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泡沫少女  作者: INORI
6/12

五.日の元で

 ジリリリリ…と目覚まし時計が鳴る。

 目覚まし?なんかいつもより早くない?そう思ったところで、あ、そっか今日旅行に行くんだったと思い出した私は、手足をじたばたとさせ、私に巻き付いているタオルケットを剥ぎ取る。

 賛否両論あるかもしれないけど、私は時計で目覚める事が嫌いじゃない。朝早起きすると、その分一日が長くなって、なんだか得をした気分になるからだ。早起きは三文の徳とは、昔の人も良い言葉を残したものだと思う。

 ただそれはそれとして、じゃあ朝早くから起きるのが得意かと言われれば、決してそうではないのだけれど…。

 ノンレム睡眠時に強制的に起こされた時特有の、締め付けられるような頭痛に耐え、引き攣った瞼を何とか開きながら、私は目覚ましを叩いて止め、カーテンを開ける。

 日が昇って間もないため、窓の外では薄紫の雲が、朝日を反射して白くなった稜線を描く山々の上で細く揺れていた。

「さて、準備しますか」

 私達はこれから旅に出るのだけれど、準備をする必要があるのは私だけだ。

 私は部屋に乱雑に積まれている本入りのプラスチックケースを掻き分け掻き分け、大きめのリュックサックを掘り出す。

「…旅行って、何持っていけばいいんだろう?」

 現金は途中で銀行にでも寄って引き下ろすとして、着替えと、スマホと、充電器と。学生証なんかも持っていると便利か。日焼け止め…はいるか?まあ取り敢えず詰めておくか。

 私はがさがさと部屋を物色し、取り敢えず詰めて、どんどんリュックサックを膨らませていく。

 かなりうるさくしてしまっているが、私の旅のパートナーは一向に起きる気配が無い。

 輪郭を朧げにしながらすぴすぴと寝ているのがなんだか羨ましくなる。私だって眠たいのに。

 まあ、昨日は色々あったから疲れてたんだろうな、と、私は温かい目で見守る。

 普段はどこか緊張しているような、警戒しているような面持ちのこの子がリラックスできていそうで、私も安心した。

 顔を洗い、髪を整え、歯を磨き、着替え、薄化粧をする。別にすっぴんのままでも良いけど、せっかくの旅行だし、どうせなら可愛くなっときたい。

「茜ちゃーん、そろそろ起きてー」

 トイレから出た後もぐっすり寝ている茜ちゃんに私は声をかける。

「んん…もうちょっと」

「だーめ、そろそろ出るよ」

「んう」

 寝起きの茜ちゃんは何だかふにゃふにゃしている。声色的にも、見た目的にも。

 私は、茜ちゃんが立ち上がったばかりでびちゃびちゃになっているように見える布団から目を逸らしつつ、

「おはよう、茜ちゃん」

 と挨拶した。

「おはよ」

 そう返事した後、茜ちゃんは自分の顔に両手を勢いよく叩きつける。何してるんだろう?セルフ洗顔かな?

 四、五回繰り返したところで目が覚めてきたのか、茜ちゃんの体の線がはっきりとしていき、背筋も伸びてきた。

 改めて、茜ちゃんも今まで見てきた子達と同じで、変な体をしているなと思う。

 全身は無色透明無味無臭(舐めたわけじゃ無いよ、口に入っちゃっただけ!)の水でできているし、腰の辺りからは泡がぷくぷくと湧いている。体の線は波打つかのように揺らめいているので、細かいパーツは分からないし、毛も生えていない。それなのに、後頭部にはポニーテールのように水の束が揺れている。

 そんな茜ちゃんは、両手を組み頭上に持って行って伸びをしている。伸びの気持ちよさは骨格があってこそ成り立っていると思うんだけど、今の茜ちゃんがやっても気持ちいいのかな?

「あれ、祈里いつの間に準備したの?…と言うか、その荷物で行くの?」

「ダメかな?」

「ダメじゃないけど、重くない?」

「…重い」

 私は自分で詰めたリュックサックを持ち上げ、そう漏らす。重かった。

「何が入ってるの?」

 リュックサックを開け、中身を出していくが、不必要な物はそんなに入れていなかったはず。

「…なんで二リットルの水なんか入れてるの。筋トレでもするつもり?ドライヤーもいらないって、多分旅館にあるだろうし。お菓子も、なんでこんな保存食みたいなクッキーばっかり…いやいくつ入ってんの!?」

「一ダース…」

「ダース!?祈里、これから災害救助にでも行くの?」

 自炊が面倒くさい時の心強い味方である高カロリークッキーの有難み、実家暮らしには分かるまい…!

 そんな強がりも、押収品のように机の上に並べられた箱の数を見ると萎れてくる。うん、確かにこんなには要らなかった。

 茜ちゃんの指南のおかげで、結局荷物は最初の三分の一程度まで減り、リュックサックも軽く、背負いやすくなった。

「じゃあ、出発しようか」

「ん」

 エアコンを消し、パソコンのコンセントを抜き、シャッターを下ろす。

 長時間歩くだろうという事で、軽くて履き心地が良い白のスニーカーを履き、二人で玄関を出た。


 川沿いの道を二人で並んで歩く。今日は天気が良く、ランニング中の人や犬の散歩をしている人とよくすれ違った。

「いい天気だねー」

 周りに生えている木々が少ないためか、蝉の鳴き声は寮を出た時程聞こえない。川のせせらぐ音と吹いた湿気を含んだ暖かい風に七月を感じながら、私は言う。

「そだねー」

 と返す茜ちゃんは、まだ寝起きだからなのか覇気がない。

 茜ちゃんは普段外出とかするの?いや私はあんまり外でないよ。太陽眩しいし暑いし。そうなんだ…みたいな会話をしながら歩いていると、蝉や川とは違う、この中に混じるとどこか人工的にすら感じる弦楽器の音が聞こえてきた。

「ギターの練習でもしてるのかな?」

 私は通り過ぎようとしたが、茜ちゃんはそう言いながら、練習している青年の方を見る。茜ちゃんの顔に太陽光が反射して、目元がきらきらとしていた。

 青年は私の事になど気付いてもいない様子で、ずっと一節のみを練習している。

 遠目からでははっきりと確認できないが、音の様子からして、GコードからFコードに移る運指を練習しているみたいだ。ギター始めたてなのかな。

 ギターを弾く練習して、彼はどうしたいのだろう。プロになって、広い会場でライブとかして、ギターで生計を立てたいのかな。ただ趣味として演奏しているのかな。インターネットで公開したり、ライブハウスとかで弾いたりはしているのかな。あ、それとも私の知らない、もっと遠大な何かがあるのかもしれないか。

 そのどれであっても、今ここで練習している彼は素晴らしい、と思った。無責任になるけれど、報われてほしいと思った。

「あんまり見てても悪いから、そろそろ行こっか」

 そう思いつつ、彼から目を背けるように、足早に立ち去る。

 夢のために頑張る彼は、私には眩しかった。


「…」

 がたんごとん、がたんごとん。

 前日に決めた旅行であるので、新幹線なんて上等な物には乗れず、私達は在来線を乗り継いで目的地に向かっている。今乗っているのは、寮の近くから県の中心となる駅に向かう電車で、満員ではないが座席は埋まっており、何人かは立っている。

 幸いにも、私は座れたのだが、居心地はあまり良くなかった。いや、私のせいだけど。

「あ、茜ちゃん、あそこ空いてるから座っちゃお」

 と、周りに人がいっぱいいるのに言っちゃった私のせいだけど…!

 私にははっきり見えているので失念してしまうが、茜ちゃんは他の人には見えていない。だから、周りの人からしたら、私は何もいない空間に話しかけている、かなり怖い人になっていたのだ。

「…」

 結果として、私の周りだけ人がいない。隣空いてますよー、と立っている人に視線を送ると目を逸らされた。心が痛い。

 握った手を膝の上に置き、なるべく空気になるように下を向いている私に対して、茜ちゃんはどこ吹く風といった面持ちで車窓に流れる景色を見ている。

 私もつられて窓を覗くと、この電車が道路よりも幾分か高い場所に敷かれた線路を走っているのもあって、遠くの街並みや広い空がよく見え、綺麗だった。

「ぁ」

 茜ちゃん、景色綺麗だね、と反射的に言いそうになったのを既の所で堪える。

「祈里、景色綺麗だね!」

 私が堪えたのを見て、茜ちゃんがニマニマしながら言ってくる。茜ちゃん、私の事なんか馬鹿にしてない?


「お部屋は、この道を奥に行って、突き当りを左に曲がったところにございます。大浴場に関しましては、午後六時から十一時までの間と朝の四時から八時までの時間帯で空いていますので、是非ご利用ください」

「分かりました、ありがとうございます」

 四度の乗り換えの末、ようやく宿に辿り着いた時には既に午後一時であった。

 先に荷物を置いておきたかったため、まだお昼ご飯を食べていない。移動の疲れも相まって、私のお腹がぐうと鳴った。

「祈里、腹にウシガエルでも飼ってるの?」

「飼ってないよ!」

 旅館の部屋の中で二人きりになるのを見計らって、茜ちゃんが言う。人がいなくなるまで話しかけないでいてくれたので、こんな事を言う茜ちゃんにも一抹の良心は残ってるみたいだ。と言うか咄嗟に突っ込んじゃったけど、ウシガエルってどんな生き物?

「え、これ!?」

 スマホで『ウシガエル画像』と検索し、こんなのがお腹に入っていると思われていたのかと愕然としている私の声を聴き、茜ちゃんはあははと笑っている。

「…ところで、茜ちゃんは何してるの?」

 笑い声が移動していたので、気になって茜ちゃんの方を向くと、茜ちゃんは部屋の襖の表面を手でなぞった後、上半身を襖に突っ込んでいた。

「…え、襖とかあったら中確認して見たくならない?」

 と、さも当然のように茜ちゃんが答える。まあ、ちょっと分かるけど。

 私は、茜ちゃんを見ることは出来るけれど、茜ちゃんの見ている心的世界を見ることは出来ない。だから、茜ちゃん的には襖を開ける動作でも、私には襖をなぞっているだけのように見えるし、ちゃんと開けてから覗いていても、顔をそのまま突っ込んだように見える。

 前の子達もそうだったけど、いつまで経っても慣れないな、と思いながら、私は足を投げ出して座る。道中で買ったリンゴジュースが既にぬるくなり始めていたので、一息に飲み干し、息を吐いた。

 畳が敷かれた旅館の部屋は概ね想像通りで、黒の丸テーブルとその周りに並んだ座布団、テレビや小型冷蔵庫も置いてあり、奥には外の景色を眺められる謎空間もちゃんとある。

「そろそろ行こっか」

 私は荷解きをし、外で必要になるであろう携帯や財布なんかを入れた手提げ鞄だけを持って、謎空間にあるソファに座って寛いでいる茜ちゃんに声をかける。

「はーい」

 窓の外、下側を見ながらぼぅっとしている茜ちゃんが返事をしたのを聞いて、私は靴を履きドアを開けた。


「ふー、お腹いっぱい…」

「ほんとに?」

 昼食を食べ終え、お祭りの会場である神社に向かう道中、お腹をさすりながら言った私に茜ちゃんが胡乱気な視線を向ける。

 昼食として頂いたラーメンは値段の割にとにかく量が多く、食べきれるかすら不安な程だったのは茜ちゃんだって見てたはずなのに、なんで疑うのか。

 私がそう抗議すると、茜ちゃんは若干の呆れを滲ませながら言った。

「だって、祈里って大食漢だし」

「んな!」

『私大食漢じゃないよ!』と言いたいけど、そういえばこの前友人にも『祈里ってよく食べるよね』と言われた事があるな…。

「えっと、お祭りってどんなお店があるのかな?」

 そのまま話を進めても私がより大食漢になるだけな気がしたので、強引に話題を逸らす。茜ちゃんも見逃してくれたようで、

「うーん、射的とか型抜きとか?あ、金魚すくいとかもあるか」

 と答えた。

「祈里は他にどんなのが思い浮かぶ?」

 射的、型抜き、金魚すくいと、茜ちゃんにとってお祭りと言えば遊びなのかな、と思っていると、茜ちゃんが聞いてくる。

「色々あるでしょ。たこ焼き屋さんとか焼鳥屋さんとかベビーカステラとか」

「食べ物ばっかだね」

「しょうがなくない!?」

「大食漢だから?」

「違うよ!」

 おのれ謀ったな茜ちゃん!


「やきとりあたった!もういっぽんちょうだい!」

 お祭りの会場はその地域では有名な神社だったようで、屋台の並ぶ参道を歩いているとよく子供達とすれ違う。他にも、浴衣を着た外国人やサンダルを履いたお兄さん、自撮りをしている女子大学生四人組とかがいて、それぞれが気ままにハレの日を満喫している。

 ちろちろとどこかから鳴る祭囃子と人々が砂利を払う音。聞き取れない談笑と焼きそばを売るおじさんの声。

 夕暮れ時のオレンジ色と、屋台から昇る白い煙。足元に拡がる青鈍色と子供が着ている水色の浴衣。

 砂糖を溶かした飴の甘い香りと、胃に響くソースの匂い。どこか落ち着く木々の雰囲気と、混濁した人々の生活。

 感じる全てが新鮮だった。

「…!」

 声も出さずに、私は首から下げたカメラを構え、眼前に向ける。

 だけどそこには、先程見えた世界は無く、凡庸な、只の夏祭りが写っているだけだった。

「あれ、祈里写真撮らないの?」

 構えるだけ構えたのに、シャッターを切らなかったからだろう、茜ちゃんが私に聞いてくる。

「うん、今は何だか、自分の目に焼き付けたいなって」

「そっかぁ」

 茜ちゃんは炭酸少女の体に慣れてきているのか、自分の体を器用に変形させ、まるで浴衣を着ているみたいになっていた。前と何が変わったのかと聞かれると、袖下が付いて、帯のような水流がリボンみたいに結ばれているくらいだが、なんだかすごくそれっぽい。

「茜ちゃん、見た目変えれるようになったの?」

「うん、なんか、試してみたらできた」

 そう言いながら茜ちゃんは三歩出て脇に反れ、参道の随所に設置されているゴミ箱の前でくるりと回って見せた。

「似合ってる?」

 袖下とポニーテールを弾ませながら決めポーズをしてくる。

 私は茜ちゃんが気付いてポーズを崩すよりも先にシャッターを切った。

「あ、今撮ったでしょ!」

「うん、可愛かったから」

 怒る素振りを見せつつも、「見せてー」と茜ちゃんが寄ってくる。私もどんな写真が撮れたか気になったので、カメラを操作し、写真を表示した。

「…」

「…まぁ、茜ちゃんは可愛く撮れてるから…」

 確かに茜ちゃんは可愛く撮れていた。ただ、無色透明な茜ちゃんの後ろに透けている『生ごみ専用』『プラスチックごみ専用』の主張が激しいだけで。

「ロケーションって、大事だね」


 という事で、私たちはこの夏祭りが開かれている神社の鳥居をくぐり、拝殿の前までやってきた。

 首筋にしっとりと張り付いた汗を拭う。

「ここで、もっかい、写真撮ろ」

「分かった」

 道中、やたら長い階段(百段くらいあった気がする)を登ったせいで、私も茜ちゃんも息を切らしている。…茜ちゃん、呼吸してたんだ。

「え、祈里も一緒に写るんじゃないの?」

 私がいつもの癖で撮ろうとすると、茜ちゃんがそう言ってくる。

「そっか、そうね。うん、私も写る!」

『一眼レフカメラで自撮りをする』という発想は私からは出せなかったけれど、駄目じゃないはずだ。どうして今まで思いつかなかったんだろう。

「撮るよー、ハイチーズ!」

「古!」

 茜ちゃんは私の方を向いていてカメラから視線を外しているし、そもそもちょっとピンボケしているけれど、こういうのを撮るためにカメラを持ってきたんだと納得できるような写真だった。

「せっかくならお祈りしていこうよ」

 撮れた写真を確認して、『ま、こんなもんか』みたいな顔をしていた茜ちゃんが拝殿を指差しながら言う。

 お祭りの屋台は比較的平坦な参道にしか出店していなかったので、階段やその先の境内は人もまばらにしかいない。先程の写真にも、人は写りこんでいなかった。

 なんだか現金なものだなぁと思いながら、賽銭箱に向かう。

 私は五円玉を二枚投げて、鈴を鳴らし、手を合わせる。

 何を祈ればいいのかは、分からなかった。

 それでも神様に縋るように礼をした後、目を開けると、茜ちゃんが賽銭箱を覗き込もうとしていた。やめなさい。

「行くよー」

 拝礼を済ませ、茜ちゃんに声をかけながら、私はお祭りの会場である下の参道に戻ろうと歩き出す。ところが、茜ちゃんは拝殿の方を眺めており、なかなか動こうとしない。

「どうしたの?」

 よもやさっきので罰でも当たって何かに取り憑かれでもしたのだろうかと若干心配になりつつ、様子を伺う。すると、茜ちゃんは不気味な程滑らかに体を捻り、相変わらず表情の読み取りにくい透明な顔でこう言った。

「神社の裏とか、ちょっと行ってみたくならない?」

 良かった。通常運転だ。

 旅をしていて気が付いたが、茜ちゃんは好奇心が強い。茜ちゃんは生来そうなのか、仮面を外した『炭酸少女』だからそうなのかは私には分からないけど、なんでも気になって、なんでも試そうとする。まるで猫みたいだ。…猫は液体って、そういう事?

「ちょっと分かる。…行ってみよっか」

 花火が上がるまではまだ時間があったので、いつも通りだった茜ちゃんと一緒に、私は境内を歩き回る事にした。

 荘厳に飾られた正面とは違い、神社の側面は意匠こそこだわっていたけれど、簡潔で落ち着いた色合いだった。

 太陽は既に姿を隠していて、明るさの残滓をわずかに残すばかりなので、私達の足元には影も浮かばない。今日は風も吹いていないのに、くるぶしの横を何かが通って行った気がする。人気も無く、木々の枝葉に覆われ重い空気を纏った場所で、じゃりじゃりと石を蹴るのは、人ならざる者たちの癪に障りそうだと感じた。

 正直めっちゃ戻りたかった。

 でも、年上の私が『怖いから戻ろう』と言うのもなんだか格好がつかないので、茜ちゃんの後ろを内股になりながらついて行った。

「…なんか想像通りだったね」

 ぐるりと一周し、鳥居の前で茜ちゃんにそう言われた時、肩が抜け落ちたかと思った。


 一意専心。

 今の私の様子を端的に表現するならまさにこれだ。

 相変わらずお祭り会場では頭の後ろでちんちろりんと鳴り続けるようなお囃子があふれかえっているが、私の周りだけは水が止まり、明鏡の如くなりそうな程静かだ。いや、金魚が泳いでるから波は立つけど。

「…ふっ!」

 私は目を見開き、「ここだ」と手首を返す。

 もはや手足の延長と化したポイには、赤い金魚が乗っていた。

「おー、祈里上手いね」

 水がかからないようにするためか、一歩下がったところから茜ちゃんが顔を覗かせる。

 私の容器の中には既に三匹の金魚が窮屈そうに泳いでいた。

「子供の頃からよくやっててね。なんか上手くなったの」

「おいおい、勘弁してくれよぅ」

 いきなり、屋台のおじさんが頭に手を当てながらそう言っておどけてきた。…そっか、今の流れだと、私が突然おじさんに自慢したようになるのか。そう思うと何だか恥ずかしいな。

「あ」

 四匹目を掬おうとしたところで、金魚が急旋回しその余波でポイが破れた。

「…やっぱり、ポイは毎回毎回取り換えなくても良かったよね…」

 私が、掬った金魚をおじさんに返していると茜ちゃんがそう漏らす。私には何を言っているのか分からなかったが、本人も独り言のように言っていたので、気にしないことにした。

「次は射的とかしてみたら?」


「あ、これおいしい」

 私は花火がよく見えそうなスポットを探しながら、道中にあった屋台で買ったチョコバナナを食べ、そう独り言ちる。

「やー、それにしても射的下手だったねー」

 茜ちゃんが後ろからそんな事を言ってくるが、私には何の事か分からない。

 全然当たらなくて、少しだけムキになってしまって、四百円も使って八十六円(税込)で売っていそうなラムネ一つしか取れなかった記憶なんて私は持っていない。私が左手に持っている手汗のついたお菓子は、拾ったものだ。

 私が遊びに心を奪われてしまって出遅れたというのもあり、主要な場所は既に人でごった返していた。

 結局、参道の階段の中腹辺りまできてようやく人が減り、落ち着いて腰を下ろす事が出来た。

 もっと登れば更に見晴らしは良くなるだろうけど、そう考えているのは当然私だけじゃなく、境内は境内で人が多い事が、提灯に照らされた陰の蠢きから察せられた。

「ふぅ…」

 階段の端に腰かけると、私も茜ちゃんも歩き詰めで疲れていたから、そんな息が漏れる。私は両手に物を持っているので少し猫背になっていたが、茜ちゃんは両手をつき、何も言わずただ微かに星の瞬く夜空を見上げていた。

 嫌いな沈黙では無かった。

 足も頭も糖分が欲しいと伝えてくるので、私はまたチョコバナナを口に運ぶ。

 よく冷やされたチョコは未だに溶けておらず、歯を立てるとパキリと砕けた。そのまま、しゃりしゃりとしたバナナの実の酸味と混ざり合って、ただ甘い香りが鼻から抜けた。

「あ」

 腿に何かが当たった感覚から、私は視線を落とす。そこには湾曲したチョコの破片が落ちており、私は慌てて摘まみ上げる。

 幸い汚れはついておらず、一安心してチョコの破片を口に運ぼうとした時。



 ひゅううぅぅぅ…



 ここでしか聞けない独特な風切り音。




 一瞬の空白と。




 無音のままに咲く紅の大花。



 数舜遅れて届く、脈を打つどん、という音。

 あぁ、あの夏だ。


 ドラマやアニメでは省略されてしまう事も多いが、私は、花火が開いた後、音が届くまでのあの数秒が好きだ。

 まるで、アルバムをめくった時のように、誰もが息を飲んで、世界に引き込まれる。

 さっきまでざわざわしていた階段も、今、その瞬間だけは、しんと静まり返っている。

 人が、花火のために夜を受け入れ、花火がその期待に応える。

 人と、花火と、世界と、一瞬でも繋がったと感じるあの瞬間が私は好きだ。


 ひゅううぅぅぅ…どん


 私たちの恍惚も褪めないまま二発、三発と花火が上がる。

 次第に、風切り音と破裂音とで埋め尽くされて、静寂は身を引いていく。

「おおおおお!!」

 代わりに、今度は熱狂が場を包み込んだ。

 とめどなく開く花火に皆が声を上げて喜ぶ。祝う。

 ぱちぱちと、もう火薬か拍手かも分からない。

 赤から緑、緑から橙、橙から白。

 果てしない色の変遷が、刹那の内に訪れる。

「祈里、写真撮らないの?」

 ずっと見惚れていた私に、ぷくぷくと泡を湧き立たせている茜ちゃんが声をかける。

 私は慌ててカメラを構え、昼より明るい夜空をレンズ越しに覗き、

「…」

 そのままカメラを下ろした。

 今日は雲もなく、絶好の花火日和だと思っていた。

 ただ、今日は風も無かった。

 散った花火の薫香が、名残り惜しそうに宙に揺蕩っている。

 良い日で、良い祭りで、良い世界だから、仕方ないように思えた。

 花火がクライマックスを迎える頃には、肉眼でもうっすらと白く見えるようになった。

 硝煙の向こうで展開される世界は、まるで昔話に出てくる楽園のようで。

 とてもとても、幽玄な景色で。

 手の届かない、夢幻のようで。


 思い出みたいに、美しかった。



「…」

 べちゃん、と、宿に戻るなり重力に任せて茜ちゃんが倒れこむ。水飛沫が散って、これが赤ければまんま殺人現場のようになっていたんだろうなと思った。

 かくいう私も、今日一日はしゃぎ通した自覚があるし、その疲れは脹脛にちゃんと溜まっている。

 そんな訳で私も、肩にかけていた荷物をリュックサックの近くに放り投げ、大の字になって寝転がった。

「祈里、お風呂入んないの?」

 首をこちらに傾けながら、茜ちゃんが聞いてくる。

「うーん…」

 今は動きたくないぃ…。

 そう思いながらも、ここで後回しにしてしまうと私は多分お風呂に入れなくなってしまう気がしたので、足を使い大袈裟に反動をつけながら立ち上がる。

「茜ちゃん…は、入らないか」

「うん、まだね」

 別にお風呂に入らなくても綺麗なままの茜ちゃんがなんだか羨ましかった。私も横になってたーい。


 とはいえ、私は別にお風呂が嫌いなわけでは無い。

 いやむしろ好きだ。日常のルーティンの中では食事に次いで二番目に好きだ。因みに、一番嫌いなのは食器洗いだ。

「ふぅぅ」

 大浴場には先客が三人いて、それぞれが何となく間を開けながら浸かっていた。

 体や髪を洗ってから、私も端にお邪魔し、体を沈め、顎を水面に浮かせる。

 寮の風呂では足を伸ばすことは出来ないが、ここでは悠々と体を広げられて、とても気持ちが良かった。

 私は息をつきながら、濛々と昇る湯気が高い天井に満ちているのを眺める。

 浴場を照らすオレンジの電灯が、先の花火を想起させた。


「ただいまー、ってあれ?」

 部屋に戻ると、茜ちゃんが平べったくなっていた。実際には見たこと無いけど、お金持ちの家によくありそうな熊の毛皮の敷物、それの人間バージョンみたいだ。

「茜ちゃーん、生きてるー?」

 揺さぶって確認したいけど、私は茜ちゃんに触れる事が出来ないので、せめて声をかける。

「うーん…」

 よかった、寝てただけみたいだ。

 茜ちゃんは眠っている時は体の形が崩れているから、呼吸をしているのかもよく分からない。

 ただ、茜ちゃんに今眠ってもらっては少々都合が悪い。

「明日どうするか聞きたかったんだけどなぁ」

 私たちは今、結構行き当たりばったりで旅行をしている。まだ金銭的な余裕はあるし、いざとなれば銀行からおろせるので、継続する事自体には問題は無い。

 けれど、目的も無い。こっちが問題だ。

 この旅は、茜ちゃんが色々な物を見たいと言った事からスタートした。その本人がぐっすりと寝ているので、私にはどうしようもないように思えた。

 やっぱし起こすか。

「おーい、おーーい」

 とちょっとずつ声を大きくしていく。

 全然起きない。

 もっと大きな声を出すかと腹を括り、息を吸い込んだ時、視界の隅に時計が映りこむ。

 もう十一時だった。

 私は慌てて吸った息を吐きだす。こんな時間に大声出すなんて、迷惑以外の何物でもない。

「どうしよう…」

 茜ちゃんは起こせなそうで、でも明日の予定は決めとかなきゃ…

「…よし、布団敷こ」

 取り敢えず寝る準備だけ整えて、布団の中で色々調べればいっか。

 そう考えて、私は昼に茜ちゃんが確認していた襖から布団一式を引きずり出し、茜ちゃんを下敷きにしないよう慎重に広げる。夏場とはいえ、旅館のエアコンは絶好調だから、このまま行くと夜は肌寒くなるだろうと思い、茜ちゃんに薄手の布団をかけようと手を伸ばす。

「あー、意味無いのか」

 だけど、そんな事をしても布団が浸々になるだけで、茜ちゃんにとって特に意味は無いと思い至り、手を止めた。

 行き場を無くした布団を私の足元に置き、自分の掛布団の中にスマホを持ちながらうつ伏せに潜る。

 電気を消し、常夜灯と障子から透ける月明りだけとなった部屋では、スマホのブルーライトが嫌に眉間に刺さった。

 さ、まだ眠れないぞ。明日は何しようかな。

 私は、欠伸をしながら近辺の観光スポットを探し始めた。

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