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泡沫少女  作者: INORI
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一.水の日

 雨上がりの路地裏を、私は走る。

 水溜りが私の足を一瞬だけ写し、水面が揺れる。

 ビチャ、ビチャ、と水飛沫をあげながら、全力で走る。

 私は既に陸上部を退部している。だから、もう体力に自信はないし、このまま走り続けられるかもわからない。しかし、あの女は私を害し得る何かを持っている。

 逃げなければならないと、私は直感的に判断していた。

 あまり街を散策する事が無かった私は、たとえ近所であったとしても、道を二本程違えれば迷子になる可能性がある。

 それでも走る。曲がり角を右に、左に。

 息を、切らしながら、走り、続ける。

 ビチャ、ビチャ。

 水の跳ねる音が、自分の胴体を貫通して耳まで響く。

 なぜあの女は追ってくる?私は何をしたの?何かされるの?

 恐怖と混乱が積み重なって、とうとう私は耐えきれなくなる。

 街の陰、濡れた埃とアスファルトの匂いが口いっぱいに広がる程大きく息を吸い込み、叫ぶ。

「助けて!」

 目の前には何人か人がいた。

 スマホと道を交互に見ながら、首に手を当てる男。早足でバス停に向かうが、間に合わず落胆している会社員。サンバイザーとアームカバーを着けた、日焼け対策万全の主婦。

 その全員が傘を持ち、地面を気にしながら歩くばかりで、当然私の声は届かない。

 今の私の声が、他人に聞こえる事は無い。

 そう分かっていたとしても、無様にひねり出した願いが一切届かないという事実に、悲しみと、確かな怒りを覚えた。

 パシャ!

 イヤホンをしながらふらふらと歩く男性の横をすれ違うと、肩が少し触れてしまったのか、私の左腕が弾ける音がした。

 一昨日の私ならパニックになっていただろうが、今の私からしたらそんな事は細事だ。私は、私が、破裂したって復活すると知っている。

 ドラッグストアを左に曲がり、等間隔に並んだ街路樹のその先を見つめ、側溝から跳ね上がる。

 夏の日差しが、私の脳天を炙る。

 盆地特有の生ぬるい、陰険な湿度を持った風が頬を舐める。

 やはり暑さは感じるのだと、緩やかに朦朧としながら思った。

 ビチャ、ビチャ。

 私の体から、汗のように大量の水が垂れ落ちる。

 体が、沸騰したように泡立っている。


 カシャ!


 っ来る!

 覚悟したが、その程度の事で耐えられるものではなかった。

 脳と体が切り離されるような感覚。

 脱力と硬直という、相反する事象を同時に強制する何か。

 刹那ではあるものの、その刹那で私の残り少ない体力が大きく削られる。

「あ、そこにいたの!」

 という、私と比べると遥かに能天気な声をあげる女。

 その女が、「おーい」と手を振っているのが見える。

 まだ彼我の差は20 m 程あり、やりようによっては逃げ切れる。

 そう目算した私は、

「こっち来んな!」

 と投げかけながら道を曲がる。

「待って、私は…あぁ、もう!」

 誰が待つか。

 私を害する者の声など聴いていられないと、私は女の声を背に、転がるように駆ける。

 二、三度、道を変えると、自分も知っている大通りに出、交差点にたどり着いた。

 信号はどちらとも赤色で、蝉の鳴き声が遠く響いているばかりだったので、その一瞬だけは街が凪いでいるように感じた。


 カシャ!


 交差点をまっすぐ進むか、それとも曲がるか。私は、どちらに行こうか迷っていた。

 曲がろうと決めたうえで、信号無視が出来なかった。

 今となっては咎める人も、守らなければならない論理的理由も存在しないのに。

 私はルールを破れなかった。

 そのせいで、またあの感覚が襲ってくる。

 抗う程の体力はもう残っておらず、私は崩れ落ちるように、交差点の点字ブロックの上に尻餅をついた。

 両手を地面につけ、足を投げ出す。

 空の高さが、眼に染み込んだ。

「やーっと追い付いた…」

 視線を下ろすと、自分を追いかけ回していた女が写る。

 ここで初めて、私は私を追いかけていた女がどんな人なのかを知った。

 良く手入れされているのであろう、キューティクルがてかてかな長い黒髪、整った顔立ち、上気した頬。化粧によってか、しとやかに太陽光を反射する目尻と、右目にある、慈しみを感じる泣き黒子。手には首からかけた高そうなカメラを持っており、ミントグリーンのカーデガンと、白の薄いロングスカートによってガードしている服の中には、私のより大きなものが、肩に合わせて上下していた。

 …やっぱこいつは敵だ。

 疲労によって、上手く顔を作れていないような気もするが、出来る限り精一杯睨みつける。

 私の敵意に気が付いたのか、女はバツが悪そうに頬を掻きながら、話しかけてくる。

「あー、その、いきなり追いかけ回してごめんね?」

 どうやら本当に悪い事をしたと思っていそうな様子に、私は拍子抜けする。

 警戒を怠らないまま、私は返事をした。

「なに?」

「いや、ほんと、怖がらす気とかは無かったんだけど、」

「だから、なに?」

 なかなか本題に入らない女に、次第に苛立ち、腹の奥から泡がこみ上げてくる。

「じゃあ、単刀直入に聞くけど、」



「なんであなた、スライムみたいになってるの!?」



 …そんなの、私が一番知りたい。


 ーーーーーーーーーー


 七月十二日。

 もうすぐ夏休みという事もあってか、人間同様、蝉がミンミンじーじーと、恋人(恋蝉?)を探している。

 そんな鳴き声を耳がとらえ始め、私、綾瀬(あやせ)(あかね)は意識を取り戻していく。

 気持ちよく眠りから覚めるときは、体に向かって心が浮き上がっていく感じがする。まるで体だけ浮き輪に乗せて、心は海の底に揺蕩っていたような感じ。暗い海の底は、ゆりかごのように私を包み込み、やがて暖かく送り出す。

 私は、起きる時のこの感覚が好きだった。

 今日もこの感覚と共に目が覚めたので、万全のコンディションが期待できる筈だったのだが、今日は何だか体に酷く違和感があった。

 何と言うか、泥水になったように力が入らない。

 これは、まだ眠たいのに、目覚まし時計やら親やら隣の家の施工音やらに、無理やり起こされた時と同じような感覚だ。

 自分の体が、頭と上手く繋がっていないような、あの感じ。脳が命令を出しても、嫌だまだ眠いとでも言うかのように、なかなか動かないあの感じ。

 良い目覚めのはずなのに、あの感覚に襲われている。

 風邪でも引いたのか?いやそれにしては元気あるな、と、普段とは異なる体調を疑問に思いながら、もぞもぞと首だけを動かし、枕元に置いてある目覚まし時計を見る。

 九時三十七分だった。

「え!?」

 本日、七月十二日。

 水曜日。

 平日。

 登校日である。

 ばたん!と音がする程勢いよく寝室の扉を押し開け、自室に飛び込む。

 とにかく着替えなければ!

 そう思いながら、電気を付ける時間も惜しんで、制服のシャツに手を伸ばす。

「え?」

 朝から焦っていた私は、その時になってようやく気付く。

 手が、透けている。

 いや、手だけではない。

 よく有惟につままれる二の腕も、やっと成長の兆しが見え始めた胸も、プールまでに痩せたかった腹も、腿も、そろそろ爪を切ろうと思っていた足先も、昨晩、櫛を入れ忘れた事を寝る前に思い出し後悔した髪も。

 全てが透明な水のようになっている。

 突然の異常事態に、私の頭から血の気が引いていく。

「え、待って、なにこれ、待って、え、え、待って、なにこれ、え…」

「え」と「待って」と「なにこれ」しか言えなくなった私は、見慣れた自室を早足に歩き回り、せわしなくあたりを見渡す。

 正体不明の衝動から、私は床に出しっぱなしであったプリント類を殴るようにしまい込む。

 横を見ると、テストが近いわけでもないのに頑張っていた数学の問題集とノートが、開かれたまま机の上に置かれているのが目に入る。

 昨日はあんなに信頼していたのに、今はとても頼りなく見えた。

 無性に悔しくて、腹立たしくて、私はノートを叩きつけるように閉じる。

 皺が入ったノートの上で握られた自分の手の甲に自然と力が入る。

 油性マーカーで書かれた「自習用数学ノート2」という文字が滲んだ。

 焦り、混乱、無力感。それらを綯い交ぜにしたような、不確かな感情によって、眉間の周りが熱くなる。

 顎を通り、零れ落ちた雫が、私の手の甲に波紋を作った。

 二滴、三滴と落ちるたびに重なった円を描き、手首のあたりで消えていく。

 私を無理に落ち着かせようとしているかのような模様に、私の体から力が抜けた。

 私は学習机の椅子に腰かけ、目元に両手を当てる。

「ははははは…」

 あまりの現実感の無さに、思わず笑いがこみ上げてくる。

 全身くまなく水になったというのに声だけが乾いていた。

 そのまま五分程、私は声も上げず、浅い呼吸をただ繰り返した。

 ゆっくりと両手を顔の上から外し、化粧台の横に置いている姿見を見てみる。

 腰のあたりから、炭酸水のように絶えず泡を吹きだしている、全身無色透明な私が映る。

「ふぅ。…夢か」

 そう結論付ける。

 感覚こそ鮮明であったが、「自分の体が、スライムのように水だけで構成されている」という状況は、夢のような現実ではなく、現実のような夢なのだと、そう考えた方が私にとって自然だった。

 ちゃぷん、と胸の中で音がする。

 こういう時は、「すとん」と納得する物なのに、こんなところまで水人間仕様なのかと思うと、無性に面白くなってきて、「ふふ」と先程とは質の違う笑い声が出た。

「私の想像力すごぉ…」

 そうつぶやくと、自己肯定感が上がっていき、楽しい気持ちにさえなってくる。

 十六年生きて、こんなに鮮明な夢は初めてだ!それに水人間!日常じゃ絶対に味わえない感覚!

 やけくそという、現実逃避の極致に辿り着いた私は、散らばっているプリントを踏みしめ、カーテンを開け、窓を開け、ベランダに飛び出し右の手の平を既に登りかけの太陽にかざす。

 どうせならこの夢を楽しんでやろう、自分の想像力の限界まで行ってやろう!

 そんな思いが湧いてくる。腹から泡も湧いてくる。

 その泡が、そのまま私の体の中を撫でるように通り、肩のあたりでぱちぱちと弾けた。

 何だか、誰かに祝福されている気分になった。

 私はぱちゃんと、体の前で手を打つ。

 さて、そうと決まれば、だ。

 早速何かしてみようと思う。それも、普段できないような事を。

 左手でベランダの手すりを掴みながら、右手の人差し指を唇に当て、私はなんとなくあたりを見渡す。

 我が家は三階建てで、私の自室は三階にあるため、道を行く人々や、向かいの家で布団を干しているところがはっきりと見えた。

 そして下をのぞき込むと、我が家の、三角屋根の玄関庇が見える。

「…飛び乗ってみたい…」

 小学生の頃、よくゲームでバグ技を使って、本来であれば行けない場所に行ったり、乗れない場所に乗ったりするのが男子たちの間で流行っていた。

 当時は『子供っぽいな』と思うばかりであったが、今となってその気持ちがよくわかる。

 ただ、痛いのは嫌だ。夢の中であったとしても、この夢は過去に類を見ない程鮮明なものなのだ。もしかしたら痛覚まで再現しているかもしれない。

 それに、もしその拍子に目が覚めてしまったらすごくもったいない。

 そこで私は、左の手の平を右手で軽くデコピンしてみる。

「えい」

 ぴちゃ。

 軽い音が鳴り、ぶつかった場所から水飛沫が上がる。ただ、それだけ。痛くはない。痒くも無い。

 どうやら、今の私は痛覚が無い、もしくは極端に鈍いようであった。

「やった!」

 なんとも都合がいいこの事実に、私は無邪気に頬を上げ、そうつぶやく。

 雑ではあるが検証も済ませたところで、私は両手で顔をぺちぺちと叩き、小さな覚悟を決める。やはり痛みや衝撃は感じなかったが、まるで洗顔したような気持ち良さがあった。

「…よしっ」

 私は手すりにつかまり、そのまま身を乗り出す。そのまま足を上げ、手すりに跨るような姿勢をとった。

 玄関庇まで3 m 程度であると思うが、下を向くとちゃんと怖い。

「やあ!」

 私は外壁に足の裏を当て、蹴り、両手でつかんでいた手すりを手放す。

 ジェットコースターやエレベーターで、急に落下すると、内臓がふあっと持ち上がるような独特な感覚に襲われる事がある。

 今回もそうなるかと思っていたが、今の私は全身一様、水でできている。そのためか、あの妙な気持ち悪さには襲われなかった。

「ひょわあ…!」

 それでも変な声は漏れたが。

 綺麗な着地など出来るはずもなく、ばしゃあ!という盛大な音と共に尻から落ちていった私は、それでも何とか玄関庇の上に乗る事が出来た。

 斜面であるためバランスが取りづらく、私は四つん這いで玄関庇の端まで向かう。

 二歩分程這ったところで頂点までたどり着き、改めて腰を下ろし、両手をついた。

「ぅげ」

 昨日は雨が降っていたはずなのに、屋根瓦の隙間に少し埃が積もっている。

 詳しく観察して鳥のフンとか見つけてしまったら立ち直れないので、さっさと目を外し、前を向く。

「おおぉ…」

 景色としては、先程ベランダで見たものと大差がない。

 道を行く人々や、向かいの家で布団を干しているところがすこしアップになった程度だ。

 けれど、生まれて初めてみた画角、生まれて初めて立った場所。

 新鮮なものが多くて、私は感嘆した。

 そしてふと思う。

 あれ、私こっからどうすんの?

 我ながら何も考えずに飛び降りたので、ここからどうするのかのプランが無い。

「ま、部屋に戻ってから考えるか」

 とつぶやきながら振り返り、嫌な予感を察知する。

 まず、玄関庇の上から家を見ると、目の前には二階のベランダが見える。しかし、我が家の二階のベランダは、エアコンの室外機やら何やらで狭く、基本立ち入る事が無い。

 そんな訳で、当然鍵をかけており、ここから室内には入れなさそうである。

 では、私が降りてきたベランダはどうかと上を見る。

 三階のベランダから見た時、玄関庇が遠いと感じたのだから半ば当然であるが、玄関庇から見た三階のベランダはとても登れそうにない程高かった。

 下を見る。郵便ポストや、雑草の生えた植木鉢は見えるが、普段母親の自転車が置かれている場所に自転車が無い。どうやら母は買い物に出かけているようだった。私の母は少し抜けているところもあるが、流石に玄関の鍵を閉め忘れているなんて事はないだろう。

 つまりだ。

 私は家の屋根の上にいながら、家から締め出された。

「っはぁー…」

 私は自分の間抜けさに辟易しながら、空を見上げる。マンションに齧られながらそれでも茫洋とした青が眩しかった。

「…しょうがない」

 切り替えて考えよう。

 つまるところ、私には降りるという選択肢しかない。

 そうであるならばさっさと降りて、その上でどうするか、どこに行くかを考える方がよほど建設的だ。

 私は玄関庇の端に腰かけ、体を揺らして推進力をつけ、地面へと飛び降りる。二回目という事もあり、今回は両足で着地ができた。

 さて、どこに行こうか。

 普段から出不精であった私は、家の外で行った事がある場所や、行きたい場所があまり多く思い浮かばない。

 自然と選択肢は収束していった。

「学校行くか」

 普段は「学校行きたくなーい」とか言っているのに、夢の中でいざ自由にしてくださいと言われると学校に行こうと思ってしまう事に、呪術的な何かを感じながら私は通学路を歩き出した。


 私の家から通っている高校までは、大通りに出れば一直線である。流石に信号には注意しなければならないが、何か物事について思案しながら通学するのには適しており、私は気に入っていた。

「あ、自転車使えばよかった…」

 と言ってから、自転車の鍵は家の中であり、家の中に入れないのだから結局乗れなかったかと思い至る。

 普段は通学の手段として自転車、雨が降っていればバスを用いていた。

『実績解除〈晴れた日に徒歩で学校に行く〉を達成しました』なんてテロップを頭で流しながら、四人程人がいるバス停を通り過ぎる。

 皆が皆各自のスマホの画面を見ており、私は今自分がスマホを持っていない事に微かな優越感を覚えた。

 そのままちゃぷちゃぷと小気味良い足音を立てながらしばらく歩き、

「あれ?」

 と声を上げる。

 そういえば、私は今他人からどのように見えているのだろうか。

 いくらスマホを見ていたからと言って、流石に全身スライム女が目の前を通り過ぎたら気が付くだろう。少なくとも私は気が付く。確実に二度見する。

 それなのにさっきの四人、いや、思い返せば家を出てからすれ違った人たち全員が、私に注目した素振りすら見せなかった。

 私は人差し指を唇に当てながら、「んー」と唸る。

 これは、私の想像力の限界であろうか。

「むむぅ…」

 若干残念に思いながら、私は下を向く。

 私の足元では、私からぽたぽたと滴り落ちる水の跡と私の足跡が、アスファルトの灰色を濃くしていた。

 不意に、気になって後ろを見返す。

 まっすぐ歩いてきたはずのアスファルトは、張り切った太陽に照らされ、綺麗に乾いていた。

 …いや、速すぎるでしょ。

 流石に夏だと言っても、そんなにすぐに乾くものか?一歩前にいた場所など、通り過ぎてから十秒も経っていないはずだ。

 などと、夢の中だというのに現実的に出来事を考えている私に、苦笑いしてしまう。

 どうでもいっか。そう思いながら一歩踏み出す。

 後ろを確認する。跡が消えている。目を放す。

 一歩踏み出す。後ろを確認する。跡が消えている。目を放す。

 一歩踏み出す。後ろを確認する。跡が消えている。目を放す。

 一歩踏み出す。後ろを確認する。跡が消えている。目を放す。

「ちょっと待って」

 この現象、再現性がある…!

 思わぬ発見に興奮する。

 綾瀬茜、十六歳。得意科目は数学理科、苦手科目は国語社会。英語は鋭意努力中。

 哀しい程に、理系だった。

 ともかく、再現性があるという事は、この夢の世界にもしっかりとした法則、ルールが適応されている可能性が高いという事だ。

「やるじゃん今寝てる私…!」

 俄然この世界に興味が湧いてきた。

 どうせ学校には大遅刻しているのだ。世界のルールの検証なんて心躍る事をゆっくりとしてから向かっても良いだろうと思った私はまず、足元の水跡を注視しながら一歩歩く。

 消える瞬間を観察できるかと思ったがそう甘くはなく、今まで通りであればとうに消えているはずのタイミングでも消えない。

 場所が関係しているのかと、私は別の場所にもいくつか足跡を付けていく。

 五つ程足跡を付け、いつ乾くか観察していると、ふおぉと風が吹き、私は砂や埃が入らないよう咄嗟に目を覆ってしまう。

 風が収まり私が目を開けると、跡は綺麗に消えていた。

「これはまさか…?」

 私が見ているかどうかが関係しているのか?

 可能性は無い、とは言えない。現に今起こった事象を一言でまとめると、「目を放したら消えた」という事になる。

 私は両手を広げ、右手だけに注目しながら、両手で地面を叩く。

 手を放すと、右側の地面は手の平の形の通りに濡れているのが分かる。

 では左側はどうか。先程私が叩いたはずの場所には何もなく、手から落ちた水滴が新しく跡を作った。さらに右側を確認すると、何も起こっていなかったかのように綺麗に乾いている。

「なるほど?」

 おそらく仮説は正しそうだ。私の付ける水の跡は私が目を離すと消えてしまうらしい。

 なんとも変なルールだなと、私は自分の両手を見ながら思う。

 そして視線を下ろし、自分の体を見て思う。

 もしかして私、今、全裸?

「え、待って、待って、え、え、待って、え…」

 どうやら私は「え」とか「待って」が口癖らしいという、至極どうでもいい事を脳の端で考えながら、私は本日二度目のパニックになる。首から頬に掛けてぶくぶくと細かな泡がとめどなく通り過ぎる。

 裸!?

 マジで?

 私、家からここまで裸で来たの!?

 てゆうかさっき男の人とすれ違ったよね!

 見られた?

 あぁ、いや、見えないんだったか…

 男の人、というか他人に見られてはいなかった事、なによりこれが夢である事を思い出し、私はなんとか平静に戻る。

 それでも、ついさっきまで全裸ではしゃいでいたという事実は乙女である私に対して相当堪えた。

「うわぁ…」

 別に実害は無いのに、とてつもなく虚しい気持ちになった。自分の中にあると信じている乙女チックな部分に失望する。

「しょうがない、しょうがないんだ…」

 …検証続けよう…。

 気付かなかったものはしょうがない、切り替えていこう。こういう時は何か別の事を考えて水に流すのが一番だ。

 そう思いながら、私は植えてある街路樹とその根元に生えている雑草を見つめる。これを使えば、私とこの世界にある物質との関係を調べられるかと考え、私は雑草をつまみ、引き抜こうとしてみる。

 ところが、このつまむ、という動作がまず難しい。

 水人間になってから、私の体に本来あって然るべき摩擦力がすごく弱なっている。

 それに加え、自分の体を構成する水同士が接触すると、例えば右手と左手を合わせると、その境目が無くなるような感覚がある。どこからが右手でどこからが左手かが曖昧になるのだ。それなのに、右手は左手に、左手は右手にしっかりと押され、手がすり抜けるというような事は起こらない。

 これらの要因から、私は雑草の茎をただ撫でまわすだけの人となっていた。

「ふんぬ!」

 先程の全裸事件から、女子力につけてはいけない見切りをつけてしまった私はそんな勇ましい掛け声を上げながらなんとか雑草を引き抜く。

 余りに抜けなかったので、この世界を変化させることは出来ないのかと思っていた私は、根に付いた土を見て、抜けてしまった事に軽く驚いた。

 引き抜いた雑草を再び土の上に置き、「ごめんね」と声をかけてから立ち上がる。

 歩きながら、またこの世界について考えようと唇に人差し指を当てようとしたとき、私は自分の手が綺麗な事に気が付いた。

 私は急いで、街路樹まで戻り、その根元を見やる。

 私が引き抜いたはずの雑草が、来た時と寸分違わぬ様子で、風に揺れていた。

 ほぉーん?


 …うがいがしたい。

 高校の正門の前に辿り着くころには、私はこの体とこの世界について、ある程度傾向が掴めていた。

 まず私について。体は全身、足の爪から髪の先まで全部が無色透明な水でできている。自分の体なので臭いや味はいまいち分からないが、多分本当に只の水だ。輪郭は不鮮明に揺れ動いており、生身の人間というよりは裸のマネキンのようだ。そんな事になったら五感なんて全て消し飛びそうなものだが、触覚以外は人間であった頃のまま、暑さ寒さは感じるし、見えるし、聞こえるし、嗅げるし、味わえる。「どうせ実際には食べられないのだから」という理由で口に放り込んでしまった土の残り香と苦みが味覚の存在も確かに保証したし、今もし続けている。ほんと、切実にうがいがしたい。

 他に気付いた事として、私は目を瞑ることは出来るが、瞬きをしなくても良いようだ。瞬きは目の潤いを保つための行為で、今の私は潤いの権化のようなものだから当然と言えば当然だが。

 また、朝起きてからそれなりの時間が経過したが、お腹が空く気配は無いし、トイレに行きたくなる気配も無いので、もしかしたら食事も必要ないのかもしれない。

 次にこの世界について。始めに、私は原則、この世界には干渉できない。一瞬だけであれば現実に影響を及ぼせているように見えるが、それは私にそう見えるだけで、この世界では何も起こっていないようだ。そうでなければ、顔面にビンタされ、高そうなスーツをびっしょびしょにされても眉一つ動かさなかったあのおじさんが、海溝のように深い心の持ち主という事になってしまう。

 そして、私には起こっていたように見えた変化も、私が目を離すとすぐに元に戻るようだ。この体も例外ではないらしく、手足が弾けても、私が確認しないでいると元に戻る。

 水の体は脆いので、この仕様はありがたかった。

 色々特殊な事もあるが、私の総評としては、『水人間になったにしては現実と似てる』だ。ま、私の見ている夢なのだからしょうがないか。

 そんな風に、脳内で分かった事を反芻しながら、私は学校の門をくぐり、玄関に入る。

 既に一年以上通い続け、最早目を瞑っていてもたどり着けそうになった自分の下駄箱を開けると、やはりそこには上履きではなく、私の靴が入っていた。

 薄々感じていたが、恐らくこの世界には、水人間となった私のほかにも『私』がいる。

 例えば、目覚まし時計が既に止められていた事。自室に飛び込んだ時、ハンガーに制服のリボンがかかっていなかった事。家を出た当初は気にしている余裕もなかったが、この世界について少し詳しくなった今では疑問に思えた。

 そういった理由で、私はこの世界にもう一人『私』がいるのではないかと考え、下駄箱を確認してみたのだが、どうやら予想は当たっていそうだ。

 そうなれば、当然会ってみたい。どんな感じなのか確かめておきたい。

 というわけで、私は自分の通う教室を目指す。

 私の学校は七階から地下一階まであり、一階は玄関や部活動用のトレーニングルーム、二階は被服室や調理室、三階が図書室と埋まっていく。私の教室は地上六階であり、階段で昇るのは些かしんどい。そのため、階段の横にエレベーターが備え付けられており、大半の女子生徒はそれを使って教室に向かう。

 私もその大半の一人であるため、エレベーターに乗りたかったのだが、生憎とこの体ではボタンを押してもエレベーターは降りて来なかった。

「ふっ」

 私は短く息を吐き、しっかりと階段を見据え、決断的に一歩を踏み出した。


「はぁ、はぁ…」

 どうやらこの体でも、疲れるのは疲れるし、ちゃんと息も切れるようだ。

 因みに、私たちの学校では二年生から、文系か理系かによってクラスが分けられ、文系ならば教室は五階となる。

 理系を選択した過去の自分を恨みつつ五階を通過し、ようやく登り切った私は、息を整えるよう自分の教室の前で深呼吸する。いざ『私』と対峙しようとすると、少し緊張した。

 教室の後ろのドアをゆっくりと開ける。速度に見合わない音量でがらがらと鳴ったが、私の方を振り向いた生徒は誰もおらず、なぜだか無性にほっとした。

 私の高校で黒板代わりに使われているホワイトボードには、数式と矢印が書かれており、今は数学の授業をしているようだと察せられる。

「じゃあ、この問題を…綾瀬さん」

 数学担当の先生が私を指名し、私は自分が当てられたのかとドキリとする。

 しかし、実際に当てられたのはこの世界の『私』だったようで、

「えーと、マイナス4だと思います」

 と『私』が立ち上がり答え、

「あー惜しい!多分ベクトルの向きを逆に考えていたんじゃないかな?ここはθが必ず正になるから…」

 そして間違えていた。

 しっかりしてよね、この世界の『私』!と上から目線で思うが、そんな事がどうでもよくなるようなものが見えた。

『私』の顔が無い。

『私』は、髪形や体格、立つときの姿勢や座っている時の足癖までそっくりそのまま私だ。ついさっき聞こえた声には少々違和感があったが、そういえば友達と映像を撮った時の私の声と同じだったなと思い至る。

 そこまでなら完全に私本物だ。全身水人間の私よりもよほど綾瀬茜らしい。

 しかし顔が無い。

 厳密には、顔が目と口の部分に穴が開いているだけのひどく簡素な白い仮面によって覆い隠されている。

 それなのに、先生や周りの生徒はいたって普通に対応しているので、あの仮面が見えているのも私だけのようだ。

「やろうとしている事はあってたんだけどベクトルの向きを間違えてるね。このミスは誰にでも起こり得る事なので、今回正解できた皆も気を付けてくれな」

「ね、見えてる?」

 解説している先生の話を一切聞かず、私は『私』に話しかける。

 この世界は変ではあるが、私以外は元の世界と同じように見えた。ならば、仮面をつけている『私』もこの世界的には変な存在だ。

 ならば私が見えていてもおかしくは無いと思い、絶対に「見えてる」と言ってはいけないタイプの怪異のような質問をしてみたが、『私』の反応は無かった。

 いや、仮面のせいで見えなかっただけで、実は反応していたのかもしれない。

 …外してみよう。

 私は『私』の付けている仮面をよく観察する。どういうわけか紐で止めていないのに顔から外れる様子のない仮面に指をかけ、引っ張った。

「ふんっ…!」

 微動だにしなかった。

 横にも下にも前にも引っ張るが、微塵も外れる気配がなかった。完全に癒着しているような、あるいは仮面こそが本体で、そこから体が生えているかのような強さで固定されていた。

 しばらく努力してみたが無理だと悟り、仮面から手を放した私は、その間に演習中となり静かになった教室を歩き回る。

 机間巡視と呼ばれる、先生がテスト中などにうろうろするやつを私もやってみる。

 皆が必死になって問題を解いているのを眺めていると、なんだか偉くなったようで、面白おかしく思えてきた。

 そのまま、またがらがらと教室の扉を開け、私は校舎内を散策した。職員室の奥に入り、生徒に見えないところに置いてあるチョコレート菓子を発見し、体育倉庫のマットにダイブして横たわり、グラウンドの中心で叫んだ。

 学校で、やってみたいと思いつつ馬鹿馬鹿しすぎて自重していた色々な事を、誰にも憚られる事なくやる。

 解放感がすごかったが、ちょっとだけ寂しかった。

 誰かに見て欲しかったし、笑ってほしかった。

 なにしてるんだろう、私…と、酔いが醒めたようなテンションで私は教室に戻る。

 その頃には昼食の時間も終わり、昼休みとなっていた。

「なぁ、この動画見た?」「いや、まだ」「この問題なんだけどさ、絶対値が」「そこは仮定法を使うから」「…」

 皆、思い思いの場所で、友達と、もしくは一人で、遊んだり、勉強したり、寝ていたりしている。全員が自分の居場所の中にいた。

 扉の前にぽつねんといる私は、どうしようもなく疎外感を感じながら、『私』を探す。

『私』は、『私』と有惟と音葉の三人で喋っていた。

 有惟―植野(うえの)有惟(うい)は、小学校からの幼馴染で、私の親友である。ショートボブにしたこげ茶色の髪と、丸い黒縁眼鏡がよく似合っており、落ち着きを感じさせる。基本的には物静かで無表情だから誤解されがちだが、可愛らしい一面もある。夏祭りの夜、耳元で「花火綺麗だね」と笑いかけてくれたときは本気で鼻血がでるかと思った。私にギャップ萌えの何たるかを叩きこんでくれた子だ。

 音葉―尾崎(おざき)音葉(おとは)は高校二年生になって初めて知り合った子だ。新年度になり、名簿順に並んだ時、私と隣になった事から仲良くなった。前髪はぱっつんで、後ろはゆるくひとまとめに結んでいる。幼いころからヴァイオリンをしていたらしく、詳しくない私ではプロの演奏と見分けがつかない。清楚な感じなのに、言動がたまに俗っぽくて親近感が湧く。

 そんな二人と『私』の三人とも手に紙を持っている。何の紙かと近づいてみると、一行目にでかでかと進路希望調査票と書かれているのが目に入った。

 進路。高校二年生になり、親や先生からたまに出るようになったこの言葉。私はこの言葉が得意ではなかった。

 理由はいたって単純で、私には夢が無いからだ。やりたい事や、自分が得意だと胸を張って言えるものも、特にない。いろんなものをいったんは好きになるが、すぐに飽きてしまい長続きしない。「たったの十六年で知れる事なんて高が知れてるじゃん」なんて、発展性のない言い訳をしながら生きてきたつけを払わされているようで、どうにも良い印象を持てなかった。

「どこ書くか決めた?」

 私が苦い顔をしていると、『私』が聞く。

 二人は、

「うちはまだ調べれてへん…」

「私は、情報系の大学を何個か書こうと思ってるよ」

 と答えた。

 有惟は元々パソコンを触るのが得意だ。情報の授業で出た、「プログラミングで作品を作る」という課題でも、先生が「え、これ作ったの…えぇ…すごいね」と若干引く程の大作を仕上げていた。普段あまり表情を変えない有惟がひっそりとドヤ顔を見せていたので印象に残っている。

「音葉も決まってないかー。もういっそみんなで有惟の行きたい大学受けない?」

『私』が机に突っ伏しながら力なくそう言う。もしその場にいたのが『私』でなく私だったとしても同じ事を言っていそうだが、傍から見ているとひどく情けなかった。

「そうしてくれたら私は嬉しいけど、行きたい大学ができたらそっちにしなさいよ?」

 有惟がそう言いながら、ぐでぇと机に伏せている『私』の頭をぽんぽんと撫でる。

「音葉さんも、音楽系の大学とかに興味があるなら、早いうちに探しといた方がいいと思うよ」

「返す言葉も無いわぁ」

 有惟の正論に、うなじを触りながら音葉が答えた。

 どうやら音葉も、進路の方向性は決まっていたみたいだ。

 いたたまれない気持ちになり、何とかしろ、『私』!と念じてみたが、『私』はうんうんと唸るばかりで、結局チャイムが鳴るまで何も書けていなかった。

「卒業するまでに見つけられれば良いんやし、焦らんくても大丈夫よ」

 そう言ってくれた音葉に対し、「得意な事があっていいなぁ」と思っている事に気が付き、私の背中から泡が噴き出す。

 このまま、この泡と一緒に消えてしまいたかった。


 キーンコーンカーンコーン…と放課後を告げるチャイムが鳴る。

 高校一年生の頃、私はなんとなく体力を付けたくて(?)、陸上部に入部していた。しかし、入部した後でこの高校は陸上の強豪である事を知り、また、練習の過酷さも思い知った。それでも何とか続けていたが、夏休み明けの模試で悲惨な点数を取ってしまい、親から「部活動止めたら?」と言われ、そのまま秋ごろに退部してしまった。

 それから、やりたい部活も見つからず、私は今も帰宅部だ。

「じゃあ、また明日ね」

「またね」

「ばいばーい」

 有惟は委員会、音葉は吹奏楽部と二人とも放課後に用事があるため、『私』は一人で家に向かう。

『私』は駐輪場で自転車に鍵をかけ、歩き出す。すれ違う同級生や友達には歩みを止めて「桐ケ谷さんまた明日」などと、名前を呼びながら手を振っている。すでに走り込みを始めていた陸上部の皆とすれ違った時、名前が浮かばなかったのか『私』が一瞬固まったように見えたが、すぐに「河村君、頑張ってね」と挨拶していた。

 律儀に校門前まで手で押し、門を出てから自転車に跨っており、私は偉いなぁと感心する。

 そんな私はというと、この世界に干渉しない事いい事に、『私』が鍵をかけた段階から荷台に腰かけていた。

「おっとと」

『私』が自転車を漕ぎ出すと、ぐんと加速度がかかり、私は慌てて荷台を掴む。人生で初めてする二人乗りの相手がまさかの自分である事に戸惑いながら、行きとは比べ物にならない速度で私は家に戻っていった。


 家の前につくと、既に夕食の匂いが玄関まで届いていた。『私』が家の鍵を取り出し、ドアを開ける。私はその隙に家の中に入った。やっている事は蚊と同じであるが、今の私が家に入る方法はこれしかないのだから仕方がない。

「ただいまー」

「お帰り、茜。鍵閉めた?」

「閉めたよー」

 現在の時刻は午後五時で、夕食には少し早い。『私』は母への挨拶もほどほどに、三階の自室に上がっていく。

 カーテンがかかっており薄暗い自室の電気を付けると、足元にプリントが散らばっている。エアコンを付けてから、『私』は溜め息一つ洩らさず、一枚一枚丁寧にファイリングしていった。

 プリントが綺麗に片付いたら、『私』は机の上に置いていた数学の問題集を解き始める。先生が課題として提示した部分は三十分程で解き終わっていたが、六時になり、母に降りてくるよう呼ばれるまで『私』はペンを動かし続けていた。

 我が家のリビングは二階にあり、夕食もそこで食べる。

 メニューは帰ってきた時から分かっていたが、カレーだった。

 暴力的なまでの匂いに、腹がぶくぶくと鳴る。

 どうやら食事が必要か不必要かに関係なく、匂いを嗅ぐとカレーを食べたくなるようだ。

「ん、今日もおいしい!」

「あら、ありがとう」

『私』が母に伝えるためスプーンを置いた瞬間、私はそのスプーンを掴み、『私』のカレーを頂戴する。

 …食べるんじゃなかった。

 そう思いながらも、私はカレーを嚥下する。

 鼻腔に拡がる香りも、舌に乗った旨味も、ぴりぴりと喉を刺激するスパイスも、記憶の中にあるものと寸分違わなかった。

 母も『私』も、録画していたバラエティー番組を見ながら片手間にカレーを食べ、笑い声をあげている。

「お母さん、カレーとってもおいしいよ…」

 私がそう言っても、母には届かない。

 母も『私』も、録画していたバラエティー番組を見ながら片手間にカレーを食べ、笑い声をあげている。

 たったそれだけの事で、私は鼻がじんとした。


 夕食を食べきり、まったりしている二人を尻目に、私は自室に向かう。階段は蒸し暑かったが、自室はエアコンが夏の暑さを中和してくれていて、少し落ち着いた。

 学習机に向かって座り、先程『私』が解いていた数学の問題を見やる。半分は先生が課題として出していた範囲だが、ではもう半分はというと、授業中に間違えた問題の類題であった。

 ぱらぱらと、読むでもなく数学のノートをめくりながら、私は今日あった出来事を思い返す。

 朝起きて、水人間になっていて。最初はパニックになっていたけど、次第に慣れて、楽しんだ。玄関庇に飛び乗ったり、職員室に忍び込んだり、普段できない事を色々やって。登校中に裸だと気付いた時には本当に焦ったし、間違っても土を食べてはいけなかった。『私』と会ったときはびっくりしたなぁ。

 そう思いながら、私は『私』について思いを馳せる。

 彼女はいったい誰なんだろう。一番最初に浮かぶのは「理想の自分」である。礼儀正しくて、ちゃんと勉強もして。そんな人間でありたいと思っていても、私は不完全にしかこなせない。友人への挨拶も、母への感謝も、つい忘れたり、めんどうくさいと思ったりしてしまう。勉強だって、スマホに手が伸びてしまってなかなか進められない。私が見る限り、彼女は今日、それらを完璧にこなしていた。

 しかし、「理想の自分」に最もして欲しかった事を彼女はしなかった。

『私』は進路を選べなかった。

 そんな『私』は、「理想の自分」と言えるのだろうか。

 もし言えたとして、それは誰にとっての「理想」の私なのだろうか…。

 答えは出なかった。答えが出る前に『私』が自室に戻ってきて、スカートを脱ぎ部屋着に着替え、フィットネス系のゲームを始める。

 これも、しんどくなって私がやめてしまったものだ。それを苦も無くこなす彼女に、私は憧憬を抱く。

 三十分程プレイし、「そろそろ休憩しませんか?」とゲーム側から表示されてから、彼女はリモコンを片付け、下着を用意する。

 彼女はすたすたと階段を降り、一回の風呂場へ向かった。

 私は慌てて彼女について行く。

 今日は私も一日かなり活動した。そして疲れた。

 実際には体が汚れていないとしても、心が癒しを求めていた。風呂に入りたかった。シャワーを浴びたかった。

 ただ、経験上私一人ではシャワーの湯を出す事は出来ないので、誰かが風呂に入るのを待っていた。

 更衣室で、『私』が服を脱いでいくのを待つ。自分のストリップショーを見せられるという、未だに名前の無い辱めを何とか耐えきり、私は『私』と一緒に風呂に入る。

『私』が椅子に座り、シャワーを出したタイミングを見計らって、私は『私』の前に立つ。

 暖かいお湯が、私の体を打つ。そのたびに疲れが溶けていく。

 まるで、ぬくもりが染み込んでくるようだ。

 …ん?

 あれ、なんか体が重くなった気がする。

 腹とか腰回りが太くなったような…?

 ま、気のせいだろうと、私は湯船に足を入れる。

 ばっしゃあん!!

 その瞬間、私は盛大に破裂した。

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