四.明くる日を想って
ざぱん、と。
私は自室のカーペットの上で跳ね起きる。
自然な目覚めを海の底から浮き上がるようだと例えるなら、破裂からの強制リスポーンはまるで波によって強制的に陸に打ち上げられている気分だ。
「はぁ…」
私は息を吐きながら、手をついて立ち上がる。
一度破裂したおかげか、ある程度冷静になることが出来ており、泡もぷくぷくとしか立っていない。
それでも、今は暁と顔を合わせたくは無かった。
私は窓を開けてベランダに出る。誰もいない自室は当然エアコンも付いておらず蒸し暑かったと、外で風を浴びてから知った。
既に日は暮れかかっており、西の空には橙が、東の空には瞑が広がっている。
曖昧な境界線を飛行機雲が引き裂いていくのを眺めながら、私は三階から飛び降りる。
びちゃ、と、両手足を同時に地面につけ潰れるように着地する様子は人外じみていたが、そもそも今の私は『炭酸少女』だ。
体を再構成していくように立ち上がり、私は黄昏の街に出た。
向かう場所が決まっている訳ではない。気の赴くまま、体力が持つ限り、出来るだけ遠くに行きたかった。自分の足で行きたかった。
落ちていた木の枝が北を指しているように見えたので、北に向かうことに決めた。
私の住む街は、道がほぼ直線で通っているため、北を向くと、まっすぐに伸びる道と二十重に重なる信号機、はるか奥で行き止まりのように聳える山が見える。
たいそうわかりやすい街であるはずなのに、どうして私はよく迷子になるのかしら、と、そんなことを考えながら橋を超えた。
昼頃にはここにも雨が降っていたのか、道路には水溜りが点在していた。また弾けて自室に戻るのは避けたかったので、私はつい地面ばかりをみて歩いてしまう。
視線が下がり、猫背になると自然と気分も落ちてくるのが自覚できる。溜め息を一つついて、短く息を吸う。私は意識して前を向くように胸を張った。
私が住んでいる場所は、街の中でもある程度発展している。一番繁盛している場所ではないが、大きな通りが交差しており、また地下鉄の駅も存在するため、夕焼けに照らされながら帰宅する人が多く行きかっていた。
私は、その流れに逆らうように歩いた。
人の波が引いていくと、地面から生えているものが街路樹から電信柱に変わっていく。
その変遷を見て初めて、私は、私の住む場所の電信柱が減っていることに気が付いた。
そういえば最近は、倒壊の危険性や景観の観点から電信柱を埋める計画が進んでいると聞く。私が子供の頃は電信柱が未だに路上にあったはずだ。私には、いつから電信柱が無くなったのか分からなかった。
普段、いかに周りを見ていなかったのか思い知る。ただ街を歩くだけでも気が付ける事を長く知らなかったのだ。
私はこれまで、どれだけの事を無駄にしてきたのだろうか。
信号に止まった時、そんな事がふと頭を過った。
感覚が鈍い足の裏はアスファルトの質感を伝えず、裸足だというのに歩きやすいため、疲れを感じにくい。それに、時計を見ることが出来る状況にも出会わなかったので正確な時間は分からないが、一時間程歩いただろうか。既に太陽は身を隠し、夜闇が街に染み込んでいる。
主を失った蜘蛛の巣のように信号機を結ぶ電線と、長く続く寺の塀は、私にとって見慣れないものだ。
遠くに来た、と思う。しかし、それでもありふれた街の景色は夜空を見上げるには眩しすぎて、結局ベランダからでも見える星しか私の目では捉えられなかった。
幾度目かも分からないような信号待ちで、私は先を示す青い案内標識を見上げる。
暗くてよく見えなかったが、そこには私が聞いたことのある道の名前が書かれていた。
「なんで?」
まっすぐに進んできて、ここは最早私の知らない場所だ。他府県と言われても受け入れられる程である。
なぜそんなところにある道の名前を聞いたことがある、それも聞いたことがあると認識できる程度には覚えているのだろうか。
「最近聞いたのかな…」
人差し指を唇に当てながら、私は信号を渡る。
ここまで、私は知らない場所を延々と歩いてきた。様々な道の名前を無意識に確認しながら来たはずなので、その中にあった物をたまたま覚えていただけかもしれない。
これが既視感と言うやつの正体だろうか、と、すっかり人とすれ違う事も無くなった道を進み続ける。
思えば、道を一本歩くだけで様々な物を見た。
有名なハンバーガーチェーン、バイクの販売店、和菓子屋、コンビニエンスストア、眼科、マンション、焼き肉店、携帯ショップ、民家、マンション、カフェ、お好み焼き屋、大学、工務店、パチンコ、本屋…。
「あ、そっか」
歩いていると定期的に見つけられるバス停で一休みしている時、私はようやくなぜ道の名前を知っていたのかを思い出した。
祈里が通っている大学が面している道だからだ。
私と祈里が初めて出会った日、自己紹介として祈里について色々聞かされた。
魚料理が好きな事、北の方にある大学に通っている事、授業がオンデマンドだから寮にしなくても良かったと思っている事、映像なのでいつでも見られると後回しにしている事、カメラで写真を撮るのが好きだという事、ろくに勉強せずに街をぶらぶらして写真を撮っている事。
大学生それでいいのか、という事しか聞かされた当初は頭になかったが、そういえばその時祈里の大学の場所を表すために道の名前を言っていた。
つまり、あそこの交差点を曲がっていれば、祈里が所属している大学が見えてくるはずなのだ。
「よいしょっと」
大学の方に行ったからって祈里がいるとは限らないけれど、私は来た道を戻り、さっきの交差点に向かう。
その頃には、店の明かりも落ち始め、空には知らない星が煌めいていた。
大学の前についてからもう二十分程経つ。
本当に人っ子一人いない。
大学の中では未だに明かりがついているので、中にはまだ人がいるのだろうが、外で歩き回っていても誰ともすれ違わない。
「そらそうか…」
大学名が書かれた看板の前で腰を下ろしていた私は、諦めをつけて立ち上がる。
そろそろ、今日寝る場所を探さなければならない。
日中は気温が高く日差しも強かったが、夜は耐えきれない程ではない。
なので、屋外でも眠る事は出来るが、それでも最低限屋根があるところでないと、また自宅に逆戻りしてしまう可能性がある。
手っ取り早い屋根があるところとして私は、大学の周りをうろうろしている時に見つけたコンビニエンスストアを選び、自動ドアにもたれかかる。
夜遅いと言っても、流石に一人くらいは客が来るだろう。その時に文字通り転がり込めばいい。
今日は一晩ここに泊まろうと考えながら目を瞑っていると、突然背中の支えが無くなり私は後ろに倒れていく。誰も来ていないのになぜか自動ドアが開いたようだ。
「あ、そっか」
店員やら客やらが出てくる時でも自動ドアは開くじゃん寝ぼけてんのか私まあいいやこのまま中に入ろう。
「きゃあ!」
そんなことを考えながら後転するように店の中に入る。
女の人の悲鳴が聞こえてきたが、確かに自動ドアを開けた人にとってみればいきなり私が転がってくる事になる。悲鳴の一つも出るわけだ。悪い事をしたな。
…ん?
そこまで考えて、やっとおかしいと気が付いた。普通の人は私の事が見えていないはずなのだ。
何故悲鳴を上げる事が出来たのか。
私は気になって目を開ける。
上下逆さまの、買ったコーヒーを落としかけてわたわたしている祈里がいた。
「こんなところで何してたの?」
買い物袋を手に持った祈里が心配そうに私を覗き込み、聞いてくる。
「いろいろあって、家出してきた」
湿気を含んだ草木の幽香の中で、動物の油の強烈な臭いが主張しているので、祈里はフライドチキンでも買ったようだ。こんな時間からよく食べるな。何で太ってないんだ。解せん。
「…何があったか聞いてもいい?」
「いいけど、長くなるかもよ?」
祈里は「大丈夫、聞かせて」とゆっくり頷き、祈里が住んでいる寮に案内してくれた。
わぁすごい。
祈里の住む寮に到着し、さて祈里はどんな部屋に住んでいるのかと扉を開けてもらった私から出た感想がこれだ。
「散らかってるけど、好きな場所に座ってね」
祈里が後ろから後ろめたそうに言う。
「えっと、」
「仕方無いじゃん!来るって分かってたら掃除してたよ!」
「祈里、静かに」
誤解の無いように言っておくが、別に汚いわけでは無い。ゴミが多いとか、洗濯物が散らばっているとか、そういう事ではない。
只々本が多いのだ。
寮に元々備え付けられていそうな棚には上から下まで本が詰まっている。それだけでなく、床には都度買い足されているのであろう大量のプラスチックケースが置かれており、数段に重なったその箱の中にも本が入っている。祈里が普段通る場所だけかろうじて床の木目が見えており、私は『獣道ってこんな風にできるんだ』と感心した。
夜にあまり大きな声を出すものでもないと祈里を嗜めながら、正直時間があったとしてもこれ以上綺麗にはならなそうな程本であふれている部屋に踏み入る。
安全地帯が机の一角とベッドしかないが、祈里は今から肉を食べるだろうという事で、私はベッドの上に座った。
祈里の髪と同じ匂いがした。
私が落ち着かずにそわそわしている前を、「よっ、ほっ」と言いながら祈里が通り過ぎる。そのまま机の前に座り、荷物を置いた。
「本すごいね」
「全部小説だけどね」
それでもすごいと思う。と言うか、そもそも祈里は何と比べて『小説だけど』と謙遜したのだろう。論文とか?
私は小説がほとんど読めない。ライトノベルとか、恋愛小説とか、比較的取っ付きやすい物でも難しい。
登場人物が覚えられないのだ。
物語の中盤くらいまで読むと、最初の頃に出てきた人の名前を忘れてしまって、『あれ、今主人公は誰と喋ってるんだ?』となってしまう。人が分からなくなるたびにペラペラと戻っていると、今度はストーリーが怪しくなってくる。最終的には誰が何をしているのか全部曖昧になってしまい、読むのを止めてしまう。
何度かそういった事を繰り返すうち、だんだん私は、見て直感的に分かりやすい漫画の方に傾倒していき、今ではすっかり小説を読まなくなってしまった。
「全部読んだの?」
「一応ね。面白かったのは棚に入れてあるの。今度読んでみる?」
そんな私からすると、こんなにたくさんの本を読んだ事があるというだけで祈里は尊敬の対象である。
「すごいなぁ」と呟きながら、私は何百冊とある本の背表紙を眺めた。
ふと気になることがあり、私は祈里に聞く。
「色んなジャンルを読むんだね」
「うん、気になったらつい買っちゃうんだ」
見えているだけでも『もののふ殺人事件』『絵画』『明後日、世界を滅ぼします』『悪役令嬢の私は落ちぶれた兄を救うため聖女になろうと思います!~へっぽこ聖女とクーデレ王子のドタバタ異世界冒険譚~』『道徳列車』『となりの力士がぬすまれたっ!上』『外れスキル「ボールペン創出」で俺が最強になる話』『エーデルワイスの挽歌』『信長の討ち方』『母を求めて三千光年』『追加事件』『先輩はいぢわる。』『汽笛が鳴り終わったら』『点p、止まる』『鏡像異正体』エトセトラエトセトラ…
本当に色々ある。私としてはこの中なら『となりの力士がぬすまれたっ!上』が最も読んでみたいが、「ボールペン創出」でどうやって最強になるかも気になる。
「こんなに読むなら、自分で書いたりしないの?」
私が興味本位で聞くと、祈里は苦笑いしながら、
「読めるからって書けはしないよ。ご飯食べるからってお米は作れないでしょ?」
と言った。その通り過ぎて「そっかぁ」と漏らすことしか出来ない。
「それで、何があったの?」
祈里の声が優しくなる。私の方をしっかりと見ながら、真摯に話を聞こうとしてくれていることがよく伝「ぐぅ」わる。
…が、今腹を鳴らしたのでやっぱり祈里は間が悪い。
「チキン、食べていいよ」
私が言うと「なんでわかったの?すごいね!」と祈里が驚くが、すごい匂いですあなた。
ペリペリとミシン目で包装紙を破り、祈里が出てきたフライドチキンを齧る。じゅあっと脂が衣から染みて、祈里の指に滴った。飯テロだ。
時計を見ると現在の時刻は午後十一時である。つくづく、なんでこの女は太っていないのか。
食べたら食べた分だけ太る私が頬でぶくぶくと泡を立てながら白い目を向けても、祈里は首を傾げるばかりだった。
「ごめん、待たせちゃったね」
チキンを食べ終わった祈里がコーヒーを一口飲み、そう言った。
「ううん、大丈夫」
私はコーヒーをあまり飲まないのでよくわからないが、フライドチキンとコーヒーって合うのだろうか。
「改めて、何があったか教えてくれる?」
祈里がティッシュペーパーで口元を拭き終え、こちらに向かって座りなおす。私も少しだけ背筋を伸ばし、今日祈里と別れてからあった事を伝えた。
まず、唐突に記憶が返ってきた事。あれは、思い出したなどという生易しい物ではなかった。暴力的な程急に、頭の中にフラッシュバックしてきたのだ。そもそも、最終的な出来事は炭酸少女になる前日に起こったもので、これを忘れるなんて事は無いと信じたい。
次に、私が暁をどう思っているかを。
相手を前にして、『おめでとう』と言った事は良い。問題なのは、私が一人の時になった時も『おめでとう』が頭の中に木霊して、私の感じた仄暗い感情の一切を許さなかった事だ。
私は自分らしく生きたい。たとえ私が立派な人間でなくても。誰かを傷付ける訳でもないのに、思った事を表に出せない生き方はいつか破綻する。私が押しつぶされてしまう。それなのに『私』は、私の事など考えもせずに『おめでとう』と言い続けた。
「だから私は暁と分かれたんだと思う。何も言えなくなっちゃうのが怖かったの」
「そっか」
祈里は「それは正しい」とか「それは間違い」とか言わず、ただ私の話を静かに聴いた。数拍の後、私が話し終わったのを悟って祈里が、
「でも茜ちゃんは、『おめでとう』とも思ったんでしょ」
と、私に確認する。
「そうだ」と即答したい。したいが、私はもう、本当にそう思っていたのかすら分からない。
『おめでとう』と思っていた。でも心からかは分からない。
『悔しい』と思っていた。でも表には出せなかった。
自分の感情すら曖昧な今のこの現状を、人は思春期と呼ぶのだろうか。
「なら、それがすべてだと思うけどなぁ」
迷迷として答えられない私を置いて、祈里が勝手に自己完結する。
「どういう事?」
「それは多分、茜ちゃんが気付かなきゃいけない気がする。人からもらった答えはいつか納得できなくなっちゃうから」
そういうものなのだろうか。やはり私には分からなかった。
「それで、茜ちゃんはそれでも戻りたいって思う?」
祈里が真剣な面持ちで聞いてくる。
「いつか戻らなきゃいけないとは思ってる…でも、今は嫌かな」
取り繕うこともせず、思った事がそのまま私の口からついて出た。
「今日、街を歩いてたらね、いくつか気付けた事があったんだ。だから戻る前に、色んな場所を見て回ってみたいの」
そうすれば何かが、私の知らない答えが、見つかるかもしれないから。
「だから、祈里とはしばらく会えないかもね」
「えぇ!?」
私がそう続けると、祈里が驚いたような声を出す。唐突な事に、私が祈里を見つめると、祈里はベッドに手をつき、上体を私にぐいと寄せながら、
「そこ、『一緒に行こう』じゃないの!?」
と言ってきた。
「でも祈里、大学の授業が…」
無いんだった。
私が、祈里は大学にほとんど行っていないことを思い出したと分かったのか、祈里がドヤ顔でサムズアップしてくる。ええい誇るな。
「もちろんお金の心配も無いからね、どこにでも行っちゃおうよ!」
「そこまで言うなら…」
ほとんど祈里の勢いに押し切られるような形で了承する。
「やったぁ、旅行だー!」
祈里は、修学旅行を控えた小学生のような喜び方をしながら、さっそくどこに行こうかとスマホを操作している。
他人のスマホの画面を不躾に眺めるのも失礼かと思い、私はなんとなく視線をうろうろさせる。『となりの力士がぬすまれたっ!上』は棚の中に入っていたが、『となりの力士がぬすまれたっ!下』はプラスチックケースに入っているのが見えた。祈里的に、下巻は気に入らなかったらしい。
「茜ちゃん、近くで夏祭りやってるって!ここ行こうよ!」
他人のスマホの画面を覗きたいと思ったり、他人の読んだ本が気になったりといった、他人への無遠慮な興味は人間性来のものなのか、私だけの悪癖なのか。
疲れからか眠気からか、そんな益体も無い事考えていると、祈里がそう言ってスマホの画面を見せてくる。
祈里は何と言うか、エネルギーボルテージの加速度が異様に大きい。さっきまで黙々と検索をかけていたのに、一瞬で私の元へやってきた。白身魚みたいだ。
「へぇ…」
私は知らず知らずの内に後ずさり、ベッドの横の壁にうなじと二の腕を当てながら、祈里の差し出すスマホの画面を見る。
「ええっと、場所はどこで…って、遠くない!?地方名すら変わってるんだけど」
祈里が紹介したのは、直進で県を三つ跨がなければならないような場所で開催される祭りであった。花火大会と銘打っているのでそこそこ大きな祭りのようだが、いかんせん遠い。高校生の私からは未だに考えられないが、大学生になるとこんなに行動範囲が広がるものなのだろうか。
「これ、どうやって行くつもり?祈里、運転免許とか持ってるの?」
「免許は持ってるけど、電車に決まってるじゃん」
私としては、車で行けるものなら車で行った方が楽な気がするが、祈里は電車を推してくる。そういえば本棚に『道徳列車』やら『汽笛が鳴り終わったら』やら、電車関係と思しきものもあったので、祈里は電車に乗るのが好きなようだ。
「茜ちゃん、移動も旅の楽しみなんだよ」
いや違うな。本当に電車に乗るのが好きなら、この台詞でこんなに聞きかじり感を出すことは出来ないはずだ。大方、本で読んで憧れているとかそんなだろう。
人差し指を左右に振りながら言う祈里にアルカイックスマイルを向けていると、祈里が咳払いを一つし、続ける。
「泊まる場所も決めないとね」
「どこでもいいんじゃない?寝られれば」
「んー、せっかくならいいところに泊まりたいよねぇ」
旅行の予定というのは普通前日に立てるものではないので、取れる宿は限られてくるだろう。私としてはビジネスホテルでも予約できれば万々歳なのだが、祈里はそうではないらしく、予約サイトから必死に探している。
「…よし、ここなんか良いんじゃないかな?」
「えっと…うん、私も良いと思うよ」
祈里が見つけ出した宿は、木組みと瓦屋根が、周りの木々の色合いとよく調和した和風の旅館であった。旅館の相場という物を私はいまいち知らないが、朝食も付いている割には良心的な値段だと思う。祭りの時期なのによくこんないい宿が取れたものだ。キャンセルでも出たのだろうか。
「お昼頃には向こうに着いておきたいから、今日はもう寝ちゃいましょう?茜ちゃんはそのままベッド使っていいからね」
「いや、悪いって…」
成り行きで泊めさせてもらう事になっているだけでも十分有難いのに、主人を差し置いてベッドでは寝られない。そう思い遠慮しようとしてみたが、部屋を見渡してもベッド以外に寝られそうな空間が無い。
「いいっていいって、私ここで寝られるから」
祈里がそう言いながら、机の周りに敷かれていたクッションをかき集め、その上に寝転がる。体の曲線にフィットしたその寝方はなぜかとても様になっていた。
「祈里って、他の人が来た時もそうやって寝てるの?」
「友達をここに泊めたことは無いよ?この寮って基本お泊り禁止だし」
ん?じゃあなんで祈里はそんなに手際よくクッションをセット出来たのだろう。
…まさか、普段床で寝る事があるのか?ベッドがあるのに?なんで?
「枕元の…そこ、リモコンがあるから、電気を消して」
「私じゃ消せないよ?」
「あ、そっか…」
がっつり眠る姿勢をとっていた祈里はもう立ち上がりたくなさそうであったが、こればっかりは仕方がない。
私が横たわると、程なくして常夜灯の儚げな橙色が瞼を温め始めた。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
枕は少し柔らかかったが、布団で眠るのも久しぶりで、私はすぐに眠りに沈んでいった。
「…茜ちゃん、もう寝た?」
「…」
「…」
「…」
「…茜ちゃん、」
「はよ寝ろ」