七.水の魅る火色
正しく東雲色に染まった空が、私を見下ろしている。空は青く澄んでいて、雲も疎らにしか見えないのに、低く、窮屈に感じた。
朝のアスファルトは嫌に冷たくて、私はまたどこかに逃げたくなる。
まだ目を覚ましていない街を、ふらつく足取りで歩く。
体を支えようと、私は道沿いに置かれている防護柵に手を伸ばす。
だが昨日の雨か、朝露か、防護柵が雫を纏わせているのを見て、私は反射的に手を引いた。
その反動でまた二歩三歩とたたらを踏み、私はだらんと腕を垂らす。
辺りを見渡すと、防護柵だけでなく、肉屋の看板も、置きっぱなしの自転車も、電信柱の根元に生えた雑草も、所々が欠けている路面標示も、目に入る全てに水滴がついており、びかびかと朝日を反射していた。
あまりにも眩しくて、私は目を窄めながら、脇道に転がるように入り込む。
もたれかかった壁も湿っていたが、私の体はもう抗う事を諦めた様に脱力し、土埃で汚れた側溝に、落ちるようにずるずると座り込んだ。
湿気た黴と鉄錆の匂いが鼻につく。反射的に目元に手をやった。
自分の顔を削り落とすかのような勢いで擦り、目を開ける。
陰を灼くような暁光が、私の足先を通り過ぎているのが見えた。
痛みを感じる程の熱波に、私は投げ出された足を引っ込め、膝を抱えるようにうずくまった。
私は選択を間違えたのだという実感だけが、私の鳩尾に沈殿していた。
ーーーーーーーーーー
…祈里が起きない。
全然起きない。
現在時刻は午前四時五十二分。もう既に退出まで十分を切っている。そろそろ起きてもらいたい。
「おーい」
私は祈里が寝た後も歌い続けてはいたが、私の喉は未だに衰えを見せていない。
何となく有惟に悪いなと思いながら、私はまた「おーい」と声をかける。
本当、一向に目を覚ます気配が無い。幸せそうに頬を緩めながら起伏を上下させる様子に、こいつ置いて行ってやろうかという思考を過らせながら、私は祈里の耳元に口を寄せる。
大きく息を吸い、私は
「お『prrrr…』
大声を出そうとしたが、カラオケボックスに備え付けられた電話が鳴りだし、反射的に振り返った。
祈里も、流石に電話の音で目が覚めたようで、がばりと跳ね起き、未だに生乾きの靴を履こうか逡巡しつつ、結局靴下のまま電話に出た。
「はい、…はい、分かりました。…いえ、結構です、はい、ありがとうございます」
と祈里が対応しているのを、ソファの蒸し暑さを感じながら見守る。
私は、祈里が電話を切った事を確認してから、
「もう「もうちょっと早く起こしてよお…」
『もうちょっと早く起きてよ』と言おうとしたのだが、祈里が声を被せてくる。
余りにも自然に言葉を遮られたため、私があっけに取られていると、
「あれ?」
と言いながら祈里が辺りを見渡しだす。私は、祈里に近づきながら、
「何か無くしたの?」
と聞いた。
しかし、祈里は、
「あれ、あれ?」
と落ち着きなく何かを探すばかりで、私の言葉に答えてくれない。
「ちょっと、なんで無視すんの?」
私はそんな祈里の態度に怒りと、小さじ一杯の恐怖を感じながら、祈里に詰め寄る。
それでも祈里は何も反応しない。
「…え、祈里、どうしちゃったの?」
余りの不自然さに、私は先程とは別ベクトルの恐怖を感じながら、祈里の肩に手を置く。祈里の服が私の手の水分で滲んだ。
昨日何か変な物でも食べて気がおかしくなってしまったのか。まさか祈里、お腹が空いてそこらへんの雑草でも食べたんじゃないだろうな。
私もパニックになったのか、そんなあり得ない事を考えていると、祈里が、机の下を覗き込みながら、
「茜ちゃん、どこに行ったの?」
と言った。
…
……
…頭が真っ白になるとはこういう事なのかと、私はやけに冷静に感じた。
今、祈里は何と言った?
『茜ちゃん、どこに行ったの』と、そう言った?
ここにいるじゃないか。
後方から足場が崩れていく感覚が私を襲う。体を支えていた手に力が入らなくなって、私は栓が抜けた様にふにゃふにゃとソファに沈み込んだ。
「あ、そうだ…」
と言いながら、カメラを取り出した祈里に一抹の希望を抱く。あのカメラならば、また私を捉えてくれるかもしれない。
だが、そんな期待も、明らかに私の方を向きながら通り過ぎていったレンズの、真っ黒な瞳孔を見れば萎れてしまった。
そのまま祈里は終に私の事を見つけられず、退出の時間も差し迫り、自分の荷物を鞄に詰める手間も惜しみながらカラオケボックスを後にした。
私も、祈里と離れて行く場所がある訳でも無いので、何となく祈里について行く。
部屋から出た後も、トイレや廊下を探し回ってくれている祈里を見ていると、なんだか申し訳ないと思いつつ、胸がじんと痛んだ。
店から出て、曙特有の、まだ登っていない太陽の透けた光だけで薄らぼんやりとした輪郭の街を、お互い無言のまま歩く。
祈里が私を見ることが出来なくなった。
その事がどうしようもなく事実であると否応なく受け入れさせられると、今度はその悲しみの間から、そもそもどうして祈里は私を見る事が出来なくなったのだろうという疑問が湧く。
昨日の時点では、祈里はしっかりと私の事を認識できていたはずだ。カラオケでの選曲も祈里にしてもらっていたので、祈里が眠るまではまだ大丈夫だった。
音を出さない信号機の前に、祈里が立ち止まる。車が一台も通らないので、祈里の服の衣擦れの音が微かに聞こえるばかりだった。
私は祈里の後ろで立ち止まり、人差し指を唇に当てる。
今の私の不安定な精神状態の為か、体の稜線は『炭酸少女』になったばかりの頃よりさらにぼやけ、指の間には水かきのような膜が張っていた。腕からはびちゃびちゃと水滴が落ち、腰からだけでなく手首や二の腕、胸からもぷくぷくと細かな泡が立っており、まるで今から消え入る人魚姫だと、他人事のように思った。
ともかく、祈里が私を認識できなくなったのは、祈里が私の為に曲を予約してくれてから、祈里が起きるまでの間。これ以上細かくは分かりそうにない。
では、何故祈里は私の事を認識できなくなったのだろう。
信号が青に変わり、祈里が歩き出したのを視界の端で見て、私も遅れないように足を出す。祈里がずっと辺りを見渡している事に、私は今ようやく気が付いた。
そもそも、何故祈里は私の事を見る事が出来ていたのだろう。他の人は、親も、有惟も音葉も、すれ違った全員、誰も彼も私の事を認識出来なかった。
どうして、祈里だけ私の事を見る事が出来たんだっけ?
―『私が大人になり損なったからだよ』―
カフェで向かいの席に座った祈里の、寂しそうで、自嘲的な、乾いた笑みが脳裏に浮かぶ。
昨日は寝ていないからか、痛みこそ無いが重い頭では、祈里がそう言っていたのを思い出すのに時間が必要だった。
歩道を分断するようにできた大きな水溜りを避けるよう、祈里が縁石の上を爪先立ちで通り過ぎる。私も気を付けて渡ろうと足元を見ると、私の足指が一体化しており、靴下を履いたようになっているのが見えた。
『大人になり損なった』。
祈里が私に打ち明けてくれた悩みであり、私達を結ぶ共通点だ。将来やりたいことなんて特に無くて、でも周りの皆はどんどんそれを見つけて、私だけが足踏みしている感覚。
弱い私が、祈里に心を開くきっかけになった台詞だ。
僅か数日前の事だというのに、懐かしい気持ちになり、私は頬を緩ませる。
「え」
そして、気が付いてしまった。
つまり、祈里が私を見る事が出来なくなった理由は、
祈里が大人になったからだ。
祈里との間に、急速に距離が出来ていくのを感じる。同じペースで歩いているが、祈里の背中がもう届かない程遠くにあるように見えた。
私は、祈里が一人で去って行くのが怖くて手を伸ばす。しかし、この体では祈里に触れても感触は無く、反応も無く、衝動的に祈里の背を叩いた。
私の手が弾けた。
祈里はすぐ後ろにいる私の方を見向きもせず、ただ前を見て進んで行く。
右膝の力が抜け、私は何もない場所で躓いたように体をじたばたさせた。
その間にも、祈里は一歩一歩前に進んで行く。私の事を顧みる素振りを見せながら。
「あぁ、」
私は、ぬるくなった涙を堪え切れず、震え、掠れた喉で絞り出す。
「置いて行かないでよ」
言った後に、これは呪詛だと気が付いた。
祈里は何も聞こえなかったふりをして、また水溜りを飛び越える。
ついて行きたかったけれど、私は、足が震えて、祈里が飛び越えた浅い水溜りを渡れないと思った。
「あぁ」
祈里の背が小さくなっていく。
私の影が、祈里の足元にしがみついているのがひどくみっともなくて、私は踵を返し、来た道を歩く。弱弱しく、真っ直ぐに進むのも難しかった。
私は祈里から、私の将来から、私自身の愚かさから、また逃げ出した。
正しく東雲色に染まった空が、私を見下ろしている。空は青く澄んでいて、雲も疎らにしか見えないのに、低く、窮屈に感じた。
朝のアスファルトは嫌に冷たくて、私はまたどこかに逃げたくなる。
まだ目を覚ましていない街を、ふらつく足取りで歩く。
体を支えようと、私は道沿いに置かれている防護柵に手を伸ばす。
だが昨日の雨か、朝露か、防護柵が雫を纏わせているのを見て、私は反射的に手を引いた。
その反動でまた二歩三歩とたたらを踏み、私はだらんと腕を垂らす。
辺りを見渡すと、防護柵だけでなく、肉屋の看板も、置きっぱなしの自転車も、電信柱の根元に生えた雑草も、所々が欠けている路面標示も、目に入る全てに水滴がついており、びかびかと朝日を反射していた。
あまりにも眩しくて、私は目を窄めながら、脇道に転がるように入り込む。
もたれかかった壁も湿っていたが、私の体はもう抗う事を諦めた様に脱力し、土埃で汚れた側溝に、落ちるようにずるずると座り込んだ。
湿気た黴と鉄錆の匂いが鼻につく。反射的に目元に手をやった。
自分の顔を削り落とすかのような勢いで擦り、目を開ける。
陰を灼くような暁光が、私の足先を通り過ぎているのが見えた。
痛みを感じる程の熱波に、私は投げ出された足を引っ込め、膝を抱えるようにうずくまった。
私は選択を間違えたのだという実感だけが、私の鳩尾に沈殿していた。
『置いて行かないでよ』
言いたく無かった。
言いたく無かった。
こんな事、言いたく無かった。
言うべき言葉は他にあったのに。
いつも、私の口をついて出るのは自分本位なものばかりだ。
「うう、ううう」
歯の無くなった口で、頬の内側を食む。もう涙は出なかった。
私は抱えた足を地面に叩きつける。私が見ている限り再生しない足は、膝のあたりまで弾けて無くなった。
「ううううう!」
残った腿に顔を埋め、唸る。くぐもった声が私の体を震わせた。
顔を上げると、先程見た靴下みたいな足が、何事もなかったかのように素知らぬ顔をして生えている。
「はは、」
私は、その間抜けな姿に嘲笑し、体の力を抜いた。
疲れた。
まるでコンセントが外れたように、ぷつりと私の意識は沈んでいった。
ぶうううんという、トラックの排気音で瞼を開けると、アスファルトのごつごつと火傷したような肌が視界の右半分を占めていた。
日はとっくに昇っており、陽光が私の体を透過し、地面に波模様を描いている。
眠りに落ちる前に感じていた頭の重さは既に無くなっており、水でできたこの体は妙な体勢で寝たとしても凝り固まることも無く、軽かった。
口を開け、意図的に肺を膨らませるように息を吸う。私がいる場所以外の地面はもう乾いていたが、空気は未だに湿気を忘れられないように重たかった。
「ふんっ」
両手を地面に押し付け、惰性に負けて今にも崩れ落ちそうな体を気合で起こす。
「…行かなきゃ」
祈里に会いに行かなきゃいけない。
会ってどうするかは分からないし、そもそも会えるかも分からない。
けれど私には今、『祈里に会いに行く』という選択をしなければ死んでしまうという、不思議な実感があった。
私は戻ってきた道をまた進む。歯科医の自動ドアも、窓際に置かれた植木鉢も、ガレージに止まっている赤い車も、駐停車禁止の標識も、見える範囲は乾いていた。
脇道から道路に出る。太陽に横顔を照らされながら、独りで歩く。
昼時だからか、人の往来は多く、『らぁめん』と書かれた看板の前には数人のスーツを着た男性が並んでいた。
真っ直ぐに、祈里が向かったであろう場所に向かって歩く。
私が超えられなかった水溜りはもう乾いており、いつの間にか通り過ぎてしまったようだ。
明らかに見た事の無い、歩道橋のある歪な形の交差点まで辿り着き、私はその事に気が付いた。私も祈里のみたいに飛び越えたかったので、なんだか勝ち逃げされたように感じ、悔しかった。
ぴっぽ、ぴっぽ、と、地元とは似て非なる拍子で信号機が鳴くのを聞きながら、私はぴょんぴょんぴちゃぴちゃと白線だけを踏みながら交差点を渡る。
緩やかな坂道を下った先に、目的地に向かうための駅の看板が見えてきた。
「…」
がたんごとん、がたんごとん。
電車だけでなくバス等でもそうなのだが、よく知らない場所からよく知らない場所に行く時、乗っている間不安になってくる。
この電車、本当に目的地に向かっているんだろうな?
外を見渡してもビルと同じような街並み、川と偶に田畑が流れていくくらいで、何も情報を得られない。
電車に乗る時に嫌と言う程確認したのだが、ひとたび不安が首をもたげるともうこれを退治する方法が私には無い。スマホは便利な物なのだと痛感した。
それに、私が席に座っていても、人はお構いなしに私のいる席へ腰を下ろすので、余程空いていない限り私は立っていなければならない。そんな訳で、半分程度埋まった座席でうとうとしている大学生を羨ましそうに見ながら私は吊革に掴まっていた。
それにしても、独りで電車に乗っていても暇だ。私が鉄道好きならばこの空気感も楽しめたのだろうが、私はそんな受容体を持ち合わせてはいない。やっぱりスマホが欲しい。
スマホが無かった頃の人達は通勤の時とか何をしていたのだろう、なんて事を考えながら、電車の屋根から吊り下げられている不動産の広告に描かれた芸能人と見つめ合う。
時間を無駄にしている感が強く、何もしていないのにちょっと疲れた。
絶妙に短い吊革に掴まり続け、そろそろ腕を上げておくのがしんどく感じられるようになってきた頃に、進行方向に引っ張られるような感覚を受け、私は片足に力を入れて踏ん張る。
ぷしゅう、と電車が止まり、私も揺り戻されるように踵を下ろす。
ドアが開き、柱に描かれた駅名が露になった。
良かった。どうやら私が乗った電車で正解だったようだ。
電車に乗った時と同様に、駅の改札をかがんで通り抜け、6番まである出口のどこから出ればいいのか分からず右往左往し、結局近くにあった階段から降りた私は現在迷子気味だ。
交通量は多く、人も活発に行き来しているがその動きは乱雑で、皆が皆同じ目的地に向かっているわけでは無さそうだ。
自分が最大母数の集団に属していると無意識に考えてしまうのは人間の本能か、それともこれもやっぱり私の問題なのか。
独りで悩んでいると結論の出せない問題によく気が付くと気が付いた。
「そんな事より、っと、」
私は外縁の黒い塗装が所々剥げかけている地図を見つけ、地図上で目的地を探す。
ある程度のルートを頭に叩き込んでから、目的地に向かって歩き出した。
夏の昼頃という事もあり、日差しが強く眩しく、私は思わず手の平を太陽に透かす。
「…眩しい」
残念ながら真っ赤に流れる私の血潮は見られず、ぼやけた太陽が目に刺さるだけだった。
テレビで見た時のように混んでいなかったので、私の胸に、授業をサボって惚けているという事実が蘇り、少し高揚した。
『明日は、遊園地でも行かない?』
祈里は昨日、夕食がひと段落した後、ドリンクバーでリンゴジュースと乳酸菌飲料を一対一で混ぜ合わせたなんか白い飲み物を作り、さもおいしそうに飲みながらそう相談してきた。
その時に思い描いていたものと現在は大きく前提が異なっているため、本当にここに祈里がいるかは分からない。
しかし、他に祈里がいそうだと思える場所も存在しなかった。
やっぱりチケットも買わずに門をくぐり、テーマ曲と思しき音楽で満たされたエントランスを抜ける。
正面に大きく描かれた地図で現在地とこの遊園地の広さを確認し、この中からいるかもわからない人物を探すのかと軽く絶望してから、近くのアトラクションに向かった。
せっかくだし、遊んで行っても罰は当たらない、よね?
…うん、楽しい。すっごく楽しい。
私は今、白馬の上に跨りながら、上下するユニコーンの尻を追いかけている。
…メリーゴーランドって、どうやって一人で楽しむのだろう?
ぐるぐると回っている私達を、カメラを構えた親が取り囲んでいる。
私の駆る白馬の後ろを追いかける馬車に乗った少年が、両親を見つけてきゃいきゃいとはしゃいでいるのが聞こえた。
およそ三分、私は円形の柵に囲まれた草原を走り続けた。ちょっと酔った。
そもそも、何故私がメリーゴーランドに乗ったのかと言うと、私が乗れそうなアトラクションが余りにも少ないからだ。
『大迫力!全力でGを感じろ!!』とか『圧倒的な浮遊感!』とか『息つく間もない急加速!』とか『爽快!大量の水でスプラッシュ!!』とか、大体のアトラクションはシートベルトの着用が前提となっている。そんなものに私が乗ると浮遊感とかではなく本当に浮遊してしまうし、全力でGを感じすぎて水飛沫になってしまうし、大量の水を浴びると私がスプラッシュする。
シートベルトが着用できず、水を浴びる事も出来ない『炭酸少女』にも配慮した数少ないアトラクションの一つがメリーゴーランドだったのだ。
「…はぁ」
肉体が欲しい。
メリーゴーランドこそその神髄を味わえなかったし、アトラクションにも制限があるが、では私が遊園地を楽しめていないかと言うと、実はこれでも結構心を躍らせている。
と言うのも、来てから知ったのだが、この遊園地はテーマパーク的な側面も併せ持っており、敷地内を歩き回っているだけでもちょっとした観光気分になれる。
一昔前のレトロな街並みを再現した一角もあれば、海外のお洒落な街並みをイメージした一角もあり、遊園地内を巡っているだけでかなり満足感があった。
「あ、だからここを紹介してくれたのか」
祈里だって、私がアトラクションに乗れない事くらいは想像できただろう。
それでもここを薦めてきたのは、アトラクションに乗らなくても充分な下地があったからかも知れない。
…いや、そこまで考えて無かった気もするな。
どれだけ濃い時間を過ごしていたとしても、祈里とは出会って一週間も経っていない。人となりを知るには十分かも知れないが、思考を予測するにはまだまだ足りない。
足りないけど、楽しかった。知らないのは、分からないのは怖い筈なのに、楽しかった。なんでだろう。
私はそんな似非哲学を頭からぶら下げながら、遊園地内を捜し歩く。
右手側からは長大なジェットコースターに乗り、螺旋の内側をなぞる様に走破する人達の余裕の無い叫び声が、左手側からは前後に激しくスイングする巨大な船に乗り、大海に立ち向かう海賊のような人達の勇ましくもどこか情けない声が聞こえる。
…人間って、物理的に振り回されるのが好きなのか?
ぶんぶんと風を切りながら人間を振り回すための機械の他にも、この遊園地には、自由落下が体験できる高い塔や、最恐を自称しているお化け屋敷などがある。
私が自由落下したらそれはもう唯の雨だし、お化け屋敷に行ってもお化け達は私を歓迎してはくれないと思うので足を運ばなかったが。
それにしてもこの遊園地、スリリングな遊具が多いな。遊園地と言うのはどこもこんな感じなのだろうか。
なんでこの人達はわざわざお金を払って(私は払って無いけど)時間も使って怖い思いをしに来ているのだろう。
なんて、それ位は私にも分かる。
私が実際に経験した訳では無いけれど、スリルを味わうのも面白い事で、怖さと楽しさは共存できるものなのだと。
きっと、私達の言う「怖い」と言う感情は、これが最小単位では無く、その中にはさらに「良い怖さ」と「悪い怖さ」があるのだ。
そしてきっと、ジェットコースターとかお化け屋敷とか、そういうのからは「良い怖さ」を感じるのだ。
「良い怖さ」に相当する語彙は既に生まれているだろうけれど、私はそれを知らない。
それが少し残念だった。
「…」
そうであるならば、人付き合いも、「良い怖さ」を齎すものなのだろうか。
私はふと立ち止まって、青く抜けるような空を見上げる。
西寄りの太陽はそれでもまだ沈みそうになかった。
…筈なのに。
今はもう太陽が帰り支度を始めている。
メリーゴーランドに乗った後も、散策したり、アトラクションに乗ったり、アトラクションに乗ったり、『staff only』に突撃してみたりして祈里を探していたが、見つからない。
ここまで来ると、祈里は遊園地には来ていないという説が私の脳裏に色濃く迫ってくる。
「す、すれ違っちゃったのかなぁ…」
私は努めてその仮説を無視し、薄膜が第二関節にまで伸び、さらに境界が曖昧になってしまった指を口腔に近づけながら、どうすれば出会えるのか考えた。
だが、現状私は現実世界に対して干渉する能力を持っていないので、出来そうな事が思い浮かばず、私は勢いの緩やかな噴水を取り囲むようにして置かれたベンチに腰を下ろす。
隣のベンチでは一日遊び尽くして疲れたのか、子供が母に凭れるように椅子の上で横になっており、キャラクターの乗ったカチューシャを付けた父親がその様子をカメラに残していた。
時間が悪いのか、噴水は常に一定の勢いで水を出し続けるだけだったので、何となく私はその親子の事を眺める。
とても楽しそうで、私はこの遊園地と何の関係も無いのに、なんだか誇らしくなった。
私が目を細めていると、不意に子供のお腹が『ぐう』と鳴る。父親も母親も一瞬黙り、笑いを堪えながら「お腹空いたね」と声をかけた。
子供が恥ずかしそうに頬を膨らませながら両親と共に席を立ったのを見届けてから、私は不意に今何時か気になって、噴水の後ろで見え隠れしている時計を読んだ。
アンティーク調の装飾が施された時計台は午後六時を指しており、もうそんな時間かと私はお腹を空かせた子供に納得した。
そして、
「あれ、もしかして祈里、レストランにいる?」
と思い至る。それはまるで天啓のように、絶対に正しい気がした。
この遊園地には飲食ができる店がいくつかあるが、私は全て回るつもりでまず一番大きく品揃えも豊富なレストランに向かう。
店内だけではなく、隣接された青と橙のストライプの布が特徴的なテントにも白い円形のテーブルが並べられており、そこでも食事ができるようになっていた。先客が注文した料理の肉とバターの匂いが吹き抜ける風に乗って流れてくる。
香りに釣られそうになりながらも店の扉を押し開ける。夕食にちょうどいい時間帯ではあるが行列は無く、ドレスのような給仕服を着た店員の足取りもどこか優雅に見えた。
ほとんどの席は埋まっているが、所々に空席がある店内を見渡しながら歩く。
すると、店の奥に人の座っていない一角があるのが目についた。
机の上に置かれた帽子を見る限り、この店はフードコートのように自分で席を決めるスタイルのようなので、客が自分からその場所を避けているという事のようだ。
水漏れでもしているのかと訝しみ、私はその空白地帯に近づいてみる。すると、そこは完全な空白ではなく、その中央に一人の女性がいる事が分かった。
…なんだか嫌な予感がしながらその最近よく見た艶やかな黒髪に近づく。
その女性、いや、その女は、二人掛けのテーブルに一人で座っていた。
それ自体は然程怪しいものでは無いが、周りの客が避ける理由はすぐに見つけられた。
まず、ずっと何かぶつぶつと呟いている。料理を食べながら、まるで向かいに誰かがいるかのような様子で話している。良く見ると、女の向かいの席の椅子が引かれていた。
そして、スプーンに掬ったカレーライスを食べる時、口に運ぶ前に決まって前方に突き出し一瞬静止している。
その服に見覚えが無かったら完全に近づきたくないタイプの人間だ。こんなミステリーサークルみたいになっている現状にも十分に納得がいった。
残念ながら、本当に残念ながら見覚えがあったので近寄り、空中に静止しているカレーの乗ったスプーンに食いつく。
「…なにしてんの、祈里?」
てっきりレトルトかと思っていたが、意外にもスパイスが効いていたカレーを味わってから、溜め息と共に呟いた。
声に存分に呆れを乗せてしまったが、どうせ祈里には聞こえ
「茜ちゃん、おいしい?」
え
…え?
今、私に話しかけた?
『出来る事ならもう一度祈里と話したい』。そう思いながらここまで来て、いざ祈里に話しかけられて私が一番に感じたのは普通に恐怖であった。
だって、全然目の焦点が合っていない。私の方を見ていない。普通に怖い。
私には見えていないまた別の『私』が祈里には見えているのだろうかと、呆気にとられ固まった私をよそに、
「えっと、もう一口要るかな?」
と、祈里が続ける。私は何かを答えようとしたが、私が何か答えるよりも早く祈里が
「もう要らない?じゃあ、私食べちゃうね」
と言った。やはり私とのコミュニケーションは取れていない。
それきり、祈里は一言も話さず黙々とカレーライスを食べ続けた。私も何も言えなかったので、遠くの鳥の飛び立つ羽音まで耳に届いた。
もうすぐカレーライスを食べきるといったタイミングで、不意に祈里が手を止め、スプーンを皿の上に置く。
「茜ちゃん、本当に居るよね…?」
不安そうな声色で眉を下げながら祈里がそう言った事で、やっと私は祈里がこんな行動を取っていた理由を悟った。
祈里は私が見えなくなっても、私が居るという前提で行動しているのだ。
だから、私が座れるように椅子を引き、私が食べられるようにスプーンを差し出してくれていたのだ。
だから周りから懐疑的な目を向けられながらも一人で話し続けていたのかと納得しつつ、私は祈里が変な幻覚を見ている訳では無いと分かり、浅い溜め息をついた。
「何回も言ってるけど、人前では私に話しかけない方が良いよ」
「あ、そうだ。次は私、観覧車に乗ろうと思うんだ。そろそろ夕日が綺麗な時間帯でしょ?どうかな?」
相変わらず会話は噛み合っていないが、今はそれでも良いような気がした。
観覧車、良いじゃないか。ちゃんと私も乗る事が出来るアトラクションだ。やはり祈里は私も楽しめるようにこの遊園地を選んでくれたのだろう。
…ところで、どうして祈里の髪は濡れているのだろう…?
私がこの遊園地で楽しんできたマイナーな、或いは子供向けのアトラクションとは違い、観覧車に乗るためには行列に並ぶ必要があるようだった。
夕日は既に底を地平線に触れさせ、溶けるように揺らめいている。
直視するには眩しすぎたので、私は背を向け、瞼の裏に残った太陽の残留に目をしぱしぱさせた。
ところで、何故私は瞼も透明なのに、目を瞑ると光を捉えられなくなるのだろう。
そんな些細な疑問を、隣にいる祈里と共有できない事がもどかしかった。
流石に祈里も自重したのか、それともただ話題が見つからなかっただけなのか、列に並んでいる間に私に話しかけてくる事は無かった。
一度、「あれ、この観覧車結構高くない…?」と漏らしていたが、まぁこれは独り言の範疇だろう。実際高いし。
その頂点を見上げようとすると腰まで反らさねばならないようなサイズの観覧車であるが、その分乗り降りはゆとりを持って行えるようだ。
祈里が係員に案内されて乗り込んだタイミングで、私も入る。
祈里が乗り込んだ瞬間に係員がドアを閉めようとしたので、私は体を細長く引き伸ばし、文字通り滑り込むことになってしまった。
もうちょっとゆっくり閉めてくれたっていいじゃないかと思いつつ、私は体を人型に戻し、バランスを取ろうとする。
祈里が乗ったり勢いよくドアを閉められたりと急な質量や加速度が加わったためか、観覧車のゴンドラは私が想像していたよりも揺れた。
祈里も、一部だけ透明になっている床に絶対に足をつけないように座りながら、壁に付けられた手すりを握っていた。
暫く上昇すると、穏やかな風の中でゴンドラの揺れも小さくなり、余裕が生まれたので、ごうごうと鳴る観覧車の駆動音を聞きながら私達は街を見下ろす。
今日あれだけ広いと感じた遊園地も、その外周をなぞる事が出来る。
照らすばかりの太陽を、今ばかりは覗く事が出来ていると錯覚する。
地平が地球の中心に沿って湾曲している様子まで、見えた気がした。
「茜ちゃん、ごめんね」
私が景色に見惚れていると、祈里がそう言った。
椅子の真ん中に座り、まっすぐ前を見据えながら、祈里は続ける。
「茜ちゃんと話せなくなっちゃったの、多分、いや、絶対、私のせいなんだ。これは茜ちゃんの旅だったのに、私が変わっちゃった。ううん、私も、変わりたかったの。茜ちゃんの、置いてかれたくないって気持ちは私も分かってたのに。分かってたのに、結局、また私には何も出来なかった。だから、最後まで一緒にいれなくて、本当にごめんなさい…」
祈里は途中から、涙を堪えるように鼻を啜りながらそう言った。
「祈里…」
何を言っているんだと、そう思った。
確かに、祈里が私を見る事が出来なくなった時は悲しかったし、悔しかったし、「置いて行かないで」って思った。自分の事が嫌いになる程、どうしようもなく、祈里が羨ましかった。有惟や音葉が将来についての考えを話してくれるたびに感じていたように、祈里が一人で大人になっていって、私は寂しかった。
「祈里、」
でも、それだけじゃない。
それだけじゃないんだ。
「ありがとう」
一緒にいてくれて、一緒にいようとしてくれて。
祈里自身にも何か目的があったとか、そんなの私には関係無い。
旅に付いてきてくれて、ありがとうって思った。
「あと、」
だから、私は、あの時、祈里が先へ進んだ時、こうも言いたかったのだ。
「おめでとう!」
祈里が成長できて、嬉しかった。
祈里の悩みが解決して、本当に嬉しかった。
『おめでとう』って、心から思った。
確かに悲しかったし、寂しかったけれど、それでも『おめでとう』と思った。
目一杯の祝福を送りたいと、確かに思った。
夕日が、ゴンドラの窓から燦爛と輝き、中を緋で満たしていく。
目に映る世界の全てが赤へと、秒速で塗り替わっていく。
口に出して『おめでとう』と言った時、私の中で何かが溶けるような感覚があった。
「そっか」
自分の中で回答が出た。
つまり、矛盾なんて最初から存在しなかったのだ。
『「おめでとう」と言いたい』も、『「置いて行かないで」と伝えたい』も、『「おめでとう」で隠したくない』も、『「置いて行かないで」を秘めていたい』も。
どれも身勝手な、私の本心なのだ。
「悔しい」と叫びたかったのも、「悔しい」と叫びたく無かったのも、両方私の望みだったのだ。
矛盾した感情に矛盾は無いのだと、緋と群青の織り交ざる空に気付いた。
「祈里、おめでとう」
もう一度、祈里の正面に座って、声に出す。
すると、祈里が突然顔を上げ、
確かに、祈里と目が合った。
「え、あ、あか、え?」
祈里が目と口を大きく開けながら、スタッカートの効いた素っ頓狂な声を上げる。
私はそれが可笑しくて、声をあげて笑った。
祈里には既に私が見えていないのか、私の笑い声に怒る様子もない。
「ありがとう、茜ちゃん」
祈里は、そう言って微笑んだ。
私にはまだ遥かに遠く、微かに、しかし確実に、祈里達の背中が幻視された。
遠く蝉の鳴き声が緋の空を満たし、一番星は早々に瞬く。
白翡翠の翅を伸ばすように、ようやく抜け出せたのだという安堵感に私は脱力し、ずるずると椅子から滑り落ちた。
ゴンドラは既に頂点を過ぎ、乗降口に近づいていく。
薄暮に沈む街の家々の明かりが、星空を転写したように浮かび上がる。
「あのね、茜ちゃん」
そろそろ観覧車も終わりかと少し名残惜しく感じていると、祈里が相変わらず虚空に向かって私を呼んだ。
「どしたの?」
祈里には届かないと分かっているが、真正面に向かって話す祈里の隣に座り、返事をする。
「私、やっぱり茜ちゃんは戻って、もう一度暁ちゃんと話をするべきだと思う」
膝の上に手を重ね、背筋をぴんと伸ばしながら祈里がそう提案した。
私は、夕日が逆光となりかえって輪郭がはっきりとした祈里の横顔を見やる。とても真摯な眼をしていて、私の為に言ってくれているのが分かった。
真剣に、私の事を案じてくれていて、嬉しかった。
…けど、それはそれとしてなんか急にお姉さんぶられてムカつく。祈里だってつい最近まで子供だったのに。
「私は観覧車から降りたら、もう家に帰ろうかなって思ってる」
私がむすぅと頬に気泡を貯めていると、祈里がそう続けた。
今の祈里の状況を考えるとまるで『自分の目的は果たしたから私はもう帰るね』と言っているようにも聞こえるが、多分違うだろう。
『私が旅を続けると茜ちゃんが帰り辛いだろう』とか、どうせそんな理由だ。
「…あ、違うからね!別に私が変われたからとかじゃなくて!ええと、…」
手をじたばたしながら弁明する祈里に若干不安になる。ええい動くなゴンドラが揺れる。
「と、とにかく!私は、茜ちゃんがまだ旅を続けたいならそれでも良いと思ってる。けど、茜ちゃんはもう一度暁ちゃんとちゃんと話し合うべきだと思うの」
「大丈夫、ちゃんと分かってるよ」
軽く咳払いをして体裁を取り繕いながらそう言った祈里に返事をする。
そもそも、私も戻ろうと思っていたのだ。どうやって祈里にその旨を伝えようかと思案していたので、実は祈里の帰宅宣言は私にとっては渡りに船だった。
そうこうしている内に観覧車が一周し、係員に案内され私達はゴンドラから降りる。
そのまま祈里と一緒に私は少しふらふらした足取りで遊園地の門をくぐり、もうすっかり暗くなってしまった空を見上げながら溜め息を吐いた。
「…はぁ、暁になんて言って謝ろうか」