一頁目 ダンナと呼ばれた朝の訪れ。(正直驚愕)
俺の十六歳の誕生日に、父さんは一冊の台帳をくれた。分厚い、黒い革製のカバーがかかった、かつては立派な装丁だったのだろうと思しきもの。使いこんだ形跡の見られるもので、誕生日にお下がりのこれを渡すのかとも思ったけど口には出さないことにした。
開いてみると真っ黒な万年筆、そしてなにやら記号や文字が書かれた御札が入っていた。趣味悪いなあ、とも思ったけどやはり口には出さなかった。そんな俺に、父さんは語りかけた。
「いいかな。もうそろそろ君も、自分で考えて自分で行動出来る年齢だろう。だから、この台帳を託す。気負うことはない、気ままにやってくれ。ただ、二つだけ覚えておいてくれないかな。一つ、自分で言ったことには責任を持つこと。一つ、自分の流儀に反することだけはしないこと。正しいのは君じゃないかもしれなくても、心の底から賛同出来ないことには決して首を縦に振ってはいけない。自分を曲げたら、その瞬間から君は君じゃなくなってしまうんだ。……言うべきことはこれだけかな、うん。じゃあ、おめでとう」
なぜかよそよそしい握手をかわした父さんは、微笑んでいたけれど、表情に苦いものが混じっていた。苦笑いなんてするなよ、というとそうだね、と言ったものの、やはり表情は変わらなかった。
翌朝、目覚めたのは肌寒かったからだ。起き上がって周りを見ると家がない。
朝もやに包まれた屋外だった。と、あたりを見回して気づく。俺は自宅近くのゴミ捨て場の脇、そこに布団を敷いて寝ていたのだ。
おかしい……昨晩寝入るまではたしかに家の中にいた、そのことは間違いないのだが。
なんでこんな目に遭ってるんだろ、と考えながら身体を起こすと、右手が何かに触れた。見ると、枕元には「後は頼んだ 父より」と書かれた置手紙が鎮座している。これはアレだろうか。俗に言う捨てられた、という奴か。
そうかそうか。あの親父とうとうそういうことをするわけか。
なんで家がないのかとか、不条理すぎる現実を目の当たりにして。俺はまず現状把握よりも現状打開を選択した。
このときになってようやく、俺は世渡り上手な子供でいることをやめたのだった。
「誕生祝いは自分の使い古しをプレゼント。翌日には家ごとドロンか? あんの親父……絶対許さん。決めた。次に会ったらあの親父絶対ぶちのめす。思いっきりぶん殴って明日の日を拝めなくしてやる」
我ながら黒いこと考えてるなあ、と頭の一部で冷静な自分を感じつつ、さらに恨みは膨れ上がる。この秋の朝、寒い時間帯に息子をゴミ捨て場の脇に、しかも生ゴミの日に放っておくなんて、父親失格ではないかと思う。
幸いにも家まではここから二十メートルほどしか離れていない。素足で布団引きずって歩く距離も、それだけでいいということだ。ポジティブに考えればそういうことだ。
「……あれ?」
ところがそこには。
俺の見知った家ではなく、見たこともない家が建っていた。朝もやが晴れ、白い漆喰の壁が徐々に姿を現しつつある。現実を真っ向から否定するような非現実。
その輪郭はハッキリと高くそびえたち、一軒の二階建て木造建築が出現していた。うちは平屋造りの家だったはずだ……住所間違えたか? いやそんなことはない。
しかしまるごと違う家だ。俺の家は敷地を囲うのは鉄柵だったのに、瓦を乗せた漆喰の塀まで出来ている。その奥には引き戸が見えたがなぜか小さく、前庭もやけに小さい。それに南である道路側に、窓が一つもない。ぬりかべに引き戸だけつけたような、そんな造りだ。
これはアレか。
「………………あ、そうかコレは夢か」
そうとわかれば路上でゴロリと横になり、目覚めを待つ。
十七秒で車が来て、運転手の禿げたおっさんに怒鳴られた。どうせ夢の中の登場人物だろうと思って無視してやったが、今度は耳元で怒鳴られた。鼓膜かなり痛い。
いやまさか。こんな不条理な一日の始まりなんて。
「嘘だろ夢だろ。もういい加減起きたい」
「いや、もうあんたは起きてんのさ。ダンナ」
バッと後ろを振り向くと、そこには赤茶けた髪を頭の後ろでポニーテールにして、緋色の着物に橙色の帯を締めた女の子が。鼻の頭まで隠れるように巻いたマフラーをふちから、ちょっと眠そうな黄色い二つの目で俺を見下ろしていた。
ただ、見下ろすといってもそう高くはない。身長は相当低いようで百五十センチに届かないに違いない。
「ダンナ、起きな。もうあたしらは準備出来てんだ」
ちょっと舌足らずな、どう考えても子供の声。だというのに、やたらと凄みがある。
って、準備ってなんなんだ。
「いや俺はなんにも心の準備デキテナインダケド」
「準備なんてしなくていい。今すぐに『開業』とだけ言やぁいいのさ。言え」
空気を震わす凛とした声は、なぜかすんなりと耳に入る。子供の声で、外見もどう考えても小さく幼くて、だというのに。どうしても言うことを聞かなくてはならないような気にさせられる、力強い声でもあった。
初対面の少女の声にずいぶんと感じ入ってしまったが、それだけの迫力と意思が、少女の言葉には込められていた。と、女の子は唐突に手拍子を始める。
「ほら言え、さんはい、開業!」
「か、かいぎょう」
しまった。のせられた! いや、別に大したことないか。なんで慌ててるんだか。しっかりしろ、俺。
……なぜだか一陣の風が俺の横を吹きぬけ、辺りの空気が変わったけど。気にしない。
「ちょっと、今の言葉って何の意味が」
問いかけようとして、俺は背後の自宅……があった土地……より、異様な気配を感じ、振り返る。
しかしそこには誰もいなく、能面のように表情のない、窓すら見当たらない家の壁面が見えるだけだった。
「はい開業だよ開業! 新しいダンナを出迎えだ!」
瞬間、神社でやるように手を叩きながら目の前の着物少女が叫び。俺は自分が何を言ったのかもよくわからないまま。なんだかよくわからないが脳髄に危険信号が発せられる。
ぐらりと、頭が揺れた。低血圧、貧血、立ちくらみか。そういえば昨日は誕生祝いで、いろいろあって、体調管理を怠ってしまったのだったか。自分のまぬけさにあきれたと同時に、目の前が暗くなった。
いや。違うか。
きっと今ようやく目が覚めるんだ。
+
目が覚めた。
そこは昨日まであった俺の部屋よりも数倍広く、綺麗な和室だった。布団の中で横になっていた俺は、奇妙な現状に警戒を覚え、腕と指先に力を込めた。どうやら、普通に動く。ということはあれか……つまりあれか。介抱された感じ。
「どこだここ」
「お、起きたのか」
下を見るとさっきの着物少女がふすまを開けて入ってきたところだった。
……俺が起きるのを待っていたのか。
「なに、きょろきょろして。寝ぼけてんのか?」
いぶかしげな目でこちらを覗き見てくる着物少女。俺はどうしたものかと考え込んで、動くかどうか迷っていた。
「ここどこだ。あんただれだ」
「ちょっ、まさかさっき倒れた時、うちどころ悪かったのか」
「いや記憶喪失じゃないけど」
「そっか……そりゃ安心した、けど」
ふうと息をついて、着物少女は覆いかぶさってくる。何をする気だ、と思ったが、なんと言うことはない。ただ布団を俺から剥いだだけだった。てきぱきと俺を敷布団の上からも追いたてて、手慣れた様子で三つ折りにして隅に置く。よし、とつぶやいてこっちを向くと、軽く会釈した。なんとなく正座して、俺も返した。
少女はおそるおそる、といった笑みで、俺に問う。
「で、あの……あたしのことわかんない? ここがどこかも?」
「さっぱり」
俺がそう言って指差すと、表情を一変させて、少女は軽く舌打ちした。ちょっとビビった。
「……斎の奴、引継ぎを適当に済ませたわけか。進んでこっちに来そうな人柄じゃない、みたいだけどさぁ。はぁう……まあいっか、あたしの名前は姫。ダンナは、有和良春夏秋冬、って名前だろ?」
合ってるけど。俺としては気に入ってない名前なのでうなずきを返せない。けれど姫というこの子が目に見えてうろたえだしたので、仕方なくうなずいておいた。記憶喪失じゃないってのに。
それになんだか釈然としない。相手は自分を知ってて自分は相手を知らない、って変な気分だ。俺が対応に困ったまま見ていると、姫は視線をあっちこっちに向けながら、申し訳なさそうに、言った。
「で、ダンナ。あんたはこれからこの宿屋『紅梅乃花弁』の主人だ。そんであたしはその教育係、ってもんになるんだろうね。これからよろしくお願い……な?」
小首を傾げながらそう説明されたが。
意味わからん。理解不能な状況がやってきた。こちらも小首を傾げたくなる。
「細かく説明してもらえるかな」
「悪いんだけど、今そんな時間ない。学校に行かにゃならんのじゃないか?」
その時、柱時計がボーンボーン、と時刻を知らせる。時すでに八時。うわ、こりゃ高校まで走っていっても間に合うかわからない。
「遅れそう、って顔だな。仕方ない、一番早い手段を採るぞ。斎から、学業はおろそかにさせるなって言われてるかんな……ダンナは早いとこ自分の部屋行って準備して勝手口に出てきな、って部屋がわからない? 勝手口も? そりゃそうか。部屋は廊下に出て右に三つ隣、勝手口は廊下に出て左手の階段降りたらすぐ!」
言われるままに姫の横に立ち上がり、思ったよりさらに身長の低い彼女に急かされながら俺は三つ隣の部屋に向かい、支度をした。
部屋には文机と低いタンス、畳んだ布団と押入れしかなく、欄間のところに、ハンガーで制服がかけてあった。寝巻きの作務衣を脱ぎ捨て、かけてあった白いシャツ、臙脂色のネクタイ、水色のブレザーに袖を通して灰色のボトムスに足を通す。頭は元々ボサボサなので気にせず、階段を駆け下りた。
そこは狭い玄関のような土間で、勝手口という言葉にも納得させられた。
「さ、これに乗っていきな」
姫が指差したのは中型のオートバイ。小柄な俺では乗るのが少し難しそう、というかまず俺は免許を持っていない。心配になって姫の方を見ると、いいから行け、と背中を押された。乗せられたのはバイクの後部、運転手は……いつの間にやら、フルフェイスのメットをかぶったライダースーツの人物が、目の前に座っていた。
「しっかり掴まって行け、ダンナ」
「ちょっと待て姫、ちゃんと帰ったら説明を、詳しく頼む」
「承知したよ」
「もう意味わからな、っとうわっとおお!」
狭い勝手口前から急発進したバイクは、猛スピードでうちの周りの住宅街をかっ飛ばした。反射的に掴まらなければ、多分振り落とされて後頭部が熟れたトマトのように変形していただろう。それに掴まったといっても油断は少しも出来ない。一秒でも気を緩めれば曲がる時にかかるGで吹き飛ばされる。
嗚呼。
昨日までの日常はどこへいったのやら。
+
無事に学校までつけた奇跡を噛み締めながら、俺はガクガク震える膝を手で押さえて地面に降りる。運転していた主はわりと背が高く、校門前で目立っているのだがまったく意にしない様子だった。ちなみにうちの高校はバイク通学禁止である。
「あ、ありがとう、ござい、ます」
途切れ途切れに礼を述べるが、ヒラヒラと手を振っているだけ。俺はその動作が「気にしなくていい」と言っているようにも見えた。とりあえず、俺はぜいぜいと乱れた呼吸を整えるのに必死になった。
「おや、有和良。朝からずいぶん派手に来たじゃあないか」
聞き覚えのあるくたびれた声。膝に手をついて屈んだ体勢から見上げると、そこにはやけにデカいフレームの眼鏡の奥に、井戸の底のように黒い、半開きの瞳を隠した痩せぎすの男がいた。髪は茶色でパサついており、頭の後ろで短く一つに束ねている。服は俺と同じ制服、しかしネクタイは緩んでいて欠伸をかまし、覇気のない感じが容易に見て取れる。
「辻堂、今日は早いな」
「たまには私だって早く来る。そう遅刻ばかりしていて、気がついたら退学になってたりしては困りものなのでなあ。ほれ、うちの学校は遅刻三回で欠席一回の扱いだろ。……ところで、そちらの女性は誰かな? おまえさん、姉とか居たか?」
「いや俺一人っ子だよ」
辻堂が指差しているのは俺の後ろ、バイクの運転手だった。
良く見ると、ライダースーツによってくっきりとボディーラインが浮かんでいる。びっくりした。
さっきまではそんな部分に気づきもしなかった。最初から最後まで後ろ姿しか見てなかった上、恐怖心で気にする暇がなかったとも言える。これは、ひょっとすると、かなりきわどいところに掴まって俺はここまで送ってきてもらったのかもしれない。
……すいません。
「あ、その。とりあえず、俺は学校行くんで。ありがとう、ございました」
内心どぎまぎしながらそう言って頭を下げる。すると、ライダーさんはメットを取ってお辞儀した。
髪の色は黒く、短めのボブカット。細く短めの眉と、その下の青みを帯びた鋭い双つの瞳が冷たい印象を与える。細面な、一言で表すと日本的な美人だった。
「帰りはお迎えにあがりましょうか、ダンナ様」
問いかけというよりは確認。のびやかな声だが、どこか強い芯がある。
「あ、いや、歩いて帰るよ」
「左様で。ではこれにて」
はきはきとしゃべって、ライダーさんはメットをかぶると帰っていった。
ぼんやりと突っ立っていると、辻堂にわき腹を貫き手で突かれたので、横を見上げる。奴は不思議そうな顔で、俺を見つめていた。
「ダンナ様って有和良、おまえさんあの女性と夫婦なのか?」
「んなわけないだろ。なんかよくわかんないんだけど送ってもらったの」
「ふーん……まあ、私の守備範囲からは大きく外れてるしどうでもいいんだが。ま、とりあえず遅刻せずに済んだことを喜ぼうじゃないか。先に行くぞ」
「あ、おう」
フラフラと前を歩く辻堂を追って、俺はようやく、平常通りの日々の中に入っていった。
+
と思ったら平穏な時間はあっという間に過ぎ、気がつけば俺は家の前に居た。
家と言っても昨日まで俺が父と住んでいた家はもうないのだが。目の前にあるのはやけに簡素で窓すら見当たらない、戸のみがついた殺風景な家。ご近所はなんで何も言ってこないのだろう? 一夜で家がすっかり変わってしまったのに。
溜め息を吐きながら、引き戸を開けて勝手口前の小さな庭のようなスペースに入る。と、朝乗ったバイクが置いてあった。朝のライダーさんはここの従業員なんだろうか……そう言えば、病院に行き忘れた。朝は調子が悪かったし寄っておこうと思ったのだけど、気が回らなかったようだ。
さて、なにはともあれ。
……入る気がしない。かなりいろんな意味で怖い。
「なにやってんの?」
「うわあ!」
今俺が入ってきた引き戸から現れた姫。怪訝な顔をしながらひょこっとこちらを見上げていて、両手にはスーパーの買い物袋がぶら下がっている。
「あ、ダンナは特に好き嫌いないんだよな。斎にそう聞いてんだけど」
「まあないけど。え? 姫が俺の夕飯作るの?」
「そうだよ、一応あたしはダンナの下で昼夜問わず働かにゃならない立場だ」
「……あの、さ。ダンナダンナってさっきから呼んでるけど、俺、ここで働かなきゃいけないのか」
「ん……言いにくいけど、少なくともここにいてもらわにゃ困る、かな」
受け答えの歯切れが急に悪くなり、姫はうつむき加減になって俺から目を逸らす。俺もあんまり追撃するようなまねはしたくなかったので話題を切ろうかと思ったが、姫は続きを口にした。
「斎からあんたのこと任されてて、ここに住んで生活してもらうように、と仰せつかってる。仕事については……斎が抜けた穴がちょっと痛いけど、あんたは形だけの主人でもいい」
「形だけ、か」
「うん」
「形から入ってくれ、ってことか」
「うん。……じゃなくて、ああいや、これはなし。やっぱなしな。とりあえず入ろう、ダンナ。朝の約束は帰ったらちゃんと説明する、だったし。夕飯の用意をしながら説明するぞ」
しどろもどろになって言う姫は焦りながら、引き戸を開ける。とりあえず、現状として行き場のない俺はうなずく他になく、姫の後ろ姿を、どこか遠い別の世界の住人のように感じていた。
引き戸から入ると、朝は見回す余裕もなかったが、勝手口の奥には廊下があった。そこに入ってすぐ左を見ると、一家庭のキッチンとしては大きすぎる、厨房と呼べそうな場所があった。
「デカいキッチンだね」
「ん、そりゃそうさ。お客の食事もここで作ることになってんだから、大きくなんのは当たり前だよ」
その中央にあるテーブルに、どさっと両手の買い物袋を置く姫。材料から連想される料理名は幾つかあるが、それにしても量が多い。一体何人分作る気なんだろうか。とりあえず姫と俺、それに朝のライダーさんを含めるとしてもまだ余りそうな量だ。
手を洗ってきた姫はそれらの包装をどんどん破って、終いには全部むき出しの状態にしてしまった。そしてまな板と包丁を持ってきて、かなり危なげな手つきで食材に刃をいれていく。
作業をしながら俺の顔をうかがうので、危ないから手元見てくれと返しつつ、姫はぼそぼそと説明をはじめた。
「……で、どこから説明すりゃいいんだろ? あたしは、少しはこっちの仕事を知ってるもんだとばかり思ってたんだが、どーにもこーにもダンナは反応が薄い。ひょっとして、この宿屋の仕事については斎からなにも聞いてない、と?」
「斎って父さんだろ。俺は父さんがいまは普通の仕事やってるって聞いて、それをずっと信じてたんだよ。だから、宿の仕事なんてさっぱり。ついでに言えば、なんで突然に父さんが失踪したのかもわからない」
俺がそう言って返すと姫は頭を抱えた。おいおい包丁持ってるし、危ないって。
「斎の奴め……きちんと引継ぎを済ませてからここに連れてくる、って言っただろぉが……くっ、あいつを信じたあたしらがバカだったんだ。あのバカ主人、なんでこういうことちゃんとやらないで」
「あー! で、ここは、なんなんだ? 宿屋って言ったけど。突然に家がなくなったり代わりにここの宿が現れたり、不条理なことばっかりだ。普通の宿屋じゃ、ないんだろ?」
なんだか父さんに向けて恨み言を呟き始めたので、俺は話がわき道に逸れないように話題を振った。幸いにも姫はそれに乗ってくれたので、俺は自分の親の仕事仲間から愚痴や恨み言を聞くという、かなり辛い状況になることを回避出来た。
いくらダメ親だとわかっていても、他者の口からそれを聞くのはやはり辛い。少しして落ちついた姫は包丁を置くと、口許に手を当てて咳払いをひとつ。時折俺の方と目を合わせながら、語り出した。
「――そうさな。えーと、ここはどっかとどっかの間にあって誰かと誰かの間にある。そういう宿さ。客は神格の精霊から一般人まで幅広く、料金は誰であろうと変えない。公正公平、誰もがのんびりするための場所。それがここ『紅梅乃花弁』だ。ダンナ、あんたはここの六代目主人になったんだよ」
意味不明。
しーんという無音の擬音が聞こえたような気がした。俺と姫の間に沈黙が落ちて、いたたまれなくなった様子の姫は、また包丁を手に取るととんとんとんとん、リズミカルにまな板を叩きはじめる。
……そういえば何を作っているのだろう。どうやら、鍋料理を作ろうとしているらしい、そこは理解できる。材料とかから判断して、たぶん間違ってはいまい。
ただ思うのは、白菜をみじん切りにする必要性は皆無だろうということだ。
……いかん、意味不明な出来事に遭遇して理解しようという心持ちが失せていく。
「ん、あー、急に言われてもわからないか。じゃあとりあえず今は基本的なことを頭に入れてもらうぞ。この世界にゃな。精霊とか幽霊とか、一般的にはいないとされるものが実在するんだよ。で、ここはそういう人外の者も含めて宿泊させる宿屋。世界の狭間に位置し、日々放浪して客を探す生きた宿屋。そういう場所だよ」
生きた宿って。おまけに精霊、幽霊。俺は自分の顔が引きつって、制御できてないっぽいことを自覚した。そんな宿屋の主人を、父さんが?
いまは普通の仕事だって、そう言ってたのに。
「とにかく、わたしたちはここで働いています。あなたの先代、有和良斎様に拾われて、従業員として働いているんです。そして、この宿屋の主人の地位はこの、台帳を託された有和良の家系の人間のみが継げるのです。すなわち今のあなたが、わたしたちの主人ということになります」
後ろから唐突に発せられた声に驚いて振りむくと、黒い着物に身を包んだライダーさんが立っていた。帯は白に金糸の刺繍が入っており、その上に割烹着を着ていた。
すると姫が持っていた包丁を手渡し、あっさりキッチンの占有権を明け渡す。格好から察するに、どうやらライダーさんが調理担当らしい。そりゃ、さっきの姫の手つきは、とても人に出せそうなものが作れそうになかったしな。よかった。
「なんか言いたそうだなあんた」
「いやべつになにも。……そういえば、朝送ってもらった時に名前を訊いてなかったですね。俺の方の名前は、もう知ってるんですか?」
ライダーさんはうなずいて肯定した。ううん、知られて嬉しい名前じゃないんだが。
「わたしは葛葉と申します。よろしくお願いいたします、ダンナ様」
長身を折り曲げて深々と頭を下げてから、葛葉さんはまた調理作業に戻った。姫とは違って落ち着いているし、俺よりも年上のようだ。なんとなく、緊張してしまう部分がある。年上の女性と接した経験が、俺にはあまりないのだ。その点姫は一見して明らかに年下とわかったので気楽といえば気楽である。……労働基準法とかどうなってんだろ。
「まあなんにせよ、あんたが新しいダンナになったんだ。これから宜しくな」
「え。まさかこれで説明終わりなの? あんな説明で、これでおわり?」
「あんな説明もなにも……事実なんだからしょうがねぇだろ。んじゃちょっと用意してくるから、ダンナここで待っててな」
そう言って姫は肩をすくめ、逃げるように二階に上がっていってしまった。本当にこれで説明は終わりか。放浪の宿屋ってなんだ。精霊も宿泊って。
……なんだか知恵熱が出そうだ。あ、これ誤用か。と、そこで葛葉さんが助け舟を出してくれる。
「食事の支度はわたしがやっておきます。今日は姫について、宿の大体の間取りを把握できるようにするとよろしいかと存じます。……いきなりこんな状況になってしまって焦る気持ちも、わかりますし。食事は出来上がり次第、連絡をいたしますので。夕食の席上でまた少しずつ、わたしから説明もしましょう」
「そっか。わかりました、葛葉さん」
「葛葉と呼んでいただいて結構ですよ」
くすりと笑って、俺に気を使ってくれる。その優しさがどうにもこそばゆい。こちらもそれに返そうという心持ちにはさせられて、けれどそれは決して不快なものじゃない。むしろ嬉しい心持ちだ。だから、なんとなく『さん』とつけたくなるのだけど。
「葛葉さん、年上でしょう?」
「わたしは今年二十歳ですが、あなたは雇い主です。敬称も敬語も除いていただいて構いません、どうぞ親しみを以て呼んでくださいな」
「雇い主って言われても、自覚も権限もないはずなんですけど」
「それでも、契約は契約として残っているのです」
ですから、形だけでも、と軽くお辞儀をしてきたので、余計に俺は恐縮してしまった。とはいえ、あちらがフランクな対応を望んでいるのだから、それに合わせた方がいいような気もした。
……それにしてもお辞儀をしているさまを見て余計に思ったが、羨ましい身長だ。四つ年上とはいえ、女性相手に身長で負けるとちょっと哀しい。そんな俺は百六十四センチしかない。多分、葛葉は百七十弱はあるだろう。分けて欲しい。切実に。
そこに百五十くらいしかなさそうな姫が戻ってきたので、俺は大いに安心できた。
「おまたせ。ダンナ、宿の中案内するよ」
「あ、うん。じゃあ葛葉さ……いってきま、あー、いってくるよ」
「はい。迷ったりしないよう注意してください」
ひらひらと手を振っていた。まあ変わった宿ではあるようだけど、さすがに迷うことはないんじゃないかと思って、俺は笑った。ところが二階にあがると、左手に窓があり、下に日本庭園を望むことができた。
その庭園の向こう、竹でできた柵があるところまでは、五十メートルくらいある。度肝を抜かれた。俺の平屋作りの家があった時はここまで広くなく、三十坪くらいしかなかったはずなのだが。
「あの、これ、広すぎないか」
「世界の狭間に位置するこの宿は、勝手口を一定の場所に設定してあるだけ。それ以外の部分は全て世界の狭間をさまよってるから、空間の広さとか幅は土地に左右されねぇんだよ」
窓を閉めながら、姫が言う。吹いてくる風に髪がなびいていた。
「今は、客はいるの?」
「んにゃ。一人もいないよ。一ヶ月くらい前から斎は『そろそろ息子に継がせる』とか言ってたから……なんの準備もしてやがらねぇとは思わなかったけどな。んで、一週間前に営業を休止して、斎はそれっきりここに顔出してない。行き先も目的も話せないとかで、今はどこにいるやら。それからあたしらは休暇だよ。宿の中でゴロゴロしたり実家に帰ったり、みんな思い思いに過ごしてたんさ。
ところが今朝、突然にあたしらの宿が勝手口だけダンナの家があった土地に固定されたんだよ。今日までは散々世界の狭間を漂ってたのに、だ」
くりくりと髪をいじくりながら、姫はぼんやりと庭を眺めている。世界の狭間の宿屋、か。
父さんに渡された台帳を開く。カバーがボロボロなわりには中は新品同様で、パラパラとめくると父さんの字が見えた。どうやら、客の入りについてとか、仕事の反省とかが書かれているらしかった。業務日誌という奴らしい。
「……これ見る限り、わりと、真面目に仕事してたんだ」
「性格はいい加減なクセに、斎は仕事だけは几帳面にしてやがったよ。おかげで、帰るのが遅くなったりする日もあったろ。悪かったね」
「別にいい。父さんは『いまは普通の仕事だ』って俺には嘘ついてたけど。仕事から帰って来ても結構充実した表情で寝てたしね。――その前に酔っ払うのが大半だったけど」
そうか、と呟いて姫は苦笑した。その横顔に俺もつられて微笑み、やがて互いに向き直った。
「姫、もうすこし案内してくれるか? 父さんのことも聞きたいし」
「りょーかい。とりあえずは大浴場とか遊技場、それに表玄関とかを回るこったな」
ぴょんと窓から下りた姫に先導され、俺は広い宿の中を探索に出掛けた。
+
「ところでこの台帳って、何のために使えばいいんだ?」
「さあ? 先代の斎はことあるごとにメモしてんのは見たけど。それ以上はよくわかんないよ」
やたらと広い宿の中は五、六分歩いてもまだ廊下が続いていたりする。そしてこの宿は空から見ると五枚の花弁の形に広がっているらしく、客用はそのうち四棟。
今居るのは『花』『鳥』『風』『月』に分かれた客用の棟のうち、俺や従業員用の棟である『雪』から見て東にある『風』だった。方角は世界の狭間、つまり普段の世界とは異なる空間だから関係ないとのことだが、勝手口は南の方角にあったことから俺はそう捉えている。
「ボイラー室、さっきいったけど温度調節は触んなよ。七十度まで上がるからお客さんが茹でダコになる」
「わかった。にしても、なんか宿の仕事ってたいへんそうだな」
「わりとハードだよ。客がいなきゃいないで、また大変だし。やりがいはあるけどな」
棟を行ったり来たりするうち、広いロビーに出た。赤い絨毯が敷き詰められており、高級そうな調度品がそこかしこに点在している。ソファや置時計、デスクや戸棚などが、シックな雰囲気を作り出すのに一役買っている。時計に近付いてみると、隅っこに『明治六年 贈与』と書いてあった。めいじ……。
「ここ、表玄関な」
姫が手を振る方向には、曇りガラスがはめ込まれた大きな引き戸があり、そこがどうやら表玄関であるらしい。当然、その横には受付があった。
ここだけ見ていると、たしかに普通に旅館や宿屋として山奥で営業していてもおかしくはない。ここだけなら、だが。
「そういや従業員ってどれくらい居るんだ?」
知らず、口は動く。新しい環境に慣れ、ここで生活していくために無意識に声を発してしまったのかもしれない。環境順応能力って恐ろしい。
「固定の面子は、いちおう、六人。うち二人が男。残りが女だ。時たま、旅費稼ぎとかの人で臨時に面子が増えることもあるけどよ。基本的に客はそんなに多くないから少人数で事足りてんだ」
「宿自体はこんなに広いのに、か? 掃除とか大丈夫?」
「ま、そう心配するこたない。ダンナ、慣れと耐性ってやつだよ」
そう言って姫はけらけら笑っていた。俺が黙って見ていると「笑ってほしいとこだったんだけどな……」と寂しそうに言われてしまう。こっちは、感心していたのだが。
その後は大浴場やその外にある露天風呂、そして卓球台とビリヤード台が四面も置かれた遊技場などを見て回った。軽く姫と卓球をしてみたが、毎日やっているらしくその腕前はのんきな温泉卓球の枠を逸脱していた。
と、俺の眼前に紙飛行機が飛んでくる。廊下の窓から舞い込んだそれは、開いてみると「夕食準備完了」と書かれていた。飛んできた方向を見ると、先ほどの厨房が遠くに見えた。よく紙飛行機が届いたものだ。
「葛葉、夕食の用意を済ませたみたいだね」
誰に言うでもなく――いや、あの顔はものすごく嬉しそうだ。たぶん、自分で言って自分で愉しんでる。そんなに美味いのか? ともかく、俺は上機嫌な姫の後ろについて、夕食の香りが漂ってくるさきほどの厨房に向かった。
ダイニングテーブルには鍋と五目御飯が置かれていた。食卓につく人数は三人だが、それにしては随分と量は多い。大体、鍋は鍋でも中華なべくらいのサイズがあった。静かに手を合わせ、もくもくと食べ始める。けれど初対面の人との夕食というわりには、空気はやわらかだった。
「さっき言ってた、残り四人の従業員も来るの?」
俺が尋ねると姫は既に肉を取りにかかっており、自分の皿に山のように積んでいた。いかんせん身長が低いためか、大きく机の上に身を乗り出しているのがどうにも子供っぽい。そして取った肉をふーふー吹いて冷ましつつ、俺の問いにようやく答える。姫は猫舌らしい。
「いんや? 残り四人は休暇になったから、ってそれぞれフラフラしてんだよ。実家に帰ってたり思い思いに過ごしてる。まあ、今日の朝に開業宣言をしたんだから、それが聞こえて戻ってくんだろ」
「どこまで俺の声は聞こえてるんだ」
「世界の狭間のどこまでも。物質的な次元での話じゃねーんだから、距離はあんま関係ない。あの一言には〝言霊〟が込められてたんだ。もう世界の狭間全てに、ここの宿の開業はもう伝わってるさ」
……さっきから思ってたんだが。世界の狭間ってよくわからない。どういう意味だろ?
「世界の狭間とは一種の異空間です。この国においては陰陽寮という機関により、光と闇を明確に分けることで境界を定めやすくするよう、異能と常人の領域は古くから結界などによって切り分けられてきたんです。そうすることで陰陽の役割をきちんと区分し、どちらもどちらに依りすぎることのないように」
「正直、陰陽道とかあんまり詳しくないからわからないんだけど」
「かんたんに言うのなら、政治と呪術を切り離すための措置ですね。もちろん裏で繋がってはいたのですが、表向きにでも分けることで呪術の秘匿性と隠密性を保っていたようです」
なるほどわからない。葛葉はというとこれ以上かみくだいた説明はできないらしく、申し訳ないですがこれら知識は斎様からの聞きかじりですので、と答えた。父さんから、か。あいにくと俺はそういう歴史とか昔話には、あまり耳を傾けてなかったからなあ……。
と、話に夢中になっていた。俺も食べよう。
ん?
「狭間を通れる呪術師は多くないし、神隠しに遭うとかせにゃ来ることは少ないんだよ。……んじゃ葛葉、ごちそうさま。今日はお客も来ねぇみたいだし、食べ終わったからあたしは風呂入って寝るよ。もし客が来たりとかなんかあったら呼んでくれな」
「ちょっと待て」
箸を机に置き、俺は背後の厨房出口へと駆け出していた姫の、着物の帯を掴む。
「なんだ、ダンナも風呂か?」
「それは後から行くけどそうじゃなくてだな、」
そう返すと、俺の言葉を遮るように姫は後ろにひいて、じろっと見据える。
「……のぞくなよ」
「そんなことするか。歳のわりにませてるな」
「はん?」
「いや、だって俺より年下だろ? どうして小学生で働けてるのかわからないけど」
「あ、言っちゃいましたねダンナ様」
「え?」
クルッとこちらを振り向く。その動作で俺の手は帯から離れる。代わりに、もみじみたいな、とまでは言わないもののかなりちいさく、柔らかな掌に、俺の手首が掴まれた。ごりい、と骨が軋む音がした。
な、なぜだ。
俺よりも背丈も二十センチは低いはずのちっこい体から、刺し殺されそうな殺気を感じる。
「……え?」
「姫はあなたと一つ違いです。十五歳ですよ」
「こんなナリで!? というかそうじゃなくて! 俺が言いたいのはなんで食事が始まって十分少々であれだけたくさんあった鍋の中身が消えるのか、というか葛葉も姫もからだ細いのにどこにあれだけの食事が入っでうッ」
振り返って、葛葉を見ながら、話したのが、運の、尽き。
こんな、小さい、からだに、どこに、これ、だ、け、力、が。
「……忠告しておけばよかったですね。すみません、ダンナ様」
出来れば、みぞおちを殴られる前に、言って。
+
本日三度目の目覚めだ。
和室で目覚めてもまあ、何も違和感を覚えなくなってきた。たった一日でどれだけ馴染んでるんだ、俺。
「てて、もう夜か」
一人ごちて廊下に出る。うぐいす張りという奴なのか、はたまた単に古いのか、歩くたびにキイキイと音が鳴った。
窓の外には月。薄明かりを落とすそれを見つめながら、ふと俺は病院に行き忘れたのを思い出した。朝と同じような感じで頭がふらつくので、窓枠にもたれてやりすごした。頭痛を引き起こしそうな視界の揺れがおさまり、波がひくのを感じてから、ゆっくりと体を起こす。
踵を返して部屋に戻る。部屋は、元々俺は所持品が少なかったためか服を入れたタンスと文机、学業道具一式と布団、あとは少々大事な物を入れた桐の小箱のみ。中身は通帳と印鑑だ。あとは七十センチほどの長い袋が投げ出されていたが、これはタンスの奥深くにしまっておく。
机の上を見ると、台帳が置かれていた。ここまであの二人が運んでくれたのか知らないが、そのときについでに持ってきてくれたのだろう。厨房に置きっぱなしだったから。
ふと、時間の経過を、じっとりを汗ばんだシャツに感じた。宿に居るのに、風呂にも入れてないのか。宿泊客じゃないから当然かもだけど。
風呂は天然温泉だと聞いた――異空間にあるのにどうして湧いてるのかは気にしない。一風呂浴びて、こようかな。
「タオルだけでいいかな。石鹸と桶はあるだろ」
俺は廊下を歩いて『風』の棟に移ってから階段を下りた。少々冷え込む一階のロビーに出て、無闇に静かな廊下を、絨毯を踏みしめながら歩く。
さきほど姫に案内してもらったときに確認したのだが、従業員が露天風呂などを使っていいのは深夜零時以降だそうだ。普段は姫たち従業員は『雪』の棟にある中浴場を使うのだという。
ロビーの置時計は十一時半を指している。入ってるとしても中浴場の方だろう。俺は肩にタオルをかけ、カラカラと軽快な音を立てる引き戸を開け、脱衣場に入る。かぽーん、と、妙にテンプレな音が聞こえた。実は俺、旅館というものに泊まった経験がないのだが、こういうBGMらしきものがあるというのは噂に聞いていた。ちょっとうきうきして、鼻歌まじりに服を脱ぐ。
横を見ると、鏡に映るボサボサ髪で目つきの悪い男に、なぜか死相を見たような気がした。
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「はあ……」
「なに溜め息ついてんですか、姫」
一方、風呂場。白く濁った温泉に浸る姫と葛葉は、そよそよと吹く風に耳を澄ましつつ、夜空を仰いでいた。満点の星空と月は、世界の狭間という異界に位置するこの宿からでもよく見える。むしろ、空気の汚れた外の世界よりもきれいに見えた。
「いや、だってさ。ダンナが可哀想で」
滑らかな白い肌を湯で磨きながら、姫は大きな瞳をゆっくりと閉じる。
「それは、たしかにそうですね。あの方は斎様から何も教わらずにこの宿に来てしまった。準備も出来ていないあの方にわたしたちは『開業』とまで言わせ、勝手に引きずりこんだ」
「有和良の家系の宿命だ、って言っちまえばそうなんだけどよぉ……そんなん、割り切れないぞ、フツー」
ざば、っと音を立てて湯から上がる姫。各所平坦な体型はとっかかりが少ないせいか、タオルも巻きつけづらいらしい。両手で胸元、というほど大きくない場所にタオルをおさえつつ、腰まで伸ばした赤き髪を手で梳く。
その横に葛葉も湯から上がる。こちらの体型はむしろとっかかりが多く、タオルを手でおさえる必要もない。身長も高い。姫はなんとなくそちらに目をやって、続けて自分の身体を見る。
「……ホント、割り切れねーよな、フツーに」
「な、なにがですか?」
「わかってて言うとそりゃ嫌味にしか聞こえないぞ、葛葉」
じとっとした目で葛葉を睨む。自分の各所に視線が突き刺さっているのを感じて、あ、これはつらい、と葛葉は思った。普段は宿の従業員も空気を読んで一人ずつ入浴するため、こうして一緒に湯につかり、体型をまじまじと見られることはないのだ。今日のところはお客もいないし露天風呂を使おう、などと提案した自分を顧みる。
「昔はわたしだって、姫みたいな体型でしたよ」
「そりゃいつのことだよ?」
「……十二歳くらいですか」
溜め息をついてもう一度湯に沈み込む。顔半分まで沈んでしまった十五歳の職場仲間を見つめて、これでも一応サバ読んだんだけど、と思う葛葉。本当のことを言えば、葛葉は十歳くらいで姫の現在の体型に近いものがあったのだ。
へんな間があって、二人とも幾度か深い呼吸をしたあとに。顔を水面からあげた姫はぽつりと呟いた。
「なあ。ダンナがいなくなったら、ここの宿も」
「間違いなく、おしまいでしょうね。だからこそ、わたしたちは勝手な自分たちの都合であの方をダンナに仕立て上げている。危険かつ見返りの少ない、この仕事を」
「とんだ疫病神だな、あたしら」
そう言って自嘲気味に姫は自嘲した笑みを見せた。それを見て、葛葉はむしろ強い目をしてみせた。
「ならば、その分わたしたちはサポートしましょう。あの方に続けてもらうためにも」
「自分の都合のためにか」
「……だとしてもです。わたしたちのような奴が生きていける場所は、ここをおいて他にないでしょう」
姫は、今度は笑わなかった。ただもう一度、鼻先まで湯につかって、しばらくして出てきた彼女は掃除する、といって男湯の方へ去っていった。清掃用ブラシを、向こうの方に置いてきていたらしい。
+
風呂は室内に一つ、露天風呂が一つのつくり。サウナは隅に定員十名くらいのがあった。
「やっぱり、まずは露天風呂だな」
身体をさっさと洗って、肌寒い外に出る。露天風呂は飛び石をしばらく歩いた先で、湯気を出しながら待っている。さっさと浸かって温まりたい。自然と足も速くなる。と、横から衝撃を感じてよろけた。
「ぅん?」
横を見ると、赤茶色の髪が跳ねているのが見える。
ぶつかった拍子に外れかけたタオルを、はっとなった様子で掴む。未成熟な肢体の、細い胴回り、湯につかっていたために上気したと思しき耳やうなじ、少しくぼんだ鎖骨の、下の方、が、瞬時に目に焼き付いてしまった。
ばきっと嫌な音を立てたが、俺は首を反対方向に向けて全速力で回した。
「……」
「…………」
「なあダンナ。……見えたか?」
「まさか」
横目でそちらを、見るんじゃなかった。頬染めてこちらを見上げられると弱る。意図しなくても上目遣いになる身長差が疎ましい。それに、俺はシラをきるのがすごく苦手だ。
「発展途上だな、とかは」
「思った」
あ、やっぱりしくじった。
「……なあダンナ。そこいると邪魔だ。ちょっとどいてくれやしないか」
べぎっと嫌な音を立てて、あばら骨に衝撃が来た。
+
結局のんびり湯に浸かることも出来ず、俺はそそくさと風呂からあがった。その後厨房に行って何か飲もうかと冷蔵庫を漁っていると、後ろから姫がやってきた。一瞬眉の角度が上がり、口がへの字に引き締まる。ただ、頬だけが赤く染まっていた。
女ってやつはズルイ。そういう顔をされただけで、こちらに非がなくとも謝らなくてはならない気にさせられる。
「すいませんでした」
「別に、いいけどよ。むしろ、ダンナにこそ、ダンナなのに、ごめん……」
寝巻きなのか、少し薄手の白い浴衣に着替えた姫。俺の後ろから手を伸ばし、大型の業務用冷蔵庫の端においてあった牛乳を取る。コップも使わず、そのまま口をパックにつけて飲み始めた。
俺も飲もうと思ってたんだけど。なんか飲みづらくなった。
「仕事」
「え?」
紙パックをダイニングテーブルに置いて、姫は呟く。
「あたしも葛葉も他の従業員も、仕事だけはきちんとやる。だから、ダンナを、やっててくれるか」
顔を背けてしまっているため、表情はわからない。ただ、声音がとても、真摯で。
「突然にこんな仕事をさせられて戸惑うだろうけど。色々大変なこともあんだけど。でも、他にあたしらは……頼れる人が、いないんだ。行ける場所が、ないんだ。ダンナがいなくなったらそこで、おしまいなんだ。だから、自分勝手なのもわかってるけど、お願いします。ここで、主人をやって、ください」
ただ、なんとなくだけど。小さな背中から必死さは、伝わってきた。
「……力不足だろうけど、最初は形だけだろうけど。俺もここ以外に住む場所ないからさ。やらせて、もらうよ。そこは心配しなくていい」
返答を聞いて、姫は振り返って顔を輝かせた。俺はあまりにも明るくなった彼女を見て、笑ってしまった。
「そっか。なら改めて、よろしくな」
「ああ」
こうして俺は、とうとう正式に宿屋の主人になった。
正直に言うと、本当は気乗りしなかった。どんなことをするのかもわからないし、さっき姫は危険とも言った。
でも。ただ一つ言えること。
姫は真剣に、俺以外には頼れない、俺に頼るしかない、と言った。
この程度で決断するなんて、安い構造の頭だと思う。でも、頼られたのだ。その事実が俺に仕事というものをやってみる気にさせた。父さんに出来て俺に出来ないこともない。
……それに。俺にも、この場所が必要なわけがある。ただ、それはまだ話さなくてもいいことで、というよりも、俺が話したくないことだ。
なんにせよ、ここが再出発。俺は気合いを入れ直し、今までの平常をここでの平常にしていこうと、そう思った。