第四章 ミス・ジンジャー
部屋を出てミス・ジンジャーは、自分の部屋へと向かった。子どもたちは二時間眠りにつく。まだまだ体ができあがっていない子どもたちは、どうしても休息が必要なのだ。
カプセルの中では栄養素を含んだ酸素がチューブから放出される。細胞からも吸収できるように作られているのが特徴だ。指導者になる子どもたちだけに与えられた特権はたくさんあるが、これはその中でも必要不可欠なものだった。指導者たちの寿命がほかの階級の人間よりも長いのは、これのおかげだったからだ。
ミス・ジンジャーの部屋は同じビルの最上階にあった。
高速で二十階へあがる。廊下は下の階とまったく変わらない。だが手をかざして入った部屋は、淡いブルーのカーペットが敷かれ、ガラスのテーブルや白いソファが置かれたみごとな応接間だった。ふっくらしたベッドにナイトスタンドやランプのある寝室がその奥に続いていた。
ミス・ジンジャーはくつろいだようすでソファに体をあずけ、靴を脱いだ足をガラスのテーブルにのばした。しばらく天井を見上げたままぼんやりする。
ドアのセンサーが反応した。ドアを開けると、そこにはエストラゴン総統の姿があった。総統はあいさつもなく部屋に入り、ソファに腰かけた。
「いつものでよろしいですか?」
総統は黙ってうなずく。やがてミス・ジンジャーは両手にワイングラスをにぎり、もどってきた。指導者だけに配給されるワインがグラスの中で赤くゆれた。
「どうだったね、子どもたちは」
ワインをゆっくり味わいながら総統はつぶやいた。
「興奮してましたわ。ドームの歴史を初めて知ったのですから。これからは驚きの連続になるでしょうね」
ミス・ジンジャーは窓辺に立ち、そっとグラスに口をつけた。首を少しかたむけ、思案するような風情だった。総統は眉間にしわを寄せ、グラスをテーブルに置いた。
「なぜあの子に外を見せたのだね。少々変わった子だと、報告されていたはずだが」
エストラゴン総統はおだやかな口調だったが、ミス・ジンジャーの肩はぴりりと震えた。聞かれることはわかっていた。答えも用意してある。それなのに、どうしても恐れはやってくる。
「反応を見たかったのです。彼女の本意を知りたくて」
口にふくんだワインの味が幾分気持ちを落ち着かせてくれた。
「それで?」
総統は表情を変えず、前を向いたまま先をうながした。
「外に興味を示しているようにはみえませんでしたわ。これからも注意深く見守るつもりですから、ご心配には及びません」
ダイズは本当になにも感じなかったのか、ミス・ジンジャーには推し量れなかった。それは、ダイズとの距離がどんどん広がっていることを意味する。どうしようもない失望感に襲われる。
「そうだといいがな。もし異常が見られるのなら、おしいことだ。なかなか有能な子らしいからな」
総統は「うーん」とうなり、黙り込んだ。
「気になるのは、追放する人間の数がふえていることです。総統のもと、この三年間で百人近くになるはずです。多くの者を追放するのは危険ですわ」
ミス・ジンジャーの声が重く部屋に沈んでいった。
「労働者たちが何人追放されようと、心配することはない。ゾルキアが活躍してくれているはずだ。ま、体はちゃんと回収されたほうがいいがね。知恵も力もないやつらのみじめな末路だ。問題は我々の後継者に危険分子が生まれることだ。早いうちに摘み取らねば、ドームの安定が乱される」
「ドームの安定? それをいうならわたしたちの安定ではありませんか」
ミス・ジンジャーが自嘲気味にいう。
「何がいいたいのかね?」
総統の視線がするどく突き刺さる。だがミス・ジンジャーはゆっくり近寄っていくと、笑顔をつくり、総統の肩に手を置いた。
「何もありませんわ。わたしはこの部屋が気に入ってますもの」
総統の目がゆるみ、肩に置かれた手に自分の手を重ねた。
「子どもたちをしっかり見張っていてくれたまえ。ドームよ、永遠なれ」
総統は立ち上がり、そのまま部屋を出て行った。
ミス・ジンジャーは総統の後姿を見送ってから、ソファの前に立った。総統のすわっていたところを避けて端に腰をおろし、一気にワインを飲み干した。
ダイズのことを思う。彼女のまなざしはいつも熱を帯びている。時折見せる、不満げな表情をミス・ジンジャーは知っていた。たくさんの子を教育してきたが、こんな子は初めてだった。どこで何が起こったのか。自分の子ども時代を思い出し、ダイズと重ね合わせてしまう。報告があったのはダイズが五歳のときだった。
「おかしなことばかりする子なんです。わたしたちのいうことをちっとも聞かないし。なんだか気味が悪いわ」
五歳児の教育指導者がいったせりふだ。ミス・ジンジャーは、わざわざその子に会いに行ってみた。その子は部屋のかたすみで、ひもを丸く結んで指にかけ遊んでいた。
そっと近寄り、しゃがみ込んだ。ダイズの目がミス・ジンジャーの目と合った。ハッとするほど澄んだ黒い瞳だった。じっと目を離さず、にこりともせずダイズはミス・ジンジャーを見つめ続けた。思わずダイズのほほに手をあててしまったのはなぜだったろう。
フッと微笑んでしまう。あの時、胸の奥から不可思議な感情がふつふつとわきあがってきたのを思い出す。
抱きしめたい!
抑えるのは大変だった。自分も若かったということだろう。まだ教育管理庁長官候補だったのだから。今では愚かな感情など簡単にコントロールできる。ドームでは、特に長官ともなれば、そうしないと地位を奪われる。
それから常にダイズを観察していた。気づかれないように、そっと遠くから見つめていたこともある。そんなことも知らず、ダイズは貪欲に学び、能力を発揮し始めていた。
教室のコンピューターの操作をあっという間に覚え、時には指導者しか開くことのできない、極秘のファイルをクリックしていた。そこには宇宙船内でまとめられた過去の地球の歴史がつづられていた。ミス・ジンジャーはだれにもいわず、部屋まで出かけていって、規則を説明するのだった。ダイズは素直にうなずいたが、本心のところはわからなかった。
過去の地球の姿、当時の人間たちの営み、それらを知ってしまったダイズは危険な存在となる可能性がある。カーテンや部屋着を作っているだけでは済まなくなるはずだ。ミス・ジンジャーは危惧し始めていた。
それはかつて、自分にも起こったことだったからだ。ドームに対して、疑問を抱いたときもあった。良き指導者とはどんな人間であるべきか悩んだものだ。悩みぬいた末に、今の道を選んだ。正当な道だった。そう今も信じている。
だからダイズにも同じ道を歩んでほしい。それがダイズにもドームにも、最良の道なのだ。もちろん、自分にとっても。
ところが、いつの間にかダイズは彼女のまわりに幾重ものベールをかけてしまった。ミス・ジンジャーでさえ、それらをはぎ取ることは出来なかった。
だがダイズがこうなるのも仕方のないことかもしれない。ここでは彼女の身を守れるのは自分だけだ。たとえ信頼をおけるはずの指導者にだって、用心深くするにこしたことはない。小さくため息をついた。これがドームで生きていくということなのだ。ダイズはあの歳でそれに気づいてしまった。
ダイズの賢さ、大人びた判断力を思うと不安になる。果たして自分の思う通りに育ってくれるかどうか……。
もしそうならなければ恐ろしいことになる。ダイズの噂は総統も知っているのだから。
総統は冷酷な人間だ。どんなに優れた指導者でも、危険だとわかれば彼は追放を言い渡すだろう。ドームの安定をはかるためという大義名分が大いに役立つ。
だから教育管理庁長官の地位をおびやかすものは取り除かねばならない。つまりは、自らの手でダイズを処分する日が来るかもしれないのだ。確かにダイズが異端児となってしまうのなら危険は計り知れない。その時が来れば、迷わず追放するだろう。
追放は死に近づくことだ。だが死そのものではない。
体が震えた。眉間にしわを寄せ、指先を唇に這わせる。子どもたちを育てているはずの自分がこんな残酷な考えを持つなんて!
両手で顔を覆い、自分の恐ろしさに耐えがたい嫌悪感を覚えた。
どのくらいそうしていただろう。いつのまにか、嫌悪感を覆い隠すように、新たな思いが沸き起こって来た。この身分を捨てる気などさらさらない。ましてや、外へなどだれが行くものか。この生活を守らねば。まだ謳歌する時間は残っている。
冷静になると、表情はすっかりいつもの落ち着いた顔にもどっていた。
ふと、ミズナが頭に浮かんだ。ダイズにいつもへばりついているのが少し気になっている。プレゼントのことをいっていないといいのだが。ミス・ジンジャーはエストラゴン総統にも、ミズナが欲しがった十二歳のプレゼントのことは伏せておいた。
どうやって知ったのか、ミズナが真実を語っていないことはわかっている。なかなかのしたたか者だ。手に入らないと、とぼけてもよかったが、ミズナを喜ばしておくのも悪くはない。
(わたしを信じ切っているのだから)
ミス・ジンジャーは口をゆがませて笑った。
ただダイズにしゃべっていたら、絶対に許さないつもりだ。
ダイズは今、心が揺れている。まっすぐに前進させねば。迷わせてはならない。
ミス・ジンジャーは立ち上がり、寝室へ行き大きな鏡の前で髪に手をやった。じっと自分を見つめる。迷いをふり捨てて鏡の中の自分にうなずいた。