52 それぞれの旅立ち
夜――
ハルが寝入ったのを見計らい、そっと天幕を抜け出す。
今夜はいつもより夜警の数が多いのか、
真っ暗な草原をいくつもの松明の火がゆっくりと行き来している。
小さな灯りに照らされた天幕の群れは、まるで大海原に漂流する小船のように儚く頼りない。
ゆらゆら揺れる炎を眺めていると現実感が薄れていく。
もしかしたら俺は夢を見ているんじゃないだろうか?
「(…それも悪くないかもしれない)」
目が覚めたら天幕の中か、あるいはユイツの街の宿か。
それともあちらの世界の自室だろうか。
ふわふわした気持ちのまま少し離れた丘に登る。
夜の冷たい空気をいっぱいに吸い込むと、ぼんやりした頭が僅かに冴える。
「(夢じゃないんだよな…)」
改めて思うとここが異世界だなんて俄かには信じがたいことだ。
しかし決して夢などではない。
五感は確かにこの世界を感じている。
視覚は揺れ動く灯を、聴覚は草原を渡る風の音を。
嗅覚は乾いた草の匂いを、触覚はシンと冷えた夜の空気を。
そして味覚はせり上がってくる苦味を……うっ!
「おげぇっ」
吐いた。
夢じゃなかった。
カニじゃなかった。
「虫…!しかも魔物って…?!」
夕食後のことだ。
俺は残り滞在期間を逆算しようと、こっそりキツネさんの食糧庫を覗き込んだ。
それがいけなかった。
うず高く積まれた草の包み。
その傍らに転がる角の付いた頭部。
串焼き肉の正体を知ってしまったのだ。
ついでにキツネさん達の厳しい食糧事情も判明した。
今さら羊肉に戻してくれとはとても言えない。
となると、もうここに俺の食べられる物は無い。
「(潮時か…)」
「グワ」
ぼけっと考え事をしていると荷トカゲがぬっと現れ、
俺の吐き出した夢の欠片に草を被せていく。
今は湯気を立てるこれも明日には乾いた土になっていることだろう。
土は草を育み虫の餌となって、それを俺が食べ…
「オゲェ」
ふぅ…
万物はこうして廻ってゆく。
お前は最初から全部知っていたんだな?
「グワ?」
知るわけねえか。
よし!明日ここを発とう。
「グワッ!」
ザスッ ザスッ
俺の決意を後押しするように足を踏み鳴らす。
キミはどうしてそんなにやる気に溢れてるの?
□□□
ユイツの街は喧騒の只中にあった。
子爵邸から北門へ続く通りの沿道は大勢の人で埋め尽くされ、絶え間なく歓声が上がる。
通りを行く騎馬と馬車の一行。
真紅の装いに身を包んだルチアを中心に騎乗した騎士達が固め、二台の堅牢な馬車がそれに続く。
まるで物語の一場面のような情景に、人々の熱狂は一層高まる。
有翼獅子の襲撃で、一時は街の放棄さえ考えられたとは到底思えない光景だ。
千年ぶりに現れた勇者は、その名に違わぬ偉大な人物であった。
有翼獅子の大群を羽虫の如く叩き潰す圧倒的な力。
そして犠牲者に手向けられた底知れぬ慈しみ。
今この世界に勇者がいる。
その事実だけで無限の勇気が湧いてくる。
あるいはいま目の前を行くルチア達こそ未来の英雄かもしれない。
そう思うと尚のこと歓声に力が入る。
後尾の馬車にふと目を遣ると、濃紺の髪をした小柄な少女が慣れない鎧に戸惑いながらも懸命に後に続いていた。
しかし良く見れば彼女もまた只者ではないことが窺える。
何しろ身の丈を超える戦斧を苦も無く担いでいるのだから。
籠手の間から覗く腕はか細く、鍛えているようには見えない。
ならば【特性】の加護を授かっているに違いない。
なるほど、彼女もまた英雄足る資質を備えているというわけだ。
その姿を目にした者は誰しも少女の無事を祈らずにはいられなかった。
中には武運を祈念してか、怪力無双で知られる英雄ゴリラの名を繰り返し呟く者もいる。
勇者を援けるべく旅立つ彼女達を人々は万感の思いで見送った。
□□
――それより少し前。
子爵邸では領主親子が言葉を交わしていた。
「本当に行くのか」
「はい、私はダスト様の下へ参ります」
「お前が行く必要は無いんじゃないのか?」
「何時如何なる時も彼を支え、尽くしたいと思います」
「ちょっと待て、何の話だ」
「今までありがとうございました、父上もどうかご自愛ください」
「おいルチア、待ちなさい!おい!」
「ルチアは幸せになります」
明らかに娘を引き留めたいメルメル子爵マリオと、
もうダスト以外の全てが頭から飛び去っているルチアである。
不毛な問答はかれこれ半時ほど続いている。
「(こうなればやむを得まい…)」
まともな説得が不可能と判じたマリオは、別の方面から切り込んだ。
「お前までいなくなったら領民は不安に思うだろうな」
「そ、それはっ…」
ここへきて初めてルチアが動揺を見せた。
なにぶん魔物の跋扈する世界のことである。
領主といえどいつ命を落としてもおかしくはない。
先だっての有翼獅子襲撃がよい例だ。
「私にもしものことがあった時、すぐさま代わりを務める者がいなければ…」
領内は混乱し、民にも犠牲が出ることだろう。
「…うっ」
口を噤んだルチアを見て、マリオは説得の成功を確信した。
ところがそこへ、意外な人物が割って入った。
「それなら心配いりません」
勝手知ったる様子で執務室へ踏み込んできたのは、20代中頃の温厚そうな男だった。
「兄上?!」
「リベリオ!」
その姿を認めて、親子が同時に声を上げる。
彼はルチアの兄、子爵家の長男リベリオである。
「王都にご留学中のはずでは?」
「うん、それならとっくに辞めてきた。それよりお聞きください父上、我が領の発展にはモコモコ丸のブランド化こそが肝要なのです!」
「…待て、お前はいったい何を言っている。辞めた?モコモコ丸?それよりいつ戻ってきたんだ」
あまりのことにマリオは一瞬で激発寸前まで昇り詰めた。
「戻ったのは一月ほど前です。こちらの草に馴染ませる必要がありましたので。
なにぶん王都育ちの箱入り娘ですので苦労しました。その分血統も優れているわけですが…」
だが続く息子の言葉に怒りも忘れて唖然とした。
「娘…?まさか嫁を連れ帰ったのか!?相手はどこの家だ、爵位は?官職は?」
「嫁ではありません、モコモコ丸です」
対するリベリオは何でもない風に平然と言い放つ。
「だからそのモコモコ丸とは何なのだ!」
更に問い詰めようと、リベリオの肩を掴むも――
「ぬあっ?!」
「モコモコ丸の毛を刈る時はこのような姿勢で押さえ込むと暴れにくいんですよ」
するりと後ろに回り込まれ、尻餅をつくような恰好で座らされた。
「毛を刈る…?そうか、モコモコ丸とは羊だな」
「モコモコ丸です」
傍から見ればまったく意味不明なやり取りだが、ルチアは兄の見事な身のこなしに目を輝かせた。
「さすがです兄上!」
「うん、後のことは僕に任せて君も己が心のまま進むといい」
「ありがとうございます!」
「こら!勝手に話を進めるな!」
今にも退出しようとするルチアを引き留めるべく手を伸ばすも、
意外にもリベリオの力は強く、振り解くことができない。
「身体に気を付けて、末永く勇者様にお仕えするんだよ」
「はい!ルチアは幸せになります!」
「ああっ!ルチア…」
そうこうしているうちに、愛しい娘は父の手から離れて行ってしまった。
「ぐぬぅ!リベリオ!貴様ーっ!」
ついに激昂し、邪魔立てした息子に掴みかかるも――
「ぎゃあっ!?」
「雄のモコモコ丸は去勢することで肉質が良くなるんですよ」
逆に息子を掴まれた。
「わ、わかったから離せっ!モコモコ丸か?お前の好きにしていい!」
「ルチアの事もですよ。あの子の決意を認め、可能な限り援助を与えると誓ってください」
それは父でさえ一度も聞いたことの無い、真剣な声音であった。
「…何故だ、どうしてそこまで肩入れする」
「兄とはそういうものなのですよ」
リベリオ‡メルメル――養羊の第一人者にして稀代の変人。
数々の良策、奇策を打ち立てた子爵家中興の祖である。
だがこの時ばかりは妹の幸せを願う一人の兄であったという。
□□
街の一画ではもう一組の親子が別れを惜しんでいた。
「それじゃ行ってくるね…」
父を一人残していく罪悪感に娘は自然と沈んだ表情になる。
「ノーラ」
「うん?」
「せっかく授かった力だ、存分に振るってこい」
「お父さん…!ありがとう!」
だがこちらの父親は、娘の旅立ちを力強く後押しする姿勢だ。
纏められた荷物の中には磨き込まれた野外調理具一式が顔を覗かせている。
娘のさらなる成長を願う意思の現れだろう。
「それとな、王都へ着いたらこの手紙を持って一番大きな神殿へ行け」
意外にも立派な封のされた手紙を手渡す。
「何が書いてあるの?」
「…大事なことだ。失くすんじゃないぞ」
「うん、わかった」
◇◇
子爵邸の中庭から金属がぶつかり合う音が響いてくる。
「せぇぇぇぃ!」
「ヘイ!ヘイッ!」
例によって打ち合っているのはカイトとパーシーだ。
だがその得物はいつぞやの丸めた紙と木製トレイではない。
「せりゃっ!」
四肢を刃に変じたカイトが変幻自在の攻撃を仕掛ける。
その動きは既に人間の域を超えて訳の分からないことになっている。
「ヘイッ!ヘイヘイ!」
対するパーシーは複数の短槍を使いこなし鋭い突きを繰り返す。
人間離れしたカイトを相手に、その速さをもって互角以上に渡り合う。
「これは…」
その様子を呆然と眺めるロレンスは必死に頭を働かせ理解を試みた。
が――裏方とはいえ、腕に憶えの有る彼でさえこの攻防の全てを見通せていない。
カイトの型を無視した変則的な動きのせいもあるが、何より速すぎて追い切れないのだ。
洗練さには程遠いが、伝わってくる気迫はかつて観た王国騎士の御前試合にさえ勝るように思える。
単なる商人のカイトとその補佐のパーシーに何故斯様な芸当ができるのか。
「本当に…一体何があったというのだ」
彼らの奇行が始まったのは隊商より帰還してからのこと。
そして一昨日の有翼獅子の襲撃。
共通するのは何れもダストに救われたという点だった。
「ヘーイッ!」
勝負に出たパーシーが7本もの槍を次々と繰り出す。
「せっ!りゃ!」
迎え撃つカイトは4つの刃を縦横に振るいその尽くを叩き落とす。
「ヘイ!」
全身を鋼の如く変質させたカイトの数少ない急所、間接を狙って槍が殺到する。
「せいっ!せぇい!」
迫りくる槍を5本、6本と捌き切ったが、遂に最後の一本がカイトの喉元を捉える。
ところが彼は避けるどころか逆に前進し、顔面で受け止める形へ持ち込む。
狂ったとしか思えない愚行。
「危ない!」
思わず声を上げたロレンスは、次の瞬間目を疑うことになる。
「しぇぇぇぃ!」
ガキィン
なんとカイトは槍を歯で受け止め、更にそのまま噛み砕いてみせた。
「!?」
化け物――
不吉な言葉が脳裏を過る。
こんなモノをルチアに同行させていいものか。
もしカイトが狂乱したら誰が止められるというのだろう。
その答えは存外近くにあった。
「ヘイ、チェック」
パーシーが“8本目”の槍をカイトの眼孔にピタリと突き付ける。
何のことはない、弾かれた槍のうち一本を回収していたのだ。
だがよくよく見れば無造作に落とされたはずの槍はその実、全て彼の手の届く範囲にあった。
先の先まで読み切った卓越した戦闘センス。
「おおっ!見事!」
刃を戻したカイトが手を叩いて称賛する。
部下に敗北したにも関わらず、何の拘りも無い純粋な賛辞。
「腕を上げたな」
「ヘイ!サンクス!」
腕を上げたなどという次元の話ではない。
パーシーが見せた予想外の強さはあまりに鮮烈だった。
「(彼ならばあるいは…)」
そこでふと、ここへ来た当初の目的を思い出す。
「あ、あー…一区切りついたかな?」
勤めを果たすべく、恐る恐る声をかける。
「おやロレンス殿、いらしていたのですか」
鐘を打ったように妙な響きを持ったカイトの声。
それ以外は至極まともな受け答え。
そこが逆に不安を煽る。
「う、うむ…随分前からな。ところでパーシー君」
「ヘイ?」
「君にお客様が見えている」
◇
屋敷の裏門で待っていたのはこの街の神殿を管掌する神官長だった。
背後に男女二人の神官補を伴い、そのうち男性の方が牽いているのは――
「コケコッコー!」
鮮やかな毛色をした巨鳥だった。
「おおっ?!精霊大鷲ではないか!」
当然の如く付いて来たカイトが感嘆の声を上げる。
人を背に乗せ飛行する巨鳥。
乗りこなすのが難しい代わりに、飛行速度は人が騎乗する生物において最も優れている。
中でもこの精霊大鷲は最速を誇り、強靭な翼で雷雨をものともせず飛翔する。
極めて優れた乗騎だが個体数は少なく、大国でも数羽しか保有できない希少な存在。
それがなぜここにいるのか。
「お預かりしておりました精霊大鷲を連れて参りました」
神官長が恭しく頭を垂れる。
「お手数掛けてすまないっす、感謝いたしますっす」
しかし相手がパーシーなのはどうしたことか。
「滅相もございません。御守様のお役に立てたこと、我が神殿の誇りにございます」
御守とは勇者の霊廟を守護する鎮護騎士に対する尊称である。
鎮護騎士といえばその高い精神性と刃の如く研ぎ澄まされた練度から、世界最高峰の精兵と名高い。
「パーシー…君は、いや貴方はもしや鎮護騎士様なのですか?」
基本的に霊廟から離れることの無い鎮護騎士がこのような辺境を訪れているとはにわかに信じ難い。
だが事実だとすればカイトに打ち勝ってみせたあの腕前も納得できる。
「…そうっすね、自分はこういう者っすっす」
そう言って懐から緑色の記章板を取り出す。
それを見て神官補達がほぅ…と感嘆の吐息を漏らす。
記章板はこの世界で最も格の高い身分証だ。
その起源は、勇者が英雄オマワリサンに与えた黒堅星印記章板とされている。
パーシーが持つのは翠糸穂印記章板、まさしく鎮護騎士の証である。
記された名は“パーシヴァル・リグルディア”
史上最年少にして最強と名高い、正真正銘の鎮護騎士。
それが何故商会の雑用などしていたのだろう。
「あの、パーシヴァル…さま」
すっかり恐縮してしまったロレンスだが、子爵家に仕える者として領内の異変を見過ごすことはできない。
彼がここにいる理由を問い質す必要がある。
「今までどおりパーシーで結構っす」
「しかし鎮護騎士様に対してそれでは示しが…」
「自分はダスト様にパーシーと名乗りました、これを変えることは勇者様を欺くも同然。
決して許されることではありません」
「あっ、あ…はい、そうですね。仰る通りかと…」
急に口調を改めてきたので面食らってしまう。
カイトと共に奇行に及んでいた時の面影は微塵も感じられない。
だが彼が強い意志を込めてダストの名を口にしたことで察しがついた。
この鎮護騎士は“新たな勇者”を探しに来たのだろう。
月の動きから予測された魔王の復活。
世界を絶望に叩き落とすはずのそれは、同時に勇者の再臨も意味するのではないか。
鎮護騎士を統括する衛門府はそう考え、最精鋭たる彼を送り込んだに違いない。
そして予想は的中し、見事に勇者を探し当てた。
「(これは大変なことになったぞ…)」
どうも事態は想像を超えて大きく動いているらしい。
この件は子爵にも報告し、慎重に協議せねばならない。
今後はダストとそれに関わる者へ一層の配慮が必要となる。
だというのに…
「すごいじゃないかパーシー!こんなものを持っているなら先行して偵察に行って来い」
それが理解できない男が一人。
「なっ…!」
あまりの態度に神官長達が絶句する。
鎮護騎士の権威は場合によっては上級貴族にも匹敵する。
一介の商人が軽々しく命を発して良い相手では無い。
「あなた!パーシヴァル様を鎮護騎士と知りながらその態度は何?無礼でしょう!」
堪らず女性神官補が声を荒げる。
「わはは!剣が敬うは強者のみ!パーシーはもう少し思い切りが足りないな!」
「な…!な、なんてことを!」
しかしカイトはまるで意に介さず、それどころか最強の鎮護騎士を未熟とまで言う。
ロレンスは頭を抱えて蹲りたくなる。
本来ならカイトを戒めねばならぬのだが、この男は下手に刺激すると危険である。
そのことを何とか神官達に理解してもらいたいが、どう説明したら良いかまるで検討がつかない。
「ヘイ!ボス!グッドアドバイス!」
だから当人から肯定の言葉があったことは幸いだった。
少なくともパーシヴァルはカイトの態度を不快に感じていないようだ。
「そんな…!パーシヴァル様!」
尚も食い下がろうとする女性神官補へ諭すように言い含める。
「勇者様の前では身分も肩書きも意味を成さないっす。
いかにお役に立てるかが重要なのですっす」
「あ、あ…ぁ」
「仰せの通りに」
言葉に詰まった彼女の代わりに神官長が瞑目し返答を引き継ぐ。
「よし!行けパーシー!」
話は終わったとばかりに、カイトが腕を掲げてパーシーを促す。
「ヘイ!ボス!」
パーシーは手早く精霊大鷲に騎乗し、グイと手綱を引く。
「コケーッ!」
巨鳥は大きく一声鳴くと、力強く羽ばたいて舞い上がる。
巻き起こる旋風に堪らず目を閉じ、再び見開いた時には既に大鷲の姿は小さくなっていた。
◆◆◆
夜になっても興奮冷めやらぬ街では、あちこちで宴が開かれていた。
「行っちまったなールチア様」
「ほんと素敵だったわー」
「英雄の門出に相応しい立派なもんじゃった」
昼間の情景を思い起こし、それぞれが強く印象に残った事柄を口にする。
「ゴリラ様…ゴリラ様…どうかあの娘をお守りください」
「英雄ゴリラか、たしかにあの子は【特性】持ちだろうな」
中には戦斧を担いだ少女の話も挙がった。
「新しい勇者様かぁ…他にどんな英雄が集まるのかしらね」
しかし一番多かったのは今後勇者の下に集う英雄の話題である。
「Aランクパーティーの“疾風のバッタ団”はどうだろう。この近くに来てたはずだよな?」
「あの人達ならオークに負けて逃げ帰ったわよ」
「えっ?なにそれ、どこ情報?」
「わた…ギルドマスターからね、確かよ」
「そっか…兄貴の友達の弟の親戚の知り合いがメンバーなんだけど…残念だな」
「ねえねえ、怪人“首狩りセーリャ”って知ってる?あれもかなり強いんじゃない?」
「有翼獅子の首を片っ端から切り落としたっていうアレか。そんなもの本当にいるはずないだろ」
「どうせなら俺も行きたかったぜ」
「ぎゃはは!お前じゃ無理だって!ただルチア様に付いて行きたいだけだろ」
「俺はあの侍女さんが好みだな」
「いいわよねー、私もあんな彼女欲しいなー」
「あんた女だろ…」
そんな喧騒から取り残されるようにひっそりと明かりの灯る宿があった。
そこでは亭主が一人、咽びながら酒を呷っていた。
「う、ひっく…ノーラ…無事に帰ってきてくれよぉ…」
ノーラの父である。
娘の前では気丈に振舞ってみせたが、内心はひどく寂寥を感じていたのだ。
こんな状態で仕事ができるはずもなく、今日は宿の看板を下げていた。
その訪れる者の無いはずの宿の扉がガラッと開かれた。
「今日はもう仕舞いだよ、泊まるなら他所へ行ってくれ…」
無粋な来訪者を追い返そうとするも…
「生憎と客ではない」
入って来たのは赤い髭を生やした身なりの良い男だった。
「は?じゃあ何をしに……!!!?」
それが誰かわからぬほどには酔っていなかった。
飛び上がるほど驚き、慌てて床に跪く。
「ご、ご領主様!とんだご無礼を…!」
「かまわん、領主として来たわけでもない」
誰であろう、メルメル子爵マリオその人である。
本来であれば直接口をきくことも憚られる相手だ。
「では…何故この様な所へ?」
しかし状況のあまりの不自然さについ疑問が口をついて出てしまう。
子爵もまたそれを咎めようとはせず、年来の友人に対するかのように気軽に答える。
「傷を舐め合いに来たに決まっている」
実に堂々と情けないことを言い放ち、片手に持った酒瓶を掲げてみせた。
「小さい頃はよく『お父さんのお嫁さんになる』なんて言ってたもんです」
「うちもそうだった…でもすぐに相手は長男に変わって…その後はずっと勇者、勇者と…」
互いに娘の思い出を語り合い、ひっそりと夜は更けてゆく。
メルメル子爵マリオと宿屋のルイス、二人の一風変わった友誼は終生続いたという。




