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泡沫少女  作者: INORI
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三.土味の決別

「来てくれたんだ!ありがとう!」

 と、祈里に言われながら、私は扉を閉める。

 私は、昨日も来た学校の近所のカフェをまた訪ねていた。祈里に会いに来たのだ。

 昨日は突然だった事もあり、煩わしそうに対応してしまったが、正直に言うと、祈里と話すのは楽しかった。

 勿論、私が誰とも話せなくなってから三日も過ぎ、寂しさが募っていたという事もあるし、私が元に戻るための情報を祈里がまだ持っているかも知れないという打算的な考えもある。

 だがそれ以上に、もっと普通に、祈里とは話していて楽しかった。

 祈里は私の話を聞く時、必ず私の方を見て、しっかり目を合わせてくれる。私の話をよく聞いて、定型的でない返事をしてくれる。

 祈里との会話は心地良かった。もう一度くらい顔を出してもいいかなと思える程度には。

「私に会いに来てくれたの!?」

「違うよ」

 でも、そんな聞き方されたら違うと言いたくなるのが、十六歳の心持ちというもので。

「えぇ…」と残念そうにしている祈里に早くも楽しさと面倒くささを感じながら、私は祈里のいるテーブルの椅子に座った。

「昨日、あの後どこに行ってたの?」

「学校に」

「どうして…あ、分かった。もう一人のあなたの様子を見に行くためでしょう?」

 ボーダー柄のルーズなシルエットのTシャツに、垢抜けたジーンズを着、太いリボンで編まれたレースアップパンプスを履いている、なんか大人っぽいコーディネートの祈里が、そう聞く。

「半分正解かな」

 大学生ってこんなにお洒落をしなければならないのかと戦慄しながら、私は答えた。

「もう一人のあなたはやっぱりあなたと同じ感じなの?」

「基本的にはね。行動とか、私がしそうな事をしてるけど、私よりも優等生だよ。見た目も、体つきはそっくり。ま、なんか白い仮面をつけてるから顔も同じかどうかは分からないけど」

「え、あなたより優等生ってどういう事?それに仮面って?」

 祈里が驚いた様子を見せた事に、私は軽く驚く。

 話しぶりからすると、祈里が昔会っていた人達にも、もう一人の自分と呼べる存在はいたようだが、私と『私』のように若干の差異があるものではないのだろうか。

「え、そのまんまの意味なんだけど…」

 と、私はもう一人の自分である『私』が、目と口の部分に穴が開いているだけの簡素な白い仮面をつけている事や、自分よりも礼儀正しい事を説明する。

「『礼儀正しい』って、具体的にどんな感じ?」

「えっと、例えば、私は学校から帰る時とか、知り合いとすれ違っても挨拶とか面倒くさくて気付かなかったふりをする事があるんだけど、」

「ひど!」

 うるさいな。ただ、自分でもひどい事をしている自覚はあるので何も言い返せない。

「゛ん゛ん」

 と咳払いしてから、私は続ける。

「もう一人の自分は、一回一回足を止めて、名前を呼びながら挨拶するんだ」

「それはまた丁寧ね」

「他にも、ちゃんとその日のうちに学校で出た課題とかやるし。あ、あと、人の事を悪く言う事も無いね」

「そっか…確かに茜ちゃんとその子は全然違うみたいね…」

 どういう意味だよ。

 私は、自分が祈里に対してかなりあたりが強い事を自覚しているが、祈里は意識せずにやっている気がする。

 現に祈里は、むすっとしている私に対して首を傾げるばかりだ。

「とにかく、そんな感じで、もう一人の私は私より礼儀正しいの」

「なるほど…。いままで私が会ってきた子達は、行動はほとんど自分と同じって言ってたし、仮面を付けてるなんて事も言ってなかったから、茜ちゃんには何か特別な事情があるのかな…?」

 祈里が頬に手を当てながら思案しているのにつられ、私もどうしてなのか考えてみる。ただ、私は私以外の私と同じような境遇の人達についてほぼ何も知らない。相違点も見つけようが無いため、考えようが無かった。

 知っている人ならどうかと思い祈里の様子を見たが、祈里も、何か考え付きそうな雰囲気はまるでなく、祈里が頼んでいたコーヒーカップの縁を眺めているばかりだった。

「そういえば、どうして祈里だけ私の事が見えるんだろうね?」

 このまま考え込んでも結論出るとは思えなかった私は話題を変えようと、昨日祈里に聞きそびれた事を聞く。

 一人だけ他の人と違うのは何も私に限った話ではない。むしろ、似た前例のいる私より、前例のない祈里の方がどちらかと言うと奇特な状態なのではないだろうか。

「あぁ、それは多分、私が大人になり損なったからだよ」

 会って間もない私でも、祈里らしくないと言い切れるような、投げやりな言い方だった。何かを諦めた人の言い方だった。

「私ね、夢が無いんだ。高校生の頃は『先生になりたい』なんて思ってたけど、駄目だった。それから、特に興味を持てる事も無くてね、カメラだって、好きだけど、じゃあこれを一生するのかって言われたら、全然自信無いし。私がそんな事してる間に、他の人達は皆自分で目標立てて頑張ってるの。私だけ大人になれてないから、あなた達の事が見えるんじゃないかな」

 祈里が自嘲気味に笑いながら話す。

 そんな祈里を見て、私は、夢が無くて悩んでいるのは私だけじゃないんだと安堵した。

 有惟も音葉も、自分の夢ややりたい事に向かって努力している。陸上部の皆だって、日々各々の目標達成のために力を尽くしている。

 それはいい事のはずなのに、私は、私だけが置いて行かれているように感じて素直に祝福できない。

 そんな自分は嫌いだし、似たような人がいるんだと喜んだ私はもっと嫌いだ。

 きっと祈里もそうなんだ。恥ずかしくて、情けなくて、どうしようもなく祈里に親近感が湧いた。

「そっか。いつか大人になれるといいね」

 私は、祈里に自分の影を重ねながら言う。「ありがと」と、疲れた笑顔で祈里が答えた。

「なんか、暗い話になっちゃってごめんね?私の事よりも、まずは茜ちゃんの問題を解決しないとね」

 祈里が努めて明るい声を出す。私も、解決しない自己嫌悪に浸るのを止め、どうすれば自分が元に戻れるのかを考える。

「やっぱり、もう一人の私についてもっと知らなきゃいけないと思う」

「そうね。二人に分かれてしまった理由は二人にあるって、私も思うよ」

「でも、私はもう一人の私と話せないんだよなぁ…」

「なら、私が話してきてあげよっか?」

「もう一人の私からしたら祈里は只の不審者だよ」

 もし実行するとなったら、「もう一人のあなたからお話預かってきたんだけど」とでも言うつもりだったのだろうか。さも名案かのように人差し指を上げながら言っていたが、普通に駄目だ。

「そっかぁ」

 と言いながら、祈里は机に肘を置き、そのままうなだれる。お行儀が悪い。

 …祈里が大人じゃないって、こういうところじゃないよな?

 私は、先程感じていた親近感が少しずつ薄れていくのを感じながら、窓の外を眺める。

 西の空に、龍でも住んでいそうな厚い雲が浮かんでいた。

「ところでさ、いつまでも『もう一人の自分』って言い続けるの、めんどくさくない?」

 祈里が突然そう言いだす。

 私としては別にどっちでもいい事ではあるが、目の前の女は「さあ聞いてください」と言わんばかりに目をキラキラさせている。

「じゃあ、何て呼ぶの?」

 自分から出た声とは思えない程鬱陶しそうな口調だったが、祈里は一切気にした様子はない。

「ほら、あなたの名前って『茜』でしょ?夕方っぽい感じがしない?その反対だから…」

 人差し指で空中に円を描きながら得意げに続ける。

「『暁ちゃん』ってどうd」

「だっさ」

「ひどい!」

 案の定名案というわけでもなく、ほんと心底どうでもいい。

 ただ祈里は、

「うーん、いい名前だと思ったのに…」

 などと、わざとらしく目をこすっている。

「あー、分かったよ。もうそれでいいよ」

「ほんと!」

 このまま放っておいても面倒くさそうであったので、表面上でも賛成の意を伝えると、一変してテンションが高くなる。

「じゃあついでに、あなたは『泡沫(バブル)大王(キング)』でいいかな!?」

「それは嫌だ!」

 祈里が調子に乗ってきた。軽率に良いとか言わない方が良かったかと私は後悔する。

 大体なんだバブルキングって。

 私は頭に有名なゲームの敵キャラクターを思い浮かべ、「あれ、今の私って割とバブルキングでは…?」と思ってしまった事を誤魔化すように声を上げた。

「確かにキングではないね」

「クイーンでも駄目だよ」

 祈里が妙にイントネーションを付けてきたので先んじて釘をさす。「くそう、読まれたか」と欠片も悔しくなさそうに言った後、

「『泡沫(バブル)少女(ガール)』ならどう?」

 と聞いてきた。

「うーん…」

 ましにはなったが、もう正直私の中でバブル≒バブルキングになってしまっているので頷きづらい。

 そんな私を見ても、まるで想定内とでもいうように祈里が続ける。

「なら、『炭酸(サイダー)少女(ガール)』はどう?」

「まぁ、それなら…」

 受け入れられる。と、そこまで思って気が付く。

 あ、これ、詐欺の手法だ。

 まずは受け入れられなそうな条件を提示し、それを引き下げてから本命の要求をするやつ。祈里は知らないままやっていそうではあるが、たしかドアインザフェイスというもので、返報性の原理を応用した、古典的な詐欺の手口である。

 あまりにも簡単に引っかかってしまった自分自身に愕然としていると、私がよほど間抜けな顔をしているのか、祈里はくすくす笑っていた。

 手で口元を隠すしぐさが妙に上品で癪に障る。

「じゃあ祈里は『覗き魔』ね」

「なんで!?」

「人の夢の中の世界を勝手に覗いてるから」

「それは…そうだけど…!」

「嫌?」

「嫌!」

 せっかくつけてあげたあだ名に文句を言うなんて、なんとも贅沢な人だ。

 私はついさっきまでの自分の態度を綺麗に棚上げし、そう思う。

「じゃ、『夢女子』なんてどう?」

「え、いいじゃん可愛い!どうしたの急にまともになって」

「…」

 さっきまでの私がまるでまともでなかったかのような発言にムッとしつつも、屈託なく笑う祈里に、なんだか申し訳ない気持ちになる。

「ちなみに読みは『ドリームシーカー』だから」

「…茜ちゃん」

 ほんの少しの罪悪感からそう付け足すと、祈里が眉を下げながら私を呼んだ。

 私は、何か祈里にとって悪い事を言ってしまったのかと心配になる。

「茜ちゃんって、中二病なの?」

「やかましいわ!」

『炭酸少女』が言うな『炭酸少女』が!

 てか、『暁ちゃん』とか『泡沫少女』も含めたら、祈里の方がよっぽど厨二病ではないか!

 さっきまではなんとか我慢できていたが、とうとう口から漏れ出てしまった。

 泡で脳天をバチバチと弾けさせ、水飛沫で天を衝かんとしている私に、祈里が「ごめん、ごめんって」と平謝りする。

「でも、うん。『(ドリーム)追い(シーカー)』か。いい名前だね」

 私の事をまっすぐ見つめそう言われると、こちらとしても溜飲を下げざるを得ない。

 この年になって、ド直球に褒められる事も少なくなっていた私は、何となく照れ臭くなり、頬を掻きながら「とにかく、」と話を逸らす。

「私が元に戻るには、もう一人の自分」

「暁ちゃんね」

「…暁の事をもっと知って、どうして分かれたのかを知らないといけない」

「そうね、そこから元に戻る方法を考えないと、今のままじゃ手がかりが少なすぎて考えようがないわ」

 祈里も、『私』、いや、暁をもっと調べる事に賛成のようだ。

「なら、私は暁の事をもっと詳しく観察するよ。また何か気が付いたら報告するね」

「ありがとう。私も、何かできる事があったらいいんだけど…」

「あ、じゃあ、昔に会った人達に話を聞いてくれないかな?」

 過去に同じ経験をした人達の話なら参考になりそうと思ったが、祈里の反応は良くない。

「ごめんなさい。今あの子たちがどこで何をしているのか、私も知らないの…」

「え、連絡先を交換したりとかは?」

「あなた達、携帯持てないでしょ?」

「でも、解決した後なら…」

「皆、『おかげで解決できました』って言って、どこかに行っちゃった」

「そっか…」

 祈里が「役に立てなくてごめんね」としおれているが、私としては話し相手がいるというだけでとても助かっている。祈里がいてくれたから、解決のために動く事が出来ている。本人に言うと調子に乗りそうだから声に出しては言わないけれど。

「そんなことないよ」

 とだけ返し、私は席を立つ。

「私は学校に行って、暁の様子を見てくるよ。またね」

 カフェの入り口で振り返って、私は祈里に手を振った。

「行ってらっしゃい」

 声は聞こえなかったが、祈里は恐らくそう言った。

 誰かに「行ってらっしゃい」と言われたのも久しぶりで、私は何だかうれしくなった。


 キン!と、野球部のバットが甲高い音をあげるのを聞きながら、私は学校の校門をくぐる。

 青空と雲が半々くらいとなった空を窓の外から眺めながら階段を上り、恐らく暁達がいるであろう図書室へと向かう。

 私と有惟と音葉は休日、たまに図書館で勉強会をする。

 そもそも、生来として、私は勉強が好きなわけでもなければ、得意なわけでもない。それでも進学校に入学できたのは、ひとえに有惟が勉強を教えてくれたからだ。

 小学生のころから勉強が得意だった有惟はよく、勉強を教えるという名目で私の家に遊びに来た。それが続くうちにいつしか土曜日は我が家で勉強会をするというのが定着し、勿論ゲームをしたり菓子を食べたりと遊ぶ事が多かったが、高校受験が控えた中学三年生にもなると、本当に勉強をする会となった。

 中学三年生のある梅雨の日だ。その日も朝からずっと雨が降っていた。そんな中で、有惟は傘をさして、わざわざ私に勉強を教えるために我が家に来てくれた。

 理科の問題がなかなか解けず、私はふと、有惟の時間を奪ってしまっているのではないかと思い、

「勉強教えてくれるの、すごく助かるけど、面倒くさくないの?」

 と聞いた。すると有惟は心底意外そうに目を大きくしてから、いつもの落ち着いた顔に戻し、

「茜に勉強を教えるのは楽しいから大丈夫。それに、教えてると自分が分かってないところも分かるしね。知ってる?茜ってたまにすごくいい質問をするんだよ」

 と言った。

 私はこの日、志望する高校のレベルを二つ上げ、有惟と同じところを狙うと決めた。

 白い息を吐き、浅く積もった雪を踏みしめながら、有惟は受験の一週間前にも私の家に来た。有惟程ではないにせよ、私も勉強ができるようになっていたので、過去問を解きながら、二人で教え合い、二人とも分からなかった問題は一緒に解決した。

 一緒にバスを降り、「頑張ろうね」と手袋越しでグータッチを交わしてから受験に挑んだし、合格発表の日は二人で喜び抱き合った。

 春休みを過ぎ高校生になっても、その名残から勉強会は続いた。

 そして二年生となり、音葉と仲良くなってからは、私が誘って、音葉も勉強会に参加するようになった。

 一か月くらいは我が家でしていたが、音葉の移動が大変である事と、高校二年生となって、調べなければ分からない課題が増えた事、なにより、私の部屋に三人は手狭である事から、場所は学校の図書館に移った。

 三階に着き、図書館の地図記号を象ったようなプレートがかかった扉に向かう。

 教室のようなスライド式ではない、木製の開き戸を押し、私は図書室に入る。

 図書館に全身びしょ濡れのまま入るというのは、影響が無いと分かっていつつも気後れした。

 図書室見渡し、三人らしき集団を探していると、私は図書館の奥に設置されているテーブル群の一つに、それらしい影を見る。

 そういえば、暁にとっては初めての勉強会だ。

 さあ果たしてどんな感じなのだろうと近寄ってみると、

「…」

「…」

「…」

「…なぁ、ここどこが間違ってんの?」

「えっと…あぁ、絶対値だからコサインはいらないよ」

「あ、ほんまや。絶対値記号見落としてたわ。ありがとう」

「…」

「…」

「…」

 …至って真面目に勉強していた。

 各自が自習し、疑問に思ったところは全員に共有、その都度解決していくという、ある種の勉学の理想形を体現していた。

 有惟や暁は言うまでもなく、音葉も集中力は高い。むしろ、ヴァイオリンを演奏しているだけあって、集中力に限れば三人の中で最も高いといえるだろう。

 そんな三人が、それも図書室という良いロケーションで集まれば、たいそう勉強もはかどるだろう。それ自体には何の問題も無い。

 本人たちは極めて真剣な表情で取り組んでいるので外野である私がヤジを飛ばすのはナンセンスであるのは分かっている。分かっているが。

「つまんねぇー…」

 最高に見ていてつまらない。

 勉強をしている三人に問題があるとは微塵も思わない。しかし、つまらないと感じてしまう私に非があるかと聞かれれば、私にも情状酌量の余地はあると思う。

 暁の観察をするために学校に来たはずではあるが、あまりの変化の無さに倦んできた私は、何を見るでもなく窓の外に視線をやる。

 近くにはシャーペンが紙を叩く音、遠くには蝉とサッカー部の掛け声。直に当たるエアコンの風が、肌寒さと微かな黴の匂いを届け、雲の増す空からはにわか雨の気配がする。

 図書室の窓際にもたれかかっていると、何だかノスタルジックな気分になった。

 ぽた、と。

 閉められた窓の桟に、雨粒が落ちる。

 ぽた、ぽた。

 追いかけるように、二滴、三滴と降ってくる。

 夏の天気は変わりやすいと、教科書に変わって教えるかの如く、雨粒は肥えていき、勢いも増していった。

 急いで屋根のある場所へ戻る部員達。雨なぞ気にしないと声を張り上げる部員達。関係ないと勉強を続ける数人。

 のんびりと眺めながら、私は、

「帰り、どうしようかな」

 と考えていた。

 考えていて、

 唐突に、

 記憶が、

 返ってくる。


 ーーーーーーーーーー


「帰り、どうしようかな」

 入学式から既に一週間が過ぎ、授業もオリエンテーションを終え、本格的に勉強が始動し始めた頃の事だ。

 まるで「帰らないでくれ」と学校側が泣きついているかのようなタイミングで、雨が降り出した。

 今日は一日中晴れると言っていたではないかと、朝のニュースキャスターに頭の中で文句を言いながら、傘はおろか、折り畳み傘すら持っていない両手を開閉する。

「有惟は先に帰っちゃったもんなぁ…」

 有惟は自称雨女であり、どんな時でも折り畳み傘を常備している。

 ただ、部活動見学をしていた私に対して、部活動に入らないという事を入学する前から決めていた有惟はさっさと家に帰っており、今頃はもう飼っている猫と戯れているだろう。

 部活動に所属している生徒が九割を超えるこの学校で、周りに流されず、無所属を即決する有惟に、尊敬と、見学くらいしろよという呆れを感じながら、未だに止みそうにない鈍色の空を見上げる。

「あれ、綾瀬さん…だよね?どしたの?」

 雨を見ながら呆けていた私に声をかけてくれたのは、同じクラスの河村君だった。

「傘を…ね。持ってくるの忘れちゃったの」

「あーマジか…」

 そう言って、頭をポリポリと掻きながら、河村君は続ける。

「うん、俺の傘貸すわ。テレビで、夕方は雨に注意って言ってたから持ってきてたんよ」

「え」

 聞いてないんですけど!?あれぇ?

 なんて言葉を強引に飲み下し、

「そんな、悪いよ」

 と私は手を振る。

「つっても、多分部活が終わるころには止んでるだろうし。あ、じゃあ、今度陸上部に見学に来てよ。部員が多い方が盛り上がるしさ」

 そう言いながら河村君は玄関口に置かれている自分の黒い傘を手に取り、私に差し出してくれた。

「ありがとう!」

 ここまでしてくれると、断る方がかえって失礼なような気がして私は受け取る。

 そのまま、私の体格からすると少々大きな傘をさして家に帰った。

 借りた傘を、何となく親に見られたくなくて、自分の自転車のハンドルに掛けた。


「ほんと、昨日は傘ありがとうね」

 私は、タータンの上でストレッチをしている河村君にそう言いつつ、辺りを見渡す。

 私は既にいくつかの部活動見学を済ませていたが、陸上部は一番と言える程人数が多く、活気があった。

「ん、ゆっくり見ていってな」

 そう言い残して、河村君は集合の掛け声を上げた部長と思しい人の元に走っていく。

 私は小学生の頃には水泳を、中学生の頃にはバスケットボールをしていた。水泳は、普通の人よりも速く泳げるようになったが、人と争える程ではなく、バスケットボールは二年やっても上手くなる気配が無かった。

 自分には運動の才能は無いと知っていたが、それでも基礎体力作りやダイエットのため、高校でも運動は継続的にするような環境に身を置きたいと感じていた。

 そんな私にとって、陸上部は魅力的に映った。

 基礎体力作りやダイエットの目的は果たせそうであるし、他の競技に比べ、感覚で行う事が少なそうであったため、もしかしたら私も活躍できるかもしれないという期待もあった。

 そんな、今考えると些か短慮な理由から、私は陸上部に仮入部した。


 陸上部に仮入部し、実際に一週間活動し終えた時、私は、陸上部は止めようと考えていた。

 本格的に活動している上級生や、中学の頃に既に陸上部だった同級生と比べ、半分以下のトレーニングメニューであるにも関わらず、私は自転車で帰るのもままならなくなる程疲れ、布団に入ると泥のように眠るような生活をしていた。

 それでも、部活動本登録の日、結局私は登録用紙に陸上部と書いた。

 練習は辛かったが、それは私に体力が無いからであって、繰り返していくうちに次第に楽に感じるようになるだろうと思った事もあるし、仮入部の私にもよくしてくれた先輩たちの事もあるし、勿論河村君の事もある。

 傘を貸してもらった事ではなく、仮入部中の経験の事だ。

 河村君は小学生の頃から陸上部であり、私とは違うメニューをこなしていた。

 ただ、河村君は主に短距離を専門としており、私の様な初心者もまず短距離から始めるという理由から、同じ練習場所にいる事が多かった。

 河村君は、部活動中、よくこちらを気にかけてくれた。それは、自分が誘ったからという責任感から来たのかもしれないが、明らかに私よりも負荷をかけてトレーニングをしているのに、「初めのうちは無理しなくていいからな」とか「頑張っててすごい」と声をかけてくれた。

 先輩たちも同様に、初心者の私達に優しかった。

 ここで「やっぱり入りません」と言うのは心苦しかったし、入部しなかったら、同じクラスである河村君の顔を見られなくなりそうだと思った。

 本入部の時には、初心者の人数は仮入部の時の半分程度になっていた。


 雨が続き、滑って危ないという理由から、ダッシュトレーニングではなく筋肉トレーニング中心のメニューとなった頃、私は自分の先見の明の無さにうなだれていた。

 一か月も続けると、私にも目に見えて体力が付いた。体力が付くだろうという予想は当たっていたのだ。しかしそれでも、正規の量をこなすには到底足りなかった。楽になった事は一度も無かった。

 昨日三十回できたトレーニングを今日は三十五回する。隣では河村君達が百回している。

 そんな日々が続いていた。

 ただ、地獄、と形容するには待遇がよかったが、そう例えたくなるような時間の中で気付いた事もあった。

 どうやら、河村君は根っからの善人らしいという事だ。

 正直に白状すると、私は当初、河村君の優しさを疑っていた。

 どうせ私が本入部したら自分の事に専念して、私の事なぞ見向きもしないのだろう、と。

 私はそれを悪い事だとは思わない。寧ろ、才能が有って、努力もしている人は、私達の様な初心者の事など放っておいて、更に高みを目指すべきだと思っている。

 ただ、河村君は変わらなかった。

 私達をいつもよく見て、私達が成長すると誰よりも喜んだ。

 河村君は純粋に、陸上が好きなようだった。陸上が好きで、私達にも陸上の良さを知って欲しかっただけのようだった。

 そんな彼のおかげで、もう少し頑張ろう、もう少し頑張ろう、と私は陸上を続ける事が出来た。

 放課後の時間が終わってもぎりぎり日が沈まないような季節になった頃、私達も何を主体にトレーニングをするかを決める日が来た。

 色々試した結果、バスケットボールの経験のおかげか、私は砲丸投げが最も得意なようだった。

 けれども、私は、短距離を志望した。

 思えばこの頃から、河村君に惹かれていたのかもしれない。


 夏休みに入り、部活動で合宿にも行った。同じ机で、同じご飯を食べた時には、私はおそらく河村君が好きなのだ、と自覚していた。


 九月に入り、風の運ぶ暑さが和らいできたと感じるようになった頃だ。

 夕食を食べ終え、テレビを見ていると、母に声をかけられた。

「茜、ちょっと話があるんだけど…」

 母からこう言われた時、良い話だった経験は一度も無い。

 十中八九嫌な話だろうと悟った私は、胡乱な様子を隠そうともせず、ソファから起き上がる。

 母の手に、夏休み明けに行った模試の成績表が握られており、私はこの先何を言われるのか大体の予想が付いた。

「なに?」

 私が問うと、母は成績表を私にも見えるよう机の上に広げながら話し出す。

 母は、なるべく私が傷付かないように言葉を選んでくれていたが、要約するとこうだ。

『成績が下がっている。部活動が大変で、自習時間を取れていないからではないか。そんなに思い入れのない競技ならば、部活動を止めてしまってもいいのではないか』

 勉強と部活動を天秤にかけた時、私の価値観では勉強が優先される。その勉強が疎かになっているという実感は私にもあった。

 最近、勉強会で有惟に質問するのが怖いのだ。一昔前であれば、簡単に質問できたのに、高校受験を経て、私は有惟に失望されたくないと思うようになっていた。勉強会で、せっかく有惟が私の家まで来てくれているのに、何となく気まずい時間が流れて終わるだけの日もあった。

 このままではいけないと思っていた。変わるためには、部活動を止めるのが一番手っ取り早い事も薄々察していた。

 振り返ると、その頃の私は心の奥底で、誰かに背中を押してもらうのを待っていた気がする。

 いつまで経っても苦しいままの部活動を止めるきっかけを欲しがっていた気がする。

 一人、また一人と止めていった同級生に、いつからか羨ましいと感じていた気がする。

『部活動を止めろ』と進言した母に、大した反抗もせずに従ったのは、そういった理由によるのだと、当時は思いたくなかったけれど。


「昨日は体調悪かったんか?」

 退部届を提出した翌日、教室で河村君が聞いてくる。本当に私の体を慮っているようであった。

「あー、私、部活止める事になったんだ。成績下がってるから勉強しなさいって言われちゃって」

「あーマジか…」

 出会ったときと同じように頭を掻きながら河村君が言う。しかし、出会ったときとは違って解決策を挙げる事は無かった。

 そのまま、河村君は私の退部を心底残念がってくれていたが、私は、自分がまるで母に言われて仕方なく止めたような説明ができた事に安心していた。


 教室が同じであるため、陸上部を退部した後も何度か河村君と話す機会はあった。

 しかし、部活動という最大の接点が無くなったため、次第に疎遠になっていった。


 登校中、曇天の空から落ちてくる雪が、小蝿のように風に飛び散っているのを眺める季節になると、河村君への恋心は、アイドルに向けるような憧れに近いものへと姿を変えていた。私はそう思っていた。


「え、桐ケ谷さん、河村君と付き合うことになったの!?」

 七月十一日。この日は朝から雨が続いており、空調を効かせた教室も平時よりじめじめとしていた。

 弁当を食べ終わり、私が有惟と音葉と他愛もない会話をしていた時に、後方からそう聞こえてくる。

 私が振り向いたころには、女子数人が桐ケ谷さんを取り囲むように集まっており、その輪は依然拡大を続けていた。

 桐ケ谷さんは、中学生の頃から陸上の長距離の選手であり、引き締まったシルエットと健康的に焼けた肌が活発な印象を与える、ショートヘアの似合う女の子だ。

 外見にそぐわず、性格も明るくアクティブで、友好関係も広い。今桐ケ谷さんを取り囲んでいるのも、皆桐ケ谷さんと仲の良い人達だろう。

 元は私も陸上部であったため、桐ケ谷さんとは話した事もあるし、部活動の帰りに一緒にカフェに寄った事もある。

「河村君と付き合えたんだ!おめでとう!」

 一言なにか言うべきだと、『私』は立ち上がり、桐ケ谷さんにそう伝える。

「あ、綾瀬さん!えへへ、ありがと!」

 桐ケ谷さんはそう言って、幸せの絶頂であるといったような笑みを向けた。


 午後の授業の内容は一切入ってこなかったし、その日どうやって帰ったか覚えていない。自室の中でふらふらと歩き、私は足に引っかかったプリントファイルを倒す。

 何も手につかないから、縋るように数学の問題集を解いた。

 私はどうやらまだ、河村君の事が好きだったらしい。

「おめでとう」「ありがとう」「おめでとう」「ありがとう」「おめでとう」「ありがとう」「おめでとう」「ありがとう」「おめでとう」「ありがとう」「おめでとう」「ありがとう」「おめでとう」「ありがとう」「おめでとう」「ありがとう」「おめでとう」「ありがとう」「おめでとう」「ありがとう」「おめでとう」「ありがとう」「おめでとう」「ありがとう」「おめでとう」「ありがとう」「おめでとう」「ありがとう」「おめでとう」「ありがとう」「おめでとう」「ありがとう」「おめでとう」「ありがとう」「おめでとう」「ありがとう」「おめでとう」「ありがとう」「おめでとう」「ありがとう」「おめでとう」「ありがとう」「おめでとう」「ありがとう」「おめでとう」「ありがとう」「おめでとう」「ありがとう」

『おめでとう!』

 桐ケ谷さんの笑顔と『私』の言葉が頭の中で反響し続けて、私は涙も流せなかった。

 机の上で、皮膚を剥ごうとするように、顔に当てた指に力を込める。

 風呂から上がった後は、逃げるように布団に入った。

 なかなか寝付けず、私はふと、髪に櫛を入れていない事に気が付いた。


 …そんな記憶が、返ってくる。

 そして、私は分離した理由に思い至った。



 どおん!と、遠くに雷が落ちる音がした。一瞬肩をひきつらせた有惟が窓を見る。

「あれ、茜?」

「あんたのせいだ!」

 私は有惟が何か言っているのを気にも留めず、暁を睨みつけ、怒鳴る。

 全身からバチバチと大粒の泡が吹いており、飛び散る水飛沫が棘のように暁の顔にかかった。

「私が、河村君に好きになってもらえないのはいいよ!」

「ん、有惟さん、どうかした?」

「いや、今一瞬窓際に茜がいたような気がしたんだけどね…」

 私がどれだけ怒っても、暁は何の反応も示さない。黙ってノートに数式を書き続けている。その事がまた私の神経を逆撫でして、私はびちゃびちゃと足音を立てながら暁に近寄り、襟をつかむ。

「でもせめて私は!私くらいは!私を好きになってくれてもいいじゃん!」

「茜さんならずっと座ってたやん。疲れたんかな?」

「そうかも…」

 私は河村君が好きだった。けれど、河村君は別に私の事を異性として好きだとは思っていない。

 この事実自体は、納得できる。桐ケ谷さんは明るくて、気が利いて、良い人で、一緒に部活も頑張っている。

 お似合いのカップルだと思う。「おめでとう」と思う。

 本当か?

 なら私の中で蠢いているこの悔しさはなんだ。この悲しさはなんだ。

 でも、本人の前で、あるいは他の誰かの前で、こんな醜い感情を見せるのは反則だと分かっていた。だから必死に堪えて、家の中の、自室の中まで持ちこたえた。誰にも聞かれない、誰にも知られない場所まで我慢した。

『おめでとう!』『おめでとう!』『おめでとう!』

 それなのに『私』は、私が泣く事を許さなかった。私が悲しいと、悔しいと思う事を許さなかった。

 今となっては、私はもう河村君の事が本当に好きだったのかは分からない。

 分かるのは、私は確かに悔しい、悲しいと感じた事。

 そして、その感情を表に出すことすら出来ない窮屈。

 叫ぶ私の目から、涙のように水が跳ねる。

「あなたのせいで!私はいつまで経っても自分の思い通りに生きられない!私は自分らしく生きたいんだ!」

「茜さん、瞬間移動でもした?」

 周りに気を遣って、周りに気を遣って、周りに気を遣う。

 他人の事ばかり優先して、他人に良く見られる事ばかり注力して、ひたすら自分の事をないがしろにする。

 私を大切にしない『私』が、私は本当に大嫌いだ。

 だからあの日の夜、私は暁を切り離したのだろう。

 外面ばかりが良い私の社交性の仮面を脱ぎ捨てたのだろう。

「一人でいるときくらい、自分の気持ちに素直でいさせてよ!」

「…ごめんね。あんまり聞いてなかった」

 サッと、私の頭が冷える。

『ごめんね』と。

 今、暁は、私の目を見てそう言った。

 白い、簡素な仮面の奥で、確かに私は暁の目を見た。

 私と同じ、焦げ茶色の目だった。

 聞こえていたんだ。全部。

「っ!」

 そう気が付いた時には、私は既に図書室から飛び出していた。

 とても、あの場所にはいられなかった。

 踊り場で足を縺れさせ、手すりに体を打ち付けながら、私は階段を駆け下りる。

 下駄箱を通り過ぎると、雨によって一時的に練習を中断していた色んな部活動の部員がいた。

 人ごみを掻き分け、私はグラウンドへと飛び出す。


「うわあああああああああああああああああああああーーーーー!!」


 屋根から出た瞬間、大粒の雨が槍のように私の体を貫いた。

 叫びながら走る私は、前なんか見えていなかった。

 息が上手く吸えず、咳込む。

 できた水溜りに足を踏み入れてしまい、私の体がさらに重くなる。

 泥に足を取られ、私は慣性に任せて倒れこんだ。

 ばしゃん。

 一度に大量の水に振れ過ぎた私は、ざぁざぁと降り荒ぶ雨の音に掻き消されそうな程弱弱しい音を生みながら、破裂した。


 口に入った土は、やっぱり苦かった。

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