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在るもの  作者: 柳 新一
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この話は多様なテーマを取り扱いますが、当分は友人と自分について語ります。私大に恋愛などに話を進めていきます。

2月。

私はある友人との決別を経験した。それが、絶交という形でのきっぱりとした別れならどれだけ、私にとって良かったことだろう。だが、話もせずに突然口を利かなくなるという非常にはらわたの煮えくり返るような別れ方をしたため、その後も私の心を苛んだ。私はその友人を尊敬していた。いや、していたつもりだった。しかし、私の内側ではきわめて複雑な感情が入り混じっていたのだ。

その友人は、とても社交的な性格の持ち主だった。周りを見れば常に人に囲まれている。私はどちらかと言えば、単独行動をすることが多い、また、必要最小限の人間関係に収めようとするところがあったので、私とは対照的であったと言えよう。

 しかし、断っておこう。その友人との接触は私の宝であり、今後どれほどの影響を私に与え続けるかは計り知れない。だが、考えの相違、また、進む道、求めるものの違いから、決別することとなった。彼が私をどう見ていたのかは分からないし、この作品の中でそれに触れることはしないでおこうともう。

 時を少しさかのぼるが、私は大学受験に失敗した。今では大学にもなじみ、友人もできていま所属している大学に不満はない。しかし、入学当初は多くの不満を抱えて京都にやってきた。まあ、よくある話であろう。それゆえ、私はコンプレックスの塊であった。しかし、今思えば、私のコンプレックスと学校歴の間にはほとんど関係がないように思えるのだ。もし、希望通りの大学に入れば満たされたのだろうか?然り、あるいは満たされたのかもしれない。私の悩みの根本は、自分の希望がかなわなかったという単純な問題ではないのだと思う。私が学歴に本当に求めていたもの…それは、他者からの期待であると考えられる。一年間、胸の内にふさぎ込んだ感情を抱えながら生活してみて気づいたことがったのだ。私は他人から期待されたがっていた。もっと言えば、社会や周囲の人々から何かを要求してほしかったのである。何かを委託されたかった。あるいは、頼られたかったのである。私が高い学歴を求めた理由は、それが「他者からの期待」に結びつくものであると思っていたからなのであろう。もはや、それと結びつくものがない、どうせ必要とされない(実際はそうではないのだが…)と思った私は自暴自棄になっていた。それが、私の学歴コンプレックスの真の正体であったように思える。

 自分の学んでいることが他者の役に立たなければ、モチベーションがあがらない。普段の講義や大学での学問は楽しい。しかし、司法試験等の難関資格を受けるとなれば、並大抵のモチベーションではいけない。

 話を多少元に戻そう、上に述べた私の友人は、自己満足を非常に嫌った。それは、これまでの私にはない発想だった。私のこれまでの人生は自己満足以上のものではなかったと言っても過言ではない。しかも、そのことに気付く知性さえ持ち合わせていなかった。ただ、ここで、自己満足を否定するありかたにも多少危険を感じたものである。はたして、人は他者のために生きているのだろうか?という疑問が私の中にあったからである。一見他者のために生きているように見えても、「人の役に立っている自分」が好きなどと言った、自己満足的・ナルシスト的な動機があってしかるべきではなかろうかと思う。なぜなら、完全に人のためだけに生きる人間とは奴隷以外のなにものでもないのであるから。人間は他者を奴隷にした時この上ない幸福感を感じる。それこそが、なによりもたちの悪い自己満足であるといえよう。であるならば、完全なる他者への帰依など、マゾヒズム以外の何物でもないのではなかろうかと著者は思う。しかし、自己満足とどう向き合うかについては著者自身まだ結論を出し切れていない。仏教徒的なエゴのない境地など著者はまだ知らない。

 さて、学歴と自己満足の関係であるが、まず私の人格について少し説明しておこう。私は非常に虚栄心が強い人間であった。テストでいい点をとれば他人に見せびらかさずにはいられない。ここには名声を求める心理が働いている。すなわち、「他者からの期待」への欲求である。かつて、私が「プライド」と呼んでいたものとはなんだろう。それは、自分が求める期待の水準ではなないのだろうか。例えば、自分は出来る人間だ。故に、総理大臣になることを期待されてしかるべきだと思っていたとしよう。周りの人間は決して彼の優秀さを認めないわけではない。しかし、総理大臣は無理だ。そのような自己の認識と周囲の認識の食い違いこそがプライドを生み出すのではなかろうか。プライドの本質については分からない。だが、これまでのまた、今の私にはこのような心理的メカニズムが働いているように思える。つまり、「プライドが高い」とはより期待されていたい、より必要とされていたいということを意味するのではないだろうか。

 その意味で、私はプライドの高い人間である。必要とされていなければやる気が出ない。

決別した友人と私の共通的はそこにあったように思える。決定的な違いは、彼はその本能に忠実であることを選んだのに対し、私はそのようなあり方にどこか否定的なものを抱いていたのである。だれよりも、自己満足的な生き方をしていながら、だれよりも自己満足を否定していたのが著者自身なのである。私は自分の「行動」と「考え」という両極に引き裂かれているのである。あるいは、大変欲深いのだ。多少傲慢に聞こえるかもしれないが、私は決して無能ではない。だが、私が求める期待値が高いために自分自身を卑下するはめに陥るのである。

 だが、思うにこの必要とされたいという大多数が抱いているであろう欲求の背後には多くの危険が潜んでいるようにも思われる。


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