38 真なる
「魔物が襲ってきているようだ」
「そのようですね」
身支度を整えるルチアの介添えをしながら、ユリーカの胸中には一抹の不安があった。
「チャンスだとは思わないか?」
「……何がでしょう」
胸当てを着け、帯剣した段になればもう間違いようがない。
「ふふふっ…」
「(あぁ、やっぱりだ)」
ここで見事魔物を撃退してみせればダストに認めてもらえる。
大方そんな目論見だろう。
だが今はルチアの父が――子爵がいるのだ。
そんな勝手が許されるはずもない。
その考えは甘かった。
「待て!ルチア!行ってはいかん!」
父の制止などまるで耳に届いていないかのように、まっしぐらに飛び出してしまう。
止めなければならないのだが、咄嗟のことに誰も行動に移せない。
だがユリーカは別の理由から動けずにいた。
駆け抜けたルチアの横顔が息を呑むほど美しかったからだ。
あんな顔を見るのはいつ以来だろう。
まだ彼女が幼い頃、純粋に勇者に憧れていた時以来ではないか。
いつの頃からか、自身の夢が決して叶わぬことを悟り、見せなくなった表情だ。
「(ルチア様…それほどまでに)」
きっと長い間やり場の無い情熱を持て余し燻らせていたのだろう。
それが今は、鬱積した陰を吹き飛ばすかの如く燃え上がっている。
真紅の髪がまるで炎のように闇夜に映えた。
その様を「綺麗だな」と思いつつ見送ってしまったのだ。
もちろん父である子爵がそれを良しとするはずが無い。
運悪くすれ違いに入ってきたロレンスを激しく叱責し、ルチアを連れ戻すよう命じている。
彼は娘の身の安全しか考えていない。
「(それではダメ…!)」
今のルチアは命の炎を燃やしている。
それを無理に消してしまえば残るのは生きた屍でしかない。
一度は諦めた夢が叶おうとしている。
ここは引き止めるのではなく後押ししてやるべきなのだ。
その気持ちを汲んで、寄り添ってやれるのは自分だけではないか。
ここにいる誰にでもない、自分にしかできないことだ。
おこがましいとは思わない。
ルチアの胸の内を一番よく知るのは自分だと自負している。
ならば行くしかない。
危険は承知の上、それでも主の危機を見過ごせない。
意を決して歩み出すユリーカを、皆が驚きと賞賛の眼差しで見送る。
「(…どうかそのままで動かずにいてください。
あなた方に先を越されるわけにはいかないんです)」
◆
ユリーカがまず最初に向かったのは屋敷の正門である。
市街へ出るなら当然ここを通るはずだ。
正門は閉ざされているが、ルチアはまだ来ていないのだろうか。
「どうされました!?外は危険です!」
緊張した様子の門番は、侍女が一人でやってきたことに驚いたが、事情を聞いて更に驚いた。
「わかりました!ルチア様が来られたら必ずお引き留めします!」
「お願いします、くれぐれも無理に取り押さえることはしないでください」
念の為、釘を刺しておくことも忘れない。
「も、もちろんです!決してお体には触れたりはしませんっ!」
若い門番はしどろもどろになりながら身を強張らせる。
そういう意味で言ったのではないが、ルチアの扱いに配慮が得られるなら都合がいい。
「(次に行きそうな所といえば…)」
正門に来ていないとなれば、次に考えられるのは厩だろう。
夜間に街中で馬を駆けさせるのは危険だが、今のルチアは何をするかわからない。
自身が騎乗せずとも「ダスト様に使っていただく」などと考えて馬を取りにいった可能性はある。
そうして思いがけず屋敷の敷地内を走り回るはめになってしまった。
こんなことならすぐに追いかければ良かったと後悔が募る。
「…はっ、ふぅっ」
人並みの体力しかないユリーカは、早くも息が上がり始めている。
その荒い呼吸に混じって空気を切る音が聴こえた。
「――ぁぁ!」
「(あの声は…!?)」
耳に届いたのは間違えようもなくルチアの上げる苦悶の声。
次いで、屋上から有翼獅子の咆哮が聴こえてくる。
彼女が危機的状況に陥っているのは疑いようがない。
「屋上?!なんでそんな……っ!」
何故そんな所にいるのだろう。
相手は空を飛ぶ魔物なのだ、高所がより危険であることなど当然ではないか。
「何をやっているの!大バカーっ!」
ユリーカにとってルチアは仕えるべき主であり、幼少の頃から親しく接してきた友でもある。
私的に慕わしく思ってもいるが、この時ばかりは悪態を吐かずにはいられなかった。
「た、助けを呼ばないとっ!」
ともかく、こうなっては侍女ひとりではどうにもならない。
救援を求めるべく本邸へと向かった。
◆
「ユリーカか!?ルチアはどこへ行った!」
そこで出てきた子爵達と鉢合わせた。
「本邸の屋上です!有翼獅子に襲われています!!」
できうる限り大きく発した声は、半ば背後の騎士達に向けてのものだ。
今の子爵は戦力としてはもちろん、指揮官としても役に立たない。
「屋上だ!行けっ!」
「おうっ!」
ありがたいことに彼らはすぐに事態を察し、階段を駆け上がっていく。
ルチアがなんとか持ち堪えていれば救命は叶うだろう。
「(どうか間に合って…!)」
祈るように一瞬目を閉じた彼女の目に、次に映ったのは白く霞んだ景色だった。
「っ!?」
前触れも無く現れた真っ白な濃霧。
近くにいるはずの子爵達の姿さえも朧げにしか認められない。
「(これは一体どういうこと?!)」
この乾いた草原では霧が立つのはごく稀にしかない。
それも雨期の終わりのほんの短い期間にだけだ。
この時期に、それもこんな晴れた夜に霧が出るはずがない。
だが冷気を含んだそれは現に目の前に存在し、そしてどこか清浄な気配を感じさせた。
深く沈み込むように立ち込めるこれは、本当に霧なのだろうか…?
「この世ならざる霧…?」
ふと思い浮かんだ言葉が口を衝いて出る。
「なんだとっ!?」
独白のつもりだったが子爵の耳にも届いたらしい。
かつて勇者が妻を救うべく起こした奇跡。
万里を跨ぎ越し、瞬時に駆けつけたその御業は、この世でない別の場所を通ることで成された。
その場こそ聖なる浄気に満ちた神の世界であり、霧は溢れ出したその一部であるとされている。
ルチアから何度も聞かされた話だ。
「ううむ…」
子爵も同じことを思ったのか、状況も忘れて考え込んでしまう。
こういうところは親子でよく似ているな、とユリーカもまた場違いな感想を抱く。
「(でもこの霧はどこから……!?)」
だがその発生源はどこかと考えると、それどころではないことに気付く。
霧は本邸の屋上から溢れ出るように漂ってきている。
もしそこで何事かあったのだとしたら…
どうしたものかと顔を見合わせる家臣達から一歩先に出て声を掛ける。
「お館様!今はそのことよりも…!」
主の思案を妨げ、あまつさえ先を急かすなど本来なら許されることではないが、
このまま彼が立ち止まっていては誰も動くことができない。
「そ、そうだ!お前達本邸の周囲を調べろ!屋上へ行った者達はどうした?!」
幸いにもすぐさま正気を取り戻し指示を出す。
それに従い周囲の者達も動き始める。
と、そこへ――
「ひゃあ!」
◆◆
空から人が降ってきた。
「むっ…!なにやつ!」
想定外の事態に皆が身構える中、先ほど聴こえた声にハッと思い至る。
「(ルチア様…?!)」
一人が松明を向けると、そこにいたのはやはりルチア当人であった。
「!?…ルチアっ!」
子爵もそれに気付いたのか駆け寄ろうとするが、
突然ピタリと足を止め、剣の柄に手をかける。
何事かとその視線の先を追うと、ルチアの他にもう一人いることに気付く。
「(あれは…)」
騎士の誰かだろうか?
どうもルチアを抱えたまま屋上から飛び降りてきたらしい。
我が身の危険も省みぬ、見上げた忠心である。
「ルチア様!」
ともかく主の無事を確かめようと目を凝らす。
ルチアの服装はひどく傷んでいたが、恐れていた大怪我を負っている様子も無く、自力で立つこともできるようだ。
ユリーカは多少落ち着きを取り戻したところで努めて居住まいを正す。
非常時とはいえ主の前であまり礼を失した振る舞いはできない。
長年の侍女教育の賜物である。
「ルチア様!ご無事で…あっ!」
だがそれもルチアを救い出した人物の姿を認めて一時に吹き飛んでしまった。
「ダスト様…!どうして此方に!」
不意の邂逅はこれで3度目だが、その度ごとに高鳴る胸の鼓動は大きくなる。
白い外套をまるで霧の一部の如く身に纏い、悠然と佇む彼の姿はまるで天からの来訪者のようで、浮世離れした麗しさだった。
「(そういえば――)」
初めて会った時、オークの魔手から自分を救ってくれたあの時も、
彼は空から舞い降りてきたのではなかったか。
「(まさか本当に天から来られたのでは…)」
彼の素性を疑っていたわけではないが、そんなことが現実に起こり得るとは俄かには信じられないのも事実であった。
全員が固唾を呑んで見守る中、彼は周囲を見渡すとゆっくりと口を開き――
「それはもちろん…」
惚けたように彼を見ていたルチアへと目を向けた。
「…ふあ?」
視線に気付いたルチアは、夜目にもはっきりわかるほど肌を紅潮させ、胸の前に手を組んで身を捩じらせる。
「(あぁ…これは)」
誰がどう見ても恋する乙女。
これまでもダストに思慕の念を抱いていた彼女だが、それはあくまで勇者として。
ところが今は彼を明らかに異性として強く意識している。
屋上で二人の間に何らかのやり取りがあったのは明白だ。
英雄になることに憧れ続けたルチアの心を、一瞬でただの乙女に変えてしまうほどの何かが。
「(まずいですね、今のルチア様は…きっと)」
だがユリーカが彼女の身辺に仕えた時間も決して短くは無い。
この状態のルチアが非常に危ういことに気付いていた。
肝心な時にこそ、生来の要領の悪さが発揮されてしまうのである。
「申し訳ございませんダスト様!」
案の定彼女は地面に膝を突き、謝罪の言葉を口にした。
謝罪である。
ルチアは頭の廻りは悪くないのだが、それゆえ余計なことまで考えすぎてしまうことが多々ある。
おそらく今も散々考えを廻らせた挙句、原点に立ち返り最初に会った時の失態に思い至ったのだろう。
あの時の自らの態度に対し許しを請うたのだ。
だがこれは事情を知るユリーカだからこそ理解できるのであって、ダストにとっては予想外の反応のはず。
いま最も言うべきは助けられたことへの感謝でなければならない。
何よりもまず非礼を詫びるのが先であるという、ルチアなりの信念なのだろうが…
この状況での謝罪は拒絶の言葉と取れなくも無い。
「…………」
やはりというか、ダストの表情からは明らかに落胆の色が見て取れた。
■■■
メルメル子爵マリオは決して暗愚な領主ではない。
不当に私財を蓄えることもなく、領民の安寧に心を砕いてきた。
もっとも、溺愛する娘の事になると途端に周りが見えなくなるのは公然の秘密であったが。
その愛娘――ルチアは、彼が亡き妻との間にもうけた三子の末子で、次女である。
長子で長女のステラには貴族の娘として然るべき教育を施した。
彼女は親の期待に応え立派な淑女に育ち、中央の貴族に嫁いでいった。
当人はそれを特段不幸だと思っていなかったが、結果だけ見れば政略結婚の道具として扱ったことになる。
そのことに負い目を感じていたマリオは、次女のルチアにはできる限り本人の希望に沿う育て方をした。
剣の鍛錬がしたいと言い出した時も、辺境の守護を担う家の者としていっそ相応しかろうと、退役騎士を教育役に付けてやった。
相当に甘やかしたことは確かだが、ルチアは増長することも自堕落に陥ることもなく、誠実で情に満ちた女性に成長した。
領民からの人気も高く、いずれ彼女が婿をとって跡を継ぐことを期待する者も多かった。
ルチアの兄――王都へ留学中の長男は温和だが覇気の薄い人物であり、辺境にあってはいまいち頼りないと思われていたのも一因だ。
ルチアの噂は領外へも伝わり、他家から嫁にと望まれることも多々あった。
中には長女が嫁いだ家より格上の貴族からの申し入れまであり、それが更に彼の負い目を助長させ、代償として益々ルチアに甘く接するようになってしまったのだ。
「!?…ルチアっ!」
その愛娘の危機に際して半狂乱に陥りかけていたが、無事を知り一応は落ち着きを取り戻せた。
「(自力で立てる、か…大きな怪我も無いようだ)」
見事ルチアを救命した者には十分な褒美を取らせねばならない。
「(…ん?そういえばあの者は誰だ…?)」
見覚えの無いその姿に警戒心が首をもたげる。
騎士の顔は全員記憶しているはずだが、その中の誰とも合致しない。
下男や商会の下働きまでは記憶していないが、武芸の心得が無い彼らに斯様な芸当が出来るはずも無い。
では彼は一体何者なのか…
「ダスト様…!どうして此方に!」
「申し訳ございませんダスト様!」
娘とその侍女が彼を呼ぶのを見て得心がいった。
警戒を解き、剣の柄から手を離す。
「ダスト?!…そうか!あなたが…」
ゴブリンとオークの群れから隊商を救い、領内を脅かす双頭魔狼を討ち取ったその人であると。
「(なるほど…!伝令兵の言っていた猛者とは彼のことだったか!)」
なぜ彼らがあれほどまでに絶望から遠いところにいたのか、今なら理解できる。
この世ならざる霧、まさしく奇跡の御業である。
だが彼にはもう一つだけ確かめねばならぬことがあった。
「お聞かせ願いたいダスト殿、あなたはいったい何者か?」
受け取り方によっては無礼な問いであろう。
しかし最後の懸念――勇者の真偽だけはどうしても確かめねばならない。
一般には知られていないことだが、キタミヒカルは自ら「勇者」と名乗ったことは一度も無い。
彼自身は自分を「ネンチョウサン」や「カシノキグミ」と呼んでいたらしい。
人心を惑わす恐れありとして、王家にのみ伝わる真実である。
マリオがそれを知るのは、先々代の当主が当時の王弟と懇意であったからだ。
それも酒の席での話であり、後日その件に触れると「忘れろ」とだけ言われたという。
彼自身あまり物事を深く考える性質ではなく、ほどなく忘れ去ってしまった。
それが何十年か後、ふとしたことで思い出し孫に語って聞かせたのだ。
それを聞いた孫――マリオは話の重大さに気付き、それを今まで誰にも、そしてこれからも語るつもりはなかった。
だが過去1000年の間に勇者を騙った不届き者がいなかったわけではない。
そやつ等は二言目には「勇者である」と口にした。
では果たしてダストの答えは――
「ただのハンターだ」
「そ、それはつまり…!?」
もはや疑う余地は無い。
マリオはその場で深く頭を垂れた。
◆◆◆
落ちたソードを探して闇の中を疾駆する、その名もシャドー…あー、うん。
建物の上をぴょんぴょん跳ねながらの高速移動、気分はすっかり練り物忍者。
日中にやったら目立ってしょうがない。
でもこれすっごく楽しい、楽しいんです!
ひゃあ!楽しぃぃ!!
ガオー!
ズビッ
パーン
時折エンカウントする有翼獅子を【例の電撃】でレンジゆで卵にする。
手加減は無用。
あの糞猫はバカで臭くて凶暴でノミ飼いで大喰らいで臭くて臭いことが判明した。
そんな物、頼まれたって乗りたくない。
でもユリーカちゃんにお願いされたら考える。
それより練り物といえば、こっちにナルトとかカマボコってあるのかな?
そんなに好きなわけでもないけど、もう食べられないかもと思うと無性に食べたくなる。
あーカマボコ食べたいなー…カマボコ、カマボコ、カマボコ、カマボコ、カマボコ……
無心になった俺は帰巣本能に従い宿の近くまで戻って来ていた。
「(カマボコ…じゃなくて、ソードを落としたのはこの近くだったはず)」
俺の記憶だからいまいち信用できないが、確か付近で一番高い建物に登った憶えがある。
あ、ほら!あの鐘が付いた塔、そこから街の中心部に向かって投げたんだ。
「(とするとこの辺りか…)」
商店の密集した商業区画――
ハルと手を繋いで歩いたり、ルチアさんとデートの待ち合わせをしたり、
妻と子供達を連れて買い物に来た思い出深い場所だ。
そんな未来のハッピースポットで問題のヒーローソードを発見した。
「げふっ…!こ、この剣はまさかっ…?!」
「ボス!?ボース!ヘイ!メディック!メディーック!!」
……最悪だ。
お狐様から待ったが掛かってしまいました。
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