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無音の姫は空を捨てる 〜「磁気飛行艇の設計図など役立たずだ」と婚約破棄されたので、光速の飛行艇ごと国を去ります。なお追いかけても追いつけません〜

作者: uta
掲載日:2026/09/09

「セレスティア、お前との婚約を破棄する」


夜会の喧騒が、ぴたりと止んだ。


シャンデリアの光の下、第二王子ライハルトが金髪を揺らして立っている。誇らしげに、まるで英雄の凱旋でも語るような口ぶりで。


「魔石を無駄に食う磁気飛行艇の設計図など、金食い虫の役立たずだ!」


私——セレスティア・フォン・アルヴィードは、扇を持つ手を静かに下ろした。


(磁気飛行艇が魔石を無駄に食う、ですって。魔石を『燃やして空気を押す』従来型のほうが、よほど燃費が悪すぎて笑えないのだけれど)


内心でそう呟いたが、口には出さない。私はいつも通り、無表情のまま立っていた。


宮廷の者たちは私を『無音の姫』と呼ぶ。感情を映さない青灰色の瞳、変化に乏しい表情。臆病だからではない。頭の中で、常に流体力学と電磁気学の演算が回り続けているだけだ。


ライハルトの隣で、赤髪の令嬢が勝ち気に唇を吊り上げた。ミレイユ・ドラクロワ伯爵令嬢。『正統派炎魔法の天才』を自称する女。


「あら、セレスティア様。あなたの研究、危険で非効率だと社交界でも評判ですのよ? 魔石浪費の妄想に、王家の予算を垂れ流すなんて」


くすくすと笑い声が広がる。


私は、ゆっくりと瞬きをした。


(危険で非効率、ね。その言葉、そっくりそのままお返しする日が来るとは、今の彼女は夢にも思っていないのでしょうね)


五歳のあの日、私は前世を思い出した。日本の航空宇宙エンジニアだった記憶を。以来、この魔法至上主義の国で、私はただ黙々と空を設計してきた。


王国の輸送を。灌漑を。鉱山の排水を。誰にも褒められることなく、健気に、ひたすらに。


そして今——その全てを『役立たず』の一言で切り捨てられた。


「返事はどうした、セレスティア」ライハルトが苛立ったように顎を上げる。「泣いて縋るなら見苦しいぞ。潔く消えろ」


私は、微笑まなかった。怒りもしなかった。


ただ、静かに——一礼した。


「承知いたしました」


私の声は、水面のように凪いでいた。


「ではこの設計図も、試作艇も——私の頭の中の全知識も。すべて持って、去ります」


ライハルトが眉をひそめた。彼はまだ、何も理解していない。


「知識だと? はっ、勝手にしろ。役立たずの妄想など、この国には不要だ」


「ええ、不要でしょうとも」


私は顔を上げた。青灰色の瞳が、まっすぐに王子を射抜く。


「不要なものを、私は持って参ります。今後この国で、それが『どれほど不要だったか』を、皆様がご自身の目で確かめられますように」


一瞬、夜会の空気が凍った。


ミレイユが甲高く笑い飛ばす。「何を言っているの? 負け惜しみも大概になさい!」


私は答えなかった。答える価値がなかったからだ。


静かに踵を返す。ドレスの裾を翻し、大広間の扉へと歩く。


背後でライハルトが何か喚いていたが、私の耳には、もう届いていなかった。頭の中ではすでに、次の演算が始まっていた。ヒカリ号の出力調整、国境までの飛行ルート、磁場強度の最終確認——。


(灌漑ポンプの魔石回路。鉱山排水の磁気ドレナージュ。輸送網の浮上制御。……全部、私の頭の中にしかない)


扉を抜ける瞬間、私は初めて、ほんのわずかに唇の端を上げた。


(あなたたちは、心臓を追い出したのよ。それに気づくのは、鼓動が止まってからでしょうけれど)


夜風が、銀の髪を撫でた。


馬車に乗り込む。行き先は、自邸の地下ドック。


そこには、この世界の誰も見たことのない未来が、静かに眠っていた。



地下ドックの巨大な扉が、鈍い音を立てて開いた。


魔導灯の淡い光が、それを照らし出す。


流線型の白銀の機体。空気を切り裂くために計算し尽くされた曲線。船腹に刻まれた磁石結晶の回路が、脈打つように青白く光っている。


第一号艇——『ヒカリ号』。


「よう来なすった、姫さん」


油と魔石粉で汚れた作業着の老技師が、白い顎髭を撫でながら振り返った。ゴットフリート・ヴェスパー。私の構想を、この世界で最初に信じた男だ。


「宮廷はどうでしたかな」


「役立たずだそうです」私は淡々と答えた。「金食い虫の妄想だと」


ゴットフリートは、ふん、と鼻を鳴らした。


「連中に理屈が分かるものか。だが理屈は通っておる。ならば飛ぶ。飛ばぬはずがなかろう」


その言葉に、私はわずかに頷いた。この老人の判断基準は、身分でも格式でもない。ただ『正しい設計かどうか』——それだけだ。


機体の傍らに、黒髪の騎士が立っていた。


アルヴィン。私の護衛騎士。鋭い紫紺の瞳、隙のない佇まい。普段は氷のように無口な男だ。


「姫。国境警備隊は動いていません。今のうちに」


「ええ。出ましょう。ゴットフリート、磁場発生装置、起動を」


「合点だ」


老技師がレバーを引く。


次の瞬間——ヒカリ号が、音もなく浮いた。


轟音も、黒煙も、振動も、何ひとつない。ただ静かに、羽根のように、機体が宙に浮かび上がる。磁気の反発が、質量を忘れさせる。


その光景に。


あの冷徹な騎士の仮面が、崩れた。


「……これは」


アルヴィンの紫紺の瞳が、少年のように見開かれる。


「これは、すごい。これはすごいですよ、姫! 摩擦がない、空気に触れていないのに——姫、これはっ」


早口でまくし立てる彼を、私は横目で見た。


(……いつもの氷はどこへ行ったのかしら)


「アルヴィン。乗ってください。喋るのは、空の上でも」


「は、はい! 失礼しました!」


慌てて乗り込む護衛騎士。その耳が、ほんのり赤い。


ゴットフリートが、くつくつと笑った。


「さて、姫さん。行き先はどこですかな」


私は前を見据えた。ドックの天井が割れ、星空が覗く。


「隣国レギオス。——空を、必要としてくれる場所へ」



「飛行艇団、出撃だ! アルヴィード侯爵令嬢を連れ戻せ!」


夜半、ヴェルトラ王城の警鐘が鳴り響いた。


セレスティア出奔の報は、瞬く間に王子ライハルトの耳に届いた。彼は玉座の間で、拳を叩きつけて叫んでいた。


「たかが飛行艇だ! 従来型の艇団で追えばすぐに捕まえられる!」


王国が誇る飛行艇団——十二隻の従来型艇が、轟音とともに夜空へ飛び立った。魔石を焚き、爆炎で推進し、黒煙をたなびかせて。


そして、彼らは見た。


はるか前方を、白銀の光が滑っていくのを。


音もなく。煙もなく。ただ流れ星のように。


「追え! なぜ追いつかん!」


隊長が怒鳴る。だが——距離は開く一方だった。



ヒカリ号の操縦席で、私は静かに計器を見つめていた。


「後方、追撃艇十二隻。全機、加速中です」アルヴィンが報告する。


「速度は?」


「彼らは最大出力。……ですが、こちらとの差は開き続けています」


私は、うなずいた。


「当然です。彼らは魔石を燃やして空気を押している。空気抵抗と摩擦で、出力の大半を失っている。私たちは——」


レバーを、そっと前へ倒す。


「摩擦を、捨てました」


ヒカリ号が加速した。磁気反発が空気を裂き、機体は光の帯となって夜天を滑る。


ゴットフリートが、風防越しに後方を見て笑った。


「見なされ、姫さん。あの連中、魔石が切れかけとる。もう墜ちるぞ」


事実、追撃艇団は次々と高度を落とし始めていた。爆炎が弱まり、黒煙が途切れ、一隻、また一隻と失速していく。


燃費が悪すぎるのだ。彼らのやり方は。


私は通信の魔導装置に手を触れ、ただ一言だけ、王国へ向けて残した。


「——なお、追いかけても追いつけません」


通信を切る。


光速に迫る速度で、ヒカリ号は国境を越えた。


背後で、最後の追撃艇が力尽きて高度を失っていくのが見えた。


アルヴィンが、感嘆の息を漏らす。


「……見事です、姫。誰一人、あなたに届かない」


「ええ」私は前だけを見ていた。「もう、誰も」



「よくぞ来てくれた、セレスティア・フォン・アルヴィード嬢」


レギオス王城の大広間。若き国王テオドール・レギオスが、両腕を広げて私を迎えた。おおらかな笑みと、器の大きさを感じさせる眼差し。


「あなたの飛行艇技術は、我が国が長年渇望してきたものだ。存分に研究できる環境を約束しよう。空路も、防衛も、灌漑も——すべてを、あなたに託したい」


「光栄です、陛下」私は一礼した。「必要とされる場所で仕事ができることほど、技術者にとっての幸福はありません」


テオドールは満足げに頷き、それから隣に控える弟へ、いたずらっぽい視線を向けた。


「アルヴィン。ずいぶんと熱心に彼女を守ってきたそうだな。……ふむ、その顔は、務め以上の何かがありそうだ?」


「兄上」


冷徹なはずの護衛騎士——いや、この国では亡命王子アルヴィン・レギオス殿下が、露骨に目を逸らした。耳が、また赤い。


私は気づかないふりをした。演算に集中しているように装って。


(……人の内面独白まで、演算では処理しきれないのだけれど)



一方、ヴェルトラ王国。


セレスティアが去って、ひと月。


王国は、静かに、しかし確実に、崩壊し始めていた。


「陛下! 王都南部の灌漑ポンプが停止しました! 磁気回路の再起動ができる者が、一人もおりません!」


「鉱山の排水も止まっています! 坑道が水没寸前です! 輸送網の浮上制御が不能に! 物流が完全に麻痺しております!」


玉座の間に、悲鳴のような報告が次々と飛び込んでくる。


ライハルトは、青ざめた顔で立ち尽くしていた。


「なぜだ……なぜ、たかが飛行艇の設計者が去っただけで……!」


老臣が、震える声で答えた。


「殿下……あの磁気技術は、飛行艇だけのものではなかったのです。灌漑も、排水も、輸送も——王国のインフラすべてが、セレスティア様の設計に、依存していたのです」


「そんな……そんなものは、聞いていない!」


「殿下が、お聞きにならなかったのです」


室内が、しん、と静まった。


ライハルトの足元から、崩壊が這い上がってくる。


『役立たず』と切り捨てた、あの静かな令嬢。


その正体は——国家の心臓だった。


「あの女を連れ戻せ! 今すぐだ!」


ライハルトの絶叫が、玉座の間に響き渡った。


だが、誰も動かなかった。動けなかった。


「殿下」老臣が力なく首を振る。「連れ戻す、と申されましても……レギオスへ飛ぶ手段が、もう我が国にはございません。飛行艇団は、あの夜の追撃で大半を失いました」


「新しく作ればいいだろう!」


「作れる技術者が、おりません。すべて、セレスティア様の頭の中にございました」


ライハルトは、言葉を失った。


そのとき、大広間の扉が開き、赤髪の令嬢が転がり込んできた。ミレイユ・ドラクロワ。


「ライハルト様! わたくしが、わたくしの炎魔法で飛行艇を!」


彼女は自慢の炎魔法を掲げた。派手な、人目を引く、正統派の炎を。


轟、と炎が燃え上がる。


だが——それだけだった。


炎は宙で揺らめき、ただ熱を放ち、そして消えた。飛行艇の一隻すら、浮かせることはできなかった。


「な……なぜ……!」ミレイユの琥珀の瞳が、揺れた。「わたくしは、天才のはず……!」


「浮かないのだ、令嬢よ」老臣が冷ややかに告げた。「炎で空気を押しても、艇は浮かん。あなたが『危険で非効率』と嘲ったあの技術こそが——空を飛ばす唯一の理屈だったのです」


ミレイユの手が、だらりと落ちた。


自称『天才』の看板が、音を立てて崩れていく。


『危険で非効率』——その言葉は、いま、そっくりそのまま彼女自身へと返ってきた。


ライハルトは玉座に崩れ落ち、頭を抱えた。


「役立たず、だと思っていた……あれが、この国の……」


失ってから、彼らはようやく気づいた。


だが、光速の艇に追いつく手段は、もう、どこにもなかった。



レギオス王城の、真新しい研究工房。


窓の外には、青く澄んだ空が広がっている。空を必要としてくれる国の、空だ。


私は製図台に向かい、新しい設計図を広げていた。


ヒカリ号の、次。


磁気反発による摩擦ゼロは、もう当たり前になった。次に捨てるべきは——音だ。そして、その先は。


「姫」


背後から、アルヴィンの声。もう護衛騎士ではなく、この国の王子として。それでも、彼はいつも私の隣にいる。


「また新しいものを?」


「ええ」私は図面から顔を上げずに答えた。「音速を超えて、時間すら置き去りにする艇を」


アルヴィンが、私の手元を覗き込む。その紫紺の瞳が、また少年のように輝き始める。


「……時間を、置き去りに?」


「理論上は。衝撃波の制御と、磁場の位相を——」


「姫、それは、それはすごい! つまりこの機構が——」


早口になる彼を、私は横目で見た。氷の仮面はもう、私の前では二度と戻らないらしい。


ゴットフリートが工房の隅で、くつくつと笑っている。


「理屈が通っておる。ならば飛ぶ。飛ばぬはずがなかろう」


私は、ペンを走らせながら、静かに言った。


「ヴェルトラは、追いかけても追いつけないものを作った私を、手放しました」


図面の上で、新しい未来の輪郭が、線となって現れていく。


「次は——追いつけないどころか」


ペンを止め、私は窓の外の空を見上げた。


「追う気も、起きないものを作ります」


アルヴィンが、そっと微笑んだ。


「僕は、いつでもあなたの隣で、その完成を見届けたい」


テオドール王が扉の陰でそれを聞いて、にやりと笑ったのを、私は気づかないふりをした。


大陸の空の覇権争いは、まだ始まったばかり。


無音の姫は、空を捨てたのではなかった。


——空を、選び直したのだ。


誰にも追いつけない、はるか先の空を。

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