20 変化
「なんと馬鹿げたことを…」
メルメル子爵家の家令、ロレンスは深い溜め息を吐く。
その原因は子爵の娘、ルチアが魔物討伐の報酬としてあの胡散臭い男に示した条件だ。
「出来うる限りの財に地位…」
それだけでも過分な要求だというのに、
更にはルチアの身体まで求めたというではないか。
到底承服できる条件ではない。
「…しかし」
不味いことにルチアは子爵家の名を出して誓約してしまったという。
もしこれを反故にすれば家の名誉に係わる一大事だ。
「(とはいえ、ルチア様の御体を差し出すわけにはいくまい)」
そんなことをすれば、娘を溺愛している子爵が怒り狂うこと疑いなし。
「(ならば当人に取り下げさせるしかないな)」
本人がいらぬと言うのなら何も問題は無い。
あとはほんの少し、そう言いたくなるよう痛い目に遭えばいいだけだ。
「(どのような詐術を用いたか知らぬが、
寒空の下で一晩過ごせば身の程知らずな真似だったと悔い改めるだろう)」
それでも図々しく訪ねて来るようなら、門前払いするか、
さもなくば領主に対し無礼な要求をした咎で捕らえてしまえば良い。
「聞いておられるのか、ロレンス殿!ダスト様のお力は本物だ、決して無碍に扱ってはならない!」
思案するロレンスに向けて先程からエインス副騎士長が乗騎を併走させしきりに訴えかけてくる。
「聞いている、貴方がお疲れなのはよく分かった」
馬鹿げた話だ。
オーク30体を一瞬で消し去り、挙句は双頭魔狼をたった一人で屠ってみせたなど。
依るべき物の無い草原では徒に不安を感じることはままある。
はぐれオークの1体が30の群れに見えたとしても不思議ではない。
まして闇夜であれば只の草原狼の遠吠えでもさぞ恐ろしく感じたことだろう。
そこをあの詐欺師に付け込まれたに違いない。
しかし世間知らずのルチアだけならいざ知らず、副騎士長までもが騙されるとは情けない話だ。
領内の村を多少廻った程度でこの体たらくでは彼の器量も疑わしい。
「まずは十分に休まれるがよかろう。
その上でまだ事実だと仰るならお館様の前で報告するといい」
もちろん主の前でそんな戯言を申せばすぐさま暇を出されるだろう。
いくら腕が立つとはいえ、正気を失した騎士など雑兵より使い物にならない。
いっそ遠ざけてしまった方が憂いが無い。
「お疑いになるのはもっともだが、それは礼を尽くしてからでも遅くはない。
今すぐダスト様の待遇を改めるべきだ!」
尚も食い下がるエインスに内心落胆する。
どうやら本格的に彼の処遇を考える必要がありそうだ。
「…どうせ今さら言ったところで仕方が無い」
改めようにも、あの男なら今頃は門の前で無様に横たわっているはずだから。
「仰りたいことはそれだけですかな」
急に押し黙ったエインスを不審に思い、様子を窺ってみる。
すると彼は難しい表情でこちらをじっと見ていた。
「まだ何か…」
「ロレンス殿…御髭はどうなされた?」
不満があるのかと思えば、出てきたのは意外な言葉だった。
「(髭だと?…突然何を言い出すのだ)」
髭は彼にとってちょっとした自慢だった。
毎朝早く起床し時間をかけて手入れをしている。
先代当主の奥方に誉められて以来30年、欠かしたことの無い彼の習慣だ。
白いものが混じり始めてからはますます磨きがかかったと自負している。
手を当ててみれば、丁寧に形を整えられた髭が――
「…な、い?」
そこにあったのは永らく感じていない素肌の感触。
自慢の髭は跡形も無く消え去っていた。
「こ、これはどういうことだ?!」
何かの間違いかと思い、何度も触って確かめる。
「……」
しかしエインスの表情が間違いで無いことを物語っている。
では何故無いのか。
髭は自然にどこかへ行くものではない。
まして自身で剃り落とすことなどあり得ない。
「(いったい誰が、いつの間に!)」
であれば何者かによって損なわれたことになる。
「ロレンス殿、もし見間違いでなければその胸元にあるものは…」
エインスに指摘され胸元を見る。
するとそこには見覚えのある毛先が覗いていた。
「こ、これは…」
ぶるぶると震える手で取り出してみれば、
それは白と黒の混じった髭の束。
本来ならここにあるはずのない物だ。
そして出てきた物はそれだけではなかった。
「…まさか、まさか、まさか!?」
目立たぬよう黒く塗られた針。
これまでにも子爵家に害を為す者を陰ながら排除してきたもう一つの仕事道具。
先程も令嬢の貞淑を狙う不逞の輩を黙らせてきた。
それがどうしてここにあるのか…
「っ!まさかそれを使ったのですか!?」
エインスが非難めいた声を上げる。
「それは…いや、しかし気付かれるはずは…!」
あの時、男はまったく油断していたように見受けられた。
すれ違う一瞬、首筋に針を打ち込むことは容易だった。
だがその針は今こうして持ち主の手元に戻ってきてしまっている。
「なんてことだ…!いいですかロレンス殿、気付かれるどころか返されたのですよ?
これがどういう意味かお分かりか!?」
ようやく事態を認識するにあたり、驚愕がゆるゆると這い登ってくる。
「この私が…?そんなことが」
ロレンスとて腕に十二分に覚えがある。
その彼をしても知覚できぬほどの速さをもって事は為された。
もしそれだけの腕があれば、他に何ができるだろう。
「で、では本当に双頭魔狼を…?」
確認を求めてエインスを見遣るが、彼の表情はどこまでも苦々しい。
「尋常の方ではないと何度も申し上げたはず。
あの方の不興を買ってしまったとなれば…非常に拙いことになります」
ここへきてようやくロレンスは事の重大さと、自身の失態に思い至った。
「私は…なんということを…」
◇◆◆
ルチアは屋敷に到着するなり馬車を飛び出す。
城門ではユリーカに初めてを取られてしまったが、
今度こそ彼の手を引いて案内するのだと意気込んでいた。
「ダスト様!」
逸る気持ちを抑えきれず、後続の馬車に駆け寄る。
途中ユリーカともすれ違ったが、彼女は胸に手を当てて深呼吸の動作をしてみせる。
落ち着けということだろうか。
確かに城門での彼女の振る舞いは見事だった。
あの隙の無い彼が自ら利き手を任せるくらいだ。
焦っていてはあのように振舞うことはできないだろう。
忠告に従い二度三度と深く呼吸をする。
「すぅ~ふぅ…よし!」
グッと気を引き締めて最後尾の馬車に近付く。
カイト達商会の馬車だ。
カイトはダストとの付き合いが最も長い。
乗っているとしたらこの馬車で間違いないだろう。
「(落ち着いて…大丈夫、きっと上手くやれる!)」
前髪を整えながら、馬車が完全に停止するのを待つことしばし。
「せいっ!」
「ヘイッ!」
しかし降りてきたのはカイトとパーシーだけだった。
「?…ダスト様はこちらに乗車されていたのではないの」
車内には他に人の気配は無い。
「おおっ!乗っておられましたよ!」
やはりそうだった。
「(車内でどんな会話をされたのだろう)」
自分は未だ二,三言しか言葉を交わせていないというのに。
カイトが少しばかり妬ましく思えた。
「(ううん、焦ってはいけない。まだ十分に時間はあるんだし)」
ダストには礼も兼ねて当面は屋敷に滞在してもらうつもりだ。
まずは父に紹介し、それからゆっくりと親交を深めていけばよい。
「(!…ち、父上に会っていただくことになるのか!?それではまるで…!)」
男性を家に招いて父親に紹介する。
否が応でも婚姻を意識させるシチュエーションだ。
「わわわっ…!」
急に顔が熱くなるのを感じ、慌てて平静を取り繕う。
「(いけない、最初が肝心だ。しっかりしないと)」
まずは完璧な出迎えで少しでも印象を良くするのだ。
ところで肝心の彼はどこにいるのだろう。
「ダスト様…?」
周囲を窺うも、彼の姿はどこにもない。
「ダストさんはいつの間にかいなくなっておられましたぞ」
カイトが当たり前のようにとんでもないことを口にする。
「それはどういうこと?!」
わけがわからず問いただすも、
「言葉通りの意味です。
向いに座っておられたはずが、いつの間にか消えていたのです!」
なぜか自慢げにそう答える。
「いや、全く気付きませんでした!マジすげえ!」
「ヘイ!ヘイ!ヘイッ!」
「な、何を言って…」
確かに、目の前にいながら気付けない程の速さで去ったというのは凄いことだが。
「どうしてすぐ追いかけなかった?!いや、何故引き止めなかった!」
カイトの非常識な対応にさすがにルチアも激昂し食って掛かる。
「黙って立ち去るなんてカッコイイではありませんか!マジすげえ!」
だがカイトはあくまで、ダストの身のこなしに感心するばかり。
あまりの話の噛み合わなさに眩暈を覚える。
「それでは約束の礼をお渡しできないではないか…子爵家の名に傷を付けてしまう」
ガクンとその場にへたり込んで動けなくなってしまう。
ダストが後日改めて礼を受け取りに来るなどあり得ない。
彼の前に横たわる大きな目的を思えば、そんな猶予が無いことはわかる。
「すぐに…すぐに追いかけないと」
何とはなしにわかってしまう。
今を逃せば彼との縁が切れてしまうということに。
「それはいけません」
だがこんな時に限ってカイトがまともな返事を返す。
「どうして?」
無視しようとも思ったが、その声はいやに真剣味を帯びていた。
「真の勇者は見返りなど求めないものです」
続く言葉はルチアの脳裏を激しく揺さぶった。
「あっ!」
衝撃を受け、あの時の情景が思い浮かぶ。
確かに、彼はいくら報酬を提示しても何も答えなかった。
身を差し出す段になってようやく反応を返してくれたが、
今にして思えばあれはこちらの覚悟を試していたに違いない。
彼は「詳しく聞きたい」と言い、最後に「いいだろう」と言った。
だがこれはあくまで及第点でしかない。
もし本当に勇者の側らに立とうとするのならば、
英雄足らんと望むのであれば――
「!…共に戦う意志を示すべきだった」
立ち上がって剣を取り、オークに一太刀でも浴びせるべきだったのだ。
だが実際にはみっともなく助けを乞い、対価として金をチラつかせ、地位をほのめかした。
あまつさえ体で払うなどと世迷言を吐いた。
自分のあまりの愚かさに消えてしまいたいほどの羞恥に駆られる。
「ああぁ…ああああ!!!!」
「ルチア様!どうされたのですか?!」
様子を見に来たユリーカが只ならぬ雰囲気を察して駆け寄る。
「ユリーカ…!ど、どうしよう、私はとんでもないことを…!」
「落ち着いて、ゆっくり話してください。いったい何をしてしまったと?」
「嫌われた…嫌われてしまった…ぇぐっ」
取り乱すルチアをなんとか宥めて事情を聞きだそうとするが、
えぐえぐとしゃくりあげるばかりでまるで要領を得ない。
「もう行けない…一緒に行けないよぉ…ぅぇぇ」
ついにはぽろぽろと大粒の涙を零し泣き出してしまった。
嫌われた、とはこの場合ダストにだろうが、
どうしてその考えに至ったのか経緯が不明だ。
誰かに事情を聞こうと周囲を見渡す。
前方にいるロレンスは、まるで処刑を待つ罪人のように青い顔をして震えていた。
「もし…この首をかければ、子爵家だけはお赦しいただけるだろうか?」
その側らにはエインスが深刻な顔つきで立ち尽くしている。
「果たしてそれだけで済めば良いが…」
「せいっ!せやぁっ!」
「ヘイッ!ヘヤァッ!」
かと思えばカイトとパーシーは謎の掛け声とともに馬車の周りを駆け回り、
陽気に組み手を繰り返している。
「なにが…どうなっているのでしょう」
ユリーカは有能な侍女ではあるが、この状況は彼女の対処能力を超えている。
メルメル子爵邸の門庭はまさに混沌の様相を呈していた。