55 予兆
ルチア達はユイツの東隣にあるハノンの街に来ていた。
ハノンは湖の畔に佇む街で、内陸に位置するこの一帯にとって貴重な水産物の供給地である。
また三方を湖に囲まれた天然の要害で古くから都市が築かれ、千年前に勇者もこの街を訪れている。
「ようこそおいでくださいましたルチア様」
「お持て成し感謝いたします」
一行はこの街を治める代官に招かれ歓待を受けていた。
ハノンはポストン伯爵領に属しているが、伯爵自身は更に東にあるリンの街に居を構えており、この街には最低限の守備兵しか駐留していない。
リンまでは騎馬でも3日はかかるため、有事の際は最も近いユイツが頼りだ。
故に代官はルチアの来訪を心から喜んだ。
「ノッセラ砦が落ちてからというもの、北から流れてくる魔物が増えました」
「やはりこちらもそうですか…」
今のところ街に目立った被害は無いものの、既に交易に悪影響が出始めている。
これに対処すべく話し合うためメルメル子爵家からの使者としてのルチアの来訪なのだろう。
代官はそう期待していた。
「この街にダスト様が来られなかっただろうか?」
しかし予想に反してルチアの口から出たのは、まるで記憶に無い人物の名であった。
「はて…失礼ですがダスト様とは何方でしたでしょう」
子爵家の縁者を記憶していないのは甚だ都合が悪いのだが、
それを曖昧にせず、恥を忍んでも確認を取る分別を彼は持ち合わせていた。
何分この街を預かって久しい。
ルチアと会うのも一度や二度ではなく、彼女の真っ直ぐな気性は良く理解しているつもりだ。
下手に誤魔化そうとすれば機嫌を損ねることくらいは想像がつく。
「この世で最も尊い、素晴らしい御方だ」
理解しているつもりだった。
だが今のルチアの様子はどうしたことだろう。
彼女のこんな弛緩した表情を見るのは初めてだ。
「は、はぁ…その…」
救いを求めて側らに控える侍女へ視線を送る。
侍女、ユリーカと会うのもこれが初めてではない。
彼の困惑を察してくれたようで、コクリと小さく頷く。
「あの御方…ダスト様が纏う雰囲気は例えようもなく神秘的で、吸い込まれるような漆黒の髪に、満天の星空にも勝る煌くご晴眼。そしてその涼やかな御心を表す落ち着いた佇まいの素敵な男性にございます」
「な、なるほど…」
多分に彼女の主観が混じっているようだが、辛うじて特徴は読み取れた。
特に混じり気の無い真っ黒な髪は珍しいので、門を通っていればすぐに分かるだろう。
「後ほど衛兵に確認しておきましょう」
「よろしくお頼みします。一度でもお目にかかれば決して忘れることは無いはずですので」
左様で、と軽く相槌を打つ。
どう見ても主従共に同じ人物に想いを寄せている。
これ以上の追求はやぶ蛇になることに気付いた賢明な彼であった。
◆◆
一行に宛がわれたのは街でも一二を争う高級宿だった。
「このテーブル、青花梨の一枚板だ…」
広い食堂に鎮座するこれまた巨大なテーブルに、ノーラはそっと手を触れる。
間違っても破損させてはいけない。その気になれば粉々に砕くこともできてしまうのだから。
「お~い、ノーラちゃん。こっちこっち!」
ルチアの護衛として同行して来た騎士達が既にテーブルに着き、手招きをしている。
「あ、はーい!」
気後れしていたところをこうして気遣ってもらえるのはありがたい。
「いや~しかし、すごい宿だね」
「じ、自分、このような場所での作法は教わっておりません!」
「落ち着け、普通にしていれば大丈夫だ」
彼女を迎えたのは三人の騎士。
飄々として物怖じしないシーメン、若く生真面目なビート、そして年嵩で経験豊富なまとめ役のエインス。
意外にもノーラはユリーカが居ない時などは彼らと過ごす事が多い。
もちろん彼女は今まで正規の騎士と接する機会など滅多に無かったため、最初は緊張していた。
それでもこうして一緒に食事する程には打ち解けられたのは、とにかく彼らがまともだからだ。
当初は歳の近い少年も同行すると聞いて、気負わず接することのできる相手がいることを喜んだ。
しかし実際に会った彼、パーシーとは悪い意味で面識があった。
◆
「(ダストさんが運ばれて来たとき一緒にいた人だ…!)」
一人だけユイツの街を出た後に合流した彼だが、その顔を見てすぐにピンときた。
脳筋エルフの言葉の衝撃にダストが倒れた際、その場に居たパーシーも宿まで付き添っていた。
ノーラとはその時に顔を会わせている。
「(あの時は本当に大変だったな。「主様が死んでしまいます!」ってハルさん可哀相なくらい狼狽えちゃって…)」
思えばあの時からかもしれない、彼女を応援すると決めたのは。
「(ずっと寝ないで看病してたもんね)」
ダストに憧れ以上の感情を抱いていたノーラだが、ハルの想いの深さに触れてすっかり絆されてしまった。
未練が無いといえば嘘になるが、それでも初めてできた友と呼べる者のために頑張ると固く心に決めた。
そうして一念発起旅立ったまでは良いが、ルチアの真摯な想いを知るにつれ、
困ったことにハルに対するのと同様の感情を抱くようになってしまった。
そんなただでさえ難しい問題に加えて、ダスト昏倒の原因となった変人が同行しているのだから堪らない。
実際は脳筋エルフの行き過ぎた妄想とダストの心の弱さのせいなのだが、
そんなことを知る由も無いノーラにとって、パーシーはどうにも快く思えぬ相手であった。
更にそれに輪を掛けて酷いのが彼の上役のカイトだ。
こちらはもう人間であるのかさえ疑わしい。
そんな厄介な二人組の対処に日々悩み、
「(めんどくさいな…いっそぶっ飛ばしちゃえれば楽なんだけど)」
時には過激な発想に至ることもあった。
◆
ノーラの懊悩も知らず、カイトとパーシーは今も二人して寸劇に狂じ…興じている。
食堂の正面に設えられたステージに登り、四つんばいになって何やらガウガウと唸る。
どうやら今日の題目は勇者の有翼獅子退治らしい。
奇妙なことに二人とも有翼獅子の役で、勇者の一撃を受け地に堕ちる様をこれでもかと言うほど惨めで無様に演じている。
事情を知らない他の客から見れば中々見ごたえのある喜劇に映るようで、意外にも受けは良い。
高級宿に似つかわしくない喝采と笑い声につられて、部屋から降りてくる客もいるようだ。
上品な婦人が人目も憚らず笑う姿が妙に印象的だった。
その一方で、賓客と珍客を迎えて俄かに活気付いた街へ、夜陰に乗じて忍び寄る影があった。
日暮れまで網を仕掛けていた漁師の幾人かがそれを視止めたが、“動く小島”の目撃情報は酒場の話題に上ったのみで、その日は代官の元にまで届くことは無かった。
★★★
夜の草原は虫達の世界。
様々な種類の虫達による大合唱が夜毎繰り返される。
そのことをすっかり忘れていた俺は眠れぬ夜を過ごしていた。
リィリィリィリィリィリィ
スィッチョンスィッチョン
コロコロコロコロコロコロ
チリチリチリチリチリチリ
ドキドキドキドキドキひぃ
虫の鳴き声はまだいいとして、問題は小さい羽虫だ。
一応、対策にとキツネ村を出るときに蚊帳のような物は貰っていた。
草の繊維を細かく編んだ網だ。
本来は支柱を立てて使うものだが、今は生憎とその支柱棒が折れてしまっている。
恐らくは悪辣なイケ高の仕業だろう。
俺が荷物の上に座っていたこととは無関係のはず。
なので今はその麻袋みたいな肌触り最悪の網を毛布のように被っている。
当然寝心地は良くない。
そして俺を更に眠れなくしているのが、目の前にある肌触り最高のさらふわ金毛だ。
少しでも網に接する面を減らそうと、ハルと密着して横になったのがまずかった。
「……」
意識しまいとするほど、逆に伝わってくる感触を鋭敏に捉えてしまう。
網が堅い分、女体の柔らかさが強調されて、俺も硬くなるという謎の現象を引き起こす。
「…ひぃ」
ハルもまだ眠れてないな。
あっちはかたいものに囲まれているわけだから俺よりも条件は悪いはずだ。
かわいそうに。
でも「やっぱり離れて寝よう」なんて言ったらまた気にするだろうな。
最悪、嫌われたと思い込んで朝には居なくなってるまである。
あまり俺の言葉を重く受けとめすぎるのも困りものだ。
どうしたもんか…羊算式睡眠導入法でもやってみるか。
要は羊の数を数えるだけなんだけどね。
羊がいっぴき…「モコモコ丸は最高ですよね!」クソッ!雑念が混じった。
思わず身じろぎすると、背後でビクリと動く気配がする。
いかんな…余計なことを考えるな。
無だ、無になるんだ。
よし、俺は無だ、無職だ。いや違う、違わない。俺は無…俺は……?
◇◇◇
「おはようございます、主様」
眠たげな目をした女性が丁寧な挨拶を向けてくれる。
ふんわりした金色の髪が朝日を浴びてキラキラ輝いている。
な…なんでこんな綺麗な人と朝チュンしてるんだ俺?
昨夜何があったんだろう。
わからない…何もわからない。
とりあえず、気を悪くされないように挨拶を返しておこう。
できればお近づきになりたいし。
「あ…はい、はじめまして五味です」
「えっ」
彼女の驚いた表情もまた魅力的で、見ていると頭がくらくらする。眩暈がする。眠い…
……あー、そうだ。
昨夜は結局一睡もできなかったんだ。
できれば今日はお休みにしたいところだけど、このままじゃまた今夜も野宿になる。
さすがにもう勘弁してほしい。
「今日中に次の街まで行きたいところだな」
「はい、はい、がんばります。では朝ご飯の支度をしますね」
彼女も眠いだろうに、気丈に頑張ってくれる姿を見ていると…
ってこれはもういいか。
ハルもゆっくり休ませてやらないとだし、ぐずぐずしていられないな。