// 001 - 脈の共鳴
夜のイェレミア王国は、青黒い絹布のように城壁へ絡み付いていた。
石畳は昼の熱を失い、冷えた銀の板のように光を沈めている。城下を貫く大通りでは、灯火が等間隔に揺れ、行き交う人影を細く引き伸ばしていた。遠い王城の尖塔が月を背負い、刃のように空へ突き立っている。
屋根の上を、ひとつの影が滑った。
瓦の縁を踏み外すことなく、音もなく渡る。白髪を後ろへ撫で付けた男――カガンは、煙のように低く、次の建物へ跳んだ。外套の内側で、刃が静かに鳴る。視線の先、王国騎士団本部の灯りが窓越しに滲んでいた。
今夜の標的は、あの中心にいる。
秩序の象徴である、王国騎士団団長――スタン・カルティエ。臙脂の長髪を靡かせる若き聖騎士。その圧倒的な治癒能力と共感性から民に慕われ、王に信頼され、法を掲げる剣。その剣を折るのが、今夜の仕事だった。
城下は一見穏やかだが、大通りを外れた裏路地には腐臭が沈んでいる。徴税に喘ぐ商人、戦で夫を失った女、飢えた子供。騎士団は守ると言いながら、守る順番を選ぶ。選ばれなかったものが溜まり、澱み、やがて形を持つ。その形を削るのが、カガンの生業だった。
屋根の端に伏せ、窓の奥を窺う。
室内では、数名の騎士が地図を囲んでいる。鎧の金具が灯火を弾き、規則正しく並ぶ影が壁に揺れ動いた。その中央に立つ男。腰まで届く臙脂の髪が、燭台の光を吸い込み、深い赤へ沈んでいる。整った横顔は静謐で、何処か中性的な線を持ちながら、顎の角度には揺るがぬ硬さがあった。指先が地図をなぞるたび、周囲の騎士が小さく頷く。
刃を抜くには十分な距離。退路も確保してある。
屋根から中庭へ降り、回廊の影を使えば、首筋まで五十歩も要らない。
カガンは息を整えた。そのときだった。
胸の奥で、鼓動が一拍、ずれた。鈍い痛みが心臓の辺りから広がる。血管の内側を、熱が逆流する。視界が、僅かに歪んだ。
その刹那――空が、甲高く鳴った。
音ではない。裂け目が生じる前の、布が引き攣るような緊張。
次の瞬間には、上空が縦に裂けた。
夜の帳が破れ、そこから黒い光脈が走る。稲妻のようでありながら、雷鳴はない。ただ、静かな断絶。闇よりも濃い黒が、空を貫いている。
石畳に立つ人々が足を止め、誰かが叫んだ。馬が嘶き、荷車が揺れる。灯火が一斉に揺れ、城壁に不規則な影が踊った。
胸の痛みが増す。光脈の一端が、確かに――こちらへ向いている。
カガンの視界に、黒い筋が重なった。夜空から伸びたそれが、見えない糸のように自分の胸へと繋がっている錯覚。呼吸が浅くなる。
騎士団本部の扉が開いた。臙脂の髪が、夜に舞う。スタンが現れた。胸当てを身に着け、外套を翻し、石畳を駆け下りる。僅かに苦悶した表情。彼の後ろから、数十騎の騎士が馬を引いて飛び出した。
「団長、北西の上空です!」
団員の声が夜を裂く。スタンは空を仰ぐ。黒い光脈を見据え、その表情が僅かに強張る。だがすぐに決意の色が宿った。
「出る。被害を最小限に抑える」
低く、通る声。
騎士たちが一斉に動き出す。馬が前足を掲げ、蹄が石畳を叩く。鎧の群れが整然と大通りへなだれ込んだ。黒い裂け目の方角へ。
カガンは屋根の上で膝を折ったまま、歯を食いしばる。
鼓動が荒い。心臓が、他人の物のように重い。
視界の端に、焦土がちらついた。
焼けた塔。崩れた城壁。黒煙の向こうに、二つの影。
片方は長い赤髪を持ち、もう片方は白い。
瞬くと幻は消え、再び夜の城下に戻る。
だが、胸の奥の熱は消えない。それどころか、増す一方だった。
馬が通り過ぎる。大通りを進む騎士団。
その先頭で、スタンが前を見据えている。距離は、まだある。だが何かが、確かに引き寄せられている。
空の裂け目が、更に広がった。
黒い光脈が枝分かれし、城下の上を走る。建物の壁に亀裂が入り、瓦が崩れ落ちる。人々が逃げ惑う。胸から熱が跳ねた。足元の瓦が割れ、衝撃が走る。カガンは屋根から身を躍らせた。着地と同時に膝を緩め、影の中へ滑り込む。
暗殺任務は、まだ終わっていない。だが今、刃を向ける相手はスタン一人ではない。黒い光脈が、地上へ降り始める。それはまるで、千年前に落ちた処刑の影が再びこの王国へ差し込んでいるかのようだった。
黒い裂け目の奥で、何かが蠢いた。
光ではない。影でもない。凝り固まった夜そのものが、ゆっくりと形を持ち始める。最初に落ちてきたのは、腕だった。骨のように細く、だが関節が逆に折れ曲がっている。次いで、胴。顔のない頭部。黒い光脈を纏いながら、それぞれが次々と地上へ吐き出されていく。
石畳に叩き付けられた瞬間、異形は立ち上がった。
空洞の輪郭の奥で、黒い火が灯る。人々の悲鳴が重なる。逃げ惑う足音が石畳を打ち、荷車が横倒しになる。幼子の泣き声が、夜を裂く。
「前列、盾を上げろ!」
スタンの声が響く。
騎士団が半円陣を敷く。盾が一斉に掲げられ、鋼が月光を弾いた。先頭に立ったスタンが剣を抜いた。臙脂の髪が背で揺れ、刃に淡い白光が宿る。
異形が行進を始める。歩幅は揃っている。まるで軍勢だ。
その足取りに、感情はない。ただ前へ、ただ人の多い場所へ。
最初の衝突。黒い腕が振り下ろされ、盾が軋む。
騎士が歯を食いしばり、押し返す。スタンが踏み込み、刃を横に払った。白い光が弧を描き、異形の胴を立つ。だが、切断面から黒い煙が溢れ、再び形を繋ぎ合わせていく。再生。それを見た騎士の喉が鳴る。
「散開しろ。核を狙え!」
スタンが叫ぶ。
異形の胸奥で燃える黒い火。そこを貫けば、崩れる。騎士たちが動き、槍が突き出される。光が走る。黒が砕け、石畳に崩れ落ちる。だが空からは、まだ降ってくる。黒い光脈は脈打っている。それはまるで、巨大な心臓。
カガンは群衆の流れを逆行した。外套を翻し、崩れた屋台を蹴って跳ぶ。刃を引き抜き、夜を裂く。暗殺家業の動きは、異形相手にも無駄がない。背後から滑り込み、胸奥の黒火を正確に穿つ。異形が崩れ、煙が散る。
だが、次の瞬間には三体が迫っていた。
黒い腕が石畳を叩き、跳躍する。人の背丈を越える影が、騎士団の側面へ回り込む。隊列が乱れ、若い騎士の足がもつれる。
空洞の頭部が、音もなく近付く。
その喉元へ伸びた黒腕を、横合いから白光が断ち切った。スタンの剣。淡い光が夜を払う。切り裂かれた腕は煙となり、散る。
スタンは一歩踏み込み、盾列の前へ出る。刃が縦に振り下ろされ、黒火を穿つ。異形は崩れ落ち、石畳に焦げ跡だけを残した。だが間断なく、空からは無数の異形が落ちてくる。黒い光脈は、確かに脈打っていた。
カガンの胸が同じように鳴る。鼓動が重なる。
視界の端で、スタンがふらついた。刃を握る手が僅かに震えている。苦悶。あれは単なる負傷ではない。黒い光脈が、彼の胸へも伸びている。
カガンは歯を鳴らした。舌打ちの代わりに息を吐き、地を蹴る。
背後から迫る異形の胴を、斜めに裂く。黒火が揺らぐ。だが、消えない。
その瞬間、別の影が頭上から落ちた。
隣の盾を砕き、騎士を押し倒す。黒い腕が騎士の喉へ伸びる。
カガンは滑り込み、刃を突き上げた。だが異形は素早く、刃を弾く。火花が散る。その背後から、白い光が差し込んだ。
スタンの剣が、黒火を正確に貫いた。
異形が崩れる。そのまま二人は、背中合わせになった。
鎧越しの熱が、皮膚を透過する。鼓動が、一つの脈に重なる。
その瞬間、戦場の喧騒が遠のいた。金属の軋みや悲鳴、蹄の音すべてが水底へ沈む。代わりに押し寄せたのは、乾いた風の匂いだった。
焦げた大地。足元の石畳が崩れ、黒く焼けた土へと変わる。
夜は赤く濁り、空は灰に覆われている。
目前に、立っていた。
臙脂の髪を風に靡かせた男と、白髪を背に流した男。
二人は並び立ち、焦土の中心にいる。その姿は、今この瞬間に背を預け合う二人と酷似していた。違うのは、纏うものだけ。臙脂の男の肩には、重く黒い外套。白髪の男の指先には、血のように濃い光。
周囲を取り囲むのは、無数の魔術師。
円陣を組み、杖を掲げ、呪を唱えている。その口元は歪み、恐怖と正義が同時に宿っている。空は裂けていない。だが大地が軋んでいる。
祈り。罵倒。恨嗟。飢え。裏切り。救済を求める叫び。
それらすべてが、焦土に立つ二人へ向かっている。
視点の感情が流れ込む。
怒りではない。憎悪でもない。それは、抱え込まれた重みだった。
世界の底に沈んだ澱が、息をするたび肺へ溜まっていく感覚。
吐き出せない。吐き出せば、誰かが溺れる。だから胸の内へ押し戻す。その繰り返しが千年ぶん積み上がり、骨の内側を黒く染めている。
魔術師たちの円は、徐々に狭まる。
杖先が揃い、光が輪になって焦土の上を走る。呪は言葉ではなく、規律そのものだ。整然とした音のない圧力が、肌の上に降り積もる。
輪が締まるたび、空気が薄くなる。
焦土の中央に立つそれは、呻かない。
背後で、魔術師の一人が祈りのように呟く。唇は震え、瞳だけが硬い。
救う。封じる。守る。どれも同じ響きだった。
正しさを自称する視線。恐怖に彩られた嫌悪。救われたいという飢え。
それらが一斉に、胸の内へ沈み込んでくる。
――重い。ただそれだけが、確かな輪郭を持つ。
光の輪が更に狭まる。円陣の外側で、地面が白く焼ける。灰が舞い上がり、喉の奥に貼り付く。息を吸えば吸うほど、呼吸は世界の砂利になる。
そして、杖先が一斉に下がり、光が縦に走った。大地から天へ、天から大地へ。一本の柱が立つ。その柱は温度がない。熱ではなく、冷えで焼く。胸の奥に、見えない指が差し込まれる。痛みに、視点が揺れた。刃を突き立てられた痛みではない。自分という存在の境界が、無理やり線引きされる痛み。
臙脂の男の胸が、光に引かれる。
白髪の男の胸も、同じように引かれる。
ふたりの胸の間に、黒い脈が浮かび上がる。
脈は鼓動ではない。帳簿の罫線だ。
罪の列。祈りの列。飢えの列。戦の列。名のない列。
光の柱がひときわ強く鳴り、視界が白に溶けた。
音はない。だが骨の内側が、軋む。そして裂けた。心臓。黒い核が、二つに割れた。割れた瞬間、世界がほんの一拍、呼吸を止める。
焦土の風が止み、灰が宙で静止した。
魔術師たちの口が、同時に息を吐く。
安堵が走る。それは勝利の匂い。
そして次の瞬間、光の糸が二筋に伸びた。
臙脂の髪の男と、白髪の男へ。刹那――視界が反転する。
白が剥がれ落ち、夜が戻った。石畳の冷たさが、足裏から骨へ沁みる。焦土の乾いた匂いは消えない。舌の奥に灰のざらつきが残っている。息を吸うたびに現実の湿り気と混ざって、肺の中で不快な膜になる。
空は、裂けていなかった。否、裂けていた痕だけがある。
縫い合わせた糸目のように、夜の中央に細い黒が残り、そこから微かな煤が落ちていた。煤は途中で溶け、灯火の橙に吸い込まれて消える。
地上には、灰が積もっていた。
先程まで歩いていた異形たちの残骸。黒い雪。踏めば粉になり、靴底に纏わり付く。逃げ惑っていた人々は、まだ戻れない。物陰から顔だけを覗かせ、震えた指先で胸元の護符を握り締めている。
騎士団も、動けずにいた。盾が半分欠けた者。槍の穂先が折れた者。甲冑の継ぎ目から血が滲んだ者。誰もが空を見上げている。まるで、終わったと理解することに許可が必要な顔だった。
その中心で、背中合わせの二人が固まっている。
スタンは剣を下ろしていない。白光は薄れたが、刃先に冷たい余韻が残っている。息が浅く、喉仏が一度だけ大きく動いた。臙脂の髪が、汗に濡れて首筋に張り付いている。カガンの刃も、まだ抜き身だ。血は付いていない。黒火を穿った感触だけが、刃の根元に残っている。
「……君は、誰だ」
「さあ……聖騎士様に教える義理はねぇな」
灯火は揺れ、灰は落ち、街は生き残ったふりをする。
だが二人の胸の奥で、裂けたものだけが確かに脈打っていた。
それが誰の心臓だったのかを、夜はまだ答えない。




