十頁目 痛くて傷くて、昏い夜。(人外疾病)
「このやろう、毎週毎週月・水・木とコンビニに立ち読みしにくるとは。私の居る時にばかり来るせいで、店長からは毎回嫌味を言われるのだよ? 少しは気遣って他のコンビニに行くのが筋じゃないのかね?」
「いや、家から一番近いコンビニはここだし。当分変更する予定はないな」
「帰る途中で十トントラックに轢かれてしまえ」
時刻は夜九時半。まだまだ宵の口のこの時間、俺は散歩がてら辻堂のバイト先であるコンビニに来ることが多い。もちろん買い物目的ではない。ただただ、週刊少年なんたらを読むのが習慣になっているだけだ。
そんな俺に文句を言いながら、辻堂は大抵見過ごしている。大きなメガネを時々上に戻しながら、俺が読み終わって去るのを待つだけだ。何も買わない冷やかしだというのに、放っておいて。時には横に来て俺と共に立ち読みしていることもある。
つくづく、こいつをクビにしない店長さんは素晴らしい人格者だと思う。
「何か私に対して失礼なことを考えてはいなかったかね」
「別に」
窓の外を見ると、月はほとんどその形を成していない。消え行く寸前の灯火のようなイメージを抱かせる細い細いそれは、空の中央でさして強くもない光を振りまいている。
「月でも、気になるのか? 先ほどから何度も見上げているが」
じっとそれを見ていたわけでもなく、三回ほど見上げた、それだけだったのだが。辻堂は俺の気にしていることをズバリ言い当てた。バカだバカだと思っていたが……少々こいつを見くびっていた。そこそこに付き合いが長いだけはある、ある程度の仕草は筒抜けだったらしい。
「やはり何か、失礼なことを考えているのだろう、おまえさん」
「自意識過剰」
パタンと雑誌を閉じるのと同時に歩き出し、店の外に出る。外気が途端に流れ込み、おかげで辻堂が最後に何か言ったことも、ほとんど聞こえなかった。どうせ何か悪口を浴びせようとしただけに違いない、と思って振り返ると、以外にも奴は神妙な面持ちでこちらの後姿を見つめていた。ドア越しなので声も聞こえない。しかし、もう一度。動いた奴の口は、たしかにこう言っていた。「心配させるな」と。
おまえごときに心配させるほど、落ちぶれたつもりはない。そんな思いを込め、俺は片手を挙げた。すると辻堂はすぐに普段通りの覇気のない目に戻り、唇の端を軽く持ち上げて店の奥に戻っていった。
――明日は、奴にも会えない。そう思うと、なんとなくこの場を離れづらかった。
宿に戻る途中、雨が降り始めた。やれやれ、運が無い。しかし、見上げると嫌な気分になる月も見えないだけ、少しはマシか。走って帰ろう。
制服の白いシャツと、灰色のボトムスがじっとりと雨を含んでいく。ずぶ濡れというほどではないにせよ、身体を動かすといささか抵抗を感じるくらいにはなってきた。冷えた指先で前髪を払う。狭い住宅街の中、曲がり角に設置されたミラーが俺を映した。吸血鬼は水に弱く、また鏡に映らないなどと伝承は言うものの、ホンモノの吸血鬼、すなわち俺はそんな弱点や特徴を持っていない。ただ少しばかり変わった『眼』を持っているだけだ。
コウモリにもなれず狼にもなれず、噛み付いた相手が吸血鬼になることもない。不老不死でもなく、空も飛べず、一般人と大差ない身体能力。今向かい側から歩いてきているハゲたサラリーマンとも、何も変わらない。幻覚を視せる妙な『眼』と特殊な牙があるだけ。
「いまいましい。嫌な気分だ、クソ」
降り注ぐ雨。住宅街の明かり。家々はあまり音を立てず、町全体がまるで、ひっそりと夜を過ごそうとする一つの生き物のように思えた。俺はその生き物の背を走っている、一匹の虫。雨中を傘も差さず走るうち、細い道は終わり、あとは少し坂を登れば家に着く。
だがあまり帰りたくない。明日が終わるまで外で過ごしたい。
「っはあ」
胸中に溜まった嫌な気分を、一息に吐き出してしまいたかった。立ち止まって石の塀に背をもたせかけ、休む。今だけは休んでもいいだろう、明日になれば休むことは出来ない。数分か数十分かはわからないが、とにかく悲惨な時間が待っている。もうしばらく立ち上がりたくなくなるような、ひたすらな苦痛の時間が。
吸血鬼の特徴。とりあえず、伝承で言われることは全て嘘だ。しかし、人を惑わす幻覚の魔眼と、快楽作用のある牙を持つ。それによって人心を掌握し、生命活動に必要不可欠な血液を供給してもらってきた。それ以外の能力は人間と変わらない、弱い生物だ。単純な強さで言えば、人狼などの人外の方が相当強い。
だが一つだけ、吸血鬼には面倒なことがあった。元の起源が人から外れてしまった俺たちには、苦い痛みを伴う持病のようなものが課せられている。まるで、吸血鬼にとある一つの真理を示しているようで、俺には――耐え難い苦痛だ。
それは月の無い夜、新月の時にある。そう、明日。
「あー、イヤだイヤだ。こんなの勘弁してほしい」
再度歩き出す。もう家まではそう距離は無い。このままのノロい歩調でも、五分もしないうちに辿り着けるだろう。踏み出す一歩、また一歩。びちゃり、びちゃりと水を吸った靴音が、どうにも血の滴る音に聞こえる。泥の溜まった水溜りを踏んだ瞬間、俺の脳裏には屍を踏み越えた時の嫌な感触が蘇えった。そんな感触を知っている自分も、どうかと思う。
波紋の少ない水溜り。前方に見えたそこに赤い色が見えて、俺は顔から血の気が引くのを感じた。同時に、首から下の血液が盛り、他者の血液を求めて暴れる。あえて他人に説明するなら、誰かにイラッとしてぶん殴りたくなる瞬間、アレが延々と続くようなものだ。もしくはきれいな人を見て欲情する瞬間とかか。
目を開けてもう一度顔を上げると、水面に映った赤い色がより鮮明に目に入った。雨の中、赤い番傘を差した、緋色の着物の少女。水溜りには、彼女の着物と傘の色が移りこんだだけらしい。ほっとするのと同時に、自分の中で吸血鬼が盛大なブーイング。黙れ、おまえはただの観客だ。
俺はまだ今は俺のままだ。
「どうしたよ、ダンナ。あんまし強い雨じゃねぇけど、それなりに寒いだろ? 風呂入って温まってきなよ」
「ああ」
白いタオルを手渡しながら、姫はしかめ面で語りかけてくる。だが俺の視界にタオルは入ってこない。
胸の前で抱えられたタオルの上、ズレたマフラーの下。白い柔らかそうな首筋。噛み付けば0.5秒で、牙の中で生成されている毒素が打ち込まれる。結果、体中の筋肉は弛緩し、感覚神経の鋭敏化も発生する。甘き痛みと呼ばれる、強力な毒だ。
効き目の速さの分効果も十分程度と短いが、それだけあれば存分に血をすすり上げることが可能だそれに感覚神経が鋭くなる分痛みと共に快楽を強く感じ得る別にそう悪いことばかりじゃないただそうほんの少しだけ血をもらってこの喉の渇きを癒したいだけ姫だってしばらくは愉しい時間を過ごせるじゃないかだから少しだけ
「――ッ識れ」
魔眼が見据える。俺は同時に、体中の力を振り絞って屈みこむ。怯える姫。
水溜りの中に沈み込む身体。傘の影にあったために揺れていなかった水面。鏡のようなそこに己の魔眼を映し、自分で自分に幻覚を視せる。足元の水溜りは、熱湯なのだと。
大口を開けて、俺は、
「あ゛あ゛あ゛あ゛」
叫んだ。
「ど、どうしたダンナ、何が起こってんだ?!」
熱湯の溜まった路上から転がり出て、俺は赤くただれた手を見た。膝も、あの熱湯に突っ込んだままだからこんな状態かもしれない。足も湯から引き抜き、俺はぼんやりと霞がかった視界の端に、姫を見つけた。泣きそうな顔で――いや、雨のせいかは知らないが、本当に泣いているのかもしれない。とにかく、哀しそうな顔で俺の肩を揺さぶっていた。
「ダンナ! ダンナぁ!」
ああ。疲れた。ここまで走ったりしてたし、何より、さっき姫に襲い掛かりそうになったのを押さえたことが響いてる。
やっぱりこの月の時期はロクなことがない。吸血鬼の血が、自制心すら突き破るとは。――しかし、手足が痛い。熱い。雨の中で濡れているはずなのに、身体が熱を持っている。一体、なんで、こんな……。
「ダンナ!」
一際大きな声で呼ばれ、少々すくんだ。ふっと、何かが返ってくる。
……ああ。そうか。今さっき、襲い掛かりそうになるのを止めるため、自分で自分に幻覚を見せたのだったか。手足の痛みも、大体消えている。
「……ごめんな姫。怖い思いをさせたみたいだ」
「ダンナ? 大丈夫なのか?」
おかげさまで、と腰を上げ、姫の落とした傘を拾う。手の赤みもどんどん引いていき、十秒も経たないうちに全てが元通りになった。確認のため拳を握ったり開いたりしてみるが、無問題。
元々幻覚とは、精神に作用するものでしかないのだから、肉体へのダメージはそう大きくはならない。幻痛とは、想像力によって感じるものだ。実際、人間の体というのは不思議なもので、目隠しをされてから「熱湯をかける」と宣言を聞いたあとに水をかけられて、本当にそれでヤケドを負う人もいるらしいし。
「着物、ちょっとばかり濡れたな。ごめん」
「いやそれはいーんだけどよ。本当に、大丈夫なのか?」
「平気平気、ただちょっと、な。今は俺に近づかないようにしてくれないか」
傘を差しかけてやると、姫はくすぐったそうな顔をしながらこちらを見上げた。そして俺の目を見て、こくりとうなずく。
「宿屋に戻ろう。さすがにちょっと寒い」
そのまま傘を手渡す。その瞬間、わずかに触れた指先。その温かさはもう俺には取り戻せない。否、最初から俺の中に存在しない。
やっぱりこういう時にも感じてしまう。人間と吸血鬼。彼我の差は絶対にして最大。対極。支配権を持つはずの吸血鬼は、いつだって人間に憧れた。こんな無駄な異能を持ち、あまつさえ苦痛を背負ってしまう自分たちを呪って。いや、すでに呪われていたのも、自分たちか。
神は不公平だ。だから存在を信じない。もう少し世の中を平らにしてくれたら、その時は存在を信じてやろう。そしてその存在を滅してやろう。
身体だけでなく、なんでこんな心の傷みまで背負わせた、と。
もう人間にはなれないこの身を呪って。
+
自制心を突き破るほどに吸血鬼の血が昂ぶっている今、俺に出来ることは普段より血液の摂取量を増やし、その症状を和らげることしかなかった。
「すいません、どうも有和良です。今日、少々体調が優れないので。ハイ、ハイ。わかりました。ありがとうございます、では」
ロビーに据え付けてある黒電話を使って連絡し、学校には欠席することを告げた。俺は中身の無くなった輸血パックを握りつぶし、ゴミ箱に放り捨てる。夜まで、あと十時間もない。それまでに一人になれるスペースが必要だった。
うろうろと行き場を求めていると、客用棟と従業員棟を繋ぐ渡り廊下の途中に、座布団を枕に寝転がっている白藤を見つけた。長い三本の三つ編みを踏まないように気をつけて近づくと、モノクル越しに薄く目が開いた。
「なんじゃ、主人よ。今は朝じゃぞ、夜這いをかけにくるにしては早い、いや遅い」
「んなっ、そんな用事で誰が来るか」
「む、その慌てよう、やはりまだ童貞かの。ツラは悪くはないんじゃが、いかんせん性格に難アリといったところか。……ふむ。どうしても童貞を捨てたいと思うなら、わしに土下座すれば枕と布団でもって、二時間ほど付き合ってやらんこともないがのう」
くわー、とあくびをしながら起き上がる痴女。白い浴衣に黒い帯を締めているが、かなり着崩した感じで鎖骨から胸までのラインが見える。……いや、だからどうということもないんだろうけど。
「視線は正直じゃな」
「四百歳越えた憑喪神が最初の相手ってのも、どうも自慢になりそうにないと考えていただけだ」
「そうかの? わしには人間の感性はようわからんが、おそらくわしは『美人』なるものに属すると思うのじゃが」
「十人の男に聞けば八人はそう答えて尻尾振るだろうな。でも俺としてはもう少し温和な人がいい。さて、話を最初に戻すよ。白藤、この宿屋の中で一人だけで過ごせる静かな場所はないか?」
ふ、と眉が上がり、疑問を発したそうな表情になる。答えようと思って俺が口を開く、が。その前に白藤が俺の口を押さえた。
「言いたくはなさそうじゃな。それに、わしは知っておる。おまえは斎の息子、つまり人外に生まれてしまったのも道理。前に説明しておったな、吸血鬼じゃったか。斎の奴も一度、そのことでわしに相談に来たわい」
「父さんも?」
「もうずいぶん昔、おまえが生まれるはるか以前のことじゃがの」
それは初耳だった。だがまあ、当然とも言える。吸血鬼は吸血行動で仲間を増やすわけではなく、普通の人間と同じく生殖行動で子孫を増やす。つまり、俺の親も吸血鬼、ということ。それならば、俺と同じくこの症状が現れる時があったのかもしれない。
「ともかく、じゃ。そういうことに適した場所なら一つあるぞ。この『雪』の棟から見て西にある『月』の棟との間。そこに、地下に繋がる出入り口がある。そこを通れば、様々な備品を貯蔵してある倉庫に出るはずじゃ。地下じゃから何も問題はあるまい」
「ありがとう。今晩から明日の朝まで、そこに入る。出来れば人が来ないようにしてくれ」
「承知」
片手で拝むような姿勢をとって、白藤は応じてくれた。俺は頭を下げて、そして少し不安を覚えたので、尋ねておく。予防線を張りにいった、というべきか。
「……あのさ白藤」
「なんじゃ、まだなにかあるか」
「俺のことについて、なんか聞いてる? 父さんから、さ」
「なんにも。興味も無いわ。そも、おまえと果たし合いをしたからこそいまはこうして馴れ合っておるが、その以前、斎のいたころはわし、なるべく宿の事情にも関わらんようにしておったゆえ」
「そっか」
予防線を張るまでもなかったようで、安心する。
いつまでも隠しておいていいのかと言われると、難しいところだったけど、とても話しにくい事柄だ。
でも中途半端に父さんから聞いてるようなことがないのなら、いずれ、どこかで俺自らの口より話そう。そうするべきだ。
「わしが知っておるのは昔のこと、斎の嫁やら源一郎と先々代主人の関わり、その程度じゃよ」
「俺の、母さん?」
「んむ。おまえを産みに国へ帰った後のことは、知らんがな」
「……そっか」
「話は以上か?」
「うん」
再び寝転がり、白藤は俺に背を向ける。立ち去ろうとすると、小声で一言。
「あまり従業員を心配させないことじゃ。斎の奴も、その件において源一郎に散々な心配と迷惑をかけた。なにせ主人は、主人なんじゃからのう」
……また、か。また、そのセリフを聞くことになってしまった。
+
夜が来た。長い長い、夜になる。からからに干からびた喉は、もはや輸血パックなどではなく、生きた血をすすりたいと懇願してきていた。当然、俺はそんなものを得るつもりはない。長い時を、この地下の倉庫で過ごすだけだ。
幸いなことに、ここの最奥には座敷牢もあったことだし。なんであるのかについては、思考するだけ無駄なことだ。薄暗い照明に照らされた灰色の石の壁から、腐った血肉の臭いがしている。……人肉の臭いではない。捕えた食材用の獣を、一時的に生かしておくための檻ということだろう。
俺は白藤に教えられた通り、庭の中央にある少しだけ芝の種類が違う場所から、地下倉庫に入っていた。そこには様々な備品が雑多に陳列されている。木製の棚に並ぶ、数十種の酒。はたまた布団。椅子の替え。ふすま。障子。
宿の一部屋一部屋にあるもののことごとくが、そこに集められていた。興味深いといえばそうだが、今はそんな場合じゃない。牢に入り、南京錠に鍵をかけ、その鍵を出来る限り遠くへと投げ捨てる。ところどころ黒ずんだ床に座り込み、ジーンズごしにひやりとした感覚を味わった。上に着るのは厚手の丈夫な黒いジャケット。これくらいのものを着ていないと、我に返った時に服がない状態になる。
とりあえず持ってきた最後の一パックを飲み干し、いずれ来る〝永夜〟を待つ。吸血鬼にとっての痛みの夜を示す言葉〝永夜〟。諸外国の方では〝エターナル・ナイト〟と呼ぶそうだ。永夜はそれを日本語読みに変換しただけの、陳腐な言葉である。
かの有名な吸血鬼、〝串刺し公ウラド・ツェペシュ〟。彼もあのような残虐な行動を起こした理由の一つとして、この永夜の痛みに耐えるため、狂うためにあのような凶行を行ったと言われている。まあ、結果として狂うのみで痛みをまぎらわすこともできなかったようなので、俺としてはひどくどうでもいい話なのだが。
「――ってぇ」
ずぎん、とこめかみにネジを打ち込んだような痛みが現れる。どうやら、始まったらしい。
ここから先は人外の世界。社会に交われない者の居るべき暗黒。
意識を、手放そう。
+
「ダンナはどこ行った?」
夕食の後、中庭で見えない月を眺めていた白藤は後ろから問いかけられ、振り向かずに用意していた言葉を返す。
「今日は友人宅に泊まるとかでの、明日の朝まで帰らんそうじゃ」
へえ、と呟き、姫は白藤の横、縁側に座り込む。中庭の池の横では、葛葉が刀を振っていた。白藤はそちらには目もくれず、空の中で探すのも難しい、漆黒に染まった月を見つめる。天高く卑小な人間を見下す月は、何を思っているのだろうか、などと考えながら。
「気になるか。朝帰りなどする主人のことが。ちなみに泊まりに行ったのは女子の家だそうじゃ」
「へー……それはそれは。ダンナも案外、男なんだな?」
ちょっと唇の端がひくついている。帰って来た時の有和良の反応が楽しみだ、と白藤はほくそ笑んだ。が、姫はどうも冗談を言い合えるような表情ではない。
「ダンナがさ」
「ふむ」
「昨日、帰って来てすぐに、倒れたんだ。辛そうな顔して、痛そうな顔して。何か堪えてるみたいに」
白藤はその顔を容易に思い浮かべることが出来た。そして、その顔をさせる原因についても、知っている。
吸血鬼は、長い歴史の中で同種以外、すなわち人間とも子を作ることが多くなっていった。理由は、支配階級に居た吸血鬼は他の吸血鬼と権力争いをすることが多く、同種の間で隔たりがあったからである。
――支配階級ゆえ繁殖が妨げられる。生物にとって一番の優先課題が、他の欲によって抑制されるという、面倒なことが起こった。そうして人と交わるようになり、血は薄まったり濃くなったりを繰り返したのだが……ある時から困った問題が起こるようになった。
吸血鬼の体内で、人間の血と吸血鬼の血が争うことが起きるようになったのだ。理由はわからない。だが、人間はそれを一種の呪いだと声高に叫んだ。人間を虐げ、その結末に子を成すことになった吸血鬼に対する、人間の呪いなのだと。かくして、新月の夜。吸血鬼にとって血と牙に並ぶ象徴。月の無い夜、その呪いは起こる。
体内で血の流れが不規則になり、血管が膨張と収縮を繰り返す。なんとか死なない程度にではあるが、身体を中から痛めつける呪。吸血鬼はその痛みに悩み、しかしどうすることも出来ない。少しだけ救いとなるのは、その呪いは毎回の新月に起こるわけではないこと。そして、その苦痛の時間はそこまで長くはないということ。
しかしはなはだ面倒なことに、その呪いの起こる前日あたりから吸血鬼はかなりの喉の渇きに悩まされる。
無論、血を吸いたくて、だ。それも生き血をすすることを求めてしまう。それらを総合して考えれば、有和良のとった行動もある意味正しいと言える。これら事情を知る白藤は、素知らぬ顔で、姫たちを煙にまいた。
「雨の中走ってきたせいで、風邪でもひいたのじゃろう。夕食の時はそう体調も悪そうではなかった」
「でも沈んでたろ。柊にちょっかいかけられても上の空で。なんか、見てて痛々しい。あたしはあんなダンナ見たく、ない……」
沈んでるのは今のおまえじゃろう、と白藤は思ったが、何も言わない。
吸血鬼の衝動はどんな薬を使ってもどうにもならない。どうにもならないことなら、なるだけ身内に心配はかけたくない。その心理くらいなら、白藤にもわかった。
だからといって、黙ったままでいるというのも正解ではないと、そう思ってもいた。おくびにも出さず、白藤はそっぽをむく。
「ほれ、葛葉が呼んどるぞ。早く行ってやれ」
「あ、うん」
縁側から立ち去り、白藤はぼんやりとしたまま二階に上がった。すると廊下の窓から中庭を見下ろしているぱとりしあを見かけ、自分から話しかけるという珍しいことをした。常に明るく天真爛漫なぱとりしあといれば、少しは気もまぎれるだろうと考えてのことだった。
「ぱとりしあ、碁でもせんか」
「ありゃ? 白藤ちゃんから誘ってくるなんて珍しいの」
今日はそんな気分でな、と気落ちしたまま続け、暗くなった思考を碁を打つために切り替える。
考えることを変えれば、心にもたげた感情から逃れられるとでも思っているかのように。階段の下では、姫が葛葉の用件をうかがっていた。
「なんだ、葛葉。何の用?」
「いえ、大したことじゃないのですがね、酒瓶の中身が切れてしまいまして。補充のために地下倉庫に行かなければならないのですが、お手伝いしてもらえます?」
素振りをしていた太刀を鞘に納め、汗を拭いて葛葉が問うた。断る理由もなく、姫は葛葉の後ろをついていく。
ちなみに、酒が浪費されたのは白藤ががぶがぶと消費するからだ。バケツに注いで飲んでいるのではないかと疑うほどの量を飲む。しかも何を飲んでいるのかというと、アルコール度数がとんでもないことになっている葛葉の手作りどぶろく。以前姫も一口もらったが、その時の記憶は飛んでいる。
「運ぶのは、いいけどよ。昨日まではまあまあ残ってたろ? なんで一晩で消えてんだ?」
「また白藤様が呑んだのでしょう。あの人はらくだが水を飲むように酒をお腹に溜めますから。どうしようもない人です」
うだうだ言いながら葛葉と姫は中庭に辿り着く。
ぱとりしあの部屋で碁を打っていた白藤は、宿屋としての感覚で二人が中庭の地下倉庫に向かっていることに気づいたが、何もしない。というより、二人を差し向けるのは彼女の考えの内だった。
「我慢は毒よの。とくに、男子にとってはの」
ふう、と息を吐き出し、碁盤に意識を集中する白藤。その時、白藤の吐き出した息を嗅いでぱとりしあは顔をしかめた。酒に弱い人ならば、匂いだけで酔いそうなほど白藤は呑んだくれていた。
「呑みすぎ、体に毒だよ?」
「体も何もわしは宿屋、建造物じゃ」
「骨抜きになるよ」
それは危ないな、とうろんな頭で白藤は答える。
+
……痛い、痛い、痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いイタイ痛いイタイ痛いイタイ痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いイタイ痛いイタイ
「あ――がっ、はあっハアッ、ハッ! あッぐ……うぇ、あぐ」
痛む。その箇所はまばらに、様々に、位置と程度を変えて俺を襲う。痛くない場所が瞬時に痛い場所に変わり、そこを押さえる作業。肋骨の下の脇腹が痛み、俺はそこを殴りつける。膝裏の靭帯が痛み、俺はそこを指で突く。
痛みを与えて痛みを制す、激痛を更なる激痛でもって返す、そんな無間地獄に終わりは見えない。
「――ッてえ、あ、ああ、いた、い」
脳の中枢を叩きのめすような痛み。誰にはばかることもない、俺は泣いた。
体中が赤い。吸血鬼の血が騒ぐ。鏡で見れば眼も赤いだろう。ああ情けない。
誰も来ない場所というのは便利だ。誰に遠慮することもない。でも、誰もいない場所というのは辛い。誰も助けてはくれない。いや、大体まず前提として俺のこの症状は誰にも助けることは出来ないはずだろう? 何を考えているんだ、泣き叫んでも誰も俺を助けられないし、大体助けるはずがない。俺は俺を誰だと思ってる。
天下の人外、化け物、畜生。吸血鬼だろうが。
「ああ゛あ゛あ゛」
痛い
痛い
痛い痛い
痛い痛い痛い……考えることも、考え、思考して、あぐねて、痛い、刺され、痛い、潰れ痛い、焼け痛い、締り痛い裂け痛い凍てつき痛く砕け痛く溶け痛く痛く痛く痛く。
「ダン……ナ?」
胎児、のように、体を丸め、爪で脇腹を、抉りながら。俺はゆっくりと、顔を上げた。
そこにいたのは、二人。牢屋の鉄格子を、挟んで、五メートルくらいの位置。姫と葛葉が、そこに、いる――。少しだけ、痛みが和らぎ、思考が、澄んだ。
「なんで、なん、でだ? 白藤に、言って、おいたのに」
「なんではこちらのセリフです。なぜそんなことになっておられるのですか……!」
葛葉が、ずかずかとこちらに踏み込んでくる。ああ、来ないでくれ。今の俺は、危ない。そう思って、腕を振った。こっちに来ないように、と。すると、指先が抉った肉から溢れた血が、ぱたた、と数滴。葛葉の足元に散った。
「なんで、なんでそんなことしてんだ? 白藤の奴も関わってんのかよ! あいつのせいでまたそんなことになってんのか、もしそうだとしたらあたしは」
「違、う。これは俺にとって、どうしようも、ないことで。その、ために、白藤に、協力、してもらって、た……」
「そう、ですか。……では、納得のいく説明を。一体なぜ、こんなことになっているのですか」
ああ。
もう隠し通せない。症状が出て、一回目。最初の永夜でバレるとは、思ってもみなかった。
痛みのために時折詰まるが、俺は吸血鬼の持つ面倒な宿命、永夜について説明した。吸血鬼の抱える、この厄介な症状を。牢屋越しに語るというのは、なんだか自分の背負った罪についての弁明のように聞こえた。いや、実際俺にとってはそうなのかもしれない。
人間でもないのに人間に擬態して、社会にまぎれ込んでいることに対しての。
「……わかる、だろ。この症状が出てる間、俺は血を、飲みたくて、仕方ない。しかも激痛で全身が、痛い」
話してる間にも、何度か叫び声をあげてしまった。突然に襲ってくるナイフで刺すような痛み、ハンマーで殴られるような鈍痛。全身を様々な武器で痛めつけられるようなこの感覚。霞む視界、俺は床を見たまま話し続けた。
「だから、二人とも、早く。外に、――ってぇ。出て行って、くれ……」
「いやだよ」
「いやです」
二人して声を重ねた。床から目を離して表情を見上げると、二人とも驚いた様子で互いの顔を見合わせていた。偶然に声が揃って自分たちも驚いているらしい。それに、二人とも。
泣いて、いた。わずかにではあるけれど。
「そんなに痛くて辛いのに、一人にしておけません」
「おまえらが、いてくれたって、何も……変わらないん、だよ。っつ、」
叫ぶ。続いて絶叫。肘から先が焼けて消えたんじゃないかと疑いたくなる痛み。それが少し治まった時、姫がぼそりと呟いた。涙は、まだ、途切れていない。
「本当に、か?」
……どう、いう意味だよ。
「突然、この痛みを消せる能力を、手に入れたって言うなら。話は別だけど、な」
皮肉った。けれど、姫の金色の瞳に宿った光は消えていなくて。
「無意味じゃ、ねぇと思うんだ。あたしは」
普通のことのように、言ってのけた。
俺は、痛みの情報量に、沸騰しかけた脳内をかき分けて、あらん限りの言葉を、ぶつける。ひどい、ひどい言い草だとわかってはいても、痛みに耐えかねて、慮る余裕も、ない。
「ふざ、けるなよ。俺は人外、なんだよ。みんなと、人間と、一緒にはいられないんだ、よ。この痛みと共に、俺は、血が欲しいって思い続けてるんだよ!!」
「もちろん、あたしも葛葉も痛みを消すことも、ましてや共有してやることも出来ねーよ。吸血衝動も治せない。ここで一緒に座り込んで、夜が明けるまで待つしかない。……ごめん。わかってんだ、そんなことはさ」
わかってるなら早く視界からいなくなってくれ。俺の目には今、おまえの白い首筋しか見えてない。
その首筋が、噴水みたいに血を出すことしか、今の俺は考えてない……っ。
「でもよ、人外なのは、あんただけじゃねーんだから。そんな、自分を卑下しないでほしいんだ」
――何を、言って、る?
「あたしも葛葉も、人間じゃ……ないんだから」
ふっと、息を吐き出して。
二人は顔を見合わせ、もう一つ、溜め息をつく。
「そのうち言おうとは思っていたのですよ。だましていたわけじゃないんです」
「でも、あんまりこの格好好きじゃねーからさ。先延ばしにしてた」
目を閉じ、二人が息をひそめる。
二人の着物の裾、膝裏のあたりが。ひょこりとうごめいた。そのまま着物の裾をくぐって出てきたそれは、尻尾。葛葉のものは黄金色。先端部分だけわずかに白い、柔らかな質感の尾。姫のものは真っ白な、細くしなやかな長い尻尾。
頭の上には、お約束のように耳。とがってピンとした黄金色の耳を立てる葛葉。姫は、純白で三角形の耳を、ぺたんとしおれさせている。犬歯が、目立ち、瞳孔が、細く引き絞られる。
「葛葉は狐、あたしは猫。もう、数の少なくなった、人外の種族。種族の中で葛葉もあたしも劣等種で、さまよう途中で斎に拾ってもらった。そういう経緯なんさ」
頭の上に突き出した、獣の証を撫でながら、姫は語った。俺の目を見て。
「なあダンナ。生きてるものには、誰だって生き辛い場所とか、追い込まれる場所があんだよ。そこで肩肘張って生きろとまでは言わねーけどさ、背を向けて全てに耳を閉ざして、逃げ出すのもどうかと思うんだよ。あたしも葛葉も元の種族の場所では色々あったけど、今はこうしてここで、何とかやれてる。種族も違う人間と、ちゃんとやっていける」
「わたしも姫も、種族として落ちこぼれ、ロクなことがありませんでした。しかし、今は違います。わたしがここで働けているという事実は、わたしにとって幸いなことでした。吸血鬼の血と人間の血が相容れないからとて、ダンナ様が人間と相容れないわけでは、ないでしょう? だってダンナ様も、半分は人間なのですから。それになにより、人間かどうかを決めるのは、自分自身です。白藤様のように」
懸命な言葉に、俺は拳を、振るうのをやめた。ゆるゆると、指が、ほどける。
痛みは、すでに引いていた。
全身を殴ったり抉ったりした痛みは残っているし、傷跡も残っている。でも、とりあえずは治まった。
そしてはっきりと見えるようになった、二人の顔。しゃがみ込んで俺の顔を見つめる二人。
「望むべきです。あなたのその決意は、聞き届けられるべき言葉です」
しばしの沈黙。痛みを無くした、けれど間違いなく身体に痛みを与えた、俺の手を。じっと見る。血にまみれて乾いた手。その手の持ち主。それが俺。吸血鬼。半人間。人外。そして、顔を上げて二人の顔を交互に見る。とても頼れる葛葉。優しい姫。
ここで、俺は、誰だ? ……正解はダンナだ。この宿屋『紅梅乃花弁』の主人だ。
もう一つ問題。宿屋はどういう場所だ?
「ああ…………ハハハ。望むべき、か」
宿屋は、もちろん客のためにある場所だけれど、それよりも根本的にある事柄によって出来ている。
それはそこでは皆平等。誰であろうと休める場所。おおまかに言ってしまえば、休憩所が大きくなっただけのことだ。休憩所で人に順位などあるだろうか? そこにはただ、平穏に流れ行く時間があるだけ。休むための時が在るだけ。
だから宿屋の中でなら、俺は望んでも良かったのだ。いや、もう望みは叶っていた。俺は皆と対等で、平等だった。そのことにすら背を向けて、俺は一人で悩んでいたに過ぎない。
「もっと頼れよ、あたしらを」
頼ってよかったのだ。俺自身が言ったことだ。「決定権の有無以外に、従業員とダンナの地位に差は無い」と。
目頭が、熱くなった。最初にこの症状が現れたのは十一年前。それから今まで、ずっと続いてきた永い夜は、ようやく終わったのだ。独りで過ごさなければならなかった暗い時はもう、来ない。俺は誰かを、頼ってもいいのだから。
「……姫、葛葉」
牢と倉庫を隔てる鉄格子の向こうに呼びかけた。姫は、黙って南京錠を開け、牢屋の中に入ってきた。
「……痛い。体が痛い」
ようやく俺は泣き言を言えた。今まで、対等な立場じゃない、自分にとって憧れだった『人間』が平等な、同じ位置に居ることを知ったから。頼ることが、ようやく出来る。頼ったからとてこの痛みに変わりはなく、また半年もすればこの激痛と向き合わなければいけないが。
今俺は少しだけ、泣くことが出来た。その事実だけが、嬉しさと、安堵をもたらしてくれた。