無音の姫は空を捨てる 〜「磁気飛行艇の設計図など役立たずだ」と婚約破棄されたので、光速の飛行艇ごと国を去ります。なお追いかけても追いつけません〜
「セレスティア、お前との婚約を破棄する」
夜会の喧騒が、ぴたりと止んだ。
シャンデリアの光の下、第二王子ライハルトが金髪を揺らして立っている。誇らしげに、まるで英雄の凱旋でも語るような口ぶりで。
「魔石を無駄に食う磁気飛行艇の設計図など、金食い虫の役立たずだ!」
私——セレスティア・フォン・アルヴィードは、扇を持つ手を静かに下ろした。
(磁気飛行艇が魔石を無駄に食う、ですって。魔石を『燃やして空気を押す』従来型のほうが、よほど燃費が悪すぎて笑えないのだけれど)
内心でそう呟いたが、口には出さない。私はいつも通り、無表情のまま立っていた。
宮廷の者たちは私を『無音の姫』と呼ぶ。感情を映さない青灰色の瞳、変化に乏しい表情。臆病だからではない。頭の中で、常に流体力学と電磁気学の演算が回り続けているだけだ。
ライハルトの隣で、赤髪の令嬢が勝ち気に唇を吊り上げた。ミレイユ・ドラクロワ伯爵令嬢。『正統派炎魔法の天才』を自称する女。
「あら、セレスティア様。あなたの研究、危険で非効率だと社交界でも評判ですのよ? 魔石浪費の妄想に、王家の予算を垂れ流すなんて」
くすくすと笑い声が広がる。
私は、ゆっくりと瞬きをした。
(危険で非効率、ね。その言葉、そっくりそのままお返しする日が来るとは、今の彼女は夢にも思っていないのでしょうね)
五歳のあの日、私は前世を思い出した。日本の航空宇宙エンジニアだった記憶を。以来、この魔法至上主義の国で、私はただ黙々と空を設計してきた。
王国の輸送を。灌漑を。鉱山の排水を。誰にも褒められることなく、健気に、ひたすらに。
そして今——その全てを『役立たず』の一言で切り捨てられた。
「返事はどうした、セレスティア」ライハルトが苛立ったように顎を上げる。「泣いて縋るなら見苦しいぞ。潔く消えろ」
私は、微笑まなかった。怒りもしなかった。
ただ、静かに——一礼した。
「承知いたしました」
私の声は、水面のように凪いでいた。
「ではこの設計図も、試作艇も——私の頭の中の全知識も。すべて持って、去ります」
ライハルトが眉をひそめた。彼はまだ、何も理解していない。
「知識だと? はっ、勝手にしろ。役立たずの妄想など、この国には不要だ」
「ええ、不要でしょうとも」
私は顔を上げた。青灰色の瞳が、まっすぐに王子を射抜く。
「不要なものを、私は持って参ります。今後この国で、それが『どれほど不要だったか』を、皆様がご自身の目で確かめられますように」
一瞬、夜会の空気が凍った。
ミレイユが甲高く笑い飛ばす。「何を言っているの? 負け惜しみも大概になさい!」
私は答えなかった。答える価値がなかったからだ。
静かに踵を返す。ドレスの裾を翻し、大広間の扉へと歩く。
背後でライハルトが何か喚いていたが、私の耳には、もう届いていなかった。頭の中ではすでに、次の演算が始まっていた。ヒカリ号の出力調整、国境までの飛行ルート、磁場強度の最終確認——。
(灌漑ポンプの魔石回路。鉱山排水の磁気ドレナージュ。輸送網の浮上制御。……全部、私の頭の中にしかない)
扉を抜ける瞬間、私は初めて、ほんのわずかに唇の端を上げた。
(あなたたちは、心臓を追い出したのよ。それに気づくのは、鼓動が止まってからでしょうけれど)
夜風が、銀の髪を撫でた。
馬車に乗り込む。行き先は、自邸の地下ドック。
そこには、この世界の誰も見たことのない未来が、静かに眠っていた。
◇
地下ドックの巨大な扉が、鈍い音を立てて開いた。
魔導灯の淡い光が、それを照らし出す。
流線型の白銀の機体。空気を切り裂くために計算し尽くされた曲線。船腹に刻まれた磁石結晶の回路が、脈打つように青白く光っている。
第一号艇——『ヒカリ号』。
「よう来なすった、姫さん」
油と魔石粉で汚れた作業着の老技師が、白い顎髭を撫でながら振り返った。ゴットフリート・ヴェスパー。私の構想を、この世界で最初に信じた男だ。
「宮廷はどうでしたかな」
「役立たずだそうです」私は淡々と答えた。「金食い虫の妄想だと」
ゴットフリートは、ふん、と鼻を鳴らした。
「連中に理屈が分かるものか。だが理屈は通っておる。ならば飛ぶ。飛ばぬはずがなかろう」
その言葉に、私はわずかに頷いた。この老人の判断基準は、身分でも格式でもない。ただ『正しい設計かどうか』——それだけだ。
機体の傍らに、黒髪の騎士が立っていた。
アルヴィン。私の護衛騎士。鋭い紫紺の瞳、隙のない佇まい。普段は氷のように無口な男だ。
「姫。国境警備隊は動いていません。今のうちに」
「ええ。出ましょう。ゴットフリート、磁場発生装置、起動を」
「合点だ」
老技師がレバーを引く。
次の瞬間——ヒカリ号が、音もなく浮いた。
轟音も、黒煙も、振動も、何ひとつない。ただ静かに、羽根のように、機体が宙に浮かび上がる。磁気の反発が、質量を忘れさせる。
その光景に。
あの冷徹な騎士の仮面が、崩れた。
「……これは」
アルヴィンの紫紺の瞳が、少年のように見開かれる。
「これは、すごい。これはすごいですよ、姫! 摩擦がない、空気に触れていないのに——姫、これはっ」
早口でまくし立てる彼を、私は横目で見た。
(……いつもの氷はどこへ行ったのかしら)
「アルヴィン。乗ってください。喋るのは、空の上でも」
「は、はい! 失礼しました!」
慌てて乗り込む護衛騎士。その耳が、ほんのり赤い。
ゴットフリートが、くつくつと笑った。
「さて、姫さん。行き先はどこですかな」
私は前を見据えた。ドックの天井が割れ、星空が覗く。
「隣国レギオス。——空を、必要としてくれる場所へ」
◇
「飛行艇団、出撃だ! アルヴィード侯爵令嬢を連れ戻せ!」
夜半、ヴェルトラ王城の警鐘が鳴り響いた。
セレスティア出奔の報は、瞬く間に王子ライハルトの耳に届いた。彼は玉座の間で、拳を叩きつけて叫んでいた。
「たかが飛行艇だ! 従来型の艇団で追えばすぐに捕まえられる!」
王国が誇る飛行艇団——十二隻の従来型艇が、轟音とともに夜空へ飛び立った。魔石を焚き、爆炎で推進し、黒煙をたなびかせて。
そして、彼らは見た。
はるか前方を、白銀の光が滑っていくのを。
音もなく。煙もなく。ただ流れ星のように。
「追え! なぜ追いつかん!」
隊長が怒鳴る。だが——距離は開く一方だった。
◇
ヒカリ号の操縦席で、私は静かに計器を見つめていた。
「後方、追撃艇十二隻。全機、加速中です」アルヴィンが報告する。
「速度は?」
「彼らは最大出力。……ですが、こちらとの差は開き続けています」
私は、うなずいた。
「当然です。彼らは魔石を燃やして空気を押している。空気抵抗と摩擦で、出力の大半を失っている。私たちは——」
レバーを、そっと前へ倒す。
「摩擦を、捨てました」
ヒカリ号が加速した。磁気反発が空気を裂き、機体は光の帯となって夜天を滑る。
ゴットフリートが、風防越しに後方を見て笑った。
「見なされ、姫さん。あの連中、魔石が切れかけとる。もう墜ちるぞ」
事実、追撃艇団は次々と高度を落とし始めていた。爆炎が弱まり、黒煙が途切れ、一隻、また一隻と失速していく。
燃費が悪すぎるのだ。彼らのやり方は。
私は通信の魔導装置に手を触れ、ただ一言だけ、王国へ向けて残した。
「——なお、追いかけても追いつけません」
通信を切る。
光速に迫る速度で、ヒカリ号は国境を越えた。
背後で、最後の追撃艇が力尽きて高度を失っていくのが見えた。
アルヴィンが、感嘆の息を漏らす。
「……見事です、姫。誰一人、あなたに届かない」
「ええ」私は前だけを見ていた。「もう、誰も」
◇
「よくぞ来てくれた、セレスティア・フォン・アルヴィード嬢」
レギオス王城の大広間。若き国王テオドール・レギオスが、両腕を広げて私を迎えた。おおらかな笑みと、器の大きさを感じさせる眼差し。
「あなたの飛行艇技術は、我が国が長年渇望してきたものだ。存分に研究できる環境を約束しよう。空路も、防衛も、灌漑も——すべてを、あなたに託したい」
「光栄です、陛下」私は一礼した。「必要とされる場所で仕事ができることほど、技術者にとっての幸福はありません」
テオドールは満足げに頷き、それから隣に控える弟へ、いたずらっぽい視線を向けた。
「アルヴィン。ずいぶんと熱心に彼女を守ってきたそうだな。……ふむ、その顔は、務め以上の何かがありそうだ?」
「兄上」
冷徹なはずの護衛騎士——いや、この国では亡命王子アルヴィン・レギオス殿下が、露骨に目を逸らした。耳が、また赤い。
私は気づかないふりをした。演算に集中しているように装って。
(……人の内面独白まで、演算では処理しきれないのだけれど)
◇
一方、ヴェルトラ王国。
セレスティアが去って、ひと月。
王国は、静かに、しかし確実に、崩壊し始めていた。
「陛下! 王都南部の灌漑ポンプが停止しました! 磁気回路の再起動ができる者が、一人もおりません!」
「鉱山の排水も止まっています! 坑道が水没寸前です! 輸送網の浮上制御が不能に! 物流が完全に麻痺しております!」
玉座の間に、悲鳴のような報告が次々と飛び込んでくる。
ライハルトは、青ざめた顔で立ち尽くしていた。
「なぜだ……なぜ、たかが飛行艇の設計者が去っただけで……!」
老臣が、震える声で答えた。
「殿下……あの磁気技術は、飛行艇だけのものではなかったのです。灌漑も、排水も、輸送も——王国のインフラすべてが、セレスティア様の設計に、依存していたのです」
「そんな……そんなものは、聞いていない!」
「殿下が、お聞きにならなかったのです」
室内が、しん、と静まった。
ライハルトの足元から、崩壊が這い上がってくる。
『役立たず』と切り捨てた、あの静かな令嬢。
その正体は——国家の心臓だった。
「あの女を連れ戻せ! 今すぐだ!」
ライハルトの絶叫が、玉座の間に響き渡った。
だが、誰も動かなかった。動けなかった。
「殿下」老臣が力なく首を振る。「連れ戻す、と申されましても……レギオスへ飛ぶ手段が、もう我が国にはございません。飛行艇団は、あの夜の追撃で大半を失いました」
「新しく作ればいいだろう!」
「作れる技術者が、おりません。すべて、セレスティア様の頭の中にございました」
ライハルトは、言葉を失った。
そのとき、大広間の扉が開き、赤髪の令嬢が転がり込んできた。ミレイユ・ドラクロワ。
「ライハルト様! わたくしが、わたくしの炎魔法で飛行艇を!」
彼女は自慢の炎魔法を掲げた。派手な、人目を引く、正統派の炎を。
轟、と炎が燃え上がる。
だが——それだけだった。
炎は宙で揺らめき、ただ熱を放ち、そして消えた。飛行艇の一隻すら、浮かせることはできなかった。
「な……なぜ……!」ミレイユの琥珀の瞳が、揺れた。「わたくしは、天才のはず……!」
「浮かないのだ、令嬢よ」老臣が冷ややかに告げた。「炎で空気を押しても、艇は浮かん。あなたが『危険で非効率』と嘲ったあの技術こそが——空を飛ばす唯一の理屈だったのです」
ミレイユの手が、だらりと落ちた。
自称『天才』の看板が、音を立てて崩れていく。
『危険で非効率』——その言葉は、いま、そっくりそのまま彼女自身へと返ってきた。
ライハルトは玉座に崩れ落ち、頭を抱えた。
「役立たず、だと思っていた……あれが、この国の……」
失ってから、彼らはようやく気づいた。
だが、光速の艇に追いつく手段は、もう、どこにもなかった。
◇
レギオス王城の、真新しい研究工房。
窓の外には、青く澄んだ空が広がっている。空を必要としてくれる国の、空だ。
私は製図台に向かい、新しい設計図を広げていた。
ヒカリ号の、次。
磁気反発による摩擦ゼロは、もう当たり前になった。次に捨てるべきは——音だ。そして、その先は。
「姫」
背後から、アルヴィンの声。もう護衛騎士ではなく、この国の王子として。それでも、彼はいつも私の隣にいる。
「また新しいものを?」
「ええ」私は図面から顔を上げずに答えた。「音速を超えて、時間すら置き去りにする艇を」
アルヴィンが、私の手元を覗き込む。その紫紺の瞳が、また少年のように輝き始める。
「……時間を、置き去りに?」
「理論上は。衝撃波の制御と、磁場の位相を——」
「姫、それは、それはすごい! つまりこの機構が——」
早口になる彼を、私は横目で見た。氷の仮面はもう、私の前では二度と戻らないらしい。
ゴットフリートが工房の隅で、くつくつと笑っている。
「理屈が通っておる。ならば飛ぶ。飛ばぬはずがなかろう」
私は、ペンを走らせながら、静かに言った。
「ヴェルトラは、追いかけても追いつけないものを作った私を、手放しました」
図面の上で、新しい未来の輪郭が、線となって現れていく。
「次は——追いつけないどころか」
ペンを止め、私は窓の外の空を見上げた。
「追う気も、起きないものを作ります」
アルヴィンが、そっと微笑んだ。
「僕は、いつでもあなたの隣で、その完成を見届けたい」
テオドール王が扉の陰でそれを聞いて、にやりと笑ったのを、私は気づかないふりをした。
大陸の空の覇権争いは、まだ始まったばかり。
無音の姫は、空を捨てたのではなかった。
——空を、選び直したのだ。
誰にも追いつけない、はるか先の空を。




