十二頁目 被害者気取りと、罪を背負うこと。(殺人罰則)
「てなわけでねぇ。葛葉には主人さんの首を殺ってきてほしいのだわよ。出来る?」
相変らずの笑顔。しかしそこに生きた温度は無く、ただただ、仕事は無私情、無感情ということの表現でしかなかった。
葛葉は師匠の顔を仰ぎ、そしてそこから何も感じ取れず、しばし悩み。全身を一瞬震わせ、歯を食いしばってか細い声を絞り出す。たった一文の言の葉を紡いだだけだというのに、そこには心の激痛があった。今の短いやり取りの間に、目の前の人物が本気でそれを提案していることに、恐怖と絶望と悲しみを抱いて。
「……ダンナ様を裏切る、なんて、そんなこと、出来ません」
とっさの判断。脇にあった熱い茶の入った湯のみを投げつけ、葛葉はバックステップで距離を取る。葵は湯のみを払おうともせず、横にある愛刀に手を伸ばす。――そこだけが時間を逆行させているかのように、あるべき位置に手が戻ったかのように。刀は、本来の役目を果たす。
居合い。座した状態から抜き放つ、座合い。流派によっては立ち居合いより重視される、無防備なる座した状態からの攻撃方法。届かざるはずの好機を自動的に手繰り寄せ、己の眼前を塞ぐ障害を切り捨てる壮絶な速度の剣戟。
だが、外された。葛葉の力ではなく、床の揺れで手元が狂うたのだ。
「まったく、食えん相手よの」
葵の背後に現れた白藤が、首筋に肘を振り下ろす。宿屋としての力を発揮し、揺れた棟。そのため体勢が崩れ、無防備に急所をさらけ出していた葵。が、その剣客としての腕は超一流のそれだった。後ろを取られた場合の対処法など、剣の術理には腐るほどある。
抜きかけた刀を納刀、そのまま鞘の頭で白藤のあばらを突く。ごき、と破砕音が響いた。
「ぐ……」
追撃を喰らわないよう、宿屋の中へと消える白藤。葛葉は既に消えうせており、葵は舌打ちしながら腰を上げた。
+
「……一見して俺を『主人』と見抜いたのがおかしかったんだ。あの場にいたら、普通川澄さんとかを主人だと思うはずだろ」
やっぱり、どこかの好事家から頼まれて来た侵入者だったか。
走ってきた葛葉は手に刀を持ち、師が追ってこないか廊下の向こうを見据える。
ちらりと横を見ると、葛葉は涙ぐんでいた。
「偶然にしては出来すぎだ。でも、俺を狙ってきたのならそれは必然。残念だけど」
のんびりした歩みで、廊下の角を曲がってきた桧原葵。飄々とした様子で、こちらに向けて手を差し伸べる。その瞳に浮かぶのは、慈愛。葛葉の体が、びくりと震えた。……なんとも、タチの悪そうな人だ。
「や、弟子。あたしと共に来ない? 勘も腕もあんまり衰えてない、むしろ磨きがかかってる。これから相棒としてやっていくには、十分な手練に成長してるじゃないのよ」
葛葉が腰の刀に添えていた手が、その一言で離れかける。が、言葉に出して葛葉は自分を鼓舞した。
「出来ませ、ん。この方は、今のわたしの、主人。それを引き渡すなどっ……!」
「まあそう言って居場所を作りたい気もわからないではないのよね」
「ならそっちが引け、あんたに葛葉を拘束する権利はない。葛葉はうちの従業員だ。ここは葛葉の居場所だ」
葛葉の前に立ち、俺は葵を睨みつける。いける、この距離なら確実に眼を合わせて幻覚を視せることが出来る。だが決定的に面倒なことに、葵は瞳を閉じ、やれやれ、と肩をすくめた。その上で俺のことを冷ややかな、しかし賞賛と憧憬も含んだ瞳で見据える。そのまま、俺の耳元に口元を寄せてきて。
「なにさまのつもりよ」
「なにがだ」
「あのさ……百人近く人殺してる人間が宿屋の主人? 笑えない話だわね。あんたにこそ、居場所なんて、あるの?」
嘲笑う視線が、俺の目を射抜く。幻覚を視せるどころじゃ、ない。
遥かな記憶がその一言で這いずり出てくる。蹂躙、暴虐、そして殺戮。幻視する過去に踊らされ、俺の方が屈しそうになってしまう。くそ、おまえはなにを言うんだ。
――なんでおまえは、知ってる?
「そんな人間に、本当に人の上につく価値なんてないわよ。っと、ああ、それを言ったらあたしも同じかもだわね。だとしても、少なくともあたしは自分の罪についてくらい告白はするわよ。何にせよ、人殺し」
呼びかけてきて、くすりと笑みをこぼす。俺は、
「ねえ、人殺し。否定しないのだわね、人殺しさん」
どんな顔も出来ない。それは厳然たる事実。生き延びるために手を血に染めた過去は確かに存在する。
もしその過去を打ち明けたとしたら――どんな顔で、みんなは俺を見るだろう。それが、怖くて。先延ばし、先延ばしにしてきて――こんなことに、なってしまってるのか。
「ふん。ま、今日はこれでいいやぁ。突然の訪問で突然に話題を持ちかけたのが悪かったんだわね。また後日来るから、それまでに決めておいてくれる? 『今の主人を裏切ってこちらにつくか』『あたしを裏切って斬って捨てるのか』をね。……決めときなさいよ、葛葉。じゃ」
開け放たれた廊下の窓から、葵は飛び出す。下に降りて、何やら人影と会話した。どうやら、仲間が居たらしい。そしてそのまま、生垣を飛び越え、消えた。静寂のみが残ると、どうにもやりきれなくなる。
それに俺には、この今の静寂が自分のために用意されているように思われた。自身の罪に、懺悔するための時間。
「……なんにしたって黙ったままじゃわかんないぜ。とりあえず、どこかで全員で話をした方がいいと、あたしは思うけど」
姫の一言で動きを止めた面々は歩き出す。葛葉が一番最後まで留まり、戸惑っていたが、最後に姫に声をかけられて、重々しい足取りを、踏み出した。
俺たちは黙々と、葬式に参列した人々のように進む。
「――さて。こんなことになってしまって誠に申し訳ありません、ダンナ様」
厨房にやってきて、全員がダイニングテーブルについた。黒猫スミスも川澄さんの肩の上で真剣に葛葉を見つめている。みんな、黙ったまま。先ほどの桧原葵のセリフを考えているに違いない。
『今の主人を裏切ってこちらにつくこと』。それは、一体。思考する前に、葛葉がこちらを見つめているのに気づいた。青ざめた、どこか達観したような。当事者なのに、傍観者の顔で。
「……話すべきはどこからでしょうか。自分でもよくわかりません」
「あの、葛葉。辛いなら、無理に話すことも」
「ことここに至って、お言葉に甘えるわけにはまいりません。わたしの存在が、現状を招いた元凶である以上……しかし、全ての最初から語ってもそんなに時間はかかりません。ここに来るまでのわたしは、本当に、本当に薄っぺらい人生を送っていたに過ぎないのですから」
手の下で杖のように置かれた刀が、静かに周りへと殺気を放つ。だがそれすら押さえて葛葉の感情が外にあふれ出していた。
静かに、耳と尾が姿を顕す。
「ことの発端はそう、この、わたしの生まれた血族にあります。この耳と尻尾、狐の証。妖狐の一族が住む、とある寒村。そこで全て始まり、終わり、今に続き。わたしを……、いえ。なんでも、ありません。話します」
寂しそうに細い息を吐き、俺たち六人を代わる代わる見やる。
語り始めた葛葉の過去は、冷たい、冬の息吹に閉ざされた物語だった。
+
「一瞬でも姿は見えたわよね。そのわりに、随分と冷静さを保ってるもんだわ」
『外』に出た後も葵とその仲間は疾走を続け、家々の屋根、電柱、様々な場所を渡って緑の広がる山に着いていた。ここまで来ればもはや速度を出す必要はない、と足を止め、先ほどまで居たゴーストタウンを見下ろす。廃墟と化した町には、砂塵だけがうごめいている。
「我を失うべきは今でなし。好機見計らい隙突くことも肝要。我は何としても、奴を討つのだからな」
黒い着物と袴を身につけた青年。長髪をざんぎりに切って放置し、その間から血走った目を覗かせている。浅黒い肌には幾筋も剣で斬られた後があり、特に眉間から鼻の頭にかけて縦に鋭い一閃が入れられている。
もっとも、その傷を負わせたのは隣にいる葵なのだが、そのことは特に気にしていない風。そうした態度からも、歴戦の勇士という印象を受ける。
「ま、その考えは変わらないわよねぇ」
「だが共同戦線における契約を結びしことだ。我が思い願うは奴の絶望。里を失い敗走せし我らの背負った痛みを与えうることなり。ゆえに、我らは奴の居場所を奪う。貴様は、邪魔立てしてくれるな。奴の全てを殺すまでは」
さもなくば、と腰に差した短刀を指差す。
武器の間合いやその他の問題から言っても、葵の方が今は強い。故に、間違いなく有利なはず、なのだが。戦慄を覚えずにはいられない、圧倒的な憎悪の感情がそこにはあった。それは悲壮なる覚悟を背負いし者のみが得る力。相討ちさえも予定の範囲内、目的の遂行における障害は相手とその味方だけ。
青年は、己を殺すということは、とうの昔に実践済みだった。
「やはり、村を見ると思うことがある? 最強たる狐火の使い手、〝星火燎原〟」
「廃村に思いを馳せることなどとうに忘れた。我に今あるのは、果て無き憎悪」
崖から下にある廃村、すなわちかつて彼が住んでいた村を見るではなく。大きな空を見上げて、青年はそこに手をかざす。後ろにいた葵はそんな彼の様子を見て、何とも言えない表情を浮かべた。
だが、そこにあるのは廃村とは言っても既に形を成していない部分が大半だ。巨大台風の過ぎた跡のように、瓦礫や土砂で覆い尽くされている。廃れたというよりも、滅びたと言った方が正しい。それは、見た目だけでなく実際の意味合いとしてもそうだった。
「むしろ、思い抱くは痛みと苦しみ。要らぬ記憶に振り回されしは愚の骨頂。なれば」
空中に投げ出し、天を掴もうとしていた手が、握られる。
指の間から、蒼き炎が零れ出した。
「視界全て焼き尽くし焦土という名の最果てを生み出せ。――〝星火燎原〟」
眼下の廃村に、水の雫が零れるがごとく。蒼き炎が落ちていく。
それは地上に落ちるまでに爆発四散し、五、六メートルもの体長を持つ、九尾の狐となった。その形状を保ったまま、村の道という道を全て疾走する。やがて狐が猫ほどの小ささになるまで力を奮った後には、蒼く燃え尽き黒く変質した、新たな世界が生まれていた。血走って赤い目に蒼く黒い風景を映し、青年はきびすを返してそこを立ち去る。そんな彼に、葵は追走する。
葛葉の語るべき物語は、つまるところ。今、宿の外にある廃墟群から始まっていた。
+
普通の妖狐に生まれたはずの葛葉は、しかし能力に欠損があった。いくら練習しても、青白い炎を生み出す能力〝狐火〟がうまく操れないのだった。何度やっても、その炎は拳の大きさを超えない。
近所に住んでいた少年は、十歳にして既に次代の星火燎原になると噂されていた。常に比較され、葛葉は悔しい思いをした。
葛葉が七歳になった頃、とうとうその力の弱さは一族全体から軽蔑の目を受ける要素となった。同時に、村の占い師がその年の初めに予言した。「力無き者の血族が存在することに、神は怒りを持った」と。九尾の神は、山から下りてきて妖狐の一族に告げた。「生贄を捧げよ」と。
『いやだよ』
葛葉は叫んだ。しかし大人は黙々と作業を進める。
死に装束に白い帯をきつく締められ、葛葉の体は竹で編んだ大きな籠に入れられた。
『暗い、狭いよ』
明かり無き世界に一人。村の中心にある台座に籠は安置され、葛葉は光と音から切り離された。
食事は口に糊をする程度。
水は舌が湿る程度。
たった一週間のことで衰弱し、小さな子供は泣き叫ぶことも止めてしまう。
外は雪。素足の葛葉は足が凍てつくのを感じた。寒さ、冷たさは暗い籠の中でも下からせり上がってくる。血液が体の下方に沈殿し、思考はまどろみと暗闇の間を行ったり来たりした。隔絶された世界の中で、しんしんと降り積もる雪の音だけを葛葉は耳にする。
そんな中でふと考えた。自分という存在の脆く弱いことを。長い暗闇の中で、葛葉は自身の名を呟き続ける。その名に秘められた忌まわしい過去を知らず、ただただ一心に。自分を認められない暗闇の中で、壊れないために。
『わたしは、神代葛葉』
神代の名は神の身代を意味する。元より、能力が低くて当たり前。神を入れる器なのだから、最初から力は弱くて構わない。後から搭載される人格の性能が肉体の性能を埋めて余りある力を持つのだから。
逆に、力の強い血族、星火燎原の名を冠する者などは、勿体無くて使えなかったのだ。どうせ短期間、先見による予言書を作るための神降しなのだ。使い道の無い弱者を使うに限る、という考えが神代の一族を生み出した。
『冷たい。痛い』
凍傷になりかけた手足を動かし、葛葉は籠のふたを開ける。あくまでも生贄は本人の意思、ということの強調のためか、ふたには鍵はついていなかった。監視役はいたので意味があるのかはわからないが。
最初にその行為を行ったのが、もう遠い昔のように感じられた。その時は左腕を軽く斬られてすぐにふたを閉められたのだが、その時の傷は少々化膿していた。が、その痛みも感じないほどに、体は冷え切っている。
外には誰もいない。当てもなく逃げ出した。素足で雪の降りしきる宵の森を駆ける。白く明るい森は、葛葉の逃げ足を包み、隠していった。
監視の手薄な夜だった。後から知ったのだが、近くに流れ着いた妖狸の血族に手を出したことで問題が起き、戦闘に入りそうなので人員が割かれたためだった。そんなことは露知らず、久々の光に目が眩みながら。葛葉は走った。雪が月光を照り返す森を。ひたすらに走った。
だがうまくはいかない。たちどまってしまったところで、追っ手の矢で撃たれ、前のめりに倒れる。
『あっ』
そして落ちる。前方にあった崖下へ。追っ手が来るにもかかわらず立ち止まったのは、崖が口を開いていて先へ進めなかったからであった。そして、季節は春に程近い。雪解け水で激流と化した河川の流れは、短時間で葛葉を相当距離の離れた下流へ流した。
目覚めた葛葉は焚き火の近くで寝かされていた。簡素なつくりの平屋。その中心にある炉にくべられた薪がぱきりと折れて火を弾く。手足の感覚が微妙に取り戻せていなかったし、体中が寒かったけれど。とにかく、葛葉は生きていた。
身を起こすと、体はぶかぶかのツナギを着ている。横にはタンクトップに下着姿の女性。刀を脇に置いて、ぐっすり眠っていた。
『おきて』
『ああ? なぁんだ、あんたか』
大あくびをかましながら、女性は立ち上がる。背の高い、かっこいい、女性だった。
『雪解け水の急流釣りなんてやるものじゃないわねぇ。妖狐の子供が釣れるとは』
女性は葛葉の頭頂部にある金色の耳を指差した。慌ててそれを両手で押さえ、隠すが。何の意味も無い。
この相手は自分を害するものではないと、なんとなくわかっていたから。
『心配しなくてもあたしは別にあんたをどーこーする気はないんだわね。それより、腹減ったと思うわけよ。魚と山菜が焼けてるんだけどどうするの?』
香ばしい川魚を視界に見つけて、すぐに葛葉は飛びかかる。泣きじゃくりながらそれを食べ、生きた実感を得た。それを満足そうに見届けると、女性は刀を持って外に出て行く。格好は先ほどまでと変わらず、ツナギを葛葉に貸したままだ。寒くないのだろうか、と葛葉は思ったが、実は女のやせ我慢だったりする。
『イノシシで鍋でも作ろうかなぁ』
呟き、山に入っていく。しばらくして、肩に血のしたたるイノシシを乗せ、女は戻ってきた。驚くべきは、その解体も持っていた刀のみで行ったことだ。肉と筋と骨との隙間をぬうように切り分け、血抜きして鍋にぶち込む。
『うまい?』
『微妙です』
それなら自分で作らにゃね、と女はけらけら笑った。そして、葛葉は料理くらい出来るようになるため、などと言いながら女についていった。その本心は、邪気無く向けられた笑顔に言い表せない嬉しさを感じたから。
それから修行の日々が始まる。女性は桧原葵といい、とある抜刀術の流派における師範だという。葛葉は神代の名を名乗らず、剣の稽古に励んだ。
流派の名は無尽流。縦横無尽に全てをなぎ倒すという意味でつけられた名前らしい。葛葉は幼心にもう少しセンスの良い名にすればいいのに、などと思いつつ、師との打ち込みに励んだ。
『っ……』
風の噂に、妖狐の里が滅んだことを葛葉は聞いた。生贄が捧げられなかったことに腹をたてた九尾の神が、散々に暴れまわって全てを破壊しつくしたらしい。体躯は十メートルを超え、その身に呪いの力を宿した化け物には、星火燎原の狐火も通用しなかったとのことだ。
そして敗走した狐の一部は、葛葉に恨みを持って刃を差し向けてくる。そんな、時たま来る追っ手を、自らの手で退けられるようになって一年。師より賜りし二つの抜刀術は、確実に自分のものだと確信出来るようになった頃。
十四歳になった葛葉は、刀を一振りもらって師の元を離れた。
+
「その後すぐ、師は妖狐に囲まれたと旅の途中で聞きました。それ以来、無尽流の師範を見かけた者はいなかったそうですから……わたしのせいで、亡くなってしまったのかと思っていたのですが。こんな形で、再会するとは」
語り終えた葛葉は、うつむいて刀を抱え込んだ。
「すいません。少し、今のわたしは混乱しています。一人に、してもらえますか」
そのまま、急ぐでもなく遅くでもなく。小さな足音を立てながら、厨房を出て行った。俺は追いかけようと一瞬立ち上がったが、どんな言葉をかけてやれるか考え付かない。結局、座り込んでしまう。
いや、いくら考えても俺はいい考えが浮かばない。なぜなら、葵さんの言うことにも一理あるからだ。
俺は、殺人を犯してまで逃げ続けて生きてきた。増える追っ手のことごとくを、この『眼』の力で叩き潰し、捻じ伏せ。踏み砕いてきたのだ。今でももちろん、捕まって道具のように扱われることなど望んではいない。また差し向けられた敵が来れば、場合によっては……殺すだろう。
幸いなのか不幸なのか、俺や俺を狙う者は皆総じて『闇』の中に住んでいる。世間で言う法律にさばきを任せるような事態は、俺たちの間に限っては存在しない。もちろん無法ではないが、それにしたところで露見することは少ない。
いや、だからこそ、その殺人により降りかかる責は、俺にしかない。裁かれることも永久にない犯罪。殺した者たちにも繋がりの深い者は居ただろう、その恨みつらみも一身で受けるしかない。しかし、死ぬ気はない。罰を受けるのもいやだ。望まない死を与えられた時に、「これが天罰」と思うだけだろう。
結局のところ、いまだ俺には被害者意識が潜んでいる。
故にこそ思ってしまうのだろう。追って、話して、何が言える? 俺は偉そうなことが言えるのか、と。所詮罪を背負えない弱者に、何が言えるのか、と。
後を追うことも出来ない俺は、厨房を出てすぐ脇にある勝手口から外に出た。白藤が門をくぐる前に俺の後ろに現れたが、無視して出る。限られた範囲の中でしか動けない白藤には悪いが、こんなことをしてでも逃げたかった。俺は種族の枠とか、そうした部分は乗り越えられても。根本的に間違ったことをしてしまった、バカな殺人者だ。
みんなに申し訳が立たない。今さらながら、そう思う。
「――はぁ」
目的もなく、悔恨と懺悔を繰り返しながら歩いて、気がつくと駅の脇にある公園に辿り着いていた。知らぬ間に自分の町と隣町の境目を越えていたらしい。薄汚れた階段の横、これまた薄汚れた看板には八尾町、というここの地名が記載されていた。
駅前だというのに発展の様子が微塵もないそこは、公園内に行けばほぼ車の走行音も聞こえなくなる。花壇に食い込むようにスペースを作って置かれた銀色のベンチに、静かに座り込む。ボトムス越しに、冷たい金属の感触。うつむくのだけはイヤで、あごを上に持ち上げると、ほとんど葉を散らした木の枝、そして澄んだ空模様が目に入る。〝永夜〟の前日に降った雨のせいで冷たい、風が少しだけ体に痛い。
どうすればいいのかわからない。葛葉に対しても、みんなに対しても。
暗く沈んだ気持ちは、さらに不安を呼び寄せる。周りに誰もいなくなったら、果たして俺は生きていけるのだろうか。そんな疑問が浮かぶ――結論、無理。人の輪には交われないと思っていた俺は、今や人の上に立って輪を形作っている。
一度大切なものを知ったのに、それを手放せというのは不可能なことだ。例え汚れているとしても、その手を掴んでくれた人がいるのだ。
「有、和良君」
ふと、声をかけられた。見上げていた視線を通常の位置に戻す。立っていたのは銀髪の少女。もふもふした飾りを首周りにつけた、白いロングコートを着ている。足にはブーツ。前髪を掻き分けながら、黒い瞳でこちらを見つめていた。
「要」
「今日、お休み、だったのに。どうして、ここに?」
問いかけつつ、片手に持っていた茶色い紙袋の存在を思い出した様子。そのままそれを両手で抱えて俺に突き出し、結構強引に受け取らせた。中身は揺れた時の音から察するに、クッキー。既製品のものと、包装はかなり整っているがどうやら手作りらしいものと。二つ入っていた。
人に気を遣うことにかけては天下一品の要のことだ、自分の手製がアウトだった場合のため、市販の品も入れておいたのだろう。
「まあ、ちょっとな……要はこれ、見舞いに持って来てくれるつもりだったのか?」
白い袋に包んで黒いリボンを巻いた方、恐らくは要御手製の方を取り出す。反応は青。やはり心配なのか、少々顔色を変える。
「う、うん。も、もし、要らないなら。持って、帰るから」
「……いや、ありがたく貰うよ。ここで食べるけど構わないか? っと、その前に隣に座ってくれ。立たせたままは申し訳ないや」
真ん中に陣取っていたのを少し横に移動し、隣を空ける。スペースはまあまあ空いていたのだが、ベンチの端っこにちょこんと座り込む。こっちに詰めろ、などと恥ずかしいセリフの言える人間でもないし状況もそういう感じではないため、とりあえず俺は間を繋ぐためリボンを解いた。入っていたのは丸っこい星型をしたクッキー、薄い黒と肌色の二色。
少しビターで甘さ控えめな黒い方と、ミルク風味で甘めな肌色の方。どちらもおいしかった、だが喉が渇いた。うまい具合に懐に血のパックがあったため、こっそり取り出す。
「美味かったよ、ご馳走様」
「いえいえ。初めて、作ったから。美味しいって言ってもらえて、よかった」
ふにゃりと強張っていた表情が崩れ、緊張して青ざめた様子だったのが一気に頬を赤くする。
……リトマス試験紙みたい。
「体の方は、大丈夫、なの?」
「ん、まあ一応」
血をジュるジュると啜りながら返す。距離は多少離れているので、鉄臭いと悟られることもないだろう。そのまましばらく血を啜り、口がふさがっているので無言の状態が続く。
「じゃあ、明日は。学校、来れるんだね」
「あー」
どうなんだろう。
このまま葛葉と葵さんの一件を様子見しないとならない、そうなると学校は明日も欠席ということになる。
「わからない。ちょっと事情があって、明日も休む他ないかもしれない」
「そう。やっぱり、宿屋の、お仕事?」
「それ」
こちらを覗きこんでくる要から目をそらす。頭の後ろで手を組んで、再び空を見上げた。空が、遠い。
「……悩んでる?」
「結構深刻に」
ストレートに訊かれたせいで、すんなりと答えてしまった。俺の答えを聞いた要はというと、少々頬を膨らませて胸の前で手を組んでいる。不服そうだ。相談もしなかった俺に対して、不服なのかもしれない。
俺も、話さないままでいても、どうにも胸のうちのわだかまりは消えそうになかった。クッキーをもらった上に相談に乗ってもらうのも気が引けたが、正直に打ち明ける。ところどころ、ぼかしはするけど。
「仕事の仲間がな。二つの居場所の間で、悩んでるんだ」
「二つって、実家と、宿屋さん、とか?」
小首を傾げつつ問いかけてくる。八百屋さん、みたいなアクセントになってるのが少々アレだが気にしない。
「そうだな。行ける場所が二つあって、その両方がその仲間には大事なんだ。でも、選べそうなのは一つだけ。どちらか取ればどちらか失う。でも、俺はとある理由からそいつに何も言ってやれないんだ」
話をこくこく頷きながら聞いて、要は目を閉じた。ふむ、と息を一つ、考え込む。
別に答えを出してもらおうとは思っていない俺は、聞いてもらえただけで満足していた。実際のところ、もう答えを出せるのは葛葉だけだろう。勝手な話だが、仕方ない。審査員は選手に点数をつけるだけ。それで見限られるなら、それは俺が悪い。だから。
「有和良君、は」
要が口を開く。俺がそちらを向くと、ゆっくりとまぶたを開けた。
「もう、答えが出てるんじゃ、ないかな」
「そうかもな」
わかっているのに逃げ出した。わかっていたから逃げ出した。結局俺は、どこまでも被害者気取りのバカ野郎だ。それがわかっただけでも、もうここでグズグズしているのも意味は無い。帰ろう。
腰を上げる俺。要は動く気配はない。また明日、と後ろ手を振りかけた、その時。
「答えはね、自分で出すもので、人からもらうものじゃ、ないよ」
ぼそりと囁く声が聞こえて、振り返った。へにゃんと苦笑している要は、膝の上で揃えた手を握り締めている。
「人任せは、ダメ。今の有和良君、そういう、顔してた。どうにでもなれ、っていう、やけっぱちな、顔」
ダメだよ、それじゃあ、と要は呟き、立ち上がる。俺よりいくらか低いところに目線を置き、目の前まで歩いてきてこちらを見上げ、人差し指を立てて声のトーンを上げる。
「でも、人の助けは、必要なら、使ってもいいと思う。大事なのは、最後、自分で決めて後悔、しないこと。……多分有和良君、それは出来る。助けは、もうあるよ」
すいっと立てていた人差し指で俺の後ろを指差す。そこに居たのは、走り回って俺を探していたのか少々額に汗の浮かぶ姫。
「どういう、理由があるのか。わたしは知らない、けど。信頼してくれてる人が、そこに、居るよ」
「ダンナ、探したぞ! って時計さん、二人揃って何してんだ?」
ほら行って、と背中を押された。姫の前に進み出て、俺は所在なさげに頭を掻く。姫はじとっとした目でこちらを見上げ、俺のカッターシャツの裾を引っ張った。言葉なしに、早く宿屋に戻れと命令してきている。
「俺が、必要なのか」
「当たり前だろ! 葛葉が沈んでると宿屋全体の士気が下がる。どうにか出来そうなのはダンナくらいしかいないぞ? 前にあたしらが沈んでた時みたく、口先三寸でうまく丸め込んで職場復帰させてくんないと、困るんだ」
「口先三寸って。俺は詐欺師か何かか」
「詐欺師でも漫才師でもなんでもいいだろが」
ぐいぐい引っ張って前進させようとしていた姫が、振り向いてこちらをきっと見据える。
「今のあいつ、かわいそうだよ。元気になれりゃ手段はなんだって構わねぇ。違うのか?」
「それでもまた何か沈む要因が出来たらどうするんだよ。……俺のとある隠し事を、葵さんに指摘されたよ。それはかなり悲惨で、最悪なことだ。それを知ったらまた、葛葉は苦しむ。多分今ここで姫に話しても、相当俺を見る目が変わる」
掴まれていた服の裾を振りほどく。すると、本格的に呆れた顔をされた。
「んなこと今の状況では関係ないだろ。まずは葛葉のことを第一に考えないと、だろ?」
――――真摯な態度。真っ直ぐな考え。何よりもまず友人として、姫は葛葉を心配していた。
……それに比べて。
俺は結局、何を考えていたのか。
悔恨と懺悔を繰り返しながら歩いて。どうすればいいのかわからないとか。俺はとある理由からそいつに何も言ってやれないとか。別に答えを出してもらおうとは思っていないとか。もう答えを出せるのは葛葉だけだろうとか。
勝手な話だが、仕方ない?
葛葉の事情にかこつけて、俺は自分の言いたくないことをしまい込もうとしていた、だけ。最低だ。一瞬だって、真剣に葛葉のことは考えていなかった。ただ自分が辛いから、そのことばかりを考えて。今一番辛い人間のことを考えて、いなかった。
「ほらね。なんだかんだ、言っても。頼れる人が、頼ってくれる人が、いるでしょ?」
後ろから歩いてきた要が、横を通り過ぎながら語りかけてくる。
そうだ。今ここに、俺なんかを必要としてきてくれた姫が、いる。
「どした?」
「いや、なんでも」
そうだ。とりあえず自分のことは置いておこう。語るべき時は来るだろうし、その時いかなる反応が返ってきても俺はそれを受け止めよう。まずは、葛葉のところに行かなくてはならない。今、被害者の立場に居るのは葛葉だ。俺たちと、師匠である葵さんとの間で揺れてる。その選択に口を出すことはともかく、すべきことはある。
「被害者面を、やめないとな」
気を引き締める。今から俺のすべきは、葛葉に辛いと思わせないことだ。
「早く行くぞ。まったく、結構な距離を歩いてきたなダンナは」
「ああ」
……大体、葛葉には相当世話になってる。ここらで何か返しておかないと、本当に面目が立たない。
そこには宿屋主人の肩書きは必要ない。そう、何よりまず、友人として。
苦境に陥ってるなら、助ける必要がある。俺は被害者気取りをやめる。罪を背負って、その上で向かい合おう。
春夏秋冬、立ち上がる。