57 湖畔の夜明け(前)
「ヘイ!ヘイッ!ルチア様!」
代官府から出てきたルチアの元へ、パーシーが息せき切って走って来る。
いつの間に誂えたのか、見事な礼装に身を包んでいるが、
純白であったろうそれは草と土埃にまみれて見る影も無い。
「どうしたんだ?」
「ボスが、ボスが大変なんっす!横取りで活躍で剣なんすっす!」
よほど慌てているのか、言っていることはまるで要領を得ない。
ともかく重大な変事があったことだけは必死で伝えようとする。
「なるほど、カイトが大変…か」
あの日以来、カイトはダスト以外の者には全く敬意を示そうとしなくなった。
領主であり、取り立ててくれた恩のあるメルメル子爵にすらその態度なのだからどうしようもない。
子爵にすら敬意を示そうとしなくなったカイトだが、どういうわけかルチアの言葉にだけは素直に従うようであった。
実力行使が不可能である以上、彼女に縋るより他にカイトを止める方法が無い。
「うん、いつものことだな」
「違うんす!そうではなくて…!」
だというのに、当のルチアはまるで危険を理解してくれない。
とはいえ彼女に責は無い。カイトの日頃の行いが悪すぎるせいだ。
「落ち着いてください。ほら、泥だらけじゃありませんか」
パーシーの前に屈んだユリーカが、頭についた草を払い、清潔な布で顔を拭ってくれる。
柔らかな感触と、ふわりと香る芳香が心地良い。
「ヘ、ヘイ…ありがたいっすっす!」
熱しやすいルチアの侍女を勤めるだけあってか、彼女は人の気を静めるのが上手い。
落ち着いてくると、何故慌てていたのか不思議に思えるほどだ。
「ッつ!」
すると今まで忘れていた、側頭部の痛みに気付く。
「コブができていますね、転んだのですか?」
そっと指を這わされただけでも、ズキリと痛む。
精霊大鷲に騎乗したところまでは憶えている。そこから落ちたことも。
だとすると、傷もその時にできたものと考えるのが自然だ。
頭を打ったせいか、記憶がひどく曖昧だった。
もっとおかしな事があった気がするがまるで思い出せない。
「ボスが大変な…うっ」
思い出そうとすると、ズキズキと頭が痛む。
重要な報告をせねばならないはずなのに、その肝心な情報が奪い去られている。
「ヘイ、ヘイッ…」
答えを求めて、喘ぐように必死に手を伸ばす。
今の彼はさながら 出口の見えない闇の中を彷徨う、迷宮に捕らわれた虜囚であった。
不意に、伸ばした手が暖かな感触に包まれる。
「ヘィ…?」
期待を込めて振り仰いだ先には目が覚めるような緋色の瞳。
そしてそこから注がれる気遣わしげな視線。
「なあパーシー、カイトはいつだって変だ。そうだろう?」
瞳の主は噛んで含めるように、ゆっくりと話しだす。
「…ヘイ」
頷いて答えると、あれほど彼を苦しめていた痛みが嘘のように消えて無くなる。
「あれの行いをいちいち気にしていたらな、キリが無いぞ」
それは今の彼に一番必要な言葉だった。
あれほど彼を苛んでいた苦悩が嘘のように霧散していく。
「特に今は非常時だ、上役だからといって無理に付き合う必要は無いんだ」
「ヘイ…ヘイ!」
迷宮が崩れ、目の前に光が差す。
真紅の瞳が曙光の如く、彼を明るく照らし出す。
今や目の前に御座す姫君は、彼を迷宮より救い出してくれた女神であった。
実のところルチアはごく当たり前のことしか言っていないのだが、
弱ったところに優しくされたことですっかり感じ入ってしまっていた。
「それよりも…皆に重要な相談があってな、集まるよう言ってある。キミも参加してくれ」
敬愛する姫君からの下知である。
従わぬ理由など有りはしない。
「ヘイ!マイレディ!」
姿勢を正し、霊廟へ向けるのと同じ最敬礼を取る。
それを見て護衛の騎士の幾人かがハッとした表情を見せるも、ルチアは気付いていなかった。
‡‡‡
「湖を抜けて脱出し、王都に救援を求めに行く」
ルチアは集まった一行に向けて概要を述べる。
ここにいるのはユイツから同行して来た者のみ。
誰も彼女の方針に異議を唱えはしない。
騎士達は既に具体的な方策に思いを廻らせている。
パーシーはやる気に満ちた様子で肩を震わせ、そんな彼にノーラが訝しげな視線を送る。
「一つよろしいですか?」
「うん、言ってみてくれ」
騎士の一人が手を挙げて発言を求める。
「何故わざわざ王都にまで?ユイツに戻った後に、ポストン伯へ伝令を送ればよろしいのでは」
彼の疑問はもっともだ。
本来であればそれで事足りるはずである。
「残念だが、今回の魔物に対しそれでは不足なんだ…」
城壁側に居るであろう雷を操る魔物、そして湖で目撃された“動く小島”。
これが予想以上に危険な存在であることが判明した。
ノッセラ砦を攻め落とした4体の魔物は、国軍の偵察により一部【鑑定】が成功している。
火を吐く蜥蜴の魔物、フレイムラプトル。
地中に潜む植物の魔物、ミステリーシード。
頑強な甲羅を備えた亀の魔物、ゴールドタートル。
そして首魁である雷を放つ鼠の魔物、エレキマウス。
これらが同族の魔物を率いて軍団を構成している。
湖に押し寄せた亀の魔物は、間違いなくゴールドタートルの配下だろう。
そして伝使雁を打ち落とした雷はエレキマウスのもの。
だとすると4体のうちの2体が街を取り囲んでいることになる。
未だに目立った攻撃を仕掛けてこないのは、おそらく残り2体の増援を待っているからだろう。
このままではノッセラを落とした軍勢が勢揃いすることになる。
砦ですらない、ハノンの街の城壁では容易に突破されてしまうだろう。
敵増援の到着がいつ頃かは不明だが、包囲から既に丸二日経っている。
非常に危うい状況といえる。
「今は一刻も早く王都に赴き、姉上を頼って…陛下に奏上申し上げる」
ルチアの姉ステラは王都の官僚貴族に嫁いでいる。
その伝手を頼れば王宮に口を利くことも可能なはずだ。
「なんと…」
「王に直接ですか」
俄かに話が大きくなったことで、その場に居る全員が色めき立つ。
「ヘイ!ヘイヘイッ!」
パーシーなどは興奮して騒ぎ立てている。
「静かに」
「ヘブッ!?」
そんな中、若手の騎士が遠慮がちに手を挙げた。
「あの方にご助力を請うてはいかがでしょう」
“あの方”とは、言うまでもなくダストのことだろう。
ユイツを有翼獅子の大群から救ってくれたように、
ハノンにも手を差し伸べてはくれぬだろうか。
おそらく皆一度はその考えに至ったのか、
自然とルチアに視線が集まり、反応を窺う。
「それは…できない」
だがルチアは僅かに表情を曇らせ、ぽつりと呟く。
「ダスト様はより大きな戦いに赴かれた。私は…その一助になればと思いユイツを発ったんだ」
それなのに、と続ける。
「勇者様の重荷になるなど私には…できない、したくはない」
いくつもの葛藤を飲み込んだであろう声は微かに震えている。
この先ダストが救う多くの命と、ハノンの住民を秤にかけた結果だ。
辛い決断であったに違いない。
それを酌んだ一行は、黙して礼をとることで彼女の決意を支持した。
ノーラだけが、そうかな?とごく小さく呟いたのみで、誰の耳にも届くことはなかった。