まがい物の愛の賞味期限
「惚れ薬」は、相手の心を強制的に書き換える魔法です。
では、その魔法が解けかかり、相手が本来の人格(愛)を取り戻そうとした時、あなたならどうしますか?
A:諦めて解放する。
B:もう一度、もっと深く書き換える。
今日の相談者が選んだのは、どちらだったのでしょうか。
甘い香りに隠された、愛と執着の境界線のお話です。
左目の代償は、視界の欠損だけでは済まなくなっていた。
最近、耳鳴りがする。
キーンという高い音の裏に、微かな囁き声が混じるのだ。それは過去に俺が「解決」した相談者たちの声のようでもあり、これから地獄に落ちる俺を呼ぶ死神の声のようでもある。
俺、相馬レンは、こめかみを指で強く押し、幻聴を無理やり黙らせた。
冒険者ギルド別館・生活相談所。
今日の相談者は、予約表の名前を見る限り、場違いなほど可愛らしい女性だった。
『相談者:リリィ(酒場「蜜蜂亭」看板娘)』
ドアが開くと、甘い香水と焼き菓子の匂いがふわりと漂った。
リリィは、揺れる栗色の髪と、潤んだ大きな瞳を持つ、いかにも「守ってあげたい」と思わせる少女だった。年齢は十代後半だろう。
だが、その手首には真新しい包帯が巻かれていた。
「あの、相談に乗っていただけると聞いて……」
彼女はバスケットを膝に抱え、上目遣いで俺を見た。
「どうぞ。何でも話してください」
リリィは少し躊躇ってから、バスケットの中から小さな小瓶を取り出した。
中には、毒々しいほど鮮やかなピンク色の液体が入っている。
「これ……『愛の雫』っていうんですけど」
いわゆる、惚れ薬だ。
違法ではないが、倫理的には限りなくグレーな代物。闇市に行けば金貨三枚ほどで手に入る。
「これを使ったんですか?」
「はい。……彼に」
彼女の「彼」とは、Bランク冒険者のガイルだという。無骨だが腕の立つ剣士で、将来を嘱望されている男だ。
「私、ずっと彼が好きだったんです。でも、彼は冒険一筋で、私のことなんて妹みたいにしか見てくれなくて。だから、半年前、彼のワインにこれを……」
効果は劇的だったらしい。
ガイルは翌日からリリィに求愛し、二人は恋人同士になった。
毎日のように愛を囁き、贈り物をし、片時も離れようとしない。
リリィにとっては夢のような日々だったはずだ。
「でも、最近おかしいんです」
リリィの表情が曇り、包帯を巻いた手首をさすった。
「彼、夜中にうなされるんです。ひどい汗をかいて、頭を抱えて……知らない名前を呼ぶんです。『エレナ』って」
彼女は唇を噛んだ。
「私、調べました。エレナは、彼が故郷に残してきた幼馴染の名前でした。死んだとか、別れたとかじゃなくて……彼、冒険者として成功したら、彼女を迎えに行くつもりだったみたいで」
なるほど。
俺は眼帯の下で左目を開く準備をした。
予測はつく。薬による「強制的な愛」と、本人の深層心理にある「本来の愛」が衝突しているのだ。
――『解析』開始。
脳髄を焼く激痛。
視界が歪み、リリィの背後に「因果の線」が浮かび上がる。
その線はガイルへと繋がり、ガイルの頭部で激しくスパークしていた。
ガイルの精神状態を表す色は、危険なほど明滅している。赤と青が混ざり合い、濁った紫になっている。
脳の処理能力が限界だ。薬が上書きした「リリィへの愛」という命令コードと、彼の魂に刻まれた「エレナへの誓い」という基盤データが矛盾し、システムエラーを起こしている。
その歪みは、暴力衝動として表出していた。彼が夜中に暴れ、無意識にリリィの手首を掴んでできた痣が見える。
さらに、俺はリリィ自身の魂を見る。
そこにあるのは、「愛されたい」という飢餓感と、それを上回る「恐怖」だ。
彼が元に戻れば、自分はただの看板娘に戻る。何より、夜な夜な暴れる彼への恐怖が、彼女の理性を削っている。
「……リリィさん」
俺は眼帯を戻し、冷めきった茶を一口飲んだ。
「結論を言います。ガイルさんは、壊れかけています」
「え?」
「人間の心は、二つの矛盾する『真実』を同時に抱えることはできません。薬の魔力と、彼本来の意志が戦って、精神が引き裂かれそうになっている。夜中の暴力は、その悲鳴です」
リリィは青ざめた。
「じゃ、じゃあ、どうすれば……薬をやめれば、治りますか?」
「やめれば、精神の均衡は戻るでしょう。ですが、同時に彼は思い出します。自分が薬で操られていたことを。そして、あなたへの愛は消え、憎悪に変わるでしょう」
当然だ。半年間の記憶が「操作されたもの」だと知れば、誰だって発狂するか、相手を殺そうとする。
「いや……! そんなの嫌!」
リリィは叫んだ。可愛らしい顔が、恐怖と執着で歪む。
「彼を失うなんて無理。彼がいないなら、死んだほうがマシ……!」
「では、選択肢は二つです」
俺は淡々と、悪魔のメニューを提示する。
「一つは、解毒剤を飲ませ、彼を解放すること。彼は故郷へ帰り、エレナと結ばれるでしょう。あなたは一生彼に憎まれますが、彼の心は救われます」
リリィは激しく首を振った。
「もう一つは?」
「薬の調合を変えることです」
俺は羊皮紙に、ある薬品のリストを書き始めた。
『市販の睡眠導入剤』と『記憶阻害草』。どちらも薬屋で買える一般的なものだ。
「これを『愛の雫』と混ぜて飲ませてください。比率は1対1です」
「それを飲ませると……どうなるんですか?」
「彼の脳内の矛盾は解消されます。なぜなら、『思考』そのものを奪うからです」
俺はペンを置いた。
「剣を鈍らせるんじゃありません。魂の刃を折るんです。灯りを消すのではなく、芯を湿らせてしまう」
比喩を重ねる。
「彼はもう、故郷のことも、エレナのことも思い出さなくなります。同時に、冒険者としての鋭い勘や、剣の腕も鈍るでしょう。ただ、あなたのことだけを見て、あなたの言うことだけを聞く、穏やかな人形になります」
それは事実上の、魂の去勢だ。
英雄としてのガイルを殺し、愛玩動物としてのガイルを生かす。
「選んでください。彼を『人間』として解放するか、あなたの『所有物』として飼い殺すか」
部屋に重苦しい沈黙が落ちた。
リリィは羊皮紙を見つめていた。
彼女の目の中で、良心と欲望、そして損得勘定が天秤にかけられている。
もし薬をやめれば、彼に殺されるかもしれない。店のエースも失う。
だが、この薬を使えば、彼は永遠に自分のものだ。
「……彼を失えば、自分はただの看板娘に戻る。店の売上も激減するでしょう」
リリィは、自分に言い聞かせるように呟いた。
「でも、もし彼が『謎の病で引退した悲劇の英雄』になって、私がそれを支える『献身的な妻』になれば……」
リリィの瞳が、暗い熱を帯びて輝いた。
「客はもっと来るはずです。冒険者は『悲劇』と『美談』が大好きだから。現役の彼はいずれ遠くへ行ってしまうけど、壊れてしまった彼は、店の奥でニコニコ座っているだけの『招き猫』として、永遠に私の店にお金を呼び込んでくれる」
その顔に浮かんでいたのは、慈愛に満ちた聖母の微笑みであり、同時に獲物を巣に持ち帰る蜘蛛の捕食者の笑みでもあった。
「……そうですか。お代は結構です」
俺は短く答えた。
「代わりに……」
言いかけて、俺は言葉を飲み込んだ。
何を言おうとした? 『代わりにその罪を俺も背負う』とでも言うつもりだったのか。
そんな資格は、もう俺にはない。
リリィは立ち上がり、深くお辞儀をした。
去り際、ふと彼女が俺の顔――正確には、左目の眼帯を見た。
「ふふ、お揃いですね」
彼女は自分の包帯を巻いた手首を掲げ、嬉しそうに微笑んだ。
傷を隠す者同士の共犯の笑み。
俺は背筋が凍るのを感じながら、無言で頷くことしかできなかった。
◇
彼女が去った後、俺は吐き気を堪えて窓を開けた。
冷たい風が吹き込んでくるが、部屋に残った甘い香水の匂いは消えない。
数ヶ月後、街で噂を聞くだろう。
有望な冒険者だったガイルが引退し、酒場の看板娘と幸せに暮らしていると。
彼は一日中店の隅に座り、リリィの姿を目で追い続け、ニコニコと笑っているだけの「無害な夫」になる。
それを「幸せ」と呼ぶ権利は、俺にはない。
だが、俺の左目は知っている。
ガイルの魂が、硝子細工のように粉々に砕け散った瞬間を。
キーン。
耳鳴りが強くなる。
視界の左半分が、完全に暗闇に沈んだ。
俺は眼帯をきつく締め直し、机の上の書類を片付けた。
ふと、窓ガラスに映った自分の顔が、リリィと同じように歪んで笑っているような気がして、俺は慌てて視線を逸らした。
お読みいただきありがとうございます。
これで蜜蜂亭は安泰です。
ガイルは二度と浮気をしませんし、冒険に出て怪我をすることもありません。ただニコニコと店の奥に座り、客を呼ぶ「招き猫」としてリリィに愛され続けるでしょう。
魂の中身が空っぽだとしても、外側が幸せそうなら、それはハッピーエンド……ですよね?
さて、レンの視界がいよいよ欠け始めました。




