鏡の中の幽霊と、最後の審判
どんなサービスにも、対価が必要です。
他人の人生を安易にリセットし、歪めた代償。その請求書は、忘れた頃に、一番高い利子をつけてやってきます。
今日の相談者は、いません。
第7話は、相談員レン自身への「監査」と「精算」のお話です。
朝、洗面台の鏡を覗き込んだとき、違和感があった。
右半分は酷い顔色をした俺が映っている。だが、左半分が映っていない。
鏡が割れているわけではない。俺の左目が、もう「自分」を認識できなくなっているのだ。そこにあるのは、砂嵐のような灰色のノイズだけ。
俺、相馬レンは、洗面台の淵を両手で掴み、吐き気を堪えた。
味覚はとうに消えた。聴覚も怪しい。常に遠くで、金属を擦り合わせるようなキーンという音が鳴り響いている。
身体の寿命だ。
『解析眼』の酷使による脳の焼き付き。俺はもう、ただの肉の塊になりかけている。
冒険者ギルド別館・生活相談所。
いつもの席に座るが、今日は予約表がない。文字が歪んで読めないのだ。
だが、ノックの音は聞こえた。
いや、ノックなどあったか? 気づけば、客はすでにそこに座っていた。
「……ひどい顔だな」
男が言った。
チャコールグレーのスーツ。首には社員証。手には缶コーヒー。
この世界には存在しない服装だ。
それは、転生前の俺――「日本の公務員だった頃の俺」だった。
「幻覚か」
俺は掠れた声で呟く。
「末期だな。ついに脳みそがショートしたか」
「いいや、監査に来たんだよ。お前の業務内容の」
スーツの男は、蔑むような目で俺を見た。
「お前は効率的に処理してきたつもりだろうが、現場じゃ変な噂が流れてるぞ」
「……噂?」
「ああ。例えば、お前が最初に担当した荷持ちのガンツ。あいつが率いるパーティで、奴隷の反乱が起きたって話だ。無理な使い潰しが祟ったらしい。リーダーだったガンツは、寝込みを襲われて喉を……」
やめろ。
俺は耳を塞ごうとしたが、指先に力が入らない。
「それから、昨日の勇者交代劇。新しい勇者になった少年ロイドだが、最初の遠征で『壊れた』そうだ。なんでも、敵を見るなり笑い出して、味方ごと魔法で焼き払ったとか。聖剣の出力に脳が耐えきれなかったんだな」
「黙れ……俺は、彼らが望む通りに……」
反論しようとしたが、口がうまく回らない。
唇が勝手に引きつり、言葉が唾液と一緒に垂れ落ちる。
「望む通り? 誰の?」
幻覚の俺が笑う。
「お前は『解決』なんてしていない。ただ、臭いものに蓋をして、別の場所にゴミを移動させただけだ。それを『コンサルティング』だの『人助け』だの呼んで、自分を正当化していた」
男が身を乗り出した。その顔は、鏡で見た俺と同じ、左半分が欠損していた。
「お前は人助けがしたかったんじゃない。自分の有能さを証明して、このクソみたいな世界で『生きている価値』を感じたかっただけだ。他人の人生をダシにしてな」
ドンッ!
俺は机を叩こうとしたが、手が滑って突っ伏した。
視界が明滅する。
違う。俺は、ただ生き残るために。システムの中で最適解を。
思考がまとまらない。ノイズが脳を埋め尽くす。
怖い。
自分のやってきたことが、すべて「悪」だったと断罪されるのが怖い。
「……逃げるなよ」
幻覚の声が遠くなる。
「精算の時間は、もう来てる」
その時だった。
バンッ!!
本当の音が、部屋を揺らした。
ドアが乱暴に開け放たれる。
入ってきたのは、幻覚ではない。武装した王都の衛兵たちと、神官服を着た男たちだ。
「相馬レンだな!」
衛兵隊長が叫ぶ。
「国家転覆罪、および聖遺物不正譲渡の容疑で拘束する! 貴様の部屋から押収した『予約台帳』と、勇者交代の儀式記録、筆跡が一致したぞ!」
俺は、床に這いつくばったまま、ぼんやりと彼らを見上げた。
証拠は固められていたのか。
聖遺物不正譲渡。昨日の勇者の件か。
やはり、教会も国も、勇者のすり替えには気づいていた。泳がされていたのだ。勇者が壊れた責任を、すべて俺になすりつけるために。
神官の一人が、一枚の羊皮紙を突きつけた。
告発状だ。
視界が霞んで文字は読めない。だが、その整然とした筆跡には見覚えがあった。
――エリック。
かつて俺が、「書き方」を教えた相手。
彼もまた、教会に忠誠を疑われたのだろう。身の潔白を証明するには、かつての共犯者を売るしかなかったのだ。
魔女を売るための文章を教えた俺が、今度はその教え子によって売られたのか。
ハハ、と乾いた息が漏れた。
なんて美しい因果だ。
俺が撒いた毒が、世界を一周して、俺の喉元に戻ってきた。
「……抵抗する気か!」
衛兵が剣を抜く。
「……いいや」
俺は残った右手を、ゆっくりと差し出した。
恐怖はなかった。
むしろ、安堵していた。
もう、決めなくていい。もう、誰も救わなくていい。
この「逮捕」こそが、俺が待ち望んでいた「業務終了の合図」だったのだ。
「手続きを頼む」
俺は、元公務員としての矜持を込めて、最後の指示を出した。
「書類仕事は得意なんだろう? 俺の名前を決裁欄に書く手間だけは、かけさせないでくれよ」
ガチャン。
冷たい手錠の感触が、俺の火照った手首を冷やした。
その冷たさだけが、今の俺にとって唯一の、確かな「救い」だった。
お読みいただきありがとうございます。
ついに年貢の納め時です。
かつて「他人を売って生き延びろ」と教えた相手に売られる。これ以上ないほど美しい因果応報ですね。師匠冥利に尽きるというものでしょう。
しかし、レンにとって冷たい手錠は、拘束具ではなく、終わらない労働から解放してくれる「退職届」でした。




