番外編 「静寂の中の初恋」 (ep.ギルア)
試験が終わった後、俺は宿舎に残ることにした。
特に大きな理由があったわけじゃない……いや、正確には“帰りたくなかった”だけだ。
誰の笑い声もない、冷たくて暗い屋敷。レーヴェント家に。
広すぎる部屋。厳格を重んじるが故に顔の死んだ使用人達。そして無言のまま冷徹な瞳を向ける、父親と兄。
そこに居るだけで、息が詰まるような錯覚に陥る場所。
そんな場所に戻るくらいなら、少しでも賑やかだった今日の空気の中にいた方が、よほどマシだった。
もちろん、それだけじゃない。ほんの少しだけ、気になることもあった。
『シイナ』
アイツはまだ戻ってきていないらしい。試験後、水槽の中で安定を待っていると聞いた。
別に心配してるわけじゃない。ただ、あいつの姿が見えないのが、妙に気にかかった……それだけのことだ。
入浴を済ませた後、モヤモヤする気分を変えたくて、俺は敷地を散策する事にした。
でも数分歩いたところで、自分が完全に迷子になっていることに気付く。
「あれ、またこの廊下見たぞ」
方向音痴という欠点を、自分でも苦笑したくなる。
大体の事は人並み以上に出来る俺の、僅かな欠点。
それでも、見覚えのある通路に出た気がして、適当に進んでみた、数分後。
俺は、何故か今日試験を受けたあの会場に辿り着いていた。
「……道、間違えたか」
そう思って引き返そうとしたその時、ふと、風もないのに“何か”が聞こえたような気がした。
僅かに空気が震え、伝わってくるのは……人の声。
「誰か居んのか?」
何かの気配を感じ取った俺は扉の隙間から、こっそりと中を覗いた。
そこにいたのは、マツリカと言う隊員だった。
「あの人、何やってんだ?」
彼女は床に膝をつき、血に濡れたタイルを黙々と拭いている。表情は見えない。けれど、肩が、震えている。
あれは、……今日の“人間”の血、だろうか?
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
かすれた声が、静寂に落ちる。
それは、試験中に見せた“軽薄で明るい彼女”とはまるで別人のようで、俺は酷く戸惑った。
なんで……謝ってるんだ?
その場から動けなかった。
言葉をかけるべきか、立ち去るべきかすら判断できない。
ただ、ただ、彼女から目が離せなかった。
「痛かったですよね、怖かったですよね……ごめんなさい。ごめ……なさいッ」
もしかして、あの人は今日の犠牲者に謝っているのか?
試験中、あんなに軽そうだったのに?
人の命なんて何とも思わない、父と同じタイプの人だとばかり思っていたのに。急に人間らしい一面を見て、戸惑ってしまう。
そういえば試験の時、あの人に抱き締められた。それに頭も撫でられた。
ふいに、その記憶が、熱が、蘇る。
生まれてから一度も、親にも、乳母にも、兄弟にも……誰にもされたことがなかった“抱擁”。偉いねと、頭を撫でられた事すらない。
ただ、当たり前だ。と冷めた目で見られた記憶ばかりだ。
それを初めて俺にしたのが、あの人……『マツリカさん』だった。
初めて知るそれは、温かく、そして少し柔らかかった。
途端に胸の奥が、きゅ、と締め付けられる。
なんだ、これ?
理由もわからない。ただ、心臓が妙にうるさくて、耳の奥まで脈打つような感覚が、俺の血液を沸騰させていく。顔が熱い。
『変な奴』だと思っていたはずの彼女が、今はなぜか
……とても、とても気になる。
声はかけなかった。
それが正しい気がして。
俺は、足音を忍ばせてその場を離れた。
そっと扉を閉める。
扉の向こうの静けさより、胸の内の音の方が、ずっとずっと騒がしかった。