56 危機
ハノンの街が魔物の群れに包囲されてから三日目。
街を預かる代官は未だ有効な対策を打てずにいた。
「どうすればいい、どうすれば…」
彼は決して無能な人物ではなかったが、今の状況は明らかに彼の対処能力を超えていた。
ハノンは湖に突き出た半島に築かれているため、その三方は湖に囲まれている。
故に、魔物の侵攻は陸地に接した面からしか想定していない。
だが今はその四方全てを魔物の大群に囲まれ、身動きが取れずにいた。
助けを呼ぼうにも、陸側は元より、湖にまでも水棲の魔物が犇き、
街から出ようとする舟をたちまち水中に引きずり込んでしまう有様だ。
湖が駄目ならば空からと、守備隊秘蔵の騎鳥、伝使雁を伝令に出した。
ところが、飛び立ってから間もなく、城壁側の魔物から強力な雷が放たれた。
雷光を浴びた伝使雁は、騎手諸共火の玉になってあっけなく墜ちていった。
雷を使う魔物――
それが初めて確認されたのは昨年の冬、ノッセラ砦でのこと。
かの難攻不落の城塞を完膚なきまでに叩き潰した、4体の強大な魔物。
その首魁が雷を自在に操る大鼠であったと云われている。
状況は想像を遙かに上回る、最悪なものであった。
「代官殿、私共もこの場に居合わせた以上、助力は惜しみません。
是非とも街の防衛に加わらせて頂きたい」
鮮やかな真紅の装いに身を包んだ女性が、力強い言葉とともに剣の柄を軽く叩く。
「誠にありがたいことです…ですが」
目の前の若い女性、ルチアは隣領の子爵令嬢である。
幸か不幸か、包囲の前夜にこの街を訪れ、そのまま足止めされている。
娘を溺愛していることで有名なかの子爵のことだ、彼女の連れた護衛は選りすぐりの精鋭に違いあるまい。
申し出は実に有り難いが、今はそれより他にやって欲しいことがある。
「ルチア様にはなんとしても、ご無事に街を脱出していただきます」
彼とて街を任されるだけあって、一角の人物である。
ルチアと護衛達を街の守りに縛り付けておくことの愚かさは承知している。
義理を通して、というわけではない。
ルチアは今この街にいる最も優れた伝令だからだ。
彼女から知らせを受ければユイツはすぐに動いてくれるだろうし、子爵自ら指揮を執ることだって有り得る。
そうなればポストン伯爵とて、援軍を出さないわけにはいかない。
もしハノンを見捨てるようなことがあれば、その統治能力を疑われ所領を減じられる可能性もある。
そして動機はともかく、二領の軍が合すれば、この魔物の大群を退けられるやもしれない。
彼はそこに希望を見出していた。
さて、それをどうやってこのご令嬢に説明したものか…
しばし思案に暮れていると
「わかりました、段取りを考えてみましょう」
意外にも、彼女は静かに首肯すると落ち着いた動作で席を立つ。
その顔には深い理解の色と、強い決意が浮かんでいた。
それを呆けたように見ていた代官だが、すぐその原因に思い至る。
「(なるほど、例の探し人か…)」
彼女をこうまで変えた男とは、如何なる人物であるか。
珍しい黒髪の、そしてルチアに慕われるほどの、武勇に優れた人物とは。
「(いつか会ってみたいものだな)」
いつの間にか彼は戦いの後に思いを馳せていた。
先程までの押しつぶされそうな絶望感はもうどこにも無い。
伝え聞くだけで、心に無限の勇気を灯す存在。
それはまるで…
「…勇者様」
知らずに漏れた声は意図せずルチアの耳に届いていたらしい。
「ふふっ…」
返ってきたのは聖母のように清らかで美しい笑み。
一瞬目を奪われた代官は、少年のように高く胸を弾ませた。
◇◇
側に控えていたユリーカの胸中は、驚きと落胆ともどかしさが綯い交ぜになっていた。
「(どうして肝心な時にそれができないの!)」
ルチアを良く知る彼女ですら見惚れてしまう、透き通るような美しい笑顔。
もしこれを、ダストに見せることが出来ていたら…あるいはこの場に彼が居てくれたかもしれないのに。
たったいま無自覚に切られた切り札は、老齢の代官を蕩けさせたのみである。
「(これは…少し頑張らないとだめですね)」
既に側室に納まる気でいる彼女は、ルチアを焚き付けることに決めたようだ。
◇◇
「御守様、手綱をお持ちしました」
「ヘイ、サンクス」
神官補見習いの少女が持ってきた手綱を受け取り、
パーシーはそれを手早く精霊大鷲に装着する。
守備隊の伝使雁が墜とされた今、飛べる乗騎はこの精霊大鷲のみ。
四方を包囲されている以上、伝令を出すならやはり空からしか方法が無い。
「やはり…危険なのではありませんか?」
掛けられた声に、手を止めて振り返る。
自分と同年代であろう生真面目そうな少女は、不安げに彼を見つめている。
危険には違い無いだろう。
雷は空を行く者にとって最大の脅威だ。
いかに優れた乗騎とて例外ではない。
もし伝使雁と同時に飛び立っていれば、どちらかは無事に逃れられたかもしれない。
だが衛門府からの指示を優先し、身分を明かさなかったことでその機会は失われてしまった。
彼はそのことをひどく悔いていた。
今は出し惜しみをしていられる状況ではない。
雷雨の中でも飛行できる精霊大鷲なら、一度はあの雷にも耐えてくれるだろう。
そして、ぶ厚い陶製の器に仕舞われた書簡。
“本来の身分”で署名されたこれが届けば、この街は救われる。
「ヘイ!NP!必ず助けを呼んでくるっすっす」
半ば自分に言い聞かせるように、努めて明るく言ってみせる。
「はい、ご無事のお帰りをお待ちしております」
その言葉に少女の不安はあっさりと払われる。
この世界の人々、特に信心深い者が鎮護騎士に寄せる信任はそれほどまでに大きい。
彼らは今を生きる英雄と言っても過言ではない。
「では行ってくるっすっす!」
「ヒコーキ様のご加護を」
乗騎に飛び乗るパーシーへ向け、両手を合わせ、天空の主、竜の英雄の加護を願う。
旅立つ少年と見送る少女。初々しくも眩しい。
目にする者がいれば、誰もが口もとを緩めたことだろう。
だが生憎と、それを見ていたのは常人ではなかった。
「待てぇぇぇぇぃぃぃぃ!!!!」
「ヘイッ!?」
降ってきた男が、パーシーを強引に乗騎から引き摺り下ろす。
「コケッ!」
あまりの剣幕に、精霊大鷲までが慄く。
「ボス…」
その男、カイトが硬質な声で静かに口を開く。
「パーシー、行く気だな?」
「…ヘイ」
苛烈な視線からはまるで、巨像に射竦められたような威圧を感じる。
「ダメだ」
「ヘイ!ボス!しかし…!」
カイトが止めに来たと知って、食い下がろうとするパーシーを、その刃の腕で軽く制する。
「なるほど、精霊大鷲なら雷を抜けられるやもしれん」
「ヘイ」
「だがな、お前はどうなる?」
「……」
パーシーの服装をジロリと見遣る。
純白の法衣に白銀の具足、鎮護騎士の正装である。
これもまた“署名”であった。
精霊大鷲に乗った鎮護騎士の遺体、それを見て事の重大さを理解できぬ愚者など居ない。
知らせは王都にまで及び、国軍の出動を促せるだろう。
彼は自らの死をもって、危機を知らせる腹積もりだった。
「斯様な行いは勇者様の御心に反する」
厳しい叱責を予想していたパーシーだが、
カイトは刃になっていた手を戻し、ゆっくりと話し始める。
「我らはまだ何一つご奉公できていないではないか」
一言一言、薫陶を与えるように言葉を紡ぐ。
そこにはまるで、息子の身を案じる父親のような、ごく自然な優しさが含まれていた。
「その命、ダスト様に捧ぐ時まで大事にとっておくがいい」
「ヘ、ヘイッ…ヘイッ…」
嗚咽を漏らすパーシーは自らの浅慮を恥じ、そして深く感謝した。
今や目の前の男は、世界で二番目に敬うべき偉大な人物であった。
「それにな…」
「ヘイ」
尚も言葉を続けるカイトへ顔を向ける。
「せいっ!」
「ヘベッ!?」
しかし飛んできたのは鋼の拳。
カイトはいきなり振り返ってパーシーを殴りつけた。
「御守様?!」
完全に油断していたところへ一撃受けたパーシーは、泡を吹いて昏倒する。
突然の凶行に及んだカイトに、先程までの穏やかな雰囲気はどこにもない。
全身から凶刃のような禍々しい気を放っている。
「この勇者の剣が晴れ舞台!誰にも邪魔などさせぇぇぇぇい!」
なんとこの男、この状況にありながら、獲物を横取りされることを危惧していたのだ。
凄まじい執念、恐ろしいほどの身勝手さ。
今や目の前の男は、世界で一番危険な存在であった。
「待っていろ魔物共!せいうおぉぉー!!」
咆哮を上げて駆け出す怪物を、少女と鳥が呆然と見送った。