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平成少年、昭和彼女

作者: あくた咲希

 引っ越した先に、すげぇかわいい女がいた。

 となりんちの、お姉さん。

 二十五歳。

 ……人妻。

 そりゃねぇよな、と思った。


    *


 終業式をサボタージュして、家路をいそぐ俺の携帯電話が、尻でピロピロ鳴った。

 ポケットから抜きだして確認すると、小さな液晶画面に「谷岡」と表示されている。

 無機質な、ドットを組み合わせただけの文字。並びを変えれば、ほかのどんな文字にも記号にも、絵にもなる。

 でも、「谷岡」だけはとくべつだ。俺にとって、唯一無二の名だ。

 となりんちの谷岡さん。谷岡美鈴さん。

 はじめて会ったときの、パステルカラーのシフォンスカートのゆらめきと、やわらかそうな内モモのすきまを今でも鮮明におぼえている。

 春の風はいたずらだ。

 あの瞬間で、俺の心は天国を知った。切なさを知った。

 だから、名字だけを登録した。

 それは、ボーダーライン。本能と理性のあいだの、強固な壁。

 谷岡は、美鈴さんだけじゃないんだぞ、と。

 着信音のピロピロが、気持ちの切り替えを催促する。

 少しばかり足を速めながら、応答した。

「はぃ、もしもし」

『たいち太一くん?』

 ちょっと鼻にかかった声が、俺をとがめるような響きをもって聞こえてくる。

『もうこっちに向かってるんだね。佐々木さんとこのミケの声がする』

「いーの、ヒゲ禿げオヤジの長ったらしい話聞いてたって、高校にゃ受からねぇもん」

 空を仰ぐと、細い雲が俺の上で青を切り裂いて、西へ流れていった。

 あのまま学校にいたら、この光景だって目にしないままになってしまうのだ。塀で寝ぼけてるデブ猫だって、ステージでふんぞりかえる校長をながめているよかは、ずっと風情があるというものだ。

「うち帰ったらすぐそっち行くから」

『勉強熱心なのを責めたりはしないけどね』

 くすくすと、明るい笑みが俺の耳の穴にころがりこんでくる。

『準備して待ってるわ』

「あ、俺、朝めし食ってないから先になにか食わして。あれ、あれがいい」

『はいはい、たまごチャーハン定食ね』

 ピッと電子音で会話は切断されて、俺は携帯をにぎりしめたまま、じりじりと熱を発するアスファルトをかけぬけた。

 はやく、美鈴さんの声をじかに聞きたい。

 彼女の旦那が留守中の、みどりに囲まれたあの一軒家の中で。


 あけはなたれた窓で、レースの白いカーテンがふわふわと遊んでいる。

 谷岡家は、リビングもみどりでいっぱいだった。

 観葉植物はもちろん、夫婦そろっての趣味だという水彩画のみどりも、部屋の空気を清浄にするかのようだ。こんな家で暮らしてるから、彼女もまたきれいなのかな、と思う。

 めしの上の半熟たまごをレンゲの背でつぶしながら、丸テーブルの向こう側で教科書に視線を落とす女性の顔を盗み見た。

 二十五歳にしては童顔の、薄化粧の目もと口もと。

 長いストレートの髪は黒くつやつやしてて、やわらかそうで、細っこい鎖骨を半端に隠している。

 フレンチスリーブの真っ青なTシャツの下には、きっと小ぶりな胸と、肉の薄いおなかが存在しているに違いない……。

 美鈴さんは正座をくずして、こじんまりと体育ずわりをした。色落ちしたジーンズのひざが、やけに存在をアピールする。

 かるい落胆が、俺にため息をつかせた。

 彼女は足が長いからパンツスタイルもさまになるけど、俺には、それを手ばなしで称賛することはできなかった。

 俺と二人きりのとき、彼女はスカートをはかない。偶然かもしれないが。

 とはいえ、ジーンズの上からも素足や、足のつけねまですぐに想像しそうになるんだから、俺ってば節操ないよな。

 氷のうかんだ麦茶でのどをうるおし、からだの熱を冷却する。

 暴走しかけた思考は、テレビの上に飾られた写真で沈静化させた。

 体格のいい旦那が、美鈴さんをお姫さまみたいに抱っこしているウェディングフォトだ。

 白いドレスは純潔をあらわす。

 なにものにも染まらぬ聖なる白、永遠の白。

 結婚とは、その封印をとく儀式。

 俺はため息とともに、黄身にまみれためしをのどに押しこんだ。

 黙々と食べる俺に麦茶のおかわりをつぐと、美鈴さんはとつぜん、

「問題です。昔お風呂に入ったときにある法則に気づいた、ニュートン、ガウスと並んで三大数学者と呼ばれている人は、いったいだれでしょう?」

 と、うきうきした表情で教科書を閉じた。

「あと十秒ー」

「んぁ、まぁたうぇてぅ」

 まだ食べてる、のに、容赦なくカウントダウン。

「ほらほら。あと五秒ー」

「んぐ……っ、あ、アルキメデス!」

 必死で嚥下して回答して、グラス一杯飲み干して、にやりと見つめ返してやった。

 美鈴さんが、ちぇ、と舌打つでもなく口でいう。だけどすぐにくしゃっと顔をほころばせて、正解、とほほえむ。

 俺は、おだやかに食事を再開する。

 美鈴さんには、この春から家庭教師をしてもらっている。

 我が家にきてもらっているわけじゃないから、厳密には家庭教師とはいわないのかな。

 ともかく、旦那が日曜と月曜以外は仕事で、一学期のあいだは土曜の午後に勉強を見てもらっていた。

 きょうから、もとい明日から夏休みなので、しばらくはほぼ毎日、美鈴さんに相手をしてもらえるというわけだ。

 絶品チャーハンをたいらげて、わかめスープをすすると、腹がググッと鳴った。ちょっと恥ずかしい満腹の合図だ。

 学校でも家でも極力この音をださないようにしているんだが、美鈴さんの前だけは別だ。

 はじめて俺の満腹音を聞いたとき、美鈴さんは、照れながら白状したのだ。彼女もまた、おなかがいっぱいになるとググッと鳴る体質なのだ、と。

 美鈴さんがとなりのキッチンでかたづけをしているうちに、俺は夏休みの課題帳にひととおり目を通した。こいつらは一週間でカタをつける予定だ。

 その後は、受験高校別に編纂された問題集を解いてゆくつもり。今週の土曜に、もと塾講師でもある美鈴さんと一緒に、本屋で物色することになっている。

 歯の裏にくっついたわかめを舌先でいじりながら、右手でペンケースをあけ、左手で英語の課題帳の最終ページをひらいた。

 シャーペンをカチカチカチカチさせて、芯をおおめにだしてみる。震えるHBの先で、最終解答欄に愛の言葉をつづる。

 I。L。O。V。E。Y。O。U。

 筆圧のかからない文字たちは、そのうっすらとした存在とは裏腹に、どうしようもなく熱をおびて、俺の目を焦がした。

 ひとめ見たときから好きだった。

 彼女は、引っ越しなんてめんどくさい転校するなんていやだー、とぶーぶー文句たれていた俺を、一瞬にして地獄からときはなってくれた。

 ……彼女がすでに、ほかの男のものだっていう現実は待っていたけれど。

 不毛だよなー、と声なき声を発して、クッションに背中を沈めた。

 つかもうとしても指のあいだをするりと逃げてゆく発泡ビーズのカタマリに、ずぶずぶと埋もれてゆく。

 そうさ、俺の恋も発泡ビーズみたいなものさ。

 愛し合うふたりの隙間をたゆたうことはできても、それ以上はない、頼りない恋。

 なにも考えないでいれば、望まないでいれば、それはそれは心地よく、甘美にどっぷりとハマれるかもしれない恋……。

 美鈴さんは菩薩で、女神で、天使だった。

 彼女のことを思うだけで、俺の体はあたたかい海に融けてなくなるかのようだった。

 つまりは、最上級に愛していた。

「――問題です。処刑の直前に、それでも地球はまわっている、と唱えたとされる天文学者は、いったいだれでしょう」

「ガリレオ・ガリレイ」

 ああそうさ、たとえ旦那がいたとしても、それでもきみを愛している。

 上体をゆっくり起こし、俺はアンニュイに笑ってみせた。

 薄すぎて気づかれないアルファベットを左手で隠しながら、シャーペンの芯を金属の筒に押しもどす。

 細かく削れたカーボンが、はらはらと課題帳を汚した。

「ごちそうさまでした、美鈴さん。じゃ、ぼちぼち、はじめましょーか」

「そうね、頭の準備体操はこのぐらいにしとこうか」

 キューブチョコレートとアメ玉を盛った小皿を、ことん、とテーブルのまんなかに置いて、美鈴さんはすとんと腰をおろした。

 いったん正座をしたけれど、すぐに足をくずす。

 そんななんでもないしぐさも、たまらなく俺を刺激する。脳みそと下半身の距離が近まった気さえする。

 下品な自分をひた隠すため、精一杯すずしい顔をつくった。視線を壁の絵に向けたりなんかして、平常心を装ってみた。

 握りしめて熱くなったシャーペンを持ちかえ、二回、ノックする。

 それが、勉強スタートの合図。

「さて、どうしよっかな。ん、英語からするのね。めやすの所要時間マイナス一〇分でやっていこうか」

「オーケー」

 一ページ目をひらくと、単語と慣用句の問題で、めやす時間は二〇分だった。

 ということは、これから一〇分のあいだ慕情を断ち切って、回答という行為にだけ集中しなければならないってことだ。これだから勉強はきらいだ。

 美鈴さんの授業は好きだけど、彼女にカッコつけていたいから予習も復習も完璧にやるけど、ほんとは、構文も文型もどーでもいいから、この恋だけに精神を使い果たしてしまいたいと思っている。

 よけいなことに気をとられたくない。

 俺が今いちばん考えなくてはならないことは、ほかならぬ美鈴さんのことだ。むくわれない恋に身を焦がすことが俺の使命だ。

 よって、一〇分なんていわず、五分で終わらせてやる。

「はい、はじめ」

 美鈴さんの合図が、彼女と俺の世界を隔絶した。

 俺にあるのは、ただ目の前の問題だけ。

「……終わった!」

「え、もう?」

 丸い目が俺を見る。

「まだ六分もあるのに。ちゃんと見直しした?」

「いいの、完璧だから。ほら」

 課題帳を突きつけると、美鈴さんはしぶしぶ赤ペンのキャップをはずした。

 きゃしゃな左手が耳に髪をかけ、うっすらシャドウの入った目もとが、わずかばかりの不満をたたえてスペルチェックをする。

 ローズのくちびるは、きゅっと結ばれて。

 むりやりにでも、キスをしたくなる。でも想像だけにとどめておく。

 俺は、非現実の世界でしか、彼女にふれられない。

「……残念」

 幸せで切ない物思いにふけっていた俺を、困ったような、元気のない声が我に返らせた。

「ほら、ここ」

 美鈴さんは物憂げな表情で、マニキュアの薄ピンクの指先で、問二をさししめした。

 見れば、ごくごく簡単な慣用句の接続詞を間違えている。

 しまった、と顔でうめいた俺に、彼女は、もと塾講師らしい教育者の口調でさとした。

「時間いっぱい回答を見直すのもテストのうちよ。できる問題をみすみすフイにするなんて、ほんとにもったいないからね」

 ――そのとおりだ。

 俺が勉強をがんばるのは、美鈴さんにカッコつけたいからだってのに、ほんの少しの焦りのせいでパーにしてしまうとは……情けない。

 消えてなくなってしまいたい。マジで。

「ま、あんまり落ちこまないで。短い時間で九割正解してるんだもの、これでちゃんと見直すクセがついたら、きっと怖いものなしよ」

 美鈴さんは、今度は近所のお姉さんの顔になって、テーブルごしに俺の肩をぽんとたたいた。

 彼女がふれた皮膚から、刺激が脳に伝わる過程で、多大なる熱が発生する。

 俺は、全身で彼女に恋してるんだな、と改めて思う。

「じゃ、つづけていこっか」

 ほほえむ彼女は、この世でいちばんきれいだ。

 たとえるなら、世界遺産の海の底、サンゴ礁がこわれてできた砂だ。そんなの写真集でしか見たことないけれど、その現実感のなさが美鈴さんと重なった。

 俺は、うしろに無数の生徒たちが席を並べているような錯覚をおぼえた。

 そして、美鈴さんにとっての俺という存在が、かぎりなく軽くなったように感じた。

 しょせん、俺なんか十も年下の中坊にすぎない。そういうとこだけ、妙に現実味があって忌ま忌ましい。

 俺って、美鈴さんの中で、どれだけの重みをもっているんだろう。

 過去、彼女が塾で教えたという多数の生徒たちより、ほんの少しでも特別でありたいと願うのは、単なるエゴにすぎないだろうか。

 好きなんだ。

 俺、あなたのことをだれよりも尊く思っています。

 だからせめて、大勢の中の一生徒ではなく、槙村太一というひとりの人間として、意識してください――

 じっと見つめかえした俺のまなざしに気づきもせずに、美鈴さんは課題帳のページをめくる。

「さ、満点めざしてね」

「うん……」

 あいまいに笑い、シャーペンを手にとる。

 今度は、めやす時間マイナス一〇分、きっちりフル活用してやる。


    *


 土曜の昼さがり。

 シャツ・アウトのすそから入りこんでくる風が気持ちいい。

 待ち合わせの場所は、駅前のちょっとしゃれた喫茶店だった。

 こんな店、生まれてこのかた一度も入ったことがない。ファミレスとは異質な空間だ。

 大通りから路地に入ったところで、やや薄暗い照明で、先にきていた美鈴さんが知らない女の人のように見えてドキドキした。

 午前中、駅ビルに買い物に行ってきたらしい。離れたところから見ても、いつもより化粧に気合いが入っているのがわかる。

 テーブルの下で組まれたスリムジーンズの足は、ラメがちかちかと光っていた。

「ここのハンバーグ、すっごくおいしいんだよぉ。太一くんはソースどうする?」

「じゃ、チーズで」

 美鈴さんは近くにいたウェイターに気さくに声をかけて、チーズソースと、キノコソースのランチセットを注文した。

 そこで、ハッとした。

 ここは、俺こそがウェイターをつかまえるべき場面だったんじゃないか?

 大人のデキる男なら、オーダーなんかも颯爽とリードしたりするんじゃあ、ないのか?

「どうしたの、鳩がまめでっぽうくらったような顔して」

 そうだ、けして、イイ男は鳩がまめでっぽうくらったような顔はしない。いや、してはいけないのだ。

 口もとを引きしめて、眉間に力を入れて、俺はグラスの水を飲んだ。

 ふだん、美鈴さんの家にいるときは意識しなかったことだが、こう慣れない店で向かい合っていると、「ハタ目に見た俺たち」がどうにも気になってしまった。

 俺、中学生というより高校生に見えるぜと自負しているが、バッチリきめた美鈴さんはどうしたって大人の女の人だ。

 たとい俺が高校生に見えたところで、ふつりあいなことに変わりはない。

「塾講してるとき、勤め先がほらあそこ、あのビルに入っててね。休み時間、いつもここにきてたんだよ」

 彼女はほおづえをついて、なつかしげに目を細めてみせた。

「今でも、毎月新しいソースが登場するから楽しみでさ。日曜日のランチは、おんなじ値段でデザートまでついてくるんだよ」

 それは残念だ。一日違うだけで、同じ値段でもメニューが違うのか……。

 それこそ平成生まれの俺と、昭和生まれの美鈴さんのあいだにはデザートの有無どころではなく、もしかすると、メインのハンバーグもぜんぜん味が違うぞー、ってぐらいのへだたりさえあるかもしれない。

 ……ちくしょう、俺もキノコソースにすればよかった。

 そのうちにさっきのウェイターがやってきて、俺と美鈴さんの前に、グリーンサラダとくるみパンを同じように並べていった。

 そのことに、ちょっとだけ安心した。というか、元気づけられた。

 違うことをなげくより、同じ時間を過ごせることをもっと喜んだらいいんだ。楽しんだらいいんだ。

 美鈴さんはどう思ってるかしらないけれど、これは、れっきとしたデートなのである。

「俺、くるみ好き」

「ほんと。このはちみつかけてローストしてあるの、香ばしくておいしいよね」

 ささいな同意がうれしい。

 でも、くるみパンは生地にスパイスがきいていて、甘いだけじゃやってらんないんだぞー、って、いってるような気がした。

 その証拠に、俺は、美鈴さんの爆弾発言を聞くことになってしまったのだ。

「うちの人もくるみ好きなの。とくにここのパンが好きでね。毎週だって通ってるんだよ」

 他愛のない言葉だったんだと思う。

 ただ、日常を語っただけなんだと思う。

 しかし、そのなにげないセリフは、俺のからだの全機能を一瞬、停止させた。

 俺っていう人間は、美鈴さん夫婦の日常のほんのかたすみに置かれた、ちっぽけなオブジェに過ぎないのだと痛感した。

 いつだって美鈴さんは、旦那の匂いのする場所にいる。

 あのみどりの家だって、この店だって。

 これからゆくデパートの中の本屋にだって、ふたりで趣味の本を探しにきたに違いない。

 もぐ、と口の中にあったパンのかけらを奥歯でかんだ。

 はちみつに隠れていたくるみ特有の苦みが、スパイシーな香りとともにひろがる。

 ちくしょう。泣けてくる。

 はこばれてきたハンバーグが最高においしくて助かった。とけたチーズはあつあつで、しゃべる余裕などなかった。

 悲痛なほどに黙々と食べる俺を、美鈴さんは満足げに、やさしいまなざしで見つめてくれていた。

 ……俺の気持ちになんて、気づいていやしないんだろうな。


    *


 日曜と月曜は、家庭教師はお休みだ。

 けさ早く、プリーツのミニスカートをはいた美鈴さんは、旦那のボックスカーに乗って一泊二日の旅行にでかけていった。

 行き先は海だそうだ。来年はいっしょにいこうね、なんて誘ってくれた。

 二階の窓からコッソリうかがった彼女の旦那は、あいかわらずガッチリと大きく、自信に満ちて見えた。

 きっと、美鈴さんが俺とふたりっきりになろうがなんだろうが、あの男は動揺なんてしないんだろう。

 ましてや俺は中坊で、はなから取るに足らない存在だ。

 そう、近所の犬や猫と変わらない。

 でなけりゃ、留守中の自宅で家庭教師なんて許すはずがない。

 ――俺は、あの男を怖がっているのかもしれなかった。

 もしも、で、俺が美鈴さんになにかした場合を考えてみる。

 あの男が、全身で怒ったらどうなる?

 俺よりデカくて、自信に満ちた大人な彼は、ひと声で俺を萎縮させるだろう。

 俺は、やる前から負けているのだ。

 それに、愚行を犯してしまったところで、美鈴さんのなかで俺の地位が上がるわけでもない。下がるだけ。わかってる。

 課題帳を学習机にほうりなげて、力なくベッドにころがった。

 仰向けになって、ため息まじりに白い天井を見ていると、だんだん、海の波に呑まれたような気になってきた。

 今頃、真夏の空の下で、ふたりは仲良く砂浜に寝そべっていたりするんだろうな。

 美鈴さんの水着ってどんなだろうな。美鈴さんて泳げるのかな。

 お昼ごはん、彼女はなにを食べるのかな。

 俺は、きっとカップメンかレトルトのカレーだな。美鈴さんレベルとまでは望まないから、うちの母親も多少は料理してくれたらいいのにな。

 そもそも家にいるのは俺ひとり。

 思考は誰にも遮られない、よって、どこまでもどこまでも沈んでゆく。

 あの男が美鈴さんのきゃしゃな手を引いている。海へ入ってくる。

 あの男が美鈴さんを抱きあげる。太い足で、海になった俺の顔やからだを踏む。

 俺、苦しくなって、もがいた。

 海の中で。

 自分の部屋の、ベッドの上で。

 水色のシーツが足にからまって、伸ばした手は見えない水をかいた。

「――っは」

 吐きだした息が水泡にならないことに大脳が気づいてようやく、肺は空気をとりこんだ。

 上半身を起こすと、ドッドッとTシャツの胸が脈打っている。

 熱い。汗が気持ち悪い。

 昨夜は睡眠不足だったけ。だから白昼夢なんか見るんだ。

 ちらりと見た時計は十二時きっかりで、しかしインスタント食品に食指は動かず、シャワーを浴びようにも水流に耐えられない気がして、俺は、眠りを求めることにした。

 せめて、夢だけは。

 幸せな夢を見させてください、かみさま。


  *


 昼寝から目をさました俺を、まぢかでのぞきこんでいる人がいた。

 美鈴さんだ。

 俺は、テーブルにつっぷして眠っていたようだった。

 顔の下敷きになっていた両腕が、中途半端な曲がり具合で、しびれて固まってしまっている。

「もう一日休む? しんどいときは、無理しないほうがいいよ」

 かすかに日焼けした肌から、やさしい太陽の匂いがした。

 サブリナパンツの裾からのぞいたすねも、くるぶしも、足の裏もサンタンしていて、白い部分はいったいどこだろうなぁなんて、ぼんやりした頭で考えた。

 きょうは火曜日なのに、二階には彼女の旦那がいる。

 日焼けをあまりにもしすぎて、帰ってくるなり発熱したんだそうだ。今はもういいらしいんだが、念のため有休をとって寝ているのだという。

 ほんとなら、きょうの家庭教師は遠慮するはずだった。さすがに、美鈴さんもそれどころではないだろうと思って。

 でも、彼女が教師としての使命感からか、どうしてもというので、こうして谷岡家にあがらせてもらっている。

「ごめんね、わたしが無理強いしたから。せっかくの夏休みだし、勉強を休みたいときもあるよね」

「あ……いや、俺としては毎日でも……」

 う、やばい。

 半ボケ状態だから、もう少しで本音をぶちまけるところだった。

 毎日でも会いたい、なんて。

 夫ある人にかける言葉じゃないよな。

「受験生だからって、そんなに気負うことはないのよ」

「あ……? あぁ。はい」

 美鈴さんはしっかり勘違いしてくれていて、ありがたいような、さみしいようなで、おかしくなってしまった。

 これだから、好きだ。

 真摯なまなざしが、ふきだしそうなのを必死で我慢する俺を見つめている。

 きっと、彼女は、人を疑うことを知らないんだろう。

 好きだ。

 ほんとうに、好きだ。

 あなたは、俺の理想のひと。

「美鈴さん」

 咳払いをして顔を引きしめてから、呼びかける。

 俺の額にふれようとしていた、彼女の手がとまる。

「好きなんだ」

 勉強が、じゃなくて、あなたのことが。

 今度は、気づくかな?

 美鈴さんは口をうすく「え」の形にひらいてから、きゅっととじた。立ちあがり、どこかへ行こうとした。

 でも、けっきょくは正座をして、とまどい気味のかたい表情で、俺を見つめかえしてきた。

 なにかをいおうとしているのか、くちびるがかすかに震えている。

 俺は、顔にどんどん血液が集まってくるのを感じた。

 ――告白、してしまった。

 はずかしい。

 死ぬ。死にそう。

 美鈴さん、気づいたよな。

 ばか、俺。調子にのって、なにいってんだ。

 たまらず目をとじ、こわごわと片目をあけた。

 美鈴さんは、おだやかな顔をしていた。

 彼女は、俺が両目をあけるのを待って、にっこりとほほえんだ。

「ありがとう、太一くん」

 ――瞬間。

 世界遺産級の笑顔が、俺だけのものになったと思った……。

 そのとき、階段のほうから音がした。

 けだるそうな足音。

 あくび。首を鳴らす気配。

「あ、起きたの」

 美鈴さんが、今まで俺に向けていた視線を、その男へ投げかけた。

 彼女は、とてもしぜんな動作で立ちあがった。

 男のほうへ歩いていった。よれよれっとしたパジャマの腕に、手をふれた。

 気遣う笑顔が、うしろ姿からも感じとれた。

 男は寝癖のついた頭をかきながら、実に幸福そうに笑みをうかべ、そして俺を見た。

 俺は、動けなかった。

 からだのまんなかを、霹靂がつきぬけてゆくのを感じてた。

 ……ようやっとで会釈をした俺に、美鈴さんの旦那は、よくひびく太い声で話しかけてきた。

「おー、受験生は夏休みもたいへんだなぁ」

「そうでもないっす。勉強、好きですから」

 こたえていうと、こちらを向いた美鈴さんが、いたずらっこみたいに笑った。

 いや、小悪魔とたとえたほうがいいのかな。

 ともかく、「わかってるんだから」とでもいいたげな、そんな微笑だった。

 俺は、まいってしまった。

「もうひと眠りしてから、問題集のつづきやります。いいですか」

 美鈴さんの返答を待たず、俺はテーブルにつっぷした。

 ――理想以上だよ、ほんと。

 ついでに、俺の想像もこえてるよ。

 彼女、きっとはじめから、俺の気持ちなんてわかってた。

 そして、牽制してたんだ。俺の前ではいつでもパンツルックで、旦那の匂いのする場所にいて。

 きわめつけは、「ありがとう」だよ。

 受け入れているようで、最大の拒否。

 ……やられたなぁ。

 でも、嬉しくもあった。

 俺、ちゃんと「男」だって認められてたんだ――、って。

 それだけで、じゅうぶんだった。

 俺はニヤけた顔をテーブルにぐりぐり押しつけ、「I LOVE YOU」と、こっそり口を動かした。



   *おわり*

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