十三頁目 殺戮の序曲を奏でようか?(絶対真理)
家の近くで要と別れ、葛葉の居る宿屋の中へと入る。俺が先に入り、姫は後ろに続いた。
だが、何かおかしいと俺の勘が告げてきた。
「……? 変だな、白藤の気配がしないぞ」
姫が後ろでぼやくのを聞いて、ようやく気づいた。白藤の中へ入るときの、あの奇妙な感覚がない。一瞬誰かに見つめられるような、誰かを踏んづけてしまった時のような。そうした、誰かに反応されてるような感覚がなかった。
「あいつが寝てるときはこうなんだろう?」
「いんや。寝てても最低限の警戒はしてくれてんだけど。今はそういうのすらないみてーな」
ということは。眠る以外の方法で、意識が完全に消えてしまっている、となる。
それが示唆することは、既に誰かが侵入して皆が襲われたということ――!
「くそ、まさかもう来たかよ! 普通ならも少し、間を置いて来るもんだろーが!」
駆け出した姫の後ろについて走り、勝手口から入る。靴も脱がずに廊下を走りぬけ、途中で突然姫が立ち止まる。そして、何を思ったかダン、と床を踏みつけた。すると、まるで忍者屋敷のように。ぱかりと天井が開き、ボウガンが落ちてきた。空中でそれをキャッチし、張られた弦の具合を一撫でして確かめる。
「弓は練習してるって言ってたけど、まさかそれも使えるのか」
「むしろこっちの方が楽だけどな。照準合わせて引くだけ、つまらねぇ得物さ。でもま、室内で弓を取りまわすのは正直めんどいし」
右手は前に、左手は支えとして添えて。姫はすたすたと宿の中を進んでいく。敵がどこかに潜んでいると思うだけで、静かな宿屋の中は恐怖の魔窟と化してしまう。次の角で何が襲ってくるかわからない。気を抜かず、進もうと、
「おい」
「うぐ」
した途端、こちらを振り向いていた姫にぶつかってしまう。俺の胸までしか背がない少女は、こちらを見上げてしっしっ、と追い払う動作をしてみせた。俺はハエか。
「ダンナはどっか隠れてろ。あたし一人で行ってくっから」
「はあ? 相手、さっきの様子だと二人は居るだろう。もしかしたらもっとかもしれない。一人より、二人の方が便利だと思うんだけど」
「便利とか不便の問題じゃねえだろ。戦闘になっちまったら、あたしは一人でダンナを庇いきれる自信がねーんだよ」
はあ。
つまり俺は足手まといということですか。そうですか。
「たしかに弓の練習を見る限りじゃ、姫も相当な使い手みたいだけどさ。俺だって足手まといにはならないよ。それに多人数戦であればあるほど、幻覚によって生まれる混乱は大きくなるし」
「バカ。相手は接近戦主体、抜刀術の使い手だろが。ダンナは体術で戦うみたいだし、いくらなんでも不利すぎる。倒せねぇよ。それに幻覚なんて、その気になりゃ自力で解ける奴も居る」
駄目押しするように首を横に振って、姫は俺を諭すような口調になる。
いやまあ、正直運動能力はそう高くないけども、ここで俺だけ逃げるってのも難有りだ。
「弓だって遠距離武器だろ。近寄られて間合いに入られたら斬られておしまいじゃないか」
「それをさせないのが技と術だ。あたしの星野流弓術には近接当て身の型もあんだよ。それに……狙われてるのあんただし、あんたはダンナだろーが。上司を死地に送りこめるか」
「俺のダンナってのは、最終決定をする立場ってだけだ。守られるべき、上司とか上官じゃない」
互いの主張は相いれず、先ほどまでとはまたちがう緊迫の空気の中でにらみ合い、数秒。
こんなことしてる場合じゃないと思い、俺たちは互いにかぶりを振った。
「仕方ない。あたしは『風』の棟の方見てくるから。ダンナは従業員棟の方を頼む」
「了解」
「けど約束しろよ、敵に出くわしたら即座にその魔眼を使うって。視線を合わせるだけっていう条件で発動出来るなら、技の出の速さとしては最高級だ。なんたって光速だかんな」
「わかってる。元々、そのつもりだよ」
心配そうな顔の姫に頷き、魔眼発動の準備をする。どういった幻覚を視せて相手を騙すか。
「……本当に大丈夫、なんだよな」
後ろを向いて駆け出そうとすると、姫が呼び止めた。心配そうな顔は、振り返ればすぐそこにあるだろう。だから、振り向かない。正直戦いに出向くのは怖いし、相手が達人となれば尚更。
不安に駆られたら戦えなくなるかもしれない、俺はそんな、臆病者だ。
「大丈夫だって。逃げ足には自信がある。なんとかしてみせるよ」
後ろで吹き出すのが聞こえた。よし、大丈夫だ。
「じゃあ俺は行くよ」
「ああ。棟を一つ回り終えたら、ここでまた集合な」
互いに、駆け出していく足音を聞きながら。俺は従業員棟の二階に続く階段へと戻る。
もし達人と遭ったら。その場合は、魔眼を使っての戦闘は避けえないだろう。それは怖い。とてつもなく怖い。なにせ、達人を相手取るとなればこちらも全力を出さなくてはならない。
本人には言えないが、白藤との戦闘では俺は全力ではなかった。手加減はせず戦ったが、戦闘というものとしては、手抜きをしていた。
俺は全力を出すのが怖い。なぜなら――全力を出したら、相手を殺しかねないからだ。
+
探し回った姫には悪かったが、俺は開始五分で宿屋の面子全員を見つけた。五つの棟の中心となる広間で壁にかかった絵画を眺めつつ待っていると、姫は息を切らして戻ってきた。
「ダンナ、も、探して、きたのか?」
「拍子抜けだったよ。みんな自室とかで寝てた」
まったくなんなのか。相当ぐっすり寝ているのか、廊下で寝ていた白藤も揺さぶっても起きない。依然として、宿屋の気配は途絶えたままだ。柊もぱとりしあも川澄さんも、みんな揃って眠っている。黒猫のスミスも中庭で眠りこけていた。
「な、んだよ。なら、白藤は、単に深い、睡眠に、なってただけ、か」
「らしいな。でも、葛葉の姿が見当たらないのがなんとも。まさか、みんなが眠ってるのと何か関係があるのか?」
「なん、にせよ。ちょっと、水、飲みたい」
ぜえはあと息を切らす姫について、厨房までついていく。厨房のダイニングテーブルでもぱとりしあがぐっすり。
蛇口をひねり、冷たい水をグラスに受ける。そしてもう一つ。
「ほら、ダンナも。少しは喉、渇いてるだろ」
「あー、俺はさっき血を飲んだから。水分補給は一応出来てる」
そっか、と呟き、水をあおる。一気に飲み干し、俺のために注いでくれた二杯目も。
「ふー。ん、」
それが最後の一声。ぐら、と変に重心が傾いて、姫は床に倒れこむ。
「うわっと!」
滑り込んで両腕で抱える。宙を舞ったボウガンが、ガシャンと硬質な音を立てて白い床を転がっていった。何が起こったのか。それはすやすや寝息を立てる姫を見て、なんとなくわかった。
揺さぶっても叩いても起きない。異常な眠り。そんなことは、人為的な原因が無ければ起こらない。
「つまり、宿屋の井戸に……眠り薬でも仕込まれたんだな」
葵が騒ぎを起こして引きつける間に、もう一人居た黒服の男が井戸に毒を投げ込む。白藤は葵の方に注意が向いてるから、全身のほんの末端でしかない井戸の異常には気づけない。大怪我してる時に、小さな怪我には気づかないように。
そして井戸の水は枯れない水。ゆえに水道費節減のため、宿屋全体いたるところに繋げられている。風呂、トイレ、散水器……そして水道。川澄さんはお茶でも飲んでる様子だったし、柊は白藤と共に倒れていた。その白藤はというと水割りで酒を。ぱとりしあはここ、厨房で伏せっている。無論、片手には水の入ったグラス。
そして今また姫までも。水という、生活における生命線に仕掛けられた罠。もし事前に血を飲んでいなければ、俺も今頃姫とここで昏倒していたことだろう。
みんな眠った状態で、葛葉はいない。なんにしても、敵である桧原葵一行を探すのが一番早そうだ。眠り薬を仕掛けたのが奴らであれば、解毒薬も持っているのが筋。交渉材料にする予定がないのなら、無力化のためにいっそ毒で殺した方が早いからだ。
……ひょっとして、葛葉はみんなの目を覚まさせるために解毒薬を取りに行ったのだろうか。いや、考えなるまでもない。奴らのところに行けば大体の事情は掴めるだろう。
その際、戦闘になってしまった場合は。考えたくないけど、誰かが死ぬことになるかもしれないが。
「いやだ、な」
想像するだけでぞっとした。だが、動かなくては何も始まらない。
とりあえず俺は宿の外に出ることとする。葛葉の方は勝手口から八尾町の方へ出て行った可能性もないではないが、葵が逃げる際には表玄関を使っていた。いまの表玄関がどこに繋がっているかは知らないが、少なくとも八尾に近いところではないだろう。
俺は急ぎ、『風』の棟へ向かった。
+
仕掛けられた薬の正体に、葛葉は思い当たるものがあった。妖狐の血族にいた頃、狩りに使うのだと言って大人たちが用意していた薄い緑色の液体。正式な呪い師の元で念を込めて作られたそれは、覚めぬ眠りを生む特殊なもの。ただし、その強力な効果ゆえに値も張る。湧き続ける水に希釈されてもあれほどの効果を発揮する量となれば、一生涯を通して払うことを覚悟しなくてはならないだろう。
だがそれだけのリスクを出す価値がある、と相手は判断した。そのことだけで、葛葉は犯人の正体にも思い当たった。
「わたしの血族の者。その生き残り、でしょうね」
からん、と鳴り響く己の下駄の音。じゃり、と踏みしめる土砂、瓦礫、砂利。黒く煤けて焦げ、ひねた臭いを放つ小さな村。
妖狐の里、だった場所。わざわざここに宿屋が転移してくる機会を待っていたとは思えないので、いまここが表玄関になっているのは、偶然の一致だろう。やはり神様の作るめぐり合わせは残酷に出来ている、と葛葉は思う。
自分の身長を越えるほどの建築物はほとんど残っていない。右を見ても左を見ても、青々とした山々か、砂塵と黒煙の混ざったつむじ風があるだけ。その廃村の中を黒い着物姿で歩く葛葉は、さながら葬式の参列客。ただ一点、左手に携えられた刀を除いては。
薬を撒かれて宿屋の仲間が全員伏してしまった後、葛葉はすぐにここへ出た。そこまでは何も考えず、感情に流されるままの行動だったのだが、外が自分のかつて居た村だと気づくと途端に居場所は思いついていた。歩調を乱さず、徐々に近づいていく。小さいながらも立派なやぐらが建立された、大部分が破壊の憂き目に遭った村の中で残っていた場所の一つ。
己が捧げられ、逃げ出した、生贄の祭壇。十段ほど上がった頂上部、崩れかけた柱の下に。葵は立っていた。
「おびき寄せることには成功したみたいだわね」
腕組みしたまま柱に背をもたせかけ、葛葉を見下す葵。風になびくツナギの袖が、ぱたぱたと手を振った。彼我の間にある距離は五メートル弱、葛葉は油断せず刀の柄に手をかける。
「おびき寄せるなどという狡猾な手口ではないでしょう、あれは。矢印を壁に書いてこちらに来い、と誘う程度のもの、大した手でもありません」
「それに引っかかったということは相当な阿呆ってことよねぇ」
「引っかからなければどうにもならない。ならばわたしは阿呆にもなりましょう……率直にお願いします。解毒薬を渡してください」
鯉口を切った状態での頼みごとというのは、どう考えてもお願いではなく恐喝だろう、と葵は呆れる。だが、彼女は弟子の、そんな真っ直ぐなところが嫌いではなかった。その実直さゆえに、彼女は葛葉を相棒にしようなどと考えているのだから。
「星火燎原」
ぼそりと呼び寄せる。すると、柱の上、屋根のところから、黒い着物に黒い袴の青年が飛び降りてくる。片手には銀色の、酒などを入れるようなフラスコ。
「あいにくとこれは解毒薬ではない。これと、もう一種類の薬品が必要となる。その隠し場所を知るのは我のみ。奪おうとしても無駄だぞ」
牽制するように言う。
「……星火燎原。あなたが、あの眠り薬を撒いたのですね」
問いかける葛葉に、歯軋りで返す星火燎原。血走った瞳は狂気、凶気、狂喜に満ち溢れている。少しでも気を抜けば殺されるであろうことは明白、葛葉は、柄にかけた手が震えるのを感じた。
星火燎原。平原を焼き尽くす烈火の如き凄まじさを誇る、最強たる狐火の使い手に送られる称号。それは即ち、葛葉のような落ちこぼれとは一線を画す存在であることを示す。
視線を合わせるたびに感じる、恐怖。〝彼らより前に兵を出すな。彼らが退いたら山二つ退け〟と言わしめるほどに信用される、圧倒的な戦闘能力。おまけに、一度たりとも手合わせで勝利出来なかった師までもが、敵に回っている。
勝率は、絶望的だった。戦力の把握が終わり、あとは機をうかがう他ないと、ひたすら観察を続け……そこにきて、星火燎原が重い口を開く。怨嗟の念が篭った言葉は、葛葉の精神を切り崩す。
「我は、ただ目的遂行において最善のことをするのみ。それを止めたいと思うならば、自らの手で止めてみせよ」
暗に「おまえでは止められない」と言っている星火燎原。名を捨て称号の、己が能力の化身となった男は、既に短刀を抜いている。刃渡り三十センチほどの刀身は、しかしよく使い込まれており青白い光を仄かに放つ。逆手に構えたその刃は、少しでも隙を見せれば首を刎ねるだろう。
「待ちなさい。あたしとの契約は」
「分かっている。我は契約は確実に守ろう。これだけは絶対だ、安心するがいい」
短く会話を交わし、解毒薬を葵に手渡す、そして星火燎原は葛葉の前まで降りてくる。ゆっくりと一段ずつ階段を下り、葛葉の正面に立ちふさがった。濃縮された殺気の放出に、心臓を鷲掴みにされたような威圧感を覚えた。視線に射すくめられ、目を合わせられない。
「……解毒薬を、どうか、お渡しください」
「よかろう。持ってゆけ」
あまりにも簡単に承諾。けれど拍子抜けする余裕は与えられない。変わらず叩きつけられる気配は、一秒ごとに自分の死の瞬間を脳内に描かせるほどである。
ただで渡すはずは、ない。
「どういった、条件で。渡してくれるのですか」
「条件。条件とな」
ロクな提案をされないだろうことは、葛葉もよく分かっている。
星火燎原は無表情に、淡々と告げる。
「条件は、先ほど奴の伝えしことと変わらぬ。貴様の働く宿屋の主人をこちらに引き渡せ。さすれば、のこりの五人のため解毒薬を渡す。その後は、好きにしろ。宿屋に戻るなり師に付き添うなりな」
予想はついていた。だからこそ、事実として再確認することが辛かった。
天秤にかけられた、などという生易しい状況ではなく。他に、葛葉に選択出来ることはない。
「手早く決めろ。あの薬は値の張る品、支払うには我ら血族の少数の生き残りではどうにもならぬ。復讐か、しからずんば諦念か。ことここに至り我らは噂を頼りとした。西洋の吸血鬼なるものは、阿片の様に高値で取引出来得る、とな。――全く、難儀な話よ。我ら人外が、くだらぬ好事家がために吸血鬼を捕まえねばならんとは」
星火燎原は言葉を切り、なおもこちらを見続ける。
だが選択肢がないから、葛葉も迷わない。星火燎原の一言は、さらに葛葉を焚きつけていた。
「……っ!」
軽く添えているだけだった右手に、力を込めて柄を握り、頭の中で思い描いた軌道をなぞるようにして、抜刀した。積み重ねた経験が裏打ちする技術は、上段真っ向から唐竹に斬り下ろすという、変則的な居合い。
無尽流抜刀術、上の太刀。〝天旋〟。
「バカめ」
振り下ろされる刀を、左足を軸として右へ体を開いてかわす。尚且つ、左逆手の短刀を葛葉の太刀筋に合流させ、峰に当てることで軌道をわずか、逸らす。のみならず、勢いのままに右足の踵が葛葉の側頭部を襲った。
「つっ!」
屈んでそれを回避し、振り下ろす途中だった刀に左手を添え、体を独楽のようにきりもみ回転させて斬り下げる。星火燎原が軸足としていた左足への葛葉の一太刀は、しかし跳躍してかわされた。
互い、距離を取り。相手の出方を窺う。
「――そこまでだわね。葛葉、突然斬りかかるとはどういう了見なのよ?」
二人の間に割って入り、葵がまくしたてた。星火燎原は気分を害したように舌打ちして短刀を構えなおし、正眼に構えてじっとしている葛葉は、冷静に言い返す。
「簡単なことです。わたしには、ダンナ様を引き渡すことなど出来そうにない。しかし、このままでは宿屋で寝込んでいる人々は助けられない。となれば。要求を呑むことなく、解毒薬を手に入れなくてはなりません」
「あたしら二人を相手に、勝てるつもりってこと?」
心底呆れた様子の葵。刀の柄にかけていた手すら離し、肩をすくめる。星火燎原はそんな葵の態度にも表情を変えず、じっと葛葉の動きを窺っている。だがしかし、葛葉は動かない。隙をわずかにも感じさせないまま、ゆらりゆらりと切っ先を震わすのみ。
「勝たねばなりません。それがわたしの、今の務め」
言い放つ。決然とした態度で。
だがこの言葉は星火燎原を激昂させた。とくに、最後の一言が、まずかった。
「ふざけるな。貴様が逃げたために神格たる九尾は怒り、このように里は潰れる結果となり果てた。務めだと。遠き昔、最も重要なる時にそれを放棄した者が、今さら何を言うか」
憎悪と怨嗟を込め、吼えた。葵はそんな彼の態度にどうすることも出来ず、ただただ深く溜め息をつく。
「……悪いわね葛葉。あんたには、自分で自分の生きる道を選んで欲しかった。でも、こんな状況になっちゃ、さすがにどうにもなんないだわねぇ。本当に申し訳ないけど――――起きた時には、全て終わってるから、さ」
踏み込む葵。刀の柄から手を離していたため、幾分葵に対しては油断していた葛葉。命取りとなるのは、いつでも意識の間隙である。
深い反りを持つ刀の鞘を、ぶらぶらと所在なさげに揺らしていた左手で取り。踏み出した右足に重心を移動し、上体を屈ませる。同時に左回りに半円を描くように腰をきり、その鞘頭、鐺と呼ばれる箇所を葛葉の脇腹へと当てに行く。
無尽流抜刀術、下の太刀。〝獄廻〟。
寸前で反応し刀を振るい、鞘を弾く。だがその対応では勝てないことを、葛葉は知っていた。この技に対しては、鞘の一撃を受ける前に攻撃するか、斜め右前方へ鞘を受けながら回避するかの二択しかないのだ。
鞘から先に抜いたということは、いまの葵の右手には抜き身の刀がある。左回りにひねった腰の動き活かし、右手の刀が突きを放ってきていた。生半な防御は貫き、後退や横への回避も読んで伸びてくる突きは、鞘を打ち払い体勢を崩した現状からは防ぎきれない。
殺気の無さからして、殺すつもりではないのだろう。しかし、葵ほどの腕前ならば『死なない程度に戦闘力を削ぐ』ことは十二分に可能だ。恐らくは鎖骨に一撃、刀を持てないようにしてから峰打ちで意識を奪う――そんな手順まで想像したところで、意味はなく。刃は迫る。
しかし、外れる。葛葉の眼前に現れた人影が、刀の腹を殴って軌道を逸らした。
「はっ? あ、あんた――」
神速を謳われる葵の剣、それを見切り弾いた人物。
彼は、毛先の跳ねただらしない髪型をしており、いつもどこかうろんで、目つきの悪い、頼れる人物とは到底思えない姿だ。
けれど、葛葉が今まで見た誰より。その眼は、静かに熱いかがやきを誇っていた。
+
「もうちょっと余裕持たせて来れればよかったんだけど。怪我してないか、葛葉?」
思わぬ伏兵の登場で、葵は呆気に取られた様子だ。刃を振るってもいいはずの間合いに居るのに、まだ動きを止めたまま。やれやれ、結構驚かせたみたいだ。
驚かせたといえば葛葉もか。鳩が豆鉄砲食らったような顔、とは正にこのことかな。
「な、なんでここに、居るんですか」
「ん? まあ眠り薬が入った水を飲む前にここに来たというか。特に考えなしに走ってたら金属のぶつかり合う音が聞こえて、すぐに駆けつけてきた」
漫画とかでありがちなくらいにギリギリ。ちょっと前に着いて機を見計らってたとはいえこんなことになって、正直俺の方が冷や汗をかいた。間に合って、本当によかった。
「ほほう。さっき宿屋で会った時にはさして強そうにも見えなかったのに、まさかあたしの剣を弾くとはねぇ。能ある鷹は爪隠す、って奴だわね」
「お褒めに預かり光栄至極、でも俺は鷹どころかトンビでもないよ。スズメだスズメ」
そう、今の出来事はかなりの偶然だった。なんとかしようと駆け込んできたはいいが、まさか拳で弾くことになるとは思ってもみなかった。もし、もう少し打点がズレていたら。多分手首から切断されていただろう。
「貴様、西洋の吸血鬼か。我の仕える人間が貴様を所望す。共に来たれ、さすれば解毒薬を与える」
葵を挟んで向こうに居た黒服の男が、俺を指差してそんなことを呟く。
どうやら桧原葵が俺を狙ってきたのは、あいつに頼まれてのようだな。ま、今の俺の目的には関係なさそうだ。無視しよう。
「さて葛葉。一人で何をしてる」
ようやく面食らっていたのが平常心に戻ったらしく、手をわなわなと震わせながら、葛葉は俺に向かって沈んだ表情を見せた。
自責の念に駆られ、他者との接触を拒もうとする奴のみせる表情だった。
「宿屋のみんなが眠っていたのを、見たのでしょう。あれは薬による作用で起こっている症状です。放っておけば、目覚めることはありません……だから、わたしはその原因である師からその解毒薬をもらおうと思って、ここへ来たのです」
「嘘だな」
さらっと言ってやった。葛葉の表情は沈んだ青白い表情から、見る見るうちに血の気を取り戻し、怒り顔で怒鳴った。
「嘘なわけがないでしょう! わたしは、宿屋のみんなを助けるために」
「嘘だ」
言葉を途中で遮る。葛葉はさらに表情を険しくし、さらに感情を爆発させようとした。怖い。感情の発露が自分に向くことが。けれど、それでも言わないわけにはいかない。
俺も、怒っているから。
「葛葉、あのな、」
「我らを無視したままとは、良い度胸だ」
…………あー。空気読んでくれないかな、この人。
葛葉の方を向くより先に、黒服の男、たしか星火燎原、だったか? とにかくそいつの方を向く。葵も少しばかり距離を取り、俺と葛葉の二人を相手する体勢。
だけど別に構わない。何人相手だろうと、知ったことか。こういう時に使わないで、力なんて何になる。
「葛葉」
「……はい」
後ろに居る仲間に呼びかける。まだ少しばかり怒ってる口調だが、しかし葛葉は返事をした。
「とりあえずまずはあいつらを倒す。それから言ってやることがあるから覚悟しておけ」
「勝てるとお思いなのですか? ダンナ様、あなたは無手ではないですか」
「論より証拠。今からその結論、覆してやるよ」
「無理です!」
「無理じゃない」
泣きそうな顔を歪めている葛葉をちょっと振り向いてから、俺は再び前を見る。今にもしびれを切らしそうな二人の『暫定』敵二名は、俺たちから十メートルくらいの位置で二人して横に並び、得物を構えていた。両方ともかなりよく斬れそうな刃で、その磨かれた刀身には離れた位置に居るはずの俺や葛葉も映るほど。
「戦いを始める前に、一つ訊いていいか」
俺が問いかけると暫定敵である二人は眉をひそめ、葵だけ軽くうなずいた。
「さっき。葛葉を、傷つけようとしてたよな?」
「まあ、ねぇ。そうでもしないと収まりつきそうになかったのよ」
「よし決めた。あんた、俺の敵だ」
確定。二人の敵は不思議そうな顔をした。だがこの決定は、俺にとってはなんら不思議なことじゃない。世の中に居る多くの人が、俺と同じ状況になればこうした決定をするに決まっている。
「今ここに居る俺は、宿屋主人じゃない。一人の、個人としての俺だ。葛葉の友としての、俺だ」
後ろに居る葛葉の表情はわからない。けれども、俺にとって今重要なのはここに立って、葛葉を肯定してやることのはずだ。
だから、飾らない。気づいたことを、思ったことを言って、やれるだけのことをやる。結果、葛葉がどうなるとしても。変わらないことがあると、気づいたから。
「だから俺は戦う。葛葉を傷つけるのは許さない。宿屋とか主人とかは今関係ない。俺は、葛葉のためのみにここに立つ。他に理由はなく、それ以上の理由を用意する必要もなく。ただただ、おまえらを倒す」
笑え。嘲って、馬鹿にしろ。それでも俺はここに居よう。
宣言に、男の方は妄言をのたまうなと吐き捨て、葵の方は、くつくつと笑いを漏らして、俺を真っ向から見据えた。
憎しみとかそういう感情はなく、ただ憐れんだような濡れた輝きを放っている目だった。
「……なかなかどうして。良い男じゃないのよ。でも、思い上がりはそこまでだわよ」
「思い上がってるのはどっちだ。数の利に驕るなよ」
バカ、と小さく葛葉が呟くのが聞こえる。黒服の男、星火燎原も鼻で笑う。
だが負ける気など全くしない。相手は人外の異能者と最強クラスの剣士、それも分かってはいるが。
俺は今から俺を越え、人を超え、化ける。
頭の中で捕える。左眼の網膜と脳の映像を直結させるイメージ。左眼は見せる能力。俺が見たある物を、他の物に見せる。見るだけでなく、触れたり舐めたり聴いたり嗅いだりしても気づかない。そういう幻覚を起こさせる能力。白藤との時は下駄を虎挟みに見せた。〝永夜〟の時は水溜りを熱湯に感じさせた。
それと同じく、今俺が見ゆるのは。葵さんの持つ刀に映りこむ、俺の目。
頭の中で捉える。右眼の視界で脳の認識を確定させるイメージ。右眼は視せる能力。俺が視たある物を、過去から現在まで『それはそういう物だった』と確定させる能力。得た情報を確定させ、変更出来なくする。そういう能力。例えそれが幻覚という嘘の情報であっても、それはそういう物である、と認識を確定する。
それ故にこそ、今俺が視ゆるのは。映りこんだ俺の姿に対し見る、幻覚の認識。
左眼と右眼。二つの能力が融け合い、俺の体に変革を起こす。小難しい説明で俺は親にこの技を教えられたが、要するにこうだ。
〝絶対暗示〟。相手にかけた時はそう、相手は過去から現在まで『それはそういう物だった』と認識するから、絶対に幻覚を解くことは出来ない。石ころにしか見えないものを横からチョコレートだと言われても、そう簡単には認識を曲げることは出来ないということ。
だから俺は俺の姿を捻じ曲げる。俺が見るのは人狼となった俺。その体は人外の中でもかなり上位の腕力と脚力を誇る。そんな生物の姿であると、いや俺はそういう生物だったのだと、認識を確定する。絶対の自己暗示で俺は身体の制御を外し、本来人間がしてはならないような動きまでも可能とする。だが問題ない。
俺はもう、人狼だ。
「がアアアアァッ!!」
疾走。駆ける瞬間大地が抉れる。二歩で五メートルの間合いを詰め、俺は力任せに左手の掌底を打ち込む。一歩分、葵よりも前に出ていた星火燎原が目標だ。すると体に打ち込まれる寸前まで肉薄した頃、ようやく相手は攻撃されていることに気づいた。
けれど気づきから反応に移るまでは、両者とも反射速度の限界をはるか越えようという動きだった。俺の掌底をかわすべく、星火燎原はバック転をしながら俺の腕を脚で弾き、葵は右から袈裟に斬りかかってくる。俺は距離をとった星火燎原を視界に置きつつも意識は葵に向ける。
「堕ちろ」
右半身で腰を落とした俺は、空手の回し受けの要領で、刃を体に引き付けてから、弾き流す。内側へ手首をひねるように右腕を引き付け、相手に手の甲を向けながら頭上へ拳を構えるようにし、刀の腹を親指の付け根辺りで小突く。
葵が振るった剣よりも手の動きは遅く出たが、自分の間合いの中でならば腕の加速の方が速い。右下方へ流したのを見届ける間もなく、脇腹に向けて左足で中段足刀を打ち込む。
ガッ、と押さえ込まれる音。とっさに右手を離して、俺の足の裏を掴んでいた。
距離にして二歩分下がったのみで、人狼の脚力を殺しきったのは、見事。けれど掴んで反撃に転じよう、というのは甘かった。
体勢は構わない。小刻みに二度蹴りを叩きこみ、跳んで右足で止めの前蹴りを放つ。すんでのところで攻撃の気勢に気づいたとみえて、手を離すと後ろへ三歩、たたらを踏んだ。信じられないものを見たという目で、葵が刀を正眼に構えなおす。
「……それが噂の、人身を超越した体術。やはり、貴様」
警戒を強めたのか、短刀を突きつけてくる星火燎原は確信をもって俺に叫んだ。
「〝絶対為る真理〟! 軍の一個小隊すら皆殺しにしたという、悪鬼羅刹めが!」
その通りだ、と呟き、俺は踏み出した足で砂を払い、星火燎原に眼潰しをくらわせた。これを防ごうと腕があがったところに間を詰め、俺の動きを追ったが最後。目を合わせることになる。
戦闘において相手の視線の動きは己の身のどこを狙うか、どこへ意識を寄せているかの指標である。戦闘に慣れた奴であればあるほど、目を合わせるのはクセになっている。そして俺と相対する者にとっては、視線を合わせるのは致命的なミスと言えた。
じつは魔眼による暗示は、俺の眼球と脳だけは、認識変換の対象としない。そのため人狼の認識も頭の片隅で「暗示でしかない」と理解しており、長時間の戦闘で無理をさせすぎると後々すさまじい疲労と筋肉痛に襲われるのだが……認識が暗示だと理解できているおかげで、吸血鬼としての自分を忘れずにいることもできている。
おかげで、吸血鬼の能力であるこの魔眼も人狼の暗示中にかかわらず、使用可能だ。――『短刀』を『木片』と視るがいい。
「なッ、これ、は」
自分がなぜそんなものを持って戦いの場に赴いたのか、と驚愕に満たされる、この瞬間こそが戦闘において俺の生みだせる最大の好機である。得物を取り落とした隙をつき、接近して突如屈むことで相手の視界から全身を消し、右足の水面蹴りで足首を砕きにいく。
左足は持ちあげて回避することかなったが、右足首は俺の脚で打ち抜かれ、空中で側転のような動きをみせて、俺に横っぱらを向けうつぶせに倒れた。
右足が接地すると、俺はすかさず左足を振り上げ、背中へと踵落としを狙う。動きを察した星火燎原は背筋を利して、さらに右腕を地面に叩きつけ反動をつけることで、海老のように跳ね離脱した。横に転がる勢いのまま足を振り上げ立ち上がり、左半身の低い構えをとる。だが負傷した右足を後ろに置きたい心理はわかるものの――体術において、後ろの足は腕を用いた攻撃の起点、砲台だ。
痛む足は支えにもならず、拳の威力を大きく減じさせる。左拳の連打をかいくぐって懐に入り、俺は地に深く右の足跡を刻む。焦る星火燎原、もはや右足は捨てることにしたのか、全力の回し蹴りが迫っていたが、
当たる前に、きめる。旅の中途で出会った拳士より賜りし、宝拳。
「じゃあな」
先の震脚による地面への踏み込みが生む反作用。後ろの左足を伸ばした際に発する推進力で、その力もまとめあげる。あとは腰の回転と、肩からの動き、腕をねじりこむ動作によって、拳という弾丸へ力を送りこむ。
拳士が〝鐵甲〟と呼んでいたこの技――中国武術においては〝発勁〟と呼ばれるらしいこの奥義が、俺の身に付けた技のひとつだった。鳩尾への着弾は音がしない。内部まで浸透させた力は余すところなく、相手の内部で爆ぜ、荒れ狂う。
あの拳士ほどの達人ともなると、狙った内臓のみに傷を負わせて、数年後に死ぬよう仕向けることも可能だそうだが、俺には殺人の技術はこれ以上いらない、ほしくないのでいまのままで十分。星火燎原は、俺にもたれるようにしてどさりと地面に落ちた。
葵に向き直る。彼女は不敵な笑みを浮かべていた。
「魔性の化け物が出てくるとは……思わなかっただわねぇ、これはびっくりよ」
「人間のままでそこまでの域に達してるのも、十分化け物だと思うけどな」
そんな、化け物と化け物のやり取り。不快感を互いにぶつけあう、荒んだ空気が満ち満ちる。そこにガシャリ、と後ろから物音。それで俺は振り返り、そして――事実として、一つの事柄を受け止めることになった。
「みな、殺し……?」
刀を取り落とした葛葉は、驚愕と恐怖の篭ったまなざしを、俺に向けてきていた。
一撃必殺。二の打ち不要。