第六章 告白
ミス・ジンジャーは一瞬戸惑ったようすを見せたが、すぐに表情をこわばらせ、ふたりをにらんだ。ダイズもミズナも息を止め、立ちすくんだ。
「ふたりで何をしていたの? 消灯の時間がくるというのに」
部屋にふたりでいることは規則には違反していない。めったにする者はいなかったが、とがめられることはない。だがふたりを押しやるようにして、ミス・ジンジャーは部屋へ入った。
ダイズはこの場をどう切り抜けようか、一心に考えをめぐらせていた。手をぎゅっと握り、後ろに隠す。
ミス・ジンジャーはベッドのまわりをゆっくりと歩いた。空気の中に秘密が隠されているかのように、視線を天井から床へと移していく。それからダイズの前にやってくると、両手をつかみ、手を広げさせた。開けられた手の平には粉々になった蝶がのっていた。
「鱗粉の匂いはそうたやすくは消えないのよ。ミズナ、部屋にもどりなさい。明日、処分を伝えるまで部屋から出ないように。わかったわね」
ミズナはミス・ジンジャーのそばに寄ろうと一歩踏み出した。
「部屋に帰るのよ!」
ミス・ジンジャーが冷たく言い放つ。
ミズナはおびえたように走り去った。
ドアが閉まった。
ダイズは椅子に崩れるように腰を下ろした。手の中には蝶々の残骸がまだ残っている。ダイズはそっと触れてみた。
「この生き物はなんていう名前なの? どこから来たの?」
「ペヨーテモルフォ。今はそれだけで満足なさい」
そういうと、ダイズを洗面所に連れて行き、手をつかみごしごしとこする。蝶々は流れる水に溶けるように消えていった。
ミス・ジンジャーはせまい部屋の中を歩き始めた。
ダイズはそんなようすをただ黙って見つめる。
空になった手の平が冷たい。ミス・ジンジャーが何を悩んでいるのかわからない。
もしかしたら、今こそが素直に言葉をかわす時なのかもしれない。だが決心は中々つかなかった。ミス・ジンジャーが足を止め、いった。
「ミズナのせいで、未来をめちゃめちゃにしてしまっていいの? そんなことも考えないなんて、まったくがっかりだわ」
怒っているというより、むしろ苦しんでいるような声だった。
「なぜわたしの未来がめちゃめちゃになるの? ミズナの十二歳のプレゼントをふたりで使っただけなのに。ほかになにか面倒なことでもあるのかしら?」
心とは裏腹な、皮肉を込めた調子で答えた。
「ずいぶん偉そうな言い方ね。気をつけなさい。あなたやミズナをどんなふうにだって、わたしはできるのよ。」
「じゃあ、そうすれば?」
反抗的な言葉にミス・ジンジャーの顔はひきつった。しばらく黙ったまま、ふたりはおたがいを見つめあった。
それからミス・ジンジャーはダイズから目をそらし、いいにくそうにしゃべりだした。
「これ以上、あなたの心を揺らしたくないの。きっとあなたは優れた指導者になれるわ。だからばかなことをしてほしくない。ミズナに振り回されないで」
「わたしの心が揺れているのは、ミズナのせいじゃないわ」
ダイズは小さな声でつぶやいた。
「すべて理解できるようになる日が必ず来るわ。だから今は、指導者たちのいう通りにするのよ。それがあなたに安定した未来をもたらすの。ドームの維持にはあなたの力が必要だわ。それにわたしもあなたを・・・…」
ミス・ジンジャーはハッとして口をつぐんだ。
「続きをいってください。何をいうつもりだったの?」
ダイズの胸の奥が騒ぎ始める。熱いかたまりが、血管の中を勢いよく流れて行く感覚がする。
だがミス・ジンジャーは表情を固くして、ダイズのそばを離れた。
「指導者として生まれたことを喜びなさい。そしてわたしがあなたに寛容であることにも感謝しなさい。このことはだれにも知られることはないでしょう」
「ミズナはどうなるの?」
ダイズは食い下がった。
「ミズナはわたしとの約束を破りました。それなりの処罰がなされるでしょう」
「あの蝶々をあげたあなたはどうなるの?」
「あげたことが問題ではないの。指導者のいうことを聞かなかったことが罰せられるのよ。あなたも知っているはず。それからわたしをちゃんと、ミス・ジンジャーと呼びなさい」
ミス・ジンジャーは少し前までの感情の高まりを消し去り、声はすっかり落ち着いてしまった。それがダイズをいらだたせ、落胆させた。
「ミズナが処分されるのなら、わたしだって処分されなければならないんだわ」
「わたしに感謝しなさいといったでしょ」
「そんなのおかしいわ」
ダイズはひるまなかった。
「こういうことが起こってほしくなかったから、ミズナにはだれにもいうなといったの。特にあなたにはね。あなたが間違った考えにとらわれていくのをわたしは許さない」
「どうして? わたしがすぐれた指導者になれるから? それだけのことなの? わたしはわたしよ。それが許せないというのなら追放すればいいじゃない」
なんとしても、ミス・ジンジャーの心の奥底にひそむ声が聴きたかった。きっとあるに違いない。ダイズはそう信じたかった。
「何てこというの!」
ミス・ジンジャーはダイズの腕をギュッとつかんだ。つかまれた痛みが本心を告げる決心をさせた。
「わたしは……わたしはずっと感じていたわ。ミス・ジンジャー、あなたの視線を。いつも見守っていてくれたのも知ってる。小さなときはうれしくて、わたしはみんなとは違うんだって思ってた。でも今はね、わたしはそれが怖いの」
ダイズは一息つき、勢いよく続きを話し出す。
「だってわたしは、ミス・ジンジャーの願うような指導者にはなれないという気がしてきたから。それでもいつもそばにいてほしい、見ていてほしいって思っているの。……だんだんドームのことがわかってくると、今の指導者たちのやり方に疑問がわいてきたわ。ミス・ジンジャーはそんなわたしを知っているわね。このままではわたしはドームにふさわしい指導者になれないと、不安に思っているのでしょう? でも……でも、愛してくださっているのでしょう?」
声が震えていた。
ミス・ジンジャーは勢いよく手を放し、ダイズに背を向け窓辺に立った。
「ばかなこといわないで! なにをいいだすかと思ったら……」
そこまでいうと、ミス・ジンジャーは細い手で顔を覆った。ダイズは立ち上がり、ミス・ジンジャーの背中に顔をつけた。両手をまわしてぎゅっと抱きしめた。
ミス・ジンジャーの体は一瞬こわばったが、やがて力が抜けていくのを感じた。しばらくふたりはそのままじっとしていた。表情はうかがえなかったが、じっとしていてくれるのは心が通じ合えたからだと思えた。
震えていたのはダイズばかりではなかった。ミス・ジンジャーはもう少しで、ダイズの細い手に触れてしまうところだった。
だが発した声は、今まで一度も口をついて出たことがないほど冷たかった。
「離しなさい。わたしをばかにするのもいい加減にして。あなたはわたしの生徒のひとりにすぎないのですよ。ほんのちょっと助けてあげたくらいで、のぼせ上がるのはおやめなさい。口をつつしむことね」
振り向いてもくれないミス・ジンジャーから、ダイズはさっと手を離した。そして体が凍り付いたまま一瞬のうち、苦しいまでに理解した。すべては自分の思い違いだったということを。心の中にひとつひとつ大事にしまっておいた思い出は、誤解によって生み出されたひとりよがりな妄想だった。さっきまでの温かさが指の先からあっという間に消えていく。むなしさと同時に、怒りがふつふつとわきあがってくるのを感じた。
「ペヨーテモルフォはどこから来たの? ぜったいにドームの外からだわ。指導者たちは外にも通じているのね。つまり外の世界は死の世界じゃないってこと。それを秘密にしていること自体おかしいじゃないの!」
ミス・ジンジャーはダイズの怒りにも動かされてはいないようだった。ダイズの方に向くと、諭すように静かに話し出す。
「いつかはすべてわかるのよ。あなたは労働者でもない、管理者でもない。指導者になるのだから。それまでどうして待てないの? 何が不満なの? 指導者たちは人間のためにドームの安定を・……」
「そんなおきまりの文句はもうたくさん! だれのための安定だかわかったものじゃない。わたしはそんなことには興味ないわ。本当の地球の姿を知りたい。ただそれだけが望みよ」
もはや失うものは何もないと思えた。ミス・ジンジャーへの想いは時間とともに葬り去ることはできるかもしれないが、苦さはいつまでも消えないだろう。そして放った言葉もふたりの間では残り続ける。もう後戻りはできないのだ。ダイズは覚悟した。
「わたしを追放してください。それが私たちふたりのためには最善のことでしょう? お互い望むものが手に入るのだもの」
額にしわを寄せながら聞いているミス・ジンジャーが口を挟みそうになった。それを無視して続けた。
「ドームの安定に貢献した、ミス・ジンジャーの鋭い判断力が高く評価されるのは間違いないわ。最高指導者になりたいのですものね。そしてわたしは真実を知る冒険に出られる。でもミズナはここに置いてあげてください」
「嫌味をいいながら、ミズナを助けてと、お願いもするわけ? 外の世界はあなたが描いているような、そんな甘いものじゃないのよ。冒険だなんて! エネジンもなくて、どうやって生きていくというの?」
指導者であるという意識は簡単に消せなかった。この壁を崩すわけにはいかない。たとえ相手がダイズであっても。何回も心の中で、そう言い聞かせた。同時にバカな考えを改めさせたいと思う。ダイズの望むことではないとしても、ドームの中でいっしょに暮らしていきたいと願った。最善の道は、ダイズが従順に自分に従うことだ。今はいやでも、きっと感謝する日が来ると信じたかった。
反面、冷静さをかなぐり捨てて、真実を語ってしまいたいとも思った。ドームがこのままであり続けられるのか、ドームの在りよう自体、正しいのかどうか、ダイズに見極めさせるのも悪くないのではないか。自分にはできないことなのだからと。
「外に出て、少しでも生きられたら満足よ。空気を吸って、いろんなものを見て、触って、感じたいの。エネジンがなくて放射能ですぐ死ぬとしても、ドームで指導者として死んでいくよりずっとましよ! 追放して!」
ダイズはミス・ジンジャーだけでなく、自分にもいっているのだった。向う見ずな現実的でないたわ言を、怒りと失ったものの大きさに打ちのめされてしゃべりつづけた。
ミス・ジンジャーがさえぎって言った。
「本気でそう思っているの? 死ぬなんて言葉、そんな簡単に使うものじゃないわ。外で死ぬことは、ここで死ぬことよりずっと恐ろしいの。あなたはなにもわかってない」
ミス・ジンジャーはダイズの視線から逃れたかった。これ以上話もしたくなかった。自分がなにをいいだすかわかったものではない。相反する思いが激しく戦っていた。
ダイズにはぜったいに知られたくない。愛などと口走る子どもに振り回されている自分などみせたくない。指導者としての自尊心が感情を封印した。
ダイズはミス・ジンジャーの思いなど気が付きもしなかった。すべてをさらけ出してしまった今、なじるよりほかなかった。
「ミス・ジンジャーも外に興味があるのでしょ? 過去の文明に惹かれているはずよ。わたしと同じ。そうに決まってる」
「もうたくさん! あなたも明日は部屋から出てはなりません。処分は明日知らせます」
冷たく言い放つと、さっさと部屋を出て行ってしまった。
一人になったダイズは茫然と部屋に立ち続けた。固くなっていた体は、やがて力尽きてくずれるように床に倒れこんだ。全身に震えがやってきて、歯までががちがちと鳴った。見放されたことがたまらなくつらかった。こんなに苦しいとは思いもしなかった。
「お母さん……ママ……」
声に出していってみた。かつては柔らかな、温かい響きに満ちた言葉だったはずだが、今はなんの意味もないむなしい音となってしまった。ダイズは体中でそれを感じていた。
ミス・ジンジャーは部屋をでたとたん、めまいに襲われた。壁に背中をついて、しばらく目を閉じた。歩けそうもなかった。指先で何度もほほをぬぐう。
こんな姿を見られてはならなかった。ハッとしてあたりを見回し、ふらつく足でエレベーターに向かった。