりと肌を焦がし、それとは対極に冷徹な、星火燎原の鋭い殺意もが叩きつけられる。

 逃げようにも逃げられない。まず、心が折れた葛葉には逃げるという選択肢が思い浮かばない。自身の罪の終着点がここなのだと、決め付けてしまっている。得物もない掌はもはや力なく開かれ、瞳にはなんの気力もない。

 仕えた主人は殺人鬼であり。自分がもっとも失望してしまう人間の一人だった。策略にはまって戻る場所、居場所すら失い。葛葉に残されたものは何一つ無い。


「契約により殺すな、とは言われたが。今後、人並みの生を歩むことが出来ぬ程度には、痛めつけさせてもらおう」


 狐火とは、消えぬ炎。術者の意思が在り続ける限り、燃料無しに燃え続ける炎。それゆえ、恨みつらみなどの強い思念が有る時、その威力は爆発的に強まる。蛇のようにうねる炎は、葛葉の真正面から一筋の軌跡となって突進してきた。

 右の二の腕を焼かれ、焦げた臭いが鼻につく。皮膚が焼け、皮下脂肪が溶ける。血が出る間もなく焼けて傷口は塞がれ、痛みのみが残留する。泣く暇もなく背中から一撃を受け、帯が焼け落ち肺から息が押し出される。息が出来なくて涙腺が緩み、涙がこぼれた。

 炎の鞭は留まることなく連続して襲い掛かり、葛葉は頭を抱えて体を丸める。


「星火、燎原」


 震える声で、葛葉が呟く。それを聞いて、星火燎原は眉をひそめる。


「わたしは、いいです。だから、宿屋のみんなと、ダンナ様は助けて、ください」

「まだ、そんな戯言を。己が罪に対する自覚が足りん。やはり根本的に、貴様は愚者なのだな。人であるならば、まだ少し罪に対し自覚を以て罰を望むはずだろう……ふむ。まだ、足りんな」


 葛葉の表情が絶望に変わる。そして、周囲の炎の円陣からボッ、と音がして火柱が昇る。等間隔に昇った五本の火柱は空中で一点に収束し、巨大な、細く鋭い円錐を形取る。その先端は葛葉の背を狙い、今にも地に落ちそうだった。星火燎原は壁に刺さっていた短刀を引き抜き、円錐の頂点に向けて、投げた。

 短刀の黒い柄頭つかがしらがその頂点に触れた瞬間、円錐が底辺を爆発させながら落下を開始する。短刀を先端に、突き進んでいく一撃。着物も焼け焦げてボロボロになった葛葉の無防備な背を、そのまま貫こうと。


「何、死にはしまい。だが、背骨をやられれば普通の生活すら困難になるやもしれんな」


 残酷な宣告。無表情に告げる星火燎原には、目的の遂行以外の意思はない。

 迫る刺突。震えるだけの葛葉。

 ――それでも、有和良は来た。巨大な円錐形成のために大半の炎を使い、幾分下火になった円陣を飛び越え、葛葉の首根っこを掴んで脱出する。地面に短刀を沈み込ませた円錐は、爆砕して周囲に火の粉を散らす。後には、深々と抉られたクレーターが残った。

 星火燎原は、後一歩で完遂出来た復讐の終幕を邪魔され、眉間に青筋を浮かび上がらせた。


「貴様……またも立ちはだかるか」


 二本目の短刀を右逆手に構えて半身になり、星火燎原は自分の背後に炎を集める。感じ得る熱気と殺気は、大半の生命を寄せ付けない圧倒的な力を持っている。

 だが。有和良の怒りは、それを上回っていた。抱えていた葛葉を離れた壁際に静かに休ませてから、脇に拾ってきた刀を置き。首をひねって横顔を向け、背後の星火燎原を睨みつける。


「おまえこそ。まだ寝足りなかったのか」


 静かに告げ、そして疾走が始まる。激突が始まる。


        +


 瓦礫に埋もれ、気絶して少し経ったらしい。身体から力が抜けているのを感じ、人狼としての自己暗示をかけた効果時間が切れたことを知る。いかに幻覚と認識を操る魔眼でも、そう長時間は体を騙しきれないと言うことだ。――ッいてて、やっぱり人外の生物だっていう自己暗示は、身体への負担もキツイ。全身がたがただ。本来の人の動きから外れまくってるからな、人狼なんて特に。


「って、瓦礫に挟まれて動けないじゃないか」


 暗示をかけ幻覚を見て、認識を確定する作業までは全て、相手の目を見なくてはいけない。つまり、自分の目を見ないと人狼クラスの動きも得られない……どうするか。自分の目を見るには、鏡とか刀身とか、反射して姿を見られるものが必要なのに。右も左も瓦礫しかないし、足が挟まって動けない。こんな時に、動けないとは。情けない。

 と、瓦礫の隙間から何かが見えた。黒鞘の、刀。葛葉の落としていった刀だ。手を伸ばせば届きそうな位置に、それがあった。


「く、そ。刀身を見ることが出来ればもう一回暗示をかけられるのに。もう少し、届け!」


 だが腕を伸ばしても距離は縮まらず、あと数センチのところで力尽きる。そして何か手はないかしばらく考え、上半身は空間的にも自由なので、カッターシャツを脱いで袖を結び、輪を作る。そのまま、刀に向かって投げた。

 鍔のところに袖がかかり、なんとか手元に引き寄せられる。と、頭の中で金属の板を曲げたような音が走る。魔眼の使いすぎは、脳にも負担なのだ。今日使った回数は、二回。普段のペースから考えて、あと二回使えれば御の字と言いたいところだ。

 残念ながら俺は父さんのように魔術の才能がなく、それどころかそもそも魔力自体極端に少ない体質のため、魔眼の発動回数にも強い制限がかかる。むやみに使えばあっという間に限界が訪れ、過剰な運動を強いられた脳の血管がぶち切れるだろう。おまけに今日は人狼の暗示も使った。首から上も首から下も既にくたくた。


「でも、まだ逃げられないよな……」


 シャッ、と軽い音を立てて抜き放たれる鋼の刃。鋭い刀身に映る己の目を凝視、現像と幻像を無理やりに繋げる。

 ――さて。まずかこの邪魔な瓦礫をどかすか。


「やっぱり生きてたわねぇ」


 ずしん、と大きな音を立てる瓦礫をどかし、体を自由にしたところで背後から話しかけられる。井戸に腰掛けていた葵は、どっこいしょと体を持ち上げ、脇に抱えた刀をこちらに、向ける。


「まだやるんだな、ああ疲れる」

「いや、やらないわよ」


 妙なほどふ抜けた目をこちらへ向けて、葵は呟く。俺は意味がわからず肩をすくめる。すると、奴は剣客の魂をこちらに放り投げた。奇襲か罠か、と思い近付くこともなく相手から目を離すこともなく、結果、俺と奴の中間あたりに、刀は落ちた。


「やらない。これ以上葛葉を苦しめたくないというのは、あたしの本当の気持ちなんだわよ。だからあの子の主人であるあんたを殺すのも、そう簡単にはやりたくない。……あんたがあの一撃でまだ生き残れる奴だって、わかったし。いまが好機なの。武装を解いて、話を聞いて欲しい。お願い出来る?」


 揺れる瞳の色は、影のある儚げな煌き。暗く思い決意を背負った、そんな目。

 そこまで頼まれては無碍むげにはできず、地面に落ちた刀を見つめながら、俺はうなずいた。


「ありがと。話っていうのは、簡単。あたしは今……あの子を少しでも守るために、尽力してる最中ってことだわよ。まずそれを理解してほしい」

「現にいま、あんたにもあの男にも殺されかけてたのに。信じろと?」


 それが条件だったのよ、と哀しそうに目を細めて呟く。


「元はと言えばそう、あたしが狐共に捕まった時が始まりだったわね。捕まったら即、あたしは舌を噛み切ってでも死ぬつもりだった。でも、あいつらが聞き捨てならないことを話したのだわね。……もうおまえの弟子の居所は掴んでいる、と。いつでも襲撃はかけられる状態にしてあったのよ。ただ、〝輪廻転回りんねてんかい〟と呼ばれる強力な術師の主人が居たから、手が出せなかったらしいわ。でも最近その主人がいなくなり、代わりにそう、あんたが主人になった」


 俺を指差しながら葵は目を閉じ、その時の光景を思い浮かべているようだった。輪廻転回、つまり父さんのことだ。旅の途中、そんな名であの人が呼ばれてるのを、何度か目にしたことがある。日本でも、有名だったのか。


「あんたは輪廻転回ほど強力な術者じゃなかったから、いよいよ星火燎原はいきりたったのよ。ただその頃はすでに狐の大半が復讐から抜けてて、最後まで残ったのはあいつだけだったけど。でも奴は大量のお金をあんたの生け捕りを条件に借りてきて、あの眠り薬と、宿を見張る監視役をつけた。その上であたしに言ったのよ、自分に手を出せば監視役が薬をまいて葛葉まで巻き込む、解毒薬がほしければ命令を聞いてろ、って」

「どんな命令を」


 間髪いれずに問えば、心底苦しそうに胸を押さえる。嫌な記憶の告白は、話し手もそれを強いる方も辛いのだが、まだ俺はどこか半信半疑だったために容赦なく聞きだすことができた。


「今ある、葛葉の居場所を。もう二度と戻ることが出来ないようにして、苦痛を与える。体も痛めつけて、苦痛をもう持ちきれないくらい、与え尽くす。自分たちが昔居場所を奪われたように、今また、葛葉から居場所を奪うつもり。だからあたしは死ぬことも出来ず、あの狐のいいなりになるしかなかった」


 この前の侵入者も、倒したあとは表玄関から野に放ったが。星火燎原の回し者だったのかもしれないのか。


「あたしには、何も、どうすることも出来なくて……ただ、せめてあの子の命だけは助けたかった。そのために命令を聞いて、葛葉を絶対に殺さないことを条件に、この一件に手を貸した。でも」


 胸を押さえ、嗚咽おえつを漏らすことをこらえる。

 この人は、一体。どれだけの苦しみの果てに、こんな選択をしたのか。


「……でも、それを俺に話してどうするんだ? そんな状況じゃ、もうどうにもならないじゃないか」

「そう、もうどうにもならないわ。葛葉にはもう、居場所なんてない。あんな薬で同僚を危機に追いやった原因で、しかも今後、いつ星火燎原が約束をたがえるかわからない……だからこそ。このままにしてほしいの」


 必死の訴えかけに、けれど俺は首をかしげざるを得ない。なぜ、このままの形に終えることが、葛葉を救うことに繋がるのか。俺の顔色から疑問を読み取ったのか、葵は両手を地面につき、額を地面にすりつけて懇願した。


「あの一撃であんたは深い傷を負って、逃げだした。そういうことにしておけば、せめてあの子には最後の罪悪感を与えずに済むわ。本当は、あんたの身柄も狐共のスポンサーに渡さなきゃならないんだけど……あんたが予想外に強かったことは星火燎原も先刻承知のことだから、生け捕りの手がなかったと言い訳も出来る」


 そしてまた頭を下げた。俺は少し戸惑う。

 さすがにもう、こちらを騙そうとしているようには見えなかった。


「お願いよ。あの子のためを思って、芝居をうってちょうだい」


 しばし、考え込む。このまま逃げて、放置すれば、宿のみんなはこれ以上危険な目に遭わず済む。だが敵ではなかったこの人、葵さんと、葛葉は、星火燎原やその仲間に手を出すことはできない。つまりいずれまた来るかもしれない恐怖に、怯えながら暮らすことになるだろう。俺も、みんなも。

 だが、すべきことは何となくわかっていた。この人はどこまでも弟子のことを思って、こんなことを言っているのかもしれない。だが、それでも、決定的に間違っていることが、一つだけあった。


「あいつの居場所は、無くならない」


 これだけは、言っておくべきだと、そう思った。顔を上げた葵さんは、不思議そうにこちらを見つめている。


「だって、宿屋の従業員ってのはあいつの『立ち位置』でしかないんだ。『立場』を失っても、『居場所』がなくなるなんてバカなことがあるものか。俺と、葛葉と、従業員。全員が、まず仲間なんだよ。あんたは俺たちを舐めすぎだ。たかが一回ちょっとひどい目に遭ったって、みんながあいつを見捨てるわけない。付き合いが一番短い俺ですらあいつを信じてるんだから」


 きれいごとだ。けど、理想で目標を掲げなきゃ、理想を目指して信じなきゃ、現実が変わることは無い。


「あいつの居場所は無くならない。無くさせない。物事はシンプルに考えるべきだ、葛葉あいつが人に嫌われるような人間か? 違う。有り得ない。あいつは生贄だった、そして逃げた。でもそのことを罪に思い、真面目にずっと生きてきた。全ての罪が償えるとは言わないさ、俺だって自分の罪は永遠に数え続けなきゃいけないと思う。でもな、でも!

 間違ったことでは真っ当な人間は絶対に幸せが手に入らない、逆に言えば幸せってことは間違えてないことのはずだろ。あいつはここに居て、幸せそうだったんだ! 人の心理に詳しいわけでもないし、ひょっとしたら俺の勘違いかもしれないけど、あんただって感じなかったか? あんたに会った時のあいつの笑顔! 笑顔は幸せってことじゃないのか? だからあいつは間違ってないんだ、間違ってないのに復讐されるなんてのは、それこそ間違ってる」


 踏み出し、俺は刀を引き抜く。

 既に切れた暗示をかけなおし、一刻も早く葛葉を救う。教えてやる。

 居場所が無いなんて感じることはないのだと。そう、伝えなくちゃいけない。だいたい、このまま引きさがったって、あの男が素直に解毒薬を渡さない可能性もあるんだ。だったら、直接奴を叩いた方が早いかもしれない。


「あんたは、…………」


 何か、言葉を飲み込んでしまう葵さん。だが俺は立ち止まらない。立ち止まってる暇はない。

 物事はシンプルに考えろ、今必要なのは葛葉に会うこと。なんら難しいことはない。

 ただ、この足が急ぎさえすれば。あとは何も必要ない。


        +


「奴への見せしめだ。貴様がこちらを狙ったがため、自己防衛で殺したとしておこう」

「一回負けたくせに自信あるな」

「先ほどはまだ、契約を守る方を優先したのでな」


 負け惜しみを。

 俺の手刀が空を斬る。星火燎原は、背後に集めていた九本の炎のうち一つを収束、爆風を身に受けることで足の負傷による機動力の減退を補っていた。なるほど、これが狐火ってやつか。

 そして十分な距離を取ると、敵を叩き潰す必殺の奔流として、七本の太い炎を解き放つ。波打つ炎は軌道を読みにくいが、先ほど自在に操っているのを目撃したため対処法はできている。鎖付き鉄球などを相手にしていると考えればよい。

 これがオートで動くものを焼き尽くす炎ならまた対処が変わってくるが、自分に爆風を当てるなど細かい操作が利くということは、そうではないのだろう。術者の意識が先にあるのなら、軌道を読むことはできる。当たらなければ、ちょっと本数多いが、ダブルダッチと同じだ。

 接近して拳と視線を構えるが、さすがにもうこちらの目を見る愚は犯さない。ま、もう魔眼使えないけどな。星火燎原は無事な足で後退するが、こちらも踏み込みと気迫でフェイントをかけ、ついに背後に回り込む。

 すると残っていた一本の炎を逆手に構えた短刀の柄頭で弾けさせ、星火燎原は高速で背後に突き立ててきた。慌ててそれを飛びのいてかわす、その隙に後ろ回し蹴りで追撃。腹に一撃喰らった俺は倒れ込む。


「邪魔だ」


 また九本の尾が現れ、振るわれる。慌てて俺は飛びのき、しかし葛葉に意識を移されないような距離を保つ。炎の飛距離は七、八メートル、一度に九本まで操れるわけか。

 と、そこである事実に気づいたらしい。俺がわざとらしく笑ってみせると、奴は鼻を鳴らした。俺の手のうちには、いまの接近で懐からかすめとった、フラスコがあった。俺はその重みを掌に感じながら、後ろポケットに大事にしまいこむ。


「もらったぞ、このフラスコ」

「馬鹿め、中身は解毒薬の一部だ。もうひとつの材料がなければ完成はせぬ」

「馬鹿はおまえだついでに阿呆。うちの水に、だいぶ薄まってるけど眠り薬自体はあるんだろうが。だったらその成分調べてこの解毒薬の一部とやらに照らし合わせれば、必要な他の材料もわかるんじゃないか?」


 そこまで考えが至らなかったのか。唖然として、奪い返さんと突っ込んでくる。より悔しがらせようと、一部でも本物を持ってきたのが運のつきだ。こういうのは現物をみせないで、ブラフの可能性すらにじませつつ対応するのがセオリーだろうに。

 星火燎原は奥歯を軋ませ、再度襲い掛かってくる。無事な足での一歩に爆風を纏って、低く上体を屈めて突進。右手で構えた短刀を振り抜き、俺のはらわたを裂こうとした。しかし、怒りに身を任せ過ぎだ。一メートル以内、近間での爆風加速なら見切りづらいが、こうも距離が空いていては狙い定めるのも容易く、


「喰らえ」


 カウンターを打ち込みやすい。サイドステップでかわしざま、上段回し蹴りで顔面を打ちぬく。鞭打ちになるのではないかというダメージ、あごに当てた。脳震盪は確実だ。

 しかし目的遂行のためか、瞬時に覚醒を果たしてきやがった。倒れ込む体を負傷した足で支え、意識が取り戻されるか否かの危うい状態のまま、狐火の尾で周囲を乱れ打ち、薙ぎ払う。素早く圏外に逃げだしたが、触手のごとき炎の乱舞が、迫りくる。しかし、乱れるばかりで当たりはしない。


 奴のうろんな目つきを見て、俺はぴんときた。まだ視界ははっきりしていないはず。意識が覚醒したばかりというのは得てしてそんなものである。

 俺は自分の背後を確かめ、まだ形を残している廃屋に気づくと、そこへ跳んで屋根を足場とした。大きく跳躍し、またも奴の後ろへ。

 だが、視界はなくとも耳は鋭く聞きとったようだった。背後に降り立った矢先、周囲の炎が集中砲火。激しい炎は瞬きの間に焼き尽くす……俺が屋根から引きはがして地面に投げた、瓦や梁の一部を! そして直後、俺は今度こそ背後をとった。その事実に気づかれる前に、


「……ごオオああああッ!!」

「ぐ、っつぅ!?」


 人狼の咆哮で、耳も潰す。となると、俺がどこから来るかわからない――形の無いものを操る能力者や魔術師が防御の姿勢を取る時、多くの場合は最小の力で全てを薙ぎ払える『回転』を使う。自分の周囲を覆うように、風であったり水であったり、炎であったりを操作するのだ。

 星火燎原も例に洩れず。自分の周りを完全に覆い隠し、視力か聴力が回復するまでわずかな猶予を稼ぐのだろう。しかしそんな時間、与えるつもりは毛頭ない。

 強力な回転であっても、その中心は動かない。回り始めならさらに、意識を向けてすらいないだろう。戦の場において、安全圏など存在しない。再び屋根から梁をひっぺがし、その太い丸太を唸りをあげる業火の渦の天辺てっぺんに突きこんだ。そうして空いた隙間に飛び込み、脳天に目がけて踵落としを放つ。

 星火燎原はしかし、わずかな炎の揺らぎでその攻撃に気づいたらしい。致命打を避けるためにわずかに動き、そのために俺の一撃は星火燎原の左鎖骨をへし折るに留まった。


「失せろ」


 低い声と共に、右手の短刀が生き物のようにうごめく。踵落としを放った左足、その太腿ふとももが鋭い一閃で貫かれていた。だが痛み分けに、持ちこむ! 短刀を掴む星火燎原の右手を握り、手首を返してひねり上げた。そしてなんとか力の緩んだ隙に、関節を砕いて背後に脱出する。その時、足に痛みが走った。

 くそ……怪我だけじゃ、ないな。限界を越えた自己暗示の、代償か。


        +

 

 葛葉はもう口をきくこともままならない状態だったが、靄のかかった頭の片隅で、有和良が先ほど自分を運んでくれた時のことを、繰り返し、繰り返し思いだしていた。

 その時、有和良はたった一言、ボロボロの葛葉を見てこう言ったのだ。「よかった」と。

 なにがよかったというのですかと、聞き返したい。そんなことを、葛葉は思った。この人殺しの宿屋主人は、何を持ってして自分に対してよかった、などと言っているのだろうか、と。もう居場所もなくしてしまって、なにがよかったのか。これからなにがよいことだと思えるのか。

 ……居場所。そのことについて考えるのが、今の葛葉には一番辛かった。

 もう戻らない日々。楽しかった生活。これからの日々は何なのだろうか。苦しくて、辛くて、そうした思いを延々と抱えて生きなくてはならないのか。罪について生き罰を受けるため生きなくてはならないのか。色々なことを、短い間に考える。

 でも。

 ああ、なんで――この人は。


「こんなに、も……幸せそうに。微笑んで、いるのでしょう――」


 そう、思った。わずかな、悲しみさえ含んだ微笑。そんな顔を向けられて、葛葉はもう何も考えられなくなった。ただ一つ、思うことは。

 この人は、きっと間違った人じゃない、ということ。それは、とても不思議な感覚だった。目の前に居るのは人殺しで、間違いなく葛葉と同じ罪を抱えた者であるはずなのに。なぜこんなにも、自分を安心させるのだろう、と。

 幸せ。昨日まで手の中あったそれは、今や手の届かない場所にある、そう、先刻までは思っていた。

 しかし。

 有和良の笑顔には、間違いなくそれが、内包されていた。言葉無し、理屈抜きの。だがすぐに有和良は去っていく。顔を引き締め、星火燎原との戦いの中へ。廃墟の影に隠れていたため音でしか様子はつかめなかったが、葛葉には有和良が戦っているという事実さえ分かればどうでもよかった。

 葛葉の思うことはもう幾つかしかない。火傷による発熱でぼうっとした頭には、考え付くことはシンプルで、少なかった。

 幸せそうな笑顔を見せた有和良。そして、その有和良が今戦いの中で、命を落とすかもしれないという事実。星火燎原は、本当に手強い敵なのだ。ひょっとしなくても次の瞬間には絶命しているかもしれない。それは、想像するだけでも胸が張り裂けそうな痛みを覚える。

 そこで、葛葉の思うことはたった一つになった。唯一つ――あの笑顔しあわせを、失いたくはない、と。傍らに置かれていた愛刀を手に、震える足で立ち上がらせる。全身が傷にまみれて、帯も焼ききれ素肌を大きく晒した状態で。

 右手に意思を込め、左手に心を添え。刀の鯉口を、切る。


       +


 全身に力を行き渡らせて、足の痛みを我慢して、三歩だけ走る。そして踏み込み、その運動エネルギーを余すことなく停止させず、腰のひねり、肩の動き、腕のひねり、と打点への衝撃貫通を目的に全ての動きを流すように行う。

 銃のごとくじゅう。獣のごとくじゅう。重のごとくじゅう。柔のごとくじゅう。そして従のごとく、自由のごとし。十のジュウにて敵を打つ、それが俺の得た体術。それだけが倣った極致。

 対する星火燎原はもう炎の鞭では俺を仕留めきれないと悟ったか、その場に腰を低く構え、左順手に持ち直した短刀の柄頭に狐火を一点集中。爆発の推進力を全て載せた。これならいける。直線的な動きなら、またカウンターの餌食に――


灰燼かいじんと化せ! 〝灼壊しゃくえ〟!!」


 ちがう。気づいた時には、もう遅い。あまりの事態に走馬灯が巡り始め、体感時間が停滞する。

 音を越えたような感覚。空気の中を進むのでなく、空気が自分の後方へとただう疾うと流れ行くような、そんな状態の中。温度の高まりすぎた、色の薄い炎の推進力で一筋の雷光と化した突きは、俺の拳よりも遅く放たれ俺の拳よりも早く加速した。しかも、それでいて軌道はめちゃくちゃだ。俺までの数歩というさまざまな経路を迷路のように並べ、それを一気に踏破しているように見えた。

 星火燎原が苦悶の表情を浮かべるのが、見えた。短刀を構える腕が、ぶれる。関節に凄まじい負荷がかかっている。九本の尾による爆発を、おそらくはランダムに発生させることであの読めない軌道を生んでいる。それでいて短刀があらぬ方向に飛ぶことのないよう、左手一本で押さえこんでいるのだ。意志を持った短刀に振り回されているような、その一突きが迫る。

 かわせたのは、向こうが短刀を押さえきれなかったことと、俺が臆して膝の脱力をしたことが大きい。まずがくりときて、次にわずかに肩を引っかけられたために、吹き飛ばされた。かすっただけで、肩を脱臼しかけ、熱に肌が焼けた。


「うそだろ」


 そこで運の悪いことに、暗示が解ける。人狼の力など持たない、ただの吸血鬼に。戻ってしまった。

 無論見逃されるはずもなく、星火燎原は前蹴りで俺の体を浮かせる。とっさに腕を交差させることでガードしたが、骨が軋んだのは否めない。


「これで、終わりだ。生きていれば我が主の下へ連れて行こう」


 俺に詰め寄ってくる星火燎原。ちょっと、まて、だめだ、声どころか、呼吸も


        +


 首を殴られて意識を落とした有和良は、どさりとその場に崩れ落ちた。

 だが、担ぎ上げようとしたところで足音がしたことに気づき、星火燎原は背後の気配に向けて声をかける。


「その体で、勝てると思うか」


 葛葉は答えない。体はもう限界で、少し動くだけでも激痛が走る。特に左肩と右の二の腕、そして背中に大火傷を負っており、とても刀を振れるような状態ではない。

 本人もそれを自覚しているためか、鞘に納めた刀に手をかけただけの姿勢で、星火燎原に向き合う。一撃必殺、居合いのみで仕留めるため。しかし、無情にも現実は葛葉の敵に回る。

 余りにも単純な真理。刃は、届かなければ意味がない。


「馬鹿が。その間合いでは届くまい。……まあいい、元より貴様を倒すことも予定の内。好きに技を使え、最後の技となる。そして我に打倒されよ。天旋あまのつむじか? それとも獄廻ごっかいか? どちらも一度は貴様の師から見せてもらった。どれを出しても結果は同じこと」


 揺らめく蒼い炎。葛葉は視界がぼやけて、もはや星火燎原の位置すら上手く掴めていない。だが、脳裏に閃いた直感に従い、一つの技を放つことだけは決めていた。

 無尽流、終の奥義、遠間の太刀。〝無刃剣戟〟。

 しかし、これまで葛葉は一度たりとも、それを放つことは出来ていなかった。


 師、曰く。この奥義は使い手を選び、ごく限られた才覚あるものだけが、その『不可視の刃』を放つことが出来るとのことだった。要するに先天的に恵まれた体躯の持ち主だけが、自然と使えるようになる技だということ。また全力で抜くために技後の硬直は否めない上、気配も強まるので奇襲には使えないとのことも教わった。

 そして葛葉にはそれほどの才覚は無く、わずかに力が足りないということも、聞いていた。故に、これまで一度もその刃を放つことはかなわず。必要に迫られている今現在の状況ですら、扱える可能性は限りなくゼロに近かった。

 しかし無刃剣戟は、接近戦しか行えないと思われている抜刀術における最大の秘剣。遠き間合いにて攻撃を仕掛ける、有り得ざる刃。これはおいそれと見せることのできない技のはずで、星火燎原も無尽流については天旋と獄廻の二つしか、あげていない。

 ならばと、葛葉は願う。己の体がどうなろうとも構わない。たった一撃でいい、星火燎原を倒し主を助ける力が欲しい、と。

 その一撃のために星火燎原が命を落とし、その罪を新たに背負うとしても。それ以上に、有和良を救いたかった。幸福そうだった少年。居場所を与えてくれた恩人。もうその居場所が無いとしても、過去にそこに在ったことが事実なら、それだけで葛葉は自身の一生をかけてでも恩を返すべきだと思えた。自身の全てを投げ打ってでも窮地は救わねばならないと感じた。

 だが、今の葛葉はどれだけ力を振り絞ってもそれが出来ない。

 命をかけても届かない。

 現実は甘くない、どれだけ助走をつけても越えられないハードルはたしかに存在してしまう。ならばこそ、自身の全てを計算し尽して特攻以外の手段を考える必要があった。確率がゼロに近いならば、それを即座に切り捨てる。

 己に許されたのはたった一撃。立つのもやっとという現状では、それ以上は望めない。ならば、その一撃にどれだけ力をかけられるか? どれだけ力をかけても勝利は不可能。ならばどうすれば良いか。

 思考し尽くして後悔の無きよう尽力せよ。


「今度こそ、今生こんじょうの別れと相成ることだろう。この一撃で、貴様の未来を絶つ」


 収束してゆく星火燎原の蒼い狐火。柄頭に全ての爆風を乗せ、刺突一閃で軌道上の全てを焼き、薙ぎ払う一撃。先ほどの技、〝灼壊〟。喰らうわけにはいかず、しかして今避ける手はない。生半可な回避では、追撃の爆風で吹き飛び体勢を崩したところで死留めらるのだが。

 爆風。


「――風、が」


 居合い。

 斬撃。爆風。足りないのは力。それらを総合して――刃の無い剣戟と成す。

 葛葉は、切った鯉口を元に戻した。キン、と金属の擦れる音がして刃が完全に鞘に納まったことが分かる。星火燎原は、もちろんそんなことでは動じない。構えた短刀の切っ先を葛葉に向け、一直線に突き進む。葛葉はそれを目で追わず、瞳を閉じて集中した。

 無刃剣戟は、文字通り刃の無い剣戟である。その正体は、音速を超えた抜刀により生じる衝撃波。超音速のジェット機などにより生じる衝撃波やソニック・ブームと同じ種類のものである。だが音速を超えた抜刀など、そうそう簡単に誰もがたどり着ける領域ではない。故に、衝撃波を飛ばすこの技は、強力だが才覚ある者しか使えぬ奥義として無尽流に伝えられるのみとなった。

 そして師である葵とは違い、葛葉は恵まれた体躯たいくではなかった。よって、今までどれだけ練習してもその刃は音速を超えることはなく、奥義は使用不可。これからもそうだろう……普通の方法では。


「死して詫びよ」


 最凶の刺殺。蒼い炎の奔流に押される短刀が、唸りをあげて葛葉の元へ飛び込む。先ほどは外したが、今度は外さなかった。葛葉への、星火燎原の執念が、切っ先をずらすことを許さない。どれほどの高速に達しようと、どれほどその身が軋んでも、まっすぐに行く道を見据え、刺し貫く。


「……〝無刃、剣戟〟」


 その道が、断たれた。

 抜かれた刀の鍔が、鞘の内からほとばしる蒼い炎に押されているのを、星火燎原は見た。だが振られた刃は見えず。飛んできた刃もまた、不可視の一撃だった。

 衝撃に押しとどめられ、短刀も弾かれ、右肩から斜めがけに一撃。脇腹まで、深く深く抉りぬいた。あともう一歩。もう一メートルもない距離で、復讐を果たすはずの刃は止められた。そしてこの距離は、もう永遠に埋まることはない。星火燎原の腕が、短刀ごと地に落ちた。

 なんということは、ない。納めた刀の、鍔元と鯉口。そのわずかな隙間に、葛葉は己の小さな狐火で爆風を生むことで、初速を得た。さらに段階的に、軌道の上で鍔や峰にも連続して爆風を受けることで、居合いの速度を増したのだ。否定してきた己の、あまりにも小さき異能の助けを借りて、葛葉はいま、己が流派の真髄に至ったのだ。


「馬、鹿っ、な……」


 そんなことは全く知らない星火燎原は、正体不明の見えざる剣戟により切り裂かれた己の体を、目を白黒させて眺める他無い。派手に血を噴出し、星火燎原はその場に倒れ込んだ。葛葉は膝をつき、鞘に刀を納める。

 荒い息をつく視線の先には、倒れ込んだ有和良。刀を支えに、その元へ。一歩一歩、踏み出す。ゆっくりと、歩き方を覚えたばかりの子供のように、着物の裾を擦りながら進んでいく。


        +


「ダンナ様」


 そして、肩を掴んで揺り起こされた。


「くず、は?」


 目を覚ました俺は、葛葉の無事を知ると顔がほころんだ。そんな俺の姿を見るや、葛葉は涙をこぼす。横を見ると、星火燎原が、仰向けになって地に伏していた。

 ああ、つまり。

 葛葉が。


「これまで、ありがとうございました」


 そしてたった一言。離別の言葉。深く頭を下げつつそれだけ残し、歩き去ろうとする背中。

 でも俺は、その背に呼びかける。


「……辞表を受け取って、ない」

「では、ここを離れる前にそれを書いておきましょう」


 よろよろとした足取りで刀を杖に、葛葉は振り返りもせずにそう言った。

 自分勝手な物言いに、俺は上体を起こす。


「受け取らない、そんなもの書かれても」


 ようやく、立ち止まる。俺からは顔が見えないように、背を向けたまま。

 葛葉は顔を煤けた袖で拭い、三本目の足として突く刀に力を込めた。まだ去ろうとする葛葉に、俺はさらに声を張り上げる。


「だって、宿屋はおまえの居場所だろうが」


 無視。歩き去る。舌打ちせざるを得ない俺は、やはりボロボロの体を引きずり追いかける。痛む節々はこれ以上の運動を俺にさせないよう呼びかけてきたが、それこそ気合で真っ向から否定する。とはいえ、間接にのこぎりでも刺し入れたような痛みは相当キツイものがある。

 無言で追いかけること数メートル。互いに距離は縮まらず、葛葉も苛立ちを覚え始めた様子だった。


「あなたはっ!」

「おまえの居場所は、ある」


 振り返った葛葉は、一瞬呆気に取られ。すぐに、その顔を憤怒の表情に変える。

 頬に一筋、(本音)を流しながら。自分を責めて、自分を許せず、それでも本音を、隠しきれないまま。


「わたしは、宿屋の、みんなを、裏切って! 許されるものじゃない! それに、それに! わたしは、また…………人を、殺した。そんなわたしが、どこに居場所を許されるのでしょうか?」


 声のトーンが落ちて、自らの背負った新たな罪を思う。それは、必要なことではある。それをしなくなった時、それはそいつが人間を止めてしまう時だ。不必要でも、無意味でも。人は、犯した罪を償い続けなくてはならない。

 だからこそ、俺は彼女に手を差し伸べる。何も、そんな作業は一人でやらなくていいはずだから。


「うるさい! 許容それを決めるのは俺たちだろうが! そして、人を殺したことは償いきれない。でも、でも。葛葉は、今まで償い続けてきた! それは不必要でも無意味でも、決して無価値なんかじゃない! 俺はおまえを、認める!」

「しかし。もう、わたしには、居場所が」


 まだそれを言うか。もうとっくに解決した話題を。


「居場所はここだ」


 俺は自分を指差した。


「宿屋が居場所ってわけじゃない。そこに、姫がいてぱとりしあが居て川澄さんが居て柊が居て白藤が居て俺が居て。その繋がりが、居場所になっていくんだろう。そして、居場所があることは。幸せなことじゃ、ないのか?」


 そこまで言っても、葛葉は首を横に振る。そんな様子を見せ付けられて、俺の方が腹が立ってきた。

 後ろに回りこみ、人狼でもなんでもない、ただの人間と大差ない力で一撃。こちとらただの吸血鬼ですから。あっさり気絶した葛葉を背負い、俺は宿屋へと歩き出す。懐に入れた解毒薬のフラスコが、なんだか重く感じられた。


「……有和良、春夏秋冬」


 ふと、呼び止められる。進行方向に立っていた葵さんの顔には、泣いた跡があった。

 ここまで来ることにも、相当迷ったに違いない。


「――葵さん」


 俺は、呼びかける。びくりと震えるのが窺えたが、それを払えるように笑顔で尋ねる。


「俺の宿に泊まりに来ませんか。ただの客として、歓迎しますよ」


        +


 解毒薬の完成には、少しかかった。葵さんの知り合いと俺の知り合いから総出であたり、毒物や呪術に詳しい専門家を呼ぶのに二日。さらに解析して、対応する材料を作り上げるのに二日。

 やっと解毒薬を飲ませて眠りから覚めた面々は、顔を見合わせて溜め息をついた。そして、俺が強制的に眠らせた葛葉の目覚めを、全員で待つ。俺が眠らせたせいではなく、あまりにも大けがだったせいで意識が戻らないらしい。

 葵さんも客室から出てきて、心配そうに顔色を窺っている。誰の顔色を窺っているかというと、俺たちの、だ。


「今は、葛葉のことを心配してくれませんか。俺たちは、別にあなたに個人的恨みはない。しかも今はお客さまなんですから。どうする気もないですよ」


 恐縮した様子だったが、葵さんはゆっくりうなずいた。




 さらに一日経って、布団の中に居た葛葉は目覚めた。自分の周りを従業員のみんなが囲んでいることに気づき、ぎょっとした。それから、呆れたように、諦めたように、深い溜め息をついた。


「お目覚めかよ?」


 姫が尋ねる。上体を起こした葛葉は、かわるがわるみんなを見て、うつむく。


「あたしさ、怒ってんだ」


 唐突に切り出す姫。葛葉は萎縮して両手を硬く握り締める。


「……助けになれなかったあたし自身に。頼りなくて、ゴメンな。でもさ、今度からは。ちょっとでもいい、頼ってほしいぞ」


 呆気に取られて顔を上げる葛葉。

 ――ほら。案外、人と人のつながりも、頑丈なもんだろう?

 頑丈だから、居場所にも出来る。俺たちのつながりは、そんなに脆くない。


「…………こういうとき、どういう顔をすればいいのでしょうね」

「決まってるだろ、幸せな時の顔だ」


 そう言ってやると、ゆっくりと。華が咲いたような、輝く表情を、葛葉は見せた。


        +


「あたしはまた、どこかを旅するわ。これだけ心強い仲間が出来てるみたいだし。何よりあんたが、ここに居たいと心底思ってるみたいだからねぇ」


 翌日の朝、葵さんは宿屋の表玄関に居た。五泊六日の代金としては相当な額を置いていかれて正直困ったが、解毒薬調合の代金もあるし、気にするなと言われては仕方が無い。正直この五日無給だったから、お金にも困っているし。

 こうやって、少しずつ汚いことを憶えていかなくてはならないのだろうか。


「色々、済まなかった。憑喪神のあんたなんか、怪我をさせたものね」

「大したことはないから構わん。またのご宿泊を心よりお待ち申し上げます、じゃ」


 みんながうんうんと頷く。ああ、経済状況は把握済みだったのか。これで来月、頑張れば再来月も保つな。

 懐が暖まったことを共有し合う奇妙な時間のあと、葛葉は、おずおずと前に進み出る。そして、丁寧に頭を下げた。


「またのご宿泊を、心よりお待ち申し上げます。――桧原、葵様」


 うん、また来ますよ、と返して、葵さんは去っていった。表玄関はまだあの廃村に繋がっている。葵さんは、そこに星火燎原を埋めてから旅に戻るそうだ。そこは自分でやろうと葛葉がいったものの、できるような状態じゃないと一蹴されて、仕方なく依頼する形となった。

 葛葉の横顔は、明るい。全身包帯でぐるぐる巻きにして、軟膏や飲み薬で体を補強しないと立てないくらいに辛くても。


「……別れの言葉、今のって」


 宿屋の従業員としてだったのか、それともおまえ個人としてだったのか、と尋ねかけて、やめる。

 無粋、だものな。頭を掻く俺を見て。

 葛葉の背筋が、ぴんと伸びた。


「さあ、仕事に戻りましょう。ダンナ様」


 微笑みかけてくる、その表情は柔らかく。俺も笑い返した。



 ではまた次回


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