// 014 - 真相の種
夜の山は、昼よりも静かだった。
ローフェン山岳の岩肌には、小さな裂け目のような洞窟が口を開けていた。人が三人入れば肩が触れ合う程度の狭さだが、風を避けるには十分だった。
洞窟の奥で、焚き火が静かに燃えている。
乾いた枝がぱちりと弾け、橙色の火が岩壁に揺れる影を投げていた。煤の匂いと、僅かに湿った石の匂いが混ざり合い、洞窟の空気を重くしている。
火の熱が届く場所に、少女は横たえられていた。
カガンの外套が折り畳まれ、即席の敷布になっている。その上で、淡い紫色の髪が焚き火の光を受けて微かに色を変えていた。影の中では青く、火に触れるところでは薄く赤みを帯びる。
胸が小さく上下している。
呼吸はまだ浅いが、落ち着いていた。洞窟の入口では、夜風が細く鳴っている。岩の隙間を通る風は笛のような音を立て、遠くの闇から山の匂いを運んできた。乾いた土と、冷えた石と、どこか遠くの水の気配。
スタンは焚き火の向こう側に座り、枝を一本くべた。
火が揺れ、少女の顔に影が落ちる。
まだ幼い顔だった。血は洗い流されているが、頬の傷は浅く残っている。睫毛が僅かに震え、眠りの中で何かを探すように眉が寄った。
その向かい側で、カガンは岩壁にもたれ、短剣で木片を削っていた。
刃が木を削る、乾いた音。しゃり、しゃりと。一定の間隔で続くその音は、洞窟の静けさの中で妙に響いた。
「――何者かが、件の襲撃を魔教の仕業に見立てていると?」
スタンが視線を投げ、小さく吐息を漏らした。
その声は僅かに重く淀みを帯びている。
「ああ。間違いねぇ……主犯は想像できるだろ?」
カガンは顔を上げなかった。
短剣の刃先が、木片の表面をゆっくりと削る。しゃり、と乾いた音が洞窟の奥へ吸い込まれていった。削り屑が指先に積もり、それを親指で払い落とす。
火の向こうで、スタンの影が僅かに揺れる。スタンは太腿の上に垂らしていた腕を、ほんの僅かに動かした。指先が鎧の縁に触れ、金属が小さく鳴る。眉が寄る。だが、それ以上の言葉はすぐには出てこなかった。
焚き火がぱちりと弾ける。
火の粉が一つ、空中へ浮き上がり、すぐに暗闇へ溶けた。
「天教が民を襲うなど……信徒がそんな真似をするとは思えん」
「感情で語るな。状況証拠から見て、一枚絡んでるのは確かだ……個人の犯行か組織的な犯行かどうかまでは、分からねぇがな……」
カガンはそう言って、目を細めた。
焚き火の光がその横顔を掠め、瞳の奥を一瞬だけ赤く光らせる。スタンは視線を受け止めきれず、僅かに目を逸らした。代わりに、洞窟の奥を見る。
火の届く場所で、少女はまだ眠っていた。
淡い紫の髪が外套の上へ広がり、口元からは細い涎が一筋垂れている。頬が焚き火の熱でほんのり赤くなり、胸は一定の調子で上下していた。
「……ぐぅ……」
間の抜けた寝息が落ちる。
洞窟の静けさの中で、それだけが妙に大きく響いた。カガンの眉がぴくりと動く。数秒、黙ってそれを見ていた。そして、舌打ちを落とす。
短剣を鞘へ戻す。
金属が軽く鳴り、洞窟の奥へ乾いた音が広がった。
カガンは岩壁から身体を離す。
砂利が小さく鳴る。焚き火の前を横切り、少女の前へ立った。火の光で影が長く伸びる。しゃがみ込む気配はない。代わりに、乱暴に手を伸ばした。胸ぐらを掴む。布がくしゃりと歪む。そのまま、容赦なく揺さぶった。
「――おいガキ。起きろ」
身体ががくがくと揺れる。
紫の髪がばさばさと振れ、頭が左右へ振り回された。
「ぐわぁ……な、なに。パパ?」
間抜けな声が漏れる。瞼が半分だけ開く。
焦点の合わない黄色い瞳が、ぼんやりと焚き火を映した。
「あんまり揺らさないでくださぃ……」
「寝ぼけてんじゃねぇ……お前を庇った親父は死んだ。状況を把握しろ」
少女の身体が、ぴたりと止まった。
胸ぐらを掴まれたまま、宙に浮いたような姿勢で固まる。
輝石のような黄色い瞳が、大きく見開かれていた。
「――パパが、死んだ?」
声は小さかった。カガンは手を離す。
少女の身体が力なく地面へ戻り、外套の上に崩れ落ちた。
数秒、誰も喋らなかった。
焚き火が、ぱちりと弾ける。その音だけが洞窟に残る。少女の視線は宙を彷徨っていた。洞窟の天井でも、焚き火でもない。何か遠いところを見ている。記憶を辿っているようだった。瞳がゆっくりと揺れる。
崩れた馬車。血の匂い。剣の光。父の腕。
それらを順番になぞるように震え、沈んでいく。
やがて、少女の目が細くなった。
「あぁ……そうでした。私、襲われて……」
言葉が途中で途切れる。
代わりに、深く息を吸った。焚き火の光が、少女の瞳の奥で揺れる。
そして、ゆっくり顔を上げた。視線が、二人へ向く。
「……もしかして、お二人は私を助けてくれた方ですか?」
「ああ、そうだ。だから俺らには、状況を訊く権利がある」
カガンは焚き火の横に腰を下ろした。
砂利が僅かに鳴る。火の熱が横顔を照らし、頬骨の影が深く落ちた。
少女はまだ外套の上に座り込んだままだった。
伏せがちになった瞳が、ゆっくりと揺れる。
視線は地面へ落ち、そこから少しも動かなかった。
火がぱちりと弾ける。
少女の指が動いた。胸元の布を、そっと押さえる。魔教の紋章――少女は、それを掌で包み込む。細い小さな指が、ぎゅっと握り込まれた。金属が掌に食い込み、微かな軋みを立てた。
「ええと……元々、私たちはリーヘン湾港に住んでいたんです。けれど、その、魔教を信仰している関係で……弾圧が。それで、逃げてきました」
洞窟の奥で風が鳴った。
岩の隙間を抜けた冷たい音が、焚き火の熱に触れて細く揺れる。
「護衛はいたのですが、数が数だけに対応しきれなくなってしまって……この有り様というわけです。皆、浄化されたんですね……へくちっ」
間の抜けたくしゃみが、洞窟の奥へ転がった。
火がぱちりと弾ける。
スタンの眉が、僅かに寄った。
「……襲撃者は、どんな服装をしていた」
「えっと、ですね。白い法衣を着てました。金糸が輝いていて綺麗でしたね。まぁ、返り血で薄汚くなってましたけど……天教徒のものかと」
白い法衣。金糸の装飾。天教徒。その言葉に、スタンの目が細くなった。焚き火の光が揺れ、瞳の奥に赤い影が差す。だが、それ以上の反応は見せない。ただ視線を落とし、膝の上で指を組み直した。
鎧の縁が、微かに鳴る。火がぱちりと弾けた。
その向かいで、カガンが喉を鳴らす。
「やっぱりな……で、心当たりはあんのか」
「そりゃあ……魔教徒ですし、心当たりしかありませんけど……私個人としては慎ましく崇拝してますので、そんな謂れはないですね」
僅かに憤りを滲ませた声に、カガンは腕を組んだ。
火の向こうで、赤い瞳が少女を見下ろす。
吐き出された息が、焚き火の熱に触れてすぐに揺れた。
「魔教徒ってだけで狙われる、か。随分と便利な理由だな」
「便利というか……普通です」
指先が胸元の紋章を撫でる。
金属が火の光を受け、鈍く光った。
「私たちは異端ですから」
洞窟の奥で、風が細く鳴った。
スタンはそれまで黙っていた。膝の上で組んでいた指が、僅かに動く。鎧の縁が、小さく鳴った。やがて、低い声が落ちる。
「……なぜだ。なぜ崇拝などしている。魔王は悪だろう」
洞窟の空気が、ほんの僅かだけ変わる。
少女は瞬きをした。それから、少し考える。焚き火の光が、黄色い瞳の奥で揺れる。そして、首を傾げた。
「魔王が必要だからです。魔王が悪なら、討伐された今、戦争や飢饉、その他人間の欲望がもたらす歪みなど……なくなっているのでは?」
スタンは黙り込んだ。
焚き火の音だけが洞窟に残る。ぱちり、と枝が弾ける。火の粉が一つ暗闇に浮かび、すぐに消えた。スタンの視線は炎の中へ落ちていた。言葉を探しているのではない。少女の考えにゆっくり沈むような仕草。
戦争。飢饉。欲望。裏切り。
それらは千年の間、一度も消えたことがない。千年という時間は、人間の歪みを薄めるどころか、より濃く、より露わにしてきた。
少女の言葉は正しかった。
もし魔王が人間の歪みを体現する存在なら。
もしそれを封じたのなら。
この世界は、もっと静かになっていてもいいはずだ。
「魔王は悪ではありません。でも、善でもない。では、人は? 人間の歪みが魔王となるのなら、人間自体が悪なのだと……そうは思いませんか?」
焚き火が揺れた。炎の向こうで、少女が首を傾げている。まるで、当たり前の話をしているだけだと言わんばかりの顔で。
その様子を見ていたカガンが、小さく喉を鳴らした。
「魔王が必要ってのは、どういう意味だ」
「私どもの魔教では、魔王は人間の歪みをすべて引き受ける器であるとされています。……ほら、各地で異形が発生してるでしょう?」
少女の淡い紫色の髪がさらりと揺れる。
垂れ落ちた髪をぎこちなく耳に掛けた。
「魔王がいないから、異形という形で世に顕現しているんです。あれは、歪みの副産物ですもん」
カガンの赤い瞳が細められる。
「ガキにしちゃ、辻褄は合ってるな」
「ガキじゃありません! 私、シャムです。シャム・アステロト」
膨れた頬が、焚き火に照らされ、赤く火照る。
少女――シャムから視線を逸らし、カガンはスタンを見つめる。スタンも同様に、思考を終えた様子でカガンを見据えていた。
「――魔教か。調べのアテが付いたな」
「ああ。ローフェンの魔教教会で情報収集だ」
その言葉に、シャムの顔に笑みが溢れる。
同志を見つけたときのような気の高ぶりだった。
「魔教にご興味がおありで?」
「興味はねぇ。ただ、必要だから調べる。それだけの話だ」
カガンが切り捨てるように言葉を落とす。
その瞬間だった。シャムの顔から、ぱっと光が消えた。ついさっきまで焚き火みたいに明るかった表情が、みるみる萎んでいく。肩も少し落ちた。
シャムは視線を足元へ落とす。砂利の中から丸い小石を一つ拾い上げた。指先で転がす。ころ、ころ、と乾いた音が鳴る。もう一つ拾う。並べる。また動かす。焚き火の光の中で、小さな石がゆっくり位置を変えていく。年相応の、完全に意味のない手遊びだった。
カガンの眉がぴくりと動く。
ちらりと横を見る。スタンは何も言わない。ただ焚き火を見ている。
つまり――お前がやったんだろ、と言わんばかりの沈黙。
カガンは咳払いを一つ落とした。
「あー、お前のことは、ローフェンまでは守ってやる。その後のことは、自分で考えるんだな……さあ、ガキは寝る時間だ……さっさと寝ろ」
ぶっきらぼうな声だった。
シャムの手が止まる。黄色い瞳がぱっと上を向いた。
「……ありがとうございます。あと、シャムです」
「うるせぇな……ガキはガキだろ」
「むぅ! その辺の子供と一緒にしないでください!」
シャムは頬を膨らませたまま外套へ潜り込んだ。
淡い紫の髪が布の上に広がり、やがて小さく身を丸める。
焚き火がぱちりと弾けた。
洞窟の外では、夜風が山の尾根を撫でている。
遠くで、何かの獣が短く鳴いた。
スタンは炎を見つめたまま、何も言わなかった。
その向かいで、カガンが小さく舌打ちを落とす。
夜はまだ、長かった。




