旅先の空気
夜、地方を一人旅していた青年は、宿の近くにある料理屋に入った。
カウンター席には三人の客が並んで腰かけていた。女、小太りの男、痩せた眼鏡の男。いずれも青年より二回り、三回りは年上に見えた。
先ほどまで店の外へ漏れ聞こえていた談笑の声は、青年が足を踏み入れた途端にぴたりと止み、全員の視線が一斉に彼に注がれた。
「何か用?」
頭にタオルを巻き、エプロンを身につけた無精ひげの男がカウンターの奥から声を投げた。どうやら店主らしい。
「あ、いえ、一名なんですけど……」
「“一名なんですけど”」
「ふふっ」
「あはは!」
小太りの男が青年の言い方を真似ると、他の二人が噴き出した。店主は何も言わず、にやりと口角を上げ、小太りの男の肩を軽く小突いた。
店主は青年に向かって言う。
「はいはい、好きな席に座ってね」
「あ、はい……」
「あ、そこ!」
「え?」
窓側の二人掛けの席に腰を下ろそうとした青年は、ぴたりと動きを止めた。小太りの男が顎をしゃくる。
「そこはしんちゃんの席だよお」
「しんちゃん?」
「そ、チバシンヤ。ティー・アイ・ビー・エー・エス・アイ・エヌ・ワイ・エー! チバシーンヤ!」
「はははっ!」
「あははははは! たけちゃん、ほんとそれ好きねえ〜!」
三人は腹を抱えて笑った。
「あはは、あの、意味がよく……それにティーじゃなくて、シーじゃ……」
「ごめんね、お兄さん。そこ座っていいから」
困惑して立ち尽くす青年に、店主がそう言った。
「えー、いいの? マスター」
「しんさんは明日、病院で検査だから今夜は来ないんだよ。で、何にする?」
「あ、はい……じゃあ、カレーうどんで」
「あいよ」
店主が注文を取ると、眼鏡の男がぐいと首を伸ばして、青年に声をかけた。
「お兄さん、何? 学生さん?」
「あ、はい。大学生です」
「ふーん、で?」
「え?」
「なんでこっち来たの?」
「えっと……まあ、普通に旅行ですね。いろいろ経験したいなって思って……」
「あ、エロい店に行くんだろ! その前に精力つけようってわけだ!」
「あはは! もうやだ〜、たけちゃん! あははは!」
「いや、そういうわけじゃないですよ……ははは……」
「んー、テンポが悪いね。ノリも悪い! うちの息子は大学なんて行ってないけど、もっと会話うまいよ?」
「あ、そうなんですか……すみません」
「なんで帽子かぶってるの? 取ったら?」
「あ、いや、髪型がちょっと……」
「禿げてんの?」
「いや、そういうわけでは……」
「おれも禿げてるけどさ、帽子なんかかぶってないよ。はははは!」
「ねー、取りな取りな〜、感じわる〜い」
「いや、ちょっと……ははは……」
「ほらほら、お客さんをイジんない、イジんない。はい、お冷とお通し」
「あ、ありがとうございます……」
「で、なに? うちの店、ネットか何かで見て来たの?」
「あ、いえ。旅館の人に勧められて……あ、お知り合いなんですか?」
「“お知り合いなんですか?”だって」
「ふふっ」
「ははははは!」
「あははは!」
「あ、ははは……」
青年は背をすぼめ、料理が運ばれてくるのをじっと待った。話しかけられれば相槌を打ち、引きつった笑みを浮かべる。
やがて女がアコースティックギターを取り出して歌い始めると、他の二人が手拍子を添えた。促されるまま青年も手を叩いたが、視線は空になった小鉢へ吸い寄せられた。
店内は和気あいあいとした空気に包まれていた。だが再び談笑に戻ってからしばらく経った頃、青年がぽつりと呟いた、その瞬間だった。
「まだ来ないな……」
「何?」
店主の目が鋭く光り、カウンター越しに射抜いた。青年はぎょっとし、思わず「え?」と声を漏らした。
「忘れてないですけど。食べないならいいですよ。もう帰ってください」
「え、いや、食べますけど……」
「なら、コソコソ言うのやめてくださいよ」
「あ、すみません……」
「せっかくだからさ、みんなと交流したら? 何しに来たの?」
「いや、ご飯を食べに……」
「あ、そう」
「怒られちゃったね」
小太りの男が体を傾け、青年に笑いかけた。
「みんなプライドがあるからさあ。自分にだってあるだろ? プライド」
「あ、はい……」
「あんま愚痴とか言っちゃ駄目だよ。おれはしょっちゅう愚痴ってるけどね! はははは!」
「ははは」
「あははは!」
「ははは……」
「ねえ、君。話聞いてる?」
「え、はい」
「みんなねえ、自分の心を持って生きてるんだから。無視しちゃ駄目だよ。おれだけだよ、人を無視していいのは。はははは!」
「いや、無視はしてないですけど……」
「今いくつくらい? 二十八?」
「二十二です」
「そう。老けて見えるね。まあ、縁があったんだから、縁は大事にしよう。縁はさあ!」
「はい……」
「絆はさ、深めていくもんだよ」
「あなたねえ、心の中で人を笑ってない?」
「はははっ」
「え、いや……ははは……」
青年は曖昧な笑みを浮かべ、視線を落とした。
やがて店主が湯気の立つ盆を手に、のしのしと近づいてきた。
「はい、お待たせしましたー」
「あ、ありがとうございます。うわあ、おいしそうですね!」
運ばれてきたカレーうどんを前に、青年は媚びるように声をを張った。
「いただきまーす!」
「はーい」
「どう、お兄さん。おいしい?」
「あ、はい。普通においしいです」
「普通に……?」
店主がじろりと青年を睨んだ。青年は慌てて「あ、おいしい! すごくおいしい!」と言い直した。店主は鼻で笑い、言った。
「まあ、おれ、べつに料理にプライドなんてねえから、どうでもいいけどね」
「え、プライドないんですか?」
青年は思わず口走った。すると店主は両手で丸を作り、それを筒のように掲げてみせた。
「おお。おれがプライド持ってんのは、これだよ」
「これって……カメラですか? 撮影?」
青年が戸惑いながら訊ねると、店主はにやりと笑った。
「オナニーだよ!」
言うなり店主は両手を激しく上下に動かす。常連客たちは椅子から転げ落ちそうな勢いで大笑いした。
「でかいから両手で包まねえとさあ!」
下卑た笑いが店内を揺らす。青年は顔を引きつらせ、財布を取り出すと札をテーブルに置き、言葉もなく店を飛び出した。
「背後、気をつけろよなあ!」
店主はドアの外に顔を出し、闇に溶けていく青年の背中へ怒鳴った。
そして――店主はため息をついた。ドアを閉めると、さらに重いため息が漏れた。
「はあ……しんどい」
「お疲れさま、マスター」
女が柔らかい声で労った。店主はカウンターに戻り、力なく笑った。
「こんな役、もう辞めたいですよ……」
「あらあ。でも見た目も歳も、役に合う人が他にいないんでしょう?」
「みんな、すぐ辞めちゃいますからね……」
眼鏡の男がグラスを傾け、ぼそりと言った。そのとき、小太りの男が「あっ」と声を上げ、立ち上がった。
「すみません。僕、次のスナックに行かないと……!」
「あら、そっちではどんな役なの?」
「二人組の女性旅行客に酒と歌を勧めて、セクハラしなきゃならないんですよ。もう最悪……」
小太りの男はぶつぶつと愚痴をこぼしながら、慌ただしく店を出ていった。
残された三人はその背中を見送り、ため息を重ねた。
「大変ねえ、あの手の役は。演じられる人が少ないうえに、心を病みやすいから」
「罪悪感と嫌悪感、ですね。あの人、“たけちゃん”? 本名はなんて言うんだろう。今度会ったら聞いてみようかな」
「干渉はやめておきましょうよ」
店主にたしなめられ、眼鏡の男は「そうですね、すみません……」と小さく頭を垂れた。
「まあ……たまには役者同士でこんなふうに集まって愚痴を言いたくなるけどね」
「今の世の中、そういうのを苦手にする人も多いですからね……」
三人は沈黙し、互いを見合うと、わずかに苦笑を交わした。
「じゃあ、私も帰ろうかな。今夜はもう旅行客、来ないのよね?」
「ええ、はい。お疲れさまでした」
「お疲れさまです」
女は静かに腰を上げ、店を後にした。眼鏡の男は窓の外をぼんやり見つめたのち、咳払いをした。
「い、いやあ……それにしても大変ですよね。昔の地方の再現なんて」
「え、ええ。我々の世代はまったく知らない時代ですからね」
「でも、文化の保存ですか……。いやはや、百年以上前には本当にこんな人たちがいたんですかねえ」
「いたんでしょうね。信じられないですけど」
「でも、結構需要はあるみたいですよ。若い人たちには新鮮な体験だって」
「我々にとっても、ね」
「確かに。ははは!」
「ははははは!」
眼鏡の男は、「じゃあ一区切りついたので……」とでもいうように軽く頭を下げると席を立ち、店を出た。歩幅をわざと小さくし、先に出た女に追いつかないように歩いた。
ひとり残された店主役の男は、店内をゆっくりと見渡した。
目を閉じて大きく息を吐き、その息音が静寂に溶けていくのを追う。
耳の奥に残る笑い声とまだ漂うカレーの匂いに、彼はひとり苦笑した。




