正義の味方の共犯者
正義を貫くには、力が要ります。
力がない者が正義を行おうとすれば、必ず何かを「売り渡す」ことになります。
第3話の相談者は、将来有望な聖職者の青年。
彼が持ち込んだのは「恩人を断罪すべきか否か」という、吐き気を催すような良心の天秤です。
誰かを救うために、その人の尊厳を殺すことは「救済」と呼べるのか。
それとも、ただの「処理」なのか。
左目の視界が、また少し狭まった気がする。
かつては鮮明だった色彩が、今では曇ったガラス越しの景色のようにぼやけている。
痛み止めとして処方された『麻痺草』の粉末を、俺はぬるい水で流し込んだ。舌が痺れる感覚だけが、この身体がまだ生きている証拠だ。
冒険者ギルド別館・生活相談所。
今日の相談者は、予約名簿を見たときから厄介だと分かっていた。
『所属:聖光教会・異端審問局(見習い)』
名前はエリック。
ドアをノックする音は、規律正しく、それでいて迷いを含んでいた。
「失礼します」
入ってきたのは、白い法衣を身にまとった青年だった。金の髪、碧の瞳。いかにもこの世界の「主人公」然とした容姿だが、その表情は殉教者のように青ざめている。
「相談というのは、信仰に関することですか? だとしたら、教会で懺悔した方がいい」
俺が先制すると、エリックは首を横に振った。
「いいえ。神に祈っても答えが出ないのです。だから、あえて……世俗の知恵を借りに来ました」
彼は椅子に浅く腰掛け、両手を組み合わせた。指先が白くなるほど力を入れている。
「私は、ある女性を告発すべきか迷っています」
「女性?」
「街外れに住む薬師の老婆、マーサです。彼女は貧しい人々に無償で薬を配る、誰からも慕われる人物です。私も幼い頃、熱病を彼女に治してもらいました。あの時の……干しカモミールの匂いと、ひび割れた温かい手の感触は、今でも覚えています」
エリックは遠くを見る目をした後、苦しげに唇を噛んだ。
「ですが、見てしまったのです。彼女が薬を作る際、精霊に祈りを捧げているところを」
俺は眉をひそめた。
「精霊信仰ですか。この国では禁止されていませんが」
「ただの祈りではありません。彼女は『古き言葉』を使い、光る石を触媒にしていました。あれは……教会が『禁忌』と定める、古代魔術の儀式です」
なるほど。
この世界において、魔法の管理権は王家と教会が独占している。認可外の魔法行使は、秩序を乱す「異端」として処断される。最悪の場合は火刑だ。
「彼女は善人です。誰も傷つけていない。ですが、法は法です。見習いである私がこれを見過ごせば、私自身も『異端の協力者』として裁かれることになる。しかし、恩人を売るなんて……」
正義と情の板挟み。古典的だが、最も人を壊す悩みだ。
俺は眼帯の下で、左目を開いた。
――『解析』開始。
激痛と共に、世界が反転する。
エリックの背後に伸びる因果の線。それは教会へと繋がっているが、その先にあるのは「神」ではない。教会の奥でふんぞり返る司教たちの、どす黒い欲望だ。
彼らは「獲物」を探している。異端を血祭りにあげ、教会の権威を示すための生贄を。
マーサの情報を見てみる。
彼女の周りには街の住人たちからの感謝の念が、黄金色のオーラとなって漂っている。だが、その中心にある彼女の命の灯火は、もう風前の灯火だ。病に侵されている。余命は長くない。
そしてもう一つ。
教会の「監視の網」が、街外れの薬師周辺にも及びつつあるのが見えた。まだ「確証」はないが、「疑い」の目は向いている。
誰かが背中を押せば、すぐにでも牙を剥くだろう。
「……エリックさん」
俺は眼帯を戻し、冷酷な事実を突きつける準備をした。
「教会は、すでに彼女を疑っていますよ」
エリックの肩が跳ねた。
「えっ?」
「まだ確証はないようですが、時間の問題です。あるいは、内部からの告発者を待っているのかもしれない。忠誠心を試す踏み絵として」
エリックの顔色が、土気色に変わった。
「そ、そんな……」
「あなたが黙っていても、いずれ彼女は捕まります。その時、あなたは『沈黙していた共犯者』として一緒に火刑台に送られる。それとも、あなたが先に声を上げ、彼女を売って功績にするか。二つに一つです」
エリックは震え出した。
「私は、どうすれば……彼女を助ける方法はないのですか? あなたが知恵者だと聞いて来ました。何か、裏道が……」
裏道。
あるにはある。だがそれは、この潔癖な青年が望むような「英雄譚」ではない。
綺麗なまま誰かを救えるのは、御伽噺の中だけだ。
「……彼女を『無罪』にすることはできません。ですが、彼女の『死に方』を選ぶことはできます」
俺は引き出しから、一枚の羊皮紙を取り出した。
それは教会への『異端告発状』の定型用紙だ。俺はそれをエリックの前に置いた。
「書きなさい」
「……え?」
「あなたが彼女を告発するのです。ただし、内容は私の言う通りに」
俺はペンを彼の手に握らせた。エリックの手は震えている。
「『対象は古代魔術を行使した。しかし、魔力はすでに枯渇しており、彼女自身は悪魔に唆された認知症の老婆である』――そう書いてください」
エリックは目を見開いた。
「嘘をつけと言うのですか? それに、そんなことを書いて何になるんです!」
「取引の材料にするんです。枯渇した魔女なら、処刑して見せしめにするより、教会の慈悲を示すために『保護』した方が得策だと、上層部に思わせる」
俺は淡々と続けた。
「彼女を火刑台ではなく、教会の地下にある『浄化施設』へ送るよう誘導するのです。実態は死ぬまで出られない隔離病棟ですが、ベッドと食事はある。私の見立てでは、彼女の寿命はもう長くない。静かな畳の上で死なせてやるのが、せめてもの情けです」
エリックは苦悶の表情でペンを握りしめた。
「でも、それは私が彼女を売ることになる! 彼女の名誉を奪い、『ボケた異端者』の汚名を着せて!」
「そうです。あなたは恩人を売り、その功績で出世するのです」
俺は冷たく言い放った。
「英雄譚で腹は膨れません。この世界で何かを守りたければ、代価が必要です。彼女を社会的に殺し、その上で命だけを拾う。それが、あなたにできる唯一の正義です」
部屋に沈黙が落ちた。
チクタクと、時計の針の音だけが響く。
エリックの脳裏には、カモミールの香りと、迫り来る火刑の炎が明滅しているはずだ。
やがて、インクの湿った音がした。
カリ、カリ……。
エリックが書き始めたのだ。
涙を流しながら、恩人を「悪魔」と断じる文章を、その手で紡いでいく。
それは彼が「無垢な正義」を捨て、「清濁併せ呑む共犯者」へと堕ちた音だった。
◇
数日後、広場の掲示板に、一つの告知が張り出された。
『異端の魔女、捕縛される。聖光教会の慈悲により、浄化の儀に処す』
処刑は見送られた。
街の人々は「魔女だったなんて信じられない」「でも命が助かってよかった」と噂し合った。
俺はその告知を遠目に眺めながら、路地裏で買った安酒を呷った。
エリックはうまくやったようだ。
彼は英雄になった。魔女の誘惑を退け、教会の正義を守った若き聖職者として。
地下のマーサは、エリックを恨んでいるだろうか。それとも、彼の立場を理解し、最期までその「嘘」に付き合ってくれているのだろうか。
ズキン。
左目の奥が激しく疼いた。
無意識に眼帯の下をさする。
視界のノイズの中に、赤い糸が見えた気がした。
エリックから伸びていたはずの『因果の線』が、いつの間にか俺の左手の小指に絡みつき、どす黒く変色している。
「……連帯保証人ってわけか」
誰にともなく呟く。
俺もまた、罪の一部を背負ったのだ。
相談所の看板の上で、一羽のカラスが俺を見下ろしていた。
その黒い瞳が、まるで喪服を着た裁判官のように見えて――俺は慌てて視線を逸らし、相談所の中へと逃げ込んだ。
お読みいただきありがとうございます。
エリックは英雄になりました。
地下の暗闇で死んでいく恩人を踏み台にして得た「聖職者」の地位。その椅子は、さぞ座り心地が悪いことでしょう。
そしてレンの指にも、見えない糸が絡みつきました。他人の人生をいじくり回した代償は、少しずつ、確実に溜まっていきます。




