錆びた英雄の鎮魂歌
魔物を倒し、世界を救った英雄。
物語はそこで終わりますが、彼らの人生は死ぬまで続きます。
平和になった世界で、戦うことしか知らない「かつての英雄」は、ただの「暴力装置」でしかありません。
第2話は、そんな錆びついた英雄と、その輝きに縛られた家族のお話。
処方されるのは「真実」という劇薬ではなく、「優しい嘘」という麻酔薬です。
左目の痛みが引かない。
三日前、冒険者志望の若者に「奴隷を使って実績を捏造しろ」と唆して以来、視界の左端には常にノイズが走っている。
俺、相馬レンは、温くなったハーブティーを啜り、次の相談者の書類に目を通した。
『相談者:カイル(鍛冶屋見習い)』
『相談内容:父ガルドの素行について』
ドアをノックする音は控えめだった。
入ってきたのは、煤で汚れた作業着を着た若い男だ。肩幅は広いが、背中を丸めて歩く癖があるのか、ひどく自信がなさそうに見える。
「あの……相談に乗ってくれるって聞いて」
「どうぞ、カイルさん。時間は三十分です」
カイルは椅子に座るなり、深く溜息をついた。
「親父を……ガルドを、なんとかしてほしいんです」
ガルド。その名には聞き覚えがある。
三十年前、王都の北に出現した地竜を単身で撃退したという「鉄腕のガルド」。冒険者なら誰もが知る、生ける伝説だ。
「お父上が、何か?」
「毎日なんです。昼間から酒場に入り浸って、『俺は英雄だ』『竜殺しだ』って大声で自慢話をして……。店中の客に酒を奢るんです。『俺のツケにしとけ』って」
カイルは顔を覆った。
「そのツケを払うのは、俺と母さんなんです。注意すると暴れるんです。『誰のおかげで今の平和があると思ってるんだ!』って」
典型的な「過去の栄光」中毒だ。
だが、俺はカイルの言葉に、奇妙な澱みを感じ取った。ただ迷惑がっているだけにしては、彼の態度はどこか煮え切らない。
「カイルさん。お父さんに『もう酒はやめろ、働け』と言ったことは?」
「……言えませんよ。それに、働かせたら終わりです」
カイルは自分の震える指先を見つめた。
「親父の手、もうアルコールで震えてて、釘一本打てないんです。もし金槌を握らせて、その無様な姿を騎士様たちに見られたら……『鉄腕のガルド』の伝説はそこで終わる」
カイルは自嘲気味に笑った。
「客は『英雄の店』に金を落としてくれてるんです。だから親父には、仕事なんてさせられない。店番として偉そうに座っていてもらわないと、うちは潰れるんです」
なるほど。
俺は眼帯の下の左目を開いた。
――『解析』開始。
ズキン、と脳の深部が軋む。
カイルの背後にある『因果の線』を見る。
父親への「憎悪」と、父親の名声への「依存」。その二つが腐った蔦のように絡み合い、互いに養分を吸い合っている。
さらに、ガルド自身の魂を見る。
どす黒い赤。中心にあるのは「恐怖」だ。老いへの恐怖。忘れられることへの恐怖。
彼が暴れるのは、自分が自分でなくなることを防ぐための防衛反応だ。
もし、カイルの言う通りに「現実」を突きつけたらどうなるか?
――自分の手が動かないことを自覚したガルドが発狂し、店に火を放つビジョンが見えた。
「……カイルさん」
俺は眼帯を戻し、汗を拭った。
「お父さんに現実を突きつけるのは、お勧めしません。突きつければ、あなたの店も、お父さんの命も終わる。今の彼は、プライドという空気でパンパンに膨らんだ風船です。針を刺せば破裂する」
俺は机の引き出しを開けた。
中には、様々な組織の「書き損じ」や「廃棄予定」の書類が入っている。
俺はその中から、冒険者ギルドがかつて使っていた、古びた羊皮紙を取り出した。
十年前の旧様式だ。現行の照合システムには引っかからない「死んだ書類」だが、老人相手には十分な権威を持つ。
指先が微かに冷たくなる。これは犯罪ではないが、道義的には詐欺だ。
だが、この世界に精神科医はいない。ならば、俺が処方箋を書くしかない。
「お父さんが欲しいのは酒じゃない。『承認』です。自分がまだ現役であり、必要とされているという証が欲しい」
「はあ……」
「だから、それを演出します」
俺はインク壺にペンを浸し、少しだけ躊躇ってから、一気に書き上げた。
『ギルド特別要請書(極秘)』
公文書ではない。あくまでギルド内部の、それも非公式な指令を装った代物だ。
「内容はこうです。『王都重要区画(つまり自宅)に、姿なき影の魔物が潜伏している。貴殿をその専任監視役に任命する』」
俺は書類をカイルに突きつけた。
「報酬は機密費から支払われるという名目で、あなたが小遣いとして渡してください。そして『任務の性質上、酒場での情報漏洩は厳禁』と付け加える」
「こ、これは……子供騙しじゃないですか」
「ええ。ですが、お父さんはこれを信じます。信じたいからです」
俺は冷徹に告げた。
「嘘か真実かは問題じゃありません。これは維持費の話です。酒代を払って店を潰すか、嘘をついて英雄を演じさせるか。どちらが安いか、計算してください」
カイルは書類を見つめ、喉を鳴らした。
彼の中の「誠実でありたい自分」と「楽になりたい自分」が天秤にかけられる。
やがて、彼は震える手で書類を掴んだ。
その指先についた煤汚れが、先ほどよりも濃く見えた。
「……わかりました。やります。親父には、最後まで英雄でいてもらいます」
「それがいいでしょう。家族というのは、時には残酷な劇団員にならなきゃいけない時もあるんです」
◇
数日後、街でカイルを見かけた。
隣には、背筋を伸ばし、髭を綺麗に整えた老人が歩いていた。
ガルドだ。
かつての英雄は、鋭い目つきで周囲を油断なく見回している。その腰には、錆びついた剣が誇らしげに吊るされていた。
「いいかカイル、油断するなよ。敵はどこに潜んでいるかわからん」
「ああ、わかってるよ隊長。頼りにしてる」
カイルは、どこか疲れた、しかし諦めのついた目で父に合わせていた。
その時だ。
ガルドが不意に足を止め、通りすがりの親子連れを怒鳴りつけた。
「貴様! そこで何をしている! 影の魔物の手先か!」
「ひっ……!」
母親に手を引かれた幼い子供が、ガルドの剣幕に怯えて泣き出した。
母親は青ざめて「す、すみません!」と頭を下げ、子供の手を引いた。
「ほら、言ったでしょ。いい子にしてないと『影の魔物』が出るよって」
「うわぁぁん!」
母親はガルドに一礼し、足早に去っていく。嘘が、躾の道具として機能し、街の日常に溶け込んだ瞬間だった。
ガルドは満足げに鼻を鳴らした。
「ふん、怪しい奴め。だが、俺がいる限りこの街は安全だ」
俺は寒気を覚えた。
酔っ払いの暴力は消えた。
代わりに生まれたのは、「正義」の名の下に行われる威圧と監視だ。
あの老人は死ぬまで、自宅という名の要塞から、無実の市民を「敵」認定して脅えさせ続けるだろう。
そしてカイルは、その共犯者として頭を下げ続けるのだ。
ズキン。
左目が痛む。
ガルドの背後に、黒い靄のようなものが揺らいで見えた。
あれは俺がでっち上げた「影の魔物」か?
いや、違う。
俺の網膜に焼き付いた、この世界の「バグ」だ。
「……また、ノイズが増えたな」
俺は眼帯をきつく締め直し、逃げるように路地裏へと消えた。
空を見上げると、冬の近い鈍色の雲が、王都を覆い始めていた。
お読みいただきありがとうございます。
英雄ガルドは、死ぬまで「自分はまだ現役だ」と信じて幸せに逝くでしょう。
息子カイルは、店を守るために一生、父の妄想劇の共演者を演じ続けることになります。
そして街の人々は、「影の魔物」という存在しない恐怖に怯えながら暮らすことになります。




