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気持ち  作者: さだ 藤
5/7

喪失

*記憶喪失

 

 妻が、倒れた。


 妻との出会いはあまりいい思い出ではない。

 今思い返せば確かにあの時、私は妻に対して理不尽な怒声、怒り、憎しみをぶつけていた。


 今思い返せば、だ。


 あの時の私はただの恋する青少年だったのだ。

 あの時、あの場の、あの状況。他の誰でも多かれ少なかれ、妻に対して同じ思いを抱いていたとは思う。


 まぁ、妻の立場にしてみても、他の誰かがその場に立ったとして、多かれ少なかれ私に対して良い感情は抱かないだろう。


 どちらも、どちらだった。


 けれど諦めきれず、負けず嫌いな若かった私には、それだけでは留まる事など出来なく、なんとか取り戻せないかとあがくことあがくこと。


 そんな私に対する周囲の反応は様々。

 同情、哀れみ、呆れ、いい加減にしとけと近しい友人に言われても私にはどうしようも出来なかった。


 半ストーカー状態。今なら訴えられても受理されてしまうだろう。


 私の行動は少々逸脱していて、その時にはもう意地ばかりで動いていた。

 どうにもならない事など承知済みで、けれど完全には認めることなど出来なくて。


 纏わり付いて、纏わり付いて、気付けば何時の間にか妻の傍は心地よく、妻の事を愛していた。


 妻は私にとっては何よりも大切にしたい彼女を殺した加害者だったのに。


 いつの間にか、私の中で彼女よりも妻と共にありたい思いが膨らみ、抑えることが出来なくなるほど強い思いを抱いてしまった。


 抱いてしまっていた。


 気付いたときには遅かった。


 彼女と、彼女。

 けして交わらない二人の彼女。



 彼女は、妻であり、妻ではなかった。



 彼女との出会いで言えば、若い時分、自分自身で働き、貯めた金で買ったバイクを乗り回してへたを打ち、病院に運ばれ、はめられたギプスを付けて松葉杖をつきながら庭を歩きうろちょろとしていた時。


 いやに儚げなに、悲しげに、していた彼女の事が目に入る。


 一目ぼれ、だった。


 声を掛けて話をしてみれば、彼女は記憶喪失というもので。

 彼女の浮かべていた表情に納得と同時に、不安にかられていた彼女を私の手で守ってやりたいと思ってしまう。


 時折彼女が検診で病院を訪れる度に話しかけ、彼女が私の事を見つけてくれた時には話しかけられ、私が病院を退院しギプスを外してからも外で待ち合わせ、何時しか二人笑い合って、恋人同士になっていた。


 彼女は怯えていた。自分の知らない本来の自分に。

 間違いなく、血の繋がった家族といえる人達に、けれど湧かない実感に。

 知らない友達だったという人達への戸惑い。 


 私が守ってあげたかった。


 不安を感じながらも過ごす日々。

 一年たったある日、笑っていた時。彼女は倒れた。


 不意に、彼女が記憶をなくしたとき、彼女が倒れていたと聞いていた事が頭によぎり、私は焦った。ついに来てしまったのかと。

 彼女が怯え、回避したいと思っていた出来事が。



 私は巻き起こる焦燥感の中、彼女が目覚めるのを待った。


 そして、目が開いたとき。


 彼女は消えて、妻が、本来の自分を取り戻していた。

 私を見つめ、目覚めたばかりのぼやけた眼差し。

 同じ姿、同じ声音。けれどその唇が出した言葉は だれ? の一言。


 まるで知らない人を見つめるその視線に、私の感情は激しく揺さぶられた。


 許さない、許せない、返して欲しい、返せ! と私は叫び、妻は不当な怒りに、怒りを返した。


 その後の話は前述通り。

 気が強く、短気な妻に繕う事無く自分をさらけだせ、妻の傍は居心地が良く、守ってあげたくなった彼女とはまるで違う、逆に守られているような、共に隣に立っていられる妻が何より大切で、大事で、愛おしいと思ってしまう。


 彼女に対して抱いたものは初恋で、妻に対して抱いたものは愛だった。


 妻は口が悪く短気であったが、意外と絆される性分でなんだかんだといいながらも私を受け入れてくれ、共に今まで四十年。

 夫婦となって、子を育て、育て上げて孫も生まれ、一息ついたと旅行でも行こうかと穏やかな心地で微笑み合っていた。


 計画した旅行へとあと一月。そんな時。


 妻はまた倒れてしまった。

 妻にしてみれば二度目の、彼女を合わせれば三度目の、それ。


 娘夫婦から連絡を受け、運ばれた病室を訪ねてみれば、あの頃の無邪気な笑顔を浮かべた彼女。


「しょう君」


 弾んだあの頃、私が呼ばれていた呼び名。

 妻は呼び捨てや、年を取ってから落ち着いてさん付けをするようになっていたが一度も、ただの一度も君づけで呼ばれたことなど無く、瞳に浮かぶのは、若い頃特有の純粋さ。



 ――――妻が、消えていた。



 私には、もう既に彼女への愛情は消えていた。

 若い頃の初恋と、過去としていた。今はもう、妻以外に愛せる事は出来ない。


 それほどに、妻の事を愛している。

 あの、少々可愛げのない言葉遣いに、けれど溢れる優しい瞳。


 私は、彼女ではなく、妻を愛しているのだ。


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