3.
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桃太郎は家を飛び出し駆けると、祖父の畑へとやって来ていた。
はあはあと軽く息を上げている。
ここに、自分と自分が生まれた世界を十五年前に繋いだ門――渾沌空間がある。そう祖父から聞いたし、そんな確信があった。
手には雷光紫電閃を握り締めたままだ。
まだ収穫には早いトウモロコシの立ち並ぶその横を歩いて渾沌空間を探すが、それらしきものは見付からない。
しかし、やがて不自然に、何かを隠すように盛り上がったビニールシートが目に止まった。
やや恐る恐る近付いて、その端を掴むと一気に引きずる。
「これは……」
そこに広がっているのは、異様な空間。
発光しているようで、同時に影のようでもある。光と闇の融合、まさに渾沌。光が屈折し、渦を巻いてそこに収束している。
桃太郎はそんな異常を吸い寄せられるように見詰めた。
(……間違いない)
ここを抜けた先に自分の生まれた世界がある。
だが、十五年もの間、こちらの世界で平穏に育てられた桃太郎には、幻影のような記憶に残る自分の故郷への懐かしさよりも、この異様な空間に飛び込む恐怖の方が勝る。
しばし身動きが取れずに硬直する桃太郎。
人間とは不思議なものだ。簡単に感情に左右される。
家を出る時はある種の決心のようなものに突き動かされて、荷物もまとめず飛び出してきたというのに、いざ異様なものを目の当たりにすると、冷静さを取り戻して一旦家に帰ろう、という気になる。
桃太郎が前を向いたまま後ずさりし渾沌空間から距離を取ろうとしたその時――トウモロコシの葉っぱを踏んづけた。
「あっ!」
つるりと後ろ足が滑り、桃太郎は転倒した。
スライディングの要領で、前方へと体が滑る。
そのまま桃太郎は渾沌空間へと突っ込んで行った。
「うわああああああ!!」
思わず叫び声を上げる。
瞬間、周囲の景色が消えた。
ぐるぐると目眩がするような光と影、色の渦が回っている。
上下左右の感覚がたちどころに失われる。
気持ち悪い、吐きそうだ――。
桃太郎は嘔吐した。吐き出した胃液が宙を舞う。
実に不愉快な景色だった。
そのまま三半規管をやられた桃太郎は気を失った――。
桃太郎が家を飛び出したその直後。
桃太郎の祖父母は相変わらずちゃぶ台を囲って座っていた。
祖父は何か思い詰めたような表情のまま、祖母はおいおいと泣きながら。
そんな桃太郎の家の外、室内の明かりが外へ漏れる戸口のところに姿を隠している人物がいた。
(……異世界、だと……?)
その人物は、怪訝な、けれども興奮した様子だった。
「寂しくなるが、気を落としてはいけない。こうなるのは、あの子がこの家にやって来た時から決まっていたことなんだから」
「わかってます……わかってますけれど……」
「その話、詳しく聞かせてもらおうか」
祖父母の会話に割り込んで、家の外から例の人物が土足で居間に上がり込んできた。
「だ、誰だ……!?」
「誰だっていいだろ。中村桃太郎が異世界人だって……? ククク、異世界……面白いじゃねぇか! まだ何か隠してるなら、出してもらおうか!」
祖母がひい、と小さく悲鳴を上げる。
祖父は立ち上がると、祖母を庇うようにして箪笥の裏から一振りの日本刀を取り出した。その鞘を払い、刃を闖入者相手に構える。
「ほう……? まだ武器を隠してたんじゃないか。それは何ていうんだ?」
祖父は答えない。
ダッと闖入者が動いた。
祖父が反応するより速く、その手を押さえると身を近付け、腹部目掛けて膝蹴りを放った。
「かはっ!」
そしてそのまま、祖父の手を捻り日本刀を奪い取った。
「がっ……ゴホッ、ゴホッ……降魔因果闇が……!」
「降魔因果闇! それがこの剣の名前か! クハハ! どんな力を持ってるのかなぁ~?」
倒れこんだ祖父に、祖母が駆け寄る。
祖母は泣いて後生だから、と命乞いをする。
闖入者の背後、その陰の中から巨大な姿が吹き出した。
まるで影絵のようにそれが居間を闇で覆った。
その中心に屹立する影の主は、誰であろう、西園寺パイナポーだった。
つんつん。
先程から、頬に妙な感覚がある。
「うぅん……」
桃太郎がうっすらと目を開けた。
視界がぼんやりと霞む。そんなぼやけた視界を覆っているのは何だろう――人の顔だった。
やがて景色がはっきりしてくる。
目の前にある表情、自分を覗き込んでいるその人物は美しく、整った表情なのはわかるのだが、その顔は中性的で、性別の判別が難しい。
おまけに口元をマフラーのようなもので覆っているので、余計にわかりづらい。
「……起きた?」
「あ、ああ……」
桃太郎ははっと気が付いて、自分の右手を握り締めた。そこには確かに雷光紫電閃の感触があった。
よかった。祖父から託された大切な物だ。いつの間にかなくしていた、などといった事態になっていては目も当てられない。
ポケットに仕舞っておいた魔法石の感触もある。
怪我もないようだった。まだ目眩がしてくらくらとしているが、その内治ると思った。
自分の身の回りの無事を確認したところで、桃太郎は目の前の相手が何者なのか確認することにした。
「ええっと……君は誰? ここは、どこ?」
目の前の相手は、桃太郎と同じくらいの歳に見えた。なので、少々馴れ馴れしいとは思ったが、敬語は使わない。
「……自分の名前は……ない。コードネームは『ポチ』。貴様の護衛を任されている」
「コードネーム……? 護衛……?」
よくわからない単語を、桃太郎は反芻する。
「ここは『渾沌世界』。貴様の、生まれた世界」
「渾沌世界……?」
わからないことだらけだ。
自分の生まれた異世界に行く――それが決まった時から、多少の覚悟はしていたが、いざとなるとやはり戸惑う。
「説明は、追ってする。まずは、起きろ」
そう言われて、桃太郎は上体を起こした。いつの間にか、ベッドの上に寝かされていたようだ。
まだ少し頭痛がするが、だいぶ意識がしっかりとしてきた。
周囲を見回す。
薄暗い。
ただ無機質な石造りの壁と、天井があるだけだ。煉瓦のようなものを敷き詰めて作ったのだろう。
「まるで、RPGのダンジョンだな……」
「そう、ここはダンジョン」
意外にも、目の前の相手――ポチが答えた。
「ダンジョンって……?」
「この渾沌世界には街はない。安全な場所など、ない。全て鬼が徘徊する、ダンジョン」
「それで、護衛ってどういうこと?」
「貴様は生まれた時から、この渾沌世界に徘徊する『鬼』を退治するという運命を予言された者。その勇者と共にダンジョンを攻略し、護衛するために育てられたのが自分」
桃太郎が、神妙な声で呟いた。
「鬼退治、だって……? 一緒に旅をするために育てられた……?」
しかしポチは桃太郎に答えずに、突然明後日の方向に振り向いた。
「説明は後。鬼が……来た」
そう言って、マントの下から棒状の物を取り出した。
それはショットガンだった。
フォアエンドを引いて銃口を構える。
その先には――四足で歩く、牙を剥き出しにした全身の毛を逆立たせた異形の怪物が、グルル、と唸り声を上げてこちらを見ていた。